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何處へ

Chapter 13: (十)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

健次けんじ平生ふだんちゝから小言こゞとくことなく、他人たにんまへでゞも自分じぶん自慢じまんをされるのをいやかんじてゐたので、いま自分じぶん大英雄だいえいいうにでもなるやうに期待きたする口振くちぶりくと、きふ不快ふくわいになり、新聞しんぶんおしのけて、ふいと自分じぶん部屋へやげた。

「おとつさんはにいさんばかり大事だいじにするから我儘わがまゝになるんだわ、學士がくしにまでなつてゝ、おやいもと世話せわ出來できなくちや駄目だめですよ、おとつさんももうお役所やくしよなんかして大威張おほゐばりにいさんにやしなつておもらひなさればいゝのに、………本當ほんたうにつまらないわ、そとてはおさけんで、なにはなしでもすると、惡口あくこうばかりつて、あれぢや何時いつまでつても立派りつぱ人間にんげんになれやしないわ、え、そりやなれないにきまつてるわ」と、姉娘あねさも口惜くやしさうにふ。

ちゝはハツ〳〵とわらつて、「まあだまつてれ、お前逹まへたちにやわかるまいが、おれにや健次けんじ氣象きしやうはよくわかつてる、いまなに爲出しでかすにちがひないからよくれ、をとこはらなかをんなにやれんものだ、學士がくしになつたくらゐで、ハイカラでもつけたり、いもと花簪はなかんざしなんかつてやつてよろこんでるやうな健次けんじぢやない」

「おとつさんはにいさんを買被かひかぶつてるんですよ、だから老人としよりにはなににもわからないんだわ、いま後悔こうくわいすることが屹度きつとあるとわたしおもふわ」

「ハヽヽヽヽ、くだらないことをふもんぢやない、おまへらはいま健次けんじいもとだとはれて名譽めいよおもときる」

わたし、ちつともにいさんなんかあてにしちやゐないわ、なんであんなひと

と、新聞しんぶん引寄ひきよせてつゞものをつけ、熱心ねつしんした。妹娘いもと緣側えんがはねこあたまでながら唱歌しようかうたつてゐる。

健次けんじ障子しやうじり、つくゑむかつて正座せいざし、「革命家かくめいか自傳じでん」をひらいた。こゝろらし素早すばやはしみしてゐたが、著者ちよしや貴族きぞくいへうま幼時えうじより宮中きうちう出入しゆつにふする叙述じよじゆつをはると、書物しよもつせて仰向あふむけにた。自分じぶんとはえんとほ境遇けうぐうことなつたひと閱歷えつれき如何程いかほど興味きようみがあらうぞと失望しつぼうした。そしてつくゑから書物しよもつ引下ひきおろして、たゞまぐれに處々ところ〴〵よみすると、農夫のうふして革命かくめいいたり、くに脫走だつそうして他國たこく流浪るらうするあたり、さも面白おもしろさうにいてあるが、最早もはや健次けんじにはそれがひかりのないつやせた文字もじえ、少時せうじちゝから彰義隊しやうぎたい白虎隊びやくこたいはなしいたときほどにも、むねをどらずかずつぶつてこゝろうごくにまかせてゐると、自分じぶん左右さいう前後ぜんごには火花ひばならず、鯨波ときのこゑきこえず、たゞ銀座ぎんざにはほこりつて、うぢよ〳〵とひとあるいてるさまあたまなかうかんでる。

で、れは緣側えんがは障子しやうじけて、にはると、ちゝ日曜にちえうごと役目やくめをこたらず、草履ざうり穿いて掃除さうじをしてゐる。昨日きのふおなじくそらかぜもなく、生温なまあたゝかくつて、たけはうき持つた老人らうじんかげのみがゆるうごいてゐる。健次けんじ欠伸あくびをして、また書物しよもつまくらころび、兩手りやうてして、うと〳〵してゐたが、しばらくすると妹共いもとゞもさわおとがして、しまひには英語えいご朗讀らうどくきこえる、學校がくかう懇親會こんしんくわいで、織田おだいもと二人ふたり朗讀らうどくするといふ英文えいぶん對話たいわ暗誦あんしようしてゐるのであらう、ふとくてあまつたれたこゑで、如何いかにも陽氣やうきさうにんでゐる。

健次けんじこゝろがむしやくしやして、にわかに起上おきあがり、帽子ぼうしかぶ出仕度でしたくをして、玄關げんくわんまでかけたが、また引返ひきかへして何氣なにげなくいもと部屋へや侵入しんにふすると、いもとれを見上みあげて、ぱつたり朗讀らうどくめた。

「おい、一寸ちよつとせろ」と、健次けんじいもとから洋紙やうし取上とりあげてると、「二人ふたり不幸ふかうなるむすめ」とだいして、その會話くわいわいてある。

いま稽古けいこしてるんだから、にいさんは彼室あちらつてゐらつしやい」と、いもと健次けんじから洋紙やうしうばかへした。

「おれがこゝなほしてやるから、んでろ」と、健次けんじ帽子ぼうしかぶつたなりすわんだ。

にいさんはひやかすからいやだけど」といなんだが、やうや納得なつとくして、自分じぶんぶんだけをひろつてんだ。すぢ幼馴染おさななじみの二少女せいぢよが、一人ひとり東北とうほく一人ひとりは九しうと十ねんはなれてゐたのちあるところおもひがけなくめぐひ、そのあひだ境涯けうがい辛酸しんさんかたあはれな物語ものがたり發音はつおん法則はふそく滅茶々々めちや〳〵だがよく暗記あんきしてゐて、ほそ言葉ことば調子てうしあはれげに、表情へうじやう澤山たくさん朗讀らうどくし、「このつぎには二人ふたりとも、もつと幸福しあはせ人間にんげんうまれてませう」と、なみだわかれるところで、會話くわいわをはると、

上手じやうづでせう」と、千代ちよあにて、いきをついた。中々なか〳〵得意とくいらしい。

「うんうまい、よくおぼえられたね」

「もつとお稽古けいこしなければ不安心ふあんしんだわ、織田おださんにけちやいやだから」

「あのひと稽古けいこしてるんか」

「え、そりやしてるわ、ほかひとも一生懸命しやうけんめいですもの、わたし今日けふ午後おひるから織田おださんとこへつてよ」

病人びやうにんのあるうちつたつて駄目だめぢやないか、まさかあのうちで、芝居しばゐ眞似まねなんかも出來できまいし」

「一しよほかうちくんだわ」

箕浦みのうらうちへでもくんだらう」

つたつていゝでせう、わるくつて」と、わざとすねせる。

わるいとやあしないよ、每日まいにちでもあそびにくがいゝ、あのをとこなら親切しんせつ發音はつおんなほしてれるし、音樂おんがく議論ぎろんぐらゐかせてれらあ、…………それからおまへ織田おだくんなら、これをつてつてれ」と、健次けんじいまおもしたごとく、書齋しよさいから紙入かみいれつてて、紙幣さつ反古紙ほごがみにくるんでいもとわたし、「これだけ織田おだにやるんだ」

いもと不審ふしんさうにあにて、「これをどうするの、織田おださんのにいさんにすのですか」

なんでもいゝから、たゞつてけばいゝんだ」

「だつてわたしつてくのはへんだわ、それににいさんはよく織田おださんにおかねすのね、何故なぜ織田おださんばかりきなんだらう、あのうちよりやいくらわたしうちはう貧乏びんぼふだかれやしないのに、本當ほんとにいさんはへんひとね」と、いもと反古包ほごづゝみをひねくつて、その金目かねめまでのぞいててゐたが、

「おまへにやるよりや、織田おだにやつたはうが、いくらやりばえがするかれやしない」と、健次けんじ無邪氣むじやきわらつて、あてもなく戶外そとた。いもとすわつたきりゑて、「にいさんは何故なぜだらう、おつるさんにこゝろがあるから、あんなに織田おださんを大事だいじにするのぢやないからん、さうへばおもあたることがいくらもある、屹度きつとさうだ、こひ煩悶はんもんしてるんだわ」と、自分じぶんひきくらべて想像さうぞうふけつてゐた。

(十)

健次けんじみじかいあきの一にち持餘もてあました。上野うへの公園こうゑんをぶらつき、あるひ珈琲店こーひーてんはいり、あるひはビアーホールへはいり、それからしや同僚どうりやうたづねて、氣乗きのりのせぬはなし相槌あひづちつて、やうやく二三時間じかん空費くうひし、そのたくて、湯島ゆしま天神てんじん境内けいだいとほけて歸路きろいた。特筆とくひつすべき事件じけんすこしもない。いそがしいひと仕事しごとこゝろうばはれてときつをわすれ、歡樂くわんらくふけれるひと月日つきひ世界せかいあそぶのであるが、此頃このごろ健次けんじえず刻々こく〳〵ときたゝかつてゐる。さけむのも、散步さんぽをするのも、氣㷔きえんくのも、あるひ午睡ひるねをするのも、たゞ持扱もちあつかつてる時間じかんつひやすのためのみで、ほかなに意味いみはない。そして一つきつき取留とりとめもなくすごしては、あとから振返ふりかへつて、くだらなくつひやした歲月さいげつはやながるゝにおどろく。

れは激烈げきれつ刺激しげきに五たい湧立わきたたさねば、に〳〵自分じぶんくさくをかんじ、靑春せいしゆんたゞ時間じかんむしはれつゝ生命いのちつないでゐる現狀げんじやうたまらなくおもつた。そして空想くうさうたくまうして色々いろ〳〵刺激物しげきぶつかんがへた。普通ふつう麻醉劑ますゐざいなん効目きゝめもない、さけならせうちうかウヰスキーをさらにコンデンスしたもの煙草たばこなら阿片あへんこひなら櫻木さくらぎのおゆき織田おだのおつるのやうなをんなと、あまつたるい言葉ことば交換かはしたのでは微醉ほろよひもする氣遣きづかひはない。正義せいぎ公道こうだう問題もんだいぢやない。自分じぶん微温びおん世界せかいからすくして、筋肉きんにく熱血ねつけつほとばしらすか、はらわたまでろかすもの、それが自分じぶんゆゐ一の救世主きうせいしゆだ。革命軍かくめいぐんくはつて爆裂彈ばくれつだん粉碎ふんさいされやうとも、山賊さんぞくくみして縛首しばりくびけいはうとも、結果けつくわなんであれ、名義めいぎなんであれ、自分じぶん刺激しげきする最初さいしよものげて、ながくてもみじかくても、あるひ即刻そくこくたをれてしまつてもよい。そしてこんな刺激物しげき自然しぜん自分じぶんまへあらはれねば、自分じぶんからすゝんでちかづいてく。うづんでれねば、自分じぶんうづなかむ。鐵藏てつざうがゐなければ自分じぶん鐵藏てつざうになつて喧嘩かんくわふつかけてく。戰爭せんそう革命かくめい北極ほくきよく探檢たんけん人間にんげん怠屈たいくつましの仕事しごとだ。平坦へいたんみちにはむが、險崖けんがい攀上よぢのぼつてゐれば、ときをもわす欠伸あくびひまもない。

「よしうづはいるかがけがるか」と、かれはステツキをつたちかられたが、そのゆるんでしまう。社會しやくわいのため主義しゆぎのため理想りさうのためとおもへばこそ眞面目まじめ險崖がけのぼりも出來できるが、はじめから怠屈たいくつましとつて荊棘いばらなかあし踏込ふみこめるものか。理由りいうもないのにひとりで血眼ちまなこになつて大道だいだうまはれるものか。何故なぜ每日まひにち出來事できごと、四はう境遇けうぐうなに一つ自分じぶん刺激しげき誘惑いうわくとりこにするものがないのであらう。たゞ日々ひゞ世界せかいいろき、幾萬いくまん人間にんげん響動どよめきあし尾花をばなそよぐとおなじく無意義むいぎきこえるやうになつた。自分じぶんこゝろいたのか、地球ちきうそれ自身じしんてゝ、何等なんら淸新せいしん宿やどさなくなつたのであらうか。