私わたしは緣側えんがはへ戾もどつて、「この家いへは一體たい何なにをしてるんだ」と小聲こゞゑで聞きいた。加瀨かせは袂たもとから淸心丹せいしんたんを出だして舌したに載のせ絹手巾きぬはんけちで赤あかい唇くちびるのあたりを拭ふき〳〵、
「これでも昔むかしはちよつといゝ旗本はたもとだつたさうだが、今いまぢや親爺おやぢは元町もとまちの女學校ぢよがくかうの會計くわいけいをしとる、月給げつきうは極ごく僅わづかだが、多少たせう家ゝちに財產ざいさんがあるから、氣樂きらくに暮くらしとるやうだ」
「家内かないは三人にん限きりかい」
「うん、娘むすめが跡取あとゝりで養子やうしでもするんだらう」
「そんな大事だいじな一人ひとり娘むすめの側そばに、君きみのやうな美男子びだんしがゐちや危險きけんだね」
「馬鹿ばかな」と、加瀨かせは幽かすかな聲こゑで云いつて、ニヤ〳〵笑わらひを續つゞける。
「しかしこんな家うちにゐちや窮窟きうくつぢやないか」
「別べつにそんな感かんじはしない、却かへつて家庭的かていてきで居心地ゐごゝちがいゝ」
「だが、越前堀えちぜんぼりの江戶えど趣味しゆみから退化たいくわしたぢやないか、僕ぼくは君きみは早晩さうばん藝者屋げいしやゝの長火鉢ながひばちの前まへに坐すわる男をとこだと思おもつてゐたんだが、矢張やはり山やまの手ての野暮やぼ臭くさい家うちが君きみの柄がらに相當さうたうしてるんかね」
「下町したまちは衞生ゑいせいに惡わるいから」
「うまく言譯いひわけするね、しかし君きみのことだから何なにか竊ひそかに理由りいうがあるんだらう」と、私わたしは卷莨入まきたばこいれをテーブルから下おろして、加瀨かせの側そばに橫よこになつて煙草たばこを吸すひながら、「君きみも東京とうきやうへ來きてから大分だいぶ嗅かいで步あるいてるが、今いまに鼻はなも足あしも疲つかれてしまうぜ、君きみの鼻はなは銳敏えいびんな方はうぢやないがね、それでも君きみの親爺おやぢのとは異ちがつてるから、」
「何なんだ、謎なぞのやうなことを云いつて」と、加瀨かせは淸心丹せいしんたんの香にほひを吐はいて、相變あひかはらず氣樂きらくな顏かほで微笑びせうしてゐる。
「今いまに謎なぞの解とける時ときが來くる」と云いつたきり、私わたしは口くちを噤つぐんだ。加瀨かせも默もくして只たゞ庭にはを眺ながめてゐたが、やがて何なにを思おもつたか尺しやく八を取とつて吹ふき出だした。顏かほは少すこし紅味あかみを帶おび、長ながい前髮まへがみを震ふるはせ、白しろい指先ゆびさきを輕かろく鮮あざやかに動うごかし、私わたしをば相手あひてにせぬやうな風ふうで勝手かつてに吹ふいてゐる。これはこの男をとこの癖くせで、心こゝろでは私わたしの訪問はうもんしたのを喜よろこんでゐるのだが、さて話はなすこともなく、打解うちとける手段てだてもない。で、私わたしの方はうからそれ相應さうおうの話題わだいでも持出もちださぬ限かぎりは、詮方せんかたなしに、主人しゆじんは主人しゆじん、お客きやくはお客きやくの態度たいどを執とるのだ。しかし彼かれの心こゝろづくしは何時いつものやうに食卓しよくたくに現あらはれてゐる。
老婆ばあさんと娘むすめとは甲斐かひ々々〴〵しくチヤブ臺だいを運はこび込こんだ。いろ〳〵の御馳走ごちさうが一杯ぱいに並ならべられた。ビールさへ添そうてゐる。
加瀨かせは尺しやく八を下したへ置おき、「サア」とコツプを私わたしの前まへへ出だして、置おきつぎをした。私わたしはそれを尻目しりめに見みて、
「君きみは尺しやく八が甘うまくなつたね、續つゞいて稽古けいこをしてるんか」
「いや別べつに稽古けいこもせん、退屈たいくつすると出鱈目でたらめに吹ふくだけだ。」
「君きみの尺しやく八を聞きくと思おもひ出だす、君きみは上京じやうきやうの時ときに手紙てがみを寄よこして、⦅一管くわんの笛ふゑを携たづさえて都みやこの花はなを尋たづね申まをすべし⦆と云いつてゐたぢやないか、此頃このごろはどんな花はなを尋たづねてる、君きみは田舎ゐなかにゐた時分じぶんから風流ふうりうの嗜たしなみがあつたさうだし、僕ぼく等らとは異ちがつて五官くわんが發逹はつたつしとるんだから、東京とうきやうの味あぢも少すこしや味あぢはつたらう」
「それよりや魚さかなでも食たべ玉たまへな」と、加瀨かせは不味まづさうに二三口くちビールを啜すゝつて、兩膝りやうひざを抱だいて、私わたしを見みてゐたが、「君きみは矢張やはり學校がくかうへ出でてるのか」と、分わかり切きつたことを聞きく。
「厭いやでも仕方しかたがないからね、月給げつきう三十五圓ゑんの先生せんせいで、朝寢あさねは一週しうに一度どしきや出來できん、憫あはれむべき生涯しやうがいだらう」
「厭いやなら止よして何なにか面白おもしろい仕事しごとを求もとめりやいゝぢやないか、世間せけんは廣ひろいのに」と、加瀨かせは不愛相ぶあいさうに云いふ。聲こゑも態度たいども大人おとな振ぶつてゐる。私わたしは暫しばらく無言むごんで二三の皿さらを平たひらげて後のち、低ひくい聲こゑで何氣なにげなく、
「君きみもハイカラのお樂らくとか云いふ女をんなを知しつてると云いふぢやないか」
「それがどうかしたのか」と、加瀨かせは少すこし頰ほゝを赤あかくした。
「何なに、どうもしないが、君きみがあの女をんなに惚ほれとると云いふから」
「馬鹿ばかあ云いつてる」と、加瀨かせは澄すましてゐる。
「いや僕ぼくは眞面目まじめだ、僕ぼくには戀こひの經驗けいけんがないが、君きみは年少ねんせうにしてその道みちの硏究者けんきうしやだから、よく色いろんなことを知しつてるだらう、少すこし聞きかせて吳くれ玉たまへな」
「硏究けんきうも何なにもないぢやないか、戀こひは戀こひだから」と云いつたきり、加瀨かせはあまり話はなしに身みを入いれぬ。既すでに醉よつてゐれど、私わたしに向むかつては妙めうに腹帶はらおびを締しめて、他所行よそゆきの言葉ことばばかり使つかつて本音ほんねを吐はかぬ。そして私わたしの不思議ふしぎな好奇心かうきしんは、ます〳〵募つのる。この男をとこを攻せめ落おとして、見得みえも自惚うぬぼれも搔かき消けし、表面うはべでも腹はらの中なかでも、眞しんに萎しほれ返かへらせて見みたい。一度どでも身みの腑甲斐ふがひなさ、世よの味あぢの苦にがさを感かんじさせて見みたい。
私わたしはこんなことを思おもひながら、口くちでは途切とぎれ〴〵に何なんの興きようもない短みじかい會話くわいわを取とりやりして、午餐ひるめしを終をはつた。跡片付あとかたづけが濟すんで又また緣側えんがはへ出でて、暫しばらく前まへのやうな平凡へいぼんな對話たいわをしたり、雨あめの音おとに心こゝろを澄すませてゐると、
「やー、お客樣きやくさまか」と、小柄こがらな男をとこが帽子ぼうしを被かぶつたなり、ニコ〳〵入はいつて來きた。
「小山こやま君くん、昨夕ゆふべはどうだつた」と、加瀨かせは私わたしに對たいする時ときとは打うつて變かはつて、快活くわいくわつな口調くてうで云いふ。
「えゝ、又またやられたよ、運命うんめいの神かみに見放みはなされたのだね」と、薄唇うすくちびるの大おほきな口くちを捻ねぢてハツ〳〵と笑わらひ、「どうだい、歌留多かるたは、今夜こんや二三人にん美人びじんを招待せうたいしといたよ」と云いつて後うしろを顧かへりみ、「楠くすちやんお茶ちやをお吳くんな」と叫さけぶ。この男をとこ眉まゆが短みじかく首くびが長ながく、一寸ちよつとしやくつ﹅﹅﹅﹅た顏かほは見みるから罪つみがなさゝうだ。加瀨かせの紹介しやうかいを待またずとも、老婆ばあさんの甥をひと云いふことは分わかつてゐる。私わたしとも直すぐに懇意こんいになつた。
「貴下あなたも晚ばんまで遊あそんでゝ歌留多かるたをやつちやどうです」
「僕ぼくは歌留多かるたを知しらんから駄目だめです」
「いゝぢやありませんか、加瀨かせ君くんだつて極きはめて下手へたなんですもの、隨分ずゐぶん美人びじんが來くるから見みてゐらつしやい。加瀨かせ君くんの御馳走ごちさうで美人びじん見物けんぶつをするだけでも得とくですからね、これで此頃このごろは每晚まいばんのやうに歌留多かるたをやるんですが、實じつは歌留多かるたを餌ゑばに女をんなを釣つるんです」と、無遠慮ぶゑんりよな聲こゑで喋舌しやべり立たてた。
「馬鹿ばか云いつちやいかんぜ」と、加瀨かせは障子しやうじに頭あたまを持もたたせ苦笑くせうした。
老婆ばあさんと娘むすめも菓子皿くわしざらや茶盆ちやぼんを持もつて來きて、それを機會しほに團樂まどゐの中なかに入はいつた。皆みんな笑顏ゑがほをしてゐる。小山こやまは頻しきりに歌留多かるた仲間なかまの品評ひんぴやうを始はじめ、一座ざはこれに相槌あひづち打うつて、暫しばらく陽氣やうきに賑にぎはつた。加瀨かせもこれ迄まで東京とうきやうに孤獨こどくの月日つきひを送おくつてゐたのだから、この一家かの温あたゝかい空氣くうきに浴よくして、さも悅うれしさうだ。
空そらはます〳〵暗くらくなつて、雨あめは止やみさうでない。外出ぐわいしゆつも面倒めんだうであり、訪たづぬべき人ひともなく爲なすべき用事ようじもなければ、私わたしは引留ひきとめられるまゝ、遂つひに晩餐ばんさんの御馳走ごちさうにもなつた。無駄むだ話ばなしも聞厭きゝあいた。加瀨かせの尺しやく八小山こやまの都々一どゞいつも聞厭きゝあいた。私わたしを煙けむたさうにしてゐる娘むすめの顏かほも見厭みあいた。やがて一人ひとり二人ふたり若わかい女をんなや男をとこが集あつまつて來きたが、加瀨かせは新顏しんがほを見みる每ごとに嬉うれしさうな風ふうをする。そして二ふたつの明あかるいランプは、大勢おほぜいの騷さわぎの中心ちうしんとなつた。
(三)
私わたしは歌留多かるたの群むれに入いらず、只たゞ傍觀ばうくわんしてゐた。白しろい手てと黑くろい手ての忙いそがはしく入亂いりみだれるのを超然てうぜんとして見みてゐた。一座ざの中うち最もつとも熱心ねつしんの乏とぼしいのがお樂らくで、老婆ばあさんの豫報よほうした通とほり、派手はでな縞しまの銘仙めいせんに八丈ぢやうの羽織はおりを着きてゐる。廂髮ひさしがみだがハイカラ風ふうでもなく、他ほかの女をんな共どもに比くらべると顏付かほつきが何なんとなく意氣いきに見みえる。お納戶なんどの襦袢じゆばんの襟ゑりが白しろく首筋くびすぢに喰くひ入いつた加減かげんが馬鹿ばかに色氣いろけがある。負まけても左程さほど口惜くやしがる風ふうはない。そして加瀨かせと敵てき味方みかたで向むかひ合あつて、加瀨かせの方はうから奪掠だつりやくしかけても、敢あえて爭あらそはんともせず、仲間なかまから小言こごとを云いはれると、「だつて加瀨かせさんがズルイんだもの」と甘あまえた口くちを利きく。加瀨かせは口元くちもとで微笑びせうしながら一生しやう懸命けんめい。
二三番ばんの勝負しやうぶあつて、中休なかやすみとなり、皆みんなが息いきを吐ついた。私わたしは一人ひとり隅すみの方はうで欠伸あくびをした。そして加瀨かせとお樂らくとは交かはる〳〵見みてゐたが、只たゞ加瀨かせがお樂らくの方はうを見みる時ときは上目うはめを使つかふ氣味きみがあるだけで、別べつに戀こひ中なかと云いつた風ふうの素振そぶりもない。
小山こやまはお喋舌しやべりの間々あひだ〳〵に加瀨かせを冷ひやかしてゐたが、不意ふいに藝競げいくらべを主張しゆちやうして、
「お樂らくさんの長唄ながうたも暫しばらく聞きかんから今夜こんやは是非ぜひ拜聽はいちやうしたい、」
といふと、加瀨かせも盛さかんに賛成さんせいする。否いやだと云いふ者ものは、小山こやまが下駄げたを隱かくして歸かへさんと强迫きやうはくして、一座ざ五六人にん殘のこらず特意とくいの藝げいを出だした。宿やどの娘むすめお楠くすの常磐津ときはづ、米屋こめやの娘むすめの義太夫ぎだいふなど、何いづれも大喝采だいかつさい。遞信省ていしんしやうの女をんな判任官はんにんくわんのお杉すぎ女史ぢよしは獨ひとりで浮うかれて、小山こやまの催促さいそくも待またず、肩かたを聳そびやかし下唇したくちびるを突出つきだして、「死しんだと思おもつたお富とみさん」と誰たれかの假聲こはいろを使つかつたが、皆みんなに笑わらはれて極きまりが惡わるそうに口くちを噤つぐんだ。
それから小山こやまの卷舌まきじたの端唄はうた、お樂らくの長唄ながうた「宵よひは待まち」があつた。お樂らくのは本物ほんものだ。一座ざ鳴なりを靜しづめ視線しせんを唄うたひ手ての顏かほに集あつめて聞きいてゐた。加瀨かせは首くびを傾かしげて恍惚うつとりとしてしまう。白粉おしろい臭くさい生若なまわかい女をんなの香にほひが漲みなぎる狹せまい部屋へやに、艶つやつぽい聲こゑが柔やはらかに耳みゝを掠かすめて通とほる。見みるから加瀨かせは極樂ごくらく淨土じやうどにゐるようだ。小山こやまは駄洒落だじやれの連發れんぱつで女をんな連づれを笑わらはせ、餅菓子もちぐわしと蜜柑みかんとで、主客しゆかくは陶然とうぜんと醉心地ゑひごゝちになつて來くる。