WeRead Powered by ReaderPub
何處へ cover

何處へ

Chapter 40: (三)
Open in WeRead

About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

わたし緣側えんがはもどつて、「このいへは一たいなにをしてるんだ」と小聲こゞゑいた。加瀨かせたもとから淸心丹せいしんたんしてした絹手巾きぬはんけちあかくちびるのあたりをき〳〵、

「これでもむかしはちよつといゝ旗本はたもとだつたさうだが、いまぢや親爺おやぢ元町もとまち女學校ぢよがくかう會計くわいけいをしとる、月給げつきうわづかだが、多少たせうゝち財產ざいさんがあるから、氣樂きらくくらしとるやうだ」

家内かないは三にんりかい」

「うん、むすめ跡取あとゝりで養子やうしでもするんだらう」

「そんな大事だいじ一人ひとりむすめそばに、きみのやうな美男子びだんしがゐちや危險きけんだね」

馬鹿ばかな」と、加瀨かせかすかなこゑつて、ニヤ〳〵わらひをつゞける。

「しかしこんなうちにゐちや窮窟きうくつぢやないか」

べつにそんなかんじはしない、かへつて家庭的かていてき居心地ゐごゝちがいゝ」

「だが、越前堀えちぜんぼり江戶えど趣味しゆみから退化たいくわしたぢやないか、ぼくきみ早晩さうばん藝者屋げいしやゝ長火鉢ながひばちまへすわをとこだとおもつてゐたんだが、矢張やはりやま野暮やぼくさうちきみがら相當さうたうしてるんかね」

下町したまち衞生ゑいせいわるいから」

「うまく言譯いひわけするね、しかしきみのことだからなにひそかに理由りいうがあるんだらう」と、わたし卷莨入まきたばこいれをテーブルからおろして、加瀨かせそばよこになつて煙草たばこひながら、「きみ東京とうきやうてから大分だいぶいであるいてるが、いまはなあしつかれてしまうぜ、きみはな銳敏えいびんはうぢやないがね、それでもきみ親爺おやぢのとはちがつてるから、」

なんだ、なぞのやうなことをつて」と、加瀨かせ淸心丹せいしんたんにほひをいて、相變あひかはらず氣樂きらくかほ微笑びせうしてゐる。

いまなぞけるときる」とつたきり、わたしくちつぐんだ。加瀨かせもくしてたゞにはながめてゐたが、やがてなにおもつたかしやく八をつてした。かほすこ紅味あかみび、なが前髮まへがみふるはせ、しろ指先ゆびさきかろあざやかにうごかし、わたしをば相手あひてにせぬやうなふう勝手かつていてゐる。これはこのをとこくせで、こゝろではわたし訪問はうもんしたのをよろこんでゐるのだが、さてはなすこともなく、打解うちとける手段てだてもない。で、わたしはうからそれ相應さうおう話題わだいでも持出もちださぬかぎりは、詮方せんかたなしに、主人しゆじん主人しゆじん、おきやくはおきやく態度たいどるのだ。しかしれのこゝろづくしは何時いつものやうに食卓しよくたくあらはれてゐる。

老婆ばあさんむすめとは甲斐かひ々々〴〵しくチヤブだいはこんだ。いろ〳〵の御馳走ごちさうが一ぱいならべられた。ビールさへうてゐる。

加瀨かせしやく八をしたき、「サア」とコツプをわたしまへして、おきつぎをした。わたしはそれを尻目しりめて、

きみしやく八がうまくなつたね、つゞいて稽古けいこをしてるんか」

「いやべつ稽古けいこもせん、退屈たいくつすると出鱈目でたらめくだけだ。」

きみしやく八をくとおもす、きみ上京じやうきやうとき手紙てがみよこして、⦅一くわんふゑたづさえてみやこはなたづまをすべし⦆とつてゐたぢやないか、此頃このごろはどんなはなたづねてる、きみ田舎ゐなかにゐた時分じぶんから風流ふうりうたしなみがあつたさうだし、ぼくとはちがつて五くわん發逹はつたつしとるんだから、東京とうきやうあぢすこしやあぢはつたらう」

「それよりやさかなでもたまへな」と、加瀨かせ不味まづさうに二三くちビールをすゝつて、兩膝りやうひざいて、わたしてゐたが、「きみ矢張やはり學校がくかうてるのか」と、わかつたことをく。

いやでも仕方しかたがないからね、月給げつきう三十五ゑん先生せんせいで、朝寢あさねは一しうに一しきや出來できん、あはれむべき生涯しやうがいだらう」

いやならしてなに面白おもしろ仕事しごともとめりやいゝぢやないか、世間せけんひろいのに」と、加瀨かせ不愛相ぶあいさうふ。こゑ態度たいど大人おとなつてゐる。わたししばらく無言むごんで二三のさらたひらげてのちひくこゑ何氣なにげなく、

きみもハイカラのおらくとかをんなつてるとふぢやないか」

「それがどうかしたのか」と、加瀨かせすこほゝあかくした。

なに、どうもしないが、きみがあのをんなれとるとふから」

馬鹿ばかつてる」と、加瀨かせすましてゐる。

「いやぼく眞面目まじめだ、ぼくにはこひ經驗けいけんがないが、きみ年少ねんせうにしてそのみち硏究者けんきうしやだから、よくいろんなことをつてるだらう、すこかせてたまへな」

硏究けんきうなにもないぢやないか、こひこひだから」とつたきり、加瀨かせはあまりはなしれぬ。すでつてゐれど、わたしむかつてはめう腹帶はらおびめて、他所行よそゆき言葉ことばばかり使つかつて本音ほんねかぬ。そしてわたし不思議ふしぎ好奇心かうきしんは、ます〳〵つのる。このをとこおとして、見得みえ自惚うぬぼれし、表面うはべでもはらなかでも、しんしほかへらせてたい。一でも腑甲斐ふがひなさ、あぢにがさをかんじさせてたい。

わたしはこんなことをおもひながら、くちでは途切とぎれ〴〵になんきようもないみじかい會話くわいわやりして、午餐ひるめしをはつた。跡片付あとかたづけんでまた緣側えんがはて、しばらくまへのやうな平凡へいぼん對話たいわをしたり、あめおとこゝろませてゐると、

「やー、お客樣きやくさまか」と、小柄こがらをとこ帽子ぼうしかぶつたなり、ニコ〳〵はいつてた。

小山こやまくん昨夕ゆふべはどうだつた」と、加瀨かせわたしたいするときとはつてかはつて、快活くわいくわつ口調くてうふ。

「えゝ、またやられたよ、運命うんめいかみ見放みはなされたのだね」と、薄唇うすくちびるおほきなくちぢてハツ〳〵とわらひ、「どうだい、歌留多かるたは、今夜こんや二三にん美人びじん招待せうたいしといたよ」とつてうしろかへりみ、「くすちやんおちやをおんな」とさけぶ。このをとこまゆみじかくびながく、一寸ちよつとしやくつ﹅﹅﹅﹅かほるからつみがなさゝうだ。加瀨かせ紹介しやうかいたずとも、老婆ばあさんをひふことはわかつてゐる。わたしともぐに懇意こんいになつた。

貴下あなたばんまであそんでゝ歌留多かるたをやつちやどうです」

ぼく歌留多かるたらんから駄目だめです」

「いゝぢやありませんか、加瀨かせくんだつてきはめて下手へたなんですもの、隨分ずゐぶん美人びじんるからてゐらつしやい。加瀨かせくん御馳走ごちさう美人びじん見物けんぶつをするだけでもとくですからね、これで此頃このごろ每晚まいばんのやうに歌留多かるたをやるんですが、じつ歌留多かるたゑばをんなるんです」と、無遠慮ぶゑんりよこゑ喋舌しやべてた。

馬鹿ばかつちやいかんぜ」と、加瀨かせ障子しやうじあたまもたたせ苦笑くせうした。

老婆ばあさんむすめ菓子皿くわしざら茶盆ちやぼんつてて、それを機會しほ團樂まどゐなかはいつた。んな笑顏ゑがほをしてゐる。小山こやましきりに歌留多かるた仲間なかま品評ひんぴやうはじめ、一はこれに相槌あひづちつて、しばらく陽氣やうきにぎはつた。加瀨かせもこれまで東京とうきやう孤獨こどく月日つきひおくつてゐたのだから、この一あたゝかい空氣くうきよくして、さもうれしさうだ。

そらはます〳〵くらくなつて、あめみさうでない。外出ぐわいしゆつ面倒めんだうであり、たづぬべきひともなくすべき用事ようじもなければ、わたし引留ひきとめられるまゝ、つひ晩餐ばんさん御馳走ごちさうにもなつた。無駄むだばなし聞厭きゝあいた。加瀨かせしやく小山こやま都々一どゞいつ聞厭きゝあいた。わたしけむたさうにしてゐるむすめかほ見厭みあいた。やがて一人ひとり二人ふたりわかをんなをとこあつまつてたが、加瀨かせ新顏しんがほごとうれしさうなふうをする。そしてふたつのあかるいランプは、大勢おほぜいさわぎの中心ちうしんとなつた。

(三)

わたし歌留多かるたむれらず、たゞ傍觀ばうくわんしてゐた。しろくろいそがはしく入亂いりみだれるのを超然てうぜんとしててゐた。一うちもつと熱心ねつしんとぼしいのがおらくで、老婆ばあさん豫報よほうしたとほり、派手はでしま銘仙めいせんに八ぢやう羽織はおりてゐる。廂髮ひさしがみだがハイカラふうでもなく、ほかをんなどもくらべると顏付かほつきなんとなく意氣いきえる。お納戶なんど襦袢じゆばんゑりしろ首筋くびすぢつた加減かげん馬鹿ばか色氣いろけがある。けても左程さほど口惜くやしがるふうはない。そして加瀨かせてき味方みかたむかつて、加瀨かせはうから奪掠だつりやくしかけても、あえあらそはんともせず、仲間なかまから小言こごとはれると、「だつて加瀨かせさんがズルイんだもの」とあまえたくちく。加瀨かせ口元くちもと微笑びせうしながら一しやう懸命けんめい

二三ばん勝負しやうぶあつて、中休なかやすみとなり、んながいきいた。わたし一人ひとりすみはう欠伸あくびをした。そして加瀨かせとおらくとはかはる〳〵てゐたが、たゞ加瀨かせがおらくはうとき上目うはめ使つか氣味きみがあるだけで、べつこひなかつたふう素振そぶりもない。

小山こやまはお喋舌しやべりの間々あひだ〳〵加瀨かせひやかしてゐたが、不意ふい藝競げいくらべを主張しゆちやうして、

「おらくさんの長唄ながうたしばらくかんから今夜こんや是非ぜひ拜聽はいちやうしたい、」

といふと、加瀨かせさかんに賛成さんせいする。いやだとものは、小山こやま下駄げたかくしてかへさんと强迫きやうはくして、一五六にんのこらず特意とくいげいした。宿やどむすめくす常磐津ときはづ米屋こめやむすめ義太夫ぎだいふなど、いづれも大喝采だいかつさい遞信省ていしんしやうをんな判任官はんにんくわんのおすぎ女史ぢよしひとりでうかれて、小山こやま催促さいそくたず、かたそびやかし下唇したくちびる突出つきだして、「んだとおもつたおとみさん」とれかの假聲こはいろ使つかつたが、んなにわらはれてきまりがわるそうにくちつぐんだ。

それから小山こやま卷舌まきじた端唄はうた、おらく長唄ながうたよひち」があつた。おらくのは本物ほんものだ。一りをしづ視線しせんうたかほあつめていてゐた。加瀨かせくびかしげて恍惚うつとりとしてしまう。白粉おしろいくさ生若なまわかをんなにほひがみなぎせま部屋へやに、つやつぽいこゑやはらかにみゝかすめてとほる。るから加瀨かせ極樂ごくらく淨土じやうどにゐるようだ。小山こやま駄洒落だじやれ連發れんぱつをんなれをわらはせ、餅菓子もちぐわし蜜柑みかんとで、主客しゆかく陶然とうぜん醉心地ゑひごゝちになつてる。