WeRead Powered by ReaderPub
下宿人 cover

下宿人

Chapter 12: 第八章
Open in WeRead

Explore more books like this:

About This Book

生活が傾いた下宿を営む夫婦が、近隣で続発する残忍な連続殺人の噂に包まれる中、上階にやって来た謎めいた下宿人をめぐって葛藤と不安に巻き込まれる。新聞や町の呼び声は犯人を復讐者と呼び、夫妻と周囲の人々は疑念と好奇心に駆られる。妻は同情と保護欲から下宿人に心を寄せ、夫は誇りと生活の危機の間で揺れる。物語は家庭の体面、恐怖の蔓延、道徳的決断と心理的緊張を静かに描き出す。

第七章

 ちょうど時計が十二時を打っているとき、四輪馬車が門の前に停まった。

 デイジーを乗せてきたのだ——頬を染め、興奮し、眼元が笑っているデイジーを。その姿を見ればどんな父親も思わず相好を崩しただろう。

 「伯母さん(オールド・アーント) がね、天気が悪かったら馬車で行きなさいって言ったの」彼女は嬉しそうにはしゃいだ。

 馬車代をめぐってちょっとしたやりとりが繰り広げられた。誰でも知っているように、キングズ・クロスからメリルボーン通りまではたったの二マイルしかない。しかし御者は大声で一シリング六ペンスを要求したのである。彼は、若い娘を無事に連れてきてやったんだ、と脅すように言うのだった。

 御者とバンティングが押し問答をしているあいだ、デイジーは二人を残して板石敷きの小径を通り、まま母が待っている玄関へむかった。

 二人は形だけのキスを交わした。特にミセス・バンティングのキスは軽く触れただけだった。そのとき静かな冷たい空気を破って突然大きな声が響き渡り、人々をぎくりとさせた。長く尾をひく叫び声は高く低く、はるかエッジウエア通りの往来のざわめきのむこうから聞こえてきた。

 「何だ、ありゃ」バンティングが不思議そうに言った。「いったい何があったんだ」

 御者は声をひそめた。「キングズ・クロスで恐ろしい事件があったって叫んでるんだよ。今度は二人まとめてやりやがった!だから料金をはずんでくれって言ってんだ。こんな話、お嬢ちゃんの前じゃできなかったけどよ、でも、かれこれこの五六時間のあいだにロンドンじゅうから人が集まってきてるんだ。立派な格好の紳士もいたぜ。もっとも、見るものなんてもう何もないんだけどな」

 「何だと。昨日の晩、また女が殺されたのか」

 バンティングはぞくぞくするほど興奮を感じた。こんな凶悪な犯罪を防げないなんて、何のために五千人の警官を配置したんだ?

 御者は驚いて彼を見つめた。「二人だぜ——数ヤードと離れてないところでな。胆の——胆のすわった野郎だ——けど、殺された女は酔ってたんだ。酒に恨みがあるんじゃねえか!」

 「警察は犯人を捕まえたのかい」バンティングは一応訊いてみた。

 「まさか!警察に捕まえられるかよ!何時間も前にやられたんだろう——石みたいに冷たくなってたから。今は使われてない抜け道の両端でやられたんだ。だから発見が遅れたのさ」

 しわがれた叫び声がだんだん近づいてきた。二人の新聞売り子が互いに負けじと怒鳴りあっている。

 「キングズ・クロスで恐るべき犯行!」彼らは勝ち誇ったように叫んだ。「またもや復讐者の仕業!」

 バンティングは娘の大きなわら色の旅行鞄を持ったまま道路に走り出て、無頓着にも半ペニー新聞に一ペニーを支払ったのだった。

 彼はひどく興奮し落ち着いていられなかった。ジョー・チャンドラーの知り合いというだけで、なんだか自分までこの殺人事件に個人的関わりを持っているように思えたのである。彼は昨日の朝みたいにチャンドラーがさっそく家にやってきて、事件の一部始終を話してくれたらいいのにと思った。あのときは残念なことにバンティングは外出していたのだけれど。

 小さな玄関広間に戻ったとき、デイジーの甲高くて、弾むような早口が聞こえた。彼女は猩紅熱のことや、伯母さん(オールド・アーント) の隣人がはじめのうち、猩紅熱ではなくてただの蕁麻疹ではないかと思ったことなど、長々とまま母におしゃべりしていた。

 しかしバンティングが居間のドアを押し開けたとき、娘の声ははっと驚くような調子に変わって、こう叫んだ。「あら、エレン、どうしたの?顔色が悪いわ!」そして妻の押し殺したような返事。「窓を開けて——お願い」

 「キングズ・クロスの近くで恐るべき犯行!ついに手がかりが見つかる!」新聞売りが高らかに叫んだ。

 そのときミセス・バンティングは自制心を失ったように笑い出した。笑って、笑って、笑って、まるで愉快でたまらないとでもいうように身体を前後に揺らすのだった。

 「お父さん、いったいどうしちゃったの?」

 デイジーはあっけにとられているようだった。

 「ヒステリーだな——きっとそうだ」と彼は短く言った。「水差しを持ってくるよ。ちょっと待っていろ」

 バンティングはひどくいらだった。とんでもないやつだな、まったく。こうも簡単に取り乱すとは。

 下宿人の呼び鈴が急に静かな家のなかに鳴り渡った。その音のせいなのか、水差しという脅しのせいなのか、いずれにせよミセス・バンティングに魔法のような効果があらわれた。全身の震えはまだ止まらなかったが、冷静を取りもどし、立ちあがったのだ。

 「上に行ってくるわ」彼女は多少苦しそうに息をしながら言った。「あなたは台所に行きなさい、デイジー。オーブンで豚肉を焼いているの。ソースを作るからリンゴの皮をむいておいて」

 階段をあがるとき、ミセス・バンティングは両足が綿でできているような気がした。震える手で手すりをつかみ、身体を支える。しかし必死になって身体に力をこめていくと、じきに足元がしっかりしてきた。階段をあがったところでしばらく立ち止まり、客間のドアをノックした。

 ミスタ・スルースの声が寝室から聞こえてきた。「具合が悪いんです」と彼は気むずかしい声で呼びかけた。「風邪をひいたみたいです。お茶を一杯持ってきていただけませんか。ドアの前に置いておいてください、ミセス・バンティング」

 「かしこまりました、旦那様」

 ミセス・バンティングは振り返って下に降りた。依然として調子がおかしくめまいがしたので、台所に行くかわりに居間のガスコンロで下宿人のお茶を淹れることにした。

 お昼のディナーの最中に夫婦はデイジーの寝場所をどこにしようかとしばらく話し合った。そのときは最上階の裏部屋にベッドの用意をしようと決まったのだが、ミセス・バンティングはこれを変更したほうがよいと考えた。「デイジーはわたしといっしょに寝るから、バンティング、あなたは上で寝なさい」

 バンティングはいささか驚き、それが表情にも出たのだけれど、おとなしく提案に従った。たぶんエレンが正しいのだろう。上に行くのは寂しいだろうし、結局のところ下宿人がどんな人間なのかあまり分かってはいないのだ。もちろん立派な紳士のように見えるのだけれども。

 デイジーは気立てのよい娘だった。彼女はロンドンが好きで、まま母の手伝いがしたかった。「洗い物はわたしがする。わざわざ下に行かなくてもよくってよ」彼女はほがらかに言った。

 バンティングは部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。妻はこっそりそれを見つめながら、夫は何を考えているのだろうといぶかしんでいた。

 「新聞を買わなかったの?」とうとう彼女が言った。

 「もちろん買ったよ」彼は急いで答えた。「でも片づけたんだ。おまえが見たくないだろうと思って。神経質になっているようだから」

 彼女はもう一度すばやく、こっそりと視線を投げかけた。しかし彼はいつもと変わらぬ様子で——明らかに彼の言葉にはそれ以上の意味もそれ以下の意味もないようだった。

 「通りで何か叫んでいたんじゃないの——わたしがおかしくなる前に」

 今度はバンティングが妻をすばやく盗み見る番だった。錯乱というかヒステリーというか——呼び名はどうでもいいが——それに突然襲われたのは外から聞こえた叫び声のせいだと彼は確信していた。ロンドンで復讐者の殺人に神経質になっている女は彼女だけではない。朝刊によると、相当な数の女性が一人で外出することを恐れているという。先ほど彼女が取り乱したのは外の叫び声や興奮と無関係なはずがない。

 「何て叫んでいたのかおぼえてないのかい?」彼はゆっくりと訊いた。

 ミセス・バンティングはテーブル越しに夫を見た。彼女は思いきってやろうとすれば嘘もつけるし、あのおぞましい叫び声の意味を知らないふりもできただろう。しかしいざとなると、やっぱり嘘はつけなかった。

 「おぼえているわ」彼女は力なく答えた。「一言二言聞こえたの。また殺人があったんでしょう?」

 「さらに二人殺されたよ」夫は重々しく言った。

 「二人?余計にひどいじゃない!」彼女の顔は青ざめ——緑がかった土色になり——バンティングは彼女がまたもやヒステリーを起こすのではないかと思った。

 「エレン?」彼は警告するように言った。「エレン、気をしっかり持て!殺人のことでどうしておまえがうろたえるのか知らんが、とにかくあんなものは忘れろ!別にわしらが話題にするようなことじゃない——いや、まあ、しょっちゅう話すことじゃ——」

 「わたしは話したいのよ」とミセス・バンティングがヒステリックに叫んだ。

 夫と妻はテーブルを挟んで立っていた。夫は煖炉に背をむけ、妻はドアに背をむけていた。

 バンティングは妻を見つめながらひどく混乱し動揺していた。彼女は本当に具合が悪そうだ。やせ細った身体がさらに縮こまったように見える。彼はエレンがはじめて年相応の見かけになってきたと悲しく思った。その細い手——荒仕事をしたことがない、きれいな、柔らかい、白い手——は、痙攣するような動きとともにテーブルの端をつかんだ。

 バンティングは妻の顔色を見て不安になった。「大変なことになったぞ」と彼は思った。「また気分が悪くならなきゃいいんだが。でないと大騒ぎになる」

 「話してちょうだい」彼女は低い声で要求した。「ほら、聞かせてくれるのを待ってるのよ。さ、早く、バンティング!」

 「話すことなんて、たいしてないんだ」彼はいやいやそう言った。「だいたい新聞にはちょっとしか出てなかったし。だがデイジーを乗せてきた御者が——」

 「何て言ったの?」

 「今、おれが言ったようなことを教えてくれたんだ。今度は二人やられた。どっちもしたたか酔っていたそうだよ、かわいそうに」

 「まえにも人が殺されたところで?」彼女は恐れるように夫を見た。

 「いや」彼はぎこちなく言った。「いや、ちがうよ、エレン。あそこからずっと西のほうさ——実はここからそう遠くないところだ。キングズ・クロスの近く——それで御者は事件のことを知ったんだ。使われていない抜け道でやられたらしい」そのとき妻の目つきに異変を感知した彼は急いでこう付け足した。「さあ、今はこれでやめておこう!もうすぐジョー・チャンドラーから詳しい話が聞ける。今日きっと訪ねてくるよ」

 「じゃ、五千人の警官は何の役にも立たなかったのね」とミセス・バンティングはゆっくりと言った。

 彼女はテーブルを握っていた手をゆるめ、さっきよりも真っ直ぐに立っていた。

 「ぜんぜんさ」バンティングは短く言った。「狡猾なやつだよ、まったく。しかし待てよ——」彼は振り返って椅子の上に片づけておいた新聞を取りあげた。「そうそう、手がかりが見つかったって言っていたな」

 「手がかりですって、バンティング?」ミセス・バンティングは低く弱々しい消え入るような声で言った。そしてふたたびやや前のめりになってテーブルの端をつかんだ。

 しかし夫はもう彼女を見ていなかった。彼は新聞に目を近づけ、いたって満足そうな声で記事を読みあげた。

 「『喜ばしいことに警察はついに犯人逮捕につながる手がかりをつかんだ——』」そこまで読んでバンティングは新聞を落とし、慌ててテーブルを回った。

 妻が奇妙な、ため息のようなうめき声をあげ、テーブルクロスをずるずると引きずりながら床にくずおれたのである。彼女は失神して横たわっているように見えた。バンティングは震えあがって狂ったようにドアを開け叫んだ。「デイジー!デイジー!来てくれ。エレンがまたおかしくなった」

 デイジーは飛びこんでくると、あわてふためく優しい父親が思わず感嘆するような沈着と冷静を示した。

 「スポンジを濡らして持ってきて、お父さん——急いで!」と彼女は叫んだ。「スポンジと——ブランデーがあれば、それも少し。わたしがみているから!」彼が小さな薬瓶を持ってくると、デイジーは不思議そうに「どこが悪いのかしら」と言った。「わたしが家のなかに入ってきたときは何ともなかったのよ。わたしの話に面白そうに聞き入っていたのに、それが急に——お父さんも発作を起こすところは見ていたでしょう?エレンらしくないわ。そう思わない?」

 「まったくだ」と彼はささやいた。「まったくだよ。だがね、わたしらは生活がえらく苦しかったからね——おまえには言えなかったが、苦労が絶えなかったんだよ。その影響が今出てきたんだな——きっとそうだ。彼女は文句ひとつ言わなかった。エレンは気丈な性質だから。だけど今になってあの苦労がこたえてきたんだよ——今になってね!」

 そのときミセス・バンティングは上体を起こしながら少しずつ目を開けた。彼女は本能的に頭をさわって髪の毛が乱れていないか確かめた。

 彼女は完全に気を失ったわけではなかった。もっとも完全に気を失ったほうがよかっただろうけれども。彼女はひどい虚脱感に襲われ、もう立っていられない——いや、倒れなければならないような気がしただけなのだ。バンティングの言葉は哀れな女の滅多に触れられない琴線に触れた。目を開けると涙が一杯に溜まっていた。ひもじい思いをしながらじっと待ち続けたあの時期に、彼女がどれだけ堪え忍んでいたかをまさか夫が知っているとは思っていなかったのだ。

 しかし彼女は感情をあらわすことを病的なほど嫌った。彼女にとってそれは「馬鹿げたこと」でしかなく、それゆえ次のようなことしか言わなかった。「大騒ぎしないでちょうだい!ちょっと具合が悪くなっただけ。気を失ってなんかいませんよ、デイジー」

 彼女はバンティングが急いで注いだ少量のブランデーのグラスを邪険に押しのけた。「そんなもの、さわりたくもないわ——死んだってさわるものですか!」と彼女は声を荒げた。

 力のない手でテーブルにつかまり、彼女は立ちあがった。「もう一度台所へ行ってちょうだい、デイジー」しかしその声はむせぶように震えていた。

 「きちんと食事をしてなかったからだよ、エレン——だからこうなるんだ」とバンティングは突然言った。「そういや、この二日ほどろくに食べていないじゃないか。いつも言っていただろう——昔は何度も言ったはずだよ——女は空気を食って生きるわけにゃいかないって。でもおまえはおれの言うことなんて一言も聞きゃしないものなあ!」

 デイジーは立ったまま二人を見比べていた。明るい、愛らしい顔に影がさした。「そんなに生活が苦しかったなんて知らなかったわ、お父さん」彼女は胸がいっぱいだった。「どうして教えてくれなかったの。わたしから伯母さん(オールド・アーント) にお願いしたら助けてもらえたかもしれないのに」

 「そんなことはしてほしくありません」まま母はいらだたしげに言った。「でも、たしかに——そうね、まだあのときの苦労が身体から抜けきっていないのね。忘れることなんかできそうもないような気がする。あの、じっと待つだけの日々——そ、それから——」彼女は自分を抑えた。さもないと次の瞬間には「飢えに苦しんだ日々」という言葉が口をついて出ていたかもしれない。

 「しかし、もう大丈夫さ」とバンティングは力をこめて言った。「ミスタ・スルースのおかげでな」

 「そうね」妻は低い、奇妙な声でその言葉を繰り返した。「そうね。もう大丈夫ね。あなたの言う通りよ、バンティング。何もかもミスタ・スルースのおかげだわ」

 彼女は歩いて椅子に腰かけ、「まだちょっとだけふらふらする」とつぶやいた。

 デイジーは彼女を見ながら父親のほうを振りむき、小声で話しかけた。しかしそれほど低い声ではなかったためにミセス・バンティングに聞かれてしまったけれども。「お父さん、お医者様に診てもらったほうがいいんじゃない?元気を回復するお薬とか、くれるかもしれないわ」

 「医者なんか結構よ!」ミセス・バンティングは急に語気を強めた。「医者なら最後のお屋敷でたくさん見たわ。奥様は十ケ月で三十八人の医者に診てもらったのよ。みんなに診てもらうんだって、奥様はかたく決心していらっしゃった。でも奥様を助けることができたかしら。いいえ。やっぱり奥様はお亡くなりになったわ。もしかしたら死期を早めたかもしれない」

 「あの方は変わり者だったよ。おまえが最後にお仕えした奥様は」バンティングは非難するように話しはじめた

 エレンは奥様が息を引き取るまでお屋敷を離れたくないと言い張った。それがなければ彼らは数ケ月早く結婚できたかもしれない。バンティングはそのことをいつも不満に思っていた。

 妻は弱々しくほほえんだ。「そのことで言い争うのはやめましょう」彼女はいつもより優しい、柔和な声でさらにこう言った。「デイジー?あなたがもう台所に行かないのなら、わたしが行かないとならないわね」彼女がまま娘のほうを振りむくと、娘は飛ぶように部屋を出て行った。

 「あの娘は日に日にきれいになっていくな」バンティングは慈しむように言った。

 「美貌も皮一重ってことを人は忘れがちなものよ」と妻は言った。彼女はだんだん気分がよくなってきた。「でも、バンティング、たしかにデイジーはいい娘だわ。すすんでお手伝いもするようになったし」

 「そうだ、下宿人のディナーを忘れちゃならんぞ」バンティングはそわそわしながら言った。「今日は魚料理だったね。デイジーに作ってもらって、おれが持っていこうか。まだ完全によくなっていないだろう、エレン?」

 「もう平気。わたしがミスタ・スルースの午餐《ランチョン》を持っていく」と彼女はすばやく言った。夫が下宿人の食事をディナーなどというのを聞くといらいらした。彼らはお昼にディナーを食べるが、ミスタ・スルースは午餐《ランチョン》を召しあがるのだ。どんなに奇人であっても、ミセス・バンティングは下宿人が紳士であることを忘れなかった。

 「あの方はわたしにお世話されるのが好きなんだもの。そうでしょう?わたしなら大丈夫。心配しないで」彼女はしばらく間を置いてからそう付け加えた。

第八章

 午餐を出すのが普段よりもだいぶ遅れたためだろう、二階でおいしいカレイの蒸し焼きを食べたミスタ・スルースの食欲は、一階でおいしい豚の焼き肉を食べた女主人のそれをはるかに上回った。

 「お加減はよくおなりでしょうか、旦那様」ミセス・バンティングはお盆を持っていったとき恐る恐る聞いてみたのだった。

 彼は沈んだ、ぐちっぽい口調で答えた。「いえ、今日は気分があまりよくないですね、ミセス・バンティング。疲れています——とても疲れています。それにベッドに寝ていると、いろいろな雑音が聞こえるみたいです——やたらと叫んだり怒鳴ったりするのが。メリルボーン通りがうるさい大通りみたいにならなければいいんですけどね、ミセス・バンティング」

 「決してそんなことは、旦那様。いつもはとても静かなのですけど」

 彼女はしばらく黙っていた——あの聞き慣れない叫び声や騒音が告げる事件について話をしたかったが、どうしてもできなかった。「風邪をお召しになったのでしょう、旦那様」と彼女は突然言った。「わたくしだったら今日は外に出かけませんわ。家のなかで静かにしています。素性のよくない人も大勢うろついてますし——」どうやら彼女の単調な声にひそむ戒め、苦痛に満ちた懇願が下宿人にも伝わったのだろう、ミスタ・スルースは顔をあげ、明るい灰色の目に不安そうな、警戒するような表情を浮かべた。

 「それは残念なことですね、ミセス・バンティング。しかしご忠告には従いますよ。家で静かにしています。聖書の研究さえできれば、退屈しませんから」

 「目がお疲れになりませんのですか、旦那様」とミセス・バンティングは不思議そうに訊いた。どういうものか、彼女はほっとした気分になりはじめていた。ここでミスタ・スルースと話をしているほうが、下で彼のことを案じているより、気が楽になるのだった。これまで何度か彼女の魂や肉体をも満たした恐怖が消えていくようだった。彼女といっしょにいるときのミスタ・スルースは優しくて、物わかりがよくて、とても——とても感じがいいのだ。

 優しいけれど、独りぼっちでお気の毒なミスタ・スルース!こんな紳士ははえ一匹殺せやしない。まして人間なんかとても。変わり者——その点は認めなければならない。しかしミセス・バンティングは有能な女中としての長い経験のなかで、変わり者を大勢見てきた。それも男よりも女に多かった。

 彼女は普段はまれに見るほど思慮深い、良識的な女性だった。だから、昔、お仕えしたお屋敷のいくつかで、人間というものは——生れも育ちもいい、物腰の柔らかい人でさえ——ときに奇矯な振る舞いに及ぶことがある、という実例を見せつけられても、さして深く考えこむことはなかった。もしもそのことが、今、病的なほど、あるいはヒステリックになるほど、気にかかるようになったのだとしたら、これはもう不幸としかいいようがない。

 そこで彼女は打って変わって陽気な声でこう言った。ミスタ・スルースがはじめて彼女の家に来たころのような声だった。「それでは、旦那様、半時間後にお片付けにまたまいります。差し出がましいようですが、今日はお部屋でゆっくりお休みになってください。外はじめじめしてうっとうしゅうございますわ、本当に。何か御入用のものがございましたら、わたくしかバンティングが買ってまいりますので」

******

 玄関のベルが鳴ったのはたしか四時だった。

 三人はそろっておしゃべりの最中だった。デイジーは洗い物をすませ——彼女はまま母のお手伝いとして大活躍していた——そのときは伯母さん(オールド・アーント) の俗物ぶりをおもしろおかしく年上の二人に話していた。

 「いったい誰だろうね」とバンティングは顔をあげて言った。「ジョー・チャンドラーにしちゃ早すぎる」

 「わたしが行ってくる」と妻が椅子から飛びあがりながら言った。「わたしが行って追っ払ってくるわ」

 短い廊下を歩きながら彼女は独り言を言った。「手がかり?どんな手がかりかしら」

 玄関のドアを開けたとき、彼女は思わず安堵のため息をもらした。「まあ、ジョーじゃない。あなただとは思わなかった!よく来たわね。入りなさい」

 チャンドラーはハンサムで魅力的な顔にややおどおどとした表情を浮かべて入ってきた。

 「もしかしたらミスタ・バンティングがお聞きになりたいかもしれないと思って……」と彼は陽気な大声で話しはじめたのだが、ミセス・バンティングが急いでそれを制した。二階の下宿人にチャンドラー青年の話を聞かれたくなかったのである。

 「そんな大声出さないで」彼女は少しきびしい声を出した。「今日は下宿人の調子があまりよくないの。風邪をひいて」と彼女は急いで言い足した。「二三日外出してないのよ」

 彼女は自分の無謀さ、そして——でたらめに驚いた。その瞬間、彼女の発した数語は、エレン・バンティングの人生に新時代を画したのだ。彼女がぬけぬけと、意図的な嘘をついたのははじめてだった。彼女は真実を隠すことと、嘘を言うことは、天と地ほどもちがうと考える、大勢の女性の一人だった。

 しかしチャンドラーは彼女の言葉に何の注意も払わなかった。「ミス・デイジーは到着しましたか」彼は声を小さくして尋ねた。

 彼女は頷いた。彼は父と娘が座っている部屋に入っていった。

 「さあ」バンティングは立ちあがって言った。「さあ、ジョー。例の謎の手がかりについて話してくれ。まだ犯人逮捕とまではいかないだろうね」

 「まだしばらくはそんないいニュースはありませんよ。捕まったら」とジョーは悲しそうに言った。「ぼくはここにはいないでしょうね、ミスタ・バンティング。でも警視庁はようやく人相書きを配布することになりました。それに——実は犯人の兇器を見つけたんです!」

 「何だと!」バンティングは目の色を変えて叫んだ。「嘘じゃないだろうね!いったいどんなものなんだい?やつのものだってことはまちがいないのか」

 「まあ、確実ってわけじゃないけど、でも恐らくそうでしょう」

 ミセス・バンティングはこっそり部屋のなかに入ってくると、ドアを閉めた。しかしドアを背にしてじっと立ったまま、眼の前のひとかたまりの人々を見ていた。みんな彼女のことを忘れているようだ——彼女はそのことを神に感謝した。話と興奮に加わることなくすべてを聞くことができたのだから。

 「これを聞いてくださいよ!」とジョー・チャンドラーは意気揚々と大声で言った。「これはまだ配られていないんですが——その、一般人にはね——でもぼくらには今朝の八時に全員に配られました。なかなか仕事が迅速でしょう?」彼は読みあげた。

 手配書

 年齢二十八歳くらいの男、やせ形で身長は約一七四センチ。色黒。顎髭、頬髭はなし。黒いあや織りのコート、ハード・フェルト・ハット、白のハイカラー、ネクタイを着用。新聞紙の包みを持ち、人品骨柄いやしからず。

 ミセス・バンティングは前に進み出た。彼女は言うに言われぬ安堵感からふうっと長いため息をついた。

 「こいつです!」とジョー・チャンドラーは勝ち誇ったように言った。「ところで、ミス・デイジー」——彼はいたずらっぽく彼女のほうを振りむいたが、その率直な、陽気な声にはおかしな震えがほんのちょっぴり含まれていた——「この人相書きにぴったりのすてきな、前途有望そうな若者をごぞんじじゃないですか——通報したら五百ポンドの報酬を受け取ることができるんですよ」

 「五百ポンド!」デイジーと父親は同時に叫び声をあげた。

 「そう。ロンドン市長からきのう提示されたんです。誰か個人が出したみたいですよ。公のお金じゃなくて。でも警視庁のぼくらはその賞金を受け取る資格がないんだからついてないや。どのみち苦労するのはぼくらなんだけど」

 「その紙を見せてくれないか」とバンティングが言った。「ようくおぼえておかないとな」

 チャンドラーは薄い紙を渡した。

 しばらくしてバンティングは顔をあげ、紙を返した。「うむ、ずいぶん特徴をはっきり書いてあるね」

 「ええ。でもね、そんな特徴を持った若者なら何百人、いや何千人といますよ」チャンドラーは皮肉っぽく言った。「同僚が今朝言ってました。『これが出たあと、新聞の包みを持って歩くやつなんていないぜ』って。いやしからぬ人品骨柄もこれからは要注意です」

 デイジーが陽気な笑い声をあげた。ミスタ・チャンドラーの冗談がおかしくて仕方なかったのだ。

 「犯人を見た人は、どうして捕まえようとしなかったんだろう」バンティングがふと尋ねた。

 ミセス・バンティングも声をひそめて口をはさんだ。「そうよ、ジョー、変だと思わない?」

 ジョー・チャンドラーは咳払いした。「こういうことなんです。事の一部始終を見た人は一人もいないんです。この人相書きは犯人を見たっていう二人の人の証言をもとに作っただけなんです。ほら、この殺人は——ええと、そうだな——この前のはたぶん二時くらいに犯行がありました。二時っていうのが肝心なんですよ。そんな時間に出歩く人はあまりいませんからね。特に霧の出ている晩ともなれば。で、一人の女が現場から若者が歩き去るのを見たと言い、もう一人の女が、復讐者が自分の横を通ったって言っているんです。といっても、時間はだいぶあとなんですけど。ここに書いてあるのはほとんど彼女が言っていることなんです。それからこの手の仕事を担当しているボスがほかの人の証言——つまりほかの殺人が行われたときに得た証言ですけど——それを調べて、この手配書を作ったんです」

 「じゃあ、復讐者がこれとぜんぜんちがう人相をしているってこともありうるんだね」とバンティングはゆっくりと、失望したように言った。

 「もちろん、ありえますよ。でも、ぼくはこの人相書きは、やつの特徴をおさえていると思うな」とチャンドラーは言ったが、しかし自信のある口調ではなかった。

 「さっき凶器が見つかったって言ったね、ジョー」バンティングが探りをいれるように言った。

 彼はエレンがこの話を続けさせてくれるのがうれしかった。それどころか彼女自身、この一件に興味を抱いているようだった。彼女は話の輪に加わり、すっかりいつもの落ち着いた様子を取り戻していた。

 「ええ。凶行に使われた武器が見つかったみたいです」とチャンドラーは言った。「とにかく、死体のあった狭くて暗い抜け道から——抜け道の両端にそれぞれ一体ずつ死体があったんですけど——あそこから百ヤードと離れていないところで今朝、とても変わった形のナイフが発見されたんです。『カミソリみたいに鋭くて、短剣みたいに先が尖っている』。これはボスが説明したときに使った言葉そのままなんですけど、ボスはほかのどの手がかりよりもこれが重要だと考えているみたいです。つまり新聞の包みを持って足早に立ち去る男を見たっていう目撃者が語った犯人の人相よりも重要だって。でもおかげでぼくらは大変な仕事を仰せつかってしまいました。今言ったようなナイフを売ったか、もしくは売ったかもしれない店を虱潰しに調査しなければならないんですよ!イースト・エンドの食堂もぜんぶ含めて」

 「食堂なんて、何のために?」とデイジーが訊いた。

 「そりゃ、そんなナイフをいつか見たことのある人はいないか、もしも見たとしたら、誰のものだったかを調べるためですよ。でもね、ミスタ・バンティング」——チャンドラーは声色を変えた。仕事をしているときのような、固い口調になったのだ——「今のナイフの話は極秘なんです——新聞には出ません——あしたまではね。だから誰にも言っちゃいけませんよ。犯人を怯えさせたくないんです。ナイフが発見されたことを知ったら——姿を消すかもしれませんからね。それはまずい!さっき言ったみたいなナイフが、たとえば一ケ月前に売られていることがわかり、買った人の足取りがつかめれば、そのときは——」

 「そのときは?」ミセス・バンティングが身を乗り出した。

 「そのときは新聞にナイフの話はのりません」チャンドラーはすまして言った。「このことを一般の人に知らせるのは、何も見つからなかったときだけです——つまり、店とかを調べて何もわからなかったときだけ。店がダメなら、個人を探さなきゃなりません——犯人のナイフを見たことのある人を。そこでこの賞金が役に立ってくるんです、五百ポンドが」

 「まあ、わたし、何とかしてそのナイフを見たいわ!」デイジーは両手を打ち鳴らして叫んだ。

 「この娘ったら、何てむごたらしい、血生臭いことを!」まま母が激しく怒った。

 そこにいる全員が驚いて彼女のほうを見た。

 「おい、おい、エレン!」バンティングが咎めるように言った。

 「だって、そんな恐ろしいこと!」と妻がむっつりと言った。「人間を五百ポンドで売るなんて」

 しかしデイジーはぷりぷり怒っていた。「いいえ、わたしは見たいわ!」彼女は突っかかるように言った。「わたし、賞金のことなんて、何も言ってない。それはミスタ・チャンドラーが言ったのよ!わたしはナイフを見たいと言っただけ」

 チャンドラーはなだめるように彼女を見た。「ああ、そのうち見ることができますよ」と彼はゆっくりと言った。

 そのとき素晴らしいアイデアが頭にひらめいた。

 「嘘ばっかり!どうして見られるのよ?」

 「やつが捕まったら、いっしょに警視庁の黒博物館に行きましょう。そこでちゃんとナイフが見られますよ、ミス・デイジー。そういうものはみんなあそこに保管されているんです。この凶器が復讐者を有罪にする決め手になれば——そうすりゃ、きっとナイフはあそこに置かれるし、見ることができますよ!」

 「黒博物館?まあ、警視庁にどうして博物館があるの?」デイジーは不思議そうに訊いた。「わたし、博物館なんて大英博物館だけだと思っていたけど——」

 これにはバンティングとチャンドラーだけではなく、ミセス・バンティングも大声で笑ってしまった。

 「まったくおまえってやつは!」と父親は可愛くて仕方がないといった調子で言った。「ロンドンにはたくさん博物館があるんだよ。この町は博物館でいっぱいなんだ。エレンに聞いてごらん。わしらが結婚前に付き合っていたころは博物館に行ったものだよ——天気が悪けりゃな」

 「でもミス・デイジーが関心を持っているのはうちの博物館なんですよ」チャンドラーが熱心な口調で父親をさえぎった。「あれこそ本物の恐怖の部屋ですからね!」

 「ジョー、あそこのことは今まで話してくれたことがなかったね」バンティングが興奮して言った。「犯罪に使われたものを集めて保管する博物館があるって本当なのかい?凶器に使われたナイフみたいなものとか」

 「ナイフですって?」ジョーは注目を浴びて有頂天になった。デイジーもその青い目で彼をじっと見つめ、ミセス・バンティングまで期待するように彼を見ている。「ナイフだけじゃありませんよ、ミスタ・バンティング!人を殺すのに使われた本物の毒の小瓶だってあるんですから」

 「そこはいつでも好きなときに行けるの?」デイジーが驚いたように訊いた。ロンドン警視庁の刑事に、こんなものすごい、面白い特典がついてくるとは思ってもいなかった。

 「そうだなあ、ぼくは行けるけど——」ジョーはにこりと笑った。「友達を連れて行く許可もちゃんと取れますよ」彼は意味ありげにデイジーを見、デイジーも真剣な目つきで彼を見返した。

 でもエレンはミスタ・チャンドラーと外出することを許してくれるかしら。エレンは生真面目で——いらいらするほど融通がきかないから。あら、でも、お父さん、何を言っているのかしら。「本当かね、ジョー?」

 「ええ、もちろんですよ!」

 「そういうことなら、ちょっと聞いてくれ!もしも無理な頼みでなければ、わたしもいつかぜひいっしょに行きたいんだ。復讐者が捕まるまで待てないな」——バンティングは顔をほころばせた。「今、博物館にあるもので十分さ。エレンは」——彼はテーブル越しに妻を見た——「そういうものに対してわたしとちがう意見を持っているけどね、でもわたしは血生臭い人間じゃないよ!ただ、ああしたものにひどく興味があるだけなんだよ、昔からずっと。バラム事件(註 一八七六年ロンドンのバラムで起きた毒殺事件)の執事はうらやましくてたまらなかったものさ!」

 デイジーと青年のあいだでふたたび視線が交わされた——それはいろいろな意味を含んで二人のあいだを行き来した——「いやあ、君のお父さんがあんなところに行きたがるなんて、妙なことになったなあ。でも、行きたいというならしょうがない。二人だけならもっといいけど、今回は我慢してお父さんもいっしょに連れていこう」デイジーの視線はそれに対してあっさりとこう答えた。もっとも彼女が彼の意味を明瞭に理解したのに対して、ジョーは彼女の視線の意味をそれほどはっきりとは読み取れなかったけれど。「ほんと、いやね。でもお父さんに悪気はないのよ。それにお父さんがついてきたって、博物館に行くのはやっぱり楽しいわ」

 「じゃ、あさってはどうです、ミスタ・バンティング?お迎えに来ますよ——そうだな、二時半頃はどうです?——あなたとミス・デイジーを警視庁にご案内します。そんなに時間はかかりません。ずっとバスでウエストミンスター・ブリッジまで行きます」彼は振り返って女主人を見た。「いっしょにいかがですか、ミセス・バンティング?本当に面白いところですよ」

 しかし女主人は断固として首を横にふった。「気分が悪くなるわ」と彼女は言った。「気の毒な人を殺した毒の瓶なんか見たら!それにナイフなんか——!」紛れもない恐怖、身のすくむような戦慄の表情が青ざめた顔をよぎった。

 「ほら、ほら!」バンティングが慌てて言った。「いつも言ってるだろう——人は人、自分は自分。エレンはこの見学に行きたくないのさ。家で猫の心配をしていたらいい——いやいや、失礼、下宿人の心配をしていたらいいさ!」

 「ミスタ・スルースを冗談のネタにしないでちょうだい」ミセス・バンティングが険悪な声で言った。「でも、ジョー、あなったって本当にいい人ね、バンティングとデイジーにそんな珍しいものを見せてくれるなんて」——彼女はいやみを込めて言ったのだが、それを聞いた三人は一人としてその皮肉を理解しなかった。

第九章

 大きなアーチ型の入り口をくぐり抜け、巧妙化した犯罪に戦いを挑む偉大な組織、ニュー・スコットランド・ヤードの心臓部に入り込んだとき、デイジー・バンティングはロマンスの王国に自由に出入りできるようになったのだと思った。三人を乗せてあっという間に上の階に連れていってしまうエレベーターも彼女にとっては新しい、胸のときめく体験だった。デイジーは今までずっと伯母さん(オールド・アーント) が住む小さな田舎町で単調な、活気のない生活を送ってきた。エレベーターなどというものに遭遇したのはこれがはじめてだった。

この巨大な建物にいささか得意の鼻をうごめかしながら、ジョー・チャンドラーは友達を引き連れ、広々とした廊下を進んだ。

 デイジーはあまりの幸運にちょっとだけぼんやりとし、ちょっとだけ気圧されて父親の腕にしがみついた。そのほがらかなういういしい声は押し黙ったままだった。自分がいる、この驚くべき建造物に圧倒されたということもあるし、大きな部屋にいっぱいの人々が忙しそうに、無駄口をたたかず、犯罪の解明のために——と、彼女には思えた——立ち働いている様子がちらちらと見えたからである。

 彼らが半開きのドアを通り抜けたとき、チャンドラーが急に立ち止った。「ほら、見てください」彼は低い声で娘よりも父親のほうにむかって言った。「あそこが指紋の鑑識をする部屋です。二十万人分の男女の指紋を集めているんですよ!ごぞんじでしょう、ミスタ・バンティング、警察が五本指の指紋を入手したら、その人は捕まったも同然なんですよ——いや、その、また犯罪を犯したりすればですけど。そのささいな情報を登録されたら、もうわれわれから逃れることはできないんです——どんなにあがいてもね。二十五万人近い人の記録があるんですが、ある人に犯罪歴があるかどうかは、そうですね、半時間もかからずに分かるんです。たいしたものでしょう?」

 「すごいね!」とバンティングは深く息を呑んだ。しかしふとその鈍感な顔が曇った。「たいしたものだが、指紋をとられたやつは生きた心地がしないだろうな、ジョー」

 ジョーは笑った。「同感です!」と彼は言った。「頭のいいやつはよく分かっているはずです。そういや、先だってこんなことがありました。指紋の記録がここにあることを知っているある男が、指の表面をめちゃくちゃに切り刻んだんですよ。指紋がはっきり採れないように——言っていること、分かります?でも六週間たったら、また皮膚が生えてきて、まるっきり元と同じシワ模様ができたんです!」

 「あわれなやつだ!」バンティングは声をひそめて言った。デイジーの明るい元気な顔にさえ影がさした。

 彼らは今度は狭い廊下を進み、ふたたび半開きのドアの前に来た。それは指紋鑑定室よりずっと小さな部屋に通じていた。

 「なかをのぞいてみてください」とジョーは短く言った。「指先から身元の割れた人とでも言うのかな、そういう人の全情報がここにあります。その人の前歴とか、前科とかがここに保管されているんです。指先の記録はさっきの部屋、犯人個人の記録はこっちの部屋——番号で関連づけられています」

 「すごいな!」バンティングは息を呑んだ。しかしデイジーは先に進みたくてしようがなかった。早く黒博物館に行きたかったのである。ジョーと父親が話していることは、彼女にとって現実味がまったくなかった。いや、わざわざ理解しようと努力するまでもない、ささいなことだった。しかし長く待たされることはなかった。

 ジョー・チャンドラーの親友とおぼしき、肩幅の広い、にこにこした青年が突然前に進み出ると、何の変哲もないドアの鍵を開け、彼ら三人の小グループを黒博物館へと導き入れたのだ。

 その瞬間、強い失望と驚きがデイジーの心を襲った。この大きな明るい部屋が何よりも思い起こさせたのは、彼女と伯母さん(オールド・アーント) が住む町の公共図書館にある「サイエンス・ルーム」と呼ばれる部屋だった。ここも、そこと同じで、部屋の中央にはガラスのケースが見やすい高さにしつらえてある。

 彼女はドアからいちばん近いケースにむかって進み、なかをのぞいた。展示されていたのは、ほとんどがみすぼらしい小物だった。取り散らかした家の、古いガラクタ置き場から出てきそうなものが並んでいたのだ。古い薬瓶、汚れたハンカチ、壊れたおもちゃの提灯、さらには薬箱まで……。

 壁はおかしな品物で埋め尽くされている。古い鉄のかけら、木と革でできた見慣れぬ形の物体などだ。

 実際、期待はずれもいいところである。

 しかしそのあとデイジー・バンティングはだんだんと気がついてきた。この大きな部屋を影ひとつなく光で満たしている最初の大窓のすぐ下に棚があって、そこには実物大の白い石膏の頭が一列に並んでいるのだ。どれもかすかに右に傾いている。それが十二個ほどあり、ひどく眼を剥き、無力感の漂う、異様な、生々しい表情を見せているのだ。

 「いったいこれは何だね?」バンティングが低い声で尋ねた。

 デイジーは心持ち父親の腕に身を引き寄せた。彼女にもこの奇怪な、痛ましい、眼を剥いた顔がデスマスクであることが分かったのだ。殺人者は死をもってその罪を贖うべしという、恐るべき法の命令に従った男女のデスマスクだ。

 「みんな絞首刑になった連中です!」と黒博物館の管理者は言った。「死んだあとで型を取ったんです」

 バンティングは神経質にほほえんだ。「なんだか死んでるようには見えないね。聞き耳を立てているみたいだ」

 「ジャック・ケッチ(註 十七世紀の悪名高い死刑執行人)のせいですよ」と男はおどけて言った。「あいつの思いつきでね——患者のネクタイを左耳の下で結ぶんです!たった一回だけお仕えする紳士には、誰彼かまわずそうしてあげるんです。すると顔が少し片方に傾くんです。ここ、見えます——?」

 デイジーと父親は少しだけ近寄った。話し手はそれぞれの首の左側にある小さなへこみを指さした。へこんだ部分からぐるりと奇妙な浅い筋が走っている。その上端にははっきりとした畝の模様が浮きあがり、絞首刑執行人のネクタイが永遠の門を急いで通り抜ける着用者の首を、どれほどかたく引き締めたかが分かるのだった。

 「間抜けに見えるね。恐怖とか——苦痛を感じているというより」バンティングは驚いたように言った。

 彼はこの物言わぬ、眼を剥いた顔に、ひとかたならず胸を打たれ、心をひきつけられた。

 しかしチャンドラー青年は陽気な平然とした声で言った。「まあね。こんなとき、人間は馬鹿みたいな顔になるものですよ。計画はみんな水の泡、しかも生きられるのはあと一秒ってわけですからね」

 「ああ、そうだろうね」バンティングはゆっくりとそう言った。

 デイジーは顔が少し青ざめていた。この場所の不吉でよどんだ空気に圧倒されかけていた。そばのガラスケースに収められたみすぼらしい小物は、いずれもが一連の証拠を構成した鎖の一つ一つであり、ほとんどすべての事件において、犯罪者である男女を死刑台送りにした物品なのである。

 「先日、皮膚の黄色い紳士がいらっしゃったんですよ」管理人は急に話し出した。「バラモンとかいうものの一人だそうです。いやあ、異教徒の考え方には実に驚かされます!彼はこう言ったんです——何て言葉だったけな、彼が使ったのは」彼はチャンドラーのほうを見た。

 「ここにあるものは、石膏の型を除いて——不思議なことに、石膏の型だけ別なんだそうです——悪を浸出させている、と言ったんです。そう、『浸出』って言葉を使っていました。なかから染み出すってことですよ。ここにいると気分が悪くなると言いましてね。まあ、それが嘘じゃないんです。黄色い皮膚の下が完全な緑色になっちゃって、ぼくらは急いで彼を外に出したんです。廊下のむこう端に行くまで回復しなかったんですよ!」

 「へえっ。そいつは妙な話だな」とバンティングが言った。「その男、きっと良心にやましいものがあったんじゃないかね」

 「じゃ、ぼくは行くよ」とジョーの気さくな友人が言った。「君が案内したらいい、チャンドラー。ぼくと同じくらいこの場所のことは詳しいものな」

 彼はジョーが連れてきた訪問者たちに別れの挨拶代わりの笑顔をむけた。しかし結局、彼は離れることができないらしい。

 「そうだ」と彼はバンティングに言った。「この小さなケースにはチャールズ・ピース(註 十九世紀英国の強盗殺人犯)の使った道具が入っているんです。やつの名前は聞いたことがあるでしょう?」

 「あるとも!」バンティングは勢い込んで言った。

 「大勢のお客さんが、このケースがいちばん興味深いって考えています。ピースはすばらしい男でしたからね!まちがった道を歩かなかったら、偉大な発明家になっていたかもしれないって言われてます。ほら、これがやつの梯子です。たたむとすごく小さくなって、あの当時のロンドンなら誰でも運んでいそうな古い木ぎれの束みたいになるんです。これなら人目をひきません。たぶん、これを持っているおかげで、なんども真面目な労働者に見まちがわれたんでしょう。逮捕されたとき、この梯子はいつだっておおっぴらに抱えて歩いていた、と真剣な顔つきで言ったそうですから」

 「ずぶとい野郎だ!」とバンティングが叫んだ。

 「ええ。この梯子は伸ばすと地面から三階まで届くんです。どんなに古いお屋敷でもね。そうそう!やつは実に利口な男でしたよ!節になってるところをひとつ開くと、ほかの節も自動的に全部開くんです。だからピースは地面に立ったままこいつを狙った窓まで静かに伸ばすことができたんですよ。で、仕事が終ったら、ただの古い木ぎれの束を小脇に抱え、また立ち去るってわけです!いや、悪賢いですね!ピースが指を一本なくしたときの話は知っていますか。指の一本ない男を探せ、という指令が警官のあいだに行き渡っているだろうと考えた彼はどうしたと思います?」

 「義指をはめたんだろう」とバンティングは言った。

 「ちがうんです!ピースは手をなくすことにしたんです。ほら、これが手のない義腕です。木でできているんですけど——木と黒のフェルトかな?うまい具合に手が収まるようにできていましてね。これはうちの博物館のなかでもいちばん巧妙に作られた発明品のひとつだと思います」

 一方、デイジーはとっくに父親の腕を放していた。喜び勇むチャンドラーに付き添われながら、彼女は大きな部屋の反対端に移動し、今は別のガラスケースの上に身を乗り出していた。「この小瓶はいったい何に使うの?」彼女は不思議そうに訊いた。

 五つの小型のガラス瓶に、それぞれいろいろな分量の濁った液体が入っている。

 「これには毒が詰まってるんです、ミス・デイジー。あんな少量のブランデーのなかにあなたとぼくを殺してしまえるくらいのヒ素が含まれているんです——ついでにお父さんだって殺せるでしょう」

 「それなら薬剤師はそんなもの売っちゃいけないと思うわ」デイジーは笑いながら言った。毒と縁のない彼女は、これらの小瓶を見てもただわくわくするだけだった。

 「もう売ってませんよ。これははえ取り紙から集めたものなんです。犯人の女は色を白くするための化粧品がほしかったと言ったんですが、でも本当にほしかったのは夫を殺すためのはえ取り紙だったんです。ちょっぴり旦那にあきちゃったんでしょう」

 「きっとひどい男で、殺されても当然だったのよ」とデイジーが言った。その思いつきがあまりに滑稽だったので、二人は声を合わせて大笑いした。

 「ミセス・パースって人の犯罪については聞いたことがありますか」チャンドラーは急に真顔になって訊いた。

 「ええ、知っているわ」デイジーは軽く身震いした。「かわいい赤ちゃんとそのお母さんを殺した卑劣な女よね。彼女の像がマダム・タッソーの蝋人形館にあるわ。でもエレンがあそこの恐怖の部屋に行かせてくれないの。この前ロンドンに来たときも、お父さんにあそこに行くのはだめって言ったのよ。なんて冷たい人だろうと思ったんだけど、でもなんだか今は前ほど行きたくなくなったわ。ここに来たから!」

 「実はね」とチャンドラーがおもむろに言った。「ここにはミセス・パースの遺品がいっぱい詰まったケースがあるんです。もっとも死体が発見された乳母車、あれはマダム・タッソーのところだそうです——少なくともむこうはあると言ってるけど。でもあれと同じくらい興味深くて、それほど恐ろしくないものがあるんです。あそこに男物のジャケットがあるでしょう?」

 「ええ」デイジーはたじろいだように言った。次第に重苦しい、薄気味悪い気分になってきたのだ。インド人がおかしくなったのも当たり前のように思えてきた。

 「強盗が邪魔になった男を撃ち殺し、うっかりあのジャケットを忘れていったんです。警察はボタンのひとつが半分に欠けていることに気づきました。そんなもの、たいした手がかりにならないと思うでしょう、ミス・デイジー。でも、あそこにあるもう半分が見つかって、それで犯人を絞首刑送りにできたんですよ。信じられます?三つあるボタンがみんなちがっていたんだから、ますますすごいことですよ!」

 デイジーは犯人を絞首刑にしたという小さなボタンの片割れを驚いたように見つめた。「じゃ、あれはなに?」彼女は汚い布きれを指さした。

 「いやあ」チャンドラーはしゃべりたくなさそうだった。「あれは忌まわしい品ですよ、本当に。女といっしょに埋められていたシャツの切れ端です——その、地面に埋められていたんですよ——亭主に死体をばらばらにされ、焼かれたあとに。あのシャツの切れ端のおかげで亭主を死刑にすることができたんです」

 「なんておぞましい場所なのかしら、この博物館!」デイジーはすねたようにそう言って横をむいた。

 彼女はまた廊下に出て行きたかった。この明るく照らされた、気持ちのよい、不吉な部屋を離れたかった。

 しかし父親のほうはさまざまな時限爆弾を収めたケースに夢中になっていた。「このいくつかはすばらしい芸術品ですよ」と案内役が熱をこめて言い、バンティングも同意せざるを得なかった。

 「行きましょうよ——ねえ、お父さん!」デイジーは早口に言った。「もう充分見たわ。これ以上ここにいたら恐くて鳥肌が立って来ちゃう。今晩、悪い夢なんか見たくないわ。世のなかにこんなにたくさん悪者がいるなんて、考えただけでもぞっとする。わたしたち、それとは知らずにいつ殺人鬼に出会うかもしれないってことじゃない?」

 「あなたは大丈夫ですよ、ミス・デイジー」チャンドラーがにっこりしながら言った。「けちなペテン師にだって会うことはないと思います。まして殺人犯なんか。百万に一つもそんな可能性はありません。だって、ぼくだってまともな殺人事件に関わったことがないんですから!」

 しかしバンティングは急がなかった。そこにいる一瞬一瞬を心ゆくまで楽しんでいた。そのときは黒博物館の壁にかかるいろいろな写真をじっくり見ていたところだった。とりわけ彼を喜ばせたのは、先ごろ世間を大いに騒がせ、いまだに謎が残っているスコットランドの事件に関係したものだ。しかも死亡した男の召使いが重要な役割を——事件の解明にではなく、謎を深めるという意味で——果したのだった。

 「殺人犯で捕まらないのも多いんだろうね」と彼はもの思いに耽るように言った。

 ジョー・チャンドラーの友人は頷いた。「でしょうね!」と彼は大声で言った。「イギリスに正義なんてものはありません。いつも殺人犯に有利なんです。まともに裁きが下るのは——つまり絞首台に行くのは——十人に一人もいないでしょう」

 「今起きている事件をどう思うかね。例の復讐者の殺人事件だが」

 バンティングは声をひそめた。しかしデイジーとチャンドラーはすでにドアのほうへ行きかけていた。

 「捕まることはないと思いますよ」相手はこっそりと答えた。「これは、ある意味、狂人をとっつかまえるようなものですからね、普通の犯罪者を捜し出すっていうんじゃなくて。もちろん——少なくともぼくの考えでは——復讐者は狂人ですよ。狡賢い、おとなしいタイプの。手紙のことは聞きました?」急に彼は声を落とした。

 「いいや」バンティングは真剣な眼で彼を見た。「何の手紙だね?」

 「手紙が来たんですよ——いつかこの博物館に収められるでしょうけど——二人いっぺんに殺した事件の直前に来たんです。『復讐者』って署名がありました。やつがいつも残していく紙片の文字と同じ活字体で。まあ、必ずしも復讐者本人がここに手紙を送ったとは言えないんだけど、その可能性は相当高いですよ。ボスはものすごく重要視しています」

 「投函された場所はどこだい?」とバンティングが訊いた。「ちょっとした手がかりになるかもしれないじゃないか」

 「いいえ、ぜんぜん」と相手は言った。「郵便物を出すときはうんと遠くまで出かけますからね——犯罪者ってのは。当然ですよ。しかし今言ったやつはエッジウエア通りの郵便局から出されてます」

 「何だと?うちの近くじゃないか」とバンティングが言った。「何てこった!気味が悪いな!」

 「われわれはいつ犯人と出くわすか分かりません。復讐者は、見かけは普通の人と変わらないと思うな。というか、普通だってことを知っていますけど」

 「じゃ、あいつを見たという女の言うことを信じるのかね?」バンティングはためらうように訊いた。

 「警察の手配書は彼女の証言をもとに作られました」と相手は用心深く答えた。「でも、分かりませんよ!こういう事件は手探りで——終始暗闇のなかを手探りするように捜査を進めなきゃなりませんからね——あれが最終的に正しかったと分かったとしても、それはただの幸運な偶然です。もちろん、事件のおかげで警察はてんやわんや。それはまちがいない!」

 「そりゃそうだろうね」とバンティングはすぐに言った。「実際、先月はあの事件のこと以外、何も考えられなかった」

 デイジーはもう姿がなかった。父親が廊下で彼女と合流したとき、彼女はうつむいてジョー・チャンドラーの言うことを聞いていた。

 彼は自分の実家のこと、母が住んでいるリッチモンドの家のことを話していた。小さな素敵な家で、公園の近くにあるのだ、と。彼は、いつか午後にでもそこに行くことはできないだろうか、と彼女を誘っていた。母親がお茶を出してくれるし、きっと楽しいだろうと訴えた。

 「エレンがどうして行かせてくれないのか分からないわ」と娘は反抗的に言った。「でも頭が古くて、小うるさいタイプだから、エレンは——ほんと、気むずかしいんだから!それにね、ミスタ・チャンドラー、あの家に泊まっているときは、お父さんもエレンが認めないことはわたしにさせようとしないの。でも彼女はあなたがずいぶん気に入っているから、もしもあなたが頼んだら——?」彼女は彼を見、彼はよく分かっているというふうに頷いた。

 「任せてください」と彼は自信ありげに言った。「ミセス・バンティングはぼくから説得しますよ。でもミス・デイジー」——彼は赤くなった——「一つ質問があるんですよ——気を悪くしないでほしいんですが——」

 「なに?」デイジーは小さく胸が弾んだ。「お父さんがこっちに来るわ、ミスタ・チャンドラー。早く言って。なに?」

 「今おっしゃったことですけど、誰ともお付き合いはしてないと取ってもいいんですね」

 デイジーは一瞬とまどった。それからその頬にずいぶんと可愛らしいえくぼを浮かべた。「そうよ」と彼女は悲しげに言った。「そうよ、ミスタ・チャンドラー。付き合ってる人はいない」彼女は思いきって正直に付け加えた。「出会いのチャンスがなかったのよ!」

 ジョー・チャンドラーはひどく嬉しそうにほほえんだ。