雨あめは急きふに强つよくなり、戶外そとは一層そう暗くらくなつた。板いたの間まには藁屋根わらやねから雫しづくが垂たれる。隣となりの牛うしが大儀たいぎさうに吼ほえる。知しらぬ間まにお竹たけが綛かすりの前垂まへだれを頭かしらに戴いたゞいて軒下のきしたに立たつてゐた。
「吉きちさん、傘かさを貸かしてお吳くれんか」
吉松きちまつは幻影まぼろしでも現あらはれたやうにギヨツ﹅﹅﹅として、目めを丸まるくした。
「私わしんとこに傘かさがあるもんか」と、態わざと橫よこを向むいた。
「家うちにや誰だれも居をらんかな」
「むん」
と、微かすかに云いつたのみで、吉松きちまつは薄緣うすべりに顏かほをすり付つけてゐる。
「吉きちさん、先日こないだの話はなしはどないするんかな、考かんがへちや居をらんのかな」と、お竹たけは小聲こごゑで云いふ。吉松きちまつは默だまつてゐる。
「ちつとは小降こぶりになつた」と、お竹たけは空そらを仰あふいで、「なあ吉きちさん、お節句せつくが濟すんだら船ふねが出でるから來きてお吳くれな」と甘あまえて云いつて、前垂まへだれを被かぶつたまゝ尻端折しりはしおつて駈かけ出だした。
吉松きちまつは頭かしらを持上もちあげて、夢ゆめ見みたやうにその後うしろを見送みおくり、姿すがたが見みえなくなると又また寢ねそべつた。何故なぜもつと話はなさなかつたらう、問とはなかつたらうと後悔こうくわいした。「舟ふねが出でたら會あはう」、節句せつくが濟すめばお竹たけの父ちゝも沖おきへ出でて、彼女あれの身みも暇ひまになる。源げんも龜かめも海うみへ行ゆく。さうなればお竹たけの心こゝろも確たしかめられる。と思おもふと一縷るの希望きぼうが浮うかばぬでもない。明日あす明後日あさつて明後々日しあさつてと、彼かれは指ゆびを折をつて、「八日やうかには腕うでの强つよい血ちを恐おそれん奴やつは、島しまの向むかう浪なみの荒あらい沖おきへ出でてしまう」と、にやり﹅﹅﹅と笑わらつた。
しかし子供こどもの時分じぶんから胸むねに刻きざみ込こんだ不安心ふあんしんは、今いまも消きえ失うせず、ちよろ〳〵舌したを出だす。彼かれには村むらが恐こわいのだ。盂蘭盆うらぼんとか氏神祭うじがみまつりとか、四季き折々をり〳〵の賑にぎはひには、屹度きつと下駄げたが飛とび鉈なたが飛とび、血塗ちまみれ騷さわぎの起おこるに定きまつたこの殺伐さつばつな村むらが恐こわい。何なんだつて皆みんなが仲なかよく面白おもしろく暮くらさんのだらう。せめて命知いのちいらずの源げんが死しんだなら、此この村むらも少すこしは穩おだやかになるかも知しれぬ。喧嘩けんくわの數かずも少すくなくならう。龜かめや米よねも源げんに唆そゝのかされて付元氣つけゞんきで暴あばれ廻まわるんだから、親分おやぶんの源げんがゐなければ、あんなに無理むり非道ひだうな人困ひとこまらせをせんに極きまつてゐる。
「村むらの爲ため自身じゝんの爲ため、源げんが死しんだら〳〵」と、二十分ぷんも三十分ぷんもそればかり考かんがへた。驟雨ゆうだち模樣もやうのドシヤ降ぶりが通とほると、密雲みつうんが薄うすらいで戶外そとは稍々やゝ明あかるくなつた。初野はつのの弄もてあそんでゐた津蟹づがには泡あわを吹ふきながら、吉松きちまつの頭あたまの側そばへ這はつて來きた。彼かれはふと思おもひ立たつて、絲いとを手繰たぐつて、蟹かにを柱はしらに縛しばりりつけ、塵紙ちりがみに寫生しやせいを始はじめた。蟹かには飛とび出でた目めに怒いかりを含ふくんで藻搔もがき出だす、紙かみにもその藻搔もがいてる樣さまが生々いき〳〵と現あらはれた。興きようが湧わいて五枚まい六枚まい書かき續つゞけたが、やがて惜氣おしげもなく鼻はなをかんで、丸まるめて外そとへ投なげた。軒下のきしたに羽搔はがいを縮ちゞめてコロ〳〵と鳴ないてた鷄とりは、餌ゑばと思おもつたか、反古紙ほごかみをつゝき出だした。低ひくい石いしころ道みちを番傘ばんがささして、白裝束しろしやうぞくの母はゝと赤あかい顏かほした妹いもととが歸かへつて來くる。
「本當ほんまに〳〵、源げんの死しにぞこない奴め覺おぼえてやがれ」と、母はゝは怒鳴どなつて、初野はつのを家うちへ引上ひきあげた。初野はつのはぼんやり﹅﹅﹅﹅立たつてゐたが、蟹かにが目めにつくと、柱はしらから離はなして居間中ゐまぢうを引ひきまはす。
「おのれ糞くそ、源げんの獄道ごくだう」「罰當ばちあたり奴め」と、喧かしましい聲こゑが響ひゞき渡わたる。吉松きちまつは呆氣あつけに取とられて、母はゝの顏かほを見上みあげ、
「お母かあ、どうしたんなら」
「どうしたも何なにもあるもんか、汝われまあ聞きいて吳くれい、お高たか姉ねえのとこから戾もどりに、米公よねこうの前まへを通とほると、初野はつのが眞赤まつかな顏かほをして裸はだかになつとるぢやないか、何なにをしとるんかと思おもうて入はいつて見みると、汝われ、源げんや龜かめが大胡床おほあぐらかいて酒さけを食くらうとりやがつてなあ、初野はつのに無理むり無體むたいに酒さけを呑のませて踊をどらせとるんぢやでな、そりを見みて、私わしや腹はらが立たつて〳〵、飛とび込こんで叱しかりつけてやると、汝われ、尙なほの事こと皆みんなが惡戯氣ふざけ出だしやがる、終しまひにや私わしの持もつとる鈴すゞを出だして、囃はやしちや馬鹿踊ばかをどりを初はじめやがる、大事だいじな鈴すゞが汚よごれちや、私わしの命いのちを取とられたも同おなじでないか、今いまに見みて居をれ、祈いのり殺ころしてやるぞ」
と口惜くやし淚なみだを濺そゝいだ。吉松きちまつは心こゝろでは怖氣おぢけがついたが、それでも母はゝを慰なぐさめるつもりで、
「そがい﹅﹅﹅に怒おこらいでも、私わしが仇かたきを取とつて上あげらあ」と云いつたが、母はゝは氣きがむしやくしや﹅﹅﹅﹅﹅﹅して、常つねになく邪慳ぢやけんに、
「汝われや口くちばつかりで、源げんの腕うでに叶かなふもんか、汝われが弱虫よわむしじやから、初野はつのまで皆みんなに意地いぢめられるんぢやがな」
「さう云いひなさんな、私わしも男をとこぢやもの」と、吉松きちまつは不快ふくわいな顏かほをした。母はゝは鈴すゞを眺ながめて血相きつさうを變かへてゐる。
(五)
晩餐ばんさんが終をはると、母はゝは絲車いとぐるまへ手てを掛かけたが、もう氣きが落付おちついたらしく、慳貪けんどんな口くちも利きかなくなり、顏色かほいろも平生ふだんの通とほりに眠ねむさうだ。雨あめがまだ止やまぬので早はやく戶締とじまりをして、初野はつのは宵よひの口くちから寢間ねまへ入はいつた。遠方ゑんぱうから幽かすかな聲こゑが風かぜにつれて吹ふき込こむのみで、今夜こんやは昨夕ゆふべと異ちがつて靜しづかだ。
「吉きち、もう寢ねえよ、お母かあも寢ねるから」
「私わしやまだ眠ねむたうない」
吉松きちまつは村長そんちやうの宅たくへ繪本ゑほんでも見みせて貰もらひに行ゆかうかと思おもひ、門口かどぐちまで出でた。見みる限かぎり果はてのない暗黑あんこく世界せかい、後うしろの山やまも宮みやの松まつも闇やみに沒ぼつして、天てんにも地ちにも豆粒まめつぶほどの光ひかりもない。で、急きふに恐おそろしくなつて家いへの中なかへ駈かけ込こんだ。煤くすぶつた金比羅こんぴら神社じんじやのお札ふだの前まへに、燈火ともしびは丁子ちやうじを結むすんでゐる。彼かれは燈明とうみやうを搔かき立たて、油あぶらを注つぎ、その前まへに端坐たんざして、一家か安穩あんおん四海かい泰平たいへいの願ねがひを籠こめた。初野はつのは夢ゆめに泣聲なきごゑを立たてゝ、「兄あゝよ、來きて吳くれ、恐こわいがな〳〵」と叫さけんで、口くちから涎よだれを垂たれてゐる。
吉松きちまつは自分じぶんが妹いもと一人ひとり庇かばうことも出來できぬ腑甲斐ふがひなさを思おもつた。親子おやこ三人にんが雨風あめかぜに曝さらされ、乞食こぢきになつて流浪るらうする樣さまが思おもはれた。
でも、考かんがへてる中うちに何時いつとなく妹いもとの傍そばへもぐり﹅﹅﹅込こみ、木枕きまくらをして眠入ねいつた。斷たえ斷だえに苦くるしい夢ゆめに襲おそはれたが、ふと芥溜ごみためで拾ひろつた錆さびた瓦釘かはらくぎを持もつて、宮みやの松まつの樹きに源げんを呪のろつては打うち〳〵してゐると、愕然がくぜんと目めが醒さめた。妹いもとが彼かれの肚腹ひばらを蹴けつてゐる。燈明とうみやうは消きえかゝつてゐる。
丑三うしみつは今いま時分じぶんだらう、宮みやへ詣まゐつて源げんを咀のろひ殺ころしたい。彼かれが死しぬりや一村そんの災わざわひが除のけると思おもひ込こんだ揚句あげく、自分じぶんが自分じぶんで恐おそろしくなつて、蒲團ふとんの中なかへ首くびを引込ひつこめた。
* * * * * *
翌日よくじつは五月ぐわつ五日いつか。雨あめは名殘なごりなく晴はれ、冴さえた光ひかりは一村そんを包つゝんでゐる。吉松きちまつは晝餐ひるの御馳走ごちさうにと魚買さかなかひに出でた。道みちの左右さいうの葺屋わらや瓦屋かはらや、家々いへ〳〵の門かどには五月ぐわつ幟のぼりが勇いさましく飜ひるがへつてゐる。小兒等せうにらは諸方しよはうの幟のぼり見物けんぶつに廻まわつてゐる。吉松きちまつは何なんとなく得意とくいになつて空そらを見上みあげてゐると、源げんが籠かごを提さげて近ちかづき、
「吉公きちこう、汝われも壯健たつしやか、久振ひさしぶりじやのう」と笑顏ゑがほをして、「沙魚はぜをたんと﹅﹅﹅貰もらうたから、汝われにも分わけてやらう、さあその鍋なべを此方こちらへ出だせ」吉松きちまつは返事へんじもせず棒立ぼうだちちになつてゐる。凉すゞしい鹽風しほかぜが顏かほを掠かすめる。
村塾
寄宿舎きしゆくしやのはづれ、松まつの樹きに蔽おほはれた櫓風やぐらふうの高たかい古堂ふるだうから、ドン〳〵と太鼓たいこが鳴なつて、擂鉢すりばちの底そこのやうな平地へいちを越こして、向むかうの山やまへ響ひゞき渡わたる。その最後さいごの音おとの消きえぬ間まに、袴はかまを着つけた二十歲はたち前まへの少年せうねんが、正門せいもんや通用門つうようもんから打うちつゞいて、幾人いくにんとなく現あらはれて來くる。校舎かうしやの石壁いしべいを背せにして丁字てうじ形がたの細ほそい道路だうろに溢あふれて、麥むぎの中なか、菜種なたねの中なかにも散ちらばつた。
今澤いまざわ定吉ていきちもその一人にんだ。文章ぶんしやう軌範きはんと靖獻せいけん遺言ゐげんとを、布呂敷ふろしきにも包つゝまず左ひだりの脇わきに抱かゝへ、右みぎの手ては木綿もめんの兵子帶へこおびに挿はさみ、同おなじ年頃としごろの通學生つうがくせいA君くんと無邪氣むぢやきな話はなしをしながら、草履ざうり穿ばきで畦道あぜみちを傳つたつた。この學生がくせいとは四五日前にちぜんに、東京とうきやうの雜誌ざつしの交換かうくわんを約やくしてから、急きふに懇意こんいになつたので、每晚まいばん往來わうらいして、文章ぶんしやうの議論ぎろんなどをして居る。
「君きみは何故なぜ寄宿舎きしゆくしやに入はいらんのだ」
「僕ぼくあ入はいりたいんだけれど、親爺おやぢが寄宿舎きしゆくしやを嫌きらつてるから」
「そうかい、昨夕ゆふべは谷村たにむらが蒲團蒸ふとんむしにされたさうだな、寄宿舎きしゆくしやの奴やつは亂暴らんぼうだ」
「何なんだか賄まかなひ征伐せいばつをやると力りきんでる奴やつがある、喜公きいこうも生意氣なまいきだから擲なぐると云いつてるよ」
「寄宿舎きしゆくしやの者ものあ、碌ろくに勉强べんきやうもせんで、そんなことばかり考かんがへとる、僕ぼく等らは矢張やはり通學つうがくして、餘暇よかには文章ぶんしやうでも書かいた方はうがいゝねえ、君きみ」と、A君くんはさも深ふかく感かんじたように云いふ。
やがてA君くんは支道えだみちへ分わかれた。
「ぢや失敬しつけい」
「今夜こんやは僕ぼくの家うちへ來給きたまへ、紅葉亭こうえふていの方はうへ散步さんぽしよう」
今澤いまざわは「あの男をとこも面白おもしろいいゝ人間にんげんだ」と思おもつた。此頃このごろは凡すべての人ひとが懷なつかしい。新あたらしい知合しりあひになつた村むらの人ひとも學友がくいうも、凡すべて懷なつかしい。