WeRead Powered by ReaderPub
何處へ cover

何處へ

Chapter 28: 空想家
Open in WeRead

About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

「よくいてるから、もうよろしい」とつても、

大事だいじかぜでもかせちやならん」と承知しやうちしない。今澤いまざわあがの、逹公たつこう頑丈がんじやうあかかほらすのをてゐたが、

叔父をぢさんはちからつよいだらうな」

つよいとも、十人力にんりきだ、貴下あんたぐらゐひらでさしげらあ、むらわかものでもわしにやこうさんするからな」とおほきなこゑつて、ハツ〳〵とわらひ、「學問がくもんするひとは、なんみなよわいんだらう」

「そりやいろんなことをかんがへるから、百しやうしてるやうにボンヤリしちやれんもの」

と、今澤いまざわがマセたくちくと、逹公たつこうはへゝんと嘲笑あざわらつて、

「百しやうでもボンヤリしちやりませんぜ、貴下あんたなんかこそいまうちほんんでたつさかなでもべとりや、ほか云分いひぶんはないんだから結構けつこうだ、しかし貴下あんただつていま心配事しんぱいごと出來できる、屹度きつと出來できる、今歲ことし十四におなりなさるんだから、卒業そつげふまでまだあとねんだ、このむらにゐるうちに、もうそろ〳〵﹅﹅﹅﹅慮見方れうけんかたちがつてまさあ」

「そんなことほんんでつてらあ」

「さうでないて、壯太さうたなんかゞな、エラさうなくちくと、わしつてかせます。わしにやおまへたちはらいてるつてね、逹公たつこう明盲あきめくらでもあたまちやん﹅﹅﹅と四しよきやうそなはつとるんですぜ、だからせがれにもちつとばかりの學問がくもんをせんでも、親爺おやぢをしをよくけ、それで澤山たくさんだとふんです、せがれもあれで親爺おやぢだ、ヘマな眞似まねをしてはぢくやうなことはしません」と、息子むすこ自慢じまんをして、ひとりでわらつた。今澤いまざわゆで﹅﹅だこのやうになつていてゐた。

その今澤いまざわ散步さんぽからかへると、寢床ねどこはいり、あさまでゆめひとずに熟睡じゆくすゐした。きるとれいごとあぜづたひに學校がくかうむかつた。通學生つうがくせいたまりへはいると、すでに四五にんあつまつてにぎやかにしやべつてゐたが、その一にん今澤いまざわると、

「ぢや今澤君いまざわくんいてたまへ」といふ。

なんだい」と、今澤いまざわけてそのむれはいつてをきよろ〳〵させた。

きみはまだらんのか、昨夕ゆふべ賄方まかなひかた喧嘩けんくわを、喜公きいこうたれたさうだぜ」

「え、喜公きいこうれに」

壯太さうたといふやつに」

本當ほんたうか、何故なぜだらう」

「だからきみくんさ、きみ二人ふたりともよくつてるから」

今澤いまざわおどろいてよくくと、壯太さうた刃物はものつてゐたので、ほかものおそれてちかづかず、喜公きいこうおもふさまたれた。そして壯太さうた昨夕ゆふべから寄宿舎きしゆくしやにゐないさうだ。

このうはさ放課はうくわ時間じかんごと話題わだいのぼり、逹公たつこうまかなひ部屋べや怒鳴どなつてるさま報吿ほうこくするものもあれば、その原因げんいん硏究けんきうするものもある。學校がくかうは一にちこれでにぎはつた。

學課がくゝわをはると、今澤いまざわれい木蔭こかげやすんで、書物しよもつくさにほひにしたつて、最早もはや喧嘩けんくわ原因げんいんなどを念頭ねんとうおかなかつた。

そのばんれは近頃ちかごろおぼえた詩吟しぎんをしながら、谷川たにがは沿うて散步さんぽした。宿やどむすめくわあらつてゐる。そばには二三の百しやう脚胖きやはん草鞋わらじしてあしあらつてゐる。こゝでもたかこゑ喧嘩けんくわうはさだ。

喜公きいこう意氣地いくぢのないやつだのう」「播州者ばんしうものなんかになぐられるなんてむら名折なをれだ」「彼奴あいつがまだむらにゐようなら袋叩ふくろたゝきにしてやるになあ」と、口々くち〴〵憤慨ふんがいしてゐる。

なんでも壯太さうた野郞やらうわるいにちがいない、ちつとばかりの學問がくもんはなにかけて、漢語かんごなんか使つかやがつて、平生ふだんから小憎こにくらしいやつだつた」

全體ぜんたい彼奴あいつ生意氣なまいきだ、新田しんでんたつむすめ艶書ふみをつけたといふぜ、をんな口說くどくに小六こむつしい艶書ふみにもおよぶまい」

他國たこくやつをんならされてたまるもんか」とんなでわらつた。宿やどむすめくわかついでいそいでかへつた。入違いりちがつて逹公たつこう佛頂面ぶつてうづらをしてたが、今澤いまざわしやがんでみちふさいでるので、

「そうら、退いた〳〵」と邪慳ぢやけんつて、れを突飛つきとばすやうにして、うまをザブリとみづれた。みづ四邊あたりびかゝる。

たつさん、壯太さうた行方知ゆくへしれずか」

なんであんな無茶むちやことをしたんだらう」と、左右さいうよりひかけた。

播州ばんしうやつ畜生ちくしやうだ、穩順おとなしさうなつらしてやがつて」と、逹公たつこうすごかほをして、手綱たづなうまつた。

今澤いまざわまるくして恐々こは〴〵てゐたが、やがてげるやうに川下かはしもくだつた。みづ月光げつくわうせて耳語さゝやくやうに足下あしもとながれてゐる。れはうまれてはじめて他鄉たきやう孤獨こどくかんおぼえた。


空想家

(一)

單調たんてう自分じぶん生涯しやうがいでも、三十五さいいまから過去かこ振返ふりかへつてると、らぬ幾多いくた波瀾はらん經過けいくわしてゐる。何故なぜあんなことかんがへてゐたのだらうと、むかし幼稚えうち自分じぶん冷笑れいせうしたくなるが、それとともに五年前ねんまへ年前ねんまへなつかしく、あゝいまあんなになりたいなどとおもはぬでもない。

自分じぶん學校がくかう卒業そつげふする十年前ねんまへ雜多ざつた空想くうさう希望きばう取留とりとめもなくあがり、一人ひとりうれしかつたり氣遣きづかはしかつたりしたとき山吹町やまぶきちやう素人宿しらうとやど下宿げしゆくすることゝなつた。普通ふつう下宿げしゆく騷々さう〴〵しいから、しづかなうちうつつて、うん﹅﹅勉强べんきやうして卒業そつげふ社會しやくわい準備じゆんびをしやうぢやないかと、もつとしたしい細野ほそのとほる相談さうだんして、やうやさがてたのが五十ばかりの寡婦くわふと十四五のをとこ二人ふたりりのあるうちべつ生活くらしこまるのではないが、小人數こにんずさびしくはあり、うち不用ふようがあるのだから、温和おとなしひとにならしてもいゝといふのを、或所あるところから聞込きゝこみ、早速さつそく談判だんぱんして承諾しやうだくたのである。ながあひだれぬとえ、いへ隨分ずゐぶんふるびてゐるが、せまいながらも、にはもあり、こと自分じぶんどもりた二かいからは早稻田わせだもりまで一めん見渡みわたされる。

で、二人ふたり引越ひきこしたとき籖引くじびきせきさだめ、細野ほその西にし自分ゞぶんひがしつくゑえ、勉强べんきやう時間じかんめて、そのあひだけつして無駄むだばなしをしないことにした。たがひけぬやうにんではかんがへ、かんがへてはみ、時々とき〴〵小聲こごゑはなしをするほかつねしづかにつくゑむかつてゐるので女主人かみさん非常ひじやう感心かんしんし、自分じぶんどもむかつて「貴下方あなたがた屹度きつと御出世ごしゆつせなさる」とめそやし、ひまかせて、五月蠅うるさくらゐなにかの世話せわいてれる。そのうへひとひとに、自分じぶんうはさ持出もちだす。それもばあさんのくせとして、つまらぬことまで仰山ぎやうさん吹聽ふゐちやうするので、二かいいてゐても可笑をかしくなる。「ほんとに今時いまどきめづらしい書生しよせいさんですよ、おさけ召上めしあがるぢやなし、寄席よせきに一らつしやるぢやなし、」とめられるのは當前あたりまへだが、ときとすると「御飯ごはんだつてちよんびり﹅﹅﹅﹅﹅しか召上めしあがらない」と、さも感心かんしんしたらしくめることがある。

或日あるひ細野ほそのがまだ學校がくかうからかへらず、自分じぶん一人ひとりひがしまどけて初秋はつあきんだそらあふぎ、ぼんやりしてゐると、階下した女主人かみさん來客らいきやくむかつて、べちや〳〵お喋舌しやべりをしてはわらつてるのがきこえる。相變あひかはらず自分じぶんども自慢じまんをもしてゐるらしい。しばらくしてそのはなしごゑえると、まどした垣根かきねわかをんなあらはれ、自分じぶん見上みあげたが、きふおどろいて俯首うつむいて、すた〳〵ととほぎた。いろしろほつそりしたをんなで、かみ束髮そくはつ葡萄色ぶだういろ羽織はおりてゐた。自分じぶんうつつてえたこの姿すがたおもうかべ、なつかしくてたまらないがする。いま女主人かみさんはなしてたをんなちがひないが、何處どこものだらうと、得意とくい空想くうさうたくましうして、かつあるところ出會であひ、たがひにこひ打明うちあけやうとするうちなにかにさへぎられ、わかわかれになつたをんなではないかなどと、かんがへてゐた。するとむかひのうちにはから椽側えんがはあがり、障子しやうじけてうちはいをんなえる。後姿うしろすがただけだが、束髮そくはつ葡萄色ぶだういろ羽織はおり首筋くびすじなめらかでしろい。自分じぶん意外いぐわいおどろいたが、わけなくうれしかつた。「隣家となりには宮内省くないしやう役人やくにんんでゐて、別嬪べつぴんむすめさんがゐる」と、女主人かみさんはずがたりをしたことがあつて、自分じぶんべつにもめなかつたが、あのをんなつたのだ。そばにゐながら自分じぶんは一たことがなかつたが、細野ほそのはこの窓側まどぎわるんだから、屹度きつとてゐたにちがひない。

で、まどはなれずに、それからそれとかんがへてゐるうち細野ほそのれいごとく、ながかみをふは〳〵させ、しづんだかほをして、白木綿しろもめん風呂敷ふろしきづゝみいだいてかへつてた。

郊外そとがよくなつたね、ぼくは『經濟けいざい』をやすんで、一時間じかん落合おちあひはう散步さんぽした」

と、細野ほそのつゝみけて、書物しよもつ筆記帳ひつきちやう取出とりだし、キチンとつくゑうへかさねた。

「さうか、これからまた戶山とやまはら讀書とくしよ出來できるね」といつて、わざ平氣へいきで、「きみむかひのむすめたか」とふた。

「むん、なんだからんが、わかをんなを一二たよ」とつて細野ほその微笑びせうした。ほゝすこ紅味あかみびる。

美人びじんだね」

ひんのあるをんなだ」

これだけのはなしで、自分じぶんもとつくゑもどり、近世史きんせいしみかけたが、しきりにこゝろ動搖どうえうしてページ墓取はかとらない。

そも〳〵自分じぶん細野ほそのしたしくなつたのはこのときから一年前ねんまへあきである。それまで陰氣いんき因循いんじゆんな、なんとなく齒切はぎれのわるをとことのみおもひ、打解うちとけてはなしをすることもなかつた。ところあたゝかき小春日こはるび自分じぶん落合おちあひはう散步さんぽくと、土手どて木蔭こかげせなしづかなあきらして一しん讀書とくしよしてるをとこがある。よくると細野ほそのだ。好奇心こうきしんからちかづいて會釋ゑしやくし、