(七)
社しやの階子段はしごだんは社員しやゐんの多年たねんの足あしの力ちからで凹くぼんで、砂埃ほこりがその中なかに溜たまつてゐる。健次けんじはそれを一つ〳〵踏ふみ上のぼる每ごとに、夕暮ゆうぐれの果はてのない旅路たびぢを辿たどるごとく感かんずるのだが、たまたま編輯へんしふの相談會さうだんくわいだとか、自分じぶんの月給げつきうの前借ぜんしやくの談判だんぱんだとか、多少たせうでも波瀾はらんがあると、少すこしは活氣くわつきがついて二階かいへ駈かけ上のぼる。今日けふは織田おだの原稿げんかうを賣付うりつける役目やくめを帶おびてゐるので、編輯長へんしふちやうの年中ねんぢう變かはらぬ顏かほを見みるにも張合はりあひがあつたが、さて說とき付つけて見みると、彼かれは頑ぐわんとして聞きかぬ。さう幾月いくつきも續つゞいて同おなじ人ひとの飜譯ほんやくは出だせぬといふ。大威張おほゐばりで受合うけあつたものを拒絕きよぜつされては顏かほが立たたぬと思おもつたが、强請がうせいする譯わけにも行ゆかず、少すこし萎しをれて社しやを出でた。
彼かれは何時いつものやうにガツカリして電車でんしやに乗のつたが、織田おだの方はうも棄すて置おけぬので廻まはり道みちをして麹町かうぢまちのその家うちを訪たづねた。家族かぞくに會あつては面倒めんだうだから、勝手口かつてぐちから便所べんじよの側そばを通とほつて座敷ざしきの緣側えんがはへ出でると、織田おだは既すでに夕闇ゆふやみの迫せまつてるのにランプも點火つけず、障子しやうじを開あけて机つくゑに向むかひ何なにやら書かいてゐた。
「おい君きみ、原稿げんかうは駄目だめだぜ」と突如だしぬけに云いふと、織田おだは頭あたまを持上もちあげて「やあ」と云いつたきり、ぢろ〳〵健次けんじの顏かほを見みて、「駄目だめかい、何故なぜだ、困こまるねえ」と、むく〳〵と身みを起おこして、緣側えんがはへ出でた。
「まあ心配しんぱいし玉たまふな、おれがどうかする、まだ十や二十の金かねにや不自由ふじゆうしないよ」
「當あてにしてたのに困こまるねえ」
「今いまに僕ぼくがどうかしてやらう、これから何處どこかへ出掛でかけないか」
「僕ぼくは出でられりやしない、留守番るすばんがないから」
「病人びやうにんはどうだ」と、健次けんじは今いま思おもひ出だしたやうに小聲こごゑで聞きく。
「別べつに變かはりはない、まあ上あがり玉たまへ、今いま君きみのシスターが見舞みまひに來きて吳くれて、僕ぼくの妹いもとと何處どこかへ出でて行いつた」
「さうか、彼女あいつも此頃このごろは浮うかれ步あるいてやがる」
織田おだはランプを點火つけて、薄うすい座布團ざぶとんを出だした、健次けんじは靴くつを穿はいたまゝ緣側えんがはから寢ねそべつて、室内しつないを見みまはした。狹せまくはあり裝飾そうしよくもないが、彼かれの家うちほど見みつともなくはない。床とこの隅すみには新聞しんぶんや原稿紙げんかうしの側そばに、ナポレオンの小ちひさい石膏せつかうが置おいてある。これは織田おだが學校がくかう時代じだいに五圓ゑんで買かつたものだ。
「君きみの家いへも陰氣いんきだね」
「うゝん」と氣きのない返事へんじをして、織田おだは書かいてしまつた原稿げんかうの枚數まいすうを數かぞへてゐたが、襖ふすま一重ひとへの隣室りんしつにはコホン〳〵喘せきをして、それから呟つぶやく聲こゑがする。
健次けんじは厭いやな顏かほをして起直おきなほつて、小ちひさい聲こゑで、「僕ぼくはもう歸かへらう、妻君さいくんにも會あはないから、よろしく云いつて吳くれ玉たまへ」と石段いしだんに立たつと、
「まあ待まつて吳くれ玉たまへ、君きみに話はなしがある」
「だつて、此處こゝで話はなしなんかしちや惡わるいんぢやないか」
「何なに、構かまやしないが、君きみが遠慮えんりよするなら、一寸ちよつと其その邊へんを散步さんぽしながら話はなさう」
と、織田おだは帽子ぼうしも被かぶらずに小ちひさい庭下駄にはげたを引掛ひつかけて外そとへ出でて、直すぐ近ちかくの九段だん坂さかの方はうへ向むかつた。
「桂田かつらださんがね」と、織田おだは兩手りやうてを壞内ふところに入いれて、健次けんじを下目しために見みて、「君きみ何なんだよ、あの人ひとが僕ぼくに同情どうじやうして、遠とほからず僕ぼくにいゝ職しよくを周旋しうせんしてやると云いつてたよ」
「さうかい、ぢや僕ぼくも君きみの原稿げんかうに苦勞くらうしなくともよくなるね、で、僕ぼくに話はなしといつて何なんだい、金かねなら明日あすまでに必かならず拵こしらえてやる」
「それも是非ぜひ賴たのんどくが、實じつは妹いもとの事ことで話はなしたいと思おもつて」
「何なんだ妹いもとのことだつて、シスターを誰たれかに遣やるんか」
「まあそんな者ものだ、でね、一言げんで云いふと、あれを君きみが貰もらつて吳くれんか」
と、織田おだは事こともなげに云いつて、無論むろん健次けんじも左程さほど反對はんたいもすまいと思おもつてゐる。
「昨夜ゆうべ君きみの注意ちういで少すこし氣きがゝりになつたから、歸かへつて妻ワイフに聞きくと、妻ワイフが、そりや屹度きつと菅沼すがぬまさんだらう、あの方かたなら丁度てうど相當さうたうだから、早はやく定きめてしまうがいゝつて云いふんだ、僕ぼくも同意どういだから一つ君きみ承知しやうちして吳くれないか」
「そりや妻君さいくんの見當けんたう違ちがひだぜ、多分たぶん何なんだらう、シスターが邪魔じやま臭くさいから、早はやく追片付おつかたづけたいんだらう」
「いや、そればかりぢやない、僕ぼくも早はやく定きめて妹いもとの身みに間違まちがひのないやうにしたいんだ、世間せけんに惡わるい噂うはさでも立たつと困こまるからね、あれについちや、僕ぼくも責任せきにんを感かんじてるんだからね」
「ぢや僕ぼくをシスターの防腐劑ばうふざいとするんだな」と、面白おもしろさうに笑わらつたが、織田おだは飽あくまで眞面目まじめで、
「打明うちあけて云いへば、さうして貰もらうと僕ぼくも大おほいに助たすかるんだ、今いまぢや實際じつさい弱よわつてる、彼奴あいつにや金かねがかゝつてねえ」と、平生いつもの癖くせで粘ねばり强つよく一つ事ことを繰返くりかへし出だすので、健次けんじは弱よわつたが、頭あたまから反對はんたいも出來できず、
「僕ぼくよりか箕浦みのうらにやり玉たまへな、君きみはあの男をとこを嫌きらつてるが、情合じやうあひもあるし人間にんげんがゼントルだからいゝぢやないか」
「いや箕浦みのうらにや困こまるよ、あゝいつた詩人肌しゞんはだの男をとこは僕ぼくは蟲むしが好すかん、花はなの散ちるのを蝶蝶てふてふだと思おもつたり、木この葉はが落おちるのを見みて、萬物ばんぶつ凋落てうらくの秋あきが來きたといつて淚なんだを流ながす奴やつには信用しんようして妹いもとを托たくするに足たらんと思おもふ」
「そりや尤もつともだ、君きみは箕浦みのうらを評ひやうする時ときには妙みやうに名言めいげんを吐はく、平生ふだんは平凡へいぼんな淚臭なみだくさい事ことばかり云いつてるのに、しかし君きみの妹いもとは箕浦みのうらには釣合つりあつた緣えんぢやないか」
「いかんよあの男をとこは…………それに箕浦みのうらぢや妹いもとは制馭せいぎよして行いけやしない」
「君きみにも手綱たづなは取とれんだらう」と、健次けんじは眠ねむりの足たらぬ目めをこすつた。身體からだは倦だるくて持もて餘あますやうである。
空そらは晴はれて、空氣くうきは肌はだに快こゝろよく、周圍しうゐは人出ひとでも多おほくて騷さわがしいが、二人ふたりは元氣げんきなく刻きざみ足あしに步あるいてゐた。
「やあ、今日けふもやつてるな」と、織田おだは向むかうを見みたので、健次けんじも目めを向むけると、坂さかの中途ちうとに一團だんの群衆ぐんじゆうの中なかから、演說えんぜつめいた聲こゑが聞きこえる。
「何なんだいありや、廣吿屋くわうこくやか」
「救世軍きうせいぐんだよ」
「さうか」と、健次けんじは別べつに氣きにも留とめなかつたが、自然しぜんに側そばへ近ちかづいたので、立留たちとまつて、人垣ひとがきの間あひだからのぞくと、木綿もめんの紋付もんつきを着きた二十前後ぜんごの靑年せいねん二人ふたりと、黑くろい袴はかまをつけた若わかい女をんなとが立たつてゐて、その一人にんが今いま演說えんぜつの最中さいちうである。左ひだりの手てを腰こしに當あて右みぎの手てを動うごかし、色いろの黑くろい角張かくばつた顏かほを少すこし仰向あふむけ、
「今いま私わたくしが申上まをしあげた通とほり貴下方あなたがたも罪つみの人ひとです、早はやく悔くい改あらためなければ誠まことの人間にんげんにはなれません、つまり罪惡ざいあくのある人ひとだから」
と、ゴツ〳〵した調子てうしで、甘味うまみも辛味からみもない言葉ことばを吃どもり〳〵叫さけんでゐるが、滿身まんしんに力ちからを籠こめてゐるため、顏かほは少すこし赤あかくなり、額ひたひには汗あせさへ浮うかんでゐる。
「あの男をとこは何を云いつてるんだらう、何なんの事ことやら分わかりやしない」と、健次けんじの側そばの老人らうじんが笑わらつて去さつた。
「馬鹿ばかツ」と何處どこからか聲こゑがする。
子供こどもが二三人にん前まへへ進すゝんで、口くちを開あけて不思議ふしぎさうに見みつめてゐるのみで、外ほかの者ものは皆みな冷笑れいせうしてゐる、通とほりがゝりに物好ものずきに足あしを留とめて、「何なんだ耶蘇やそか、喧嘩けんくわかと思おもつたのに」と、失望しつぼうして行ゆく者ものもある、誰たれも眞面目まじめに聞きく人ひともないのだが、かの靑年せいねんは聲こゑを張はり肩かたを怒いからせて
「皆樣みなさま懺悔ざんげなさい、神樣かみさまにお縋すがりなさい、日本國にほんこくの興廢こうはいは軍人ぐんじんや政治家せいぢかによつて决けつするのでありません、神樣かみさまの道みちを世間せけんに行おこなふか行おこなはぬかによつて定さだまるのであります」
と說とく。
健次けんじは甲こふ去さり乙をつ來きたる間あひだに、知しらず〴〵前まへに進すゝんで、その演說振えんぜつぶりを見みつめてゐたが、織田おだは後うしろから肩かたを叩たゝいて、「おい君きみ、行ゆかうぢやないか」と聲こゑをかける。
「まあ待まて、も少すこし聞きいて行ゆけ」
「何なにが面白おもしろいんだ、こんな者ものが」
と織田おだが云いつたが、健次けんじは何なにも答こたへず、目めを傳道者でんだうしやから離はなさない。そしてかの靑年せいねんは話はなしを續つゞけて今日けふの社會しやくわいの淫風いんぷうや飮酒いんしゆの害がいを堅苦かたくるしい拙つたない言葉ことばで述のべ立たてゝゐると、誰たれの惡戯あくぎか、小石こいしが彼かれの肩かたを掠かすめて健次けんじの前まへに落おちた、健次けんじは思おもはず後退あとずさりしたが、かの傳道者でんだうしやは微塵みぢんも動うごかず泰然たいぜんとして說せつを進すゝめる。
かくて凡およそ二十分ぷんもして、健次けんじは摺すり物ものを女をんなの手てから貰もらつて群衆ぐんじゆを分わけて出でた。
「君きみは何故なぜあれが面白おもしろい」と、織田おだは長ながく待またされたので恨うらめしさうな顏かほをする。
「面白おもしろいぢやないか。彼奴あいつは地球ちきうのどん底ぞこの眞理しんりを自分じぶんの口くちから傳つたへてると確信かくしんしてる。あの顏付かほつきを見給みたまへ。自分じぶんの力ちからで聽衆てうしうを皆みな神樣かみさまにして見みせる位くらゐの意氣込いきごみだ。人間にんげんはあゝならなくちや駄目だめだ」
「何なにも感心かんしんしない君きみが、何故なぜ今夜こんやに限かぎつてあんな下くだらない者ものに感心かんしんする?」
「さうさ、僕ぼくは救世軍きうせいぐんにでも入はいりたいな。心こゝろにも無ないことを書かいて、讀者どくしやの御機嫌ごきげんを取とる雜誌ざつし稼業かげふよりや、あの方ほうが面白おもしろいに違ちがひない、あの男をとこは欠伸あくびをしないで日ひを送おくつてるんだ、生いきてらあ」
「はゝゝ」と織田おだは大口おほぐち開あけて勢いきほひ無なく笑わらつて、「僕ぼくは靑年せいねんが淺薄せんぱくな說敎せつけうなんかして日ひを送おくるのが不憫ふびんになる」
「しかし淺薄せんぱくや深刻しんこくは本當ほんたうは問題もんだいぢやないんだね、打うたれやうが罵のゝしられやうが、自分じぶんのしてる事ことが何なんであらうと關かまうものか、もつと刺激しげきの强つよい空氣くうきを吸すはにや駄目だめだ」
と、健次けんじは歎息たんそくする如ごとく云いつたが、織田おだのぼんやり﹅﹅﹅﹅した顏かほを見上みあげると、急きふに「ぢや此處こゝで別わかれやう」と、早口はやくちに云いつて輕かるく會釋ゑしやくし九段だんの坂さかを下をりた。で、「まだ話はなしがあるんだ」と、織田おだが呼留よびとめた時ときは、もう人影ひとかげに隱かくれてゐた。