「何なにを讀よんでるんです」
と、小形こがたの書物しよもつをのぞくと、カツセル版ばんの「ウエルテルの悲哀ひあい」である。
「まあそんな者ものです」と、細野ほそのは書物しよもつを閉とぢて懷ふところに入いれたが目めが潤うるむでゐる。自分じぶんは不思議ふしぎに感かんじて、
「それは哀あはれな小說せうせつですか」と聞きくと、
「え、主人公しゆじんこうが失戀しつれんで苦悶くもんして自殺じさつするんです」
「君きみはそんな者ものに同感どうかんしますか」
細野ほそのは躊躇ちうちよして、「君きみはどうです」と問返とひかへした。
「僕ぼくは無論むろん同感どうかんします、君きみは」
「僕ぼくも同おなじ事ことです」
「そうですか、僕ぼくは君きみが戀こひに泣なく人ひととは知しらなかつた。」と、自分じぶんはステツキで櫻さくらの枝えだを叩たゝきながら、「どうです一緒しよに其その邊へんを散步さんぽしませんか」と促うながすと、細野ほそのは立上たちあがつて衣服きものの埃ほこりを拂はらひ、土手どてを駈かけ下おりた。
で、二人ふたりは寄よりつ離はなれつ、鐵道てつだう線路せんろを橫切よこぎつて田圃たんぼ道みちを步あゆみ、小說せうせつの話はなしから戀こひの議論ぎろんをした。その間あひだにも細野ほそのは目めを留とめ耳みゝを澄すまして、しんみりした周圍しうゐの景色けしきを味あぢはつてゐるやうである。既すでに初雪はつゆきの降ふつたといふ富士山ふじさんは白しろく正面しやうめんに聳そびえ、天てんは深ふかく澄すんで、雲くももなく風かぜもなく、只たゞ兵士へいしの射的しやてきのみが、物凄ものすごく空氣くうきを騷さはがせてゐる。
「僕ぼくは每日まいにちこの界隈かいわいを散步さんぽします」と、細野ほそのは上目うはめで空そらを仰あふぎ、「僕ぼくは靑あをい空そらを見みたり、白しろい雲くもの漂たゞようてるのを見みると、身體からだが地ちの上うへからふら〳〵飛とんで行ゆくやうな氣きがするんです、自然しぜんという者ものは實じつに神々かう〴〵しい美うつくしい者ものだ、それに何故なぜ人間にんげんばかりは汚きたないことや殘酷ざんこくなことをして下品げひんな生活せいくわつを送おくつてるんでせう、昨日きのふもね風かぜが吹ふいて寒さむかつたけれど、此處こゝを散步さんぽして、木この葉はがさら〳〵と雨あめの降ふるやうに落おちて、小鳥ことりが哀あはれさうに鳴ないてるのを聞きいてると、魂たましひがとろける﹅﹅﹅﹅やうになりました。君きみはどうです、自然しぜんを見みてそんな感かんじはしませんか。」
自分じぶんは左程さほど深ふかくは感かんじないのだが、細野ほそのの言葉ことばに感心かんしんした所ところだから、强しいて同意どういして、
「僕ぼくも君きみと同感どうかんです、つまり人間にんげんの慾望よくばうの中うちで最もつとも神聖しんせいな者ものは、自然しぜんを愛あいする心こゝろと戀愛れんあいとでせう」
「自然しぜんに醉ゑひ戀こひに醉ゑひか」と、細野ほそのは銀ぎんの鈴すゞでも鳴ならすやうな聲こゑで、朗吟らうぎんして深ふかく自みづから感かんじてゐる。自分じぶんは初はじめて彼かれを面白おもしろい男をとこだと思おもつた。
で、これ迄までの經歷けいれきを聞きくと、彼かれは作州さくしう津山つやまの生うまれ、縣けんの中學ちうがくを卒業そつげふすると直たゞちに上京じやうきやうしたが、學資がくしの支給しきうが充分じふゞんでないので、二三年ねんで身みに藝げいをつけ、自活じくわつした上うへ兩親りやうしんの世話せわまでせねばならぬ。その爲ために止やむなく私立しりつ學校がくかうの政治科せいぢくわへ入學にふがくしたものゝ、元來ぐわんらい政治せいぢや法律はふりつは好このましくない。だから學科がくゝわを勉强べんきやうする傍かたはら、詩しや小說せうせつを讀よんで慰なぐさめてゐるので、時々とき〴〵は自身じゝんでも新體詩しんたいしなどを作つくるとのこと。
「先日こないだも天使エンゼルの詩しを作つくつたんです、靑年せいねん男女だんぢよの純潔じゆんけつな戀こひ物語ものがたりを天てんの使つかひが白雲しらくもの上うへで聞きいてゐて、永久えいきうに戀こひが醒さめぬやうに神泉しんせんの水みづを注そゝぎかけてやる所ところを歌うたつたのです、近日きんじつ君きみに見みせませう、批評ひゝやうして下ください」
「そりや面白おもしろい、是非ぜひ見みせて吳くれ玉たまへ、二三日間にちゝうに訪問はうもんしますから」
自分じぶんは同級どうきふの友人いうじんの多おほくが、寄よると觸さはると徒いたづらに悲歌ひか慷慨かうがいして天下てんか國家こくかを談だんじ、或あるひは淫猥いんわいな話はなしに耽ふけるのを快こゝろよく思おもはず、殊ことに酒さけを呑のんで下女げぢよに戯たはむれたり、遊廓いうくわくに出入しゆつにふするのを苦々にが〳〵しく感かんじ、卑俗ひぞく下劣げれつの徒とと卑いやしみ、自分じぶんと趣味しゆみの同おなじい學友がくいうのないのを遺憾いかんに思おもつてゐた所ところだから、細野ほそのに會あつたのを無上むじやうに喜よろこび、翌日よくじつ學校がくかうの歸かへりに、彼かれの下宿げしゆくへ立寄たちよつた。四疊半でふはんで床とこもない部屋へやだが、小こさつぱりと取片付とりかたづけてある。
「よく來きましたね」と、情愛じやうあいのある聲こゑで迎むかへられると、もう懷なつかしくて悅うれしくて溜たまらなかつた。それから奇麗きれいな文字もじに滿みちた天使エンゼルの詩しの朗吟らうぎんを聞きき、自分じぶんは批評ひゝやうどころではなく、一字じ一句く悉こと〳〵く感動かんどうさせられ、自分じぶんもこんな詩しを作つくつて見みたいと、心底しんそこから細野ほそのの才さいが羨うらやましくなつた。情死じやうしの是非ぜひ、自殺論じさつろん、精神せいしんの自由說じいうせつ、社會しやくわいの俗趣味ぞくしゆみの攻擊こうげき、それからそれと話はなしの絕たゆる暇ひまなく、遂つひに晚飯ばんめしを共ともにして、夜よの十時じ頃ごろ迄まで腰こしを据すえた。
かくて二人ふたりは無む二の親友しんいうとなつたのである。
(二)
「お神かみさん、今いま來きてた女をんなは向むかひの娘むすめですか」と、晚餐ばんめしの膳ぜんに向むかつて聞きくと、女主人かみさんは指ゆびの先さきで長火鉢ながひばちの緣ふちをこすりこすり、微笑びせうして、
「貴下あなた御覽ごらんなすつて」
「え、一寸ちよつと見みました」
「いゝ女をんなでせう、先まづこの近所きんじよでは天神町てんじんちやうの煙草屋たばこやの娘むすめか、隣となりの娘こかが評判ひやうばんの女をんなですけれど、どうして角力すまふになる者ものですか、第だい一品ひんが違ちがひまさあね、それに堤つゝみのお多津たつさんは、學問がくもんが大變たいへんお出來できなさるし、生花いけばなであれ裁縫ぬいものであれ、何なに一ひとつ女をんなの藝げいに缺かけたものはないので御座ございますよ、もう十九ですから彼方あちらからも此方こちらからも、お嫁よめに吳くれろつて、やい〳〵云いつて來くるさうですがね、中々なか〳〵親御おやごが確しつかり者ものだから、おいそれとは行ゆかないんで御座ございますよ、それにもつと藝げいを仕込しこんで、何處どこへ出だしても耻はづかしくないものにしたいつてね」と、女主人かみさんは一息ひといきに喋舌しやべつて、湯沸ゆわかしをチヤブ臺だいに置おき、「貴下方あなたがたも堤つゝみさんへ御遊おあそびに被入いらつしやいましな、今いまは旦那だんなが御用ごようで西京さいきやうの方はうへ行いらしつて、無人ぶにんで淋さびしがつてゐられるんだから、お話はなし相手あひてでも出來できると、屹度きつとお喜よろこびなさいますよ、些ちつとも氣きの置おけぬ氣持きもちのいゝ家うちでね、私わたし共どももよく伺うかゞつては長話ながばなしをするんで御座ございますよ、昨日きのふも奧おくさんに貴下方あなたがたのお話はなしを致いたしますと、大變たいへん褒ほめて入いらつしやつたんですわ」
自分じぶんは平生ふだん女主人かみさんが物事ものごとを仰山ぎやうさんに云いふのを苦々にが〳〵しく思おもつてゐたが、隣家となりの話はなしについては少すこしも疑うたがひを挿さしはさまなかつた。それに自分じぶん等らの事ことをも隣となりの家族かぞくに向むかつて大袈裟おほげさに吹聽ふゐちやうしたことゝ察さつせられるが、それが少すこしも厭いやな氣きがせぬのみか、却かへつて悅うれしい氣きがした。
しかし、自分じぶんはよく知しらぬ家うちへ推おしかけて行ゆく勇氣ゆうきのあらう筈はずなく、只たゞ時々とき〴〵窓まどから隣となりの庭にはや緣側えんがはを見下みくだし、その姿すがたが現あらはれるかと空賴そらだのみするのみであつた。隣となりは平屋建ひらやだてゞ左程さほど大おほきくはないが、古色こしよくを帶おびて由緒よしありげに見みえ、庭にはが可成かなりに廣ひろく秋草あきくさが垣根かきねに茂しげり片隅かたすみには小ちいさな畠はたけがある。自分じぶんはその家庭かていをも連想れんさうし、氣品きひんのある母はゝと、古風こふうの父ちゝと、かの素直すなほな娘むすめとが穩おだやかな生活くらしをしてゐる樣さまを思おもひ浮うかべ、源氏げんじ物語ものがたりなどにある床ゆかしい住居すまゐを目めに見みてゐるやうに感かんじた。夜よるになり、冴さえた月つきがその草くさの生はへた屋根やねを照てらし、庭にはの草叢くさむらでは蟲むしが頻しきりに鳴なき出だすと、向むかひの家いへが夢ゆめの世界せかいになる。自分じぶんは憧憬あこがれの目めを以もつてそれを眺ながめ、果はてのない空想くうさうの浮うかび、悅うれしい悲かなしみが胸むねに滿みちる。
こんな風ふうで二三日にちを送おくつたが、あの女をんなが自分じぶんの念頭ねんとうを去さらぬことは、少すこしも細野ほそのに語かたらない。細野ほそのは又また卒業後そつげふごの責任せきにんを感かんじながら、絕たえず新體詩しんたいしに心こゝろを取とられ、今いまも『知しられぬ戀こひ』などを作つくつてゐる。それで晚食ばんめし後ご散步さんぽしながら、學問上がくもんじやうの議論ぎろんや卒業後そつげふごの生活せいくわつ方法はうはふについて互たがひに語かたり合あふ時ときも、何時いつの間まにか肝心かんじんの話はなしが外それて、人生じんせいの問題もんだいや戀こひの如何いかんが話題わだいに上のぼり、熱心ねつしんに感想かんさうを述のべ意見いけんを闘たゝかはす。細野ほそのは屡々しば〳〵ダンテの悲慘ひさんなる失戀しつれんに同情どうじやうを寄よせて說とき、「人生じんせいは要えうするに悲慘ひさんだ」とお定きまりの結論けつろんをする。ロメオの悲戀ひれん、ハムレツトの煩悶はんもん、細野ほそのはそれ等らの物語ものがたりを凉すゞしい聲こゑで詩的してきの調子てうしを以もつて話はなし、自分じぶんは眞面目まじめに聞きいて、間接かんせつに其等それらの主人公しゆじんこうに同感どうかんし、自分じぶんも彼等かれらと同おなじく、浮世ゆきよの哀あはれを身みにひし〳〵と覺おぼえてゐる一人ひとりだと信しんじてゐた。それと共ともにその哀あはれを解かいしない我々われ〳〵の仲間なかまは俗物ぞくぶつだとの自負じぶ心しんも多少たせうないでもなかつた。
(三)
舊曆きうれき八月ぐわつの十五夜や、これから散步さんぽに出でやうとしてる所ところへ女主人かみさんが二階かいの入口いりぐちへ首くびを出だして、
「ね槇田まきたさん、今いまお隣となりからお使つかひが來きましてね、今夜こんやお月見つきみをするから、太郞たらう(女主人かみさんの子こ)と、それから貴下方あなたがたにも是非ぜひ入いらしつて下くださいと云いふのですよ、行いつて御覽ごらんなさい、私わたし一人ひとりでお留守番るすばんしますから」と勸すゝめた。
自分じぶんは飛立とびたつやうであつたが、態わざと躊躇ちうちよの體ていで、
「さうですね、細野君ほそのくんは行ゆくかい」
「でも知しらん家うちへ行いくのは變へんだね」
「だつて太郞たらうもまゐるんですから、いゝぢやありませんか」
と、女主人かみさんは頻しきりに促うながす。
「ぢや行いつて見みるかな、君きみは」と聞きくと細野ほそのも同意どういした。
で、二人ふたりは太郞たらうについて、裏木戶うらきどから庭にはを橫切よこぎつた。太郞たらうは緣側えんがはに立たつて、
「叔母をばさん來きましたよ、皆みんなを連つれて」と大聲おほごゑで呼よんだ。すると四十位ぐらゐの小柄こがらな女をんなと太郞たらうと同おなじ年輩ねんぱいの顏かほの靑あをい男をとこの子こが奧おくから出でて來きて、
「よく入いらしつた、さあお上あがんなさい」と、頻しきりに後退しりごみする自分じぶん等らを、引張ひつぱり上あげるやうにして座敷ざしきへ通とほした。
自分じぶんは窮屈きうくつに畏かしこまつて只たゞ「はい〳〵」と受答うけこたへをしてゐたが、妻君さいくんは愛想あいそよく、快活くわいくわつな調子てうしで、絕間たえまなくいろんな世間せけん話ばなしを持出もちだすので、自分じぶんも何時いつの間まにか釣込つりこまれて、例れいの娘むすめが枝豆えだまめや白玉しらたまを盆ぼんに載のせて運はこんで來きた時ときは、最早もはや膝ひざも崩くづれてゐた。