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Chapter 36: 凄い眼
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

馬鹿ばかなにをするもあつたものか、おれの大事だいじはたけ何故なぜみやがつた、いまくわれたばかりぢやないか」

と、おそろしい劍幕けんまくに、吃愕びつくりして、一口ひとくち返答へんたふ出來できず、ぼんやり相手あひてかほてると、突如だしぬけまへ市公いちこうあらはれて、

「このひと若旦那わかだんな大事だいじなお客樣きゃくさまだぞ」

相手あひてしかり、つて、さも保護者ほごしやでゝもあるやうな態度たいどをして、大股おほまたあゆした。むねしづめて、

彼奴あいつれだ」とふと、

まる八といふやつさ」とふ。

「うん、あれか」とひとりで首肯うなづいて「いちさん、おまへ鶴崎つるざき旦那だんなのことをつてるだらう」

「そりやつてるとも、なんでもつてらあ、あの旦那だんなはえらいひとだ、れでも意地いぢめるものがあつたら、旦那だんなにさへひつけやうなら、かたきつてれらあ、なにしろ我等おいらあ、旦那だんなのおりだもの」と、大得意だいとくゐふうをして、「それで我等おいらあ、むらものが、旦那だんな惡口わるくちつてると、吿口つげぐちをしてやらあ、旦那だんなよろこぶせ」とくびをすくめてかほをのぞき〳〵、その吿口つげぐちれいはなす。

市公いちこうれられて、宿やどかへつたが、百しやうなぐられたことは一言ひとことかたらず、ひと離座敷はなれ引籠ひきこもり、かばん整頓せいとんし、翌朝よくてう出立しゆつたつ用意よういをなし東京とうきやう友人いうじんてに、二三のはがきしたゝめて居ると、母屋おもやはうで、主人しゆじん怒鳴どなごゑがして、しづかなそらするど異樣ゐやうひゞく。またはじめたなと、障子しやうじ隙間すきまからのぞくと、主人しゆじん小高こだか緣側えんがはすわり、そのした石段いしだんに、かの見覺みおぼえある百しやうしやがんでゐる。すこへだつてるため言葉ことばあやはよくわからぬが、ところ白洲しらすのおさばきといつたふうだ。

主人しゆじんまばらなひげひねつて尊大そんだいかまへ、まゆいからせて相手あひてにらみつけてゐたが、百しやううつむいて、くちつぐみ、しばらくして挨拶あひさつもせずにかへつてしまつた。

主人しゆじんたいして、不快ふくわいきざし、優遇いうぐう有難味ありがたみがなくなり、この平靜へいせい漁村ぎよそん多少たせうやになりした。

すると主人しゆじん微笑にこ〳〵してはいつてて、

散步さんぽしていらしつたんですか、いまね、市公いちこうきゝますと、馬鹿奴ばかめ貴下あなた大變たいへん御無禮ごぶれいこといたしたさうで、どうも無敎育むけういくもの仕方しかたがありませんよ、それについてわたし申譯まをしわけがないとおもひましてな、早速さつそく彼奴あいつびつけて小言こゞとつときました。なあに不都合ふつがふやつには、田地でんぢ取上とりあげてやりますよ、あの田地でんぢだつてみなわたしものですからな」

と、自身じゝん威光いくわうよとはぬばかりのふうをする。

「だつて、それくらゐことで、あんな貧乏者びんばふもの田地でんぢ取上とりあげるのは可愛想かあいさうぢやありませんか、どうせわたしわるいんだし」

「いや〳〵、あんなむしけら同然どうぜんものにはくちをしへたつて駄目だめです、ふにもこまるやうになつたら、すこしは性根しやうねるでせう」

と、れは百姓共しやうどもいやしいきたな生活くらしさま說明せつめいして、しきりに「むしけら同然どうぜんです」を繰返くりかへしたのち、「どうです、つりにおでなすつちや、わたし御案内ごあんないゝたしませう」とすゝめる。今日けふかぎ釣魚つりこゝろかなかつたが、この一にち瀨戶内海せとないかい見收みおさめであれば、いてこゝろ引立ひきたてゝ承諾しやうだくした。

で、市公いちこう釣道具つりだうぐかつがせて、一足ひとあしさきへやり、主人しゆじんとはあとからいそたが、何時いつものとほ肥桶こへたごかついだ老農夫らうのうふあみいてるチヨンまげ漁夫れうしも、みなちがざま鉢卷はちまきつてうや〳〵しく挨拶あひさつし、主人しゆじんあご會釋ゑしやくして村王そんわうしめす。なかにはたいしてもこしかゞめるものもあつたが、ふと埠頭場はとばあつまつて艫綱ともづなつくつてる二三のわか漁夫れうしが、たがひにてはあざけつてるやうなのがについた。ほんの耳語さゝやいてるのであらうが、田舎者ゐなかものなれば、自然しぜんこゑおほきくて、過敏くわびんみゝにはひゞいてる。

「あの人間にんげんをぶんなぐつたら、田地でんぢ捲上まきあげられるんぢやちうぜ」

彼奴あいつ馬鹿市ばかいち相棒あひぼうだらう、馬鹿ばか旦那だんな御機嫌取ごきげんとりに遠方ゑんぱうからたんさ」

「おれたちうでさへありや、五りやうや十りやう何時いつでもかせげらあ、船板ふないたしやくした地獄ぢごくきまつてるんだから、れだつてこわかあないさ、」

「さうとも、あの大將たいしやうまた漁場れふば邪魔じやまをしにきやがらあ、ふぐでもるんかい」

と、彼等かれら一人ひとりむかつて握拳にぎりこぶし突出つきだしてせ、くつ〳〵わらつてゐる。不快ふくわいたまらなくなつた。主人しゆじんにはきこえぬのかきこえたのからぬが、高聲たかごゑつり講釋こうしやくをしながら、ふねり、市公いちこうには閼伽あかをすくはせ、自分じぶんではあやつる。へさきたゝづんで煙草たばこかせてゐたが、不快ふくわいねん容易よういらぬ。

ふねあぶらながしたやうな水面すゐめんすべつて、島蔭しまかげた。主人しゆじんてゝ水棹みさほり、

うをにもがあります、だからつりもそのつけてからでなくちや、いく上手じやうずでもれるもんぢやありません」と、ふねをそのうをそばめ、市公いちこういかりおろさせた。あをんだみづそこ藻屑もくづしげり、ちいさいうを水面すゐめんあがるのをると、心躍こゝろおどり、さき不快ふくわいわすれてしまう。此處こゝにはすでに二三さう漁船れうせんがゐて、一しんつりをしてゐたが、我等われらふねると、漁夫れうしへんかほをして、あひついで他方たはうげてく。

「そら疫病神やくびやうがみが」とつてるやうにえる。

わたしると、ほか漁夫れうし妨害ばうがいになるんぢやありませんか」

と、氣兼きがねをすると、

「いや、此處こゝわたしつけたので、わたし領分れうぶんのやうなものです、何卒どうぞ御遠慮ごゑんりよなくおりなさい」

と、主人しゆじん小蝦こゑびにくえさにして、釣針つりばりれると、おほきな沙魚はぜれた。市公いちこうをそはつてはつりれ、不馴ふなれなですら二三時間じかんに、沙魚はぜ海鯽ちぬあるひふぐすうれた。

りの面白おもしろさに、我等われらおほはなしもせず夕方ゆふがたまでこの島蔭しまかげたゞよひ、つてはうをふねそこれ〳〵してゐた。

「どうです一ぷくやりますか」と、主人しゆじん釣竿つりさをいてマツチをつた。

成程なるほどよくれますね、これだと商賣しやうばいになるでせう、ぼくめて漁夫れうしになるかな」と、舟底ふなぞこかさなりつてるうをが、ばしや〳〵おとをさせるをき、漁村ぎよそん秋氣しうきはらわたまでむをおぼえた。かぜはます〳〵ぎ、ちぎれ〴〵の夕雲ゆふぐもそら固定こていしてるやうだ。

主人しゆじん兩膝りやうひざいだいてくは煙管ぎせるで、「どうだ、市公いちこう水練すゐれん御覽ごらんれちや」と、むかひ、「此男これ水潜みづくゞり名人めいじんです」とつたが、市公いちこうはその言葉ことばみゝらぬほど、一しんそらつめ、

「や、株虹かぶにじた、大風おほかぜだ〳〵」とさけんだ。

主人しゆじんもそのはう見上みあげて、「御覽ごらんなさい、あのにじを、あれがると、屹度きつと空模樣そらもやうかはるんです」

やまには、ふとみじかにじ物凄ものすごくかゝつてゐた。この内海ないかい大嵐おほあらしはどんなであらう。歸京後きゝやうごゑがいた大作たいさくは、三にん舟中しうちうでこのにじところである。


凄い眼

工場こうぢやうおくたゝみいた一室ひとまがある。せまい一ぽうぐち丁度ちやうどふくろのやうだ。滅多めつた掃除さうじもせねば隅々すみ〴〵にはほこりもり、かべは一たいくろずんでゐる。たなにある磨滅まめつした活字くわつじひらいてるからかさすぼめてるからかさちらばつてる衣服きものおび、この居室ゐまにあるものひとつとしてよごれめのないものはない。それに空氣くうき流通りうつうわるい。時候じこう梅雨つゆで二三にちらいあざやかな日光につくわうまどガラスをとほつたことはない。異樣ゐやう臭氣しうき室内しつないみなぎる。

しかしこの廢物はいぶつ同樣どうやう居室ゐまも、數多あまたひと利用りようされてゐる。さわがしい社會しやくわいかくとなつてゐる。仕事しごとつかれたいたる社員しやゐんが、こつそり此處こゝしのんで、肱枕ひぢまくらこしたゝいてゐることもある。丸髷まるまげ女工ぢよこう火鉢ひばちまへ立膝たてひざをして二三ぷく煙草たばこうてく。夜勤やきんの四五にんがジメ〳〵した座蒲團ざぶとん取捲とりまいて、片肌かたはだいで花札はなふだもてあそぶ。折々をり〳〵なまめかしい言葉ことばさへかれるさうだ。

そして集金しふきんがゝり帆田ほだ常造つねざうは十數年すうねんらい此處こゝ起臥おきふししてゐる。年齡としは五十をしたばかりだが、かほなびてほゝくぼみ、櫛梳くしけづらぬかみ野生やせい雜草ざつさうごとく、星明ほしあかりにばんだ痩腕やせうでしててゐる姿すがたはこのひとともおもはれぬ。あさ職工しよくこう威勢いせいよくはいつてて、周圍まはりさわぐのにまされ、ヒヨロ〳〵と起上おきあがつて、あしひきずり ふやうにして階子段はしごだんりる。かほあらふとうら屋臺店やたいみせ鹽餡しほあん大福餅だいふくもちを三つつてて、應接所おうせつじよ車夫しやふだまりで、かほぢゆうをモグ〳〵させてふ。うてしまふと水道すゐだうみづ茶椀ちやわんに一ぱいんで、自分じぶん居室ゐまかへる。それから外出そとで身仕度みじたくをして草鞋わらじ穿き、風呂敷ふろしき脊負せおひ、ほそたけつゑをついて、トボ〳〵と集金しふきんまはる。あめると番傘ばんがさたけつゑへるのみで、一 にちたりともやすんだことがない。けばぶやうな身體からだおもさうなかさをかついで、風雨ふうゝいてあるいてゐるのは、外目よそめには悲慘みじめかんぜられるが、當人たうにんにもしない。めいぜられたとほりに賣捌店うりさばきてんじゆんぐりにめぐつて、夕暮ゆふぐれには時刻じこくたがへずにかへつてる。それからあしすゝいで、晩餐ばんめし取掛とりかゝるのだが、晩餐ばんめしあさおなひとつ一せん大福だいふく鐵砲卷てつぱうまきたゞあさ生水なまみづますのに、ばんには小使こづかひ 部屋べやからあたゝかいちやもらつてむだけちがつてゐる。よるはこの居室ゐまには不似合ふにあひ電燈でんとうした腹這はらばひになつて、珠盤そろばんまへ帳簿ちやうぼ調しらべ、一せん相違さうゐもないのを幾度いくたび見屆みとゞけて、はじめて安心あんしんしてごろり﹅﹅﹅よこになる。もつと時々とき〴〵自分じぶん財產ざいさん調しらべもするので、胴卷どうまき金庫きんこから幾重いくへにも白紙はくしつゝんだ紙幣しへい取出とりだし一まい々々〳〵調しらべて押頂おしいたゞき、またもととほりにをさめて 胴卷どうまきまくらしたにかくしてねむる。この財產ざいさん調しらべのをりには、人目ひとめはゞかるのとうれしいのとで元氣げんきのない活々いき〳〵してる。貯蓄額ちよちくがくはせい〴〵二三百ゑんであらうが、社員しやゐんうはさでは千ゑんにはたつしたとめられてゐる。費用つひへおそれてつま離緣りえんをも勘當かんだうして、ひとりぼつちでものはずに貯蓄ちよちくしてなににするのであらうとは、わか社員等しやゐんら疑問ぎもんで、屡々しば〳〵調戯からかひ半分はんぶんいてるが、れは薄氣味うすきみわるわらふのみで相手あひてにもしない。一にち仕事しごと——食事しよくじもこのひとにはたのしみではなくて仕事しごとひとつだ——ををはると、居室ゐま片隅かたすみ他人ひと邪魔じやまにならぬやうに煎餅蒲團せんべいぶとんひたひまでかぶつてる。てからはたゞあすつばかりで、そばれがなにをしてゐようと、すこしもこゝろめぬ。輪轉機りんてんきおと植字歌しよくじうたあめおとあらしひゞき職工しよくこう喧嘩けんくわ口論こうろんも、みな老人らうじんみゝわづらはさずにえてく、ねむりをさまたぐるものもない。