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お目出たき人 cover

お目出たき人

Chapter 14: * * * * *
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About This Book

A first-person narrator recounts yearning for a young woman named Tsuru, describing how a past heartbreak intensified his craving for female companionship and led him to imagine marriage with her while fearing social ridicule and family opposition. He relates chance encounters, missed meetings, and the slow unfolding and stalling of courtship, weighing physical desire against commitment to his work and preservation of self. Interwoven are scenes of domestic routine, reunions with former classmates, and reflective passages on loneliness, the psychological power of attraction, and the tension between idealized love and personal integrity.

 自分は自分の目的に向はうとあくそくしつヽ。鶴と夫婦になりたく思ひつヽ相變らずに日を送つてゐた。

 二月十三日は鶴の誕生日である。自分は自分の誕生日の六月十一日をよく忘れることがあるが、鶴の誕生日は川路氏が學校で聞いてきて下さつた以後忘れたことはない。二月十三日は土曜日だつた。この日、用があるやうな顏をして十一時半頃に晝飯を食ひ、鶴に逢ひに出かけた。何だかかう胸がしめられるやうな、嬉しいやうな、耻かしいやうな、心配なやうな感じがする。

 ダンテもかう云ふ感じを持つたことがあるだらうと思ふと氣丈夫だ。しかし鶴をビアトリスに比較するのはいヽとして自分をダンテに比するのは少しひどすぎる。しかし自分が賤しいだけに自分は鶴と結婚が出來るかも知れない。こんなことを步きながら考へた。

 自分はお目出たいから鶴の話も大槪はうまくゆくと思つてゐる。さうしてその時自分に一年ぐらい逢はなかつた時の鶴の心、自分に今日逢つた時の鶴の心を聞くのを樂しみにしてゐた。又その時鶴が自分に今日逢つたことを忘れてゐやうものならお可笑しなものだとも思つた。

 その内に鶴に逢ふ機會のあり得る道に逹した。鶴の學校の生徒のぞろ〳〵とつれだつてやつてくるのに逢つた。道は一直線ではない。一町許り先きで少し右に曲つてゐる。其處まできり見えない。そこ迄には鶴らしい人は見えない。しかしいつ鶴がその角から出てくるか知れない。自分は鶴がどんなになつてゐるだらう。今日はきつと逢ふだらうと思ひながら、目に注意をあつめて、向ふからくる女學生を一々注意しながら步いて行つた。折れてゐる所にくると二町程さきが見える。其處を折れると見えるだらうと思つた。

 自分は胸をおどらせながら其處を過ぎた。女學生が二十人許、二三人づヽ一かたまりになつて、話ながらくる。最後にくる四人づれの内に鶴はゐはしないかと思つた。自分が今迄鶴に逢つた時は大槪三四人と連だつてゐた。

 しかし近づくに從つてちがつたことがわかつた。ちがうと(がつかり)する、しかし安心もする。角からは間をおいて女學生のかたまりが顯はれる。話しながら此方にひきつけられるやうに步いてくる。しかし段々數はへつてくる。さうしてその内に鶴は居なかつた。とう〳〵角に來た。其處で道が二つにわかれてゐる。鶴に途中で逢えば自分はきつと右にまがる。逢はない時でも左の道を一寸見て鶴が見えても見えないでも右にまがる。左にゆくと鶴の學校の前を通るのだ、それがなんだかこわいのだ。この時も左を一寸見て、右に折れやうと思つた。しかし左の道を見て鶴が見えなかつた時、思ひ切つて左に折れた。

 自分はなるべくゆつくり步いた。しかしもう學校の門から出てくる人は殆んどなかつた。三人許りあつたが、その内二人は自分の反對の方へ行つた。此方に來たのも鶴に少しも似てゐない人だつた。

 自分はその内に學校の前を通つた。通り過ぎる時一寸學校の内を見た。誰も居ない。自分は淋しい氣がした。鶴は病氣か知らんと思つた。それ以上に鶴が自分に逢ふのをいやがつて道を變へてゐるのではないかと思つた。そんなわけはないと思ふがなんだかさう云ふ風に思へるのだ。

 自分は最も近い路を撰んで歸路についた。今度は淋しい、なさけない、さうして腹立しいやうな氣がした。もし鶴が自分の妻になつたら、明治四十〇年、鶴の十七回目の誕生日に自分に逢はなかつた故をもつて自分から小言を頂戴するにちがいないと思つた。

 鶴はその時何と答へるであらう。

 自分は自家に歸つても何だかなさけないやうな腹立しい氣がして仕方がなかつた。自分は室に入つてルードヰヒ・フオン・ホフマンの畵でも見て自分の氣分をなほさうと思つた。ホフマンの本を捜したが見えない。自分は益々腹が立つた。呼鈴を强く押した。

 書生が來た。自分は

『こヽに置いておいたかう云ふ本を見なかつたか』と云つて同じシリースの本を見せて机のわきを指した。

 書生は『存じませんが』と云つて捜し出したが中々見つからない。自分は益々腹が立つた。

『本をさがす程癪にさわることはない。之から一切本はなぶらないで置いておくれ』と云つた。書生は『はい』と云つて捜して居る。自分はかう云つて見てゐたが、見て居ても仕方がないと思つたので、本を手あたり次第にとつては外の處へ投げるやうに置いた。自分が大變憤つてゐるので書生はあはてヽゐる。自分は怒ることは滅多にないのだ。自分は手あたり次第に本をのけてゐたら、捜してゐる本がとんでもない處から出て來た。考へて見ると自分の置いた所にあるのだ。

『あつたよ』と自分は云つた。書生は安心したやうに本をかたづけだした。『かたづけなくつていヽよ』と自分は云つた。さうして書生が去る時、無愛想に『御苦勞さん』と云つた。

 書生が居なくなると自分の八つあたりに罪のない書生に怒つたのが腹が立つた。この頃の自分の怒りつぽくなつたのに腹が立つた。

 女に餓えてゐるので心が(すさ)んだのだと思つた。さうして自分の人格の低いに腹が立つた。しかし自分の心は(あら)だつてゐる。自分はホフマンの本を開けて見たが、ホフマンの感じのいヽ淸い靜かな美しい繪も自分の心を慰めるわけにゆかなかつた。自分はホフマンの本を閉ぢてクリンゲルの繪を見た。グライナーの繪を見た、その力强い繪は自分の荒だつてゐる心をいヽ方に導いた。自分は全身に力を入れて室の中を步いた。

 鶴が自分の妻にならなくとも、戀の味ひを味ふことが出來なくとも自分は自分の心を荒まさずに見せる。自分はすべてのこと超絕しなければならない。

 勇士〳〵! 自分は勇士だ!

 かう心に叫んだ。さうしてやヽともすると女々しい感じが心に流れこむのをふせいだ。

 二月十五日の晚に自分は母から母方の叔父の病氣は矢張癌だと云ふ事を聞いた。叔父は元來は人のいヽ人だつたが頑固なことの好きな奇行家で公鄉華族で伯爵だつた。世の中を馬鹿にしたやうな處が父と氣があつて二人は仲がよかつた。

 叔父の奇行は隨分ある。自分は未だに夏休に避暑に三浦三崎へ自家の人と行つてゐた時に、叔父がきて素裸で步きまわつてゐたことを覺えてゐる。或日の朝當時十一二の自分は叔父と一緖に朝飯前に漁師の親方の處へ行つたことがある。その時叔父は素裸で(ふんどし)さえしてゐなかつた。さうして裸と云ふことを意識してゐないやうに平氣で步いてゐた。顏知つてゐる人にあふとあたりまえに挨拶してゐた。親方の處へ行くと、今日は大禮服で來たと云つてすまして坐敷に通つて平氣で話してゐた。ついて居た自分も平氣だつたのが今思ふとお可笑しい。叔父は寒中でもよく水を浴び、海岸へ行くと海へ入つた。さうして人を馬鹿にしたやうなことを傍若無人に振舞つた。又酒をよく飮んだ。之等のことが豪傑崇拜時代の自分には豪く思はれた。

 叔父が或時甲府に行つた。まだ甲府まで汽車の出來ない時の事で行く途中ある町の旅館に泊つた。待遇が面白くなかつたとかで宿帳に新平民とつけた。

 甲府へ行つた處が伯爵樣でもてた。それから警察でどうしてか、ある町の宿帳に新平民と書いてあつたのを見て待遇がわるかつたのだと大いに驚き、その待遇の惡かつたのを譴責した。叔父はそれを聞いて氣の毒だと云つて歸りに又その宿屋に泊つたさうである。

 會社をたてヽ失敗したことや、支那の革命黨員と交際(つきあひ)して探偵にあとつかれたことなぞもあつたさうだ。

 身体の馬鹿にいヽ人で自分は甞つて叔父の病氣にかヽつたことを知らない。太つては居なかつたが、かつちりした身体で、丈夫だと自分も許し、他人(ひと)も許してゐた。それでよく遊びよく酒をのんだ。三年前にある醫者が叔父の顏を見て酒の毒のまわつてゐる顏しておいでだから用心しないといけませんと叔母に吿げたことがあるさうだ。

 その叔父が二三ケ月前から步きまわつてはゐたが血色が大變わるくなつて段々()せて來た。さすがの叔父も心配して醫者に見てもらつたが、中々わからなかつた。癌じやないかと云ふ心配が叔父にも叔母にもあつた。僕逹にもあつたが誰も公然とさう云つた人はなかつた。醫者はものがよく食べられるのと、通じのいヽのとでさうではないだらうと云つた。しかしどうも面白くはかどら(﹅﹅﹅﹅)ない。血色は次第にわるくなつて耳などはまるで血の色がなくなつた。皆ひそかに心配してゐた。父や母はもしかしたら死病に叔父がとつつかれたのかも知れないと話しあつてゐた。

 所が二月六日の晝叔父が赤十字病院に見てもらいに行つた處が、さすがに辛棒强い叔父もヽう身体を動かすのが容易でないのでそのまヽ入院することになつた。便や血の檢査した結果、腎臓に癌が出來たのだらうと云ふことになつたのださうだ。

『癌になつてはたまりませんね』と母は父に云つた。父は『たまらんね』と考へこむやうに云つた。自分もたまらないなと思つた。叔父はまだ四十五六である。

 十六日に母は何氣(なにげ)なく叔父を見舞つた。さうして歸つてきてもしかしたら來月中もつまいと云つた。自分は十八日の朝蜜柑と林檎を持つて見舞に行つた。叔父はまだ癌と云ふことを知らない。

 自分は靑山行の電車に乘つて靑山一丁目で赤羽橋行にのりかへた。天氣が馬鹿にいヽので可なり暖かヽつた。もう春も近いなと自分は思つた。赤羽橋行きにのつた時空いた席が一つあつた。自分は其處に(こし)かけた。さうして前に腰かけてゐる女をよく見た。三十許りの女でもう色のさめた女だ。目のまわりがどす黑くなつてゐる。なんだか荒んだ生活をして來た女のやうな氣がした。みなりは中以下でそろつて居ない。しかし顏は惡くはなかつた。殊に尻の下つた弓形(ゆみなり)の眉毛と目尻の上つた大きい目とがよかつた。かたく結んだ口もよかつた。瓢簞なりの顏の形が少し氣になつたが、五六年前はさぞ美しかつたらうと思つた。自分は見てゐる内にその唇に自分の唇の引きつけられるのを覺えた。自分は接吻の甘きを夢で知つてゐる。しかしそれは溫和しい食ひしんぼな子供が他人の庭の甘さうな柿の實を見るぐらいの程度だ。鶴が居なくとも結婚したいとは夢にも思はない。

 自分は叔父の死病にかヽつてゐるのを見舞ふために來たのだ。それなのにこんな呑氣なことを考へてゐた。赤十字病院下でおりて自分は急いで病院に行つた。

 病院の廊下を步きながら藥の(にほひ)をかぎ、看護婦の白い姿を見ると病院だなと思ふ。さうして今更に叔父の病氣のことを思つた。しかし自分は叔父の病室の内にねてゐる姿を想像することは出來なかつた。たヾ病氣とか、死とか云ふ無形のものヽ姿を思ひ浮べた。

 自分の行つた時叔母は用があつてゐなかつた。

 附添人の許を得て自分は病室に入つた。

 叔父は二三週間前に逢つた時とは見ちがへる程やせてゐた。さうして苦しさうに仰向きに()てゐた。その顏は骨張つてゐた。その色は黃味がヽつてゐた。

 自分もそれを見ると叔父は死ぬなと思つた。叔父は仰向ながら自分の方を見て『よく來てくれた』と禮を云つた。

 さうして手を出してそのたるんだ皮をつまんで見せて、こんなに痩せたと苦笑した。

 自分はこの時『イワン、イリヰッツの死』を思ひ浮べた。その主人公の死病にかヽつた時皆が口から出まかせの慰めを云つて反つて主人を不快にさせたこと。さうして若い忠僕が眞實を云つて反つて主人公に慰安を與へたことを思ひ出した。しかしその忠僕のやうな誠心を以て叔父を愛することの出來ない自分は心に責められながら、なるべく本當らしく叔父の氣やすめを云ふより外仕方がなかつた。

『時候さえよくなつたら、いヽでしやう。なほりかけたら()せたのはすぐとり返しがつくでしやう』

 と云つた。叔父は

()せたのはかまわないが何にも食ひたくないので困る』と云つた。

 叔父は死にはすまいかと思つてゐるにちがいない。しかしま()きられるとも思つてゐるにちがいないと思つた。自分はそれを見てたまらないなと思つた。

 見て居る内になんだか氣の毒なやうな、どうかして上げたいやうな氣がした。さうして死と云ふものを今更に感じた。いづれは自分も死なヽければならないのだ。自分は長く其處に居て氣やすめを云つて居るのがつらくなつた。希望ある言葉が叔父の口から出る度に自分はなさけない氣がした。

『櫻の咲く時分には本復の祝でもしてさわごうかね』と叔父は苦笑して元氣らしく云つた。さうして自分の返辭を待つやうに自分の方を見た。自分は叔父が自分の答によつて自分が叔父のなほることを信じてゐるか、なほらないことを信じてゐるかをさぐつてゐるやうに思へた。

 自分はたヾ(わら)ひながら『え』とのみ云つた。なまじつかの言葉は氣やすめとしか映じまいと自分は思つたのだ。

 三十分許り叔父の處にゐて、元氣さうにあいさつして室を出た。たまらないなと思つた。

 自分は夢で死の恐怖を知つてゐる。世の中に自分にとつて死の恐怖程いやなものはない。死ぬ程恐ろしいものはない。叔父はこのいやな恐ろしいものと、每日〳〵顏を合せてゐると思ふとたまらないなと思ふ。しかし人は死ぬ瞬間までも、もしかしたら助かるかも知れないと空想し得る力を與へられてゐる。空想は現實によつて破られるかも知れない。しかし新らしい空想はヒドラの足のやうに切られても切られても生ずるものだ。これがよく人間にとつて唯一の隱遁塲(かくれば)になる。叔父は恐らくこの逃げ()に時々逃げ込むだらうと思ふ。さう思ふと自分の今日逃げ塲を大きくする爲に力を出來るだけつくしたことをよかつたと思つた。

 病院の門を出て病院について右に曲つた頃には初春の日光と香りとが自分の心を滿した。叔父によつて狹められた自分の心はせい〳〵してきた。道學者の自分は一寸すまぬやうに思つたが、これも自然の仕業と思つた。

 自分は死ぬ時は鶴の看護を受けたいと思つた。鶴の看護を受ければ若死してもさうひどくはまいらないやうな氣がした。

 鶴のことはどうなつたらう。うまくゆくか知らん。うまくいつてほしいと思つた。この時叔父のことを思つた。さうして心にせめられるよりも、今鶴のことを考へるのは緣起がわるいと思つた。

(叔父は三月の二十日にこの世を去つた)

 叔父を見舞つた日から又數日過ぎた。

 一日として鶴のことを考へない日はなかつた。自分には鶴と一緖になつて始めて全人間(ホールのにんげん)たることが出來るやうに思へた。何かかくにつけ、讀むにつけ、見るにつけ鶴が居たらと思ふ。嬉しい時も淋しい時も悲しい時も、美しいものを見る時も、甘味(うま)いものを食ふ時も鶴と一緖だつたらと思ふ。

 自分はよき父と、よき母と、よき兄と、よき義姉と、よき姪と、よき友を持つてゐる。『君程仕幸な人はない』とよく友は云ふ。自分もさう思ふ。しかし自分は更に愛するものと、賴つてくれるものを望む。自分は女に餓えてゐる。

 自分は『この上例の人と夫婦になれたら末恐ろしい』と一二年前に麻布の友に話したことがあつた。しかし末恐ろしい程の幸福を正道を踏んで味つて見たい。自分の運命を犧牲にすることなしに味つて見たい。

 自分は五年前からこの幸福に憧がれてゐる。さうして鶴も自分を戀してゐてくれるやうに思つてゐる。自分が鶴を戀してゐるやうに鶴も自分を戀してゐるやうに思つてゐる。さうして自分が鶴と夫婦になれた時のことを夢みてゐるやうに鶴も自分と夫婦になれる時のことを夢みてゐるだらうと思つてゐる。

 それにしても川路氏から何とか云つて來さうなものだ。

 自分は不安を感じながら樂しみにして、希望に燃えて川路氏から何とか云つてくるのを待つてゐた。もう川路氏は鶴の處へ行つて下さつたヾらう。何とも云つてこないのは面白くない返事だつたからかも知れない。いや用があつてまだ行つて下さらないのだらう。それとも鶴の自家で最後の決斷を與へる爲に返事をおくらしてゐるのかも知れない。お目出たい自分にはどうもその方がほんとのやうに思へる。

 あれは三月二日の晚のことだつた。待ちに待つた川路氏から手紙が來た。自分は、『幸あれ』と心に祈りながら不安と希望に燃えながら封を切つた。さうして讀んだ。自分は腹が立つた。

 鶴の父に川路氏は逢つていろ〳〵話して下さつたのだが、先方は依然として、鶴のまだ若いこと、鶴の兄のまだ(よめ)をもらはないことを云つて、今その話はきめたくないと斷つたさうである。さうして他からも醫學士とか何十萬圓の金持の息子とかからも結婚を申し込んで來たが此方と同じ答へで斷つてゐると云つたさうである。川路氏はもつとつつこんで云はうと思つたけれども反つてそれが爲に話をやぶるやうなことがあつてはいけないと思つて、曖昧にして歸つて來られたさうである。

 川路氏は手紙に、なほ他の方法で骨折る心算だが時期をまつ方がいヽと思ふと書き加へてあつた。

 自分は全身に力を入れた。さうして自分は勇士である、勇士であると鼓舞したが、やヽともすると淚が出てくる。もう駄目になつたのだ。とりつく島もないのだと思はないではゐられなかつた。十時頃床に入つた。さうして泣いた。

 しかし何時のまにか寢ぐるしい眠りに入つた。一時頃目が覺めた。自分をあはれむ情が强く起った。自分はたまらないので起きて日記をつけた。

三日

 一時頃目覺む。

 自分は悲しく思つた。餘りだと思つた。はがゆく思つた。どうかしたいやうに思ふ。自分は淚ぐんだ。

 自分は足かけ五年前から一日も彼女のことを忘れたことはない、これは自業自得である。この罪は自分にあつて他人にあるのではない。しかし自分は自分を憐まないではゐられない。かくまで目出たく出來てゐる自分を憐まないではゐられない。

 彼女を戀し始めたのは三十〇年九月である。それから滿三年半たつてゐる。この間自分は何時でも彼女と結婚したい、結婚しなければいけないと思つてゐた。

 さうしてその裏には彼女の爲にもそれがいヽことだと信じてゐた、彼女もそれを望んでゐるやうに思はれた。

 馬鹿だ〳〵かくまで自惚れる自分は馬鹿にちがいない。

 かくて自分は母や父を無理に賛成さした、それまでに十九ケ月を要した。自分はかくまで苦んでゐるのだ。

 かくて自家の人を始めとして川路氏や友に非常な同情を得たのである。同情をかち得る身はたまらないものである。自分は平氣な顏をしてゐる、又平氣な時が多い、しかしこの爲に何度泣いたか、何度胸がせまつたか、何度不安になつたかわからない。

 この憐な自分に本人の鶴がいさヽかの同情をもたないならば自分はこの緣談をこちらからお斷りしたく思ふ。

 緣談に冷淡なのは父であらう。しかし鶴がどうかしてくれるならば鶴の父ももつとどうにかなつたらう。

 鶴は自分のことなんか、なんとも思つてゐないのだらう。

 鶴がなんとも思つてゐないならば自分は鶴を妻にすることを好まない、多くの人をわづらはしてまで鶴の夫になりたくない。それ程お目出度い男になりたくない。

 勝手になれである。

鶴に自分の妻になることが幸福でなければ、自分に鶴の夫となることが幸福なわけはない。

自分を夫にもつことをいやがるやうな女、そんな女は妻にしたくない。そんな女を妻にして喜ぶ程自分は肉慾許りの男ではない。

 鶴の心が見たい。

 鶴はもう自分のことを知つてゐるはづだ。知つてゐながら僕の不安な狀態にゐることに向つて、いさヽかも同情せずこの不安の狀態から救はふとすら思はないならば、鶴に自分の妻たるの資格はないのだ。

 たヾ鶴が自分を愛し自分を憐れんでゐるが、鶴自身の力のないことを知つて默つてゐるならば鶴は憐な人間である。

 自分には鶴はこの憐な人間のやうにも思はれる、さう思はれる限り、自分はこのことを思ひ切らない。

 かくてこそ思ひ切らないことが男らしく自分には思へ、思ひ切らないことがいヽことのやうに見えるのである。

 この思ひ方がまちがつてゐるならば自分は思ひ切つて見せる。

 彼女の心が見たい。

 彼女の心は見ることは出來まい、彼女はとらわれてゐる女であらう。父と兄に自分の運命をたくしてゐる女であらう。それをいヽことに思つてゐる女であらう。

 情の動くまヽに自分の身を任すことを罪惡としか思へない女であらう。

 かヽる女に自我はない。

 自我のない女に自分の心の内の秘密を人にもらすだけの勇氣はない。自分にきく機會がないが、他の人に聞いてもらつても駄目だらう。

 しかし聞いてもらいたい、かう云ふ問題について女は可なり大膽である。女の一生はこの問題できまるのだから。しかしよし聞くことが出來ても力なき鶴の答はオヽソリチーのないものだらう。

 時期をまつより他はない、不安をつヾけるより他はない。

 しかし不安な狀態をつヾけるのはいやなものだ、もうつヾけすぎた。

 鶴が自分を愛してゐるか、愛してゐないかヾ知りたい、それを知れば思ひ切るのも切りいヽし、不安をつヾけるのもつヾけ甲斐が出來るわけだ。(夜、二時十分)

 自分は日記にこれだけ書いたら少しは頭が休まつたやうに思つたので寢やうとした、しかしまだ興奮してゐる、自分は又おきた、目出度しと云ふ題をつけて次の新体詩を泣ながらかいた。

    『思ひ切れ〳〵

     今となつて彼女のことを思ひ切らざるは

     餘りに女々し

     多くの男に戀さるヽ女

     汝のことのみ思ふはずなし

     思ひ切らず〳〵

     我思ひ切らず

     女々しき汝よ

     思ひ切らざるにあらず

     思ひ切れざるなるべし

     男なる汝よ

     男らしく思ひ切れ

     汝を愛せず、汝の爲をはからぬ

     女を思ひ切れ

     我を愛せず?

     我が爲をはからず?

     そを我は眞に知るまで

     思ひ切らず〳〵

     思ひ切れざるに非ず

     思ひ切らざるなり。

     汝三度求婚して

     三度とも彼女の父よりていよく斷られたるに

     なほ彼女が汝を愛しつヽありと思ふか

     我れは思ふ〳〵

     彼女の父の言葉

     我をしてしか思はさヾる爲には

     餘りによわし

     目出度き哉

     甚もつて目出度き哉

     我は目出たし

     目出度し

     汝の思ひおるよりも

     更に目出たし

     我、彼女を見すてることを

     見す〳〵彼女を不幸におとすことヽ思ひおる也

     されば我、思ひ切らず

     思ひ切らざるを以てほこりとす

     我たヾ驚く

     云ふべき言葉を知らず

     さなり〳〵

     汝の忠吿をきかんには

     我餘りに目出たし

     目出たし〳〵

     目出たき故に他人と自分を苦しめる程

     目出たし

 自分はその翌日、即ち三月四日に鵠沼の東屋に行つた。春休には間があるので客は少なかつた。自分は二階の江の島の見える、日照りのいヽ室を占領した。

 自分はこヽへ來て、勇氣を養はうと思つたのだ。鶴のことはすべて川路氏と運命に任せ、その事に就ては一切考へず、身体と思想を健全にしやうと思つた。自分はこの頃少し神經質になりすぎてゐると思つたのだ。

 本もなるべく讀まずに四日間濱や田圃を步きまわつた。さうして五日目に自家(うち)に歸つた。

 自分はそれからなるべく鶴のことを考へないやうにしたが、やヽともすると考へられてくる。さうして三月の十五六日になると何時の間にか自分と鶴は夫婦になるやうな氣になつた。

 自分はまだ鶴が自分を戀してゐるやうに思つてゐる。それにもまして運命が自分と鶴とを夫婦にしなければおかないやうな氣がする。

『なぜ?』と聞かれても『なぜだか』としか答へられない。自分の頭は理窟ぽいがどうしてかこの不合理なことを信じてゐる。信じ切つては居ないがさう思はれる。

 この自分の氣持は說くことの出來ないものである。しかし一昨年の一月五日に小說風にその說明をしやうとしたことがある。その終りにこんなことが書いてある。

*  *  *  *  *

 ………彼女が熱烈に自分を戀する故かとも思つた。しかし彼女のそぶりはどうもさう熱烈に自分を戀してゐるやうには見えない。少くも嫌つてはゐないやうだが、愛しても居ないかも知れない。さうして見た處、さう熱烈な女らしくはない。自分が彼女と結婚しないと自棄(やけ)を起して自殺しはしまいかと無理に想像して見るが、どうもさう云ふ女らしくはない。自家の人の命ずる處にゆきさうな溫和しい、どつちかと云ふと昔風な、女らしい女である。どうも之も結婚しなければならない理由になるには薄弱だ。

 どうしても自分が彼女を戀してゐる。さうして彼女と夫婦になりたく思つてゐる。さうしてならないではならないと感じてゐるとしか云へない。

 しかし自分にはかう云ふ感じがたヾ無意味なものとは思へない。思ひたくないからかも知れないが思へない。さうしてかう思つてゐる。

 この事實、往來で時々逢ふ近所の十七八の女、優しくつて、美しくつて、淋しくつて、溫和しさうな、それで可なり快活な女。その女とは話たこともなければ挨拶したこともない。名も知らなければ性質も知らない。たヾ自分が十五六の時から逢つて逢ふ度に互に見かはす、さうして見かはした暫くの間、何時でもいヽ感じのした女。その女を自分は一昨年からほんとに戀し出した。さうして自分はその女と夫婦になりたく思つてゐる、さうして又今迄になく道德的にも夫婦にならなければならないと思つてゐる。

 この事は自分には未だ甞つて經驗したことのないことである。自分は今迄の戀に於て自分は結婚する資格ないものと思つてゐた。しかるに今度の戀は自分に彼女と結婚せよと命じてゐる。

 自分はこの事實の裏に自然の命令、自分の深い神秘な默示があるのではないかと思ふ。この默示は

『汝、彼女と結婚せよ、汝の仕事は彼女によつて最大の助手を得ん。さうして汝等の子孫には自然の寵兒が生れるであらう』

と云ふのだ。

 之が自分の迷信である、どうしてか、さう思へる。さうして運命がお夏さんを戀させて失戀させたのは彼女と自分を結びつけるためではなかつたらうかと。

 自分は今迄下等なことをした。しかし自然の默示には背かなかつたと思つてゐる。さうして近頃になつて自分は自然の默示を幾分か解し得た心算(つもり)でゐる。

 されば自分はこの迷信してゐる默示に從はないことを恐れてゐる。自分はこのことを父にも母にも云はない。云つた處が笑はれるにきまつてゐる。しかし自分一人ではさう思つてゐる。それで父や母の氣嫌を一時そこねてもこの迷信に從はうと思つてゐる。父や母に背くのはいやだ。しかしまだ救はれる。自然に背くのは末恐ろしい。

 自分はこの迷信をほんとの迷信かと思ふ。さうして父や母を喜ばせやうかと思ふ。しかし自分はもしこれが迷信でなかつたら大變と思ふ。

 だから自分は父や母に得手(えて)勝手(かつて)なわからずやの我儘者と思はれても彼女に求婚して斷られるまでは誰とも結婚しないでよさうと思つてゐる。

 自分は出來るだけ自然の默示と迷信してゐることに從つて成功しなかつたら萬止むを得ないが、自分の意志で背きたくないと思つてゐる。

 それに淺はかな人智で自然を試みるのはわるいが、そのことが迷信か迷信でないかを知りたく思つてゐる。

 かく云ふとも『それは君が彼女と結婚したいからそんな理窟をつけるのさ』と云ふ人があれば、自分はたヾ默するより仕方がない。

*  *  *  *  *

 かヽる迷信を持ち得る自分はいかなる時も鶴と自分とは運命によつて合一されると云ふ希望を持ち得る。

 始めはかう云ふ希望をもたうと知らず〳〵の内に苦心したかも知れない。しかし足掛五年の月日はこの希望を習慣にしてしまつた。いくらこれを否定する出來事が起つても、いくらこれを否定する理窟が立つても、()つのまにか鶴と自分とは夫婦になるやうな氣がする。

 四月一日の朝、自分は早く起きた。天氣がよくつて氣持のいい朝だつた。自分は新聞投入凾を見に行つた。自分の心は一種の興奮をしてゐる。

 四月一日に自分は鶴の學校の卒業式のあることを知つてゐる。一昨年に自分はこの日鶴が紋附を着て學校に行くのを見た。さうして何處へ行つたのか夕方紋附を着て歸つてくるのを見た。自分はその時鶴が學校を卒業したのだなと思つた。その日朝日新聞に鶴の學校の優等生の名が九人程出てゐた。鶴の名はその内になかつた。

 鶴は學問は餘り出來がいヽのじやないな、なまじつか優等生で卒業すると人の注意を惹いて鶴を妻にもらひたく思ふ人が出ないとも限らない。優等生でなくつてよかつたと思つた。しかし鶴は學校が始まると依然と學校に通つた。自分は未だ卒業しなかつたのだな、道理で優等生の内に名がなかつたのだなと思つた。

 その後自分は川路氏から鶴の學校の成績を聞いた。さうして成績のいヽのを得意に思つた。去年の四月一日の朝日新聞にも鶴の學校の卒業生で優等の人の名が十許りのつてゐた。しかし自分は鶴の今年卒業すると云ふことを知つてゐたから別に注意しなかつた。

 今年こそ鶴は卒業するのだ。かう思つた自分は四月一日に早く起きて新聞を見に行つたのだ。未だ來て居なかつた。自分は朝の空氣をすいながら庭を步きまわつた。さうして新聞配逹の鈴の音を聞きおとすまいとした。暫くして鈴の音がした。自分は一種の不安と耻かしさを覺えた。しかしすぐ見に行つた。

 果して出てゐた。さうして鶴の名は第四番目にあつた。さうして卒業生は百三人である。自分は微笑んだ。さうして鼻が高いやうに思つた。

 この時自分の學習院を卒業する時、三十何人の内(びり)から四番だつたことを思ひだした。自分はこの偶然の暗合(?)を面白く思つて更に微笑んだ。

 父や母は新聞を讀んだが鶴のことには氣がつかずにゐた。自分は一時頃に母の室に行つて何げなく鶴の優等生で卒業したことを云つた。

 母は『さうかい』と冷淡に云つて、『中々出來ると見えるね』とつけ加へた。自分は『さうと見えますね』と冷淡を裝つて云つた。母は改めて『あのことが早くきまるといヽね。中々いヽ人はないからね、この頃は妾はたヾお前のことだけが氣になるのだ、早くきまるといヽと思つてゐるのだ』と云つた。

 自分は母がこのことに冷淡だと思ふと、このことがきまらないとまいるやうに何げなく見せかけるが、かう云はれると

『僕のことは心配する必要はありません。世の中に自分程心配する必要のない人は少ないでしやう』と安心させるやうな辨解するやうなことを云ふ。

『それでも妾にはいろ〳〵話しておきたいことがあるからね』と母は云つた。かう云はれると自分は嬉しく思ふ。さうして我知らず微笑む。鶴と母との間のうまくゆくことを信じてゐるが。母が鶴をもらうことに始め不服だつたヾけに時々は心配する。今は母がこの話に乘り氣になつてゐると思ふと嬉しい。

 それにしてもうまくゆくか知らん。

 その晚自分は隼町の友を訪ふた。いろ〳〵の話をしてゐる時、友は『昨晚堀出しものをした』と云つた。

『なんだ』と聞くと、

『フイデユスのいヽ繪のあるユーゲンドを捜して來た』と云つて古いユーゲンドを出して見せた。どんな繪かと急いであけて見ると、

 怒濤の内を一艘のボートが走つてゆく。ボートは後半が一寸見えるだけだ。そのボートの上に若い男と女がのつてゐる。女は一心に行手を見ながら全身に力を入れて舵をとつてゐる。結つてない髮は風になびいてゐる、男は全力をもつて漕いでゐる。一言以て云へば二人は死物狂ひで或目的に向つてすヽんでゐる所がいかにも强く顯はされてゐる。

 目的地は何處だ?ツーア ブラウトインゼル(許嫁の島まで)である。

 『いヽだらう』と友は云ふ。

 『いヽね』と自分は云つた。

 しかし自分は之を見てゐる時、自分のことを思つた。自分の戀を思つた。自分の鶴と結婚しやうとしつヽあることを思つた。さうして二人を(うらや)ましく思つた。もし鶴がこの繪の女のやうに全力を盡して自分との結婚の爲に働いてくれたら、どんなに嬉しいだらうと思つた。自分は繪を見とれてゐるふりしてこんなことを考へた。

 さうして

『いヽね、中々いヽ、フイデユスは鉛筆畵がいヽね』と自分は今迄考へた末の結論のやうな顏して云つた。

『ほんとに巧いね、氣持がいヽ』と友は云つた。

 自分はなほ繪を見とれながら、鶴が自分を愛してゐなかつたら、自分の努力は滑稽なものだと思つた。さう思ふとなほ二人が(うらや)ましい。二人の敵は多いだらう。しかし二人の目的に向つてすヽむ時に疑惑がない。努力すればするだけの結果が顯はれるのだ。互に勵ましてゆくことが出來るのだ。互にたすけあつてゆくことが出來るのだ。互に戀してゐることを信じてゐられるのだ。

 自分は羨ましく思はないではゐられなかつた。

 鶴が自分を眞に愛してゐてくれ、さうして自分と夫婦になるために心から骨折つてくれたならばどんなに嬉しいだらう。それでこそ張合があるのだ。

 自分は默つてフイデユスの繪を下に置いた。さうして友といろ〳〵外の話をした。

 話をしながら時々フイデユスの繪を見た。さうして鶴のことを考へた。

 どうしてゐるだらう。自分のことをどう思つてゐるだらう。まさか、いやな破廉耻な、厚顏(あつかま)しい。ひつこい蛇のやうな人間とは思つてゐまい。などヽも考へた。

 さうして十一時迄友の處に居た。

十一

 もう一年以上鶴に逢はない、もう一生鶴に逢はないかも知れない。今度逢へれば許嫁(いヽなづけ)としてヾあらう。

 自分はよくさう思ふ。さうして鶴はさぞ大人になつたらう。美しくなつたらうと思ふ。しかしどんなになつたか想像することは出來ない。時には鶴は病氣をしてやしないかと思ふこともある。負傷をしやしないかと思ふ時もある。さうして鶴の醜くヽなつたこと、不具になつたことを想像することもある。その時鶴の前に跪いて私は貴女を愛してゐます、私の妻になつてくれませんか、と云ふことを想像して見る。自分は鶴の美しい顏を愛してゐる。しかしそれにもまして鶴の性格を愛してゐる心算でゐる。

 しかしかう思ふ時、自分は十年前に一人の同年輩の美しき男を戀した時のことを思ひ出さないではゐられない、實に美しい人だつた。多くの學生はその人の心をとることに苦心した。その時自分はその人の不意に醜くヽなることを空想した。さうして多くの人のその人を捨てた時、自分はその前に跪いて私は心から貴君を愛してゐます、と云ふことを想像してその人の醜くヽなるといヽと思つたことがあつた。さうしてその時自分はその人の心を愛してゐると思つてゐた。

 處がその人が齡とると共に醜くヽなつた。齡のせいかも知れないが、醜くヽなると共にその人を戀することが出來なくなつた、さうしてその人の性格の醜い所も氣がつくやうになつた。

 父や川路氏の聞いた所によると鶴はすべての人から評判のいヽ人である。よすぎる程の女である。自分の目に映じた通りに鶴の近處の人も友逹も先生も賞めてゐるさうである。賞める許りである。しかし自分の鶴を戀し得たのは鶴の顏が美しかつたからである。美しい許りではない、美しい點だけで鶴より優つてゐる人は近處にもゐる。しかし醜くかつたら、又十人並以上でなかつたら自分は鶴をかくまでには思ひはしなかつたらう。自分は鶴の顏の醜くヽなる事を恐れてゐる。しかし今となつて鶴が醜くヽならうとも自分は鶴を捨てはしない。その時自分は鶴と結婚が出來たら喜ぶであらう。自分は始めは鶴の顏や姿を愛したらう。しかし今は鶴そのもの、目に見えないものを愛してゐると信じてゐる。しかし鶴の美しいことを望む、切に美しくなることを望む、しかし他の男の注意を惹くことを恐れる。さうしてもう鶴は多くの男の注意を惹いたにちがいない。鶴の父は他からの緣談を斷つてゐると云ふではないか。

 なにしろ鶴がどうなつたか自分は知りたい。處が運命の神はこの願ひを五月十二日に叶へてくれた。

 この日は水曜日で中野の友の休みの日だ。自分は天氣がいヽので不意に八時頃中野の友を訪問することにきめた。さうして直ちに自家を出た。九時頃友の家についた。暫く話してから散步した。靑々した麥畑や、雜木林の中を澄んだ空や、黑い土を見ながら步いた。都會に許り居る自分にはこの半田舎の空氣はなんだか懷かしい。

『僕も家を持つたら中野に來やうかな』と云つた。

『是非來玉へ』と友は云つた。さうして思ひついたやうに『例の話はどうなつた』と云つた。

『相變らずさ、だめとも思ふが、うまくゆくやうな氣もする』と答へた。

『どうかなりさうなものじやないか』と友は云ふ。

『もうするだけのことをしたのだから仕方がないさ』

『甘くゆくやうな氣がするがね』

『僕もさう云ふ氣がするが、駄目な方が本當だらう』

 自分はかう云つた時淋しい氣がした。さうして友のかはりにわきに鶴が居たらと思つた。

 自分は話頭を變へた、さうして十一時半頃まで友の所に居て歸路についた。中野の停車塲まで友は送つて來た。電車は來てゐない。さうして中々來ない。自分は來てくれない方がいヽのだ。自分は中野の友の所へ來る時、歸る時、鶴と電車で同車することを想像しないことはない。さうして電車をまてばまつ程鶴に逢ふ機會の多いやうに思へて嬉しい。

 その内に電車が來た。自分は友と挨拶して電車にのつて眞中より少し後ろに腰をかけた。のつて暫くしてから出た。鶴は停車塲で電車を待つてゐるかも知れないと思つた。しかし今十二時頃だから飯を食つてゐるだらうと思ひ返した。しかし何時ものやうに大久保につくことを樂しみにしてゐた。電車が柏木に着いて一寸止つて柏木を出た。自分の胸はせばまるやうに覺えた。之は珍らしいことではない。さうしてかう云ふ感じを何十度味つたか知れないが、鶴に逢つたことはたヾ一度だつた。それは去年の四月四日である。

 電車が大久保につく時、自分はこわ〳〵プラツトホームを見た。六七人まつてゐる人があつた。その内に若い女が一人ゐた。鶴じやないかと思つてゐる内に電車は益々近づいて止つた。

 鶴だつた! 鶴はこの瞬間に自分に氣がついたらしかつた。後ろから乘らうとした足がこの時ピタツ(﹅﹅﹅)と止つた。鶴は引きかへして前から乘つた。自分と見合つた時、目と目があつた。鶴は赤い顏して目をそむけた。さうして自分の腰かけてゐる右側に腰をかけた。鶴と自分の間には三人の人がゐた。

 自分は鶴の大人になつたのに驚いた。鶴は相變らず粗末な着物を着て薄くお白粉をぬつてゐた。自分は鶴程美しい女を見たことはないと思つた。

 優しい、美しい、さうして表情のある顏、生々した目、紅の口唇、顏色もいヽ、自分は鶴の顏をもつとはつきり見たいと思つた。しかし間にゐる人が邪魔になる。赤い髮の毛が一寸見えるだけだ(鶴の髮毛は赤い)自分のわきには勞働者がゐた。その隣りが軍人で、その隣りが四十許りの女で、その向ふに鶴がゐるのだ。

 自分は向い側の空いてゐる席に鶴の腰かけなかつたのを殘念に思つた。しかしあわてた樣子、自分と顏をあはせるのを氣まりわるく思つて同じ側に腰をかけたことを嬉しく思つた。

 新宿で可なり人がのつた。代々木では殆んど滿員になる程人がのつた。自分は老人か子供を(おぶ)つてゐる人が來てくれるといヽなと思つた。さうすれば自分は何げなく立つことが出來る。さうして鶴を見ることが出來る。しかし自分の前には男の人のみ立つてゐる。

 千駄ヶ谷で少しおりた。信濃町では五六人おりて、三四人のつた。四谷につく少し前に自分は立つた。鶴の方を見た。鶴と自分の目は逢つた。鶴はすぐ目を轉じた。自分は思ひ切つて鶴の前を通つて止ることにした。電車はとまりかけたが鶴はたヽない。さうして自分に顏を背けてゐる、電車はほんとに止つた。自分は鶴の前を通らうとした。この時不意に鶴は立つた。自分は嬉しかつた。自分の手は鶴の背中にふれた。自分は鶴についで電車を降りやうとした。この時入口のそばにゐた子供をつれた人が立つた。自分は厚顏(あつかま)しくその男をかきのけて鶴のすぐあとに從ふ勇氣がなかつた。自分は鶴と自分の間に二人を入れた。

 自分は電車をおりると二人を逐ひこした。さうして改札口を鶴について出やうとした。しかし鶴は改札口に逹した時一寸後ろを見た。自分を見た。さうして身體を少し右によせて自分に先にいらつしやいと云はぬ許りの態度をとつた。自分は夫の權威を以つてさきに出た。しかし自分の心はあがつてゐた。切符を改札掛に渡さうとして落してしまつた。自分は落ちた切符をたヾ眺めて改札掛の拾ふのを見て、なるたけ落ついて停車塲を出た。出て右に折れて段々を左側のはしを通つて登つた。さうして自分はふり向いた。鶴と又顏をあはせた。一階段を登りおはつてふりかへると鶴は自分の通つたあとを登つてくる。矢張左側のはじを通つて。

 自分は段を上りきる前に又ふり向いた。鶴は靜かに自分の步いた所を步いてくる。自分は登りきつて右に折れて麹町通の方へ行つた。ふり向くと鶴は段々を上りきつて未だ自分のあとをついてくる。自分はもう夢中だ、嬉しい。

『お鶴さん』と聲をかけたい程自分は親しさを感じた。さうしてさう聲をかけても鶴はおどろかないで、

『なに御用?』と笑ふやうな氣がした。自分は足はおそくなつた。自分は電車道をよこぎつて麹町通の左側を通つた。鶴は電車通をよこぎらずに右側を步いてくる。

 自分は何度ふり向いたか知れない。その都度、鶴と顏をあはせた。あはせるとあはてヽ自分は顏を元に戾した。鶴も顏をそむけたやうに思ふ。

 自分は鶴が自分を愛してゐてくれたと思はないではゐられなかつた。自分の心は嬉しさにおどつた。

 眞心は眞心に通ずる。自分が鶴を戀してゐるやうに、矢張り鶴も戀してゐてくれたのだ。

 自分の足はおどつた。自分の足はつい早くなつた。六丁目あたりに來てふり向いた時、最早鶴の姿は見えなかつた。自分は鶴は何處かの商店(みせ)に入つてゐるのではないかと思つたが見えなかつた。しかし自分は嬉しくつてたまらなかつた。自分は自家に急いだ。

 鶴は自分を戀してゐるのだ。鶴は自分の妻になるのだ。二人は夫婦になる運命を荷つて生れて來たのだ。

 なにしろ今日は嬉しい日だ。記念とすべき日だ。鶴も嬉しく思つてくれてるだらう。自分は自家に歸つてこの喜をもらさないではゐられなかつた。母に逢つて今日鶴に逢つてよ。鶴はそれは美しくなつてよ。僕は萬龍より鶴の方が何十倍美しいか知れないと思ひましたよ。と云ひたかつた。母は萬龍を或日見て、美しい〳〵と感心してゐたことがあつた。さうして鶴のことはさう美しいとは云はない。母に三年前自分は鶴の自分の室の窓の前を通る處を見せたことがある。

 何しろ自分はおちついてゐられない。しかし母に打ちあけて云ふのは氣まりがわるかつた。晝飯食つてからもじつとしてはゐられないので神田に行つた。さうして一人鶴のことを思つて微笑(ほヽえ)んだ。

 美しい、美しい、優しい、優しい、氣高い、氣高い、鶴は女だ!

 自分はその夕、麻布の友を訪れて、『鶴に逢つたよ』と簡單に話した。友は『さうかい、そりやよかつたね』と云つた。

十二

 自分は五月十二日に鶴に逢つてから愈々鶴と夫婦になれるやうに思つた。さうして鶴と夫婦になれたあとのことを考へた。

 自分は夫婦となつたあと何時迄も幸福にゐられるやうな氣がする。世間の普通の夫婦間のやうに二人の間に面白くないことが起るとはどうしても想像が出來ない。淫慾をつヽしみ。お互にいたわつて感謝しつヽゆくならば不和はおこり得ないやうに思はれる。しかし人々は經驗ある人々はかう思ふ自分の考を若いと云つて、獨身の空想と云つて心から冷笑することを知つてゐる。

 世に自己一個の經驗を笠にきて總ての若者が自分の踏んだ道をその通りふむときめて、先生顏する奴程自分にとつて癪にさわる奴はない。時分は理想的の結婚をし、理想的の家庭をもつて見せ、彼等の鼻をあかしたく思ふ。自分は彼等のやうに細君を玩弄物とは見ない。姙婦の醜くヽなること、ヒステリー的になることを自然と思つてゐる。その苦痛に多大の同情をはらつて見せる。自分は性慾の價値を眞に發揮して見せる。眞の戀を味つて見せる。自分は彼等の見出すことの出來ない禍根を見出して未だ芽の内に枯して見せる。自分と鶴の戀は彼等の戀と全然別種であることを事實によつて證明して見せる。

 男女の眞の戀は種々の形をとるも永遠不滅のものであることを事實によつて證明して見せる。

 しかしもし鶴と自分との禍を生むならば、どうして禍が生れるかを眞にきわめたく思ふ。

 自分は鶴と結婚する爲に他人から嘲笑されるであらう。しかしその嘲笑はやがて羨望になり、更に一轉して尊敬になり、自分の結婚は理想的結婚のある雛形となり得ると信じてゐる。

 何にしろ自分は自分の鶴に對する戀程、智的な運命のことを考へ、自分の仕事のことを考へ、二人の個性のことを考へた戀はないと思つてゐる。さうしてこの戀の成就によつて幾多の事實、かくれたる事實を知ることが出來るやうに信じてゐる。

 自分は今や鶴と自分の夫婦になれることを殆ど疑はないやうになつた。たヾその時間が早いか遲いかヾ問題であると思ふやうになつた。しかしさすがに時々は不安になる。だめなやうな氣がする。しかし又何時のまにかうまくゆくやうに思ふやうになる。さうして別に理由もなく不斷はうまくゆくやうにきめてゐる。

 五月も六月も自分は川路氏からいヽたよりがあるのを空しく待つてゐた。七月も八月も空しく果報を待つた。九月の始めに一寸沼津の千本濱に行つた。——自分は夏中東京にゐた——こヽに一週間許りゐて自家に歸る時なぞは不在に川路氏から鶴の自家でとう〳〵承知したと云ふ返事が來てゐるやうな氣がしてたのしみにして歸つて來た。しかし何にも云つて來なかつた。九月も無事に過ぎた。

 十月の或日自分は氣分のいヽ淋しい秋の氣を深く呼吸しながら庭を步いてゐたら女中が來た。さうして自分に一通の手紙をわたした。

 自分の胸はおどつた。川路氏からの手紙である。

 自分は封を切つた、さうして讀んだ。自分は全身に力を入れた。目から淚がながれた。

 鶴は人妻になつたのである。

 自分は耐えやう、〳〵としたが耐え兼ねて聲出して泣いた。自分はどうしていヽかわからなくなつた。自分は夢中で庭を步きまわつて自分の室に入つて机の上に泣き伏した。