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Chapter 7: (四)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

「さうでせう、いま物好ものずきな人間にんげんおほいから、……買手かひてがあつたらはやつたらいいでせう」

「でもね、おとつさんはじにしても、先祖せんぞたからだから人手ひとでにやわたさないつて、ひとりでりきんでるんだから」

「まあおとつさんはあれが生命いのちよりも大事だいじなんだからいゝさ」と、欠伸あくびをして、「いまにおとつさんののぞみがとゞいて、うまでもつたら、あのかぶとよろひかたなして、このきたなうちから手綱たづなつて妖怪ばけもの退治たいぢにでもくでせう、さうなるとおとつさん萬歲ばんざいだが、何年なんねんきのことかなあ」

老母らうばけんのある健次けんじて、「おとつさんやおまへ何故なぜさう呑氣のんきなんだらう、わたし一人ひとりやきもき﹅﹅﹅﹅させといてさ」と、長煙管ながきせるをポンと邪慳じやけんたゝくので、健次けんじ片膝かたひざてて逃仕度にげじたくをし、

呑氣のんきものですか、おとつさんはうまひたくつて、腰辨當こしべんたう齷齪あくせくしてるんだし、わたしだつて、むね苦勞くろうえたことはありやしない」と、眞面目まじめ戯言じやうだんわからぬひやうをしたが、きふ生眞面目きまじめになり、「一昨日おとつひばんにね、おつかさん、わたし廣小路ひろこうじでおとつさんにつたんですよ、むかうではかなかつたやうだが、わたしあとからてると、あの蝙蝠傘かうもりがさいて、馬丁べつとうなんだかはなしをしてる。はなしすぢわからなかつたが、やなぎ軍人ぐんじんれかのうまつないであつて、おとつさんがそのうまからはなさずに見惚みとれてるんです。およそ十分間ぷんかんもして、おとつさんは名殘惜なごろおしさうにかへり〳〵してかへつてつたが、わたしはそれをぢつとてゝね、そのときばかりはおとつさんにはやうまつてげたいとおもひました」とつて、立上たちあがつた。

はゝあきれたふう見上みあげて、「ぐおやすみかい」

「いやすこ勉强べんきやうしてからませう、明日あすは八おこしてください」

と、書齋しよさいはいると、はゝ追馳おつかけてて、マツチをつてづからランプを點火とぼし、「おまへ、二ゑんばかりつてゐないかい、千代ちよ月謝げつしやだのなんだので、わたし手元てもと大變たいへん不自由ふじゆうしてるから」

と、ひくこゑ歎願たんがんする。健次けんじ無言むごんで、蟇口がまぐちからぐちや〳〵のふだ手渡てわたししてつくゑむかつた。

書齋しよさい土藏どぞうわきの八じやう家中かちうもつとみにくくない部屋へやだが、それでもたゝみ茶色ちやいろをして所々ところ〴〵りむけ、かべには斑點しみ出來できてゐる。小形こがた本箱ほんばこが二つならんで、健次けんじ中學ちうがく時代じだいからの敎課書けうくわしよ愛讀書あいどくしよが、ぎつしり詰込つめこまれ、プルタークの英雄傳えいゆうでん樗牛ちよぎう全集ぜんしふ透谷とうこく全集ぜんしふなどの背皮せがわ金字きんじかすかにえる、しかし此等これら書物しよもつ微曇うすくもりの玻璃戶がらすどから引出ひきだされたことなく、つくゑうへにはあたらしい經濟書けいざいしよかれてゐる。

健次けんじは二三の郵便物いうびんぶつつたが、一つは箕浦みのうらからで、二三日中にちちう會談くわいだんしたい、ひたいことやまほどあるとき、なほそれだけでは飽氣あつけないとえ、今月こんげつ諸雜誌しよざつしみ、いづれも輕浮けいふなる文字もじおほきをかなしむ、我々われ〳〵滔々たう〳〵たる弊風へいふう感染かんせんせず、いたづらに虛名きよめいもとめずして眞面目まじめなる硏究けんきうつゞけたしとえてある。また一つは織田おだいもとからの手紙てがみで、「あき」だの「のぞみ」だのゝ五六しゆうたしたゝめて、雜誌ざつししてれと切望せつぼうしてゐる。健次けんじは二つの手紙てがみ抽斗ひきだしれ、書物しよもつひろげて二三まいんでゐたが、やがてしてまゆをぴりゝとさせた。「箕浦みのうら所謂いはゆる眞面目まじめなる硏究けんきうは五年前ねんぜんつたのだ」と、兩手りやうてあたまいてつぶつた。すると歸宅きたく途中とちうおなじい雜念ざつねんあがつてがない。天井てんじやうにはねづみあばれまはつて、時々とき〴〵チユツ〳〵と鳴聲なきごゑがする。一にんはすや〳〵とねむつてゐるが、每夜まいよその寢息ねいきくぐられにつていやのすることはない。人中ひとなかてるときにはこゝろ動搖どうえうしてまぎれてゐるが、ひと默然もくねんしづかな部屋へやすはつてゐると、こゝろ自分じぶんの一しんうへかたまつて、その日常にちじやう行爲かうゐくだらないこと、將來しやうらいたのむにらぬこと、假面かめんいだ自己じこがまざ〳〵とうかび、しまひには自分じぶん肉體にくたいまでもみにく淺間あさましくおもはれてたまらなくなる。そのときこんなくだらない人間にんげん手賴たよりにしてゐる家族かぞく寢息ねいきしのびやかにきこえると、きふあはれに心細こゝろぼそく、てはしほれてしまう。

健次けんじ昨夜さくやおなかんがへ經驗けいけんし、心細こゝろぼそくなつてしほれて、つひにぶつたふれて、ねむではなくても自然しぜんねむつてしまう。

雨滴あまだれおなおと繰返くりかへし、ねづみみもせずにさわいでゐる。

(四)

翌朝よくちやうめたころは、目伏まぶしい日光につくわうがカツとわたり、半身はんしん蒲團ふとんうへ持上もちあげるあたまがぐら〳〵する。健次けんじのばして緣側えんがは障子しやうじけた。くきほそはなちいさい黃白くわうはく野菊のぎくあひだ突立つツたつた物干竿ものほしざほには、シヤツや足袋たびがぶらさがつて、水氣みづけさかんにのぼつてゐる、ちゝいもと出掛でかけたとえ、家内かないはひつそりしてたゞはゝ洗濯せんたくおときこえる。

健次けんじいさましくきて、直樣すぐさま身仕度みじたくをし、ひとりで食事しよくじをしてゐると、はゝぬぐひ〳〵ちやはいり、

今日けふぐにしやへおでかい」

「いえ、一寸ちよつと桂田かつらだうちつてきます」

「え、先生せんせいのおたくへ、ぢや先生せんせいにも奥樣おくさまにもよろしくつておれよ、ほんとにしばらく御無沙汰ごぶさたして申譯まをしわけがないんだが、へんにおおもひなさらぬやうにね、おまへ先生せんせい奥樣おくさま御機嫌ごきげんそこねんやうにをおつけよ、これまでだつてお世話せわにばかりなつたのだし、これからもどうせあのかたにお手賴たよまをさにやならんのだしね、だからおまへ麁相そさうことつちやならないよ」

と、やさしく幼兒おさなごにでも說聞とききかすやうにふ。

健次けんじは「えゝ」とのない返事へんじをして茶漬ちやづけみ、「ね、おつかさん、わたし當分たうぶんしやちかくへ下宿げしくしたいとおもひます、うちからぢやしやおほくつて、此頃このごろのやうにいそがしくちや、すこ不便ふべんでもあるし、それに年内ねんない著作かきものをしたいんです」と、平生ふだんよりも落付おちついておだやかにふ。

「えツ、下宿げしくするつて」と、はゝたすきのまゝ、長火鉢ながひばちりかゝつたなり、健次けんじかほおどろいてゐる。「だつておまへ下宿げしくすりやものがかゝるばかりぢやないか」

なに下宿料げしくれうなんかやすいものでさあ、それにわたしすこかんがへがあるから、さうふことにめさせてください」

「まあおとつさんにいて御覽ごらんな、わたしにやおまへふことがわからないよ、學校がくかうかよつてるときとはちがつて、もう一主人しゆじんとなる身分みぶんでさ、うち下宿げしくするて一たいどうしたんでせう」と、きになつてめる。

「そのかはくれにやすこかねつくつて、いもと春衣はるぎぐらゐつてやります」と、健次けんじなだめるやうにつたが、はゝちぬらしく、ひたひ靑筋あをすぢてゝすこ慳貪けんどんに、

春衣はるぎどころぢやないよ、くれにはおまへあてにしてるんだから、一人ひとり浮々うき〳〵あそんでられちやこまらあね、それに下宿げしくなんかして、無駄むだなおあし使つかふつていふはうがあるもんぢやない、まあおとつさんを御覽ごらんなさい、今朝けさ加減かげんわるいのにはやくから被入いらつしやつたのに、おまへ每日まいにち々々〳〵さけんぢやおそかへるしさ、三十ちかくもなつて、何故なぜかうかんがへがないんだらう」と、鐵瓶てつびんをこすり〳〵、しはせてゐる。

わたしだつてかんがへてるさ」と、健次けんじ小聲こごゑつて、はゝ相手あひて理窟りくつもなかつたが、自分じぶんてるとはれるはゝかほの、年齡としよりもけて、さびしくしづんだうちに、神經しんけいするどうごくをて、なんとなくどくになり、

「ですがねおつかさん、わたしうちかへると滅入めいつて仕方しかたがないんです、一時間じかんもぢつとして書物しよもつちやゐられんのです、なんだかかうあななかへでもはいつてるやうで、落付おちつかなくなるし、黴臭かびくさにほひがしていきがつまります、おとつさんはれてるから、此家ここが一ばんいゝとふんだけど、わたしにや一にちりや一にち壽命じゆめうちゞまるがする。去年きよねんまではさうでもなかつたが、此頃このごろことにひどいんです、だから下宿げしくでもしたら、すこしは氣分きぶんなほるかとおもつて、昨夜ゆうべひとりでめたんです」と、健次けんじいま鬱陶うつたうしい毒氣どくきかべすみからて、自分じぶん壓迫あつぱくするごとかんじた。

「それがおまへ我儘わがまゝだよ」と、一口ひとくちにはねけて、「うちきたなくつていやならいやで、おまへ自分じぶん修繕しうぜんでもするにならなくちや」

「だつてこんないへ手入ていれしたつて駄目だめさ、しかしおとつさんがきなんだから仕方しかたがない、わたしだけ何處どこかへすんさ」

と、健次けんじはゝなにつても無駄むだだ、自分じぶん無言むごん實行じつこうすればよいとおもつてくちつぐみ、はゝなにひかけるのをひやゝかにて、新聞しんぶんをポツケツトに捻込ねじこみ、中折なかをれかぶつていそいで戶外そとた。ステツキを小脇こわきはさみ、新聞しんぶんして、「模範的もはんてき學生がくせい」や「醜業婦しふげふふ」の記事きじ經濟論けいざいろんから運動界うんどうかい消息せうそくまで、何物なにものをかさがもとむるごとく、のこくまなくとほし、やうやをはつた時分じぶんれは千駄木だぎ桂田家かつらだけ玄關げんかんつてゐた。