「私わたしは面倒めんだう臭くさい世態話しよたいばなしは大嫌だいきらひな性分しやうぶんで御座ございましてね、若わかい方かたと一緖しよになつて、罪つみのないお話はなしをするのが一番ばん面白おもしろいんで御座ございますよ、ですからどうか度々たび〳〵入いらつして下くださいましな、此頃このごろは主人あるじが留守るすだし、小人數こにんずで本當ほんたうに淋さびしくてね、退屈たいくつで〳〵困こまつてるので御座ございますよ」と白玉しらたまをコツプに盛もつて、砂糖さとうをぶつかけて吳くれた。妻君さいくんは痩やせて目めの下したに小皺こじはがあるが、顏立かほだちは娘むすめによく似にてゐる。娘むすめは岐阜ぎふ提灯ぢやうちんを點火ともして軒のきに釣つるし、母はゝの側そばに座すわつた。太郞たらうは緣側えんがはで白玉しらたまを頰張ほゝばりながら、靑白あをじろい子息こどもと、蟲籠むしかごを弄もてあそんでゐる。
「今夜こんやはいゝお月樣つきさまだ」と、妻君さいくんは仰視あふむいて空そらを見上みあげた。
「私わたしはこんな晚ばんには哀あはれな音樂おんがくが聞ききたくなります」と細野ほそのが云いつた。
「音樂おんがくがお好すきなの、では此女これがもつと上手じやうずだとお聞きかせ申まをすんですけれど」
「琴ことがお上手じやうずだつて云いふぢやありませんか、聞きかせて頂いたゞくといゝんだが」
「だつて暫しばらくお稽古けいこを止やめてますから」と娘むすめは低ひくい聲こゑで云いつて、澄すましてゐる。細野ほそのも自分じぶんも强しいて求もとむる勇氣ゆうきはない。
「細野ほその君くんは新體詩しんたいしの朗讀らうどくが上手じやうずです、全まつたく音樂おんがく的てきです」と自分じぶんは座興ざきようを增ますやうにと差出口さしでぐちを聞きいた。
「おやさう、是非ぜひ聞きかせて下くださいましな」と、妻君さいくんが促うながすので、細野ほそのは初はじめ一寸ちよつと辭退じたいしたが、遂つひに中音ちうおんで「天使エンゼルの歌うた」を吟ぎんじた。こんな場合ばあひ、細野ほそのの性質せいしつとして別べつに氣取きどりもせず羞耻はにかみもせぬから、如何いかにも聲こゑが自然しぜんで歌うたひ振ぶりが面白おもしろかつた。妻君さいくんは口くちを極きはめて褒ほめ、娘むすめは莞爾につこりして「いゝ聲こゑだわねえ」と母はゝを見みて云いつた。
「槇田まきださんも何なにか隱かくし藝げいがおありなさるでせう」と、妻君さいくんが自分じぶんの方はうを見みる。
「いえ僕ぼくは駄目だめです、詩吟しぎん位ぐらゐだから」と自分じぶんは氣乗きのりもしなかつたが、あまりに攻せめられるので、詮方せんかたなく簡短かんたんに漢詩かんしを怒鳴どなつたが、あまり感心かんしんはされなかつたらしい。それから太郞たらうの軍歌ぐんかがあつて、互たがひに打解うちとけて來くると、妻君さいくんはトランプでもと云いひ出だしたが、自分じぶん等らは後日ごじつを期きして宿やどへ歸かへつた。
これから堤つゝみの家族かぞくと懇意こんいになり、二三度ど訪たづねても行いき、その度たび每ごとに妻君さいくんは機嫌きげんよく迎むかへて吳くれるが、娘むすめは何時いつも口數くちかずが少すくなく、ツンとした態度たいどを執とつてゐる。自分じぶんは東京とうきやうの若わかい女をんなに全まつたく知邊しるべのないためか、これに對たいしては一種しゆの畏おそれを感かんじて居をり、殊ことに堤つゝみの娘むすめは神々かう〴〵しいやうで、あまり馴なれ〳〵しく言葉ことばを掛かけると、無禮ぶれいを咎とがめられはせぬかと思おもつた。で、たまたま「欝陶うつとうしいお天氣てんきですこと」とか、「どちらへ御散步ごさんぽに行いらつしやつたの」とか、何なんでもない挨拶あいさつをされた丈だけで、非常ひじやうに愉快ゆくわいに感かんじてゐた。
「何故なぜあの女をんなはあゝ冷コールドなんだらう」と細野ほそのに問とふと、細野ほそのは、
「肉感にくかんが乏とぼしいからだらう、純潔じゆんけつな女をんなは冷ひやゝかに見みえるんだ、しかしあれで戀こひを感かんじやうなら、顏かほに生命いのちが現あらはれて溫味あたゝかみを帶おびて來くるよ」と鹿爪しかつめらしく說とく。
「さうかも知しれん、しかしあの女をんなはまだ戀こひを感かんじたことがないんだらうか。」
「無ないとも、戀こひした目めと戀こひしない目めとは、ちやんと區別くべつがある。」
「さうかね」と、自分じぶんは一も二もなく同意どういして、只たゞその戀こひする目めを見みたいと思おもつた。しかし自分じぶんがこの二階かいで、軟やはらかい空想くうさうに包つゝまれながら、矢鱈やたらに勉强べんきやうする平和へいわの時代じだいは長ながくは續つゞかなかつたのである。
(四)
或日あるひ同鄉どうきやうの友人いうじん葛原くづはら勇吉ゆうきちが訪たづねて來きて、盛さかんにこの宿やどを褒ほめ、「僕ぼくも少すこし勉强べんきやうしたいから、靜しづかな家うちへ移うつりたい、此家こゝには置おいて吳くれんだらうか」と云いつたが、自分じぶんはこの男をとこの騷々さう〴〵しいのを嫌きらつてゐたから、「外ほかに部屋へやもないやうだし、人出ひとでがないから大勢おほぜいを留とめる譯わけに行いかんだらう」と諦あきらめさせた。すると葛原くづはらは階下したへ下おりて、二三十分ぷん間かん女主人かみさんと話はなして來きたが、どう說ときつけたのか、太郞たらうの勉强べんきやう部屋べやを借かりることに定きめたさうだ。口先くちさきの味うまい爲ため、女主人かみさんも否いやと云いへなかつたのであらう。
案あんの通とほりこの男をとこが來きてからは、一家かの空氣くうきが異ちがつてしまう、自分じぶんと細野ほそのとは三度どの食事しよくじの時とき、女主人かみさんと話はなしをするのみで、箸はしを置をくと直樣すぐさま二階かいへ上あがるのだが、葛原くづはらは煙草たばこを吸すうて一時間じかんも話はなし込こみ、時々とき〴〵は太郞たらうの將來しやうらいについても親切しんせつさうに相談さうだん對手あひてになつてやる。根ねが我々われ〳〵とは違ちがひ、快活くわいくわつで調子てうしのいゝ洒落しやれの巧うまい男をとこだから、二三日にちの中うちに、すつかり女主人かみさんの氣きに入いつた。自分じぶん等らは勉强べんきやう家かで身持みもちがよいと褒ほめられても好すかれはしない。葛原くづはらは午寢ひるねをしやうと、夜深よふかしをしやうと、人間にんげんが面白おもしろくて、淋さびしい家いへを賑にぎやかにするのだから好すかれない譯わけがない。土曜日どえうびの晚ばんには屹度きつと一本ぽんつけさせ、微醉ほろゑひで落語らくごの眞似まねをしたり、色話いろばなしをする。細野ほそのの夕陽美せきやうびの講釋かうしやくや、新體詩しんたいしの說明せつめいよりは、どんなに面白おもしろく、女主人かみさんの耳みゝに響ひゞいたであらう。或晚あるばんも葛原くづはらは自分じぶん等らを前まへに置おいて一本ぽん平たひげて、更さらに一合がふだけを强請ねだり、窪くぼんだ眼めの緣ふちを紅あかくし、尖とがつた頤あごを突出つきだし、
「だつてお母つかさん、僕ぼくなんか酒さけでも呑のまなけりやつまらないさ、こんな御面相ごめんさうで、情婦いろが一人ひとり出來できるんじやなしさ。」
「今いまからお酒さけなんか召上めしあがるから、尙なほ出來できないんぢやありませんか」
「しかし槇田君まきたくんだつて細野ほその君くんだつて、まだ戀人こひゞとといふ奴やつが出來できんのは不思議ふしぎだ、磨みがき上あげれば皆みな色男いろをとこたる風采ふうさいを持もつてるんだがね、我黨わがとう振ふるはざる久ひさしだ、ハツヽヽヽ」
「どうして槇田まきたさんなぞは、卒業そつげふさへなされば、どんないゝ奧樣おくさまでもお好このみ次第しだいですわねえ、堤つゝみのお孃じやうさんだつて、槇田まきたさん〳〵つて大騷おほさわぎなんだから」と、女主人かみさんはさも眞實まことらしく云いふ。自分じぶんは「あゝ又また婆ばあさんが捏造ねつざうを初はじめたな」と思おもつたが、多少たせう嬉ゝれしくも感かんぜられた。
「本當ほんたうかい槇田君まきたくん」と、葛原くづはらは目めを丸まるくして眞顏まがほで聞きいた。
「そんな馬鹿ばかなことがあるものか」と、自分じぶんは苦笑くせうした。
「なにね、槇田まきたさんは御存知ごぞんぢなくつても、向むかうでは屹度きつと思おもつて居ゐらつしやるに違ちがひない」と老婆ばあさんは意地惡いぢわるく確たしかめた。
「眞實ほんとでも虛僞うそでも、そんな噂うはさが立たつだけでも名譽めいよだ、一ひとつ奢おごり玉たまへ、何なんならこれ一本ぽんに負まけて置おくから」と瓶子てうしを振ふつた。
「下くだらんことを云いつてらあ」と、自分じぶんは取合とりあはずに二階かいへ上あがつた。さら〳〵と雨あめを含ふくんだ風かぜが窓まどに當あたり、蟲むしの音ねが絕間たえまなく聞きこえ、折々をり〳〵は葛原くづはらの高たかい笑聲わらひごゑも聞きこえる。暫しばらくして細野ほそのが側そばへ來きて、「今いま女主人かみさんの云いつた事ことは本當ほんとかい、君きみがゐなくなつてから、いろんな皮肉ひにくを云いつてたよ」と、低ひくい聲こゑで、何なんだか氣遣きづかはしさうに云いつたが、彼かれの胸むねも鼓動こどうしてるやうだ。
「馬鹿ばかな、そんな事ことのある筈はずがないぢやないか、滅多めつたにあの家うちへ行いきやしないしさ、只たゞ老婆ばあさんが何なんでもないことを意味いみありげに云いひたがるんだ」
「でも全まつたく種たねのないことも云いはないだらう」
「屹度きつと何なんだよ、あの娘こが何なにかの拍子ひやうしで僕ぼくの事ことを聞きいたのだらう、それが老婆ばあさんの口くちへ上のぼると、あんなに誇張こちやうされてしまうんだから厭いやになつちまう」
「さうかねえ」と、細野ほそのは安心あんしんした風ふうだ。
しかし自分じぶんは、女主人かみさんの言葉ことばに、或あるひは多少たせうの事實じゝつが含ふくまれてはゐないかとも思おもひ、又また强しいてさう思おもふやうにした。で、萬一まんいちさうであつたらどうしやう、如何いかなる障礙しやうがいを破やぶつても、戀こひを成遂なしとげるの外ほかはない。葛原くづはらに揶揄やゆされやうとも老婆ばあさんに嘲あざけられやうとも關かまうものか、自分じぶんは彼かの女をんなと靜しづかな所ところに清貧せいひんなる生涯しやうがいを送おくればそれで足たつてゐる。彼かの女をんなとても世俗せぞくの榮華えいぐわを追求つひきうする風ふうはないから、自分じぶんの理想りさうに同意どういするに違ちがひない。
一日にち二日ふつかこんな取留とりとめのない空想くうさうに頭あたまを惱なやましてゐたが、敢あえて彼かの女をんなに會あつて心中しんちうを確たしかめやうともしない。葛原くづはらは堤つゝみの妻君さいくんとも懇意こんいになり、太郞たらうを連つれて頻しきりに出入しゆつにふすれど、自分じぶんや細野ほそのは滅多めつたに行いく機會きくわいがない。そして自分じぶんは葛原くづはらが隣家となりと親したしくなり、妻君さいくんにもチヤホヤされるのが不快ふくわいでならなかつた。自分じぶんの渇仰かつかうする聖殿せいでんを泥足どろあしで汚けがされる氣きがした。
或晚あるばん葛原くづはらが、「隣家となりでは今夜こんや大將たいしやうが留守るすだから、トランプを取とると云いつて來きたよ、一緖しよに行いかうぢやないか」と自分じぶん等らに勸すゝめた。
「トランプは知しらんもの」
「知しらなくたつていゝさ、人ひとが少すくないと面白おもしろくないから、是非ぜひ付合つきあつて吳くれ玉たまへ、君きみ等らもあまり勉强べんきやうに凝こると毒どくだよ、少すこしは呑氣のんきに遊あそぶ方はうがいゝよ」
「ぢや行いつて見みやう」
と、太郞たらうと共ともに凡すべて四人にんで隣家となりへ推おしかけた。
「叔母をばさん、皆みんな引張ひつぱつて來きましたよ」と、葛原くづはらはずんずん座敷ざしきへ上あがつた。彼かれは宿やどの女主人かみさんをお母つかさんと呼よび、堤つゝみの妻君さいくんを叔母をばさんと云いひ、娘むすめをお多津たつさんと呼よぶのだ。
「お多津たつさん、今日けふは負まけたものが奢おごるんですよ」
「えゝ〳〵、よう御座ござんすとも、どうせ負まけやしないから」と、娘むすめは違ちがひ棚だなから札ふだを取出とりだし、一同どうは輪わをなした。で、葛原くづはらが札ふだを切きつて順々じゆん〴〵に撒まいて行いつたが、その手際てぎはは甘うまいものだ。自分じぶんや細野ほそのは只たゞ敎をそはつた通とほり機械的きかいてきにやつてるのみで別べつに興味きようみもない。娘むすめは夢中むちうになつて、身體からだを搖ゆすぶり札ふだを持もつた手てをもぢ〴〵させて勝敗しやうはいを氣遣きづかつてゐる。葛原くづはらは叫さけんだり笑わらつたり、頭あたまを搔かいたり舌したを出だしたり、一人ひとりで騷さわいで座ざを賑にぎやかにする。自分じぶんは折々をり〳〵うつとり﹅﹅﹅﹅して、この家庭かていの行末ゆくすゑを思おもひ、葛原くづはらのやうな卑俗ひぞくな男をとこが出入しゆつにふして、穩おだやかな床ゆかしい生活くらしを搔亂かきみだし、下等かとうな趣味しゆみを注そゝぎ込こみ、一家かが堕落だらくしてしまうことを氣遣きづかひ、「何なにを考かんがへて入いらつしやるの、貴下あなたの番ばんぢやありませんか」と、側そばの妻君さいくんから叱しかられる位くらゐであつた。