「馬鹿ばか、何なにをするもあつたものか、おれの大事だいじな畠はたけを何故なぜ踏ふみやがつた、今いま鍬くわを入いれたばかりぢやないか」
と、恐おそろしい劍幕けんまくに、予よは吃愕びつくりして、一口ひとくちの返答へんたふも出來できず、ぼんやり相手あひての顏かほを見みてると、突如だしぬけに目めの前まへに市公いちこうが現あらはれて、
「この人ひとは若旦那わかだんなの大事だいじなお客樣きゃくさまだぞ」
と相手あひてを叱しかり、予よの手てを執とつて、さも保護者ほごしやでゝもあるやうな態度たいどをして、大股おほまたに步あゆみ出だした。予よは胸むねを鎮しづめて、
「彼奴あいつは誰だれだ」と問とふと、
「丸まる八といふ奴やつさ」と云いふ。
「うん、あれか」と獨ひとりで首肯うなづいて「市いちさん、お前まへは鶴崎つるざきの旦那だんなのことを知しつてるだらう」
「そりや知しつてるとも、何なんでも知しつてらあ、あの旦那だんなはえらい人ひとだ、誰だれでも意地いぢめる者ものがあつたら、旦那だんなにさへ云いひつけやうなら、直すぐ敵かたきを取とつて吳くれらあ、何なにしろ我等おいらあ、旦那だんなのお氣きに入いりだもの」と、大得意だいとくゐの風ふうをして、「それで我等おいらあ、村むらの者ものが、旦那だんなの惡口わるくちを云いつてると、直すぐ吿口つげぐちをしてやらあ、旦那だんなは喜よろこぶせ」と首くびをすくめて予よの顏かほをのぞき〳〵、その吿口つげぐちの例れいを話はなす。
予よは市公いちこうに連つれられて、宿やどへ歸かへつたが、百姓しやうに毆なぐられたことは一言ひとことも語かたらず、獨ひとり離座敷はなれに引籠ひきこもり、鞄かばんを整頓せいとんし、翌朝よくてう出立しゆつたつの用意よういをなし東京とうきやうの友人いうじん宛あてに、二三の端書はがきを認したゝめて居ると、母屋おもやの方はうで、主人しゆじんの怒鳴どなり聲ごゑがして、靜しづかな空そらに尖するどく異樣ゐやうに響ひゞく。又また始はじめたなと、障子しやうじの隙間すきまから窺のぞくと、主人しゆじんは小高こだかい緣側えんがはに座すわり、その下したの石段いしだんに、かの見覺みおぼえある百姓しやうが蹲しやがんでゐる。少すこし隔へだつてる爲ため、言葉ことばの綾あやはよく分わからぬが、見みた所ところ、白洲しらすのお捌さばきといつた風ふうだ。
主人しゆじんは疎まばらな髯ひげを捻ひねつて尊大そんだいに構かまへ、眉まゆを怒いからせて相手あひてを睨にらみつけてゐたが、百姓しやうは俯うつむいて、口くちを噤つぐみ、暫しばらくして挨拶あひさつもせずに歸かへつてしまつた。
予よは主人しゆじんに對たいして、不快ふくわいな氣きが萠きざし、優遇いうぐうも有難味ありがたみがなくなり、この平靜へいせいの漁村ぎよそんも多少たせう厭いやになり出だした。
すると主人しゆじんは微笑にこ〳〵して入はいつて來きて、
「散步さんぽして入いらしつたんですか、今いまね、市公いちこうに聞きゝますと、馬鹿奴ばかめが貴下あなたに大變たいへん御無禮ごぶれいな事ことを致いたしたさうで、どうも無敎育むけういくの者ものは仕方しかたがありませんよ、それについて私わたしも申譯まをしわけがないと思おもひましてな、早速さつそく彼奴あいつを呼よびつけて小言こゞとを云いつときました。なあに不都合ふつがふな奴やつには、田地でんぢを取上とりあげてやりますよ、あの田地でんぢだつて皆みな私わたしの者ものですからな」
と、自身じゝんの威光いくわうを見みよと云いはぬばかりの風ふうをする。
「だつて、それ位くらゐの事ことで、あんな貧乏者びんばふものの田地でんぢを取上とりあげるのは可愛想かあいさうぢやありませんか、どうせ私わたしが惡わるいんだし」
「いや〳〵、あんな蟲むしけら同然どうぜんの者ものには口くちで敎をしへたつて駄目だめです、食くふにも困こまるやうになつたら、少すこしは性根しやうねが入いるでせう」
と、彼かれは百姓共しやうどもの卑いやしい汚きたない生活くらしの樣さまを說明せつめいして、頻しきりに「蟲むしけら同然どうぜんです」を繰返くりかへした後のち、「どうです、釣つりにお出いでなすつちや、私わたしが御案内ごあんない致ゝたしませう」と勸すゝめる。予よは今日けふに限かぎり釣魚つりに心こゝろも向むかなかつたが、この一日にちが瀨戶内海せとないかいの見收みおさめであれば、强しいて心こゝろを引立ひきたてゝ承諾しやうだくした。
で、市公いちこうに釣道具つりだうぐを擔かつがせて、一足ひとあし先さきへやり、予よと主人しゆじんとは後あとから磯いそへ出でたが、何時いつもの通とほり肥桶こへたごを擔かついだ老農夫らうのうふも網あみを抱だいてるチヨン髷まげの漁夫れうしも、皆みな擦すれ違ちがひ樣ざまに鉢卷はちまきを取とつて恭うや〳〵しく挨拶あひさつし、主人しゆじんは目めか顎あごで會釋ゑしやくして村王そんわうの威ゐを示しめす。中なかには予よに對たいしても腰こしを屈かゞめる者ものもあつたが、ふと埠頭場はとばに集あつまつて艫綱ともづなを造つくつてる二三の若わかい漁夫れうしが、互たがひに予よを見みては嘲あざけつてるやうなのが目めについた。ほんの耳語さゝやいてるのであらうが、田舎者ゐなかものなれば、自然しぜんに聲こゑが大おほきくて、予よの過敏くわびんな耳みゝには響ひゞいて來くる。
「あの人間にんげんをぶん毆なぐつたら、田地でんぢを捲上まきあげられるんぢやちうぜ」
「彼奴あいつは馬鹿市ばかいちの相棒あひぼうだらう、馬鹿ばか旦那だんなの御機嫌取ごきげんとりに遠方ゑんぱうから來きたんさ」
「おれ逹たちや腕うでさへありや、五兩りやうや十兩りやうは何時いつでも稼かせげらあ、船板ふないた三尺しやく下したあ地獄ぢごくと决きまつてるんだから、誰だれだつて恐こわかあないさ、」
「さうとも、あの大將たいしやう、又また漁場れふばへ邪魔じやまをしに行いきやがらあ、鰒ふぐでも釣つるんかい」
と、彼等かれらの一人ひとりは予よに向むかつて握拳にぎりこぶしを突出つきだして見みせ、くつ〳〵笑わらつてゐる。予よは不快ふくわいで溜たまらなくなつた。主人しゆじんには聞きこえぬのか聞きこえたのか知しらぬが、高聲たかごゑで釣つりの講釋こうしやくをしながら、舟ふねに乗のり、市公いちこうには閼伽あかをすくはせ、自分じぶんでは櫓ろを操あやつる。予よは舳へさきに彳たゝづんで煙草たばこを吹ふかせてゐたが、不快ふくわいの念ねんは容易よういに去さらぬ。
舟ふねは油あぶらを流ながしたやうな水面すゐめんを辷すべつて、島蔭しまかげへ來きた。主人しゆじんは櫓ろを棄すてゝ水棹みさほを取とり、
「魚うをにも巢すがあります、だから釣つりもその巢すを見みつけてからでなくちや、幾いくら上手じやうずでも釣つれるもんぢやありません」と、舟ふねをその魚うをの巢すの側そばへ留とめ、市公いちこうに碇いかりを卸おろさせた。蒼あをく澄すんだ水みづの底そこに藻屑もくづが生おひ茂しげり、小ちいさい魚うをが水面すゐめんに飛とび上あがるのを見みると、予よは心躍こゝろおどり、先さきの不快ふくわいも忘わすれてしまう。此處こゝには既すでに二三艘さうの漁船れうせんがゐて、一心しんに釣つりをしてゐたが、我等われらの舟ふねを見みると、漁夫れうしは變へんな顏かほをして、相あひついで他方たはうへ逃にげて行ゆく。
「そら疫病神やくびやうがみが」と云いつてるやうに見みえる。
「私わたし等らが釣つると、外ほかの漁夫れうしの妨害ばうがいになるんぢやありませんか」
と、予よが氣兼きがねをすると、
「いや、此處こゝは私わたしが見みつけたので、先まづ私わたしの領分れうぶんのやうなものです、何卒どうぞ御遠慮ごゑんりよなくお釣つりなさい」
と、主人しゆじんは小蝦こゑびの肉にくを餌えさにして、釣針つりばりを垂たれると、見みる間まに大おほきな沙魚はぜが釣つれた。予よは市公いちこうに敎をそはつては釣つりを垂たれ、不馴ふなれな手てですら二三時間じかんに、沙魚はぜや海鯽ちぬや或あるひは鰒ふぐが數すう十尾びも釣つれた。
釣つりの面白おもしろさに、我等われらは多おほく話はなしもせず夕方ゆふがたまでこの島蔭しまかげに漂たゞよひ、釣つつては魚うをを舟ふねの底そこに投なげ入いれ〳〵してゐた。
「どうです一服ぷくやりますか」と、主人しゆじんは釣竿つりさをを置おいてマツチを擦すつた。
「成程なるほどよく釣つれますね、これだと商賣しやうばいになるでせう、僕ぼくも繪ゑを止やめて漁夫れうしになるかな」と、予よは舟底ふなぞこに重かさなり合あつてる魚うをが、ばしや〳〵音おとをさせるを聞きき、漁村ぎよそんの秋氣しうきの膓はらわたまで染しみ込こむを覺おぼえた。風かぜはます〳〵凪なぎ、ちぎれ〴〵の夕雲ゆふぐもも空そらに固定こていしてるやうだ。
主人しゆじんは兩膝りやうひざを抱いだいて銜くはへ煙管ぎせるで、「どうだ、市公いちこう、水練すゐれんを御覽ごらんに入いれちや」と、予よに向むかひ、「此男これは水潜みづくゞりの名人めいじんです」と云いつたが、市公いちこうはその言葉ことばの耳みゝに入いらぬ程ほど、一心しんに空そらを見みつめ、
「や、株虹かぶにじが出でた、大風おほかぜだ〳〵」と叫さけんだ。
主人しゆじんもその方はうを見上みあげて、「御覽ごらんなさい、あの虹にじを、あれが出でると、屹度きつと空模樣そらもやうが變かはるんです」
山やまの端はには、太ふとい短みじかい虹にじが物凄ものすごくかゝつてゐた。この内海ないかいの大嵐おほあらしはどんなであらう。予よが歸京後きゝやうごに描ゑがいた大作たいさくは、三人にんが舟中しうちうでこの虹にじを見みて居ゐる所ところである。
凄い眼
工場こうぢやうの奧おくに疊たゝみを敷しいた一室ひとまがある。狹せまい一方ぽう口ぐちで丁度ちやうど袋ふくろのやうだ。滅多めつたに掃除さうじもせねば隅々すみ〴〵には埃ほこりが積つもり、壁かべは一體たいに黑くろずんでゐる。棚たなにある磨滅まめつした活字くわつじ、開ひらいてる傘からかさ窄すぼめてる傘からかさ、散ちらばつてる衣服きものや帶おび、この居室ゐまにある者ものに一ひとつとして汚よごれめのない者ものはない。それに空氣くうきの流通りうつうは惡わるい。時候じこうは梅雨つゆで二三日にち來らい鮮あざやかな日光につくわうが窓まどガラスを通とほつたことはない。異樣ゐやうの臭氣しうきが室内しつないに漲みなぎる。
しかしこの廢物はいぶつ同樣どうやうの居室ゐまも、數多あまたの人ひとに利用りようされてゐる。騷さわがしい社會しやくわいの隱かくれ家がとなつてゐる。仕事しごとに疲つかれた老おいたる社員しやゐんが、こつそり此處こゝに忍しのんで、肱枕ひぢまくらで腰こしを叩たゝいてゐることもある。丸髷まるまげの女工ぢよこうが火鉢ひばちの前まへに立膝たてひざをして二三服ぷく煙草たばこを吸すうて行ゆく。夜勤やきんの四五人にんがジメ〳〵した座蒲團ざぶとんを取捲とりまいて、片肌かたはだ拔ぬいで花札はなふだを弄もてあそぶ。折々をり〳〵は艶なまめかしい言葉ことばさへ聞きかれるさうだ。
そして集金しふきん掛がゝり帆田ほだ常造つねざうは十數年すうねん來らい此處こゝに起臥おきふししてゐる。年齡としは五十を越こしたばかりだが、顏かほが萎しなびて頰ほゝが凹くぼみ、櫛梳くしけづらぬ髮かみは野生やせいの雜草ざつさうの如ごとく、星明ほしあかりに黃きばんだ痩腕やせうでを投なげ出だして寢ねてゐる姿すがたはこの世よの人ひととも思おもはれぬ。朝あさは職工しよくこうが威勢いせいよく入はいつて來きて、周圍まはりで騷さわぐのに目めを醒さまされ、ヒヨロ〳〵と起上おきあがつて、足あしを引ひきずり匐は ふやうにして階子段はしごだんを下おりる。顏かほを洗あらふと裏うらの屋臺店やたいみせで鹽餡しほあんの大福餅だいふくもちを三つ買かつて來きて、應接所おうせつじよか車夫しやふ溜だまりで、顏かほ中ぢゆうをモグ〳〵させて食くふ。喰くうてしまふと水道すゐだうの水みづを茶椀ちやわんに一杯ぱい呑のんで、自分じぶんの居室ゐまへ歸かへる。それから外出そとでの身仕度みじたくをして草鞋わらじを穿はき、風呂敷ふろしきを脊負せおひ、細ほそい竹たけの杖つゑをついて、トボ〳〵と集金しふきんに廻まはる。雨あめが降ふると番傘ばんがさを竹たけの杖つゑに代かへるのみで、一 日にちたりとも休やすんだことがない。吹ふけば飛とぶやうな身體からだで重おもさうな傘かさをかついで、風雨ふうゝを衝ついて步あるいてゐるのは、外目よそめには悲慘みじめに感かんぜられるが、當人たうにんは苦くにもしない。命めいぜられた通とほりに賣捌店うりさばきてんを順じゆんぐりに廻めぐつて、夕暮ゆふぐれには時刻じこくを違たがへずに歸かへつて來くる。それから足あしを濯すゝいで、晩餐ばんめしに取掛とりかゝるのだが、晩餐ばんめしも朝あさと同おなじく一ひとつ一錢せんの大福だいふくか鐵砲卷てつぱうまき、只たゞ朝あさは生水なまみづで濟すますのに、晚ばんには小使こづかひ 部屋べやから暖あたゝかい茶ちやを貰もらつて來きて飮のむだけ異ちがつてゐる。夜よるはこの居室ゐまには不似合ふにあひな電燈でんとうの下したに腹這はらばひになつて、珠盤そろばんを前まへに帳簿ちやうぼを調しらべ、一錢せんの相違さうゐもないのを幾度いくたびも見屆みとゞけて、初はじめて安心あんしんしてごろり﹅﹅﹅と橫よこになる。尤もつとも時々とき〴〵は自分じぶんの財產ざいさん調しらべもするので、胴卷どうまきの金庫きんこから幾重いくへにも白紙はくしで包つゝんだ紙幣しへいを取出とりだし一枚まい々々〳〵調しらべて押頂おしいたゞき、又また元もとの通とほりに收をさめて 胴卷どうまきを枕まくらの下したにかくして眠ねむる。この財產ざいさん調しらべの折をりには、人目ひとめを憚はゞかるのと悅うれしいのとで元氣げんきのない目めも活々いき〳〵して來くる。貯蓄額ちよちくがくはせい〴〵二三百圓ゑんであらうが、社員しやゐんの噂うはさでは千圓ゑんには逹たつしたと定きめられてゐる。費用つひへを恐おそれて妻つまを離緣りえんし子こをも勘當かんだうして、獨ひとりぼつちで食くふ者ものも食くはずに貯蓄ちよちくして何なににするのであらうとは、若わかい社員等しやゐんらの疑問ぎもんで、屡々しば〳〵調戯からかひ半分はんぶんに聞きいて見みるが、彼かれは薄氣味うすきみ惡わるく笑わらふのみで相手あひてにもしない。一日にちの仕事しごと——食事しよくじもこの人ひとには樂たのしみではなくて仕事しごとの一ひとつだ——を終をはると、居室ゐまの片隅かたすみに他人ひとの邪魔じやまにならぬやうに煎餅蒲團せんべいぶとんを額ひたひまで被かぶつて寢ねる。寢ねてからは只たゞ翌日あすを待まつばかりで、側そばで誰だれが何なにをしてゐようと、少すこしも心こゝろに留とめぬ。輪轉機りんてんきの音おと、植字歌しよくじうた、雨あめの音おと、嵐あらしの響ひゞき、職工しよくこうの喧嘩けんくわも口論こうろんも、皆みな老人らうじんの耳みゝを煩わづらはさずに消きえて行ゆく、睡ねむりを妨さまたぐる者ものもない。