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下宿人

Chapter 10: 第六章
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生活が傾いた下宿を営む夫婦が、近隣で続発する残忍な連続殺人の噂に包まれる中、上階にやって来た謎めいた下宿人をめぐって葛藤と不安に巻き込まれる。新聞や町の呼び声は犯人を復讐者と呼び、夫妻と周囲の人々は疑念と好奇心に駆られる。妻は同情と保護欲から下宿人に心を寄せ、夫は誇りと生活の危機の間で揺れる。物語は家庭の体面、恐怖の蔓延、道徳的決断と心理的緊張を静かに描き出す。

 叔母は怒り心頭、彼に絵を元通りにひっくり返させた。結局、彼はそこにいるあいだ「半人半獣の化け物」に我慢して付き合わなければならなかった。椅子に座ってミスタ・スルースの奇妙な振る舞いについて考えていたミセス・バンティングは、はるか昔の青春時代に起きた愉快な出来事を思い出すことができてよかったと思った。それは新しい下宿人が一見そう見えるほど変人ではないことの証拠のように思えた。それでもバンティングが帰ってきたとき、彼女は下宿人の奇妙な行動について話をしようとしなかった。客間の絵を下におろすのは自分一人でも十分できると考えたのだ。

 自分たちの夕食を用意する前に、ミスタ・スルースの女主人は後片付けをしておこうと二階へ行った。すると階段をあがっている最中に物音が聞こえてきた。あれは話し声だろうか、客間で?ぎくりとして客間のドアの前で一瞬立ち止った。が、すぐにそれは下宿人が本を朗読する声だと分かった。抑揚をつけて読みあげられる言葉は、じっと聞き入る彼女の耳に何かとても恐ろしく響いた。

 「みだらな女は狭い井戸のようだ。彼女は盗びとのように人をうかがい、かつ世の人のうちに、不信実な者を多くする」

 彼女はドアの取っ手に手をかけたまま立ちつくしていた。ふたたび彼女のすくみあがった耳にあの奇妙に甲高い読経口調の声が聞こえてきた。「その家は陰府へ行く道であって、死のへやへ下って行く」

 それを聞いているとひどく背筋が寒くなってきた。しかしついに彼女は勇気を奮い起こし、ノックをすると部屋のなかに入った。

 「食器をお下げしましょうか、旦那様」ミスタ・スルースは頷いた。

 それから彼は立ちあがり、聖書を閉じた。「もう寝ようと思います。へとへとに疲れましたよ。長くてとてもくたびれる一日でした、ミセス・バンティング」

 奥の部屋に彼が消えると、ミセス・バンティングは椅子にのってミスタ・スルースの気分を害した例の絵をはずしだした。どの絵も壁に見苦しい跡を残したけれど——それくらいは仕方がなかった。

 彼女はバンティングに聞こえないよう足音をひそめ、二つずつ絵を下に運んでは自分のベッドの後に立てかけた。

第四章

 ミセス・バンティングは翌日の朝、実に、実に、久しぶりに、幸せな気分で目を覚ました。

 しばらくはどうしていつもとちがう気分でいるのか、わけが分からなかったが、次の瞬間、はっと思い出した。

 何という安心感だろう、二階の、ちょうど自分の頭の上に下宿人がいるということは。彼は、彼女がベーカー街のお屋敷のオークションでほくほくしながら買いこんだ上等のベッドに横たわっており、家賃として毎週二ギニーを支払ってくれる!彼女は何となくミスタ・スルースがいつまでも下宿してくれそうな気がした。そうならないとしても別に彼女の責任ではない。あの人の、何て言うのだろう、変人ぶりについて言えば、まあ、誰だって一つくらい妙な癖があるものだし。しかし起きあがって、時間がたつにつれ、ミセス・バンティングは少しずつ心配になってきた。というのは新しい下宿人の部屋から物音が一つも聞こえてこなかったからである。しかし十二時になると客間の呼び鈴が鳴った。ミセス・バンティングは急いで二階にあがった。ミスタ・スルースのご機嫌を取り、意を満たそうと、それはもう必死だった。なにしろ恐るべき破滅まであと半歩というところを彼に助けられたのだ。

 下宿人はとうに起きて身支度をすっかり調えていた。客間の真ん中にある丸テーブルに座り、女主人の大型聖書を前に広げていた。

 ミセス・バンティングが入ってくると顔をあげた。彼女はその疲れ切った表情が気になった。

 「コンコーダンスをお持ちじゃなかったですか、ミセス・バンティング?」

 彼女は首を横に振った。コンコーダンスが何か、見当もつかなかったが、そんなものがないことは確かだった。

 新しい下宿人はつづいて買ってきてほしい物を並べたてた。彼が持ってきた鞄には文明的生活に必要な小物——たとえば櫛とか剃刀とか歯ブラシ、そしてもちろん寝巻きなど——が入っているだろうと思っていたのだが、しかしどうやらそうではなかったらしい。ミスタ・スルースは今あげたようなものをみんな買ってきてほしいと頼んだからである。

 おいしそうな朝食を用意してから、ミセス・バンティングは彼がとりあえず必要としている品を急いで買いに出かけた。

 財布のなかにまたお金が入っているのだと思うと胸が躍った。それは他人のお金であるだけではない。今まさにこうして気持ちよく働き、自分のものにしようとしているお金でもあるのだ。

 ミセス・バンティングはまず近所の小さな床屋へむかい、櫛と剃刀を買った。妙な、きつい臭いのする店で、彼女は早々にそこを出た。彼女の注文を聞いた外国人が、二日前に起きた復讐者の猟奇的殺人、バンティングに病的な興味を抱かせたあの事件についてしきりに話しかけようとするものだから、なおさら長居するわけにはいかなかった。

 その話はミセス・バンティングの神経をかき乱した。このような日に痛ましい不愉快なことは考えたくなかった。

 家に帰り、買ってきた品々を下宿人に渡した。ミスタ・スルースはそのどれにも満足し、丁寧に感謝の意をあらわした。しかし寝室を整えましょうかと尋ねると、顔をしかめ、ひどく怒ったような色を浮かべた。

 「夕方まで待ってください」彼は急いで言った。「昼はずっとうちにいることにしているんです。明かりが灯るまで外を歩く気にならないんですよ。わたしは少々、ほんの少々、あなたが慣れていらっしゃる下宿人とちがうかもしれませんが、ミセス・バンティング、どうか我慢してください。それからお願いがあります。問題について考えているときは決して邪魔しないでください——」彼は急に言葉を切り、それから重々しく言い足した。「生と死にかかわる重大な問題ですから」

 ミセス・バンティングは快くその要望に応じた。ミスタ・スルースの女主人は、その几帳面な態度と規律にうるさい性格にもかかわらず、女性らしい女性だった。つまり男の気まぐれや奇癖に対して限りない忍耐力を持っていたのだ。

 もう一度下に降りたとき、驚きがミスタ・スルースの女主人を待ち受けていた。しかしそれはいたって嬉しい驚きだった。上で下宿人と話しているあいだに、バンティングの若い友達、刑事のジョー・チャンドラーが訪ねてきたのだ。居間に入ろうとしたとき、夫がテーブル越しにジョーにむかって十シリングを押しやるのが見えた。

 ジョー・チャンドラーのハンサムで気さくな顔が満足に輝いていた。お金が返ってきたからではない。どうやらバンティングが話していた知らせ——理想的な下宿人があらわれ、突然彼らにすばらしい運がむいてきたというニュース——を聞いて喜んでいたのである。

 「ミスタ・スルースはお出かけになるまで寝室の整理をしてほしくないんですって!」と彼女は大きな声で言い、一休みしようと椅子に腰をおろした。

 下宿人は朝食をおいしく食べており、彼女はほっと一息ついた。しばらくは彼のことを考える必要はない。あと少ししたら、下に降りて自分とバンティングのディナーを作ろう。彼女はジョー・チャンドラーに、いっしょに食事をしていけばいいわ、と言った。

 彼女は若者をやさしくもてなしたかった。ミセス・バンティングはめったに襲われたことのない気分——目にするものすべてに喜びを感じる気分になっていた。いや、それだけではない。バンティングがジョー・チャンドラーにあの忌まわしい復讐者の殺人の最新情報を求めたとき、おざなりにではあったけれど、彼の話に最後まで聞き入ったのである。

 バンティングがその日の朝からまた取りはじめた朝刊は、今やロンドンじゅうで話題になり出している奇怪な謎を三段にわたって報じていた。バンティングは朝食を食べているときその記事の一部を読みあげ、ミセス・バンティングは思わず身震いするような興奮を感じたのだった。

 「噂によると」とバンティングは用心深く前置きして言った。「噂によるとだね、ジョー、警察は手がかりをつかんでいるけど、発表しようとしないんだって?」彼は期待するような目で訪問者を見つめた。バンティングにとって、チャンドラーがロンドン警視庁の刑事であるという事実は、この若者に一種不吉な栄光を帯びさせているのだ。とりわけ今、身の毛もよだつ、謎に満ちた犯罪が、この都市を驚愕と戦慄に陥れているときは。

 「そりゃちがいますよ」とチャンドラーはゆっくりと言った。当惑したような、憤慨するような表情が感じのいい冷静な顔にひろがっていった。「警視庁が手がかりをつかんでるなら、ぼくも大助かりですけど」

 ミセス・バンティングが口をはさんだ。「どうしてなの、ジョー」彼女は優しくほほえんだ。若者の仕事熱心な態度を彼女は好ましく思っていた。ジョー・チャンドラーは彼らしい、ゆっくりした、着実なやり方で、ひたむきに、真剣に仕事に取り組んだ。職務に全身全霊を傾けていたのである。

 「うん、実をいうと」と彼は説明した。「今日からぼく、この事件の捜査に加えられたんです。ミセス・バンティング、警視庁はいらだってますよ、実際。ぼくらは、それこそ、みんな必死です。このまえ事件が起きたとき、通りで交通整理をしていた巡査にはまったく同情しますよ」

 「本当かね!」バンティングは信じられなそうに言った。「警官がいたのかい?現場のすぐ近くに」

 この事実は新聞では報じられていなかった。

 チャンドラーは頷いた。「その通りですよ、ミスタ・バンティング!彼はくやしくて気が狂いそうだって話です。叫び声は聞こえたんだけど、注意を払わなかったんですって。ほら、ロンドンのあの辺りじゃ叫び声なんて珍しくないですから。ああいう貧民窟じゃいつも喧嘩やいさかいが起きてるんです」

 「通り魔が名前を書いた灰色の紙を見たかい」バンティングは熱心に尋ねた。

 三角形の灰色の紙が、犠牲者のスカートにピンで留められ、そこに赤い無骨な活字体の字で「復讐者」と書きしるされていた、という噂が大衆の想像力を激しくかきたてていた。

 丸い、肉付きのいい顔は答えを聞きたくてうずうずしていた。両肘をテーブルについて期待するように若者を見つめている。

 「ええ、見ましたよ」とジョーは短く答えた。

 「妙ちきりんな名刺だねえ!」バンティングは笑った。その思いつきがおかしくてたまらなかった。

 しかしミセス・バンティングは顔色を変えた。「冗談を言うようなことじゃありません」と彼女はたしなめるように言った。

 チャンドラーは彼女のほうに加勢した。「ほんと、冗談じゃありませんよ」と彼はしみじみと言った。「この仕事で見せられたものは忘れられそうにありません。あの灰色の紙切れですがね、ミスタ・バンティング——いや、三枚の灰色の紙切れですがね」と彼は急いで言い直した。「今、警視庁にあることは知っているでしょう——あれは鳥肌ものですよ!」

 そう言って彼は飛びあがった。「そうだ、こんなふうに楽しく時間をむだにしているわけにはいかない」

 「一口でもディナーを食べていかない?」とミセス・バンティングはしきりに誘った。

 しかし刑事は首を振った。「いいえ。出かける前に食べてきたんです。ぼくらの仕事は変わった仕事なんですよ。大体のことは、何て言うか、自由にやっていいんだけど、でも怠けている暇もないんです、本当に」

 彼はドアのところで振り返り、いかにも何気ないふうをよそおって「ミス・デイジーはまた近々ロンドンに来ないんですか」と訊いた。

 バンティングは首を振ったが、顔は輝いていた。彼は一人娘が可愛くてたまらなかったのである。めったに会えないことが残念だった。「いいや。予定はないよ、ジョー。わたしらが『伯母さん(オールド・アーント) 』と呼んでる例のご老人がなかなか手もとから離そうとしないのさ。娘が六月に一週間うちに泊まったときは、気が気でない様子だったからなあ」

 「そうですか。じゃ、さようなら!」

 妻が彼らの友人を送り出すと、バンティングが愉快そうに言った。「ジョーはうちのデイジーに気があるみたいだね、エレン」

 しかしミセス・バンティングは蔑むように首を振った。彼女は娘が嫌いなわけではない。ただ伯母さん(オールド・アーント) がバンティングの娘を教育する仕方は賛成できなかった。甘やかすだけの、役に立たないしつけ方で、彼女自身が孤児院で受けた教育とはまるっきりちがう。ミセス・バンティングは子供のとき、思いやり深いキャプテン・コーラム(註 十八世紀英国の慈善家。ロンドンに孤児院を設立)が与えてくれた家と家族以外は、どんな家も家族も知らなかった。

 「ジョー・チャンドラーはしっかりしているもの、まだしばらく女の子のことなんか考えたりしないわ」と彼女は辛辣に言った。

 「ああ、そうだね」とバンティングは同意した。「時代が変わったんだなあ。おれが若かった頃は、そのことばっかり考えていたが。なに、ちらっとそんな気がしただけさ、やっこさんがそわそわと娘のことを訊くもんだから」

******

 街灯が輝き出す五時頃、ミスタ・スルースは外出した。その晩、二つの小包が女主人の元に届けられた。どちらにも衣類が入っていたが、しかしミセス・バンティングが見るところ、新品でないことは明らかだった。どうやらいい品を置いている古着屋で買ったものらしい。ミスタ・スルースのような本物の紳士がこんなことをするとはおかしい。それはなくした荷物は戻らないと、すっかり断念したことを意味していた。

 下宿人が出かけるとき、鞄は持っていなかった。ミセス・バンティングは自信を持ってそう言える。しかし部屋のなかを隈なく探してもその隠し場所が分からなかった。彼女が頭の切れる、記憶力のすぐれた女性でなかったら、さんざん調べたあげくに、こう思いこんでいたかもしれない。あんなものはなかったのだ、あると想像していただけなのだ、と。

 しかし、そんなはずはないのだ!彼女は奇妙で怪しげな見かけのミスタ・スルースがはじめて玄関の入り口に立ったときのことをはっきりとおぼえている。

 さらに最上階の居間で鞄を置き、ついぼんやりしてそのことを忘れてしまった彼が、怒りと恐怖の入り混じった声で、鞄はどこだと食いかかるように彼女に尋ねたこともおぼえている。鞄は何事もなく足元に置かれていたというのに!

 時間がたつとともに、ミセス・バンティングはあの鞄のことがやけに気になり出した。というのは、奇怪な、驚くべき事実なのだけれど、彼女はミスタ・スルースの鞄をそれ以後二度と見かけることがなかったからである。もちろん鞄がどこにあるかは、すぐに見当がついた。ミスタ・スルースが到着したあの午後、唯一の荷物であったあの茶色の革鞄は、まずまちがいなく、客間の飾り棚の下の引き出しに鍵を掛けてしまいこまれているはずだ。ミスタ・スルースは部屋の隅の小さな棚の鍵をいつも肌身離さず持ち歩いているようだった。ミセス・バンティングは鍵も丹念に探しまわったけれど、結果は鞄のときと同じで、影も形もなかった。彼女はそのどちらも二度と目にすることがなかったのである。

第五章

 それからの数日はどれほど静かに、どれほど平穏無事に、どれほど楽しく過ぎていっただろう。すでに日々の生活に一定のリズムが生まれつつあった。ミスタ・スルースのお世話はミセス・バンティングが疲れることなく、余裕を持ってすることができるちょうどいい仕事だった。

 下宿人が一人の人だけに世話されることを望んでいることはすぐに明らかになった。その人とはすなわち女主人である。彼は少しも手がかからなかった。もちろん下宿人の世話は彼女の気分を溌剌とさせた。彼が普通の紳士とちがうということさえ彼女にとってはよいことだった。なぜなら変人であるという事実は常に彼女に一種愉快な気分を与えていたからである。それにいくら変人であっても、ミスタ・スルースは例の不快ないまいましいわがまま、下宿のおかみさんならいやと言うほどよく知っている、下宿人だけに特有らしいわがままを言わなかった。だからなおのこと楽しくお世話ができたのである。一つだけ彼の癖を挙げると、ミスタ・スルースはむやみに早く起こされることを好まなかった。バンティングとエレンはかなり朝寝坊するようになった。下宿人のお茶の用意に、七時とか、いや七時半にだって起きる必要がないというのは大助かりである。ミスタ・スルースが十一時前に何かを所望することはめったになかった。

 しかし彼が変わり者であることにちがいはなかった。

 下宿して二日目の晩に、ミスタ・スルースは「クルーデンのコンコーダンス」という奇妙な題の本を持ち込んだ。それと聖書が——ミセス・バンティングはこの二つの本が関連していることにやがて気がついた——下宿人が読む唯一の本であるらしかった。彼はたいてい昼食を兼ねた朝ごはんのあと、毎日数時間は旧約聖書とあの奇妙な事項索引みたいなものを熟読していた。

 取り扱いの厄介な、しかし何よりも重要なお金の問題に関して、ミスタ・スルースはまさに理想的な下宿人だった——鬼のように厳しく家賃を取り立てるおかみさんも、これ以上好ましい下宿人は望めなかっただろう。またこれほど人を信じて疑わぬ紳士もいなかった。下宿人となった最初の日に、彼は持ち金を——ソブリン金貨で百八十四ポンドというとてつもない大金を——小分けにして少々汚れた新聞紙にくるみ、化粧テーブルの上に放り出していたのである。これにはミセス・バンティングもあわてふためいた。うやうやしい口調でそんなことをするのは非常識である、まちがってさえいると諌めた。しかしそれに対して彼は笑うだけだった。彼女は相手の薄い唇から大きな、異常なくらい耳障りな音が飛び出したのでびっくりした。

 「わたしだって相手が信頼できるかどうかくらい、見分けられます」感激したときの癖でいささかどもるように彼は返答した。「それに——それに、ミセス・バンティング——とくに女性の場合はそうなんですが」(と、彼は音をたてて息を吸い込んだ)「わたしは話しかけなくても、眼の前にいる人がどんな人か、ちゃんと分かるんです」

 下宿人が女性に対して奇妙な恐怖と嫌悪を抱いていることはじきに女主人にも分かってきた。階段や踊り場を掃除しているとき、ミスタ・スルースが聖書のなかから女性に対して極めて無礼な一節を読みあげているのがしばしば聞こえた。しかしミセス・バンティングは同胞である女性をさして評価していなかったから、そんなことでは腹を立てなかった。それに下宿人の場合、女性を嫌ってくれたほうが……そうじゃない場合より、都合がいいのである。

 いずれにせよ、下宿人の奇癖を気にして何になるというのか。もちろんミスタ・スルースは変人である。バンティングがおもしろおかしく言ったように「ちいっとおつむがゆうるゆる」でなければ、こんなところで、こんな奇妙な、ひとりぼっちの下宿生活などしなかっただろう。親族とか同じ階級の友達とまったくちがう暮らしをしていただろう。

 ミセス・バンティングはあるときそれまでのことを振り返り——想像力にはなはだ欠けた人間でも、何らかの理由で強く記憶に残る昔の出来事を思い返すものだ——下宿人がそれこそ草木も眠るような夜更けに家をこっそり出て行くことに気づいたのは、いつのことだったろうと思った。

 彼女の思い込みによると——わたしははたして彼女の思った通りであったか疑問を感じるのだが——ミスタ・スルースの不思議な夜の習慣に気づいたのは、あるひどく奇妙な事実を発見した日の、たまたま前の晩のことだった。このひどく奇妙な事実とはミスタ・スルースの三着ある服のうち、一着が完全に消えてなくなったという事実である。

 人がある出来事の一部始終をおぼえていないのは当然だが、しかしどんなに時が経ってもそれが起きたのが何日の何時何分だったかまでおぼえているというのは、いつもながらわたしには理解のできない驚嘆すべきことである!ミセス・バンティングでさえ、ミスタ・スルースが夜中の二時に家を出て、五時になってようやく戻ってくることに気づいたのが、彼女の家で寝泊まりするようになって五日目の夜のことだったのか、それとも六日目の夜のことだったのか、あとからいくら考えても決しかねたのだった。

 しかしそういう夜があったことはまちがいない。その発見と符牒を合わせるように、のちのちまで印象に残るさまざまな事件が起きたということも、同じようにまちがいのないことである。

******

 あたりは漆黒のような闇に包まれ、物音一つしなかった。夜中のいちばん暗く静まりかえった時間である。夢も見ずにぐっすり眠っていたミセス・バンティングは思いも寄らぬ、しかし聞き慣れた音にふと目を覚ました。音の正体はすぐに分かった。ミスタ・スルースの足音だ。最初は階段を降り、ついで忍び足で——まちがいないわ、忍び足で歩いている、と彼女は思った——彼女のドアの前を通り、最後にそっと玄関のドアを閉めて出ていったのだ。

 ミセス・バンティングは懸命に寝ようとしたのだが、眠りは二度と訪れなかった。バンティングまで起こしたくはなかったので、ぱっちりと目を開けたまま横になっていた。そして三時間後、ミスタ・スルースがこそこそと家のなかに戻り、二階の寝室へあがっていく音を耳にしたのである。

 その時になってはじめて彼女はふたたび寝ることができた。しかし朝が来てもひどく疲れが残っていて、バンティングが優しく買い物に行ってこようかと言ってくれたときは心の底から喜んだ。

 この善良な夫婦は、食事に関してミスタ・スルースの要求を満たすのは容易でないことにすぐ気がついた。彼はいつも満足そうなふりをしているだけなのだ。この完璧な下宿人は、下宿を営む側から言わせると一つだけ重大な欠点を持っていた。何とも妙な話だが、彼は菜食主義者だったのである。肉類は一切受け付けない。ときどきは主義を曲げて鶏肉を食べることもあるようだが、そのようなときはバンティング夫婦もぜひいっしょにと惜しみなく食事を分かち合おうとした。

 さて、その日——これから起きる出来事がミセス・バンティングの心にいつまでも、生々しく刻み込まれることになるのだが——ミスタ・スルースは昼に魚を食べ、残したものは簡単な夜の食事として調理し直されることになっていた。

 バンティングは人付き合いがよく、馴染の店でおしゃべりするのが好きだから、一時間は戻ってこないだろう。ミセス・バンティングはゆっくりと起きあがって身支度を調えることにした。それから居間の整理をはじめた。

 安眠を妨げられると次の朝は誰でもそうなるように、彼女も身体がだるくて元気がなかった。だからミスタ・スルースが十二時前に呼び鈴を鳴らすことはまずないだろうと思うとほっと安堵するのだった。

 ところが十二時にはまだだいぶ間があるというのに、突然大きなベルが静かな家に響き渡った。玄関のベルだ、と彼女は思った。

 ミセス・バンティングは顔をしかめた。きっと古い瓶とかそういうものを集めてまわる、いまいましい連中の一人にちがいない。

 彼女は仕方なくゆっくりとドアへむかった。するとその顔がぱっと明るくなった。外に立って待っていたのはジョー・チャンドラー青年だったのだ。

 湿った霧のなかを急いで歩いてきたみたいに少々荒い息づかいをしている。

 「どうしたの、ジョー」とミセス・バンティングは驚いて尋ねた。「入りなさい、さあ!バンティングは外出しているけど、もうすぐ戻るわ。ここ何日か顔を見せなかったわね」

 「ええ。でも、理由はごぞんじでしょう、ミセス・バンティング——」

 彼女はどういう意味だろうと一瞬相手の顔を見つめた。そしてはっと思い出した。そうだわ、ジョーは今、大切な仕事をしていたんだわ。復讐者を捕らえるという大仕事を。ふたたび購読しだした半ペニーの夕刊からあれこれ記事を読みあげてくれたとき、夫は何度も何度もそのことを口にのぼしていた。

 彼女は居間へと彼を導いた。バンティングが出かける前に火をいれておいてくれたのは有り難かった。部屋が気持ちよくぬくもっていたからである。しかも外はひどい天気だ。彼女は玄関に一秒立っていただけで、身体の芯まで冷えてしまったような気がした。

 そう感じたのは彼女だけではなかった。というのはチャンドラーがバンティングの安楽椅子にどっかと腰をかけながら「ああ、助かった。外の寒さはたまらないですよ!」と言ったからである。

 若者は寒いだけでなく疲れてもいるようだ、とミセス・バンティングは思った。いつもの健康そうな日焼けした顔——野外で活動することが多い男の顔——が青ざめ、ほとんど生気まで失いかけていた。

 「お茶を一杯淹れてあげるわね」と彼女は気遣うように言った。

 「いやあ、そうしてもらえるとすっごく嬉しいです、ミセス・バンティング!」それから彼はあたりを見まわし、もう一度彼女の名前を呼んだ。「あの、ミセス・バンティング——?」

 その声がいつもとまるでちがう、いやにしゃがれた声だったので、彼女はすばやく振り返った。「何かしら、ジョー」そして急に怯えたように「まさかバンティングに何かあったんじゃないでしょうね。事故にあったんじゃないでしょうね」と言った。

 「とんでもない!何だってそんなことを考えるんです?でも——でも、ミセス・バンティング。また起きたんですよ!」

 彼は声を落としてささやくように言った。その眼は元気がなく、すっかり怯えているように見えた。

 「また起きた?」彼女はとまどい、うろたえたように彼を見た。とっさにその意味が頭にひらめいた。「また起きた」というのはあやしく謎に満ちた、例のおどろおどろしい殺人のことだ。

 しかし安堵感のほうがあまりにも大きかったため——彼女はバンティングの悪い知らせを聞かされるものと、一瞬、本気で思いこんだのだ——それを聞いて彼女はかえって喜びを感じたくらいだった。もっともその事実をいきなり知らされていたら、大きな衝撃を受けていただろうけれども。

 ミセス・バンティングはいつもの彼女に似合わず、ロンドンの庶民の想像力を支配しているこの驚くべき連続犯罪に強い関心を抱くようになっていた。彼女の上品ぶった心でさえ、この二日か三日のあいだは、バンティングがしきりに語りかける奇怪な事件のことをずっと考えつづけていたのだ。バンティングは経済的な心配が消えた今、「復讐者」とその犯行に露骨で熱狂的な興味を示し、恬として恥じる様子がなかった。

 彼女はガスコンロからやかんをおろした。「バンティングがいないのは残念ね」とほっと息をつきながら彼女は言った。「あなたが知っていることをみんな聞き出そうとしたでしょうに、ジョー」

 そう言いながら、小さなティーポットにお湯を注いだ。

 しかしチャンドラーが何も言わないので、彼女は振り返って彼を見つめた。「まあ、気分が悪そうね!」と彼女は大声を出した。

 実際、若者は顔色が悪かった——それもひどく悪かった。

 「しょうがないですよ」と彼は苦しそうに言った。「知ってることみんなって言われて、気分が悪くなっちまったんです。ぼくは今度の事件で最初に現場に行った人間の一人なんですが、いや、もう、胸が悪くなりましたよ、本当に。あれはひどすぎる、ミセス・バンティング!その話はやめましょう」

 彼はまだよく出ていないお茶をがぶがぶ飲みはじめた。

 彼女は同情するように彼を見ていた。「そうだったの、ジョー。恐ろしい光景はたくさん見ているでしょうに、そのあなたがそんなに動揺するなんてねえ」

 「今度のは今までとはぜんぜんちがうんです。それに、それに、ああ、ミセス・バンティング、今回あの紙を見つけたのはぼくなんです」

 「じゃあ、あれは本当だったのね」彼女は熱をこめて言った。「復讐者が残した紙切れなのね!バンティングは紙切れは復讐者が残していったんだっていつも言っていたわ。誰かが悪い冗談に置いていったんじゃないって」

 「ぼくはいたずらだと思ってましたよ」チャンドラーはしぶしぶといった調子で打ち明けた。「変なやつがいますからね、その——」(彼は声を落とし、壁に耳があるかのようにまわりを見た)「警察のなかにも。だからぼくら、この連続殺人にはぴりぴりしてるんです」

 「まさか、そんなこと!警官がそんなことをすると思う?」

 彼はいらいらと頷いた。まるでそんな質問には答える価値がないとでも言うかのように。「その紙切れを仏さんがまだ温かいときに」——彼は身震いした——「ぼくが見つけたんで、それで今朝、ウエスト・エンドへ行ったんですよ。ボスの一人が近くのプリンス・アルバート・テラスに住んでいて、報告しなけりゃならなかったから。そしたら食べ物も飲み物も何も出してくれないんですよ。一口くらい食べさせてくれたっていいのに。そう思いませんか、ミセス・バンティング」

 「ええ、ええ」と彼女はぼんやりといった。「そう思うわ」

 「でも、そんなこと言っちゃまずいかな。化粧室に案内してくれて、報告しているあいだはとっても思いやりのある言葉をかけてくれました」

 「今、何か食べる?」彼女は突然言った。

 「いや、いりません。何も食べられませんよ」と彼は慌てて言った。「もう二度と食事なんかできそうもないや」

 「それじゃ病気になっちゃうわ」ミセス・バンティングは多少睨むようにして言った。彼女は分別のある女性だった。彼はご機嫌を取るため、彼女が切ってくれたバターつきのパンを一口食べた。

 「あなたの言う通りだな。これからきつい一日がはじまるんだから。四時に起きて——」

 「四時?」と彼女は言った。「じゃ、四時なの、その——」彼女はつかのまためらった。「そ、それが見つかったのは?」

 彼は頷いた。「たまたまぼくが近くにいたんです。あと三十秒早かったら、ぼくか、被害者の女を見つけた警官か、どっちかがあの——あの魔物みたいなやつと鉢合わせしていたかもしれません。でもこっそり立ち去る犯人の姿を二三人の人が見てるんです」

 「犯人てどんな感じ?」彼女は興味津々だった。

 「そりゃ、難しい質問だな。霧がひどかったんで。でも一つだけ全員の証言が一致しています。やつは鞄を持っていました——」

 「鞄?」ミセス・バンティングは声をひそめて繰り返した。「どんな鞄なの、ジョー」

 彼女はぞくっと——ちょうど身体の真ん中あたりに——奇妙な感覚、変な震えというか、戦慄が走るのを感じた。

 なぜなのか、理由はさっぱりわからなかったけれども。

 「ただの手提げ鞄」とジョー・チャンドラーは曖昧に言った。「ぼくが、その、取り調べで話した女は、絶対犯人を見たって、こんなふうに言ってるんです。『背の高いやせた影——そうよ、背の高いやせた男の影——鞄を手に持ってた』ってね」

 「鞄を手に持ってた?」ミセス・バンティングはぼんやりとその言葉を繰り返した。「何ておかしな、変な話——」

 「いいえ、ちっともおかしくないですよ。兇器を入れる入れ物が必要なんですよ、ミセス・バンティング。ぼくらはやつがどうやって兇器を隠したのか、いつも不思議に思っていました。ナイフとかピストルなんかは、たいてい捨てちまうじゃないですか」

 「そうなの?」ミセス・バンティングはぼんやりした、不思議そうな調子でしゃべった。彼女は下宿人が鞄をどうしたのか、本気で突き止めなければならないと考えていた。物忘れの激しい紳士だから、単になくしてしまったということも大いにありうる——いや、考えてみたら、その可能性のほうが高いだろう。彼女も知っているけれど、彼はリージェント・パークへ行くのが好きだから、その折にでもなくしたのではないか。

 「人相書きが一二時間後に出回ります」とチャンドラーはつづけた。「たぶん犯人逮捕の役に立つでしょう。ロンドン子なら男も女も何とかしてやつを捕まえて牢屋に入れたいと思ってるだろうし。さあ、そろそろ行かなくちゃ」

 「もうちょっとしたらバンティングが戻るけど」彼女はためらうように言った。

 「いや、時間がないです。でも、たぶん、またお邪魔しますよ。今晩か明日か。そのとき事件のことをもっと詳しく話します。お茶をありがとうございました。生き返りましたよ、ミセス・バンティング」

 「死ぬほど忙しいみたいね、ジョー」

 「ええ、まったくその通りです」彼は重苦しく答えた。

 数分後にバンティングは帰宅し、妻とのあいだにちょっとしたいさかいを起こした。ミスタ・スルースが下宿人になってから初めてのいさかいだった。

 それはこういう具合に起きた。バンティングは誰が家に来ていたかを知ると、その朝起きた恐ろしい事件について、どうしてジョーから詳しいことを訊き出さなかったのだと、ミセス・バンティングに腹を立てたのである。

 「まさか、エレン、現場がどこかも知らないのか」彼は憤慨して言った。「おまえのせいでチャンドラーはしゃべる気をなくしてしまったんだ——そうにちがいないぞ!いったい何のためにあいつがここに来たんだと思う。わたしらに事件の話しをするために決まってるじゃないか」

 「あの人は腹ごしらえに寄ったのよ」ミセス・バンティングはかみつくように言った。「かわいそうにお腹が減っていたんじゃない。事件の話しだってできなかったんだから——気分が悪くて。実際、この部屋に入ってきて椅子に座るまで一言もしゃべらなかったのよ。あれだけ話してくれたら十分だわ!」

 「殺人者が名前を書いた紙切れは四角だったか、三角だったか、言ってなかったか」とバンティングが訊いた。

 「言わなかったわ。そんなこと、訊きたくもない」

 「まったく馬鹿だな!」と言って、彼は急に言葉を切った。新聞の売り子たちがメリルボーン通りにやって来て、その日の朝の凶行、復讐者の五番目の殺人が見つかったと叫んでいたのだ。バンティングは新聞を買いに外に出かけ、妻は夫が買ってきたものを下の台所へ持っていった。

 新聞の売り子の騒々しい声がどうやらミスタ・スルースを起こしたらしい。女主人が台所に入って十分と経たぬうちに呼び鈴が鳴った。

第六章

 ミスタ・スルースの呼び鈴がふたたび鳴った。

 朝食の仕度はすっかりできていたけれど、ミセス・バンティングは彼が下宿人になってからはじめて呼び出しにすぐに応じなかった。しかしもう避けられない二回目の鈴の音がしたときは——その古風な家に電気のベルは取り付けられていなかった——決心して二階へあがった。

 台所の階段から玄関広間へ出ると、居間の椅子にゆったりと腰かけていたバンティングが食事を満載したお盆を持つ妻の重い足音を聞きつけた。

 「待て待て、手伝うよ、エレン」と彼は叫び、部屋から出てきてお盆を受け取った。

 彼女は何も言わず、いっしょに客間の階にあがっていった。

 階段をあがりきると、彼女は夫を制止した。「ほら」彼女は早口にささやいた。「それを渡して、バンティング。下宿人はあなたがなかに入るのを好まないから」彼が言われた通り、また下に降りようとすると、彼女はいささかとげとげしい口調でこう付け加えた。「ドアくらい開けてくれてもいいじゃない!こんなに重いお盆を持ってどうやって開けろというのよ」

 彼女が妙に興奮した声を出すので、バンティングは驚き——幾分腹が立った。エレンはいわゆる陽気で愉快な女ではないが、今のように物事がうまくいっているときは概して非常に落ち着いているのだ。まだ根に持っているのだろうか、チャンドラー青年や、復讐者の新たな殺人について言い争ったことを、と彼は思った。

 しかし彼はどんなときも争い事を好まない。というわけで彼は客間のドアを開けてやり、ミセス・バンティングは彼が下に降りはじめると、さっそく部屋のなかに入っていった。

 たちまち奇妙な安堵感が彼女を襲い、気が軽くなるのを感じた。

 下宿人はいつも通り例の場所に座って聖書を読んでいる。

 どういうものか——理由は求められても説明できなかっただろうし、心のなかで考えるのもいやだったろうが——彼女は別人のようなミスタ・スルースを目にするのではないかと思っていたのである。しかし、そんなことはなかった。彼はまったく変わっていない。それどころか彼が目をあげたとき、いつも以上に感じのいい笑顔がほっそりした、青白い顔を輝かしたのである。

 「ああ、ミセス・バンティング」彼は愛想よく言った。「今朝は寝過ごしてしまいました。でもおかげで気分がいい」

 「それはようございました、旦那様」と彼女は低い声で答えた。「以前お仕えしておりました奥様がよくおっしゃっておりました、休息は古い治療法だけれど、いちばん効果があるって」

 ミスタ・スルースは邪魔にならないよう聖書とクルーデンのコンコーダンスをテーブルからどけ、立ちあがって女主人がテーブルクロスを広げるのを見ていた。

 突然彼はまた話しかけた。朝はあまり口数の多いほうではないのだけれど。「ミセス・バンティング、たった今、ドアの外に誰かがいたんじゃありませんか」

 「さようでございます、旦那様。バンティングがお盆を持つのを手伝ってくれまして」

 「だいぶご迷惑をかけているようですね」と彼は口ごもるように言った。

 しかし彼女の返事はすばやかった。「とんでもございません、旦那様!つい昨日ですけど、旦那様のように手のかからない下宿人ははじめてだと話していたんです」

 「それはよかった。自分の習慣が人と変わっていることは分かっているんですが」

 彼はじっと彼女を見た。まるでこの発言に対して彼女から否定の言葉を期待しているように。しかしミセス・バンティングは真面目な、正直な女だ。相手の言葉に異議を唱えるなど思いも寄らないことだった。ミスタ・スルースの習慣はいささか変わっている。真夜中の外出ひとつをとってもそうではないか。そう思って彼女は黙っていた。

 下宿人の朝食をテーブルに置いて、彼女は出ていこうとした。「お出かけになるまでお部屋の片づけはしないほうがよろしゅうございますか、旦那様」

 ミスタ・スルースは鋭く彼女を見あげた。「ええ、しないでください」と彼は言った。「聖書の研究をしているときは部屋の片付けをしてほしくありません、ミセス・バンティング。しかし今日は出かけません。少々手のこんだ実験をするつもりです——上の階で。出かけるとしても」彼はちょっと躊躇し、またもや彼女をじっと見つめた。「——夜になるでしょうね」それから元の話題に戻って急いでこう言い足した。「そうですね、わたしが上に行ったら片付けをしてもいいですよ。五時くらいですが。時間の都合はどうです、それで」

 「ええ、旦那様、結構でございます」

 ミセス・バンティングは下に降り、降りながら自分に無言の、仮借ない非難を浴びせかけた。しかし彼女はどうしても——心の内奥においてさえ——彼女をあれほど震えあがらせた奇怪な戦慄を直視することができなかった。彼女はただ何度も何度も心のなかで「混乱したのよ——それだけのことよ」と思った。それから声に出して「今度外出したとき、薬屋でお薬をもらわなくっちゃ。必ず」と言った。

 彼女が「必ず」とささやいたとき、玄関からノックする音が大きく二回響いてきた。

 たかが郵便屋のノックなのだが、しかしこの家に郵便屋が来ることはまれだった。ミセス・バンティングは思わずぎょっとなった。わたし、神経質になっている、いやだわ——彼女は怒ったように独りごちた。あれはミスタ・スルース宛の手紙にちがいない。この世のどこかに親戚か知り合いがいるに決まっている。家柄のよい人々はみんなそう。しかし玄関の床から小さな封筒を拾いあげたとき、それが夫の娘、デイジーから来たものであることを知った。

 「バンティング!」彼女は鋭く呼びかけた。「手紙よ」

 彼女は居間のドアを開けてなかを覗きこんだ。ああ、ここにいる。安楽椅子に気持ちよさそうにもたれかかり、新聞を読んでいる。その広い、やや丸まった背中を見ていると、ミセス・バンティングは突然、強いいらだちを感じた。あの人ったら、何にもしないで——いや、何もしないどころか、あのいやらしい犯罪の記事ばかり読んで時間をむだにしているんだわ。

 彼女は知らず知らずのうちに長いため息をついていた。バンティングは怠け者になりつつある。彼の歳の男にとってかんばしからぬ道に踏み込もうとしている。でもどうやったらそれが防げるだろう。二人が知り合った頃は、とても活動的で良心的な男だったのに……。

 彼女もカンバーランド・テラス九十番地の食事室で、二人がはじめて出会ったときのことをおぼえている。しかもバンティングより鮮明に。そこで奥様のグラスにポートワインを注いでいるとき、彼女は仕事に集中しているふりをしながら、実は目の隅から窓際に立つ、きりりとした身なりの、堂々たる男を見ていたのだ。彼の姿は前任者よりどれほど立派に見えたことだろう!そのときすでに彼女は、この人が執事を引き継いでくれればいいのに、と思っていたのだ。

 今日はいつもの調子でないせいか、昔のことがやけに生き生きと眼の前に浮び、胸に熱いものがこみあげてくる。

 夫宛の手紙をテーブルに置き、そっとドアを閉めると台所へ降りていった。自分たちのディナーを作るだけでなく、いろいろと片づけたり掃除しなければならない。台所にいるあいだはずっと、バンティングとバンティングの問題について執拗に、徹底的に考えつづけた。夫をふたたび正しい道に引き戻すにはどうしたらいいのだろう、と。

 ミスタ・スルースのおかげで、今や将来の見通しはそこそこ明るいものになった。一週間前は何もかもが絶望の淵にあった。破滅という穴に真っ逆さまに落ちるしかないと思われていたのだ。それが今、状況は一変した!

 ベーカー通りに行って職業紹介所の新しい所長に会ったほうがいいかもしれない。あそこは最近、所有者が代わったから。バンティングは臨時の仕事でもかまわないから働きに出たほうがいい——いや、今ならほとんど常雇いみたいな給仕の仕事だってできるはず。ミセス・バンティングは男がいったん怠け出すと、更生させるのは容易でないことを知っていた。

 ようやく上に戻ったとき、彼女はそれまで自分が考えていたことを恥ずかしく思った。バンティングはテーブルにテーブルクロスをきれいにかけ、椅子を二脚、引き寄せておいてくれたのだ。

 「エレン?」彼はいそいそと言った。「いい知らせがあるんだ!デイジーがあした来るんだよ!むこうの家の人が猩紅熱にかかってね。伯母さん(オールド・アーント) が、しばらく家を出ていたほうがいいだろうって言うんだ。それで誕生日はこっちで過ごすことになった。十八だよ、十九日が来たら。おれも歳を取ったなあ、まったく!」

 ミセス・バンティングはお盆を置いた。「今うちにあの娘を置くわけにはいかないわ」と彼女はすぐに言った。「わたしは手一杯よ。あの下宿人のお世話はあなたが思っている以上に大変なんだから」

 「何言ってるんだ!」と彼は強く言い返した。「下宿人のお世話ならおれも手伝うさ。手伝ってくれってどうして言わなかったんだい。もちろんデイジーはここに来なきゃならんよ。ほかに行き場所なんかないんだから」

 バンティングは好戦的な気分だった——はしゃぎまわりたいくらい上機嫌だった。しかし妻の顔を見ると、満足感は消えてなくなった。今日のエレンはげっそりやつれて見える。具合が悪そうだ。具合が悪いだけじゃなく、恐ろしく疲れてもいるようだ。そういう顔をされると無性に腹が立った——ちょうど仲直りしはじめたところだというのに。

 「それに」と彼は突然言った。「デイジーはおまえの仕事を手伝ってくれるぞ、エレン。彼女が来たらうちも少しは活気が出るさ」

 ミセス・バンティングは返事をしなかった。彼女は重苦しくテーブルにむかって座ったままだった。それから気だるい感じでこう言った。「あの娘の手紙を見せて」

 彼はテーブル越しに手紙を渡した。彼女はゆっくりと読んでいった。

 お父さん(とそれははじまっていた)。

 元気にしてる?ミセス・パドルの末っ子が猩紅熱にかかったの。伯母さん(オールド・アーント) は、すぐにお父さんのところに行って、しばらくご厄介になりなさいですって。エレンには、ご迷惑をかけませんって言っておいてちょうだいね。特に返事がなかったら十時に出発するつもり。

お父さんを愛する娘から

 「そうね。泊めてあげるしかないわね」ミセス・バンティングはゆっくりと言った。「一度くらい仕事をするのもいい経験になるでしょう」

 好意的とはとても言えない言い回しだったが、バンティングはともかく許可が出たことに満足しなければならなかった。

******

 いろいろなことが起きた一日はそのあと静かに過ぎていった。夕闇が迫る頃、ミスタ・スルースの女主人は彼が階段をあがっていちばん上の階に行く音を聞いた。彼女はそれが部屋を掃除する合図であることを思い出した。

 下宿人はきれい好きな男だった。多くの殿方たちとちがい、彼は服を部屋じゅうに散らかしたりしなかった。それどころかすべてを几帳面なくらいに整理整頓していた。服だけではない。最初の二日間にミセス・バンティングに買い入れてもらったいろいろな品物も、タンスの引き出しのなかに注意深く納められていた。彼は最近ブーツを一足購入した。ここに来たとき履いていたのはおかしな格好の、底にゴムを張ったなめし革の靴だった。彼は最初の日に女主人にむかって、この靴は持っていかないでくれ、きれいにする必要はないから、と言ったのだった。

 いったい何を考えているのかしら——それに真夜中すぎに散歩に行くなんて変わった習慣だわ。寒くて、霧が出ていて、ほかの人なら外になんか出ないでベッドのなかでぬくぬくしていたいと思うのに。でもミスタ・スルースは自分でも認めていた、自分は一風変わった人間だって。

 寝室を片づけたあと、女主人は客間に入って丁寧に掃除した。この部屋は彼女が満足するほど掃除が行き届いていなかった。ミセス・バンティングは客間を一度徹底的にきれいにしたいと思っていたのだが、ミスタ・スルースは寝室にいるとき、客間でばたばたされることを好まなかった。それに起きているときは、ほとんどずっと客間に座っている。いちばん上の部屋がお気に召したようだけれど、使うのは怪しげな実験をするときだけで、日中そこに行くことは一度もない。

 この日の午後、彼女は紫檀の飾り棚を物欲しそうに見つめ——このきれいな調度を軽く揺さぶりさえした。鍵のかかった古い食器棚の引き出しがときどき飛び出すことがあるように、しっかり閉めた棚の扉も勢いよく開いてくれたら彼女はどんなに喜び、どんなに気が楽になっただろう!

 しかし飾り棚がその秘密をさらけ出すことはなかった。

******

 同じ日の夜八時頃、ジョー・チャンドラーが少しだけおしゃべりをしようと彼らのところへやってきた。もう朝の動揺から回復していたが、興奮で神経がたかぶっていた。ミセス・バンティングは彼とバンティングの話に思わず引き込まれ静かに聞き入った。

 「ええ、おかげさまですっかり元気になりました!ゆっくり休みましたからね——午後はずっと寝ていたんです。警視庁は今晩何かが起きると考えています。やつはいつも二日つづけて動いてるんです」

 「なるほどそうだ」とバンティングは驚いたように叫んだ。「なるほどそうだねえ!そいつは気がつかなかった。じゃあ、ジョー、君はあの怪物が今晩も犯行に及ぶと思ってるんだね」

 チャンドラーは頷いた。「ええ。それに逮捕する絶好のチャンスでもあると思いますね——」

 「今晩は見張りが大勢出るんだろう?」

 「もちろんです!今晩は何人が見張りにつくと思います、ミスタ・バンティング?」

 バンティングは頭を振った。「分からんね」彼は見当もつかないといった調子で言った。

 「臨時にかりだされる連中の数ですけど」とチャンドラーは答えをうながすように言った。

 「千人かい?」とバンティングは思いきって言ってみた。

 「五千人ですよ、ミスタ・バンティング」

 「まさか!」バンティングはあきれて大声を出した。

 ミセス・バンティングでさえ信じられなそうに「まさか!」と同じ言葉を繰り返した。

 「ところが本当なんです。警視総監がおかんむりなんですよ!」チャンドラーはたたんだ新聞をコートのポケットから取り出した。「これを聞いてください。

 『凶悪犯罪の犯人たちを逮捕する手がかりはまだ何も見つかっていない。警察はしぶしぶながらそう認めざるを得なかった。ロンドン警視庁警視総監に国民の非難が集中するのは当然であろう。大抗議集会開催の噂まであるのだ』

 どう思います?総監もこんなの読まされちゃ、とさかに来ますよ、ちがいます?」

 「だがね、警察に捕まえられんとは、妙な話じゃないか?」とバンティングは反論した。

 「ちっとも妙じゃありませんよ」とチャンドラー青年は不機嫌に言った。「これを聞いてください。めずらしく新聞に本当のことが書いてある」彼はゆっくりと読みあげた。

 「『ロンドンの犯罪捜査は目隠し遊びに似ている。刑事たちは手を縛られ、目隠しをされ、殺人犯を捕まえるためにそのまま大都市の貧民街に放り出されるのだ』」

 「いったい何なんだ、それは」とバンティングは言った。「君の手は縛られちゃいないぞ。目隠しだってしてないじゃないか、ジョー」

 「こりゃ、もののたとえってやつですよ、ミスタ・バンティング。ぼくらの捜査方法ときたら、フランスのデカみたいに——いやあ、連中の四分の一だって恵まれていないんです」

 そのときはじめてミセス・バンティングが口を出した。「ジョー、さっき『犯人たち』って言った?最初に読んだ記事だけど」

 「ええ、そうです」彼は勢いよく彼女のほうを振りむいた。

 「それじゃ犯人は二人以上ってことなの?」彼女はやせた顔に安堵の色を浮かべた。

 「警察のなかにはギャングの仕業だと考えるのもいますよ」とチャンドラーが言った。「一人の犯行とは考えられないってね」

 「あなたはどう思う、ジョー」

 「そうだなあ、ぼくは分からないな、ミセス・バンティング。お手あげってところです」

 彼は立ちあがった。「お見送りは結構ですよ。玄関のドアはちゃんと閉めますから。それじゃ!あした、またお会いしましょう」先日の晩もそうしたように、バンティング夫婦の訪問者はドアのところで立ち止った。「ミス・デイジーはお変わりないですか?」彼は何気ないふうを装って訊いた。

 「ああ、あした来るよ」と父親が言った。「むこうの家で猩紅熱が出たんだ。それで、伯母さん(オールド・アーント) は娘を避難させるつもりなのさ」

 夫婦はその晩早々に寝床に入ったのだが、ミセス・バンティングは眠れそうになかった。目が冴えたまま、近くの古い教会の鐘楼が一時間おき、三十分おき、十五分おきに鳴らす鐘の音を聞いていた。

 そしてちょうどうとうとしかけたとき——一時頃だったにちがいない——なかば無意識のうちに期待していた音を耳にした。それは下宿人が彼女の部屋の真ん前の階段をこっそりと降りる足音だった。

 彼は廊下を忍び足で通り、静かに、静かに外へ出た。

 ミセス・バンティングは目を開けていようとしたのだが、彼が戻ってくる音を聞くことはなかった。そのあとすぐにぐっすり眠ってしまったのだ。

 奇妙なことに、次の日の朝、二人のうちで最初に起きたのは彼女のほうだった。さらに奇妙なことに、ベッドを跳ね起き、廊下に飛び出し、郵便受けから押しこまれたばかりの新聞を手に取ったのはバンティングではなく、彼女だったのだ。

 しかし新聞を手にとってもミセス・バンティングはすぐ寝室に戻らなかった。そのかわりに廊下のガス灯に火をつけ、壁により掛かって自分を支えると——寒気と疲労のために身体が震えていたのだ——新聞を開いた。

 彼女の探していた見出しがあった。

 「復讐者の殺人」

 しかしそのあとにつづく言葉を読んで彼女は胸をなで下ろした。

 「ロンドンのみならず文明世界をことごとく震撼・動顛させ、おそらくは女嫌いの狂信的禁酒主義者の仕業と思われる前代未聞の連続殺人事件は、本紙が印刷所に回される時間になっても、特に新たな進展を見せていない。昨日の早朝、最後の卑劣な殺人が行われてから、犯人あるいは犯人達につながる信頼すべき手がかりは一切見つかっていない。もっとも昨日のうちに数名の人間が逮捕されているが、どの人にも十分なアリバイのあることが確認された」

 その少し下にはこう書かれていた。

 「動揺はますます広がっている。ロンドンを訪れた旅行者でさえ、何か異様な雰囲気があたりを覆っていることに気がつくと言っても過言ではないだろう。昨晩の殺人現場は——」

 「昨晩ですって!」ミセス・バンティングはぎくりとしながら思った。だが、この文脈だと「昨晩」というのは一昨日の晩を意味することに気づいた。

 彼女は記事を読みつづけた。

 「昨晩の殺人現場は夜が更けても相変わらず何百という野次馬に阻まれまったく近づくことができない。だが事件の痕跡がもう何も残っていないことは勿論である」

 ゆっくりと注意深くミセス・バンティングは新聞を元通りにたたみ直し、屈んで玄関マットの上に、見つけたときと同じように、置いた。ガスを消し、ベッドのなかにもぐり込み、まだ寝ている夫のそばに横たわった。

 「どうしたんだ」バンティングがうめき、落ち着かなげに身じろぎした。「何かあったのか、エレン」

 彼女はささやき返した。不思議な喜びにわくわくしながら。「いいえ、何でもないわ、バンティング。何でもないのよ!もう一度寝なさいな、あなた」

 彼らはどちらも幸せな、ほがらかな気分で、一時間後に起きた。バンティングは娘が来ると思うと胸が躍ったし、デイジーのまま母でさえ若い娘が家の仕事をいくらかでも手伝ってくれるというのは悪くないと考えた。

 十時頃、バンティングは買い物をしに出かけた。彼はデイジーのディナー用においしそうな豚肉とミンス・パイを三つ買ってきた。アップルソース用のリンゴも忘れずに買ってきたのだった。