「何時いつもこんな馬鹿ばかな眞似まねをして遊あそんでるんか」と、私わたしは突如だしぬけに加瀨かせに問とうた。浮うかれてゐる連中れんぢうは一時じに私わたしの顏かほを見みた。
「面白おもしろいぢやないか、君きみの家うちでも時々とき〴〵やり玉たまへな、僕ぼく等らが大勢おほぜい引連ひきつれて行ゆかう」と、加瀨かせは一座ざの棟梁とうれう氣取きどりだ。
「須崎すさき(私わたしの名な)さんだけは、まだ何なにも藝げいをお出だしになりませんね、お突合つきあひに一ひとつお聞きかせなすつちや如何いかゞです」と、老婆ばあさんは私わたしを顧かへりみた。小山こやまも加瀨かせも左右さいうから手てを執とるやうにして勸すゝめる。
「そんなふざけた﹅﹅﹅﹅眞似まねが出來できるか、しかし是非ぜひ僕ぼくのが聞ききたけや、加瀨かせ君くんの親爺おやぢがよくやる權兵衞ごんべゑが種蒔たねまきの踊をどりでもやらうか、醉ゑふと素裸すつぱだかになつて腰こしを振ふつてやつてたのを、僕ぼくも覺えとる。君きみも幼い時分じぶんによく親爺の眞似まねをしとつた。ねえ、さうだらう」と、私わたしが云いふと、加瀨かせは默だまつてしまつた。
「だが僕ぼくだつて長唄ながうたぐらゐは出來できる。お樂らくさんでも三味線さみせんを彈ひいて吳くれゝば」と、私わたしは厭いやな思おもひをして云いつて、前まへへ乗のり出だした。もう二三年ねんにならうか、私わたしはお靜しづから戯言ぢやうだん半分はんぶんに「越後えちご獅子じゝ」を習ならつたことがある。あの時分じぶんでも音曲おんぎよくは好すきな方はうではなかつたが、お靜しづの口くち眞似まねをしたり、笑わらつたり笑わらはれたりするのが嬉うれしかつた。今いまではそれを思おもひ出だしても不快ふくわいだが、小山こやまの周旋しうせんで、三味線さみせんがお樂らくに押付おしつけられたので、詮方せんかたなくお樂らくと並ならんで、うろ覺おぼえの一ひとくさりを唄うたつた。調子てうしもしどろもどろ﹅﹅﹅﹅﹅﹅である。加瀨かせは少すこし驚おどろいた風ふうで、
「君きみは何時いつ習ならつた」
「不思議ふしぎだらう、まだ十八番おはこがあるんだ。そりやこの次つぎにしやう、何なんなら近々きん〳〵僕ぼくの家うちで演藝會えんげいくわいをやるから皆みんなで來玉きたまへ、お樂らくさんも三味線さみせんを持もつて」
「そりや面白おもしろい、是非ぜひおやんなさい、私わたしが周旋役しうせんやくになるから」と、小山こやまは頻しきりに勸すゝめた。
(四)
再ふたゝび歌留多かるたが初はじまつたので、私わたしは退屈たいくつし切きつて、一人ひとり暇いとまを吿つげて薄暗うすくらがりの冷つめたい戶外そとへ出でた。そして電車でんしやに飛乗とびのつたが、直すぐに大久保おほくぼへは歸かへらなかつた。
數すう十分ぷんの後のちには傘かさを擔かついで、土州橋としうばしの上うへを步あるいてゐた。中洲なかすの方はうは小雨こさめに煙けむつて、提灯ちやうちんの光ひかりが空そらを飛とんでゐる。足下あしもとの荷船にぶねは晝ひるの汚きたない姿すがたをかくして、夢ゆめのやうに淡あはく水面すゐめんに浮うかび、濕しめつた光ひかりがチラ〳〵して、寢呆聲ねぼけごゑが洩もれて來くる。橋はしを渡わたると早足はやあしに右みぎへ曲まがつて、玄關げんくわんの暗くらく二階かいの燈火ともしびの花はなやかな家うちへ上あがつた。私わたしは一年ねん近ぢかくこの家うちへ通かよつてゐるのである。
安逹あだちが原はらの鬼婆おにばゞあから毒氣どくきを拔ぬいたやうな老婆ばあさんは私わたしの顏かほを見みると、齒はを剝むき出だして、「貴下あなた新奇しんきなのが出でましたよ」といふ。これがお定きまりだ。老婆ばゞあは私わたしに對たいする骨こつを知しつてゐる。只たゞ「新奇しんきだ」といふ。どんなのだらう。昨年さくねん一年ねん、今年ことしの今いま迄ゝで私わたしの注意ちういを惹ひき、心こゝろに柔やさしさ温あたゝかさを覺おぼえるのはこればかりである。階子段はしごだんを踏ふむ足音あしおと廊下らうか傳づたひの衣摺きぬずれの音おと、障子しやうじの開あく音おと、私わたしはそれを聞きいてゐる時ときにのみ世よに生甲斐いきがひを感かんずるのである。美うつくしい眉まゆ滑なめらかな肌はだに魂たましひが盪とろけるのではない。優やさしい言葉ことば色いろつぽい素振そぶりに胸むねが湧立わきたつのではない。只たゞ「珍めづらしいの」「新奇しんきなの」を待設まちまをけては、乾かはき行ゆく心こゝろを濕うるほさうとするに過すぎぬ。
私わたしは上京じやうきやう後ご七年間ねんかん、豐ゆたかならぬ學資がくしで學問がくもんをした。卒業後そつげふごは敎師けうしをしてゐる。交友かういうも多おほくはなく、自分じぶんの出入しゆつにふし目睹もくとしてゐる社會しやくわいは廣ひろくはない。しかし最早もはや努力どりよくして榮逹えいたつを計はかる氣きは微塵みぢんもない。高名かうめいな人ひとと伍ごして世よに名なを唄うたはれようと希ねがふ心こゝろも更さらにない。心こゝろを許ゆるす人ひともなければ、他人たにんに心こゝろ許ゆるされようとも思おもはない。知友ちいうの中うちには私わたしを「落付おちついた確しつかりした男をとこだ」と評ひやうする者ものがある。又また「冷酷れいこく無情むじやうな男をとこだ」と評ひやうする者ものもある。有望いうばうな靑年せいねんか愚昧ぐまいな男子だんしか、他人たにんのお世話せわを待またずして、自分じぶんで自分じぶんを知しり切きつてゐるのだ。圖拔づぬけた天分てんぶんもないが、努力どりよくすれば並なみの人ひとには負まけぬと確信かくしんしてゐる。處生しよせいの法はふぐらゐ心得こゝろえてゐる。只たゞその煩わづらはしさが厭いやだから見合みあせてゐるのだ。
凡すべてが煩わづらはしい。そして友人いうじんの落魄らくはくも榮華えいぐわも憐あはれとも感かんぜぬ羨うらやましくも思おもはぬ。昨年さくねんから引續ひきつゞいて兄あにが死しに叔父をぢが死しんだが、それすら私わたしには木この葉はの散ちつた位くらゐの感かんじをしか與あたへなかつた。
明日あすの私わたしはどうなるか、今いまの私わたしはこんな風ふうで死運しうんの來くるまで生いきてゐる。
(五)
「あれは如何いかゞでした」
「さうだね、唇くちびるの皮かはが硬こわい」
「隨分ずゐぶん此頃このごろ出でましたから、せい〴〵目めをつけときまして」
私わたしは老婆ばゞあに見送みおくられて外そとへ出でた。糠雨ぬかあめが身體からだに降ふりかゝれど、所々ところ〴〵雲くもの剝はげて、澄すんだ靑空あをぞらが現あらはれてゐる。私わたしは再ふたゝび土州橋としうばしを渡わたつたが、「明日あすは天氣てんきだ」と思おもふのみで、外ほかに何なにをも頭あたまに浮うかべなかつた。そして電車でんしやに乗のると手てを拱こまぬき目めを瞑ねむり頭あたまを窓まどにもたせ、半醒はんせい半眠はんみんで終點しうてんに逹たつし、月つきを踏ふんで、人氣ひとけの絕たえた大久保おほくぼの宿やどへ歸かへつた。明日あすの勤つとめを思おもうて、直すぐに寢仕度ねじたくをし、二三の郵書いうしよを見みたが、その中うちに故鄕こきやうからの手紙てがみもあつた。父ちゝは老をい母はゝは目めを病やみ、弟おとうとは小賣商こうりしやうをして一家か僅わづかに口くちを糊こしてゐるので、救助きうじよの願書ぐわんしよの絕たえた月つきはない。今月こんげつのは殊ことに長ながい。私わたしは卷紙まきがみの半なかばを讀よまぬ中うちに、眠氣ねむけさして堪たへられぬので、それを机つくゑに廣ひろげたまゝ床とこの中うちへ入はいつた。
翌朝よくてう下女げぢよが雨戶あまどを開あける音おとを幽かすかに聞ききながら、起おきもやらず寢返ねがへりして、尙なほウト〳〵してゐたが、その間あひだに珍めづらしく故鄕こきやうの夢ゆめを見みた。——兄弟きやうだい三人にん裏うらの畑はたけに出でてゐる。樹木じゆもくの少すくない丘をかから斜なゝめに麓ふもとまで畑はたになつてゐて靑々あを〳〵と麥むぎは波なみを打うち、畦あぜには蓮華草れんげさうが赤あかく緣取ふちどつてゐる。日ひは眩まぶしい位くらゐ照てつて居ゐる。兄あには被頰ほゝかぶりして汗あせばんだ手てで畑はたを耕たがやし、私わたしは弟おとうとと紙鳶たこを飛とばした。風箏うなりが靜しづかな空そらに氣持きもちよく鳴なつて、赤あかい繪具ゑのぐで塗ぬつた紙鳶たこの影かげは小ちいさくなる。私わたしは興きように乗のつて畑はたを踏ふみ丘をかへ上のぼり四方はうへ驅かり廻まはると、弟おとうとは後あとから喘あえぎ〴〵追おうて來くる。やがて私わたしは手てに纏まとうた糸いとを有ある限かぎり手繰たぐり出だしたが、運惡うんわるく糸いとは木きの枝えだ に引掛ひつかゝつて如何いかにするも離はなれない。その間あひだに紙鳶たこは糸いとを切きつてフワ〳〵空そらを飛とんで行ゆく。私わたしも弟おとうとも兄あにも仰向あふむいてその行衞ゆくゑを眺ながめた。——目醒めざまし時計どけいの鳴なる音おとに驚おどろいて夢ゆめは消きえた。歸國きこく每ごとに亡兄ばうけいは私わたしに向むかつて、「今いまの田地でんぢさへ荒あらさなければ、家うちのものは生活くらしに困こまりやしない、お前まへは學才がくさいがあるんだから、家うちの事ことは心配しんぱいせんで勉强べんきやうして早はやく出世しゆつせして吳くれ」と云いつて、自身じゝんは死際しにぎはまで鍬くわを離はなさなかつた。この手紙てがみによると弟おとうとは此頃このごろ反物たんものを脊負しよつて近村きんそんを廻まわつてゐるらしい。そして一家か揃そろうて私わたしの噂うはさをしてゐるとある。私わたしも亦また絕たえず故鄕こきやうの家族かぞくを思おもつてゐることと向定むかうぎめに定きめてゐる。私わたしは手紙てがみを座右ざいうの反古籠ほごかごに入いれて、心こゝろ淋さびしく肌寒はださむく感かんじた。
(六)
この日ひは宿雨しゆくう晴はれて、敎員室けうゐんしつは花見はなみの噂うはさが盛さかんであつた。日課につくわを終をはつて家うちへ歸かへり、和服わふくに着替きかへてゐると、豐島とよしまと云いふ私わたしの所謂いはゆる情熱家じやうねつかが訪たづねて來きた。同鄕どうきやうで同おなじ中學ちうがくにゐた男をとこで、加瀨かせがこの家うちに同宿どうしゆくしてゐた頃ころ、職しよくを失うしなつて轉ころがり來こんだこともある。醉よはぬ時ときは顏色かほいろ靑あをく、言葉ことばも少すくなく、目めは潤うるんでゐるが、少すこしでも醉ゑひが廻まはると、悲憤ひふん慷慨こうがい滿心まんしんの血ちが湧わき立たつて、自身じゝん一人ひとりで世界せかいと角力すまふでも取とる勢いきほひだ。彼かれの所謂いはゆる「お利口連りこうれん」を罵のゝしつて淚なみだを浮うかべることもある。加瀨かせなどは頭あたまから「馬鹿野郞ばかやらう」「靑あを二才さい」「僞善者ぎぜんしや」の百萬遍べんを浴あびせかけられる。
今日けふは七分ぶの醉ゑひだ。格子戶かうしどをガラリと激はげしく開あけると、「大將たいしやう居ゐるか」と怒鳴どなつて、帽子ぼうしを投なげて、座敷ざしきの眞中まんなかに胡床あぐらを搔かいた。
「大分だいぶ元氣げんきがいゝね、ちつとは儲まうかつたんだらう、おれに金かねでも吳くれに來きたのぢやないか」と、私わたしは帶おびを締しめながら相手あひてを見下みおろして云いつた。
「馬鹿ばか云いへ、金かねなんかあるもんか」
「馬鹿ばか云いへ、とつくに轉居てんきよして今いまは四谷よつやの庭にはの廣ひろい家うちにゐる、近ちかいから學校がくかうの歸かへりにでも寄よれ、アブサンを呑のましてやらあ」
「さうか、モー天井裏てんじやうゝらにゐないんか、ぢや少すこし堕落だらくした方はうだね、僕ぼくは君きみがあの二階かいにゐるのを悲かなしむよりも寧むしろ祝しゆくしてゐたのだがなあ、鼠ねづみの糞ふんや蜘蛛くもの巢すの中なかで、蠟燭らうそくを點火とぼして文章ぶんしやうを書かいてるのを見みると、僕ぼくあ拜おがみたいやうな氣きがした。昔むかしの天才てんさいや義人ぎじんによくある例れいだからね。」
「うんにや僕ぼくはもう方針はうしんを變かへた、どんな卑屈ひくつな眞似まねをしても金かねを儲まうけるつもりだ、世よの中なかは俗物ぞくぶつばかりだから、これまでのやうにしちや馬鹿ばかを見みるからな、もう主義しゆぎ變更へんかうだ。」
「しかし君きみはどうして金かねを儲まうける、何處どこから見みたつて素質そしつはないぢやないか、君きみが俗物ぞくぶつになるのは加瀨かせの頭あたまが五分刈ぶがりになる時代じだいだらう」