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Chapter 31: (三)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

なにんでるんです」

と、小形こがた書物しよもつをのぞくと、カツセルばんの「ウエルテルの悲哀ひあい」である。

小說せうせつですか」とふたゝふた。

「まあそんなものです」と、細野ほその書物しよもつぢてふところれたがうるむでゐる。自分じぶん不思議ふしぎかんじて、

「それはあはれな小說せうせつですか」とくと、

「え、主人公しゆじんこう失戀しつれん苦悶くもんして自殺じさつするんです」

きみはそんなもの同感どうかんしますか」

細野ほその躊躇ちうちよして、「きみはどうです」と問返とひかへした。

ぼく無論むろん同感どうかんします、きみは」

ぼくおなことです」

「そうですか、ぼくきみこひひととはらなかつた。」と、自分じぶんはステツキでさくらえだたゝきながら、「どうです一しよへん散步さんぽしませんか」とうながすと、細野ほその立上たちあがつて衣服きものほこりはらひ、土手どてりた。

で、二人ふたりりつはなれつ、鐵道てつだう線路せんろ橫切よこぎつて田圃たんぼみちあゆみ、小說せうせつはなしからこひ議論ぎろんをした。そのあひだにも細野ほそのみゝまして、しんみりした周圍しうゐ景色けしきあぢはつてゐるやうである。すで初雪はつゆきつたといふ富士山ふじさんしろ正面しやうめんそびえ、てんふかんで、くももなくかぜもなく、たゞ兵士へいし射的しやてきのみが、物凄ものすご空氣くうきさはがせてゐる。

ぼく每日まいにちこの界隈かいわい散步さんぽします」と、細野ほその上目うはめそらあふぎ、「ぼくあをそらたり、しろくもたゞようてるのをると、身體からだうへからふら〳〵んでくやうながするんです、自然しぜんというものじつ神々かう〴〵しいうつくしいものだ、それに何故なぜ人間にんげんばかりはきたないことや殘酷ざんこくなことをして下品げひん生活せいくわつおくつてるんでせう、昨日きのふもねかぜいてさむかつたけれど、此處こゝ散步さんぽして、がさら〳〵とあめるやうにちて、小鳥ことりあはれさうにいてるのをいてると、たましひとろける﹅﹅﹅﹅やうになりました。きみはどうです、自然しぜんてそんなかんじはしませんか。」

自分じぶん左程さほどふかくはかんじないのだが、細野ほその言葉ことば感心かんしんしたところだから、いて同意どういて、

ぼくきみ同感どうかんです、つまり人間にんげん慾望よくばううちもつと神聖しんせいものは、自然しぜんあいするこゝろ戀愛れんあいとでせう」

自然しぜんこひひか」と、細野ほそのぎんすゞでもらすやうなこゑで、朗吟らうぎんしてふかみづからかんじてゐる。自分じぶんはじめてれを面白おもしろをとこだとおもつた。

で、これまで經歷けいれきくと、れは作州さくしう津山つやまうまれ、けん中學ちうがく卒業そつげふするとたゞちに上京じやうきやうしたが、學資がくし支給しきう充分じふゞんでないので、二三ねんげいをつけ、自活じくわつしたうへ兩親りやうしん世話せわまでせねばならぬ。そのためむなく私立しりつ學校がくかう政治科せいぢくわ入學にふがくしたものゝ、元來ぐわんらい政治せいぢ法律はふりつこのましくない。だから學科がくゝわ勉强べんきやうするかたはら小說せうせつんでなぐさめてゐるので、時々とき〴〵自身じゝんでも新體詩しんたいしなどをつくるとのこと。

先日こないだ天使エンゼルつくつたんです、靑年せいねん男女だんぢよ純潔じゆんけつこひ物語ものがたりてん使つかひ白雲しらくもうへいてゐて、永久えいきうこひめぬやうに神泉しんせんみづそゝぎかけてやるところうたつたのです、近日きんじつきみせませう、批評ひゝやうしてください」

「そりや面白おもしろい、是非ぜひせてたまへ、二三日間にちゝう訪問はうもんしますから」

自分じぶん同級どうきふ友人いうじんおほくが、るとさはるといたづらに悲歌ひか慷慨かうがいして天下てんか國家こくかだんじ、あるひ淫猥いんわいはなしふけるのをこゝろよおもはず、ことさけんで下女げぢよたはむれたり、遊廓いうくわく出入しゆつにふするのを苦々にが〳〵しくかんじ、卑俗ひぞく下劣げれついやしみ、自分じぶん趣味しゆみおなじい學友がくいうのないのを遺憾いかんおもつてゐたところだから、細野ほそのつたのを無上むじやうよろこび、翌日よくじつ學校がくかうかへりに、れの下宿げしゆく立寄たちよつた。四疊半でふはんとこもない部屋へやだが、さつぱりと取片付とりかたづけてある。

「よくましたね」と、情愛じやうあいのあるこゑむかへられると、もうなつかしくてうれしくてたまらなかつた。それから奇麗きれい文字もじ滿ちた天使エンゼル朗吟らうぎんき、自分じぶん批評ひゝやうどころではなく、一こと〳〵感動かんどうさせられ、自分じぶんもこんなつくつてたいと、心底しんそこから細野ほそのさいうらやましくなつた。情死じやうし是非ぜひ自殺論じさつろん精神せいしん自由說じいうせつ社會しやくわい俗趣味ぞくしゆみ攻擊こうげき、それからそれとはなしゆるひまなく、つひ晚飯ばんめしともにして、の十ごろまでこしえた。

かくて二人ふたり二の親友しんいうとなつたのである。

(二)

「おかみさん、いまてたをんなむかひのむすめですか」と、晚餐ばんめしぜんむかつてくと、女主人かみさんゆびきで長火鉢ながひばちふちをこすりこすり、微笑びせうして、

貴下あなた御覽ごらんなすつて」

「え、一寸ちよつとました」

「いゝをんなでせう、づこの近所きんじよでは天神町てんじんちやう煙草屋たばこやむすめか、となりかが評判ひやうばんをんなですけれど、どうして角力すまふになるものですか、だいひんちがひまさあね、それにつゝみのお多津たつさんは、學問がくもん大變たいへん出來できなさるし、生花いけばなであれ裁縫ぬいものであれ、なにひとをんなげいけたものはないので御座ございますよ、もう十九ですから彼方あちらからも此方こちらからも、およめれろつて、やい〳〵つてるさうですがね、中々なか〳〵親御おやごしつかりものだから、おいそれとはかないんで御座ございますよ、それにもつとげい仕込しこんで、何處どこしてもはづかしくないものにしたいつてね」と、女主人かみさん一息ひといき喋舌しやべつて、湯沸ゆわかしをチヤブだいき、「貴下方あなたがたつゝみさんへ御遊おあそびに被入いらつしやいましな、いま旦那だんな御用ごよう西京さいきやうはうらしつて、無人ぶにんさびしがつてゐられるんだから、おはなし相手あひてでも出來できると、屹度きつとよろこびなさいますよ、ちつともけぬ氣持きもちのいゝうちでね、わたしどももよくうかゞつては長話ながばなしをするんで御座ございますよ、昨日きのふおくさんに貴下方あなたがたのおはなしいたしますと、大變たいへんめていらつしやつたんですわ」

自分じぶん平生ふだん女主人かみさん物事ものごと仰山ぎやうさんふのを苦々にが〳〵しくおもつてゐたが、隣家となりはなしについてはすこしもうたがひさしはさまなかつた。それに自分じぶんことをもとなりの家族かぞくむかつて大袈裟おほげさ吹聽ふゐちやうしたことゝさつせられるが、それがすこしもいやがせぬのみか、かへつうれしいがした。

しかし、自分じぶんはよくらぬうちおしかけて勇氣ゆうきのあらうはずなく、たゞ時々とき〴〵まどからとなりのには緣側えんがは見下みくだし、その姿すがたあらはれるかと空賴そらだのみするのみであつた。となりは平屋建ひらやだてゞ左程さほどおほきくはないが、古色こしよくびて由緒よしありげにえ、には可成かなりにひろ秋草あきくさ垣根かきねしげ片隅かたすみにはちいさなはたけがある。自分じぶんはその家庭かていをも連想れんさうし、氣品きひんのあるはゝと、古風こふうちゝと、かの素直すなほむすめとがおだやかな生活くらしをしてゐるさまおもうかべ、源氏げんじ物語ものがたりなどにあるゆかしい住居すまゐてゐるやうにかんじた。よるになり、えたつきがそのくさへた屋根やねらし、には草叢くさむらではむししきりにすと、むかひのいへゆめ世界せかいになる。自分じぶん憧憬あこがれもつてそれをながめ、てのない空想くうさううかび、うれしいかなしみがむね滿ちる。

こんなふうで二三にちおくつたが、あのをんな自分じぶん念頭ねんとうらぬことは、すこしも細野ほそのかたらない。細野ほそのまた卒業後そつげふご責任せきにんかんじながら、えず新體詩しんたいしこゝろられ、いまも『られぬこひ』などをつくつてゐる。それで晚食ばんめし散步さんぽしながら、學問上がくもんじやう議論ぎろん卒業後そつげふご生活せいくわつ方法はうはふについてたがひにかたときも、何時いつにか肝心かんじんはなしれて、人生じんせい問題もんだいこひ如何いかん話題わだいのぼり、熱心ねつしん感想かんさう意見いけんたゝかはす。細野ほその屡々しば〳〵ダンテの悲慘ひさんなる失戀しつれん同情どうじやうせてき、「人生じんせいえうするに悲慘ひさんだ」とおきまりの結論けつろんをする。ロメオの悲戀ひれん、ハムレツトの煩悶はんもん細野ほそのはそれ物語ものがたりすゞしいこゑ詩的してき調子てうしもつはなし、自分じぶん眞面目まじめいて、間接かんせつ其等それら主人公しゆじんこう同感どうかんし、自分じぶん彼等かれらおなじく、浮世ゆきよあはれをにひし〳〵とおぼえてゐる一人ひとりだとしんじてゐた。それとともにそのあはれをかいしない我々われ〳〵仲間なかま俗物ぞくぶつだとの自負じぶしん多少たせうないでもなかつた。

(三)

舊曆きうれきぐわつの十五、これから散步さんぽやうとしてるところ女主人かみさんが二かい入口いりぐちくびして、

「ね槇田まきたさん、いまとなりからお使つかひがましてね、今夜こんや月見つきみをするから、太郞たらう女主人かみさん)と、それから貴下方あなたがたにも是非ぜひらしつてくださいとふのですよ、つて御覽ごらんなさい、わたし一人ひとりでお留守番るすばんしますから」とすゝめた。

自分じぶん飛立とびたつやうであつたが、わざ躊躇ちうちよていで、

「さうですね、細野君ほそのくんくかい」

「でもらんうちくのはへんだね」

「だつて太郞たらうもまゐるんですから、いゝぢやありませんか」

と、女主人かみさんしきりにうながす。

「ぢやつてるかな、きみは」とくと細野ほその同意どういした。

で、二人ふたり太郞たらうについて、裏木戶うらきどからには橫切よこぎつた。太郞たらう緣側えんがはつて、

叔母をばさんましたよ、んなをれて」と大聲おほごゑんだ。すると四十ぐらゐ小柄こがらをんな太郞たらうおな年輩ねんぱいかほあををとこおくからて、

「よくらしつた、さあおあがんなさい」と、しきりに後退しりごみする自分じぶんを、引張ひつぱりげるやうにして座敷ざしきとほした。

自分じぶん窮屈きうくつかしこまつてたゞ「はい〳〵」と受答うけこたへをしてゐたが、妻君さいくん愛想あいそよく、くわいくわつ調子てうしで、絕間たえまなくいろんな世間せけんばなし持出もちだすので、自分じぶん何時いつにか釣込つりこまれて、れいむすめ枝豆えだまめ白玉しらたまぼんせてはこんでときは、最早もはやひざくづれてゐた。