小山こやまは窓まどの閾しきゐに腰こしを掛かけ、膝ひざを重かさねて貧乏搖びんばふゆるぎをしながら、
「今夜こんや姉ねえさんは何處どこかへ行いつたのかい」
「えゝ、一寸ちよつと道寄みちよりしたのよ、もう歸かへるでせう」
「歸かへつたら皆みんなで散步さんぽしようか」
「私わたし散步さんぽなんか嫌いやだわ」
「お樂らくさんは消極的せうきよくてきだからいかん、もつと活潑くわつぱつにハキ〳〵しなくちや駄目だめだよ」
「さうですかねえ」と、お樂らくは不愛相ぶあいさうに云いふ。そしてお茶ちやを汲くんで、後あとは几帳面きちやうめんに座すわつて身動みうごきもしない。
「今日けふはお樂らくさんはどうかしてるね、加瀨かせを連つれて來こんから不平ふへいなんぢやないか」と、小山こやまは冷ひやかすやうに云いつたが、お樂らくは何なんとも答こたへず、少すこし俯首うつむいて、膝ひざの上うへで指先ゆびさきをいぢつてゐる。
「過日こなひだ加瀨かせと何處どこかへ散步さんぽしたさうだね、あの時ときお樂らくさんがこんな事ことを云いつてたつて、皆みんな僕ぼくに話はなしたよ、それでね加瀨かせは近々きん〳〵家うちを持もつと云いつて頻しきりに準備じゆんびをしとる。お樂らくさんのためにも祝しゆくすべきことだね、二階かい借かりをしてお役所やくしよ通がよひなんかしないでもいゝんだから」と、小山こやまは相手あひての顏かほ色いろには無頓着むとんちやくで云いふと、お樂らくはツンとして、
「小山こやまさんは何時いつも人ひとを馬鹿ばかにしとるのね」
「何故なぜ、僕ぼくはお樂らくさんには敬意けいゝを拂はらつてるから、その幸福かうふくのために盡力じんりよくしてるんぢやないか」
「もう澤山たくさん!」
「ぢやその話はなしは止よそう」と、小山こやまは私わたしの方はうを向むき、「君きみ、近々きん〳〵大久保おほくぼであの會くわいをやらうぢやありませんか、その時ときやお樂らくさんも是非ぜひお出いでよ、この人ひとの家うちで演藝會えんげいくわいをやるんだから、僕ぼくが一緖しよに行ゆきや姉ねえさんも何なんとも云いやあしないだらう」
「私わたしもう何處どこへも行ゆかないわ」
「だつて須崎すさき君くんの家うちならいゝぢやないか、この人ひとは僕ぼくにも加瀨かせ君くんにも親友しんいうだし、大變たいへんな學者がくしやだから。こんな恐こはい面かほをしてるけれど、これで氣きの輕かるい面白おもしろい人ひとだよ、時々ときどき遊あそびに行いつて御覽ごらん、二人ふたりで長唄ながうたでも唄うたつて陽氣やうきにやるも、加瀨かせ君くんと差向さしむかひでニヤリ〳〵笑わらつてるよりやいゝよ」
私わたしは退屈たいくつして苦笑くせうして、「もう歸かへらうぢやないか」と小山こやまを促うながした。
小山こやまは容易よういに歸かへらうともせず、「姊ねえさんはどうしたのだらう」と氣遣きづかつてゐたが、暫しばらくすると無斷むだんで階下したへ下おりた。誰だれかと高聲たかごゑで話はなしてゐる。
私わたしは窓際まどぎはへすり寄よつて、正面まともにお樂らくを見みた。以前いぜん加瀨かせの宿やどで見みた時ときよりは、少すこし色いろが惡わるく目めもあの時ときほど冴さえてゐない。
「小山こやま君くんはよく來くるんですか」
「えゝ、一日にち隔おき位ぐらゐに入いらつしやるんですわ」
「來きて何なにをするのです、あの人ひとは面白おもしろいでせう」
「えゝ、お喋舌しやべりばつかりして」と、眉まゆを顰ひそめて、さも不愉快ゆくわいさうだ。
「あれ程ほど毒氣ゞくけのない秘密ひみつのない男をとこもない、だから皆みんなに好すかれるんです、加瀨かせなんかもあの人ひとには何なにもかも打明うちあけると見みえて、僕ぼくのやうな永ながい間あひだの友人いうじんが知しらんことまで小山こやま君くんは知しつてゐます」
「ですけど小山こやまさんにだつて、秘密ひみつはあるでせう、人間にんげんは誰だれにだつて秘密ひみつはあるんですもの」と滅入めいつた聲こゑだ。
「さうですかねえ、しかし小山こやまや加瀨かせの秘密ひみつといつて、高たかがきつと情婦いろをんなを拵こしらえとく位くらゐのことだらう」と冷ひやゝかに笑わらつて、殊更ことさらに侮蔑ぶべつするやうな目付めつきでジツと相手あひてを見みた。それがお樂らくには身震みぶるひする程ほどの感かんじを與あたへたらしい。つツと立たつて階下したへ下おりた。私わたしは後あとを見送みおくつて姿すがたのいゝ女をんなだと思おもつた。少すくなくもお靜しづよりは生々いき〳〵してゐる。そして小山こやまの云いふやうにこの女をんなも加瀨かせを戀こひしてゐると思おもふと、何なんとなく不愉快ふゆくわいな變へんな感かんじがする。
暫しばらくして私わたしも階下したへ下おりた。小山こやまは緣側えんがはで肥ふとつた女をんなと竊ひそかに何なにか語かたり合あひ、お樂らくは長火鉢ながひばちの前まへで夕刊ゆふかんの新聞しんぶんを讀よみながら、橫目よこめでその方はうを偸見ぬすみゝしてゐた。
「あれは誰だれだ」と、歸かへり途みちに小山こやまに聞きくと、
「お樂らくの姊あねさ」と、簡單かんたんに答こたへて、何時いつものお喋舌しやべりを續つゞけない。
「お樂らくも妙めうな女をんなだね、」
「あれも馬鹿ばかに浮ういてる時ときと、妙めうにひねくれ﹅﹅﹅﹅る時ときとある」
この日ひからお樂らくは私わたしの頭あたまに一ひとつの蟠わだかまりとなつて殘のこつた。懷なつかしくも床ゆかしくも思おもふのではないが、只たゞ一二年前ねんぜんお靜しづに別わかれて以来いらい私わたしに例れいのない一種しゆのインテレストを惹起ひきおこしたのだ。何故なぜだらう、私わたしはお樂らくと加瀨かせの戀こひに疑問ぎもんを抱いだいてゐるので、その經過けいくわを見みたいと思おもふ好奇心かうきしんから、知しらず〴〵お樂らくが私わたしの心こゝろを去さらなくなつたのだらうと思おもつた。で、お樂らくともつと﹅﹅﹅打解うちとけて話はなして、あの淺薄せんぱくな加瀨かせがどんな風ふうに女をんなの心こゝろに映うつつてゐるか、眞相しんさうを捜さぐつて見みたいが、容易よういに懇意こんいにはなれぬ。
この後ご暫しばらく私わたしは土州橋としうばしを渡わたることが繁しげくなつた。それにつれて財政ざいせいの平調へいてうも破やぶれた。
(八)
大久保おほくぼは躑躅つゝぢが咲さいて人ひとの出入でいりが多おほくなつた。私わたしの家うちへも來客らいきやくが多おほい。私わたしは財囊ざいのうの缺乏けつばふを感かんじて、内職ないしよくに原稿げんかう稼かせぎでもしようかと思おもつてゐたが、手近てぢかい所ところに捌さばけ口ぐちがない。加瀨かせに賴たのむのは厭いやだ。駈廻かけまはつて面識めんしきの淺あさい人ひとに嘆願たんぐわんするのも淺あさましい氣きがする。まだ二十七歲さいの若わかい身空みそらで、仰あふぎ見みる幻影まぼろしもなく、只たゞ刻々こく〳〵の肉慾にくよくを充みたさんがために、僅わづかの金かねを求もとめてゐる自身じゝんが可笑おかしく感かんぜられた。
或日あるひ加瀨かせと小山こやまとが躑躅つゝぢ見みの歸かへりに立寄たちよつた。加瀨かせの唇くちびるは臙脂べにをさしたやうに赤あかい。白しろい細ほそ長ながい指ゆびに黃きいろい指環ゆびわを嵌はめてゐる。
「此頃このごろも徒士町おかちまちへよく行ゆくかね」と、私わたしは加瀨かせを見みると直すぐに問とうた。
「僕ぼくよりや小山こやま君くんの方はうがよく行ゆく」と、加瀨かせはニヤリ〳〵笑わらふ。
「君きみもよく行ゆくぢやないか、しかしね須崎君すさきくん、君きみは徒士町おかちまちであまり評判ひやうばんがよくないよ、何なんだか意地いぢの惡わるさうな人ひとだと云いつてる、僕ぼくは頻しきりに辯護べんごするんだけど」
「さうかねえ、困こまつたものだねえ」
「君きみはわざつ﹅﹅﹅と女をんなを侮蔑ぶべつするやうな態度たいどを執とるからさ、柔やさしくさへすれば女をんなは喜よろこんで來くる、君きみは下くだらないと云いふだらうが、それで女をんなを弄もてあそんでりや、面白おもしろいぢやないか」と加瀨かせは珍めづらしく氣焔きえんを吐はく。
「君きみも小山こやま君くんの口くち眞似まねをするやうになつたね、僕ぼくは君きみの戀こひは眞面目まじめなんかと思おもつてたのに、ぢや浮氣うはきなんだね」
「浮氣うはきでもない、それが戀こひの本體ほんたいさ。せつぱ詰つまつたやうな戀こひは駄目だめだからね、餘裕よゆうのある戀こひでなくちや僕ぼく等らはいやだ。面白味おもしろみは其處そこにある」
「君きみも進步しんぽしたもんだね」と、私わたしは加瀨かせがこの家うちに同居どうきよしてゐた時分じぶんを追想つゐさうした。今いまの彼あれの目めは、邪推じやすゐか知しらぬが私わたしを憐あはれむやうに見みえる。
「何なにしろ加瀨かせ君くんは金かねがあるから敵かなはない。外ほかの點てんでは敢あえて一步ぽも讓ゆづらんがね」と、小山こやまは歎息たんそくした。
加瀨かせは勝利者しやうりしやの如ごとく笑わらつて、「この人ひとも今いま戀こひの苦くるしみをしてるんだよ」
私わたしは重かさねて聞きかうともしなかつた。加瀨かせは拍子ひやうし拔ぬけがして、橫よこを向むいて小山こやまと小聲こゞゑで話はなし出だした。
「徒士町おかちまちの姉あねの方はうは夜遊よあそびをするさうだ、あの家うちの妻君さいくんが皮肉ひにくを云いつてたが氣きに掛かゝるよ、以前いぜんに隨分ずゐぶん謂いはくのあつた女をんならしいからね」
「早はやく結婚けつこんして了しまへばいゝぢやないか」
「所ところが甘うまくさういかんよ、いざとなると逃にげてしまうし」
「妹いもうととは違ちがうね」
「妹いもうとだつて分わかるものか」
「ハツ〳〵、君きみは女をんなを見みる目めがない、妹いもうとは純潔じゆんけつなものだ、役所やくしよの方はうでも評判ひやうばんがいゝし、あんなに怠なまけないで働はたらいてるんだもの、育そだちが卑いやしいのに似合にあはず、あれだけに仕上しあげたんだからね、」
「君きみは成功者せいこうしやだが」と、小山こやまは溜息ためいきを吐ついた。
「小山こやま君くんの婦人學ふじんがくも理論りろんのみだね」と、私わたしが橫よこから冷ひやかすと、小山こやまは「さうでもないさ」と云いつて、グツタリ首くびを垂たれた。その樣子やうすが可笑おかしくてならぬ。
しかし小山こやまの沈しづんだ調子てうしは間まもなく消きえて、賑にぎやかな世間せけん話ばなしとなつた。
彼等かれらは一ひとしきり騷さわいで、ランプをつける頃ころに歸かへつた。徒士町おかちまちへ行ゆかうと二人ふたりは約束やくそくして、私わたしをも誘さそうたが、私わたしはそれに應おうじなかつた。
夕餐ゆふめしを終をはると戶外そとへ出でた。無意味むいみに散步さんぽして、散步さんぽしながら加瀨かせと小山こやまとが徒士町おかちまちの二階かいで戯たはむれて現拔うつゝぬかしてゐる樣さまを思おもひ浮うかべた。二人ふたりとも年中ねんぢう飽あきもせずに遊あそんでゐる。加瀨かせの奴やつ仕事しごとも愉快ゆくわいだと云いふ。やがて雜誌ざつしの主任しゆにんに昇進しやうしんするさうだ。案山子かゝしにフロツクコートを着きせたやうな男をとこが通用つうようする世よの中なかだと思おもふと可笑をかしいと、私わたしは强しいて嘲あざけつて冷笑れいせうしてやつた。
花はなは散ちつて靑葉あをばが柔やはらかい風かぜに戰そよいでゐる。軒のきランプもない薄暗うすぐらい私わたしの家いへの前まへには、子供こどもが大勢おほぜい騷さわいでゐるのが聞きこえる。
私わたしは小徑こみちを五六丁ちやう行戾ゆきもどりして、家いへの側そばまで來くると座敷ざしきの障子しやうじに燈火あかりが映うつつてゐる。消けして出でた筈はずだが、誰だれか客きやくでも來きたのかと、多少たせう悅ゝれしかつた。
座敷ざしきへ上あがつて見みると、お靜しづが片隅かたすみに兩袖りやうそでを搔合かきあはせて座すわつてゐる。矢張やはり顏かほが靑あをく唇くちびるの色いろも褪あせてゐれど、この前まへほど厭いやに感かんぜられなかつた。
「又また日本橋にほんばしへ行いつたと聞きいてたが、まだ居ゐるんだね」
「まだ身體からだがよくなりませんから、……どうせ駄目だめなのですから」と、聲こゑも冴さえ冴ざえせず厭いやな音おんだ。
けれど私わたしはあまり憎にくまれ口ぐちを利きかなかつた。冷ひややかしもしなかつた。嘗かつて私わたしを棄すてゝ他所よそへ行いつたこの女をんなと火鉢ひばちを隔へだてゝ差向さしむかひで、夜更よふける迄までも物語ものがたつた。下手へたな虛うそを云いつてるなと折々をり〳〵心こゝろで嘲あざけりながら、女をんなの苦勞くらう話ばなしを聞きいてやつた。