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何處へ

Chapter 10: (七)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

(七)

しや階子段はしごだん社員しやゐん多年たねんあしちからくぼんで、砂埃ほこりがそのなかたまつてゐる。健次けんじはそれを一つ〳〵のぼごとに、夕暮ゆうぐれてのない旅路たびぢ辿たどるごとくかんずるのだが、たまたま編輯へんしふ相談會さうだんくわいだとか、自分じぶん月給げつきう前借ぜんしやく談判だんぱんだとか、多少たせうでも波瀾はらんがあると、すこしは活氣くわつきがついて二かいのぼる。今日けふ織田おだ原稿げんかう賣付うりつける役目やくめびてゐるので、編輯長へんしふちやう年中ねんぢうかはらぬかほるにも張合はりあひがあつたが、さてけてると、れはぐわんとしてかぬ。さう幾月いくつきつゞいておなひと飜譯ほんやくせぬといふ。大威張おほゐばりで受合うけあつたものを拒絕きよぜつされてはかほたぬとおもつたが、强請がうせいするわけにもかず、すこしをれてしやた。

れは何時いつものやうにガツカリして電車でんしやつたが、織田おだはうけぬのでまはみちをして麹町かうぢまちのそのうちたづねた。家族かぞくつては面倒めんだうだから、勝手口かつてぐちから便所べんじよそばとほつて座敷ざしき緣側えんがはると、織田おだすで夕闇ゆふやみせまつてるのにランプも點火つけず、障子しやうじけてつくゑむかなにやらいてゐた。

「おいきみ原稿げんかう駄目だめだぜ」と突如だしぬけふと、織田おだあたま持上もちあげて「やあ」とつたきり、ぢろ〳〵健次けんじかほて、「駄目だめかい、何故なぜだ、こまるねえ」と、むく〳〵とおこして、緣側えんがはた。

「まあ心配しんぱいたまふな、おれがどうかする、まだ十や二十のかねにや不自由ふじゆうしないよ」

てにしてたのにこまるねえ」

いまぼくがどうかしてやらう、これから何處どこかへ出掛でかけないか」

ぼくられりやしない、留守番るすばんがないから」

病人びやうにんはどうだ」と、健次けんじいまおもしたやうに小聲こごゑく。

べつかはりはない、まああがたまへ、いまきみのシスターが見舞みまひにれて、ぼくいもと何處どこかへつた」

「さうか、彼女あいつ此頃このごろうかあるいてやがる」

織田おだはランプを點火つけて、うす座布團ざぶとんした、健次けんじくつ穿いたまゝ緣側えんがはからそべつて、室内しつないまはした。せまくはあり裝飾そうしよくもないが、れのうちほどつともなくはない。とこすみには新聞しんぶん原稿紙げんかうしそばに、ナポレオンのちひさい石膏せつかういてある。これは織田おだ學校がくかう時代じだいに五ゑんつたものだ。

きみいへ陰氣いんきだね」

「うゝん」とのない返事へんじをして、織田おだいてしまつた原稿げんかう枚數まいすうかぞへてゐたが、ふすま一重ひとへ隣室りんしつにはコホン〳〵せきをして、それからつぶやこゑがする。

健次けんじいやかほをして起直おきなほつて、ちひさいこゑで、「ぼくはもうかへらう、妻君さいくんにもはないから、よろしくつてたまへ」と石段いしだんつと、

「まあつてたまへ、きみはなしがある」

「だつて、此處こゝはなしなんかしちやわるいんぢやないか」

なにかまやしないが、きみ遠慮えんりよするなら、一寸ちよつとへん散步さんぽしながらはなさう」

と、織田おだ帽子ぼうしかぶらずにちひさい庭下駄にはげた引掛ひつかけてそとて、ちかくの九だんさかはうむかつた。

桂田かつらださんがね」と、織田おだ兩手りやうて壞内ふところれて、健次けんじ下目しためて、「きみなんだよ、あのひとぼく同情どうじやうして、とほからずぼくにいゝしよく周旋しうせんしてやるとつてたよ」

「さうかい、ぢやぼくきみ原稿げんかう苦勞くらうしなくともよくなるね、で、ぼくはなしといつてなんだい、かねなら明日あすまでにかならこしらえてやる」

「それも是非ぜひたのんどくが、じついもとことはなしたいとおもつて」

なんいもとのことだつて、シスターをれかにるんか」

「まあそんなものだ、でね、一げんふと、あれをきみらつてれんか」

と、織田おだこともなげにつて、無論むろん健次けんじ左程さほど反對はんたいもすまいとおもつてゐる。

ぼくにかい」と、健次けんじ冷笑れいせうした。

昨夜ゆうべきみ注意ちういすこがゝりになつたから、かへつてワイフくと、ワイフが、そりや屹度きつと菅沼すがぬまさんだらう、あのかたなら丁度てうど相當さうたうだから、はやめてしまうがいゝつてふんだ、ぼく同意どういだから一つきみ承知しやうちしてれないか」

「そりや妻君さいくん見當けんたうちがひだぜ、多分たぶんなんだらう、シスターが邪魔じやまくさいから、はや追片付おつかたづけたいんだらう」

「いや、そればかりぢやない、ぼくはやめていもと間違まちがひのないやうにしたいんだ、世間せけんわるうはさでもつとこまるからね、あれについちや、ぼく責任せきにんかんじてるんだからね」

「ぢやぼくをシスターの防腐劑ばうふざいとするんだな」と、面白おもしろさうにわらつたが、織田おだあくまで眞面目まじめで、

打明うちあけてへば、さうしてもらうとぼくおほいたすかるんだ、いまぢや實際じつさいよわつてる、あいつにやかねがかゝつてねえ」と、平生いつもくせねばつよく一つこと繰返くりかへすので、健次けんじよわつたが、あたまから反對はんたい出來できず、

ぼくよりか箕浦みのうらにやりたまへな、きみはあのをとこきらつてるが、情合じやうあひもあるし人間にんげんがゼントルだからいゝぢやないか」

「いや箕浦みのうらにやこまるよ、あゝいつた詩人肌しゞんはだをとこぼくむしかん、はなるのを蝶蝶てふてふだとおもつたり、ちるのをて、萬物ばんぶつ凋落てうらくあきたといつてなんだながやつには信用しんようしていもとたくするにらんとおもふ」

「そりやもつともだ、きみ箕浦みのうらひやうするときにはみやう名言めいげんく、平生ふだん平凡へいぼん淚臭なみだくさことばかりつてるのに、しかしきみいもと箕浦みのうらには釣合つりあつたえんぢやないか」

「いかんよあのをとこは…………それに箕浦みのうらぢやいもと制馭せいぎよしてけやしない」

きみにも手綱たづなれんだらう」と、健次けんじねむりのらぬをこすつた。身體からだだるくてあますやうである。

そられて、空氣くうきはだこゝろよく、周圍しうゐ人出ひとでおほくてさわがしいが、二人ふたり元氣げんきなくきざあしあるいてゐた。

「やあ、今日けふもやつてるな」と、織田おだむかうをたので、健次けんじけると、さか中途ちうとに一だん群衆ぐんじゆうなかから、演說えんぜつめいたこゑきこえる。

なんだいありや、廣吿屋くわうこくやか」

救世軍きうせいぐんだよ」

「さうか」と、健次けんじべつにもめなかつたが、自然しぜんそばちかづいたので、立留たちとまつて、人垣ひとがきあひだからのぞくと、木綿もめん紋付もんつきた二十前後ぜんご靑年せいねん二人ふたりと、くろはかまをつけたわかをんなとがつてゐて、その一にんいま演說えんぜつ最中さいちうである。ひだりこしみぎうごかし、いろくろ角張かくばつたかほすこ仰向あふむけ、

いまわたくし申上まをしあげたとほ貴下方あなたがたつみひとです、はやあらためなければまこと人間にんげんにはなれません、つまり罪惡ざいあくのあるひとだから」

と、ゴツ〳〵した調子てうしで、甘味うまみ辛味からみもない言葉ことばどもり〳〵さけんでゐるが、滿身まんしんちからめてゐるため、かほすこあかくなり、ひたひにはあせさへうかんでゐる。

「あのをとこは何をつてるんだらう、なんことやらわかりやしない」と、健次けんじそば老人らうじんわらつてつた。

馬鹿ばかツ」と何處どこからかこゑがする。

子供こどもが二三にんまへすゝんで、くちけて不思議ふしぎさうにつめてゐるのみで、ほかものみな冷笑れいせうしてゐる、とほりがゝりに物好ものずきにあしめて、「なん耶蘇やそか、喧嘩けんくわかとおもつたのに」と、失望しつぼうしてものもある、れも眞面目まじめひともないのだが、かの靑年せいねんこゑかたいからせて

皆樣みなさま懺悔ざんげなさい、神樣かみさまにおすがりなさい、日本國にほんこく興廢こうはい軍人ぐんじん政治家せいぢかによつてけつするのでありません、神樣かみさまみち世間せけんおこなふかおこなはぬかによつてさだまるのであります」

く。

健次けんじこふをつきたあひだに、らず〴〵まへすゝんで、その演說振えんぜつぶりをつめてゐたが、織田おだうしろからかたたゝいて、「おいきみかうぢやないか」とこゑをかける。

「まあて、もすこいてけ」

なに面白おもしろいんだ、こんなものが」

織田おだつたが、健次けんじなにこたへず、傳道者でんだうしやからはなさない。そしてかの靑年せいねんはなしつゞけて今日けふ社會しやくわい淫風いんぷう飮酒いんしゆがい堅苦かたくるしいつたな言葉ことばてゝゐると、れの惡戯あくぎか、小石こいしかれかたかすめて健次けんじまへちた、健次けんじおもはず後退あとずさりしたが、かの傳道者でんだうしや微塵みぢんうごかず泰然たいぜんとしてせつすゝめる。

かくておよそ二十ぷんもして、健次けんじものをんなからもらつて群衆ぐんじゆけてた。

きみ何故なぜあれが面白おもしろい」と、織田おだながたされたのでうらめしさうなかほをする。

面白おもしろいぢやないか。彼奴あいつ地球ちきうのどんぞこ眞理しんり自分じぶんくちからつたへてると確信かくしんしてる。あの顏付かほつき見給みたまへ。自分じぶんちから聽衆てうしうみな神樣かみさまにしてせるくらゐ意氣込いきごみだ。人間にんげんはあゝならなくちや駄目だめだ」

にも感心かんしんしないきみが、何故なぜ今夜こんやかぎつてあんなくだらないもの感心かんしんする?」

「さうさ、ぼく救世軍きうせいぐんにでもはいりたいな。こゝろにもいことをいて、讀者どくしや御機嫌ごきげん雜誌ざつし稼業かげふよりや、あのほう面白おもしろいにちがひない、あのをとこ欠伸あくびをしないでおくつてるんだ、きてらあ」

「はゝゝ」と織田おだ大口おほぐちけていきほひわらつて、「ぼく靑年せいねん淺薄せんぱく說敎せつけうなんかしておくるのが不憫ふびんになる」

「しかし淺薄せんぱく深刻しんこく本當ほんたう問題もんだいぢやないんだね、たれやうがのゝしられやうが、自分じぶんのしてることなんであらうとかまうものか、もつと刺激しげきつよ空氣くうきはにや駄目だめだ」

と、健次けんじ歎息たんそくするごとつたが、織田おだぼんやり﹅﹅﹅﹅したかほ見上みあげると、きふに「ぢや此處こゝわかれやう」と、早口はやくちつてかる會釋ゑしやくし九だんさかりた。で、「まだはなしがあるんだ」と、織田おだ呼留よびとめたときは、もう人影ひとかげかくれてゐた。