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Chapter 8: (五)
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About This Book

A collection of short narratives observing everyday life with quiet irony and psychological acuity. Episodes range from rainy nocturnal street encounters and modest restaurant interiors to household caretaking, money worries, and spirited conversations, with emphasis on conversational detail and inward reflection. Recurring concerns include youth and aging, social manners, and the small compromises that shape relationships, while moments of wry humour alternate with sombre introspection. The pieces favor closely drawn scenes and social observation over extended plot, offering compact studies of character and mood.

 (五)

博士はかせはフロツクコートを椅子いす腰掛こしかけ、新着しんちやく外國ぐわいこく雜誌ざつしんでゐたが健次けんじると、

「さあたまへ、今日けふ筆記ひつきたのかね、約束やくそくをしていたんだが、きふ用事ようじ出來できてね、これから文部省もんぶしやうかにやならんから、また明日あす明後日あさつてたまへ、しかしまだすこがあるから、まあこしをおけ、いまもこの雜誌ざつしんでゝね、西洋あちら學者がくしや硏究心けんきうしん感服かんぷくしてたんだ」とにぶけた。

「さうでせうね、どうしても西洋あちら學者がくしやちがつてるでせう」と、健次けんじ相槌あひづちて、たび嵩張かさばつてる書棚しよだなかへりみた。

「どうです、此頃このごろなに硏究けんきうしてるかね」と、博士はかせはおきままりのとひはつする。

なにもやつちやゐません」

「そりやいかん、しやはうなまけるといふぢやないか、それについてきみ忠吿ちうこくしやうとおもつてたんだが、じつ先日せんじつ編輯長へんしうちやうてね、きみ此頃このごろなまけてこまるといふはなしだ、一たいわたし靑年せいねん新聞しんぶん雜誌ざつし關係かんけいすることははじめからこのまないから、きみにも懇々こん〳〵注意ちういしたので、矢張やはり眞面目まじめ敎育けういく事業じげふ從事じうじするやうにのぞんだんだが、きみ是非ぜひやりたいつて、たてたまらん有樣ありさまだから紹介せうかいはしたけれど、ひそかにづかつてた、雜誌ざつし記者きしやなんか私立しりつ學校がくかうものくらゐ適任てきにんで、きみなどは不適任ふてきにんなんだからね、しかし編輯長へんしうちやうはなしによると、はじめのうち大變たいへん熱心ねつしんはたらいて隨分ずゐぶんやくつといふから、多少たせう安心あんしんもしたわけだが、さうはやいやになつちやこまるね」

「そりやはじめうちめづらしくつてわけもなく面白おもしろいから、氣乗きのりがしてはたらけるんです、らんひと懇意こんいになつたり、有名いうめい博士はかせなんかにふのをうれしがつたんですけど、いまぢやもう好奇心こうきしんがなくなりました、こひ女房によぼうだつて一ねんつてりやはなにつきますからね」

きみ年々ねん〳〵眞面目まじめでなくなる、學校がくかう時代じだいとは人間にんげんちがつてしまつた」と、博士はかせしまりのないかほしかめ、ちいさい耳朶みゝたぼきながら、「きみくらべると箕浦みのうら感心かんしんだ、以前いぜん遲鈍ちどんをとこだとおもつてたが、此頃このごろ忠實ちうじつ勉强べんきやうしてる、度々たび〳〵わたしところ質問しつもんつてるが、中々なか〳〵硏究心けんきうしんんでる」

「さうでせう、箕浦みのうらくんにはぼく感心かんしんしてます。あのひと書物しよもつかさねりや天國てんごくとゞくとおもつて、まよはないで書物しよもつたうきづいてるんですからね、しかしわたしにはかみ踏臺ふみだい險呑けんのんでなりません」と、健次けんじくちびるのあたりに微笑びせうたゝへ、パツチリしたんだには、博士はかせむねそこ紙魚しみあとまでうつつてゐる。

博士はかせはます〳〵にがかほをして、「どうもきみ眞面目まじめでない、いまから讀書どくしよいやしむやうぢや、人間にんげん發逹はつたつ見込みこみがないと斷言だんげん出來できる、これから國家こくかくさうといふ靑年せいねんが、こんな浮薄ふはく根性こんじやうつてゝどうします、ろく讀書どくしよもせんで書物しよもつかろんじたり、人間にんげん義務ぎむ滿足まんぞくつくしもしないで、なか攻擊こうげきしたり、大間違おほまちがひのはなしぢやないか、しかしこれもいま雜誌ざつし文學ぶんがくつくつた惡結果あくけつくわの一つだらう。どうも輕佻けいちようだ、浮薄ふはくだ。過渡期くわときにはまぬかれんことだが、武士道ぶしだう精神せいしんおとろへるし、しん倫理りんりくわん靑年せいねんあひだ缺乏けつぼうしてゐるから、こんななげかはしい現象げんしやうおこる。してるとわたしなどもすゝんで積極的せききよくてき救濟策きうさいさくかうぜねばなるまい、元來ぐわんらい通俗的つうぞくてき片々へん〳〵たる議論ぎろん世間せけん發表はつぺうすることはこのましからんので、なるべくは精力せいりよく自分じぶん事業じげふ集中しふちうして、自分じぶん新哲學しんてつがく組織そしきしたいのであるが、いま靑年せいねん通弊つうへいると、どうも社會しやくわいため國家こくかため默々もく〳〵してゐられん、わたし當面たうめん問題もんだいについてあくまで意見いけん發表はつぺうしなければなるまい」と、演說調えんぜつてうつた、それが如何いかにも眞面目まじめ心底しんそこから憂世ゆうせいじやうあふれてゐるので、健次けんじどくになり、

「ぢやわたし雜誌ざつしへも、そのおかんがへをいていたゞけますまいか、私共わたしども人生じんせい經驗けいけんにもとぼしいんですから、先生方せんせいがた御意見ごいけんうかゞふと非常ひじやうためになります」と、おだやかに殊勝しうしよらしくふと、博士はかせかほやはらげてしきりに首肯うなづき、

「つまりなにさ、きみなどはまだ〳〵讀書どくしよらんし世間せけん苦勞くろうをしないから、空論くうろんまよはされるんさ」と時計とけいて、「ぢや二三日中にちちう筆記ひつきください、すこまとまつたかんがへべやう、それにはわたしが十ねんほどまへいた「東西とうざい倫理りんり思潮しちよう」を參考さんかうにするから、きみも一おうとほしてもらひたい、多少たせういまとはかんがへちがはんでもないが、大體だいたいはあれでいい」

と、ひよつくりつて書架しよかさがした。博士はかせやうやく四十をぎたばかり、敎授けうじゆなかでもはゞはうではなけれど、有名いうめい讀書家どくしよかで、語學ごがく英獨佛えいどくふつ熟逹じくたつしてゐる。一しやう學問がくもんしにうまれてひとといふべく、遊戯ゆうぎへば五もくならべすららぬ。艶氣つやけがなくちからもなく、ドンヨリしてゐるのは、多年たねん讀書どくしよ疲勞ひろうした結果けつくわかともおもれるほどで、卒業後そつげふご地位ちゐあらそはず榮華えいぐわのぞまず、親讓おやゆづりの可成かなり財產ざいさんあれば生活せいくわつうへうれひはなく、たゞ書籍しよせきなかうづめ、結婚けつこんも三十五六のとき親戚しんせき强固きようこなる勸吿かんこくやうや决行けつかうしたくらゐ日常にちじやう自分じぶん學問がくもんすべての社會しやくわい指導しだうらると確信かくしんし、靑年せいねんにも親切しんせつである温和をんわ良紳士りやうしんしだ。

健次けんじいま書架しよかまへつた、どうながあしみぢかい博士はかせ後姿うしろすがたて、その十ねんじつごとまよふことなく書物しよもつ耽溺たんできする一しやううらやましくまた不思議ふしぎおもつてゐると、博士はかせあつさ一すんほど假綴かりとぢの四六ばん引出ひきだして、指先ゆびさき表紙へうしちりはじきながらつくゑうへき、

「このなか要點えうてんは一々原書げんしよから直接ちよくせつ引照いんせうしたのだから、自分じぶんでもたしかだとしんじてる、かくおうんでください、きみかならえきするところがあるにちがひない」と、所々ところ〳〵けては二三ぎやう小聲こゞゑみ、しきりに首肯うなづいてゐる。

かくて博士はかせは十年前ねんぜんおのれを回顧くわいこし、健次けんじ博士はかせ舊著きうちよ無理强むりじいにまされるくつう豫想よさうして、しばらく無言むごんでゐる。びた日光につくわうはカーテンのあひだかられて、あをつくゑうへほそく一せんかくしてゐる。昨日きのふかわつてポカ〳〵とあたゝかく、健次けんじつた居間ゐまいきつまるやうにかんじた。

貴下あなた、まだお出掛でかけになりませんの」と、妻君さいくん不意ふいけて、半身はんしんあらはしたので、博士はかせやうやがつき、「ぢや二三にちないに」と、健次けんじ云棄いひすてゝ、手袋てぶくろにぎつたまゝ階下したりた。

 (六)

健次けんじ妻君さいくんうて博士はかせ玄關げんかん見送みおくり、そのくるまあとから自分じぶんかへらうとしたが、いて引留ひきとめられてもと書齋しよさい舞戾まひもどり、はゝ傳言でんごん慇懃いんぎんべた。

妻君さいくんまゆひそそでうごかして、「まあ、ひどいけむだこと」と、カーテンを手繰たぐつてまどけた。けむりうづいてかぜのないそらながれてる、

「で、おくさんなに御用ごようですか」と、健次けんじ浮腰うきごしになつてふた。

べつ用事ようじといふほどでもないんだけど、一寸ちよつとはなしたいとおもつて、貴下あなたいそぎなの」と、上目葢うはまぶたげて健次けんじた。

「えゝ、もうしやかなければ」と、ちからなくつて、るともなく妻君さいくん油氣あぶらけもないあたまかみから、爪先つまさきよごれた足袋たびまで見下みおろした。あらひさらしの地味ぢみ銘仙めいせんなにかをて、ただきく模樣もやう襦袢じゆばんえりつやがあるばかり、健次けんじむしろつゝんだ美人像びじんぞう連想れんさうした。

「では、何時いつかの西洋せいやう小說せうせつつゞきはかしていただけんのですね、わたしあのをんな行衞ゆくゑきたくてならないんだけど」

「いや、もうあんな馬鹿ばか々々〳〵しいはなしをするにやなりません、をんな虎烈剌これらなにかでんぢまつたとしとけば、それで結果けつくわいてしまうんです」

「それぢやひどいわ、あんなに苦勞くろうしちやつて、これからとところんぢまつては、……あのつゞきは屹度きつと面白おもしろいにちがひない」

「そりや小說家せうせつかりつたけこしらごとならべてながくするから、矢鱈やたら面倒めんだうになるんですが、なかことはさうあつらきに出來できてやしないでせう、りにをんなをとこ日比谷ひびや公園こうゑん出會であはうと約束やくそくしてゝも、そのばんをんな電車でんしやかれてぬるか、をとこがペストにかゝるかわかつたもんぢやない」

と、げつけるやうにつてハツ〳〵とわらふ。妻君さいくんあたまかんざしきながらさびしくわらふ。

貴下あなた何故なぜそんなに暢氣のんきなんだらう。わたしはね、たまらないほどあはれな小說せうせつ芝居しばゐたくつてならないんですが、西洋せいやうにはそんな小說せうせつはないんでせうかねえ」

「そりやいくらもあるでせう、先生せんせい日本にほん小說せうせつはおきらひだが、西洋せいやうものはおみのやうだから、かせておもらひなすつたらいゝでせう」

「だけど先生せんせいはなしていたゞくと、ちつとも面白おもしろくないんですわ、かなしいことでもすごいことでも、御當人ごたうにんがちつともおかんじなさらんのだもの」

「そんなことかんじてたにや大學者だいがくしやにやなれんでせう」

健次けんじ椅子ゐすはなれて窓側まどわきりかゝり、え〳〵した空氣くうきれ、窓前そうぜん靑桐あをぎりばんでなかにはもうぼろ〳〵﹅﹅﹅﹅ちかゝつてるのをて、しばらくだまつてゐたが、

おくさん、もうれてましたね、このまへうかゞつたときにや、まだ靑々あを〳〵してたのに」となにをかかんじたふうなほつて、「あきになつたせいか、この書齋しよさいしんとしてしづかですね、此處こゝ先生せんせいなににも不滿ふまんいだかないで、一しん不朽ふきう事業じげふをしてられるんだ、れてもちても、そんなことにやおかまひなしで、ほんばかり被入いらつしやる。僕等ぼくら矢張やはり先生せんせいあとつて、あてにならん不朽ふきう事業じげふでもくわだてるのが本當ほんたうなんですね」