箕浦みのうらは「そんなこと」と云いつたばかりで默だまつてしまつた。織田おだは無神經むしんけいな顏かほで絕たえず微笑びしやうしてゐたが、「今日けふは僕ぼくが話はなしがあつて來きて貰もらつたんだ」
「例れいの事ことでかい」
「うん」
「でどう極きまつた、君きみの重荷おもにはどうなつた」
「君きみは僕ぼくの說せつを用もちゐんから仕方しかたがないさ、僕ぼくも考かんがへ直なほさなくちや」
「さうか、君きみも何時いつの間まにか、箕浦みのうら君くんと意氣いき投合とうがふするやうになつたんだね」
と云いつたが、健次けんじは腹はらの中なかで、「織田おだの奴やつ、とうとう箕浦みのうらに妹いもとでも賣付うりつけるんだらう」と思おもふと、不思議ふしぎに氣きがむしやくしやして、麥酒びーるを二三杯ばいグイ呑のみにして、急きふに立上たちあがり「さあ歸かへらう」と、二人ふたりが引留ひきとめる間まもなく緣側えんがはを下おりた。
「氣きまぐれな男をとこだなあ、何なにを考かんがへ出だしたのだらう」と、織田おだは壞手ふところでのまゝ暫しばらく閾しきゐの上うへに立たつてゐた。
健次けんじの足あしは行場所ゆきばしよに迷まよつた末すゑ、遂つひに千駄木だぎへ向むかつた。
玉突屋
「二本ほん歸がへり三つ!」と、ボーイは蟲むしの喰くつた出でつ齒ぱを出だして大聲おほごゑで叫さけんだ。彼かれは薄うすい座蒲團ざぶとんの上うへに几帳面きてうめんに坐すわつて、兩方りやうはうの袖そでを搔かき合あはせてゐる。年齡としは十五六で、顏かほは靑あをくて脹はれて、髮かみの毛けは薄うすい。
背廣せびろを着きたでつぷり﹅﹅﹅﹅肥ふとつた男をとこは、臺だいにすり寄よつて身みを屈かゞめ、鳥差とりさしが鳥とりを狙ねらふやうな態度たいどで、キユーを突出つきだした。
「三つ!」と、ボーイは袖口そでぐちから細ほそい棒ぼうを出だして、ゲーム盤ばんを動うごかし、橫よこを向むいて欠伸あくびをした。
向むかうの一臺だいは突手つきてもなく、四つの玉たまが佗わびしげに片隅かたすみに抱だき合あつてゐて、瓦斯がすの光ひかりは鈍にぶいが、手前てまへの一臺だいは明あかるい光ひかりの下したに、紅白こうはくの玉たまが追おひつ追おはれつ縱橫じゆうわう無盡むじんにころがつてゐる、ストーブを後うしろにキユーを逆ぎやくに突ついて、帶おびを緩ゆるくだらし﹅﹅﹅なくしたまゝ立たつてる角帽かくぼうの靑年せいねんは「又またやられさうだな」と呟つぶやいて、相手あひての突振つきぶりを見みてゐたが、急きふに後うしろを顧かへりみて、「中原なかはら、後あとで君きみと最もう一度どやらう」と力りきんで云いつた。柱はしらにもたれてワツフルを抓つまんでゐた中原なかはらは、時計とけいを見みて、
「もう十二時じぢやないか、明日あすにしやう」と落付おちついた聲こゑで云いふ。
「いや、明日あすは芝しばへ行いつて、あの話はなしを定きめて來こなくちやならん」
「なに、芝しばの方はうは急いそがなくてもいゝさ」
「だつて早はやく定きめなければ氣きになつてならん、相手あひてが愚圖ぐづだから」
「急勝せつかちだね」と、中原なかはらはゲーム盤ばんを見みて、
「栗山くりやまさん、今日けふは全勝ぜんしようですね」
「へゝゝゝ」と、栗山くりやまはキユーを扱しごいてゐたが、コツツと音おとがして、手玉てだまは外それたので、「こりやどうした」と、禿頭はげあたまをつるり﹅﹅﹅と撫なでゝ、厭いやな笑わらひをして、ストーブの側そばへ來きた。
「さあ一キユーで取とり切きるか」と、角帽かくぼうは勢いきほひよく立上たちあがり、チヨークをギシ〳〵付つけながら玉臺たまだいを見みて、チエツと舌打したうちして「厭いやな玉たまだね」と首くびを二三度ど捻ひねり、「かう行いつてかう來くるか」と臺だいの上うへに乗のり上あがつて、邪慳じやけんにキユーを出だした。兵子帶へこおびがだらり﹅﹅﹅と垂たれる。
「二つ」と、氣拔きぬけのした聲こゑでボーイが呼よぶ。
「おい五だぜ、確しつかり見みとれ、ゲーム取とりならゲーム取とりらしくするんだぜ」と橫目よこめでぢろりとボーイを見みた。
「五つ」とボーイは數かぞへ直なほして、目めをぱつちり開あけたが、次第しだいに上目葢うはまぶたが垂たれて來くる。生欠伸なまあくびが喉のどを突ついて來くるのを漸やうやく嚙かみ殺ころしたが、淚なみだが目めに浮うかぶ。
角帽かくぼうは眉まゆを顰しかめ、口くちを捻ひねり、首くびを動うごかし、襟えりを寛ゆるくボタンの取とれたシヤツの廣ひろく出でてるのも關かまはず、熱心ねつしんに突ついてゐる。栗山くりやまは葉卷はまきの先さきを爪つめでつゝきながら、「玉たまは今いま時分じぶんからよく突つける、不思議ふしぎなものだ、世間せけんがしん﹅﹅として來くるとキユーも冴さえて來くる」と、ストーブに顏かほがほてつ﹅﹅﹅てゐる。
「ぢや、今夜こんやは徹夜てつやして突つきますか」と、角帽かくぼうはクシヨンの方向はうかうを目めで計はかつてゐる。ボーイは氣遣きづかはしさうに栗山くりやまの顏かほを見みてゐたが栗山くりやまは「へゝゝゝ、徹夜てつやも面白おもしろいな、明日あすは日曜にちえうだし」と、惡わるくすると徹夜案てつやあんが成立せいりつしさうなので、幽かすかに溜息ためいきをついた。で、坐すわり直なほして、足あしの痺しびれを撫さすり、ぺこ〳〵の腹はらに力ちからを入いれ、「二つ」「三つ」と付元氣つけげんきで叫さけんだが、頭あたまは次第しだいに下さがつてぽうつとする、と、身體からだが地ちべたからする〳〵﹅﹅﹅﹅と引上ひきあげられるやうな氣きになり、そのまゝ遠とほい所ところへ持もつて行ゆかれさうになつたが、ガチヤツと音おとがしたので目めを細ほそく開あけて、「三つ」と夢心地ゆめごゝちで叫さけんだ。十二時じが打うつた。
栗山くりやまは火ひの熱ねつで汗あせばんだ手てに白粉こなを振ふりかけ、立變たちかはつてキユーを執とり、「早はやい者ものだ、もう十二時じだ、家うちに居ゐりや、とても今いま時分じぶんまで起おきてらりやしない」
「中原なかはら、昨夜ゆうべの今いま時分じぶんはどうだい」と、角帽かくぼうは意味いみありげににやり〳〵と笑わらつてゐる。
「フヽン」と、中原なかはらはコークスを指先ゆびさきで抓つまんで、ストーブへ投なげ込こみ、「お蔭かげで今日けふは二時じ頃ごろまで寢ねてしまつた」
「起おきては玉たまを突つき、飮のんぢや寢ねてりや、それで春はるは來くるんだが、どうもかう玉突屋たまつきやにばかり日參につさんしてゝも困こまるよ」
「いゝぢやないか、學問がくもんで喰くへなきやキユーボーイになるさ、その方はうが洒落しやれてるぜ、フツ〳〵〳〵」
「それも呑氣のんきでいゝね、しかし何時いつまでもこんなことをして遊あそんでもゐられまいよ」
「良心りやうしんが咎とがめるか、君きみやそんな事ことをちよい〳〵考かんがへ出だすから酒さけも玉たまも上逹じやうたつしないんだよ、」
「さうだね、少すくなくとも君きみを對たいで負まかす程ほどにならなくちや癪しやくに觸さはらあ」と、ワツフルの殘のこりをむしや〳〵平たひらげた。
「勝負有ゲーム」とボーイは三人にんの顏かほを順々じゆん〴〵に見みたが、北風きたかぜが玻璃窓ガラスまどに吹ふきつけるので、音おとを聞きいたゞけで首くびをすくめて兩手りやうてを前垂まへだれの下したへ入いれて脊せなを丸まるくした。
「さあ、も一度ど」と、角帽かくぼうは目めを光ひからせて、玉たまを並ならべる。
ボーイは恨うらめしげな顏かほ付つきをして、「栗山くりやまさん、も一ゲーム如何いかゞです」と哀あはれな聲こゑで云いつた。
「もう遲おそいから止よさうか」と、栗山くりやまは迷まよつてゐる。
「一時じ前まへか」と、ボーイは獨語ひとりごとのやうに云いつたが、角帽かくぼうは帶おびを締しめ直なほして威勢いせいよく、「なあに、まだ十二時じを十五分ふん過すぎたばかりさ、十分ぷんもあればゲームになりますよ」と促うながすので、栗山くりやまは時計とけを見みて、「今いま二十分ぷんだね、ぢや、やるかな」とキユーを執とつて、「どうです、十位ぐらゐ下さげますかね」
「なあに大丈夫だいじやうぶ、今度こんど負まけたら玉たまはお止やめだ」
「いや君きみの止やめる〳〵も當あてにやならんよ」と、中原なかはらは腰こしを掛かけたまゝ足あし拍子びやうしを取とつてゐる。
ボーイはゲーム盤ばんを直なほして、「二つ」「三つ」「五つ」と數かぞへ出だしたが、少すこし當あたりが途切とぎれると、前まへに屈かゞみさうになる。眠ねむりをまぎらしたくも、軍歌ぐんかも歌うたへず、足あしも動うごかせず、手ても動うごかぬ。で、詮方せんかたなしに齒はを喰くひしばり目めを見詰みつめ心こゝろを凝こらしてゐると、かつとした目眩まぶしい光ひかりが前まへに廣ひろがつて、靑あをい臺だいと白しろい玉たまと紅あかい玉たまとが、浪なみの上うへにでも漂たゞよふてゐるかの如ごとく見みえる。しかし無意識むいしきに「二つ」「三つ」と叫さけんでゐたが、やがて口くちも目めも緩ゆるんで、心こゝろがとろ〳〵になり、自分じぶんの故鄉こきやうで弟をとゝを連つれて繍眼兒めじろ捕とりに行いつてる氣きになつた。枝えだの上うへに綠みどりの羽はねを重かさね合あつて、一所ところにピー〳〵鳴ないてゐる。で、黐竿もちざほを持もつて近寄ちかよらうとしたが、身體からだが縛しばられてるやうで近ちかづけぬ。矢鱈やたらに藻搔もがいてると、ズドンと音おとがして、鳥とりは飛とんでしまつた。
「おい吉公きちこう」と角帽かくぼうは怒鳴どなつて、「居睡ゐねむりなんかしないでゲームを取とれ、今いままでよく數かぞへなかつたんだらう、聲こゑがしなかつた」
「いえ、數かぞへてゐたんです」と、出鱈目でたらめに數かずを取とつて、「十八ゲーム」
「ふゝん、いよ〳〵取切とりきるか」と、角帽かくぼうは微笑々々にこ〳〵して臺だいを廻まはつてゐる。
「さあ、それが濟すんだら、おれが最後さいごの一擊げきを與あたへて歸かへることにしよう、もうそろそろ眠ねむくなつた」と、中原なかはらは欠伸あくびをした。
夜番よばんの拍子木へうしぎが地ちの底そこからのやうに幽かすかに聞きこえる。
ボーイは百年ねんも千年ねんも「二つ」「三つ」と繰返くりかへし〳〵叫さけばねば、打倒ぶつたふれて熟眠じゆくすゐは出來できぬ運うんを脊負せおつてるやうに感かんじて、淚聲なみだごゑで「當あたりゲーム」
六號記事
私わたしは例れいの如ごとく膳ぜんの側そばに新聞しんぶんを引寄ひきよせ、朝餐あさめしを食たべながら目めを通とほしてゐたが、ふと三面めんの隅すみに津坂つさか金きん一(木版業もくはんげふ)が二階かいから落おちて即死そくししたとある塵屑ごみくず扱あつかひの六號がう記事きじの一つを讀よんで、久ひさしく忘わすれてゐたこの男をとこの事ことを思おもひ出だし、急きふに氣分きぶんが欝ふさいで、肝心かんじんな食事しよくじを不味まづくしてしまつた。私わたしのやうな淚なみだ脆もろい人間にんげんは、知人ちじんの死去しきよや病氣びやうきの報ほうを聞きいた丈だけで、直すぐに世よの中なかを心細こゝろぼそく手賴たよりなく感かんずるのだが、左程さほど深ふかい交際つきあひをしたのでもなく、只たゞ偶然ぐうぜん知しり合あひになり、二三カ月げつの間あひだ時々とき〴〵往來わうらいして、再ふたゝび緣えんのない道路だうろの人ひととなつた津坂つさかの死しは、却かへつて懇意こんいな友人いうじんの死しよりも身みに染しみて、人ひとはかくて逝ゆくかとの感かんに打うたれる。彼かれのデツプリ肥ふとつた赭顏あからがほも、多少たせう上方かみがた訛なまりの殘のこれるゆつたり﹅﹅﹅﹅した語調ごてうも、私わたしの目めの奧おく耳みゝの中なかに深ふかく止とゞまつてゐて、今いまもはつきりと思おもひ浮うかべられるが、それは最早もはや死人しにんの影かげに過すぎぬのだ。
私わたしが初はじめて津坂つさかに會あつたのは、去年きよねんの春はるの初はじめ。まだ尾張町おはりちやうの淸元きよもとの師匠しゝやうの二階かいを借かりて、先さきの見みえぬ暮くらしをしてゐた時ときである。師匠しゝやうは藝者げいしや上あがりの意氣いきな女をんな。もう四十過すぎで顏かほに小皺こじわも見みえてゐるが、口先くちさきが甘うまくて、情人いろの取持とりもちぐらゐ何時いつでもして吳くれさうなので、近所きんじよの狼連おほかみれんが頻しきりに出入でいりしてゐた。津坂つさかもその一人ひとりで、目めを細ほそくして、柄がらにない聲こゑを絞しぼり出だし、「よい初夢はつゆめを三つ蒲團ぶとん」だの「辨天べんてんさんと添伏そへぶしの」だのと唸うなつてるのを、私わたしは屡々しば〳〵洩聞もれぎきをしてゐた。で、この男をとこが木版屋もくはんやの親方おやかたで下職したしよくを二三人にん使つかつて氣樂きらくに暮くらしてゐること、酒さけの好すきなこと、釣魚つりの好すきなことなど、師匠しゝやうから噂うはさに聞きいてゐたが、私わたしの目めには外ほかの連中れんぢうと異ちがつたことなく、挨拶あいさつ一つするでもなかつた。然しかるに彼かれは、或朝あるあさ無斷むだんで二階かいへ上あがつて來きて、階子段はしごだんの側そばにどつかり坐すわり、もう酒氣しゆきを帶おびた顏かほに微笑びせうを浮うかべ、「失禮しつれいですが、一寸ちよつとお願ねがひがごあして」といふ。