語調ごてうが銳するどかつたのか、長沼ながぬまは私わたしを見上みあげて呆氣あつけに取とられてゐたが、
「僕ぼく等らはまだ老人らうじんでもないが、生活くらしが立たちや田舎ゐなかへ引込ひつこんで氣樂きらくに送おくりたいと思おもふ、君きみ逹たちが都會とくわいにゐたがるのは、まだ一家かの苦勞くらうを經驗けいけんせんからだ」
「十八番おはこが始はじまつたね」
と、私わたしは例れいの敎員けうゐんを尻目しりめにかけた。長沼ながぬまは腕力わんりよくも俸給ほうきうも智識ちしきも私わたしに及およばぬが、只たゞ年齡ねんれいに於おいて一日じつの長ちやうがあるので、どうかすると、「君きみは若わかいからねえ」とか「まだ經驗けいけんが足たらんから」とか云いつて、僅わづかに哀あはれなる自己じこを主張しゆちやうしてゐる。
私わたしは或時あるとき長沼ながぬまのために爭あらそつた。校長かうちやうが彼かれを無能むのうとして排斥はいせきしかけたのを遮さへぎり、彼かれの爲ために拳こぶしを握にぎり目めを怒いからせて辯護べんごした。私わたしの意見いけんは用もちひられて無事ぶじに收おさまつたが、返事へんじ次第しだいで校長かうちやうを毆打おうだせんとまで息込いきごんだのだ。長沼ながぬまは私わたしの俠骨けふこつを喜よろこび、下宿げしゆくへ來きて淚なみだながらに感謝かんしやした。しかし私わたしは深ふかい同情どうじやうから彼かれを擁護えうごしたのではなくて、只たゞ氣きまぐれに過すぎぬのであつた。退屈たいくつさましの戯たはむれに過すぎぬのであつた。
(十三)
或日あるひ小山こやまはようやく「お樂らくの住所じうしよが分わかつた」と、さも傲ほこり顏がほに私わたしに吿つげた。
「何處どこにゐる」
「芝しば四國こく町まち二十三番地ばんち、捜さがすのに困こまつたよ、學校がくかうへ行いつてたそうだがね、今いまはそれどころぢやない。大變たいへん困こまつてる、何なんでも姉あねが惡わるい男をとこに引ひつかゝつたので、妹いもうとの貯金ちよきんまで絞しぼり取とられたらしいよ、それで姉あねは妹いもうとに離はなれて何處どこかへ行いつて、お樂らく一人ひとり泣なきの淚なみだで暮くらしてらあ、いゝ氣味きびさ、僕ぼく等らを欺だましやがつた天罰てんばつだ」
「加瀨かせが保護ほごして吳くれるだらう」
「なあに、加瀨かせはもう結婚けつこんの準備じゆんびに忙せわしいから、お樂らくのことは忘わすれてる」
「さうか、相手あひては誰だれだ」
「お楠くす、僕ぼくの從姉いとこだ」
「ぢや加瀨かせと君きみとは親類しんるゐになるんだね」と、私わたしはお楠くすのブク〳〵肥ふとつた身體からだとおチヨボ口ぐちを思おもひ浮うかべながら、
「加瀨かせも方々ほう〴〵嗅かいで步あるいたが、つまりは手近てぢかい所ところで間まに合あはすんだね、」
「叔母をばは不賛成ふさんせいだつたが、まあ輕便けいべんでいゝさ」
と、小山こやまは利害りがい相關あひくわんせずと云いつた風ふうだ。
その夜よ私わたしは久振ひさしぶりで加瀨かせに手紙てがみを送おくつた。
「もう結婚けつこんするさうだね、お目出度めでたう、御披露ごひろうの節せつに僕ぼくも招まねいて吳くれ玉たまへ、吉例きちれいに謠曲うたひくらゐ謠うたはうよ、兎とに角かく君きみは羨うらやましい、徴兵ちやうへい檢査けんさが濟すむと、苦情くじやうも云いはずに結婚けつこんする、やがて子こが生うまれるだらう、やがて君きみの顏かほに皺しわが出來できるだらう、」
加瀨かせからの返書へんしよは略ほゞ一尋ひとひろもあつた。謹つゝしんだ手跡しゆせきで、さも考かんがへたらしい文句もんくに滿みちてゐた。その中うちに
「結婚けつこん以前いぜんには、若わかいい女をんなの眼めは悉こと〴〵く僕ぼくに對たいして媚こびを呈ていしてゐるやうに思おもはれたが、女房にようぼが定きまつてからは、全然まるで態度たいどが一變ぺんしたやうに感かんぜられる。瞳ひとみの底そこの方はうで冷ひやゝかに笑わらひながら、お前まへさんはもう駄目だめですよ」と云いつてゐる。何なにおれが女房にようぼを貰もらつたかどうだか、見みず知しらずの世間せけんの女をんなに解わかる譯わけがない、氣きの所爲せいだと安心あんしんして見みるが、矢張やはりり『駄目だめだ〳〵、白羽しらはの矢やは東片町ひがしかたまちの屋根やねの上うへ』と云いつてゐて相手あひてにしない」と云いふ文句もんくがあつて、終をはりに「君きみよ、戀こひすべし、結婚けつこんすべからず」と、世路せろに老をいた人ひとの云いひさうな文句もんくを添そえてゐる。
私わたしは却かへつて彼かれに飜弄ほんろうされたやうに感かんじてヂレた。彼かれは何時いつまでも太平たいへいである。道樂だうらくに仕事しごとをして道樂だうらくに世よを逹觀たつくわんしたやうな皮肉ひにくを云いつて、そして道樂だうらくに戀こひをし結婚けつこんもしてゐる。
で、この時とき彼かれを冷笑れせうする勇氣ゆうきもなかつた。そしてこの一夜や二三年來ねんらいの反抗心はんこうしんの消きえて、何なんとなく人懷ひとなつかしくなつた。
今朝けさからの梅雨つゆが夕立ゆふだち模樣もやうになつて、向むかひの屋根やねには水煙みづけぶりを立たて、激はげしい音おとで降濺ふりそゝいでゐるのに恐おそれず、宿やどを飛出とびだした。小山こやまの氣樂きらくな話はなしを聞ききたいのでもなく、お靜しづの靑あをい顏かほを見みたいのでもなく、只たゞ一圖いちづに豐島とよしまに會あひたくなつた。彼かれの濡うるんだ目めを見みたい、彼かれの情熱じやうねつの言葉ことばを聞ききたい。
| 正宗 定價六拾錢 |
| 著 紅塵(三版) |
| 白鳥 郵稅八錢 |
| 明治四十一年十月十八日印刷 何處へ奧付 |
| 明治四十一年十月廿五日發行 定價八拾五錢 |
| 著作者 正宗白鳥 |
| 東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地 |
| 不 許 發行者 西本波太 |
| 東京市小石川區久堅町百〇八番地 |
| 複 製 印刷者 山田英二 |
| 東京市小石川區久堅町百〇八番地 |
| 印刷所 博文館印刷所 |
| —————————————————— |
| 東京市麹町區飯田町六丁目二十四 |
| 發行所 易 風 社 |
| 振替口座一二〇三四番 |
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
原文 珈珈店こーひーてん(p. 3)
訂正 珈琲店こーひーてん
原文 良體からだ(p. 4)
訂正 身體からだ
原文 「如何いかにして(p. 5)
訂正 如何いかにして
原文 あらあね」、(p. 13)
訂正 あらあね」
原文 微錄びろく(p. 17)
訂正 微祿びろく
原文 武具ぶく(p. 18)
訂正 武具ぶぐ
原文 始ほとんど(p. 23)
訂正 殆ほとんど
原文 言葉ことばた(p. 25)
訂正 言葉ことばを
原文 被入いらつらやる(p. 29)
訂正 被入いらつしやる
原文 私わわし(p. 30)
訂正 私わたし
原文 壁かべはは(p. 31)
訂正 壁かべには
原文 暫しばららく(p. 34)
訂正 暫しばらく
原文 外戶そと(p. 38)
訂正 戶外そと
原文 初はじめて間(p. 39)
訂正 初はじめの間
原文 堪たゝへ(p. 40)
訂正 湛たゝへ
原文 强ひいて(p. 44)
訂正 强しいて
原文 程ほどでもないだけど(p. 45)
訂正 程ほどでもないんだけど
原文 頂あづけんのです(p. 45)
訂正 頂いただけんのです
原文 面白おもしはい(p. 45)
訂正 面白おもしろい
原文 聞きいてゝても(p. 48)
訂正 聞きいてゝも
原文 見みたくなつたの」。(p. 49)
訂正 見みたくなつたの」
原文 お成なりなさいな」。(p. 49)
訂正 お成なりなさいな」
原文 云いふですか(p. 51)
訂正 云いふのですか
原文 出入しゆつにい(p. 52)
訂正 出入しゆつにふ
原文 健次けんじなどか(p. 52)
訂正 健次けんじなどが
原文 招まぬかれる(p. 53)
訂正 招まねかれる
原文 一寸ちよと(p. 53)
訂正 一寸ちよつと
原文 定さだる(p. 64)
訂正 定さだまる
原文 聲こゑをかける、(p. 65)
訂正 聲こゑをかける。
原文 月初つきはじで(p. 67)
訂正 月初つきはじめで
原文 並ならべるか(p. 67)
訂正 並ならべるが
原文 記行きこう(p. 68)
訂正 紀行きこう
原文 洩もららした(p. 70)
訂正 洩もらした
原文 酷ひどいは(p. 74)
訂正 酷ひどいわ
原文 如何どうにして(p. 74)
訂正 如何いかにして
原文 持もつてゝ(p. 81)
訂正 持もつてつて
原文 その宅たくを出いて(p. 83)
訂正 その宅たくを出でて
原文 上あがかるか(p. 84)
訂正 上あがるか
原文 何なにだか(p. 86)
訂正 何なんだか
原文 兄あにさん(p. 86)
訂正 兄にいさん
原文 主婦しうふ(p. 89)
訂正 主婦しゆふ
原文 御馳走ごちさうなんか(p. 89)
訂正 御馳走ごちそうなんか
原文 叙情的じよじやうきて(p. 90)
訂正 叙情的じよじやうてき
原文 氣心きこゞろ(p. 91)
訂正 氣心きごゝろ
原文 やがで(p. 94)
訂正 やがて
原文 それには(p. 95)
訂正 それにね
原文 續つゞけてやつけば(p. 96)
訂正 續つゞけてやつてけば
原文 訴うたへる(p. 96)
訂正 訴うつたへる
原文 起上おきあつた(p. 99)
訂正 起上おきあがつた
原文 咳つぶやいた(p. 101)
訂正 呟つぶやいた
原文 滅入めついつた(p. 101)
訂正 滅入めいつた
原文 話はなを(p. 103)
訂正 話はなしを
原文 躊躇ちうよよ(p. 106)
訂正 躊躇ちうちよ
原文 以前いせん(p. 107)
訂正 以前いぜん
原文 移うつてる(p. 108)
訂正 移うつつてる
原文 焦慮ぢれで(p. 108)
訂正 焦慮ぢれて
原文 終始しゞう(p. 111)
訂正 終始しゆうし
原文 欺あざいて(p. 111)
訂正 欺あざむいて
原文 働はたく(p. 112)
訂正 働はたらく
原文 女供をんなども(p. 115)
訂正 女共をんなども
原文 土古耳とるこ(p. 117)
訂正 土耳古とるこ
原文 何なんんだつて(p. 117)
訂正 何なんだつて
原文 「目めを細ほそく(p. 119)
訂正 目めを細ほそく
原文 駄目だめだ」。(p. 120)
訂正 駄目だめだ」
原文 考かんへて(p. 123)
訂正 考かんがへて
原文 兄あにさん(p. 125)
訂正 兄にいさん
原文 身分じぶん(p. 129)
訂正 自分じぶん
原文 麥酒て《びーる》(p. 132)
訂正 麥酒で《びーる》
原文 閾しきみ(p. 133)
訂正 閾しきゐ
原文 靑あほくて(p. 135)
訂正 靑あをくて
原文 縦橫無盡じゆうわうむじゆん(p. 135)
訂正 縦橫無盡じゆうわうむじん
原文 癩しやく(p. 139)
訂正 癪しやく
原文 兩手れうて(p. 140)
訂正 兩手りやうて
原文 詮方せんたか(p. 141)
訂正 詮方せんかた
原文 打うたたれる(p. 143)
訂正 打うたれる
原文 入被いらつしやい(p. 146)
訂正 被入いらつしやい
原文 甲裴かひ(p. 150)
訂正 甲斐かひ
原文 恐こはうであしてね(p. 155)
訂正 恐こはうごあしてね
原文 忰がれれ(p. 155)
訂正 忰せがれ
原文 ずり込こんて(p. 159)
訂正 ずり込こんで
原文 出でで(p. 162)
訂正 出でて
原文 異ちがつたものんだね(p. 164)
訂正 異ちがつたものだね
原文 言葉ことば少すくない(p. 168)
訂正 言葉ことば少すくなに
原文 突込つきこみ。(p. 168)
訂正 突込つきこみ、
原文 堆積せきたい(p. 171)
訂正 堆積たいせき
原文 二十歲はなち(p. 178)
訂正 二十歲はたち
原文 賑にぎやがた(p. 181)
訂正 賑にぎやかだ
原文 切きられるぞ」。(p. 187)
訂正 切きられるぞ。」
原文 隱かくし(p. 187)
訂正 隱かくし
原文 見廻みまはず(p. 189)
訂正 見廻みまはす
原文 怠だくて(p. 190)
訂正 怠だるくて
原文 止やんだか(p. 193)
訂正 止やんだが
原文 明あかるるく(p. 193)
訂正 明あかるく
原文 大床胡おほあぐら(p. 201)
訂正 大胡床おほあぐら
原文 眺ながめめて(p. 202)
訂正 眺ながめて
原文 捨ひろつた(p. 203)
訂正 拾ひろつた
原文 吉公きちまつ(p. 204)
訂正 吉松きちまつ
原文 口眞似にちまね(p. 209)
訂正 口眞似くちまね
原文 先さきき(p. 209)
訂正 先さき
原文 逹公たつこうな(p. 210)
訂正 逹公たつこうは
原文 顏かほか(p. 211)
訂正 顏かほが
原文 暇ひまがあれが(p. 211)
訂正 暇ひまがあれば
原文 聞きかせます(p. 216)
訂正 聞きかせます。
原文 娘むすめさんか(p. 224)
訂正 娘むすめさんが
原文 どうでず(p. 227)
訂正 どうです
原文 缺かげた(p. 230)
訂正 缺かけた
原文 貴下方あなたがたも(p. 231)
訂正 「貴下方あなたがたも
原文 世態話しよたいばはし(p. 235)
訂正 世態話しよたいばなし
原文 因こまつて(p. 235)
訂正 困こまつて
原文 立たつだけても(p. 240)
訂正 立たつだけでも
原文 勤すゝめた(p. 243)
訂正 勸すゝめた
原文 仰あふせつかたつて(p. 246)
訂正 仰あふせつかつて
原文 尊敬そんけいしてるんでず(p. 247)
訂正 尊敬そんけいしてるんです
原文 僕ぼくも(p. 255)
訂正 「僕ぼくも
原文 書かきかけゐる(p. 256)
訂正 書かきかけてゐる
原文 後園こうえん(p. 256)
訂正 公園こうえん
原文 それ白面おもしろもからう(p. 259)
訂正 それも面白おもしろからう
原文 渦中くわちうゆ(p. 259)
訂正 渦中くわちゆう
原文 經たえる(p. 264)
訂正 絕たえる
原文 て、自分じぶんは(p. 264)
訂正 で、自分じぶんは
原文 山吹町《やまぶしちやう》(p. 266)
訂正 山吹町《やまぶきちやう》
原文 始はじある(p. 274)
訂正 始はじめる
原文 取立とりてて(p. 279)
訂正 取立とりたて
原文 自身じゝんには(p. 279)
訂正 自身じゝんも
原文 のこ男をとこ(p. 281)
訂正 この男をとこ
原文 育そだて上あけて(p. 281)
訂正 育そだて上あげて
原文 險幕けんまく(p. 282)
訂正 劍幕けんまく
原文 籠こもつてるのでもないか、(p. 282)
訂正 籠こもつてるのでもないが
原文 睨にらみつけてゐたか(p. 284)
訂正 睨にらみつけてゐたが
原文 散步さんぽして入いらしつたんですが(p. 284)
訂正 散步さんぽして入いらしつたんですか
原文 嘲あざげつてる(p. 286)
訂正 嘲あざけつてる
原文 梅雨つゆて(p. 291)
訂正 梅雨つゆで
原文 脫ぬいて(p. 297)
訂正 脫ぬいで
原文 持上もちあけて(p. 300)
訂正 持上もちあげて
原文 金かねたか(p. 302)
訂正 金かねだが
原文 襲おそばれて(p. 302)
訂正 襲おそはれて
原文 門札もんさつか(p. 312)
訂正 門札もんさつが
原文 加瀨せせ(p. 314)
訂正 加瀨かせ
原文 さんだ(p. 315)
訂正 さんざ
原文 御存知ごぞんじじなんですね(p. 319)
訂正 御存知ごぞんじなんですね