彼かれは目めを移うつして道みちの左右さいうを見みた。夕日ゆうひは電信柱でんしんばしらの影かげを金物屋かなものやの壁かべに印いんしてゐる。壁かべの隅すみには薄墨うすゞみで「法樂はふらく加持かぢ」と書かいた大福寺だいふくじの廣吿くわうこくが貼はりつけられ、その片端かたはしが剝はげかゝりふら〳〵﹅﹅﹅﹅動うごいてゐる。牛乳ぎうにう配逹はいたつと點燈夫てんとうふとが前後ぜんごして走はしつてる後あとから、白しろい帽子ぼうしを戴いたゞき裾すその廣ひろい黑衣こくいを着つけ、腰こしに長ながい珠數じゆずを垂たれた天主敎てんしゆけうの尼あまが二人ふたり、口くちも閉とぢ側見わきみもせず、靴くつは土つちを踏ふまぬが如ごとく、閑雅しとやかに音おとをも立たてず步あゆんで來くる。深ふかく澄すんだ空そらを煙突えんとつの黑煙こくえんが搔亂かきみだし、その側そばを一列れつの鳥とりが橫切よこぎつた。晝間ひるまの温あたゝかさも急きふに薄うすらいで、健次けんじは肌寒はださむく感かんじた。
彼かれは足あしと心こゝろを疲つからせて、兎とに角かく家うちへ歸かへつた。妹いもとは他所行よそゆきの大切たいせつな紋羽二重もんはぶたへの羽織はおりを着きたまゝ、茶ちやの間まのランプを點火つけてゐた。
「あら、兄にいさんお歸かへり、私わたしも今いま歸かへつたところよ」と、マツチを火鉢ひばちへ棄すてゝ、艶艶つやつやしい顏かほを見みせた。
「織田おだは何なにをしてた」
「勉强べんきやうしてるわ、でね、お金かねを渡わたすと、何なんだか極きまり惡わるさうに受取うけとつて、兄にいさんにお禮れいを云いつてたわ」
「さうか」と、健次けんじは所在しよざいなさに、火鉢ひばちの前まへに片膝かたひざ立たてゝ坐すわり、火箸ひばしをいぢつてる。妹いもとはその側そばで羽織はおりを脫ぬいで疊たゝみながら、ちよい〳〵兄あにの顏かほを見上みあげては、
「織田おださんは二三日にち中うちに兄にいさんに遇あひたいと云いつてましたよ、是非ぜひ話はなしを定きめることがあるんだつてね、兄にいさんも知しつてるでせう、どんな話はなしだか、私わたしも織田おださんの言振いひぶりで荒方あらかた推察すゐさつしてるけど。」
「さうか」と、健次けんじは氣きに留とめぬ風ふうなので、妹いもとはわざと調戯からかふ氣きで、
「當あてゝ見みませうか、屹度きつとあの事ことだわ」と莞爾につこりした。
「あの事ことつて鶴つるさんの緣談えんだんだらう」と健次けんじが小憎こにくらしい程ほど平氣へいきなので、妹いもとは、
「兄にいさんはよく御存ごぞんじね、同意どういするんでせう、兄にいさんも、」
「どうかねえ」
「どうかねえつて、それでいゝぢやありませんか、其その事ことで私わたし兄にいさんに話はなしがあつてよ」と云いひかけた所ところへ、母はゝが勝手かつてから入はいつて來きたので口くちを噤つぐみ、羽織はおりを簞笥たんすへ收おさめた。
「さあ御飯ごはんだ〳〵」と、母はゝは膳立ぜんだてして、汁しるのこぼれてる鍋なべを火鉢ひばちに掛かけた。
健次けんじは「まだ飯めしは欲ほしくない」と云いつて、自分じぶんの居室ゐまへ入はいると、妹いもとは後うしろから駈かけて來きて、ランプを點火つけた。平生ふだんに似にず親切しんせつに煙草盆たばこぼんまで掃除さうじして持もつて來きた。
で、健次けんじが机つくゑに肱ひぢを突ついて煙草たばこを吹ふかし、相手あひてにする風ふうはないのに、その傍そばに坐すわり、
「でね、兄にいさん」と口くちを切きる。「今いまの話はなし、兄にいさんも考かんがへてるんでせう、どうなさるの」
「何なんだい織田おだの事ことか、それを聞きいて何なんにする」と、健次けんじは不審ふしんさうに妹いもとの顏かほを顧かへりみた。
「何なにつて事ことはないけど」と、目めを外はづして「私わたし、今日けふ織田おださんからも、お鶴つるさんからも色いろんな事ことを聞きいたのよ」
「何なにを?」
「織田おださんの方はうぢや、もうちやんと一人ひとりで定きめてるんだわ、それに向むかうでは、兄にいさんも家うちのお母つかさんもお父とつさんも、屹度きつと承知しやうちすることゝ思おもつてるらしいのよ、お鶴つるさんも兄にいさんから聞きいたのか、今日けふは樣子やうすが變かはつてるし、明日あすお稽古けいこに私わたしの家うちへ被入いらつしやいと云いつても、何時いつも來きたがる癖くせに厭いやだつて云いふんですもの、」
「おい、下くだらない話はなしは止よせ、」
と、机つくゑに向むかつて、經濟書けいざいしよを開ひらいて、ぼんやり讀よんでゐたが、妹いもとは尙なほ側そばに坐すわつてゐて、
「だつて兄にいさんも早はやく結婚けつこんなすつた方はうがいゝでせう、家うちの爲ためから云いつても、兄にいさんの身みが定きまつて、お父とつさんの責任せきにんを輕かるくしなくつちや仕樣しやうがないですもの、それが一番ばんの孝行かう〳〵だと思おもふわ、それにお鶴つるさんは一家かの主婦しゆふとして缺點けつてんがないんだから、私わたしからも兄にいさんに勸すゝめたい位くらゐよ」
「お前まへどうかしたのか、酷ひどく今日けふは眞面目まじめ臭くさつた事ことを並ならべるね」と、健次けんじは笑わらつて、「お前まへはよくお鶴つるさんの惡口あくこうを云いつて、あれぢや家うちは持もてないなんて云いつてたぢやないか、急きふに變節へんせつしたね、御馳走ごちそうにでもなつたんかい」
「あら酷ひどいわ、私わたし織田おださんとこで少ちつとも御馳走ごちそうなんかになりやしないわ」
「でも御馳走ごちそうになつた顏付かほつきをしてるぢやないか。箕浦みのうらの家うちへも寄よつたのか」
「えゝ」と妹いもとは曖昧あいまいな返事へんじをする。
「お鶴つるさんと二人ふたりで朗讀らうどくでもして騷さわいだのか」
「えゝ、兄にいさんによろしくと云いつてたわ」
「お鶴つるさんと一緖しよに行ゆくと、あの男をとこが優待いうたいするだらう」
と、健次けんじは何氣なにげなく云いつたが、妹いもとの耳みゝにはそれが銳するどく響ひゞいて、急きふに考かんがへ込こんだ。健次けんじは箕浦みのうらから屢屢しば〴〵戀愛論れんあいろんを聞きかされたのだが、先日せんじつ或ある雜誌ざつしに載のつた彼かれの叙情的じよじやうてきの美文びぶんを讀よんだ時とき、それが彼かれ自身じしんの事ことを書かいてるので、相手あひては織田おだの妹いもとだと感付かんづいた。そして自分じぶんの妹いもとの竊ひそかに箕浦みのうらを思おもつてるのが可笑おかしくもあり、可愛かあいさうでもあつた。しかしそれを妹いもとに知しらせる氣きでもなかつたのだ。で、
「學校がくかうの懇親會こんしんくわいは何日いつあるんだ」と、聞ききたくもないことを、わざと柔やさしい聲こゑで問とうた。妹いもとは碌ろくに答こたへもせず、暫しばらくして浮うかぬ面かほを上あげて、
「兄にいさんは結婚けつこんする氣きぢやないんですか」と、さも妹いもとの身みの上うへにも重要ぢうえう問題もんだいででもある如ごとく感かんじてゐる。
「お前まへはおれを織田おだの妹いもとと結婚けつこんさせたいのか、それが何なにかお前まへの利益りゑきになるんか、變へんだね」と、健次けんじはお轉婆てんばの妹いもとの生眞面目きまじめな態度たいどを怪あやしんだ。
「私わたしの利益りゑきなんて酷ひどいわ、兄にいさんの爲ためを思おもつてるから聞きいて見みてるのに」と、袂たもとの先さきをひねくつて言葉ことばもはき〳〵しない。
「有難ありがたう、しかしおれは近々きん〳〵下宿屋げしゆくやへでも行いつちまうんだ」
「本當ほんたうに?」と、妹いもとは目めを丸まるくして「何故なぜ下宿屋げしゆくやなんかへ」
「何故なぜでもないさ、もうお前方まへがたのお喋舌しやべりも聞飽きゝあいたから、」
妹いもとは兄あにの氣心きごゝろを知兼しりかねて、只たゞ「變へんな人ひとだわ、お鶴つるさんを好すいてやしないのか知しらん、それとも表面うはべばかりあんなに澄すましてるのではなからうか」と思おもつてゐたが末娘すゑむすめのお光みつが「姉ねいさん、早はやく被入いらつしやい、御飯ごはんだよ」と、駈かけて來きて、引張ひつぱつて茶ちやの間まへ行いつた。
(十一)
四五日にちはかくて過すぎた。目めを醒さますと、屋根やねには霜しもを置おいて朝日あさひがキラ〳〵と照てつてることもある、雲くもの低ひくく垂たれてることもある。培養ばいやうせぬ菊きくは蟲むしに喰くはれて自然しぜんに萎しほれて行ゆく。父子ふしは前後ぜんごして出勤しゆつきんする。健次けんじは每日まいにち同おなじやうなことを考かんがへて、一日にちの仕事しごとを濟すませて歸かへると、相あひも變へんらず母はゝは窶やつれた顏かほをして待まつてゐる。一家かには何なんの波瀾はらんもない。母はゝは年中ねんぢう廢屋あばらやに燻くすぶつてゐるのだから、偶たまに戶外そとへ出でるか、異かはつた人ひとが訪たづねて來くると、見みたり聞きいたりした何なんでもない事ことを、物珍ものめづらしさうに誇張こちやうして問とはず語がたりをするのを樂たのしみにしてゐる。妹いもとの千代ちよは思おもひ出だしては朗讀らうどくの稽古けいこをしてゐるが、平生ふだんほどお喋舌しやべりもせず、多少たせう鬱ふさいでる風ふうも見みえる。織田おだは忙いそがしいので手紙てがみを送おくつたきり訪たづねて來こない。先月せんげつから赤痢せきりが流行りうかうして、根岸ねぎし近傍きんばうにも大分だいぶ患者くわんじやがあるやうだが、菅沼すがぬまの一家かは數年すうねん來らい風邪ふうじや以上いじやうの病人びやうにんはない。で、父ちゝは家族かぞくが皆みな健全けんぜんで目出度めでたい々々々と一人ひとりで喜よろこんで、自分じぶんが少すこし風邪氣かぜけがあらうと腹加減はらかげんがよくなからうと、痩我慢やせがまんを出だして出勤しゆつきんしてゐる。しかし今度こんどの寒さむさ當あたりは我慢がまんし切きれなかつたと見みえ、或日あるひ役所やくしよを早退はやびけにして歸かへり、お定きまりの晚酌ばんしやくも止よして、行火あんかへもぐり込こんでしまつた。
健次けんじは父ちゝの代かはりに海苔のりを肴さかなに一本ぽんガブ呑のみにして、書齋しよさいへ入はいつたが、寢ねるには早はやし、ランプと睨にらめつくらをしてゐた。すると、その朝あさ桂田かつらだ夫人ふじんの筆ふでで晚餐會ばんさんくわい招待せうたいのハガキの來きたことから、桂田かつらだに借かりた「東西とうざい倫理りんり思潮してう」を、本箱ほんばこの上うへに置おいたまゝ手てにも取とらず、談話だんわ筆記ひつきに行ゆくのも忘わすれてゐたことを思おもひ出だし、それを取出とりだして飛とび〳〵に讀よみかけた。
西風にしかぜがカタ〳〵と雨戶あまどに當あたり、隣家となりの柿かきの葉はの散ちる音おとも幽かすかに聞きこえる。父ちゝは時々とき〴〵呻吟うめいてゐる。
次第しだいに健次けんじの目めは書物しよもつを離はなれ、銳するどい神經しんけいは風かぜの音おとと父ちゝの呻吟うめきとに煩わづらはされ、火鉢ひばちへ俯首うつむいて眉まゆを顰ひそめ、煙草たばこの吸口すゐくちを嚙かんでゐると、門かどの戶とがそつと開あいた。それが木枯こがらしで自然しぜんに開あいたやうで、健次けんじは思おもはず薄氣味うすきみ惡わるく感かんじた。忍しのびやかに敷石しきいしに音おとがする。誰たれかが來きたらしく、やがて低ひくい聲こゑで母はゝとの話聲はなしごゑがする。
「あゝ織田おだだな」と、健次けんじは離はなれ島じまに人ひとの訪たづねた如ごとく、救助きうじよの舟ふねでも來きた如ごとく望のぞみを掛かけて待まつてゐた。
暫しばらくして織田おだは「ヤア」と、例れいの頓間とんまな聲こゑをして入はいつて來きて、火鉢ひばちを隔へだてゝ坐すわつた。新調しんてうと思おもはれる綿入わたいれを着きて、髯ひげも剃そつて、髮かみも奇麗きれいに分わけ、愉快ゆくわいさうな顏付かほつきをしてゐる。
「非常ひじやうに遲おそく來きたね」
「遲おそくなくちや君きみがゐないかと思おもつて、」と、織田おだは珍めづらしく敷島しきしまを袂たもとから出だして火ひを付つけ、
「愉快ゆくわいだつて、君きみからそんな言葉ことばを聞きくのは不思議ふしぎだ、親爺おやぢの病氣びやうきでもよくなつたのか」
「いや、親爺おやぢは變かはらないがね、今日けふ僕ぼくは桂田かつらださんの紹介せうかいで新職業しんしよくげふに有ありついたんだ、神田かんだの本屋ほんやで辭書じしよの編纂へんさんだが、報酬ほうしうも非常ひじやうにいゝんだよ」
「さうか、面倒めんだう臭くさい厭いやな仕事しごとだね、辛抱しんばう出來できるかい」
「面倒めんだう臭くさいなんて云いつた日ひにや、いゝ仕事しごとはありやしないぜ、報酬ほうしうさへよけりや、僕ぼくは何なんでもやる、それにね君きみ、僕ぼくは長編ちやうへんを昨日きのふ譯やくしてしまつたよ、あの金かねが入はいると、借金しやくきんを殘のこらず拂はらへるし、醫者ゐしやの方はうも奇麗きれいに片付かたづくから一安心あんしんだ、君きみにも一杯ぱい奢おごらあ」