健次けんじは平生ふだん父ちゝから小言こゞとを聞きくことなく、他人たにんの前まへでゞも自分じぶんの自慢じまんをされるのを厭いやに感かんじてゐたので、今いまも自分じぶんが大英雄だいえいいうにでもなるやうに期待きたする口振くちぶりを聞きくと、急きふに不快ふくわいになり、新聞しんぶんを押おしのけて、ふいと自分じぶんの部屋へやへ逃にげた。
「お父とつさんは兄にいさんばかり大事だいじにするから我儘わがまゝになるんだわ、學士がくしにまでなつてゝ、親おやや妹いもとの世話せわが出來できなくちや駄目だめですよ、お父とつさんももうお役所やくしよなんか止よして大威張おほゐばりで兄にいさんに養やしなつてお貰もらひなさればいゝのに、………本當ほんたうにつまらないわ、外そとへ出でてはお酒さけを飮のんで、何なにか話はなしでもすると、惡口あくこうばかり云いつて、あれぢや何時いつまで立たつても立派りつぱな人間にんげんになれやしないわ、え、そりやなれないに定きまつてるわ」と、姉娘あねはさも口惜くやしさうに云いふ。
父ちゝはハツ〳〵と笑わらつて、「まあ默だまつて見みて居をれ、お前逹まへたちにや分わかるまいが、おれにや健次けんじの氣象きしやうはよく分わかつてる、今いまに何なにか爲出しでかすに違ちがひないからよく見みて居をれ、男をとこの腹はらの中なかは女をんなにや知しれんものだ、學士がくしになつた位くらゐで、ハイカラでもつけたり、妹いもとに花簪はなかんざしなんか買かつてやつて喜よろこんでるやうな健次けんじぢやない」
「お父とつさんは兄にいさんを買被かひかぶつてるんですよ、だから老人としよりには何なににも分わからないんだわ、今いまに後悔こうくわいすることが屹度きつとあると私わたし思おもふわ」
「ハヽヽヽヽ、下くだらないことを云いふもんぢやない、お前まへらは今いまに健次けんじの妹いもとだと云いはれて名譽めいよに思おもふ時ときが來くる」
「私わたし、ちつとも兄にいさんなんか當あてにしちやゐないわ、何なんであんな人ひと」
と、新聞しんぶんを引寄ひきよせて續つゞき物ものに目めをつけ、熱心ねつしんに讀よみ出だした。妹娘いもとは緣側えんがはへ出でて猫ねこの頭あたまを撫なでながら唱歌しようかを唄うたつてゐる。
健次けんじは障子しやうじを締しめ切きり、机つくゑに向むかつて正座せいざし、「革命家かくめいかの自傳じでん」を開ひらいた。心こゝろを凝こらし素早すばやく走はしり讀よみしてゐたが、著者ちよしやが貴族きぞくの家いへに生うまれ幼時えうじより宮中きうちうに出入しゆつにふする叙述じよじゆつを讀よみ終をはると、書物しよもつを伏ふせて仰向あふむけに寢ねた。自分じぶんとは緣えんの遠とほい境遇けうぐうの異ことなつた人ひとの閱歷えつれきが如何程いかほどの興味きようみがあらうぞと失望しつぼうした。そして机つくゑから書物しよもつを引下ひきおろして、只たゞ氣きまぐれに處々ところ〴〵拔ぬき讀よみすると、農夫のうふに伍ごして革命かくめいを說といたり、國くにを脫走だつそうして他國たこくに流浪るらうするあたり、さも面白おもしろさうに書かいてあるが、最早もはや健次けんじにはそれが光ひかりのない艶つやの失うせた文字もじと見みえ、少時せうじ父ちゝから彰義隊しやうぎたいや白虎隊びやくこたいの話はなしを聞きいた時ときほどにも、胸むねも躍をどらず血ちも湧わかず目めを瞑つぶつて心こゝろの動うごくに任まかせてゐると、自分じぶんの左右さいう前後ぜんごには火花ひばなも散ちらず、鯨波ときのこゑも聞きこえず、只たゞ銀座ぎんざには埃ほこりが立たつて、うぢよ〳〵と人ひとの步あるいてる樣さまが頭あたまの中なかに浮うかんで來くる。
で、彼かれは緣側えんがはの障子しやうじを開あけて、庭にはを見みると、父ちゝは日曜にちえう每ごとの役目やくめを怠をこたらず、草履ざうりを穿はいて掃除さうじをしてゐる。昨日きのふと同おなじく空そらは冴さえ風かぜもなく、日ひは生温なまあたゝかく照てつて、竹箒たけはうき持つた老人らうじんの影かげのみが緩ゆるく動うごいてゐる。健次けんじは欠伸あくびをして、又また書物しよもつを枕まくらに寢ねころび、兩手りやうてを投なげ出だして、うと〳〵してゐたが、暫しばらくすると妹共いもとゞもの騷さわぐ音おとがして、終しまひには英語えいごの朗讀らうどくが聞きこえる、學校がくかうの懇親會こんしんくわいで、織田おだの妹いもとと二人ふたりで朗讀らうどくするといふ英文えいぶんの對話たいわを暗誦あんしようしてゐるのであらう、太ふとくて甘あまつたれた聲こゑで、如何いかにも陽氣やうきさうに讀よんでゐる。
健次けんじは心こゝろがむしやくしやして、俄にわかに起上おきあがり、帽子ぼうしを被かぶり出仕度でしたくをして、玄關げんくわんまで出でかけたが、又また引返ひきかへして何氣なにげなく妹いもとの部屋へやへ侵入しんにふすると、妹いもとは彼かれを見上みあげて、ぱつたり朗讀らうどくを止やめた。
「おい、一寸ちよつと見みせろ」と、健次けんじは妹いもとの手てから洋紙やうしを取上とりあげて見みると、「二人ふたりの不幸ふかうなる娘むすめ」と題だいして、その會話くわいわが書かいてある。
「今いまお稽古けいこしてるんだから、兄にいさんは彼室あちらへ行いつてゐらつしやい」と、妹いもとは健次けんじの手てから洋紙やうしを奪うばひ返かへした。
「おれが茲こゝで直なほしてやるから、讀よんで見みろ」と、健次けんじは帽子ぼうしを被かぶつたなり坐すわり込こんだ。
「兄にいさんは直すぐ冷ひやかすから厭いやだけど」と否いなんだが、漸やうやく納得なつとくして、自分じぶんの分ぶんだけを拾ひろつて讀よんだ。筋すぢは幼馴染おさななじみの二少女せいぢよが、一人ひとりは東北とうほく一人ひとりは九州しうと十年ねんも離はなれてゐた後のち、或ある所ところで思おもひがけなく巡めぐり合あひ、その間あひだの境涯けうがいの辛酸しんさんを語かたり合あふ哀あはれな物語ものがたり。發音はつおんの法則はふそくは滅茶々々めちや〳〵だがよく暗記あんきしてゐて、目めを細ほそめ言葉ことばの調子てうしも哀あはれげに、表情へうじやう澤山たくさんで朗讀らうどくし、「この次つぎには二人ふたりとも、もつと幸福しあはせな人間にんげんに生うまれて來きませう」と、淚なみだで別わかれる所ところで、會話くわいわが終をはると、
「上手じやうづでせう」と、千代ちよは兄あにを見みて、息いきをついた。中々なか〳〵得意とくいらしい。
「うん甘うまい、よく覺おぼえられたね」
「もつとお稽古けいこしなければ不安心ふあんしんだわ、織田おださんに負まけちや厭いやだから」
「あの女ひとも稽古けいこしてるんか」
「え、そりやしてるわ、外ほかの人ひとも一生懸命しやうけんめいですもの、私わたし今日けふも午後おひるから織田おださんとこへ行いつてよ」
「病人びやうにんのある家うちへ行いつたつて駄目だめぢやないか、まさかあの家うちで、芝居しばゐの眞似まねなんかも出來できまいし」
「一緖しよに外ほかの家うちへ行いくんだわ」
「箕浦みのうらの家うちへでも行いくんだらう」
「行いつたつていゝでせう、惡わるくつて」と、わざと拗すねて見みせる。
「惡わるいと云いやあしないよ、每日まいにちでも遊あそびに行ゆくがいゝ、あの男をとこなら親切しんせつに發音はつおんも直なほして吳くれるし、音樂おんがくの議論ぎろんぐらゐ聞きかせて吳くれらあ、…………それからお前まへ、織田おだへ行ゆくんなら、これを持もつてつて吳くれ」と、健次けんじは今いま思おもひ出だした如ごとく、書齋しよさいから紙入かみいれを持もつて來きて、紙幣さつを反古紙ほごがみにくるんで妹いもとに渡わたし、「これだけ織田おだにやるんだ」
妹いもとは不審ふしんさうに兄あにを見みて、「これをどうするの、織田おださんの兄にいさんに貸かすのですか」
「だつて私わたしが持もつて行ゆくのは變へんだわ、それに兄にいさんはよく織田おださんにお金かねを貸かすのね、何故なぜ織田おださんばかり好すきなんだらう、あの家うちよりやいくら私わたしの家うちの方はうが貧乏びんぼふだか知しれやしないのに、本當ほんとに兄にいさんは變へんな人ひとね」と、妹いもとは反古包ほごづゝみをひねくつて、その金目かねめまで覘のぞいて見みてゐたが、
「お前まへにやるよりや、織田おだにやつた方はうが、いくらやり榮ばえがするか知しれやしない」と、健次けんじは無邪氣むじやきに笑わらつて、當あてもなく戶外そとへ出でた。妹いもとは坐すわつたきり目めを据すゑて、「兄にいさんは何故なぜだらう、お鶴つるさんに心こゝろがあるから、あんなに織田おださんを大事だいじにするのぢやないか知しらん、さう云いへば思おもひ當あたることが幾いくらもある、屹度きつとさうだ、戀こひで煩悶はんもんしてるんだわ」と、自分じぶんの身みに引ひきくらべて想像さうぞうに耽ふけつてゐた。
(十)
健次けんじは短みじかい秋あきの一日にちを持餘もてあました。上野うへのの公園こうゑんをぶらつき、或あるひは珈琲店こーひーてんへ入はいり、或あるひはビアーホールへ入はいり、それから社しやの同僚どうりやうを訪たづねて、氣乗きのりのせぬ話はなしに相槌あひづちを打うつて、漸やうやく二三時間じかんを空費くうひし、その宅たくを出でて、湯島ゆしま天神てんじんの境内けいだいを通とほり拔ぬけて歸路きろに就ついた。特筆とくひつすべき事件じけんは少すこしもない。忙いそがしい人ひとは仕事しごとに心こゝろを奪うばはれて時ときの立たつを忘わすれ、歡樂くわんらくに耽ふけれる人ひとも月日つきひの無ない世界せかいに遊あそぶのであるが、此頃このごろの健次けんじは絕たえず刻々こく〳〵の時ときと戰たゝかつてゐる。酒さけを飮のむのも、散步さんぽをするのも、氣㷔きえんを吐はくのも、或あるひは午睡ひるねをするのも、只たゞ持扱もちあつかつてる時間じかんを費つひやすの爲ためのみで、外ほかに何なにも意味いみはない。そして一月つき二月つきを取留とりとめもなく過すごしては、後あとから振返ふりかへつて、下くだらなく費つひやした歲月さいげつの早はやく流ながるゝに驚おどろく。
彼かれは激烈げきれつな刺激しげきに五體たいの血ちを湧立わきたたさねば、日ひに〳〵自分じぶんの腐くさり行ゆくを感かんじ、靑春せいしゆんの身みで只たゞ時間じかんの蟲むしに喰くはれつゝ生命いのちを維つないでゐる現狀げんじやうを溜たまらなく思おもつた。そして空想くうさうを逞たくまうして色々いろ〳〵の刺激物しげきぶつを考かんがへた。普通ふつうの麻醉劑ますゐざいは何なんの効目きゝめもない、酒さけなら燒酎せうちうかウヰスキーを更さらにコンデンスした物もの、煙草たばこなら阿片あへん、戀こひなら櫻木さくらぎのお雪ゆきや織田おだのお鶴つるのやうな女をんなと、甘あまつたるい言葉ことばを交換かはしたのでは微醉ほろよひもする氣遣きづかひはない。正義せいぎも公道こうだうも問題もんだいぢやない。自分じぶんを微温びおんの世界せかいから救すくひ出だして、筋肉きんにくに熱血ねつけつを迸ほとばしらすか、膓はらわたまで蕩とろかす者もの、それが自分じぶんの唯ゆゐ一の救世主きうせいしゆだ。革命軍かくめいぐんに加くはつて爆裂彈ばくれつだんに粉碎ふんさいされやうとも、山賊さんぞくに組くみして縛首しばりくびの刑けいに合あはうとも、結果けつくわが何なんであれ、名義めいぎが何なんであれ、自分じぶんを刺激しげきする最初さいしよの者ものに身みを投なげて、長ながくても短みじかくても、或あるひは即刻そくこくに倒たをれてしまつてもよい。そしてこんな刺激物しげきが自然しぜんに自分じぶんの前まへに現あらはれねば、自分じぶんから進すゝんで近ちかづいて行ゆく。渦うづが捲まき込こんで吳くれねば、自分じぶんで渦うづの中なかへ飛とび込こむ。鐵藏てつざうがゐなければ自分じぶんで鐵藏てつざうになつて喧嘩かんくわを吹ふつかけて行ゆく。戰爭せんそうも革命かくめいも北極ほくきよく探檢たんけんも人間にんげんの怠屈たいくつ醒さましの仕事しごとだ。平坦へいたんの道みちには倦うむが、險崖けんがいを攀上よぢのぼつてゐれば、時ときをも忘わすれ欠伸あくびの出でる暇ひまもない。
「よし渦うづへ入はいるか崖がけを上あがるか」と、彼かれはステツキを持もつた手てに力ちからを入いれたが、その手ては直すぐ弛ゆるんでしまう。社會しやくわいのため主義しゆぎのため理想りさうのためと思おもへばこそ眞面目まじめで險崖がけ上のぼりも出來できるが、初はじめから怠屈たいくつ醒さましと知しつて荊棘いばらの中なかへ足あしを踏込ふみこめるものか。理由りいうもないのに獨ひとりで血眼ちまなこになつて大道だいだうを馳はせ廻まはれるものか。何故なぜ每日まひにちの出來事できごと、四方はうの境遇けうぐう、何なに一つ自分じぶんを刺激しげきし誘惑いうわくし虜とりこにする者ものがないのであらう。只たゞ日々ひゞ世界せかいの色いろは褪あせ行ゆき、幾萬いくまんの人間にんげんの響動どよめきは葦あしや尾花をばなの戰そよぐと同おなじく無意義むいぎに聞きこえるやうになつた。自分じぶんの心こゝろが老おいたのか、地球ちきう其それ自身じしんが老おい果はてゝ、何等なんらの淸新せいしんの氣きも宿やどさなくなつたのであらうか。