「もう九時じだよ、歸かへらなくちや仕方しかたがないぢやないか」
「しかし僕ぼくあ物足ものたらん、このまゝ歸かへつちや寢ねられりやしない」
「ぢや何處どこへ行く」
「兎とに角かく君きみはお鶴つるさんを送おくつて行いくんだから此處こゝで分わかれよう」
「そうか」と、箕浦みのうらは千代ちよに目禮もくれいし、「ぢや菅沼君すがぬまくん近日きんじつ訪問はうもんするよ」と云いつて、お鶴つると並ならんで曲角まがりかどを曲まがつた。
健次けんじは箕浦みのうらを忘わすれお鶴つるを忘わすれ久保田くぼたを忘わすれ、桂田かつらだ夫妻ふさいがあの騷さわぎの後あとで悄然しよんぼり差向さしむかひでゐる樣さまをのみくつきり﹅﹅﹅﹅思おもひ浮うかべ、夢ゆめのやうに薄暗うすぐらく彼かの家うちを遮さへぎつてる立樹たちぎを顧かへりみてゐると、
「いいお月夜つきよね」と、千代ちよは空そらを仰あふいで詠歎えいたんの聲こゑを發はつして、「兄にいさん何なにを考かんがへて?」
「おれは最少もすこし散步さんぽして歸かへるから、お前まへは先さきに歸かへれ」
「だつてお父とつさんは兄にいさんを待まつて被入いらつしやるんですよ、早はやく歸かへらにやいけないわ」
「今日けふに限かぎつて親爺おやぢは何なんの用ようがあるんだらう、病氣びやうきでも惡わるいんか」と、健次けんじは今朝けさも朝寢あさねをして父ちゝの病床びやうせうを見舞みまはずして、社しやへ行いつたことを思おもひ出だした。この二三日にちは父ちゝと染々しみ〴〵話はなしたことはない。
「別べつに惡わるくもないの、今日けふはお晝ひるから起おきてる位くらゐですもの」
「さうか、ぢやおれに何なんの用ようがあるか、お前まへ知しらないか」
「何なんですか、よく知しらないわ、…………だけど、今日けふお隣となりの緖岡もろをかさんがお見舞みまひに被入いらつしやるとお父とつさんは何なんだか心細こゝろぼそいことを話はなしてたやうだわ、兄にいさんのことも云いつて」
「おれのことを?」
「えゝ、……お父とつさんは一生しやう苦勞くらうしたばかりで、ちつとも取得とりえのない人間にんげんで終をはるんだけど、兄にいさんを立派りつぱに育そだて上あげたのが大事業だいじげふだと云いつてね、自分じぶんは今いま死しんでも殘のこり惜をしくはない、魂たましひは子供こどもの頭あたまに傳つたはつてる、健次けんじは男をとこらしい大おほきな考かんがへを持もつてるから何時いつかはえらい﹅﹅﹅學者がくしやとか政治家せいぢかとかになると云いつてたわ、」
「諸岡もろをかの隱居ゐんきよにそんなことを話はなしたのか、親爺おやじの十八番ばんだ、話はなしの種たねが盡つきるとおれのことを持出もちだす、聞きく奴やつも聞きく奴やつだね」
「でも平生ふだんとは話振はなしぶりが異ちがつて、何なんだか憐あはれつぽさうだから、私わたし可笑をかしかつたわ、それでね、諸岡もろをかさんがお突合つきあひに兄にいさんを褒ほめるとさも悅うれしさうだつたわ、病氣びやうきになつてからは、馬うまの話はなしは立消たちぎえになつて、私逹わたしたちにまで、どうかすると、兄にいさんの話はなしばかりしたがるんだから變へんだわ」と云いつて、間あひだを置おいて小聲こゞゑで、「あんな風ふうだとお父とつさんももう老耄おひぼれちやつたのね、今夜こんやあたり屹度きつと兄にいさんに遺言ゆゐごんでもするんだわ」と云いつて無邪氣むじやきに笑わらつた。
千代ちよは止切とぎれ〴〵に家庭うちの話はなしをしかけて、「兄にいさんどうなさるの」「兄にいさんが何なんとか今いまの中うちに極きまりをつけなくちや」と、此頃このごろに珍めづらしく大人おとなびた口くちを利きいたが、健次けんじは只たゞ厭いやな氣きがして、あまり相手あひてにしなかつた。
(十四)
それから二三日にちして、父ちゝは寢床とこを離はなれ、綿入わたいれの重かさね着ぎに襟卷ゑりまきで身みを固かため、トボ〳〵と出勤しゆつきんするやうになつたが、家うちの者ものにも目めにつく程ほど窶やつれて、以前いぜんの元氣げんきは急きふに失うせたやうだ。そして每晚まいばん健次けんじの歸かへるまでは目めを合あはさず、絕たえず氣きに掛かけて待まつてる樣やうになり、たま〳〵顏かほを見みると、十年ねんも別わかれた子こにでも會あつたかのやうに、一分間ぷんかんでも長ながく側そばに置おきたがり、何なにとか話はなしをしかける。それが我子わがこの氣分きぶんを害そこねぬやうに如何いかにも遠慮勝ゑんりよがちの態度たいどである。健次けんじには父ちゝの心根こゝろねがよく見みえ透すき、自分じぶんが家うちにゐなければ心元こゝろもとながつてゐることを知しつてゐるが、それが却かへつて不快ふくわいで溜たまらず、大抵たいていは外はづしてしまう。
次つぎの日曜にちえうには朝餐あさめしが濟すむと、父ちゝは健次けんじの意いを迎むかへてか、彼かれが雜誌ざつしに書かいた「社會しやくわいと文學ぶんがく」と題だいする間まに合あはせの平凡へいぼんな議論ぎろんに對たいし、馬鹿ばか褒ほめをした上うへ、自說じせつをも吐はきかけたので、健次けんじは苦笑くせうした。「人ひとに褒ほめられたくて書かくやうな頓間とんまな眞似まねをするものか、幇間たいこもちぢやあるまいし」と、自分じぶんが詮方せんかたなく爲してることが、何なんだか他人たにんから褒ほめて貰もらひたさに勤つとめてると思おもはれるのが不愉快ふゆくわいだ。自分じぶんは名譽めいよの接待せつたいに與あづかりたくはない。
で、彼かれは父ちゝの前まへをそこ〳〵に逃にげ出だした。足あしは行場所ゆきばしよに迷まよつて、遂つひに麹町かうじまちに向むかふ。織田おだの住すんでる町まちまで來きて、訪とはうか訪とふまいかと躊躇ちうちよしてゐると、前まへの三階がい建だての二階かいの窓まどには、色いろの黑くろい耳みゝに輪わを嵌はめた女をんなと、靑あをい腹掛はらかけをした辮髮べんぱつの男をとことが頭あたまを並ならべて、聲高こわだかに分わからぬ言葉ことばで饒舌しやべつてゐる。路次ろじを隔へだてゝ隣となりの洋服店やうふくてんから、脊せいの高たかい色いろの白しろい毛皮けがはをぐる〳〵卷まきつけた西洋せいやう婦人ふじんが犬いぬを連つれて出でて來きた。二人ふたりの支那人しなじんはそれを見みては面白おもしろさうに笑わらつた。その邊へんに散ちらばつてた子供こども等らは婦人ふじんの前まへに集あつまつた。婦人ふじんは口笛くちぶゑを吹ふいたり、何なにか早口はやくちに云いつて、犬いぬを綾あやしてゐたが、やがて店みせから肥滿ひまんの男をとこが出でて來くると、一緖しよに勇いさましく去さつた。支那人しなじんも引込ひきこんでしまう。健次けんじは無心むしんに見みてゐたが、町まちが元もとのやうに淋さびしくつて、埃ほこりを含ふくんだ風かぜが顏かほに吹ふきつけると、身震みぶるひして路次ろじを入はいつた。すると向むかうから織田おだが大おほきな身體からだを縮ちゞめて、例れいの壞手ふところででノソリ〳〵やつて來きて、
「大層たいそう寒さむさうな顏かほをしてるね」と、微笑にこ々々〳〵顏かほで云いふ。
「何處どこへ行ゆくんだい」
「一寸ちよつと買物かひものに、今いま箕浦みのうらが來きてるから御馳走ごちさうしようと思おもつて…………君きみもいゝとこへ來きた、まあ上あがつてゐ玉たまへ、直すぐ歸かへつて來くる」
健次けんじは何時いつものやうに緣側えんがはから上あがつた。座敷ざしきの眞中まんなかに箕浦みのうらが坐すわつてゐて、瀬戶物せとものの火鉢ひばちには藁灰わらばいの中なかに、どつさり﹅﹅﹅﹅火ひが盛もつてある。この前まへ來きた時ときよりも部屋へやの樣子やうすが明あかるさうだ、織田おだの母はゝが茶ちやを持もつて來きて、手短てみぢかに挨拶あいさつをして引込ひきこんだきり、妻君さいくんの顏かほも見みえねば病父びやうふの聲こゑもしない。
「靜しづかだね」と、健次けんじは平生ふだんよりは低ひくい聲こゑをして、「君きみは此頃このごろ此家こゝへよく來くるさうだね、織田おだと話はなしが合あふかい」と、箕浦みのうらの向むかうに腰こしを据すゑて、そのテカ〳〵光ひかつてる顏かほを見みた。
「いや、滅多めつたに來こんのだが、今日けふは織田おだが端書はがきで僕ぼくを呼よびつけたのだ」
「さうか、織田おだが君きみに會あひたがるのは不思議ふしぎだね、何なんの用事ようじだらう」
「別べつに用事ようじていふ程ほどでもない」と、箕浦みのうらは澄すましてゐる。
「織田おだも多少たせう得意とくいになつてるだらう」
「どうだか、餘程よほど忙いそがしそうだよ」
「しかし今日けふは御馳走ごちそうするちうんだから珍めづらしい、」
「そうだ」と、箕浦みのうらの返事へんじの空々そら〴〵しいのが目めにつく。
同おなじく交際かうさいの深ふかい友人いうじんであれど、健次けんじは織田おだに對たいすると、常つねに弱者じやくしやを庇かばうと云いふやうな態度たいどを執とり、箕浦みのうらに對たいすると、何なんとなく壓おさえつけるやうな態度たいどを執とつてゐる。そして箕浦みのうらは彼かれの態度たいどを左程さほど厭いやがりもせず、寧むしろ自みづから一步ぽ讓ゆづつて滿足まんぞくしてゐる。自分じぶんの意見いけんの批評ひゝやうも先まづ彼かれに求もとめ、いろ〳〵の感想かんさうもその前まへで吐露とろする。しかし今日けふは多おほく語かたらぬ。何なんとなく隔へだてを置おいて、何時いつものやうに詩的してきの話はなしもせねば、人生觀じんせいくわん染じみたことも云いはぬ。
健次けんじも奧おくの病人びやうにんに憚はゞかつて、元氣げんきのいゝ口くちも利きかず、暫しばらく默だまつてゐた。去年きよねんのまゝで薄黑うすくろくなつてる蚊帳かやの釣手つりてが、隙間すきま洩もる風かぜに緩ゆるく動うごいてゐる。箕浦みのうらの呼吸こきふの音おともよく聞きこえる。で、互たがひに睨にらみ合あつてると、次第しだひに緣えんもない他人たにん臭くさい色いろが相手あひての顏かほに讀よめる。
「此奴こいつどうかしてるわい」と、健次けんじは冷笑れいしやうを洩もらして、皮肉ひにくの一つも云いつてやらうかと思おもふてると、溝板どぶいたに重おもい足音あしおとがして、やがて織田おだは歸かへつて來きた。
「馬鹿ばかに畏かしこまつてるね、どうしたい」と、大人おとな振ぶつた音聲こわねで云いつて、目尻めじりを下さげてジロ〴〵二人ふたりの顏かほを見みた。織田おだはこの前まへとは打うつて變かはり、心こゝろに餘裕よゆうが出來できたのか、後うしろに病人びやうにんのゐるのも忘わすれてるやうだ。平生ふだんなら箕浦みのうらが喋舌しやべるのを默聽もくちやうするのだが、今日けふは自分じぶんから話題わだいを持出もちだして氣㷔きえんも吐はく。
「だが、仕事しごとは勤つとまるかい」と、健次けんじは話はなし半なかばに聞きくと、
「勤つとまるとも、それに彼店あすこの主人しゆじんが僕ぼくの家うちの事情じゞやうを聞きいて、同情どうじやうして吳くれてるしね」と、ます〳〵得意とくいで、仕事しごとの話はなしまで持出もちだして、「僕ぼくももう四五年ねんしたら、基礎きそが堅かたくなるよ、目算もくさんもちやんと立たつてる」
「生意氣なまいきな口くちを利ききやがる」と、健次けんじは腹はらで思おもつた。
妻君さいくんは大おほきな腹はらをして、靑あをい顔かほに髮かみの毛けを亂みだしたまゝ、刺身さしみに麥酒びーるを運はこんで來きた。健次けんじはこの寒さむいのにと思おもつたが、一二杯はい煽あふつて、低ひくい聲こゑで、
「君きみ、お鶴つるさんはゐないか」
「あゝ朝あさからゐない」
「妹いもとでもゐないと、君きみの家うちは萎しなびてるね、」
「なあに、今いまに僕ぼくの後繼者こうけいしやが生うまれるから、大おほひに光彩くわうさいを放はなつさ、……君きみも早はやく後繼者こうけいしやを作つくり玉たまへ、空論くうろんを吐はかないで、」
「四五日會あはん間まに大層たいそう先輩せんぱいになつたね、箕浦みのうら君きみも敎訓けうくんを聞ききに來くるんかね、この人ひとに」
「まあ、さうだ」と、箕浦みのうらは麥酒びーるで濡ぬれた手てをハンケチで拭ぬぐひながら、「君きみと話はなすこともあるんだが」と言淀いひよどんだ。
「何なにを、音樂おんがく會くわいの事ことか、」
「いや、それ計ばかりぢやない」
「ぢや話はなし玉たまへ」
「まあゆつくり﹅﹅﹅﹅でもいゝ」
「茲こゝでいゝぢやないか」
「歸かへり途みちに話はなさう」
「因循ゐんじゆんだね」と、健次けんじはもう微醉ほろゑひに目めを染そめて、思おもはず聲こゑの高たかくなるに氣きづいて一寸ちよつと後うしろを顧かへりみ、「僕ぼくはもう直すぐに歸かへるんだから、今いま話はなし玉たまへ、どうせ君きみはお鶴つるさんの歸かへるまでゐるんだらうから」と小聲こごゑで云いつて笑わらつた。