* * * * *
鶴は柏木にゐる金持の長男で、今年工學士になつた人の妻になつたのである。
十三
その後自分は鶴のことを空想の倉から出して記憶の倉の中に入れやうと努力した。しかしそれは徒らに淋しい苦しい努力であつて無益(むだ)な努力であつた。時間の手に任せるより仕方がない。
自分は花をすべてとりさられた花園の内を淋しい心をもつて自分をあざけりながら步きまわつてゐた。
女に餓えてゐる自分は他日また女を戀し得るかも知れぬ。して今の失戀を祝福する時が來るかも知れぬ。しかし今の自分にはそんな考は何にもならない。たヾ淋しい、情けない。やヽともすると淚ぐむ。
自分は旅行しやうかと思つた。このまヽゐては身体をこわしはしないかと思つた。しかし自分は自分を勇士と思つてゐる。自分を戀せぬ女が人妻にならうともそは自分にとつて幸なることであらうとも不幸なことではないはずだ。さう云ふ女を妻にしなかつたことは喜ぶべきである。自分は自業自得の失戀の爲に身体をこわすことを恐れるやうな人間ではないはずだ。自分はするだけのことをした以上は運命を甘受するだけの哲人にならなければならない人間だ。
自分は東京にとヾまることにした。さうして淋しい心をかくして平氣な顏をしてゐた。父や母や川路氏はこれならあんなにまで結婚させやうと心配しないでもよかつたと思はれたにちがいない。
しかしするだけのことをしなければどうして我慢が出來やう。それがせめてもの慰藉じやないか。最愛の兒を失つた母にとつて出來るだけのことをしたと云ふのが唯一の慰藉じやないか。
十一月三日の晚に自分は今年工科を卒業した友を訪れた。さうして何げなく鶴の夫のことを聞いた。友はよく知つてゐた。さうして快活ないヽ人だと云つた。立派な身体したいヽ人だと云つた。さうして近頃戀女房をもらつて元氣だと云ふことまでしやべつた。
自分は何げなく『さうかい』と云つた。友は話したあとで不意に『なぜ聞くのだ』と聞いた。自分は顏のほてるのを覺えた。さうしてやヽともすると淚が出さうなのでよわつた。
『一寸聞きたいことがあつたからさ』とわけのわからないことを云つた。
友は別に追窮しなかつた。
* * * * *
其後暫らくして自分は何時のまにか鶴は自分を戀してゐてくれたのだが父や母や兄のすヽめで進まずながら人妻になつたのだと理由もなしに思ふやうになつた。さうしてそれから一月もたつた。今は鶴をあはれむやうな氣分になつた。さうして鶴の運命が氣になりだした。
自分はこの感じがあやまつてゐるか、いないかを鶴に逢つて聞きたく思つてゐる。
しかし鶴が『妾は一度も貴君のことを思つたことはありません』と自ら云はうとも、自分はそれは口だけだ。少くも鶴の意識だけだと思ふにちがいない (完) ⦅四十三年二月⦆
附錄 (「お目出たき人」の主人公の書けるものとして見られたし)
二人⦅拙著『荒野』より⦆
こヽに男と女があつた、二人とも戀を知りそめる年頃である。二人は見たことはあるかも知れない、いや確にある。男の十三、女の十の時二人は往來で逢つたことがある。その時男は可愛らしい女と思つた、女は立派な男と思つた。しかし二人はそのことを忽ち忘れた。夢にも見なかつた。二人の家は相去ること一町半。
無論二人は話したことはない、名も知らない、第一男は女のこの世にゐることすら知らない、女は男のこの世にゐることすら知らない。しかし二人の間に全く關係はなかつたらうか。意識にのぼらぬあるものが二人の間を結びつけてはゐなかつたらうか。
男の理想の女として心に描いてゐる女こそ、その女ではないだらうか。男を假りに一郞と名づける、女を靜と名づける。一郞のぼんやり考へてゐる理想の女をつくつて、生きた女としたならば靜が出來はしないだらうか、靜の理想の男を假りに全知全能の神が作つたとしたならば一郞が出來はしまいか。
二人は畵家ではない、理想の人の顏を想像することは出來ない。二人は彫刻家ではない理想の人の骨格を知らない。二人は詩人ではない理想の人の性質を知らない。しかし二人の意識せぬあるものが戀ひしたふものがある、それは一郞にとつての靜、靜にとつての一郞であつた。
一郞が何故か知らぬが、何者かにあこがれ淋しい氣がする時、靜も何故か知らぬが、何者かに憧れる氣がして淋しくなる。
靜が不意に愉快を感ずる時、一郞も理窟なしに愉快になる。二人の間には何ものかあるに違ひない。同じ震動をして音を發するものヽ一つが音を發する時他のものも知らずに音を發する。二人の間は恰もこのやうであつた。
しかし二人はそのことを知りやうはずはない、全く知らない、不意に淋しくなり、不意に愉快になることを不思議とすら思はない。
ある日偶然に二人は往來で逢つた。よささうな人と一郞は思つた、よささうな方と靜は思つた。この時二人は戀に落ちたのである。しかし二人はそれを知るはずはない。一郞は靜のことの頭をはなれないのを不思議に思ひ、靜は一郞のことの頭をはなれないのを情けなく思つた。二人は互に忘れやうとした。しかし忘れやうとすればする程思ひ出される。二人は自分のいくぢのないのに愛想がつきた。
その夜、一郞は靜のことを、靜は一郞のことを忘れやうと思ひつヽ考へて、禁斷の果を味ふやうに不安と喜を感じた。二人は共に嚴格なる家に人となつて戀は耻かしいもの、罪なものと思つてゐる。
二人は互に名を知らない、住んでる所を知らない。しかも姿を思ひ出さうと思つてもどうしても姿は浮んでくれない。しかし忘れることは出來ない。憧れる心はいや强くなる。以前は何故か知らずに何者かに憧れたが、今は何故かは矢張り知らぬが、憧れるものに目鼻が出來た。憧れるものが意識にのぼつた。
勿論二人はこのことを正しいことヽは思はなかつた、麗はしいことヽも思はなかつた、當然のことヽも思はなかつた。互に共鳴してゐると云ふことは夢さら知らない。
其後同じ所で二人は二三度逢つた。逢ふわけである、一郞は何ものかに憧れる時、ひとりでに足が其處に向く、靜もその時そこに我れ知らず足が向くのであつた。しかし意識にのぼらぬあるものが、二人を其處に導くので多くは意識の爲にさまたげられて、二人は十に一つも逢えなかつたのである。
二人の思ひはいや增さつた。二人は淋しい所を好むやうになつた。二人は一層陰氣になつて思ひに耽るやうになつた。
一郞はどうしてかく迄自分は女々しいかと、自分を鞭打ち勇氣をつけやうとする。靜は又どうしてこんなにあの方を思つてゐるのだらうと時々自分を責めて忘れやうとする。しかしその甲斐はない、やヽともすると二人は戀しく思ひ、なつかしく思ひ、淋しい感じがして淚ぐまれる。さうかと思ふと、愛してゐるにちがひない、愛してゐらつしやるにちがひないと思はれ、ひとりでに微笑まれることもある。嬉しさうな顏をするかと思ふと、すぐ寂しい情けないやうな顏をする。しかし二人はこのことを人に知られることを恐れた。して耻かしいことのやうな氣がする。
意識にのぼることならば二人はどうかしてヾも壓へつけることが出來たであらう。しかし二人の戀し、なつかしの情は意識にのぼらぬ所よりくる。『どうしてこんなに』とは二人の自問して自答し能はざる問題であつた。
一日靜が机に向つてぼんやりしてゐる時、母は心配さうに靜に『お前この頃どうかおしではないか』と聞いた。靜は何氣なく『いヽえ』と云つたが、母の去つた後、一しほ悲しくなつて机に泣き伏した。母に心をうちあければよかつたとも思つた。暫くして不意に心をとりなほし、一人我家を出て例の所へ行く。はからずも一郞に逢つた。二人の目は合つた、はなれた、又合つた、又はなれた。二人は通り過ぎた、二人は夢中に數步步いた。一郞がこわ〴〵ふり返つた時、靜はふり向きたいのを耐えた時であつた。靜は外のものを見るふりしてふり返つた時は一郞の頭の元に戾つた時であつた。
二人は嬉しさを感じた。しかし互に愛してゐるとは確かには思はれない。二人は心をうちあけた事はない。目と目と語ることを知らない。心と心の語ることはなほ更知らない。二人は嬉しい内に淋しく悲しく感じた。
かくて一年は過ぎた、二年は過ぎた。
二人の間は依然として互に戀しなつかしと思ふのみ、相手の自分を愛することは依然として疑問である。二人は二年の間にいく度か目と目で話はしたらう、心と心と話はしたらう、しかし互に相手の名も知らず、家も知らない、心も知らない。
二
戀に悶えるものにとつて二年は短くはない。一郞は屢々父か母に自分の心をうちあけやうと思つたが、まだ大學にも入らぬ身もて、それに相手が自分を愛してゐることすらわからぬのに、その女の人の性質もしらぬ自分が、話をしたことすらない自分が、どうしてその女を心から愛してゐると親に云へやう。取りあげられずに笑はれるにはきまつた話と、たヾ心に秘して悶えてゐた。
靜も亦、自分の心を母に打ち明けやうと時々は思つたが、相手の方の名も知らず、性質も知らずたヾ往來で時々逢ふとより外說明のしやうもない人を戀しと云ふはいくら母に對しても氣まりがわるく。それに云つたからとてどうかなると云ふことでもないと思へば一人心に秘して悶えてゐた。
二人は時々はあてもなく神にお願ひをしてみることもあるが。自分ですら痴情としか思へぬことを、神樣が罸し玉ふことはあらうとも、きヽ玉ふことはないとしか思へない。二人は考へれば考へる程、忘れなければならないと思ふが、もと〳〵意識上のことではないから、忘れることも出來ない。色々のことをして思を外に轉じやうとするが、何時のまにか、二人の知らないあるものは相手を抱かんと捜してゐる。
二人は胸の悶を慰める爲に快活を裝ふて見るが、悅ぶは親ばかりで。裝ひのとれる時、なほさらさびしい。月の夜は同じく庭を散步して淚を流すこともあるが、一町半程はなれてゐる所に同じ思の人があるとは、夢さら思へない。電話で遠くの人と話すことの出來るのを疑ふ人はないが、意識にのぼらぬものを人は知りやうはずはない。
二人とてお互に愛してゐないとは思へないのである、しかしそれは痴情の仕業と心得てゐる。得手勝手に無理にさう思つて自分の心を慰めてゐるのだと思つてゐる。くり返し云ふ、目と目と話すこと、心と心と話すことは二人は知らないのである。二人は學校の稽古より外何ものも學ぶことを欲せぬものである。
二人は逢ふ前には今度逢つた時には向ふの人の自分を愛してゐるかゐないかを見きはめやうと思ふが、偶然に逢ふとびつくりして何もかも忘れてしまう。我に歸つた時は二人の通りすぎたあとである。かくて又一年すぎた。
靜の齡は十九になつた。母も父も靜の結婚のことを心配する齡となつた。しかし二人の間の有樣は依然として元の通りである。二人はたヾ自分が相手を愛すると云ふことのみ明らかになつて、相手が自分を愛すると云ふことは益々疑問となる許り、考へれば考へる程わからなくなる、末には二人は相手の人のよしあしすら疑ふやうになつた。それに色々と考へれば自分の愚かなることが明らかに目につき、自分で自分を冷笑することすら時々ある。理性の前にこの感情を持てゆく時、二人は赤面して忘れなければならないと思ふ。
或時靜に緣談がおこつた。靜はたヾそのことを否定した。しかし否定する理窟はなかつた。靜自身も否定する理窟を見出せなかつた。兩親は惡くない緣と思つたが、愛する靜がいやだと云ふのだからその緣談を斷つた。斷つたあと靜は何となく馬鹿なことをしたと思つた。もう少しさきの人を見てからことわつてもよかつたと思つた。靜の斷つた原因は、さきの人がいやだつたからではない、一郞のことを思つてゐたからである。その緣を斷つたから一郞と一緖になれるとは夢さら思はないが、そこにわからぬあるものがあつて思慮もなく靜をして斷らしたのであつた。されば考へると何となく惜しいことをしたやうな氣がする。
それから三四ケ月たつて又緣談が靜の身におこつた。今度は前より父は進んでゐる。しかし靜は今度も理由なしに氣がすヽまない。父は色々とさきの人の身分のいヽこと、學問のあること、眞面目なことを說いた。靜は父の云ふことを皆な信じて、父のゆけと勸めるのを至當のことヽ思つた。しかし何となくゆきたくない、いやだとも斷言をしなかつたが、靜のそぶりは明らかにゆくことを欲しないと云ふことを示した。それに幸に母が占に見てもらつた所が、年まわりがわるいと云はれたので、母も進まない。遂に母の靜があんなにいやがりますからと云ふので、父も不承々々に承知してその緣談を斷つた。斷つて見ると靜にはなんとなく惜しいことをしたやうに思はれる。さうして一郞のことをそんなにまで考へてゐることが、いかにも愚かに考へられてきた。話したこともなく名も知らず性質も知らぬ男の人を、なぜこんなにまで自分は思つてゐるのだらう。その内に自分も年をとる、あの方も結婚なさる………と考へられてくる。靜は自分を馬鹿だと思はざるを得ない。
その年の九月、一郞は法科の一回生になつた。
二人の心はます〳〵あせる。一郞は靜がもう誰かの妻となるべき年になつてゐると思つてゐる。しかし心に思うことを云ひ出す氣にはなれない。二人は前よりもしげく例の通に行くが、二人は今や意識に支配されて例の通に行くのであるから、調が狂つて一郞が失望して門へ入る時、靜がいら〳〵して門を出る時であつたり、靜が泣きたい思をして己が室に入つた時、一郞が靜を見んとて下駄をはく時であつたりして、二人は鶍の嘴のくいちがうやうに、くいちがうことが度々あつた。愛してゐないのだ、愛してゐらつしやらないのだと二人は時々嘆息する。
三
一郞には靜が自分を愛してゐないとも思へるが、全然愛してゐないとは益々思へなくなる。あのまなざしは必ず自分を愛してゐるに違いないと時々は思ふのである。愛してゐるならば一緖になりたいと云ふことを自分から云ひ出さなければならないと思ふ。さうして云ひ出さないのはたヾ人から笑はれるのがいやだからである。あの女が自分を嫌つてゐるならば云ひ出しても斷られるだけであの女に迷惑をかけるわけはない。それを云ひ出されないのは自分が世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人を恐れるからである。自分を知らぬ世の人に笑はれるのを恐れてあの女と自分の幸福を捨てるのは愚かなことであると思ふ。時にはあの女の方から一緖になりたいと云つて吳れるといヽがと一郞は思ふこともある。しかしそれは望めぬことで、望めた時は一郞の理窟がその女の厚顏なのを罵倒する時である。そのことを一郞も知つてゐる。一郞は無風流な男であるが、靜のことを思ふ時新體詩風のものを作ることがある。ある日一郞は偶然に靜に逢つた、その後ろ姿を見送つて自分に夫婦になりたいと云ひ出す勇氣のないことを責めつヽ、我家に歸つて日記に次ぎのことを書いた。
汝が後ろ姿、あはれ。
我罪人よ。
我罪人よ、許してよ
我が心知らば
我と共に泣きて
汝は許さん、いとしの汝よ。
しかしかく思ふかと思ふと、又一郞は自分をもて、到底彼女の夫たる資格なきものと思ひ、自分をそれ程までに愛するわけはないと思ふ。さうすると今迄、自分があの女と一緖になることが、あの女を救ふことのやうに思つてゐたのが我ながらおかしくなる。そんなに自分を愛するわけはないと常に終りには一人ぎめにきめて、淋しき笑ひを見せる。
ある日のこと、一郞は今迄にない程淋しく悲しく感じ、机にもたれてと息をついた。その内に目が潤つてくる、淚がとめどもなく流れる、戀しなつかしの情が高まる。今迄にもわけわからずに、よく淋しくなり、一人で泣いたことがあるが、この時程ひどく感じたことはない。一郞は何故か少しも知らない、暫くして淚がとまつた。一郞は人に知らさぬやうに水で顏をふいて例の所に行つて見たが、靜の姿は見えない。常になく自棄になつて我が室に歸つて机に向つてどかつと坐ると、又耐えられなく悲しくなる。氣をまぎらさうと散歩したが、どうも淋しくて仕方がない。耐えに耐えたが、やヽともすると淚ぐむ。さうして靜のことが頭に浮んで追へども去らない。一郞も我れながら愛相がつきた。この時は靜が父と母の勸めに從つて、進まぬ氣と、我儘をすてヽ親を喜ばす爲に身を犧牲にする覺悟を以て、ある人と夫婦になることを承知した時である。夫となる人は靜自身の目より見るも自分にはよすぎる人と思はざるを得ない。無論意識にのぼる所だけでさう信ずるのである。
その後暫くは二人の悶えの時であつた。靜には幾分か理由があると思へたが、一郞は何故か知らなかつた。
或朝一郞は何心なく新聞を見ると我胸を射るものがある。戀しと思ふ人の顏が見知らぬ男の顏とならんでゐる。
一郞は矢張りあの女は自分を愛してゐなかつたのかと數日後悶えの薄らぐと共に思つた。さうして淋しい微笑を見せた。日記をとつて
彼女嫁す、我が知らざる人に、
幸あれよ彼女に!
さはれ。
むつまじくあれ、彼女夫婦、
さはれ。
我祝す、
さはれ〳〵。
と書くと共に、深き淋しさを感じ、又泣き伏した。
その時は靜が、夫に淋しき心を秘して微笑んで見せた時であつた。
四
その後、數年して一郞も妻をもつ身となつた。一郞の妻は十人の見る所、靜よりも美しく氣高き女であつた。
今は靜も一郞も、自分の家庭を以て幸福な家庭と思つてゐる。さうだ意識し得る範圍内に於て二人の家庭は共に幸福なる家庭である。靜の夫は靜の信じた通りよき夫であつた。一郞の妻もよき妻である。
靜は一郞のことを殆んど忘れた。一郞は靜のことを殆んど覺えてゐない。しかし不意に二人は思ひだすことがある、その時二人は若き血に從はなかつたことを常に感謝する。もう暫くたてば二人はお互に思ひ出さなくなるだらう、さうして見ぬ昔に歸るであらう。されど二人の意識にのぼらぬ或者は、依然として共鳴するものヽやうに共鳴するだらう。
二人は今なほ時々淋しさを感ずるのである。何故か知らぬが何者かに憧るヽことがある。さうして一郞の不意に愉快になる時、靜の不意に愉快になる時であり。靜の不意に悲しくなる時、一郞の悲しくなる時である。二人の心の調べは、依然として調和されてゐる。
靜は夫を愛し、一郞は妻を愛してゐる。しかし二人の夫婦の間は、意識なしには感情の調和は望めない。二人の夫婦は意識上の夫婦である。意識にのぼることにて夫婦間になくてはならぬことは皆滿されてゐる。幸に二人は意識し得ないものヽ存在を認めないから今の自分を以て滿足してゐる。
されど、今も二人の感じて知り能はざる或ものは孤獨に泣いてゐる、さうして互に戀ひ慕つてゐる。 (四十年一月)
無知萬歲
十八歲許りの若者は机に向つてペンを持つて紙に何か書いて居る、大きな机の上にランプが乘つて居る。
若者の後ろに甲乙の二人の黑い裝束の人が居る、乙は女だ、二人共年は未詳。
若者の机の上に目覺し時計が置いてある、一時の處を指して居る。
甲、幸福を夢みて居る。
甲、『二人に幸あれ』とは夫婦になる時を指すのでしよう。しかし夫婦になるのが果して二人の幸福かどうかは靑年にはわかる譯はありません。
乙、『自分は不幸でもいヽ、彼女と結婚したい』と書きました。
甲、さうでしよう、然し不幸が來た時靑年は結婚した事を祝するでしやうか。
乙、その時になつて見なければ分らないでしよう。
甲、この靑年は分るつもりで居ます。
乙、『もし結婚することが出來なかつたらたまらない』と書きました。
甲、たまらなくつても仕方がないと云ふ事は知つて居るでしよう。
乙、知つて居ても書きたくないのでしよう。
甲、靑年は今希望に燃えて居ます、早く未來の來ることを望んで居ます。
乙、二人が夫婦になつた時の事を考へて居るのでしよう。
甲、今はなれると信じて居るやうです。
乙、さう信じて居る者は幸ですね。
甲、この男は今の戀が破れるともう一生戀人が得られないと思つて居ます。
乙、貴君(あなた)は第二の戀をする時があるのですよと今云つたら何と云ふでしよう。
甲、怒(おこ)るでしよう、淋しがるでしよう、不快に思ふでしよう。
乙、きつと夢中で打ち消すでしよう、さうして不幸の運命を自分が持つて居る樣に感ずるでしよう。
甲、その第二の戀も破れて第三の戀をする時があると云つたらどうでしよう。
乙、知らぬが佛です。
甲、一寸先は闇を喜んでいヽ譯です。
乙、その第三の戀も破れて
甲、三十歲の時、今彼が最嫌つて居る世間普通の結婚をするのだと云つたら自殺する程まいるでしよう。
甲、さうして一年目に一人の男の兒をあげること
乙、さうしてそれが二月目に死ぬこと
甲、その翌年に又男の兒を產むこと
乙、さうしてその翌年に夫婦別れをすること
甲、さうしてその翌年に美しい自分より十歲若い妻君をもつこと
乙、その細君が一年目に產で死ぬこと
甲、それから一年目に初めて藝者買をしてそれを妾におくこと、それに一人の男の兒が產れるので翌年は本妻に直(なほ)すこと
乙、その女が亂(みだ)らで役者買をすること
乙、憎くもあり、美しくもありて細君に就いて悶えること
甲、それから益々道樂をし出すこと
乙、そうして五十二歲で五人の親としてこの世を去ること
甲、その五人の兒の内二人の女の兒は自分の子でないこと
乙、さうして總領が道樂息子になること
甲、二番目のは病身なこと
乙、三番目の子は彼の死ぬ時五歲のこと
甲、長女は十四
乙、次女は七つ
甲、一家は總て亂らな細君の勝手になり
甲、さうして三十四五まで文士として相當の位置を占めて居たがやがて人から顧みられなくなり、四十位には老ぼれ扱ひをされること
乙、などを知らないので呑氣なことを書いて居ます。
『自分は餘りに幸福な人間である自分の如きものを愛する女はない樣に思ふが彼女は確かに愛して居る、恐らく彼女と自分は夫婦になれるであらう。
世の中に自分程幸福なものがあろうか末恐ろしい氣がする』
と書いて居ます。
甲、末恐ろしいは唯筆先で書いたのでしよう。
乙、世の中に自分程不幸な人があるだろうかと書く時のあることは夢にも知らないでしよう。
甲、知らないことをこの靑年の爲めに祝しましよう。
甲乙、無知萬歲!
若者ペンを置きて立ち上がり、
若者、神樣どうか我等二人に幸を與へて下さい、二人を夫婦にして下さい。
甲乙互に見かわす。(完) (四十二年九月)
生れなかつたら?
『自分がもし生れなかつたら?』
かう中田豊男が考へたら頭がむしやくしやしてきた。豊男は自分の生れてきたことは偶然のことを萬を萬乘した程經驗してきたことヽ考へてゐる、豊男には自分の生れたことが奇蹟のやうに思はれるのである。しかし生れなかつた自分を想像することは豊男には出來ないのである、生れぬ前は自分ではない。いや母の腹に宿らぬ前は自分ではない、自分と云ふものはなかつたのだ。これは豊男には當然なことヽ思へるが、どうもさう考へると一種いやな、なさけない感じがする。自分と云ふものヽ存在が必然であつてほしいのだ、自分なる個性は運命によつて明治十八年五月十二日何時何分にこの世の光を見るべく定められてゐてほしいのだ。さうでなければ自分の個性は無意味な、ふとしたはづみに生じたものと思はなければならない。思はなければならないことを知つてゐるが豊男には之が嬉しくなかつた。
自分の母が父の處へ嫁したのも豊男には偶然に思へる。第一母や父が生れたのも偶然なことを萬を萬乘した程かさねてきたものだ。父方の祖父祖母、母方の祖父祖母の生れたことも偶然のことを萬を萬乘して來たのだ。又之等の人の夫婦になつたのも偶然なことだ。
豊男は不快ながら父の中にゐた幾億の精虫の内にこの世に生を得たものは一つきりない、その一つが自分の半身だと思はないではゐられなかつた。父母の方にも同じやうなことが云へると思つてゐる。
『自分がもし生れなかつたら自分はこの世にゐない』
豊男はこんな答を與へて見たがます〳〵頭がむしやくしやした。
『生れない許りではない、自分は宇宙に存在しなかつたのだ。さうして他の人が生れたかも知れない、その方がありさうなことだ』
かう豊男は答を與へたが、どうも自分の求めてゐる答とは非常にかけはなれた答としか思はれなかつた。豊男はます〳〵じれて來た。
『第一そんなことを考へるのが馬鹿氣てゐるのだ。自分は生まれたのではないか』
豊男はかう思ひかへして見たがどうももの足りない。
『餘り偶然すぎる』
かう豊男は獨言したが、なんにもならない。
『人類には意義があるかも知れない、しかし個性には意義はない。生れたつて生れなくつたつて大した差はない。死なうが生きやうが大した差はない。自分が他人だつて大した差はない、自分が生れないで永遠にこの世に生れさうもない他のものが生れたとて親は我が兒と愛するであらう。さうしてその兒は自分の生まぬ子を生み、自分の存在したために生れる自分の子孫の變りに永遠に生れることなき子孫が——個性がこの世に生れるだらう』
豊男はこんなことを考へて益々頭を亂した。
とくことの出來ない謎をかけられた者のやうに、こんがらかつた糸を解かうとしてとけない人のやうに、豊男はやけくそを起して
『勝手にしやがれ!』と心に叫んだ。
『地球が出來なければ自分は生れなかつたのだ』豊男はもうじつとしてゐられなくなつた。不快でたまらない、室を步きまわつた。
『生れなかつたらこんなことは考へなかつたらう、步きもしないだらう。飯も食はないだらう。呼吸もしないだらう、學校にもゆかなかつたらう。彼女も戀しなかつたらう。苦しみも悲しみも喜びも樂みもなかつたらう。何にもなかつたらう。しかし地球の上は今と同じやうだらう。さうして恐らく彼女は生れてゐたらう。さうして外の男と戀しあつたらう』
豊男はどうも考へるべからざることを考へてゐるやうな氣がした。さうしてとくべからざる謎を解かうとする自分の僭越な罪の罸を受けてゐる氣がした。
それで不意に氣をまぎらさうと帽子をかぶつて往來に出た。自分と同じやうに偶然なことを萬を萬乘したほど經驗して生れて來た人に往來で澤山あつた。老人や子供、男や女、美しい人や醜い人。立派な風をした人や粗末な風した人。皆自分の生れて來たことを當然なことだと云ふ顏して步いてゐる。
豊男はそれを見て同類が多いと思つた。さうして少しは氣がおちついた。しかしまたヾめだ、友の處へ行つたら不在だつた、それで戀人の處へ行つた。
戀人は自家に居た、豊男の顏を見ると笑つた、豊男も笑つた。この時とけなかつた謎は何處かへ行つてしまつた。豊男は二時間計り我を忘れて戀人と雜談した。
さうして歸り路に『もし自分が生れなかつたら』と考へて見たが、そんなことはどうでもいヽやうに思はれた。さうしてそんなことを氣にしてゐた自分がお可笑しく思へた。
『生れたから生れたのではないか。生れなかつたら生れないのではないか。そんなことを考へる手間にどうすれば幸福にくらせるかを考へた方がいヽ』かう豊男は心で叫んで微笑んだ。さうして戀人とつくる未來の家庭を夢みて家路を急いだ。
(四十二年十月)
亡友
甲、『あいつ』は自分を天才だと思つてゐた。
乙、『あいつ』は八十迄生きる心算でゐた。
丙、『あいつ』は戀人と家庭をつくることを考へてゐた。
丁、『あいつ』は自分を以て一番幸福な人間だと思つてゐた。
甲、『あいつ』は死ぬまぎわまで自分の未來のことを考へてゐたさうだ。
戊、しかしほんとは死ぬと思つてゐたらしい。
甲、どうだか、
戊、いや思つてゐた。自分が鎌倉に見舞つた時、『あいつ』は例の淋しい笑を見せてかう云つた。さすがの僕もこの頃はよく死ぬやうな氣がする、まだ仕事をしない自分をまさか死なしはしまいと思はうとするが、それは何にも益にたヽない。有爲な人が若い内にいくらでも死んでゐる。しかし死ぬ瞬間まで自分は必ず死ぬとは思はないだらう、しかし必ず死なヽいと思つたことはこの病氣になつた以來一度もないと云つた。
丁、それはさうだらう
戊、それで僕はさう云へば僕でもさうだと云つた、さうしたら彼は冷笑するやうに、さうかも知れない、しかし程度がちがう、丈夫な人は死と云ふ問題に痛切にふれることは出來ないやうに出來てゐる、死ぬとか死なヽいとか云ふ問題がさう長く頭を支配することは出來ない、と云つた。
乙、うん
戊、僕はかう云はれた時、あいつを思はず見た、骨と皮になつてゐる、自分もこれは死ぬなと思つた。おそかれ早かれ死ぬなと思つた。
甲、僕逹だつておそかれ早かれ死ぬだらう、
戊、がやすのはよしてくれ玉へ。程度がちがう。自分は仕方がないから話をかへた、さうして今君の望は何だと何に氣なく聞いて見た。
甲、うん。
戊、あいつは又淋しく笑つた。さうして何だと思ふと反對に僕に聞いた。仕事かと聞いた、首を橫にふつた。何だと僕は又聞いた。
乙、うん、
戊、例の人に介抱(かいほ)してもらうことだ、と彼は笑つた、
乙、うん、
戊、それはおれの力にあはないから困ると僕は云つた。さうしたら、君の力にあつても御斷りすると『あいつ』は云つた。『なぜ』と自分はつよくきヽ返した。『肺病だぜ』とあいつは云つた。戀人にかいほしてもらえば接吻もしたくなるからねと彼は笑つた。
戊、悲慘と思ふより僕は悲壯に感じた。あいつは言葉の調子をかへて、自分は例の人の自分を愛してゐてくれたかも知らずにこの世をさるのがなんだか淋しい、しかし今となると、まだ自分の戀の成就しなかつたことが例の人にとつて幸ひだつた。しかし自分には不幸だつた。自分は眞の人生の快樂を知らずに死ぬのだからね、とあいつは云つた。
乙、うん。
戊、死なヽいかも知れないじやないか、僕はかう云つた。あいつは冷笑した。有難たう、しかし僕はそれ程目出たくはない。自分で自分のことを樂天家だとも云つた。目出たい人間だとも云つた。しかし自分は君が僕の死ぬことを信じてゐることを知つてゐる。僕は君に僕と云ふものを思ひ出させる爲にしやべりたいだけしやべらうと思つてゐるのだ、實は自分で自分の死ぬことを迷信してゐる、さうあさはかな同情は今されたくない、僕は之でも自分で勇士だと思つてゐるのだ。
乙、うん、
戊、餘り激するといけないだらうと僕は云つた、すると激さヽないやうにする好意があるなら、すなほに僕の云ふことを聞いてくれ玉へと云つた。さうして『あいつ』は色々のことを云つた。その内にこんなことも云つた。
自分の一番の望みは自分の初戀の女の人と例の人に時々見舞はれることだ。もし何んなら初戀の女の人は夫と一緖に來てくれてもいヽ、例の人は母と一緖に來てくれてもいヽ。自己の名と身体をきづヽけないやうにして自分を時々見舞つてほしいのだ。自分は决して戀人に云ふやうなことは云はないだらう。たヾ無邪気な話がしたいのだ、死と云ふものを忘れて喜びに醉ひたいのだ。君とかうやつて話してゐると氣持がいヽ、時々は夢中になるしかし淋しい、それに理窟ぽくなつていけない、死と云ふものを感じてゐけない、夢中になつて華かに醉ひたいのだ、しかしそれは例の空想だね、出來ないことだ、しかし自分は樂天家だから初戀の人や、例の人が自分の死にかヽつてゐることを聞いて見舞つてくれることはあり得ないことではないやうな氣がしてゐる、と云つて淋しく笑つた。二人に手紙を出したらどうだと僕は云つた。出來ないね、とらはれてゐるのかも知れないが出來ない。それに手紙を出しても來るわけにはゆくまい。たヾ來てくれはしないかと思つてゐるのだ。これが中々の慰藉になるのだ、ハンネレのやうに死ぬ時には二人の夢を見て死ぬかも知れない。とあいつは笑つた。
甲、二人は彼の死ぬまでに彼の處に來たかい。
戊、來るはづがあるものか。
丁、二人の夢を見て死んだらうか。
乙、そんなことがわかるものか。
戊、しかし餘程樂な死だつたさうだ。
甲、煩悶もしたらう。
乙、隨分生命に執着してゐた方だからね。
乙、しかし死んでしまえば同じことだね。
戊、同じだらうか。
甲、同じぢやないか。
戊、………さうだね。(完) (四十二年十一月)
空想
妹、お兄さん、今度お出しになつた繪の評が今日の新聞に出てゐましたわね。
兄、(一寸驚き)出てゐた。お淸さんはあれを讀んでどう思つて。
妹、妾、嬉しゆう御坐いましたわ。
兄、なぜ、あんなに惡口云つてある評を見て嬉しかつたの。
妹、だつてお兄さんの繪が高尙過ぎてわからないのであんなことを云ふのでしよ、妾あの評を讀んでお兄さんはほんとに豪い方なのだらうと思つてよ。
妹、なぜ?
兄、だつてあヽ見えると云ふことはアヽトが下手だからだと思つたので。
妹、だつてお兄さんがあれを出品なさる時、世間の奴、この繪を見てきつと惡口云ふだらう。この繪の價値はわからないだらうからな!、とおしやつたでしよ。
兄、そりや、云つたさ、しかしまるで豫期してゐない所に敵が出たのだからね、僕のあれを出して攻擊されると思つたのはあの點ではなかつた。物好きだ、新らしがつてゐる輕薄だ、才でやつてのけてゐる。そんな攻擊はされる心算はなかつたのだ。僕は寧ろ不器用だ、筆の使ひ方を知らない、色が不快だ、餘りにむきになりすぎてゐる。藝術品じやない。と云ふ攻擊を待ちもうけてゐたのだ、攻擊が前から來てくれたなら自分は得意になつたらう。しかし攻擊は後ろから來たのだ、豫期しない所から來たのだ、批評してゐる人が可なり名のある、公平な人だけに何んだか不安なのだ。ほんとにさう見えるならば自分の精神の力と云ふもの、自分の人格と云ふものが疑はれてくるのだ。
妹、そんなことはありません。あの繪に感心した人があるじやありませんか。
兄、感心してくれたのは親友と素人だ、ひいき目で見る人と、繪のことがわからない人だ。
妹、しかし素人の方が反つてわかるものだとお兄さんは何時かおしやつたではありませんか、反つてとらわれてゐないからつて、
兄、しかし素人はこけおどしにおどされることがあるからね。
妹、あの畵にこけおどしがあつて、
兄、どつか變つた所がこけおどしになつたのだらう。
妹、そんなことはありませんわ、妾、あの批評を書いた人を何時かお兄さんがほめておゐでヾしたから有望な方と思つてゐましたが、あの批評を見て矢張り、普通の方と思ひましたわ、
兄、どうして、
妹、それだつて、あの畵の精神がわからないのですもの。底の力と、表面だけの力の見わけの出來ない人なのですもの、あの繪に何處に輕薄な所があるでしやう。
兄、それはおれだつてないと思ふ。その畵のどの一ハケも僕は全心で書いた。全身の力を筆さきにあつめて書いた。しかしおれの全身の力は存外弱いものかも知れない。
妹、そんなことはありませんわ、それに物好きだとか、新らしいがつてゐるとか云つてゐるのを見ると、おかしくなりますわ、物好きな所が何處にありましやう、新らしがつてゐる所が何處にありましやう。
兄、そりや畵いた時そんな氣は少しもなかつた、他人とかわつた所があると云ふことは知つてゐた、しかし古い新らしいと云ふことは眼中になかつた、自分は自分の個性に最も忠實なものを畵題にとつた、それをかくことに全身の力をそヽぐことの出來る畵題を撰んだ、畵題の古い新らしいは自分の問う所ではなかつた、しかし他人にさう思はれるのは、自分の全身の力が弱いからじやないか知らん。
妹、うそよ、そんなことはありませんわ、批評書いた人のさもしひ心からそんな想像をしたのですよ、妾、中でも『古い畵題をとつて新らしいものと思つて得意になつてゐる作者のお目出たいのが浦山しかつた』と書いてある所を見た時に、妾、書いた人を輕蔑しましたわ。
兄、しかし僕はあれを畵いた時にはそんな氣はなかつた、たヾ夢中でかいたが、出品する時には新しい所があるのを得意にしてゐたのだ。
妹、しかしそれは畵題じやないのでしよ、個性の顯はし方のアヽトにでしよ。よくお兄さんがおしやつてゐらしやるやうに。其處に氣がつかないのですもの、お目出たいわ、
兄、お淸さん見たやうに云へば何でもないが、僕はもう少し批評してゐる人を信じてゐるのだ。それ以上に自分の人格の力を疑つてゐるのだ。
妹、なぜ。
兄、だつて、自分の人格の力があの畵には露骨に注ぎこまれてゐる、注ぎ込み方の批難ならいヽが、その自分の人格の力が露骨に出てゐる作品が、輕薄に見えると云ふのはなさけないじやないか。
妹、先入主があつてきつと感じられなかつたのですよ。
兄、それ程自分はあの批評家をにぶい人とは思へないのだ。
妹、思ひちがいもありますわ、しかしあの批評家は偉い人じやなくつてね、きつと、少くも外面きりわからない人ね。
兄、もしさうならいヽけど。
妹、さうですよ〳〵、お兄さんの作に特色があるのを借り物からくる光だと思つてゐるなんて偉くない證據よ。根本のわかる人じやないのよ、あんな人の批評で自分を疑ふなんてお兄さんに似合ないわ。
兄、しかし僕と利害關係の全くない畵のわかる人が三四人も同じやうな攻擊をするのだもの、さう見えるのがほんとうの氣がしてくる、自分の批判は自惚から來るものと思へてくる。
妹、そんなに色々の人が、今日の新聞のやうな批評してゐるの、なほ面白くつてね、しつかりおしなさいよ、なぜお兄さんはその批評をお見せにならなかつたの。
兄、お淸さんの信用をおとすのがいやだつたから。(笑顏する)
妹、まあ、そんな批評で信用をおとすと思つてゐらつしやるの、又妾をだましてまで妾に信用されたいの。
兄、弱いからね。
妹、ほんとに弱いのね。
兄、しかしほんとは强いのだよ、僕もお淸さんと同じやうに僕の畵を惡口した人を輕蔑してゐるのだよ、しかし自惚からかとそれが心配なのさ。
妹、そんなことはなくつてよ、何人惡口云つたつて妾はお兄さんは最後の勝利を得ると思つてゐてよ。
兄、どうしてさう信じられるのだらう。
妹、妾にもわかりませんわ、しかしきつとさうよ、時がたつとわかるわ、だから今惡口云はれた方が氣持がいヽわ。
兄、僕もさうも思ふのだ、惡口を云はれない時は自分の作が平凡なのだと心細くなることさえある。
妹、どうしてさう他人の批評が怖いの。
兄、僕には僕をはなれて公平に僕をみることが出來ないと思ふから、それに他人相手の仕事だからね。
妹、さうね、しかし眞價はいつかわかるわ。
兄、その眞價が時々心配なのさ。
妹、眞價通りにとられヽばいヽじやありませんか。
兄、さうだね、ほんとにさうだね、しかし眞價を自分は買ひかぶつてゐるからね。
妹、買ひかぶつてゐるのかどうかはわかりませんわ、妾、お兄さんは自身をもつと買ひかぶつていヽと思ひますわ。
兄、お淸さん有難たう、お淸さんがゐるのでどれだけ氣丈夫か知れない。もしお淸さんがゐなかつたら、どんなにさびしいだらう。僕が僕を信じられなくなつた時お淸さんがゐなかつたらどんなに淋しいだらう。僕になにか後(のち)にのこるやうなものが描けたら、それはお淸さんの御陰げだ。
妹、そんなことはないわ。
兄、いヽえ、ほんとうにさうです。
妹、さう思つて下されば有難いわ、妾嬉しくつてよ。
兄、僕はきつと自分の道をわき目もふらずに進んで見ますよ。僕にも成算の希望があるのですから、それに向つて。
妹、いらしやい〳〵、ほんとにいらしやい、妾、お兄さんのやうな人の妹に生れたのが嬉しくつてよ。
兄、(淚ぐむ)餘り嬉しいので淚が出ました。
兄、貴女がゐなかつたらどんなに淋しいでしやう
* * * * *
彼はかう書いて來て元氣にはなつたが淚ぐんだ。彼にはかう云ふ妹も戀人もないのである。(完) (四十三年十月)