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何處へ

Chapter 17: (十四)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

「もう九だよ、かへらなくちや仕方しかたがないぢやないか」

「しかしぼく物足ものたらん、このまゝかへつちやられりやしない」

「ぢや何處どこへ行く」

かくきみはおつるさんをおくつてくんだから此處こゝわかれよう」

「そうか」と、箕浦みのうら千代ちよ目禮もくれいし、「ぢや菅沼君すがぬまくん近日きんじつ訪問はうもんするよ」とつて、おつるならんで曲角まがりかどまがつた。

健次けんじ箕浦みのうらわすれおつるわす久保田くぼたわすれ、桂田かつらだ夫妻ふさいがあのさわぎのあと悄然しよんぼり差向さしむかひでゐるさまをのみくつきり﹅﹅﹅﹅おもうかべ、ゆめのやうに薄暗うすぐらうちさへぎつてる立樹たちぎかへりみてゐると、

「いいお月夜つきよね」と、千代ちよそらあふいで詠歎えいたんこゑはつして、「にいさんなにかんがへて?」

「おれは最少もすこ散步さんぽしてかへるから、おまへきにかへれ」

「だつておとつさんはにいさんをつて被入いらつしやるんですよ、はやかへらにやいけないわ」

今日けふかぎつて親爺おやぢなんようがあるんだらう、病氣びやうきでもわるいんか」と、健次けんじ今朝けさ朝寢あさねをしてちゝ病床びやうせう見舞みまはずして、しやつたことをおもした。この二三にちちゝ染々しみ〴〵はなしたことはない。

べつわるくもないの、今日けふはおひるからおきてるくらゐですもの」

「さうか、ぢやおれになんようがあるか、おまへらないか」

なんですか、よくらないわ、…………だけど、今日けふとなりの緖岡もろをかさんがお見舞みまひに被入いらつしやるとおとつさんはなんだか心細こゝろぼそいことをはなしてたやうだわ、にいさんのこともつて」

「おれのことを?」

「えゝ、……おとつさんは一しやう苦勞くらうしたばかりで、ちつとも取得とりえのない人間にんげんをはるんだけど、にいさんを立派りつぱそだげたのが大事業だいじげふだとつてね、自分じぶんいまんでものこをしくはない、たましひ子供こどもあたまつたはつてる、健次けんじをとこらしいおほきなかんがへをつてるから何時いつかはえらい﹅﹅﹅學者がくしやとか政治家せいぢかとかになるとつてたわ、」

諸岡もろをか隱居ゐんきよにそんなことをはなしたのか、親爺おやじの十八ばんだ、はなしたねきるとおれのことを持出もちだす、やつやつだね」

「でも平生ふだんとは話振はなしぶりがちがつて、なんだかあはれつぽさうだから、わたし可笑をかしかつたわ、それでね、諸岡もろをかさんがお突合つきあひにいさんをめるとさもうれしさうだつたわ、病氣びやうきになつてからは、うまはなし立消たちぎえになつて、私逹わたしたちにまで、どうかすると、にいさんのはなしばかりしたがるんだからへんだわ」とつて、あひだいて小聲こゞゑで、「あんなふうだとおとつさんももう老耄おひぼれちやつたのね、今夜こんやあたり屹度きつとにいさんに遺言ゆゐごんでもするんだわ」とつて無邪氣むじやきわらつた。

千代ちよ止切とぎれ〴〵に家庭うちはなしをしかけて、「にいさんどうなさるの」「にいさんがなんとかいまうちきまりをつけなくちや」と、此頃このごろめづらしく大人おとなびたくちいたが、健次けんじたゞやながして、あまり相手あひてにしなかつた。

(十四)

それから二三にちして、ちゝ寢床とこはなれ、綿入わたいれかさ襟卷ゑりまきかため、トボ〳〵出勤しゆつきんするやうになつたが、うちものにもにつくほどやつれて、以前いぜん元氣げんききふせたやうだ。そして每晚まいばん健次けんじかへるまでははさず、えずけてつてるやうになり、たま〳〵かほると、十ねんわかれたにでもつたかのやうに、一分間ぷんかんでもながそばきたがり、なにとかはなしをしかける。それが我子わがこ氣分きぶんそこねぬやうに如何いかにも遠慮勝ゑんりよがち態度たいどである。健次けんじにはちゝ心根こゝろねがよくき、自分じぶんうちにゐなければ心元こゝろもとながつてゐることをつてゐるが、それがかへつ不快ふくわいたまらず、大抵たいていはづしてしまう。

つぎ日曜にちえうには朝餐あさめしむと、ちゝ健次けんじむかへてか、れが雜誌ざつしいた「社會しやくわい文學ぶんがく」とだいするあはせの平凡へいぼん議論ぎろんたいし、馬鹿ばかめをしたうへ自說じせつをもきかけたので、健次けんじ苦笑くせうした。「ひとめられたくてくやうな頓間とんま眞似まねをするものか、幇間たいこもちぢやあるまいし」と、自分じぶん詮方せんかたなくてることが、なんだか他人たにんからめてもらひたさにつとめてるとおもはれるのが不愉快ふゆくわいだ。自分じぶん名譽めいよ接待せつたいあづかりたくはない。

で、かれちゝまへをそこ〳〵にした。あし行場所ゆきばしよまよつて、つひ麹町かうじまちむかふ。織田おだんでるまちまでて、はうかふまいかと躊躇ちうちよしてゐると、まへの三がいだての二かいまどには、いろくろみゝめたをんなと、あを腹掛はらかけをした辮髮べんぱつをとことがあたまならべて、聲高こわだかわからぬ言葉ことば饒舌しやべつてゐる。路次ろじへだてゝとなり洋服店やうふくてんから、せいたかいろしろ毛皮けがはをぐる〳〵まきつけた西洋せいやう婦人ふじんいぬれてた。二人ふたり支那人しなじんはそれをては面白おもしろさうにわらつた。そのへんちらばつてた子供こども婦人ふじんまへあつまつた。婦人ふじん口笛くちぶゑいたり、なに早口はやくちつて、いぬあやしてゐたが、やがてみせから肥滿ひまんをとこると、一しよいさましくつた。支那人しなじん引込ひきこんでしまう。健次けんじ無心むしんてゐたが、まちもとのやうにさびしくつて、ほこりふくんだかぜかほきつけると、身震みぶるひして路次ろじはいつた。するとむかうから織田おだおほきな身體からだちゞめて、れい壞手ふところででノソリ〳〵やつてて、

大層たいそうさむさうなかほをしてるね」と、微笑にこ々々〳〵かほふ。

何處どこくんだい」

一寸ちよつと買物かひものに、いま箕浦みのうらてるから御馳走ごちさうしようとおもつて…………きみもいゝとこへた、まああがつてゐたまへ、かへつてる」

健次けんじ何時いつものやうに緣側えんがはからあがつた。座敷ざしき眞中まんなか箕浦みのうらすわつてゐて、瀬戶物せともの火鉢ひばちには藁灰わらばいなかに、どつさり﹅﹅﹅﹅つてある。このまへときよりも部屋へや樣子やうすあかるさうだ、織田おだはゝちやつてて、手短てみぢかに挨拶あいさつをして引込ひきこんだきり、妻君さいくんかほえねば病父びやうふこゑもしない。

しづかだね」と、健次けんじ平生ふだんよりはひくこゑをして、「きみ此頃このごろ此家こゝへよくるさうだね、織田おだはなしふかい」と、箕浦みのうらむかうにこしゑて、そのテカ〳〵ひかつてるかほた。

「いや、滅多めつたんのだが、今日けふ織田おだ端書はがきぼくびつけたのだ」

「さうか、織田おだきみひたがるのは不思議ふしぎだね、なん用事ようじだらう」

べつ用事ようじていふほどでもない」と、箕浦みのうらましてゐる。

織田おだ多少たせう得意とくいになつてるだらう」

「どうだか、餘程よほどいそがしそうだよ」

「しかし今日けふ御馳走ごちそうするちうんだからめづらしい、」

「そうだ」と、箕浦みのうら返事へんじ空々そら〴〵しいのがにつく。

おなじく交際かうさいふか友人いうじんであれど、健次けんじ織田おだたいすると、つね弱者じやくしやかばうとふやうな態度たいどり、箕浦みのうらたいすると、なんとなくおさえつけるやうな態度たいどつてゐる。そして箕浦みのうられの態度たいど左程さほどいやがりもせず、むしみづから一ゆづつて滿足まんぞくしてゐる。自分じぶん意見いけん批評ひゝやうれにもとめ、いろ〳〵の感想かんさうもそのまへ吐露とろする。しかし今日けふおほかたらぬ。なんとなくへだてをいて、何時いつものやうに詩的してきはなしもせねば、人生觀じんせいくわんみたこともはぬ。

健次けんじおく病人びやうにんはゞかつて、元氣げんきのいゝくちかず、しばらくだまつてゐた。去年きよねんのまゝで薄黑うすくろくなつてる蚊帳かや釣手つりてが、隙間すきまかぜゆるうごいてゐる。箕浦みのうら呼吸こきふおともよくきこえる。で、たがひににらつてると、次第しだひえんもない他人たにんくさいろ相手あひてかほめる。

此奴こいつどうかしてるわい」と、健次けんじ冷笑れいしやうもらして、皮肉ひにくの一つもつてやらうかとおもふてると、溝板どぶいたおも足音あしおとがして、やがて織田おだかへつてた。

馬鹿ばかかしこまつてるね、どうしたい」と、大人おとなつた音聲こわねつて、目尻めじりげてジロ〴〵二人ふたりかほた。織田おだはこのまへとはつてはり、こゝろ餘裕よゆう出來できたのか、うしろ病人びやうにんのゐるのもわすれてるやうだ。平生ふだんなら箕浦みのうら喋舌しやべるのを默聽もくちやうするのだが、今日けふ自分じぶんから話題わだい持出もちだして氣㷔きえんく。

「だが、仕事しごとつとまるかい」と、健次けんじはなしなかばにくと、

つとまるとも、それに彼店あすこ主人しゆじんぼくうち事情じゞやういて、同情どうじやうしてれてるしね」と、ます〳〵得意とくいで、仕事しごとはなしまで持出もちだして、「ぼくももう四五ねんしたら、基礎きそかたくなるよ、目算もくさんもちやんとつてる」

生意氣なまいきくちきやがる」と、健次けんじはらおもつた。

妻君さいくんおほきなはらをして、あをかほかみみだしたまゝ、刺身さしみ麥酒びーるはこんでた。健次けんじはこのさむいのにとおもつたが、一二はいあふつて、ひくこゑで、

きみ、おつるさんはゐないか」

「あゝあさからゐない」

いもとでもゐないと、きみうちしなびてるね、」

「なあに、いまぼく後繼者こうけいしやうまれるから、おほひ光彩くわうさいはなつさ、……きみはや後繼者こうけいしやつくたまへ、空論くうろんかないで、」

「四五日はん大層たいそう先輩せんぱいになつたね、箕浦みのうらきみ敎訓けうくんきにるんかね、このひとに」

「まあ、さうだ」と、箕浦みのうら麥酒びーるれたをハンケチでぬぐひながら、「きみはなすこともあるんだが」と言淀いひよどんだ。

なにを、音樂おんがくくわいことか、」

「いや、そればかりぢやない」

「ぢやはなたまへ」

「まあゆつくり﹅﹅﹅﹅でもいゝ」

こゝでいゝぢやないか」

かへみちはなさう」

因循ゐんじゆんだね」と、健次けんじはもう微醉ほろゑひめて、おもはずこゑたかくなるにづいて一寸ちよつとうしろかへりみ、「ぼくはもうぐにかへるんだから、いまはなたまへ、どうせきみはおつるさんのかへるまでゐるんだらうから」と小聲こごゑつてわらつた。