WeRead Powered by ReaderPub
何處へ cover

何處へ

Chapter 38: (一)
Open in WeRead

About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

香川かゞはうしろからちかづくと、老人らうじんおどろいたやうにむねてゝ振向むりむいた。

「もう病氣びやうきはよくなつたのかね」

「もう大丈夫だいじやうぶだ」

「でも大事だいじにせんといかんよ、一にちくらゐやすんでもいゝだらう」

「はゝゝ、やすわけにもかんでな」

ぼく代理だいりまはらうか、ぼくきみあやかつて金持かねもちになりたいから」

帆田ほだ鹽餡しほあん大福だいふく豆粒まめつぶほど千切ちぎつてはくちれて、相手あひてみゝさず、ふるへる指先ゆびさき算盤そろばんはじいてゐた。

きみぼく養子やうしにしてれんかね、二人ふたりうちつてかせいだはうがいゝぢやないか、ぼく親爺おやぢがないんだから、きみじつおやのやうにして孝行かう〳〵するよ、ねえ、そのはうがいいぢやないか」と、香川かゞはわらひながら五月蠅うるさふので、帆田ほだものをもはず、帳簿ちやうぼいだいて應接所おうせつしよつた。

時間じかんには帆田ほだ草鞋わらじ脚絆きやはん身裝みづくりをして、集金しふきんかけた。二時間じかん香川かゞはくるまつて政黨せいとう本部ほんぶ官省くわんしやうまはつた。

この帆田ほだ一手柄ひとてがらをしたつもりで新聞しんぶん材料たねつてた。ことがボンヤリしてよく要點えうてんないが、なんでも本鄉ほんがう弓町ゆみちやうへん人殺ひとごろしがあつたのださうだ。被害者ひがいしや高利貸かうりかし殺害さつがい原因げんいん借金しやくきん催促さいそくしたからだとふ。

老爺おぢいさん、またゆめでもたのだらう」

先月せんげつ公園こうえんくびくゝりがあつたつてらせてたが、あれでも社員しやゐん意識いしきがあるからだらう。態々わざ〳〵らせにるだけ感心かんしんだ」

くびくゝりか人殺ひとごろしか、何時いつかもくだらない小泥棒こどろぼううはさつてた。老爺おぢいろくことないんだね」

と、三めん連中れんちうはあまり取合とりあはず、探訪たんぼうをも特派とくはしなかつた。

帆田ほだかほあしとを水道すゐだうあらつて、自分じぶん居間ゐまあがつた。れちがひにかへつて職工しよくこうはいつて職工しよくこう階子段はしごだんかさしづくでズブれになつてゐる。はやれて、電燈でんとうはジメ〳〵したたゝみらしてゐる。老人らうじんれいによつて帳簿ちやうぼ調しらべをしようとおもつたが、疲勞ひらうはらいたみによわつて、晩餐ばんめしはずに寢床ねどこはいつた。なんとなく寢苦ねぐるしい。それにひる人殺ひとごろさわぎが折々をり〳〵おもしたようにむねうかぶ。

で、ながあひだめつした揚句あげく眞夜中まよなかごろ人氣ひとけのないのをて、藥湯やくとうみ、唯一ゆゐいつたのしみの財產ざいさん調しらべをはじめた。

老爺おやぢさん、さびしいだらう」と、香川かゞは突如だしぬけはいつてた。さけいきいてゐる。帆田ほだはモグ〳〵くちなかつたが、それは香川かゞはにはきこえない。

「いよ〳〵工場こうば建增たてましをすることにきまつたそうだから、この部屋へやこはされるのだらう。そしたら老爺おぢいさんも何處どこかへ立退たちのかなくちやなるまい、どうするつもりかね」

と、詰責きつせきするような調子てうしうたが、老人らうじんなんともこたへない。こゝろではたゞ自分じぶんたのしみの妨害者ぼうがいしやいかつてゐた。工場こうぢやう建增たてましのうはさ時々とき〴〵老人らうじんみゝにもはいつてるが、それが別段べつだん刺激しげきをもあたへない。過去くわこ將來しやうらいはこの老人らうじんおとろへたあたまなやますにらぬのである。

で、香川かゞはつたのちは、なに不安ふあんらしく、有合ありあはせの板片いたぎれ入口いりくちおほうてねむりいた。翌朝よくてうあめで、かほると人々ひと〴〵みないやな天氣てんきたんじてゐたが、帆田ほだひとだまつて仕事しごとた。衰弱すゐじやくせるうへ氣候きこう不順ふじゆんそこなはれて、かほ死人しにんのようであるが、れもあやしむものはなく、氣遣きづかつてやるものもない。

香川かゞはなほ夜中よなかめるくせまぬ。めると雜念ざつねんおこる。雜念ざつねんうちには帆田ほだ老人らうじんまれる。かの無用むよう財產ざいさん自分じぶんにあらば幸福こうふく使つかへるのだとのおもひは夜々よゝかさまつてる。をとこぴきなか活躍くわつやくするの地步ちほもつくれるともおもはれる。そして香川かゞは老人らうじん牡蠣かきのやうなすご暗中あんちうにもおもうかべるようになつた。二人ふたりなんとなく關係くわんけいがあるやうながする。宿世しゆくせゑん成立なりたつてゐるやうながするのであつた。

るかくもるかの鬱陶うつとうしい梅雨期ばいうきがつゞく。そのうち老人らうじん衰弱すゐじやくかさねて、あゆむにもへかね、あるばん階子段はしごだんたふれたなり、つひとこいてなくなつた。

小使こづかひかゆもらふばかりで、れにもかへりみられず看護かんごされず、ほどんど存在そんざいをもみとめられずに、かすかな呻吟うめき昏睡こんすゐとをつゞけてゐた。

たゞ香川かゞはのみはなか好奇心かうきしんから、時々とき〴〵見舞みまつてやるが、老人らうじん不快ふくわいけて、すこしもよろこふうはない。うらめしいやうなおそろしいやうなかほをして、そばられるのをいやがり、痩腕やせうで防禦ばうぎよするやうな身構みがまへをすることもある。あるばん夢心地ゆめごゝちで、「この野郞やらうまだおれを意地いぢめにるか、もうおやでないぞ、とはおもはんぞ」とさけんで、なほ不明ふめいれうこゑ獨言ひとりごとつた。香川かゞは理由わけわからないが、なんとなくおそろしくなつてげてかへつた。そして老人らうじん職工しよくこうなどがいく周圍まはり立騷たちさわがうと、自分じぶんひやかしてゐやうと、無感むかん無覺むかくでゐるが、香川かゞはると面相めんさうかはつてる。

何故なぜだらう」と、香川かゞはあやしんで宇野うのはなした。

なにわるいことをしたんぢやないか、かねでもりたんぢやないか」

「あの老爺ぢいさんなんひとかねすものか、それにぼくだけが多少たせう同情どうじやうしてるんだから、感謝かんしやすべきはずだ」

きみかほ老爺ぢいさん息子むすこにでもてるんぢやないか」

「なあに彼奴あいつ身體からだせてゝ、親爺おやぢのやうなこわをしてるそうだ」

かくきみひどやつ見込みこまれたものだね」

氣味きみわる老耄おいぼれだよ」

香川かゞははそのからめると、暗中あんちゆうにかのすごふるえることがある。で、二三にちするとつひへかねて、詮方せんかたなくほか轉居てんきよした。

しばらく老人らうじんことわすれて、かね苦面くめんなやんでゐたが、ある不圖ふとしやまへれに出會であつた。病氣びやうきなほつたのかなほらぬのか、たづねても、けたくちをもぐ〳〵させたばかりでわからなかつたが、風呂敷ふろしきづゝみ脊負せおうて、フラつくあしつた。

香川かゞはまゆひそめてかほそむけた。


世間並

(一)

わたし半時間はんじかん東片町ひがしかたまち加瀨かせ宿やどさがした。れとは今年ことしになつて、一相會あひあふの機會きくわいがなかつた。またいてひたくもなかつた。ところ昨夜ゆふべ情熱家じやうねつか豐島とよしまわたしうちて、加瀨かせこひかたつて憤慨ふんがいした。れのこひ熱烈ねつれつでない沈痛ちんつうでない、浮薄ふはくだ、キザだ、見得坊みえばうだ、柔弱じうじやくだと罵倒ばたふつゞけ、しまひにおきまりのバイロン、ハイネをさけんでかへつた。加瀨かせこひ々々々々、わたしみゝには多少たせう面白おもしろひゞく。それできふたづねてたくなり、あめをもいとはず大久保おほくぼから遙々はる〴〵るにはたが、さて容易よういうちつからぬ。先頃さきごろ久振ひさしぶりで、引越ひつこし通知つうちねて手紙てがみれたけれど、れに用事ようじはないと、そのまゝ反古ほごにして仕舞しまつたので、番地ばんちわからぬ。○○かたふ○○もはつきり﹅﹅﹅﹅記憶きおくとゞまつてゐない。たゞ小山こやまとか戶山とやまとかやまのあつたことはおぼえてる。それから

ぼく宿やどたづねんとならば、垣根かきね沿える椿つばきはな目印めじるしとなさるべくそろ」と、あのをとこ相應さうおう文句もんくへてあつたことはおぼえてゐる。

わたしいくつも路次ろじとほつた。かさ必要ひつえうもないほど春雨はるさめつてゐる。下駄直げたなほしのつゞみおと煑豆屋にまめやすゞおとが、ゆるやかなそらひゞいてゐる。わたし無理むりあせつてたづねるもなく、「つたつて格別かくべつはなしもないんだもの」と、とほりへ突拔つきぬけやうとすると、往來わうらい安全あんぜん瓦斯燈ぐわすとうむかうに眞紅しんく椿つばきはなあざやかにうつつた。はたして小山こやまといふ門札もんさつえる。せまもんいて、りのあたらしいくるまみちふさいで、玄關げんくわんさきよこたはつてゐる。

案内あんないまでもなく、はなした座敷ざしき加瀨かせ立姿たちすがたえた。ひかるやうなフロツクコートをて、ながかみ奇麗きれいけ、しきりに衣紋いもんたゞしてゐる。わたしれを見違みちがへるほどであつた。

「さああがたまへ」と、れはしづかつて、いろしろくて目鼻めはな尋常じんじやうな、しかし皮膚ひふこわばつたかほかすかに微笑びせううかべた。

出掛けるのか」と、わたし座敷ざしきとほつて、中折なかをれをかぶつたまゝ、椅子ゐすこしけた。

「ウン」と加瀨かせかろ首肯うなづく、ちいさい丸髷まるまげつた、ひく痩身やせぎすの、もう老婆ばあさんつてもよささうなをんなが、緣側えんがは山高やまたか帽子ぼうしちりはらつてゐたが、わたしると、「オヤ被入いらつしやいまし」と、もう二三つたひとのやうに馴々なれ〳〵しいかほをした。わたしぢろり﹅﹅﹅老婆ばあさんたばかりで、あまりかまひつけず、「何處どこくんだい」と、ふたゝ加瀨かせいた。

菊坂きくざかまで、ぐにかへつてるから、つてゐたまへ、折角せつかくれたのに失敬しつけいだが、約束やくそくしてあつて是非ぜひかなくちやならんのだ」

「さうか、ぢやつてたまへ、ぼく此處こゝ晝寢ひるねでもしやう」

加瀨かせ老婆ばあさんから帽子ぼうしつて、「失敬しつけい」とゆるく﹅﹅﹅つたきり、姿勢しせいたゞしくすましたあしりで玄關げんくわんりた。老婆ばあさん見送みおくつてゐる。

わたし腰掛こしかけたまゝうごかなかつた。居室ゐまはフロツクコートの住人じうにんには不似合ふにあひで、天井てんじやうひくたゝみ茶色ちやいろになり、とこやうや花瓶くわびんせるだけのふかさしかない。しかしには割合わりあひひろく、數種すうしゆ椿つばきほか几帳面きちやうめん沈丁花ぢんちやうくわはつてゐて、にほひおくつてる。春日楓かすがもみぢ鉢植はちうゑも五ツ六ツならんでゐる。いへといひにはといひ、大久保おほくぼわたしうち大差たいさがないが、加瀨かせ財產ざいさん以前いぜんよりもはるかにゑて、舊態きうたい依然ゝぜんたるわたしとは比較ひかくにならぬ。衣紋竿ゑもんざをには糸織いとおりであらうか、いやにひかつた着物きものけてある。鼠色ねづみいろ縮緬ちりめん襦袢じゆばん袖口そでくちえる。ふつくり﹅﹅﹅﹅した座蒲團ざぶとんも四五まいかさねてある。めぬはず英書えいしよふたつ、本箱ほんばこにギツシリまれ、テーブルのうへには金蒔繪きんまきゑ卷煙草まきたばこいれ毛糸けいとのランプしきはさみ耳搔みゝかき小道具こだうぐまで、ちやんとそろつてゐる。