「そいでも、時ときさんが私わしを捜さがしとると、皆みんなが云いふから、あの人ひとに會あはにやならんもの」と呟つぶやいて、鳥居とりゐの前まへをウロ〳〵してゐる。以前さつきから玉垣たまがきに寄よりかゝり初野はつのを調戯からかつて喜よろこんでた連中れんぢうは、此方こちらを見みて「初野はつのさん〳〵、時ときさんはお地藏様ぢざうさまへ行いつた」と囃はやし立たてゝ、どつ﹅﹅と笑わらつた。
「本當ほんたうにお地藏樣ぢざうさまへ行いつたのかな」と勢いきほひのない聲こゑで云いつて、初野はつのは西にしの方はうへフラフラ步あるいて行ゆく。
吉松きちまつは情なさけなくなつて淚なみだを浮うかべた。この瞬間しゆんかん恐おそろしい源げんの事ことを忘わすれ、只たゞ白痴ばかの妹いもとが年中ねんぢう村むらの子供こどもの玩具おもちやになるのを恥はづかしく思おもつた。そして悄然しよんぼり家うちへ歸かへると、母はゝは膳ぜんを出だしたまゝ、板いたの間まへ眠ねむつてゐて、頭あたまの側そばには一ひとつ二ふたつの蚊かが幽かすかな音おとを立たてゝ飛とんでゐる。
(三)
吉松きちまつは酒さけも飮のまぬ。唄うたも唄うたへぬ。漁師れうし仲間なかまとは性しやうが合あはぬから、平生ふだん仲なかのよい友逹ともだちは少すくない。今夜こんやの集合よりあひにも誘さそひに來くる者ものもなく、又またとても行ゆく氣きにもなれぬ。で、早はやく晚食ばんしよくを濟すませ、神棚かみだなの燈明皿とうみやうざらに燈火あかりをつけ、上あがり框かまちに腰こしを掛かけて沈しづんでゐた。昨夜ゆうべは幟のぼりに忙いそがしくて何なんとなく悅うれしかつたが、今夜こんやからは繪ゑの仕事しごともなくなつた。平生ふだんなら夜業よなべに草鞋わらじを造つくるのだが、今夜こんやは肩かたが怠だるくて氣分きぶんが欝ふさいで槌つちを持もてさうでもない。婆ばあさんは行燈あんどんも點火とぼさず、燈明とうみやうの光ひかりで絲いとを紡つむいでゐる。數町すうちやうを隔へだてた宮みやでは太皷たいこの音おとがます〳〵賑にぎやかに聞きこえる。
「吉きちよ、汝われや錢ぜにを何處どこへ置おいたか」と、母はゝに問とはれて、吉松きちまつは振返ふりかへり。
「其處そこの戶棚とだなに入はいつとらあ」と云いつて、薄光うすあかりに緖卷をまきの絲いとのブル〳〵震ふるふのを見みてゐる。
「何なんぼ溜たまつたか」
「今月けふは三圓ゑんばかし貰もらうて來きた。まだ三軒げん殘のこつとらあ」
「そがい﹅﹅﹅に吳くれたかい、そいぢやえゝお節句せつくが出來できるなあ、お母かあも明日あしたはお高姊たかねえの宅うちへお祈禱はらひに賴たのまれとるから、又また錢ぜにになるし、麥むぎの二俵ひやうや三俵びやうは庭にはへ積つめるわい、汝われも嫁よめを娶とるなら今いまが丁度ちやうどえゝ機會しほぢや、誰だれでも好すきな女子をなごがありや連つれて來こい」
「私わしや嫁よめを娶とらんでもえゝ、一生しやう獨ひとりで暮くらすんぢや」
「そいでも、今朝けさは嫁よめを娶とりたいと云いふたぢやないか、芳よしでも鶴つるでも梅うめでも皆みんな嫁よめがあるんじやもの、汝われも欲ほしからうがな」
婆ばあさんの聲こゑは欠伸あくびまぜりで、次第しだいに絲車いとぐるまも間斷勝とだえがちになる。吉松きちまつは時折ときをり話はなしかけられても碌ろくに答こたへぬ。で、暫しばらく母子おやこ脊合せなかあはせで默だまつてゐると、何時いつの間まにか初野はつのが勝手口かつてぐちからノロ〳〵入はいつて來きた。白痴ばかの中うちでも陽氣やうきに騷さはぐ方はうではなし、口數くちかずは少すくなく戶外そとへ出でるにも歸かへるにも、大抵たいていは忍しのび足あしで、家うちの者ものにも氣きづかぬ位くらゐだ。兩方りやうはうの袖口そでくちを持もつて、しよんぼり﹅﹅﹅﹅﹅庭にはに突立つゝたつたまゝ左右さいうを見廻みまわし、
「お母かあ、家うちは暗くらいなあ、兄ああよ、お宮みやは賑にぎやかぢやぞ」と、低ひくい聲こゑで云いつて、草履ざうりを引摺ひきずつて又また戶外そとへ出でかけた。
「初はつは朝あさから御飯ごはんも食たべいで、何なにをしとるんなら、もう何處どこへも行いかいで、早はやうお夕飯ゆふはんを食たべなよ」
と、婆ばあさんは猫撫聲ねこなでごゑで云いつたが、初野はつのは「そいでも家うちは淋さびしいもの」と、何處どこへか行いつてしまつた。
「また皆みんなに嬲なぶられたいんか」と、婆ばあさんは獨言ひとりごとのやうに云いつたが、最早もはや娘むすめを氣きにも掛かけず、絲車いとぐるまを離はなれもせぬ。
吉松きちまつも今宵こよひは住すみ馴なれた家いへを、際立きはだつて暗くらく感かんじた。室うへに這はひ上あがつて行燈あんどんをつけ、燈心とうしんをかき立たてたが、隅々すみ〴〵は尙なほ暗くらい。天氣てんきが變かはつたのか東風こちが吹ふき出だし、ソヨ〳〵と裏口うらぐちから入はいつて來くる。枇杷びわの木きも騷さわぎ出だした。宮みやの太鼓たいこの音おとは止やんだが、ワイワイ叫さけぶ聲こゑは一層そう盛さかんに聞きこえる。彼かれは耳みゝを傾かたむけてゐたが、やがて不意ふいに起上おきあがつて、聲こゑする方はうへ向むかつた。三日月みかづきは既すでに沈しづんで、天てん遠とほく星ほしが力ちから弱よわく光ひかつてゐる。
彼かれは小暗こぐらき道みちを通とほつて、玉垣たまがきの側そばに彳たゝずんだ。鳥居とりゐの根本ねもとは出入でいりの提灯ちやうちんの光ひかりに照てらされ、松葉まつばに蔽おほはれた敷石しきいしが明あかるくなり暗くらくなつてゐる。醉漢よひどれの聲こゑが遠とほくなり近ちかくなる。神社やしろの扉とびらは廣ひろく開ひらいて、神前しんぜんには大おほきな蠟燭らうそくの光ひかりが燿かゞやき、左右さいうには數すう十の漁夫れうしが居並ゐならび、中なかには片肌かたはだを脫ぬいでる者もの、胸毛むなげを露あらはしてる者もの。怒鳴どなつては呑のみ、呑のんでは怒鳴どなり、言葉ことばの綾あやも分わからず、只たゞ騷さわがしい蠻音ばんおんが一ひとつになつて、酒さけの香にほひと共ともに神かみの境内けいだいに漲みなぎつてゐる。神社やしろの周圍まわりには小兒こどもが群むらがり戯たはむれてゐる。常つねの夜よは漣さゞなみの音おとと松風まつかぜばかり。丑うし三みつには呪咀のろいの女をんなが白裝束しろしやうぞくで蠟燭らうそくを頭かしらに戴いたゞき、呪文じゆもんを誦じゆして松まつの幹みきに、胸むねの恨うらみを籠こめた五寸すん釘くぎを打うつと、母はゝから聞きいてゐるが、その淋さびしい淨地じやうちは、一村そんの勸樂くわんらくの巷ちまたとなつてゐる。
吉松きちまつはその聲こゑを聞ききその香かを嗅かぎ、熊くまの如ごとき腕かいなをまくつた人々ひと〴〵の勇いさましい姿すがたを垣間見かいまみてゐた。しかし團樂まどゐに飛込とびこみもしない。
「兄あゝよ」と後うしろから突如だしぬけに聲こゑがした。顧かへりみると初野はつのは依然いぜん兩方りやうはうの袖口そでくちを持もつて、無心むしんに身體からだを搖ゆすぶつてゐる。
「兄あゝはお宮みやの中なかへ行ゆかんのか」と、兄あにの顏かほを不思議ふしぎさうに見みた。
「汝われやまだ此處こゝに居をるんか、皆みんなに嬲なぶられん間まに、早はやう家うちへ戾もどれ、お母かあが待まつとる」と、吉松きちまつは常つねになく柔やさしく云いつて、妹いもとの袖そでを捕とらへやうとすると、初野はつのは身みを翻ひるがへして松まつの蔭かげに逃にげた。
濃こい雲くもが東ひがしの山やまから吐はき出だされて、空そらへ廣ひろがつてゐる。
「明日あしたは雨あめか」と、チヨン髷まげの老漁夫らうぎよふがいぢかり﹅﹅﹅﹅股またで石段いしだんを下おりた。
飮のみ盡つくした空德利からどくりを提さげた千鳥足ちどりあしが鳥居とりゐの左右さいうへ散ちつてゐる。先立さきだつたのと遲おくれたのと互たがひに呼よんでは答こたへ、「畜生ちくしやうめ」「馬鹿ばか野郞やらう」の聲こゑが姦かしましく闇やみから闇やみに傳つたはる。吉松きちまつは彼等かれらが今宵こよひ至いたる所ところに賭博とばくに耽ふけり、女をんなに弄たはむれる樣さまを想像さう〴〵して、羨うらやましく嫉ねたましく感かんじた。
大勢おほぜいの後あとから、手拭てぬぐひを首くびに結むすんだ一群ひとむれが、社内しやないを出でて、お百度ど石いしを取圍とりかこみ、何なにか小聲こごゑで話はなし合あつてゐる。虎とらもゐる。龜かめもゐる。頻しきりに首肯うなづいてゐるのは源げんらしい。と思おもふと、吉松きちまつは空想くうさうの消きえて急きふに恐氣おぢけがつき、玉垣たまがきの蔭かげに小ちいさくなつた。そして彼等かれらが鳥居とりゐを潜くゞるのを待まち、靜しづかに歸かへりかけた。
星ほしは殘のこりなく隱かくれた。沖おきには常つねに見みる漁火いさりびの一ひとつもなく、舟唄ふなうたも聞きこえず、暗くらい波なみは黑くろい雲くもと接せつして、只たゞ風かぜにもまれた滿汐みちしほの音おとが高たかい。
「兄あゝよ、沖おきにや海坊主うみばうずが居をるんぢやなあ」と初野はつのは闇やみの中なかから聲こゑを掛かけた。吉松きちまつは默だまつて妹いもとの手てを執とつて家うちへ歸かへつた。母はゝの影かげは障子しやうじに薄うすく映うつつてゐる。絲車いとぐるまの音おとも聞きこえる。
(四)
翌日よくじつは雨あめ。風かぜも少すこし加くははつた。婆ばあさんは鈴すゞを持もつて、お高たか姊あねえの家うちへ生靈いきりやう退治たいぢに出でかけた。初野はつのは柏餅かしはもちを腹はら一杯ぱい詰込つめこみ、津蟹づがにの鋏はさみを絲いとで縛しばつて弄もてあそんでゐたが、やがて厭あいたのか、傘からかさも差ささずに、雨あめを犯おかして當度あてどなく出でて行いつた。吉松きちまつは只たゞ腹匐はらばひになつて戶外そとを眺ながめる。
びしよ﹅﹅﹅濡ぬれの水汲みづくみ女をんなが昨日きのふと同おなじく、跡切とぎれ〴〵に通かよつてゐる。醉よつて銅鑼どら聲ごゑで唄うたつて通とほる者ものも多おほい。竹たけの皮鼻緒かははなをの足駄あしだを引ひきずり德利とくりを提さげた子供こどもが俯首うつむいて錢ぜにを讀よみ〳〵通とほつた。番傘ばんがさを擔かついで萌黃もえぎの重箱ぢうばこ包づゝみを柄えの先さきにぶら﹅﹅下さげた小娘こむすめが粽ちまきを嚙かぢりながら通とほつた。どれもどれも見馴みなれた顏かほだ。
彼かれは目めでは戶外そとを見みながら、心こゝろでは昨日きのふの出來でき事ごとを思おもひ浮うかべた。他鄉たきやうを知しらず書しよも讀よまぬ彼かれには、夢ゆめにも現うつゝにも一村そんの事件じけんが凡すべての智識ちしきであり想像さうぞうであるのだ。で、今日けふも彼かれの貧あはれな智識ちしきの卷まきを繰廣くりひろげて見みたが、その全世界ぜんせかいには源げんもゐる、龜かめもゐる。彼等かれらは繪本ゑほんで見みた綱つなや金時きんときのやうな腕うでを持もつて、一村そんに跋扈ばつこしてゐる。彼等かれらが生いける限かぎりこの村むらは泰平たいへいではない。私わしのやうな痩腕やせうでで叶かなうものか。
彼かれは又またお竹たけのことを思おもひ出だした。その機織はたおり姿すがたや田植たうえ姿すがたが印象いんしやうの强つよい頭あたまにあり〳〵と浮うかび、兼かねてのひそ〳〵﹅﹅﹅﹅話ばなしも、今いま聞きく如ごとく感かんぜられたが、ふと源げんの事ことに思おもひ及およぶと、樂たのしい夢ゆめは一時じに消きえてしまひ、果はたしてお竹たけが源げんを思おもつてるのか、虎とらの吿口つげぐちが眞まことであるか戯言じやうだんであるか、靜しづかに考かんがへる暇いとまがない。只たゞ彼かれを打うたんとして源げんが拳こぶしを握にぎつてる姿すがたが見みえて、自然しぜんに目めを瞑つむつた。