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Chapter 20: 彼れの一日
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

「そんなにふさがなくてもいゝでせう、さけめなけりや、うたでもうなつて陽氣やうきにやるさ、腦病なうびやうぐらゐなほつてしまふ」

うなつても五たいわるかあないでせうか」

わるいものか、かへつてくすりになりますよ」

「さうですかね、どうもわるいやうながしてならん」

「そんなことはないさ、だいきなものなにもかもふうじてしまつちや生甲斐いきがひがないでせう」

「さうもおもふんですが、どうもこはうごあしてね、くちつばきてもさかづきになれません」と、津坂つさかだるく﹅﹅﹅目葢まぶたこまねいてゐたが、しばらくしてあたま持上もたげ、

御面倒ごめんだうですが、一つ亜米利加あめりかせがれにやる手紙てがみいていたゞけますまいか、わたしくといゝんですが、ふるへてけませんから」

「よろしい、いまでもいてげますが、なんつてやるんです、病氣びやうきのことですか」

「え、病氣びやうきらせてやりたいんですが、あれなに仕事しごとめるときにや、きのたしかな何時いつまでも繁盛はんじやうするやうな仕事しごとえらべと、御面倒ごめんだうですが一ふで書添かきそへくださいまし」

「それで貴下あなた御病氣ごびやうきでも心配しんぱいするにやおよばん、かへるにもおよばんといてやるんですね」

左樣さやう、どうせれがわたし後繼者あとゝりだから、わたしねばかへらなくちやなりませんが」とつて、きふ厭氣いやきしたか、まゆひそめてかぶりり、「なにまだ大丈夫だいじやうぶですよ、だから心配しんぱいするな、しつかりかせげとおください」

で、わたし洋紙やうしへペンできかけると、津坂つさかすこ伸上のびあがつて、をペンさきくばり、取留とりとめなく用向ようむきをてる。

やがてしたゝをはり、吸取紙すゐとりがみ墨汁いんきうるみをかはかせて、わたしねんのためにんでかせた。

拜啓はいけい當地たうち春暖しゆんだんこう時節じせつさくらきかけまをそろはゝ無事ぶじいもと無事ぶじ御安心ごあんしん相成あひなるべく、ちゝ先月せんげつらい腦病なうびやうにて仕事しごとやすそろが、ほんの輕症けいしやうなれば、べつ御配慮ごはいりよにもおよまをさずそろ先日せんじつ御申越おんまをしこし事件じけん……」云々うんぬんと、宛名あてなまでをはり、

「これでいゝんですか」といた。

「えゝ結構けつこうです、どうも有難ありがた御座ございます」

と、津坂つさかかしらを二三げたが、わつし手紙てがみ封筒ふうとうれかけるのをて、さも言憎いひにくさうに、「はなは御面倒ごめんだう申兼まをしかねますが、わつし病氣びやうきのことを、もつと、なんとか色艶いろつやをつけていていたゞけますまいか」とふ。

わたし不思議ふしぎおもつて、「ぢやどうくんです、病氣びやうきおもいとつてやるんですか」

「いえ、おもいでもありませんが、せがれがこの手紙てがみめば、親爺おやぢどく可愛かあいさうだと、なみだの一しづくくらゐおとすやうにいていたゞきたいとおもひましてね、」

「だつて、それぢや御子息ごしそく心配しんぱいなさるでせう」

「それもさうですね、」とすこかんがへて、「しかし、わつし手賴たよりにするのはればかりで、此頃このごろ每晚まいばんのやうにれをゆめます、だからわつしさけまずに每日まいにちなにあんじてくらしてる樣子やうすを、よくちるやうにらせてやつてれがわつしことゆめにでもるやうにさせたいんです、さうでもしないと、なか心細こゝろぼそくつてなりません」

隨分ずゐぶんむづしい御註文ごちうもんだが、ちからぱい工夫くふうしてませう」

と、わたしは三十分間ぷんかんかんがへ、三四書直かきなほして、あはれつぽい文句もんくを二つ三つくはへ、したゝをはつてんできかすと、津坂つさかひざいてみゝかたむけ、かんたれてか、どんより﹅﹅﹅﹅したなみだをさへうかべた。

結構けつこうです〳〵」と、れはむねわだかまりけたごとかんじたらしく、手紙てがみつていさましく二かいりた。

それから五六にちのち津坂つさかわたしにかの水晶すゐしやういんおくとゞけたが、それとともに、多年たねん大切たいせつにした自分じぶん見臺けんだいを、師匠しゝやう進呈しんていしたさうである。わたしもなく轉宅てんたくしたから、その津坂つさかはぬ。手紙てがみ遣取やりとりもせぬ。たゞ遺物かたみいんいま座右ざいうにあり、その面影おもかげいまわたしのこつてゐる。


彼れの一日

れ——黑塚くろづか白雨はくう——は九ました。下女げぢよ紙箒はたきおと部屋へや兩隣りやうどなり騷々さう〴〵しくきこえる。電車でんしやおとがギイ〳〵みゝひゞく。れはいままでうつら〳〵﹅﹅﹅﹅﹅﹅あさゆめてゐたのだ——草山くさやまあか鉢卷はちまきして逆立さかだちしてをどつてる。喇叭ラツパ太皷たいこはやてる。自分じぶん手拭てぬぐひあたまつまつてをどらうとする。場所ばしよなんでも七八年前ねんまへんでた西方寺さいはうじの一しつらしい——れはそのゆめかんがへてやながした。しやには素面すめんでカツポレををどひとがあるが、自分じぶんなにかの拍子ひやうしで、一度いちど琉球節りうきうぶしうたつたため、いまおもしても冷汗ひやあせる。なんだつてあんなゆめたことか……

れは身體からだのばして新聞しんぶんり、また寢床ねどこへずりんで、それをひらいた。朝日あさひ障子しやうじ破目やれめとほつて、新聞しんぶんまるうつり、あざやかにひかつた。れは一とほんでしまうと、むく〳〵とき、小走こばしりで洗面場せんめんばつた。五分間ふんかんばか冷水れいすゐ摩擦まさつ餘念よねんがない。これは十ねんまへ身心しん〳〵鍛鍊たんれんのためにはじめたので、いまはその必要ひつえうかんじてるのではないが、たゞ習慣しふくわんめられぬのだ。このさむいのに醉興すゐきようなと、ひとへば自分じぶんにもおもふ。しかし苦學くがく時代じだい名殘なごりがまだゑてしまはぬ。

れは朝食あさめしますと、元町もとまち停留場ていりうばから電車でんしやに乗つた。

車掌しやしやう回數券くわいすうけんはさみれるまでは落付おちつかなんだが、おちやみづわたとき、その車中しやちう役目やくめ一安心ひとあんしんした。そしてこまねいた。れはかねて往復わうふく乗車じやうしや時間じかん利用りようして獨逸語どいつご硏究けんきうするつもりで、今日けふ懷中くわいちうにヂヤーマンコースをひそませてゐるが、容易ようゐ取出とりださうともしない。數寄屋橋すきやばしまで二十分間ぷんかん此頃このごろれいにより取留とりとめもない空想くうさうふけつた。空想くうさうつても翠帳すゐちやう紅閨こうけいうかんでるのでもなく、天外てんぐわい無窮むきうきやうおもおよぶのでもなく、れのかほ乾涸ひからびてゐるごとく、その空想くうさう乾涸ひからびてゐる。

あさんだしや新聞しんぶん記事きじ斷片的きれ〴〵あたまうかび、空想くうさうがそれに附随ふずゐしてまはる——。自分じぶんちからめていた或派あるは議員ぎゐん買收ばいしう記事きじこと〴〵抹殺まつさつされ、今朝けさ新聞しんぶんには一ぎやうてゐない。そしてくだらない記事きじどつさり﹅﹅﹅﹅てゐる。電車でんしや會社ぐわいしや重役ぢうやく手前てまへ勝手かつて意見いけんが、さももつともらしく長々なが〳〵てゐる。あれをいたのは佐々良さゝらちがひない。彼奴きやつなに魂膽こんたんがあつていたのだらう。しからんやつだ。つね新聞しんぶん自分じぶん利益機關りえきゝくわんのやうにもちひる。どうおもつてもしからん。それで洒蛙々々しやあ〳〵としてさらこゝろにもかほにもやましいふうはない。……紙面しめんにぎはひと大憲法だいけんぱふもとには、はりほどのことも仰山ぎやうさん吹聽ふゐちやうして、ひと迷惑めいわくけ、讀者どくしや虛僞きよぎつたへ、やうやく下宿げしゆくれうるからぬの報酬はうしうもらふ。なさけない商賣しやうばいしからん職業しよくげふだ。たま〳〵正義せいぎおもつて破邪はじやふでふるふと抹殺まつさつされる——

れの空想くうさうは一てんして今日けふ晝飯ひるめしかんがへた。蕎麥そば五目鮨ごもくずしあんパンが早速さつそくあたまうかぶ。どれもどれも度々たび〳〵ことはなについてる。たまにやかはつたものしい。——つひに「大新たいしん天麩羅てんぷら」とはらむしさけんで、れはわれらずたもとから蟇口がまぐちしてた。銀貨ぎんくわが六せんばかりある。入社にふしや以來いらいねん月給げつきう居据ゐすわりで、てんドンは十三せんから十八せんになつた。どうかしなくちやならん正義せいぎよばはりもないもんだ。

まがりますから御注意ごちういを」と、車掌しやしやう大聲おほごゑ機械的きかいてきつた。電車でんしやはげしく動搖どうえうする。つてる乗客じやうかくくつかゝとれの爪先つまさきんだ。れはかどつたうらめしさうに相手あひて後姿うしろすがた見上みあげた。電車でんしや落付おちつくと、れはまたぢる。

ゆめをどつてた草山くさやま現實げんじつかほ憎々にく〳〵しく浮上うきあがつてる。——あの野郞やらう社長しやちやうにおべつかつて、づるいことをしてやがる。俳優やくしや投票とうひやう小說せうせつ懸賞けんしやう募集ぼしふみな彼奴あいつ差金さしがねだ。ていよく社長しやちやういて、しや發展はつてんためだと、おためごかしに自身じしん勢力せいりやく擴張ゝわくちやうをやつてる。出勤しゆつきん時間じかんだつてちつともまもつてゐない。あさおそばんはやかへる。よく注意ちういしててるに、おれの三ぶんの一の仕事しごとさへしてらん。それに世間せけんからは、やれなに新聞しんぶん敏腕家びんわんかだの、新進しん〳〵小說家せうせつか御座ござるの、劇通げきつうさふらふのと、出放題ではうだい稱賛しやうさんをしてゐる。なんだいれが、ろくそつぽに語學ごがく出來できねば、文章ぶんしやうだつておれのからるとちつともうまくはない。腕前うでまへへば新聞しんぶんうま利用りようしては本屋ほんや提灯ちやうちんもちをして、そのおれいまづ小說せうせつ賣込うりこくらゐだ。なんでも役者やくしやからの付屆つけとゞけもありや、御馳走ごちさうにもなつてるらしい。昨夜ゆふべだつて大坂おほさか役者やくしや百尺ひゃくせき招待せうだいされたさうだ………おれは新聞しんぶんはいつてから、役德やくとくやあ、あれとれと、招待せうだいも三しきやけてやしない——

空想くうさうはふら〳〵と一てんする。「今日けふなにかう」、輪轉機りんてんきすら一だいもない小新聞せうしんぶんだから、れのごと政治せいぢ智識ちしきとぼしいものも、一しうに一論說ろんせつ割付わりつけられてあるので、今日けふがその當番たうばんだ。れはその問題もんだいさがして、增稅案ざうぜいあん移民ゐみん會社くわいしや取締とりしまりたい朝鮮てうせん政策せいさく、どれも六ケい。國民こくみん驕奢きやうしや攻擊こうげきするか、それとも惡小說あくせうせつ流行りうかう罵倒ばたふするか、どちらが手易たやすいだらうか、小說論せうせつろんにしても、どうろんじたらはや手數てすうかゝらないだらう………とかんがへたが、べつ妙案めうあんまとまりもせず、またいてまとめやうともせぬうち