香川かゞはが後うしろから近ちかづくと、老人らうじんは驚おどろいたやうに胸むねに手てを當あてゝ振向むりむいた。
「もう病氣びやうきはよくなつたのかね」
「もう大丈夫だいじやうぶだ」
「でも大事だいじにせんといかんよ、一日にち位くらゐ休やすんでもいゝだらう」
「はゝゝ、休やすむ譯わけにも行いかんでな」
「僕ぼくが代理だいりで廻まはらうか、僕ぼくは君きみに肖あやかつて金持かねもちになりたいから」
帆田ほだは鹽餡しほあんの大福だいふくを豆粒まめつぶ程ほどに千切ちぎつては口くちに入いれて、相手あひてに耳みゝを貸かさず、震ふるへる指先ゆびさきで算盤そろばんを彈はじいてゐた。
「君きみは僕ぼくを養子やうしにして吳くれんかね、二人ふたりで家うちを持もつて稼かせいだ方はうがいゝぢやないか、僕ぼくは親爺おやぢがないんだから、君きみを實じつの親おやのやうにして孝行かう〳〵するよ、ねえ、その方はうがいいぢやないか」と、香川かゞはは笑わらひながら五月蠅うるさく云いふので、帆田ほだは物ものをも云いはず、帳簿ちやうぼを抱いだいて應接所おうせつしよを出でて行いつた。
一時間じかん後ごには帆田ほだは草鞋わらじ脚絆きやはんの身裝みづくりをして、集金しふきんに出でかけた。二時間じかん後ごに香川かゞはは車くるまに乗のつて政黨せいとう本部ほんぶや官省くわんしやうを廻まはつた。
この日ひ帆田ほだは一手柄ひとてがらをしたつもりで新聞しんぶんの材料たねを持もつて來きた。云いふ事ことがボンヤリしてよく要點えうてんを得えないが、何なんでも本鄉ほんがうの弓町ゆみちやう邊へんで人殺ひとごろしがあつたのださうだ。被害者ひがいしやは高利貸かうりかし、殺害さつがいの原因げんいんは借金しやくきんを催促さいそくしたからだと云いふ。
「老爺おぢいさん、又また夢ゆめでも見みたのだらう」
「先月せんげつも公園こうえんで首くびくゝりがあつたつて知しらせて來きたが、あれでも社員しやゐんと云いふ意識いしきがあるからだらう。態々わざ〳〵知しらせに來くるだけ感心かんしんだ」
「首くびくゝりか人殺ひとごろしか、何時いつかも下くだらない小泥棒こどろぼうの噂うはさを持もつて來きた。老爺おぢい碌ろくな事ことを見みないんだね」
と、三面めんの連中れんちうはあまり取合とりあはず、探訪たんぼうをも特派とくはしなかつた。
帆田ほだは顏かほと足あしとを水道すゐだうで洗あらつて、自分じぶんの居間ゐまへ上あがつた。擦すれちがひに歸かへつて行ゆく職工しよくこう、入はいつて來くる職工しよくこう、階子段はしごだんは傘かさの雫しづくでズブ濡ぬれになつてゐる。日ひは早はやく暮くれて、電燈でんとうはジメ〳〵した疊たゝみを照てらしてゐる。老人らうじんは例れいによつて帳簿ちやうぼ調しらべをしようと思おもつたが、疲勞ひらうと腹はらの痛いたみに弱よわつて、晩餐ばんめしも食くはずに寢床ねどこへ入はいつた。何なんとなく寢苦ねぐるしい。それに晝ひるの人殺ひとごろし騷さわぎが折々をり〳〵思おもひ出だしたように胸むねに浮うかぶ。
で、長ながい間あひだ眠ねつ醒さめつした揚句あげく、眞夜中まよなか頃ごろ人氣ひとけのないのを見みて、藥湯やくとうを飮のみ、唯一ゆゐいつの樂たのしみの財產ざいさん調しらべを初はじめた。
「老爺おやぢさん、淋さびしいだらう」と、香川かゞはは突如だしぬけに入はいつて來きた。酒さけの息いきを吐はいてゐる。帆田ほだはモグ〳〵口くちの中なかで云いつたが、それは香川かゞはには聞きこえない。
「いよ〳〵工場こうばも建增たてましをすることに决きまつたそうだから、この部屋へやも壞こはされるのだらう。そしたら老爺おぢいさんも何處どこかへ立退たちのかなくちやなるまい、どうするつもりかね」
と、詰責きつせきするような調子てうしで問とうたが、老人らうじんは何なんとも答こたへない。心こゝろでは只たゞ自分じぶんの樂たのしみの妨害者ぼうがいしやを怒いかつてゐた。工場こうぢやう建增たてましの噂うはさは時々とき〴〵老人らうじんの耳みゝにも入はいつて來くるが、それが別段べつだん刺激しげきをも與あたへない。過去くわこと將來しやうらいはこの老人らうじんの衰おとろへた頭あたまを惱なやますに足たらぬのである。
で、香川かゞはの去さつた後のちは、何なにか不安ふあんらしく、有合ありあはせの板片いたぎれで入口いりくちを蔽おほうて眠ねむりに就ついた。翌朝よくてうも雨あめで、顏かほを見みると人々ひと〴〵は皆みないやな天氣てんきを歎たんじてゐたが、帆田ほだは獨ひとり默だまつて仕事しごとに出でた。衰弱すゐじやくせる上うへに氣候きこうの不順ふじゆんに害そこなはれて、顏かほは死人しにんのようであるが、誰たれも怪あやしむ者ものはなく、氣遣きづかつてやる者ものもない。
香川かゞはは尙なほ夜中よなかに目めの醒さめる癖くせが止やまぬ。醒さめると雜念ざつねんが起おこる。雜念ざつねんの中うちには帆田ほだ老人らうじんが織おり込こまれる。かの無用むようの財產ざいさんは自分じぶんの手てにあらば幸福こうふくに使つかへるのだとの思おもひは夜々よゝに嵩かさまつて來くる。男をとこ一匹ぴき世よの中なかに活躍くわつやくするの地步ちほもつくれるとも思おもはれる。そして香川かゞはは老人らうじんの牡蠣かきのやうな凄すごい眼めを暗中あんちうにも思おもひ浮うかべるようになつた。二人ふたりは何なんとなく關係くわんけいがあるやうな氣きがする。宿世しゆくせの緣ゑんが成立なりたつてゐるやうな氣きがするのであつた。
降ふるか曇くもるかの鬱陶うつとうしい梅雨期ばいうきがつゞく。その中うちに老人らうじんは衰弱すゐじやくを重かさねて、步あゆむにも堪たへかね、或ある晚ばん階子段はしごだんで倒たふれたなり、遂つひに床とこに就ついて起おき得えなくなつた。
小使こづかひに粥かゆを煑にて貰もらふばかりで、誰だれにも顧かへりみられず看護かんごされず、殆ほどんど存在そんざいをも認みとめられずに、幽かすかな呻吟うめきと昏睡こんすゐとを續つゞけてゐた。
只たゞ香川かゞはのみは半なかば好奇心かうきしんから、時々とき〴〵見舞みまつてやるが、老人らうじんは不快ふくわいな目めを向むけて、少すこしも喜よろこぶ風ふうはない。恨うらめしいやうな恐おそろしいやうな顏かほをして、側そばへ寄よられるのを厭いやがり、痩腕やせうでで防禦ばうぎよするやうな身構みがまへをすることもある。或ある晚ばんは夢心地ゆめごゝちで、「この野郞やらうまだおれを意地いぢめに來くるか、もう親おやでないぞ、子ことは思おもはんぞ」と叫さけんで、尙なほ不明瞭ふめいれうな聲こゑで獨言ひとりごとを云いつた。香川かゞはは理由わけは分わからないが、何なんとなく恐おそろしくなつて逃にげて歸かへつた。そして老人らうじんは職工しよくこうなどが幾いくら周圍まはりで立騷たちさわがうと、自分じぶんを冷ひやかしてゐやうと、無感むかん無覺むかくでゐるが、香川かゞはを見みると面相めんさうが變かはつて來くる。
「何故なぜだらう」と、香川かゞはは怪あやしんで宇野うのに話はなした。
「何なにか惡わるいことをしたんぢやないか、金かねでも借かりたんぢやないか」
「あの老爺ぢいさんが何なんで人ひとに金かねを貸かすものか、それに僕ぼくだけが多少たせう同情どうじやうしてるんだから、感謝かんしやすべき筈はずだ」
「君きみの顏かほが老爺ぢいさんの息子むすこにでも似にてるんぢやないか」
「なあに彼奴あいつの子こは身體からだが痩やせてゝ、親爺おやぢのやうな恐こわい目めをしてるそうだ」
「兎とに角かく君きみも酷ひどい奴やつに見込みこまれたものだね」
「氣味きみの惡わるい老耄おいぼれだよ」
香川かゞははその夜よから目めが醒さめると、暗中あんちゆうにかの凄すごい目めを見みて震ふるえることがある。で、二三日にちすると遂つひに堪たへかねて、詮方せんかたなく外ほかへ轉居てんきよした。
暫しばらく老人らうじんの事ことを忘わすれて、金かねの苦面くめんに惱なやんでゐたが、或ある日ひ不圖ふと社しやの前まへで彼かれに出會であつた。病氣びやうきは治なほつたのか治なほらぬのか、尋たづねても、齒はの拔ぬけた口くちをもぐ〳〵させた許ばかりで分わからなかつたが、風呂敷ふろしき包づゝみを脊負せおうて、フラつく足あしで出でて行いつた。
香川かゞはは眉まゆを顰ひそめて顏かほを脊そむけた。
世間並
(一)
私わたしは小こ半時間はんじかん東片町ひがしかたまちの加瀨かせの宿やどを捜さがした。彼かれとは今年ことしになつて、一度ども相會あひあふの機會きくわいがなかつた。又また强しいて會あひたくもなかつた。所ところが昨夜ゆふべ情熱家じやうねつかの豐島とよしまが私わたしの家うちへ來きて、加瀨かせの戀こひを語かたつて憤慨ふんがいした。彼かれの戀こひは熱烈ねつれつでない沈痛ちんつうでない、浮薄ふはくだ、キザだ、見得坊みえばうだ、柔弱じうじやくだと罵倒ばたふを續つゞけ、終しまひにお定きまりのバイロン、ハイネを叫さけんで歸かへつた。加瀨かせの戀こひ々々々々、私わたしの耳みゝには多少たせう面白おもしろく響ひゞく。それで急きふに訪たづねて見みたくなり、雨あめをも厭いとはず大久保おほくぼから遙々はる〴〵來くるには來きたが、さて容易よういに家うちが見みつからぬ。先頃さきごろ久振ひさしぶりで、引越ひつこしの通知つうちを兼かねて手紙てがみを吳くれたけれど、彼かれに用事ようじはないと、そのまゝ反古ほごにして仕舞しまつたので、番地ばんちは分わからぬ。○○方かたと云いふ○○もはつきり﹅﹅﹅﹅記憶きおくに留とゞまつてゐない。只たゞ小山こやまとか戶山とやまとか山やまの字じのあつたことは覺おぼえて居ゐる。それから
「僕ぼくの宿やどを尋たづねんとならば、垣根かきねに沿そえる椿つばきの花はなを目印めじるしとなさるべく候そろ」と、あの男をとこ相應さうおうの文句もんくを書かき添そへてあつたことは覺おぼえてゐる。
私わたしは幾いくつも路次ろじを通とほつた。傘かさの必要ひつえうもない程ほどの春雨はるさめが降ふつてゐる。下駄直げたなほしの皷つゞみの音おと、煑豆屋にまめやの鈴すゞの音おとが、ゆるやかな空そらに響ひゞいてゐる。私わたしは無理むりに焦あせつて尋たづねる氣きもなく、「會あつたつて格別かくべつ話はなしもないんだもの」と、通とほりへ突拔つきぬけやうとすると、往來わうらい安全あんぜんの瓦斯燈ぐわすとうの向むかうに眞紅しんくの椿つばきの花はなが鮮あざやかに目めに映うつつた。果はたして小山こやまといふ門札もんさつが見みえる。狭せまい門もんが開あいて、塗ぬりの新あたらしい車くるまが道みちを塞ふさいで、玄關げんくわん先さきに橫よこたはつてゐる。
案内あんないを乞こふ迄までもなく、開あけ放はなした座敷ざしきに加瀨かせの立姿たちすがたが見みえた。光ひかるやうなフロツクコートを着きて、長ながい髮かみを奇麗きれいに分わけ、頻しきりに衣紋いもんを正たゞしてゐる。私わたしは彼かれを見違みちがへる程ほどであつた。
「さあ上あがり玉たまへ」と、彼かれは靜しづかに云いつて、色いろの白しろくて目鼻めはなの尋常じんじやうな、しかし皮膚ひふの硬こわばつた顏かほに幽かすかに微笑びせうを浮うかべた。
「出掛かけるのか」と、私わたしは座敷ざしきへ通とほつて、中折なかをれを被かぶつたまゝ、椅子ゐすに腰こしを掛かけた。
「ウン」と加瀨かせは輕かろく首肯うなづく、小ちいさい丸髷まるまげを結ゆつた、背せの低ひくい痩身やせぎすの、もう老婆ばあさんと云いつてもよささうな女をんなが、緣側えんがはで山高やまたか帽子ぼうしの塵ちりを拂はらつてゐたが、私わたしを見みると、「オヤ被入いらつしやいまし」と、もう二三度ども會あつた人ひとのやうに馴々なれ〳〵しい顏かほをした。私わたしはぢろり﹅﹅﹅と老婆ばあさんを見みたばかりで、あまり構かまひつけず、「何處どこへ行ゆくんだい」と、再ふたゝび加瀨かせに聞きいた。
「菊坂きくざかまで、直すぐに歸かへつて來くるから、待まつてゐ玉たまへ、折角せつかく來きて吳くれたのに失敬しつけいだが、約束やくそくしてあつて是非ぜひ行ゆかなくちやならんのだ」
「さうか、ぢや行いつて來き玉たまへ、僕ぼくは此處こゝで晝寢ひるねでもしやう」
加瀨かせは老婆ばあさんの手てから帽子ぼうしを執とつて、「失敬しつけい」とゆるく﹅﹅﹅云いつたきり、姿勢しせい正たゞしく澄すました足あし取どりで玄關げんくわんへ下おりた。老婆ばあさんは見送みおくつてゐる。
私わたしは腰掛こしかけたまゝ動うごかなかつた。居室ゐまはフロツクコートの住人じうにんには不似合ふにあひで、天井てんじやうは低ひくく疊たゝみは茶色ちやいろになり、床とこの間まは漸やうやく花瓶くわびんを載のせるだけの深ふかさしかない。しかし庭にはは割合わりあひに廣ひろく、數種すうしゆの椿つばきの外ほか、几帳面きちやうめんに沈丁花ぢんちやうくわが植うはつてゐて、濃こい香にほひを送おくつて來くる。春日楓かすがもみぢの鉢植はちうゑも五ツ六ツ並ならんでゐる。家いへといひ庭にはといひ、先まづ大久保おほくぼの私わたしの家うちと大差たいさがないが、加瀨かせの財產ざいさんは以前いぜんよりも遙はるかに殖ふゑて、舊態きうたい依然ゝぜんたる私わたしとは比較ひかくにならぬ。衣紋竿ゑもんざをには糸織いとおりであらうか、いやに光ひかつた着物きものが掛かけてある。鼠色ねづみいろの縮緬ちりめんの襦袢じゆばんの袖口そでくちも見みえる。ふつくり﹅﹅﹅﹅した座蒲團ざぶとんも四五枚まい重かさねてある。讀よめぬ筈はずの英書えいしよが二ふたつ、本箱ほんばこにギツシリ詰つめ込こまれ、テーブルの上うへには金蒔繪きんまきゑの卷煙草まきたばこ入いれ、毛糸けいとのランプ敷しき、鋏はさみや耳搔みゝかきの小道具こだうぐまで、ちやんと揃そろつてゐる。