「よく湧わいてるから、もうよろしい」と云いつても、
「大事だいじな子こに風かぜでも引ひかせちやならん」と承知しやうちしない。今澤いまざわは燃もえ上あがる火ひの、逹公たつこうの頑丈がんじやうな赤あかい顏かほを照てらすのを見みてゐたが、
「叔父をぢさんは力ちからが强つよいだらうな」
「强つよいとも、十人力にんりきだ、貴下あんた位ぐらゐは手ての表ひらでさし上あげらあ、村むらの若わかい者ものでも私わしにや降參こうさんするからな」と大おほきな聲こゑで云いつて、ハツ〳〵と笑わらひ、「學問がくもんする人ひとは、何なんで皆みな弱よわいんだらう」
「そりや色いろんなことを考かんがへるから、百姓しやうしてるやうにボンヤリしちや居をれんもの」
と、今澤いまざわがマセた口くちを利きくと、逹公たつこうはへゝんと嘲笑あざわらつて、
「百姓しやうでもボンヤリしちや居をりませんぜ、貴下あんたなんかこそ今いまの間うちは本ほんを讀よんで逹たつの魚さかなでも食たべとりや、外ほかに云分いひぶんはないんだから結構けつこうだ、しかし貴下あんただつて今いまに心配事しんぱいごとが出來できて來くる、屹度きつと出來できる、今歲ことし十四におなりなさるんだから、卒業そつげふ迄までまだ後あと四年ねんだ、この村むらにゐる間うちに、もうそろ〳〵﹅﹅﹅﹅慮見方れうけんかたが違ちがつて來きまさあ」
「そんな事ことあ本ほんを讀よんで知しつてらあ」
「さうでないて、壯太さうたなんかゞな、エラさうな口くちを利きくと、私わしが云いつて聞きかせます。私わしの目めにやお前まへ逹たちの腹はらは見みえ透すいてるつてね、逹公たつこうは明盲あきめくらでも頭あたまにちやん﹅﹅﹅と四書しよ五經きやうが備そなはつとるんですぜ、だから忰せがれにもちつとばかりの學問がくもんをせんでも、親爺おやぢの敎をしへをよく聞きけ、それで澤山たくさんだと云いふんです、忰せがれもあれで親爺おやぢの子こだ、ヘマな眞似まねをして耻はぢを搔かくやうなことはしません」と、息子むすこの自慢じまんをして、獨ひとりで笑わらつた。今澤いまざわはゆで﹅﹅鮹だこのやうになつて聞きいてゐた。
その夜よ今澤いまざわが散步さんぽから歸かへると、直すぐ寢床ねどこへ入はいり、朝あさまで夢ゆめ一ひとつ見みずに熟睡じゆくすゐした。起おきると例れいの如ごとく畦あぜ傳づたひに學校がくかうへ向むかつた。通學生つうがくせいの溜たまりへ入はいると、既すでに四五人にん集あつまつて賑にぎやかに喋しやべつてゐたが、その一人にんが今澤いまざわを見みると、
「ぢや今澤君いまざわくんに聞きいて見み玉たまへ」といふ。
「何なんだい」と、今澤いまざわは駈かけてその群むれへ入はいつて目めをきよろ〳〵させた。
「君きみはまだ知しらんのか、昨夕ゆふべの賄方まかなひかたの喧嘩けんくわを、喜公きいこうが打ぶたれたさうだぜ」
「え、喜公きいこうが誰だれに」
「壯太さうたといふ奴やつに」
「だから君きみに聞きくんさ、君きみは二人ふたりともよく知しつてるから」
今澤いまざわは驚おどろいてよく聞きくと、壯太さうたは刃物はものを持もつてゐたので、他ほかの者ものは恐おそれて近ちかづかず、喜公きいこうは思おもふさま打ぶたれた。そして壯太さうたは昨夕ゆふべから寄宿舎きしゆくしやにゐないさうだ。
この噂うはさは放課はうくわ時間じかん每ごとに話題わだいに上のぼり、逹公たつこうが賄まかなひ部屋べやで怒鳴どなつてる樣さまを報吿ほうこくする者ものもあれば、その原因げんいんを硏究けんきうする者ものもある。學校がくかうは一日にちこれで賑にぎはつた。
學課がくゝわが終をはると、今澤いまざわは例れいの木蔭こかげで休やすんで、書物しよもつを讀よみ草くさの香にほひに浸したつて、最早もはや喧嘩けんくわの原因げんいんなどを念頭ねんとうに置おかなかつた。
その晚ばん、彼かれは近頃ちかごろ覺おぼえた詩吟しぎんをしながら、谷川たにがはに沿そうて散步さんぽした。宿やどの娘むすめは鍬くわを洗あらつてゐる。側そばには二三の百姓しやうが脚胖きやはんと草鞋わらじを投なげ出だして足あしを洗あらつてゐる。茲こゝでも高たかい聲こゑで喧嘩けんくわの噂うはさだ。
「喜公きいこうも意氣地いくぢのない奴やつだのう」「播州者ばんしうものなんかに毆なぐられるなんて村むらの名折なをれだ」「彼奴あいつがまだ村むらにゐようなら袋叩ふくろたゝきにしてやるになあ」と、口々くち〴〵に憤慨ふんがいしてゐる。
「何なんでも壯太さうたの野郞やらうが惡わるいに違ちがいない、ちつとばかりの學問がくもんを鼻はなにかけて、漢語かんごなんか使つかやがつて、平生ふだんから小憎こにくらしい奴やつだつた」
「全體ぜんたい彼奴あいつ生意氣なまいきだ、新田しんでんの辰たつの娘むすめに艶書ふみをつけたといふぜ、女をんなを口說くどくに小六こむつケ敷しい艶書ふみにも及およぶまい」
「他國たこくの奴やつに女をんなを荒あらされて溜たまるもんか」と皆みんなで笑わらつた。宿やどの娘むすめは鍬くわを擔かついで急いそいで歸かへつた。入違いりちがつて逹公たつこうが佛頂面ぶつてうづらをして來きたが、今澤いまざわが蹲しやがんで道みちを防ふさいでるので、
「そうら、退どいた〳〵」と邪慳ぢやけんに云いつて、彼かれを突飛つきとばすやうにして、馬うまをザブリと水みづへ入いれた。水みづは四邊あたりに飛とびかゝる。
「逹たつさん、壯太さうたは行方知ゆくへしれずか」
「何なんであんな無茶むちやな事ことをしたんだらう」と、左右さいうより問とひかけた。
「播州ばんしうの奴やつあ畜生ちくしやうだ、穩順おとなしさうな面つらしてやがつて」と、逹公たつこうは凄すごい顏かほをして、手綱たづなで馬うまを打うつた。
今澤いまざわは目めを丸まるくして恐々こは〴〵見みてゐたが、やがて逃にげるやうに川下かはしもへ下くだつた。水みづは月光げつくわうを乗のせて耳語さゝやくやうに足下あしもとを流ながれてゐる。彼かれは生うまれて初はじめて他鄉たきやう孤獨こどくの感かんを覺おぼえた。
空想家
(一)
單調たんてうな自分じぶんの生涯しやうがいでも、三十五年さいの今いまから過去かこを振返ふりかへつて見みると、知しらぬ間まに幾多いくたの波瀾はらんを經過けいくわしてゐる。何故なぜあんな事ことを考かんがへてゐたのだらうと、昔むかしの幼稚えうちな自分じぶんを冷笑れいせうしたくなるが、それと共ともに五年前ねんまへ十年前ねんまへが懷なつかしく、あゝ今いま一度どあんな氣きになりたいなどと思おもはぬでもない。
自分じぶんは學校がくかうを卒業そつげふする十年前ねんまへ、雜多ざつたの空想くうさうや希望きばうが取留とりとめもなく湧わき上あがり、一人ひとりで悅うれしかつたり氣遣きづかはしかつたりした時とき、山吹町やまぶきちやうの素人宿しらうとやどに下宿げしゆくすることゝなつた。普通ふつうの下宿げしゆく屋やは騷々さう〴〵しいから、靜しづかな家うちへ移うつつて、うん﹅﹅と勉强べんきやうして卒業そつげふ後ご社會しやくわいへ出でる準備じゆんびをしやうぢやないかと、最もつとも親したしい細野ほその徹とほると相談さうだんして、漸やうやく捜さがし當あてたのが五十ばかりの寡婦くわふと十四五の男をとこの子こと二人ふたり切きりの或ある家うち。別べつに生活くらしに困こまるのではないが、小人數こにんずで淋さびしくはあり、家うちに不用ふようの室まがあるのだから、温和おとなしい人ひとになら貸かしてもいゝといふのを、或所あるところから聞込きゝこみ、早速さつそく談判だんぱんして承諾しやうだくを得えたのである。長ながい間あひだ手てを入いれぬと見みえ、家いへは隨分ずゐぶん古ふるびてゐるが、狹せまいながらも、庭にはもあり、殊ことに自分じぶん共どもの借かりた二階かいからは早稻田わせだの森もりまで一面めんに見渡みわたされる。
で、二人ふたりは引越ひきこした時とき、籖引くじびきで席せきを定さだめ、細野ほそのは西にし自分ゞぶんは東ひがしに机つくゑを据すえ、勉强べんきやう時間じかんも定きめて、その間あひだ决けつして無駄むだ話ばなしをしないことにした。互たがひに負まけぬやうに讀よんでは考かんがへ、考かんがへては讀よみ、時々とき〴〵小聲こごゑで話はなしをする外ほか、常つねに靜しづかに机つくゑに向むかつてゐるので女主人かみさんは非常ひじやうに感心かんしんし、自分じぶん共どもに向むかつて「貴下方あなたがたは屹度きつと御出世ごしゆつせなさる」と褒ほめそやし、暇ひまに任まかせて、五月蠅うるさい位くらゐ何なにかの世話せわを燒やいて吳くれる。その上うへ來くる人ひと來くる人ひとに、自分じぶん等らの噂うはさを持出もちだす。それも婆ばあさんの癖くせとして、つまらぬことまで仰山ぎやうさんに吹聽ふゐちやうするので、二階かいで聞きいてゐても可笑をかしくなる。「ほんとに今時いまどき珍めづらしい書生しよせいさんですよ、お酒さけを召上めしあがるぢやなし、寄席よせを聞ききに一度ど入いらつしやるぢやなし、」と褒ほめられるのは當前あたりまへだが、時ときとすると「御飯ごはんだつてちよんびり﹅﹅﹅﹅﹅しか召上めしあがらない」と、さも感心かんしんしたらしく褒ほめることがある。
或日あるひ細野ほそのがまだ學校がくかうから歸かへらず、自分じぶん一人ひとり東ひがしの窓まどを開あけて初秋はつあきの澄すんだ空そらを仰あふぎ、ぼんやりしてゐると、階下したで女主人かみさんが來客らいきやくに向むかつて、べちや〳〵お喋舌しやべりをしては笑わらつてるのが聞きこえる。相變あひかはらず自分じぶん共どもの自慢じまんをもしてゐるらしい。暫しばらくしてその話はなし聲ごゑの消きえると、窓まどの下したの垣根かきねに若わかい女をんなが現あらはれ、自分じぶんを見上みあげたが、急きふに驚おどろいて俯首うつむいて、すた〳〵と通とほり過すぎた。色いろの白しろい細ほつそりした女をんなで、髮かみは束髮そくはつ、葡萄色ぶだういろの羽織はおりを着きてゐた。自分じぶんは目めに映うつつて直すぐ消きえたこの姿すがたを思おもひ浮うかべ、懷なつかしくて溜たまらない氣きがする。今いま女主人かみさんと話はなしてた女をんなに違ちがひないが、何處どこの者ものだらうと、得意とくいの空想くうさうを逞たくましうして、甞かつて或ある處ところで出會であひ、互たがひに戀こひを打明うちあけやうとする間うちに何なにかに遮さへぎられ、別わかれ別わかれになつた女をんなではないかなどと、考かんがへてゐた。すると向むかひの家うちの庭にはから椽側えんがはへ上あがり、障子しやうじを開あけて内うちへ入はいる女をんなが見みえる。後姿うしろすがただけだが、束髮そくはつで葡萄色ぶだういろの羽織はおり、首筋くびすじが滑なめらかで白しろい。自分じぶんは意外いぐわいに驚おどろいたが、譯わけなく悅うれしかつた。「隣家となりには宮内省くないしやうの役人やくにんが住すんでゐて、別嬪べつぴんの娘むすめさんがゐる」と、女主人かみさんが問とはず語がたりをしたことがあつて、自分じぶんは別べつに氣きにも留とめなかつたが、あの女をんなを云いつたのだ。側そばにゐながら自分じぶんは一度ども見みたことがなかつたが、細野ほそのはこの窓側まどぎわに居ゐるんだから、屹度きつと見みてゐたに違ちがひない。
で、窓まどを離はなれずに、それからそれと考かんがへてゐる間うち、細野ほそのが例れいの如ごとく、長ながい髮かみをふは〳〵させ、沈しづんだ顏かほをして、白木綿しろもめんの風呂敷ふろしき包づゝみを抱いだいて歸かへつて來きた。
「郊外そとがよくなつたね、僕ぼくは『經濟けいざい』を休やすんで、一時間じかん落合おちあひの方はうを散步さんぽした」
と、細野ほそのは包つゝみを開あけて、書物しよもつや筆記帳ひつきちやうを取出とりだし、キチンと机つくゑの上うへに重かさねた。
「さうか、これから又また戶山とやまの原はらで讀書とくしよが出來できるね」といつて、態わざと平氣へいきで、「君きみは向むかひの娘むすめを見みたか」と問とふた。
「むん、何なんだか知しらんが、若わかい女をんなを一二度ど見みたよ」と云いつて細野ほそのは微笑びせうした。頰ほゝも少すこし紅味あかみを帶おびる。
「美人びじんだね」
「品ひんのある女をんなだ」
これだけの話はなしで、自分じぶんは元もとの机つくゑへ戾もどり、近世史きんせいしを讀よみかけたが、頻しきりに心こゝろが動搖どうえうして頁ページが墓取はかとらない。
そも〳〵自分じぶんが細野ほそのと親したしくなつたのはこの時ときから一年前ねんまへの秋あきである。それ迄までは陰氣いんきな因循いんじゆんな、何なんとなく齒切はぎれの惡わるい男をとことのみ思おもひ、打解うちとけて話はなしをすることもなかつた。所ところが或ある溫あたゝかき小春日こはるびに自分じぶんが落合おちあひの方はうへ散步さんぽに行ゆくと、土手どての木蔭こかげに背せなを靜しづかな秋あきの日ひに曝さらして一心しんに讀書とくしよしてる男をとこがある。よく見みると細野ほそのだ。好奇心こうきしんから近ちかづいて會釋ゑしやくし、