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下宿人

Chapter 17: 第十一章
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About This Book

生活が傾いた下宿を営む夫婦が、近隣で続発する残忍な連続殺人の噂に包まれる中、上階にやって来た謎めいた下宿人をめぐって葛藤と不安に巻き込まれる。新聞や町の呼び声は犯人を復讐者と呼び、夫妻と周囲の人々は疑念と好奇心に駆られる。妻は同情と保護欲から下宿人に心を寄せ、夫は誇りと生活の危機の間で揺れる。物語は家庭の体面、恐怖の蔓延、道徳的決断と心理的緊張を静かに描き出す。

第十章

 これこそ願ってもない幸運だった。夫とデイジーがチャンドラー青年といっしょに出かけているあいだ、ミセス・バンティングはほぼ一時間近くも一人で家にいることができたのだから。

 ミスタ・スルースは昼間はほとんど外出しないのだが、この日の午後はお茶をすませて薄暗くなってきた頃に、急に新しい服が一そろいほしいと言いだした。女主人は買い物に出ると聞いて熱心に頷いた。

 彼が家を出るや、彼女は急いで客間の階にあがっていった。二つの部屋を徹底的に掃除する機会がついにやってきたのだ。しかしミセス・バンティングが心の奥底でよく理解していたように、彼女がしたいと思っていたのはミスタ・スルースの客間の掃除というより——はっきり何とは自分でも分からないのだけれど——漠然とした捜し物だったのである。

 使用人として働いていたとき、彼女の同僚は家族の秘密を嗅ぎ出そうという、曖昧ではなくはっきりした目的を持って、雇い主の個人的な手紙を盗み読みしたり、こっそり机の引き出しや棚のなかを覗いたものだ。それに対して、ミセス・バンティングは、言葉にこそしなかったものの、いつも深い軽蔑の念を抱いていた。

 しかし今、彼女はかつて他人がするのを見て卑しんでいた行為を、ミスタ・スルースに対して自ら行おうと心を決め、勇み立っていたのである。

 寝室を手はじめに、組織的な捜索が開始された。下宿人は非常に几帳面な紳士で、下着などの数少ない所持品は整然と片づけられていた。彼女は下宿人のごくわずかな洗濯物を自分やバンティングのものといっしょに洗うことにしていた。下宿人もこの手はずには大いに満足だった。幸いなことに彼が着ているシャツはソフト・シャツだった。

以前、ミセス・バンティングは毎週行うこの面倒な仕事のために女を一人雇っていたのだが、最近では自分でもすっかり要領をのみこみ、洗濯屋に任せるのはバンティングのシャツだけ。そのほかのものはすべて彼女が一人で洗った。

 彼女は整理ダンスから化粧台に注意を移した。

 ミスタ・スルースは外出するときお金を持ち歩かない。たいてい古い姿見の下の引き出しに置いていくのである。女主人は何気なくその小さな引き出しを開けてみた。しかしそこにあるものに手を触れようとはしなかった。ただソブリン金貨と何枚かの銀貨の山をちらりと見た。下宿人は服を買うのに必要なお金を持ち出しただけらしい。彼は彼女に服がいくらするのか尋ね、外出の理由を秘密にしようとしなかった。それが何となくミセス・バンティングを安堵させたのだった。

 彼女は化粧台掛けを持ちあげ、カーペットも少し捲いて下を調べたが、紙切れ一枚見つからなかった。連絡ドアを開け放ち、二つの部屋を行ったり来たりしながら、とうとう捜索をあきらめようと思いはじめたとき、彼女は下宿人の過去の生活を不安とともにあれこれ思い出した。

 ミスタ・スルースは確かに変わり者である。しかし変わっているといっても、良識を逸脱することはない。その振る舞いは、だいたいにおいて、彼が属する階級のほかの人々と同じ道徳的理念に基づいている。彼は飲酒に対しては異常な反応を示す。そのことに関しては気も狂わんばかりになると言っていい。しかしそれは彼一人に限った話ではない!エレン・バンティングは酒や酔っぱらいの話となると、ちょうど彼のように、異常な態度を取る貴婦人と生活したことがある。彼女はこぎれいな客間をなんとなく不満そうに見渡した。何かが隠されているとしたら、残っている場所は一つしかない。それは小さくても、重量感のあるマホガニー製の飾り棚だった。そのとき、今まで一度も浮んだことのなかった考えがミセス・バンティングの頭に突然浮んだ。

 ミスタ・スルースが思ったよりも早く戻りはしないかと、ひとしきり耳をすませたあと、彼女は飾り棚のある隅へゆき、さしてあるわけでもない力を細腕に込め、重いこの家具を前に傾けたのである。

 すると奇妙なガサガサという音が聞こえた。何かが二番目の棚のなかを転がっているのだ。ミスタ・スルースの到着前にはなかったはずの何かが。ゆっくりと時間をかけて、彼女は飾り棚を前へ後へと傾けた。一回、二回、三回。彼女は満足と同時に不思議な困惑を感じた。消えてなくなり彼女を驚かせたあの鞄が所有者によってしっかり鍵を掛けられ、そこにしまいこまれていることはまちがいない。

 ひどく具合の悪い考えがふとミセス・バンティングの心に浮んだ。彼女は鞄が棚のなかで動いたことをミスタ・スルースに感づかれたくはないと思った。しかし次の瞬間、ミスタ・スルースの女主人はがっくり肩を落とした。飾り棚を動かしたことは下宿人にばれてしまうにちがいない。何か黒っぽい色の液体が細い筋となって小さな棚の扉の下から流れ出していたからである。

 彼女は身体を屈めてその液体に触ってみた。指についたそれは真っ赤な色をしていた。

 ミセス・バンティングの顔面は蒼白になり、そしてすぐにもとに戻った。実際、あっという間に顔に赤みがさし、身体じゅうが熱くなったのである。

 赤インクの瓶をひっくり返しただけ——何のことはない!それ以外のものであるわけがないのに、わたしったら何を考えていたのだろう。

 まったく迂闊な話だ——彼女は自分をあざけり、非難するようにこう思った——下宿人が赤インクを使っていることを自分は知っていたではないか。クルーデンのコンコーダンスは、ページによってはミスタ・スルース独特の真っ直ぐな字で埋め尽くされていた。びっしり感想や疑問のメモが書き込まれ、余白がまったくなくなっているところもあったのだ。

 ミスタ・スルースは何も考えずに赤インクの瓶を飾り棚のなかにしまったのだろう。それが彼女の可哀相な、愚かしい紳士がしたことなのだ。そして彼女の物好きな詮索のせいで——彼女が知ったところで毒にも薬にもならぬことを何とか知りたいと思ったせいで、こんな事故が起きてしまった。

 彼女はぞうきんで緑の絨毯の上に落ちた数滴のインクを拭き取った。われながら救いがたいうろたえようだと、怒ったように心のなかで思いながら、彼女はもう一度裏手の部屋へ入っていった。

 ミスタ・スルースが便箋を持っていないのはおかしなことだった。最初に買うものの一つだろうと彼女は思っていたのだ。紙は非常に安いのだからなおさらである。とりわけやや汚く見える例のシルリアン・グレーの紙は安い。ミセス・バンティングがかつていっしょに暮らしていたとある婦人はいつも二種類の便箋を使っていた。友人や同等の地位の人には白い紙を、彼女が「一般人」と呼んでいた人々には灰色の紙を使っていた。当時まだエレン・グリーンであった彼女はそのことにいつも憤慨していた。どうしてなのだろう、あんなことを今になって思い出すなんて。あのときお仕えしていた女性は本物の貴婦人ではなかったけれど、ミスタ・スルースは、奇癖の持ち主とはいえ、掛け値なしに本物の紳士なのだから、ますますわけが分からない。彼が便箋を買うなら安い灰色のものではなく、白地のものを買うだろう——白くて、おそらくクリーム色の簀の目の入った紙を買うだろう、とミセス・バンティングはなぜか確信していた。

 彼女はもう一度古いタンスの引き出しを開け、ミスタ・スルースの肌着を何枚か持ちあげてみた。

 しかし何もなかった——隠されているものは何もない。考えてみればおかしなことだ。有り金は誰でも手の届くところに置いていくのに、安いにせの革鞄とか、さらにはインクの瓶みたいな無価値なものを鍵を掛けてしまいこむのだから。

 ミセス・バンティングは姿見の下の小さな引き出しを一つ一つもう一度開けてみた。そのどれもが立派な古いマホガニーを用いて美しく仕あげられていた。ミスタ・スルースは真ん中の引き出しにお金を入れていた。

 鏡はたったの七シリング六ペンスしかかからなかった。しかもオークションのあとである業者が譲ってもらえないだろうかと、最初は十五シリング、次に一ギニーを提示したのだった。先ごろベーカー通りでこれとまったく同じ鏡を見たが、そのラベルには「チッペンデール。骨董品。二十一ポンド五シリング」と書いてあった。

 そこにミスタ・スルースのお金があった。女主人がよく知っているように、そのソブリン金貨は次第次第に彼女とバンティングのものになっていく。もちろんまっとうな稼ぎだ。しかしこの鈍く輝くソブリン金貨の現在の持ち主に出会わなければ決して手に入れられない——いや、稼ぐことのできない——金だった。

 ようやく彼女は下に降り、ミスタ・スルースの帰りを待った。

 玄関から鍵の音が聞こえたとき、彼女は廊下に出てきた。

 「申し訳ございません、旦那様、不始末をしでかしてしまいまして」彼女は緊張して少し息が乱れた。「お出かけになっているあいだに客間にあがってお掃除をしたのでございますが、飾り棚のうしろに手を伸ばしたとき、棚が傾いてしまいまして。なかに入っていたインク瓶が割れてしまったかもしれません。ほんの数滴ですが、インクがこぼれてきたんでございます。たいしたことがなければいいのですが。飾り棚に鍵がかかっていましたので、外側だけ、できるだけきれいに拭いておきました」

 ミスタ・スルースは愕然とした、ほとんど怯えたような目つきで彼女を見つめた。しかしミセス・バンティングはうろたえなかった。彼が帰ってくるまえと比べると、はるかに落ち着きを取りもどしていた。帰ってくるまえは、あまりの怖さに家を出て、通りで相談する相手を探そうと思ったくらいだった。

 「あのなかにインク瓶を入れていらっしゃるとは思いも寄りませんでしたので」

 彼女は弁解するようにしゃべった。下宿人の表情が明るくなった。

 「旦那様がインクをお使いになることは存じておりました」とミセス・バンティングは話しつづけた。「お持ちの本に書き込みをなさっているのを見たことがございます——その、聖書といっしょにお読みになっている本でございますが。かわりの瓶を一つ買ってまいりましょうか、旦那様」

 「とんでもない」とミスタ・スルースは言った。「ありがとう。でも結構ですよ。すぐに上に行って様子を見てきましょう。用があるときは呼び鈴を鳴らします」

 彼はぎこちなく彼女の脇を通り抜けた。五分後に客間の呼び鈴が鳴った。

 ドアのところから、扉を大きく開けた飾り棚がミセス・バンティングの目に飛びこんできた。棚のなかは空っぽで、下の棚にインク瓶が赤い水たまりのなかに転がっているだけだった。

 「木に染みが残ってしまいますね、ミセス・バンティング。あそこにインクを入れておくべきではなかった」

 「そんなことございませんわ、旦那様!お気になさらないで。一二滴絨毯に落ちたんですけど、隅の暗がりですから特に目立ちません。瓶を片づけましょうか。そのほうがよろしいですわね」

 ミスタ・スルースはためらった。「いいえ」と彼は長い間を置いて答えた。「片づけなくてもいいですよ、ミセス・バンティング。ほんのちょっとあればいいんです。瓶に残っているインクだけで充分。少し水を加えればいいでしょう。お茶を加えればもっといいんだけれど。聖書のなかで特に興味をひいた一節はコンコーダンスに印をつけておくんです。インクはそれに使うだけですからね。コンコーダンスというのは、ミセス・バンティング、この、ええと、クルーデンという紳士が作っていなかったらわたしが喜んで編纂していた本ですよ」

******

 その晩のエレンはいつもよりはるかに愛想がよかった。これはバンティングだけではなくデイジーも思ったことだった。彼女は二人が語る興味深い黒博物館の話を最後まで聞き、二人のどちらをも鼻であしらうことがなかった。バンティングが絞首刑者から取った恐ろしい、容易に忘れられない、けれども間の抜けたデスマスクのことを話したときでさえ黙って聞いていたのである。

 しかし数分たって夫が彼女に質問をしたとき、ミセス・バンティングは的外れな答えを返した。彼女が相手の最後の言葉を聞いていなかったことは明らかだった。

 「何を考えているのかな!」と彼はおどけて言った。しかし彼女は頭を振るだけだった。

 デイジーはこっそり部屋を出て、五分後に青と白の格子チェックのシルクガウンを着て戻ってきた。

 「おうや!」と父親が言った。「すてきじゃないか、デイジー。その服ははじめて見たよ」

 「おかしな格好ねえ!」とミセス・バンティングは嫌みな口調で言った。「そんなおめかしをするなんて、誰かを待っているということよね。お二人とも今日は充分チャンドラーに会ったんじゃないの。いったいあの人、いつ仕事をしているのかしら。本当に不思議だわ!忙しいったって、うちに来て一二時間は無駄話する余裕があるみたいなんだから」

 しかしその晩エレンが言った皮肉はそれでおしまいだった。デイジーですらまま母がぼうっとしていて、いつもとはちがうことに気がついた。料理も、彼女がしなければならない細々した仕事も、いつもよりずっと静かにこなしていくのだった。

 しかしその物静かな、ほとんど無愛想といってもいい態度の裏側で、どれほど不安と、暗い苦悩と、病的な緊張が嵐のように激しく吹き荒れていたことだろう。それは彼女の魂を揺さぶり、病弱な身体に襲いかかり、思わず彼女は、単純な日々の仕事さえこなせないのではないかと何度も思ったのだった。

 夕食をすませたあと、バンティングは外に出て一ペニー新聞を買ってきた。しかし戻ってくるとやや沈んだ笑顔を見せた。そしてこの一二週間、小さな活字を読み過ぎて目が痛いと言うのだった。

 「わたしが読んであげるわ、お父さん」とデイジーが意気込んで言った。彼は娘に新聞を渡した。

 デイジーが唇を開こうとした瞬間、大きなベルとノックの音が家じゅうに鳴り響いた。

第十一章

 何のことはない、ジョーが訪ねてきただけだった。なぜかバンティングさえ今では彼のことを「ジョー」と呼んでいた。昔はほとんど「チャンドラー」だったのだけれども。

 ミセス・バンティングは玄関のドアを細めに開けて見た。見知らぬ人間に強引になかに入られたくなかったのだ。

 敏感な被害意識を持つ彼女にとって家は死守しなければならない城砦だった。そう、かりに攻め手が強大で、正義が彼らの側にあるとしても。彼女は大隊の先触れとなる最初の斥候をいつも待ち受けていた。彼らに対する唯一の武器、それは女の知略と狡猾だけであったろう。

 しかし玄関先ににこにこしながら立っている人が誰だか分かると、彼女は顔をほころばせた。夫とまま娘に背を向けたときの、緊張した、不安げな、ほとんど苦悶するような表情は溶けて消えた。

 「あら、ジョー」彼女はささやくように言った。居間のドアを開けっぱなしにしていたからだ。それに、デイジーが父に頼まれ新聞を読んでいた。「さあ、お入りなさい!今晩はかなり冷えるわね」

 彼の顔を一瞥しただけで新しいニュースがないことが分かった。

 ジョー・チャンドラーは彼女の脇を通り、小さな玄関広間に入った。冷える?彼はぜんぜん寒さを感じなかった。一刻でも早くこの家に着くよう急いで歩いて来たのだ。

 あの最後の恐るべき事件、ちょうどデイジーがロンドンに到着した日の早朝に起きた二重殺人以来、九日が過ぎていた。ロンドン警視庁に所属する何千人もの警官——もちろんそれより数の少ない、しかし機敏な刑事たちもそこには含まれる——が厳戒態勢をしいていたが、しかし誰もが徒労感に襲われはじめていた。人間は恐怖にすら慣れ、油断を生じるものなのだ。

 だが一般大衆はそれどころではなかった。この奇怪な、謎めいた連続犯罪は恐怖と興味の入り混じった感情をかきたて、それは毎日何らかの出来事によってよみがえらせられ、いつまでも持続させられていた。穏健派の新聞でさえますます厳しく、ますます憤りをこめて、警視総監を攻撃した。二日前にヴィクトリア・パークで開催された大抗議大会では、内務大臣に対してすら激しい非難が向けられたのだった。

 しかし今ジョー・チャンドラーはそのすべてを忘れてしまいたかった。メリルボーン通りの小さな家は彼にとって夢のなかの魔法の島であり、つまらなくて退屈な仕事の最中も、暇さえあれば思いを馳せる場所だった。彼の同僚は二重殺人が行われてから二十四時間もたたないうちに「ちぇっ、この男を捕まえるより麦わらの山のなかから針を探すほうが簡単だぜ!」と叫んだが、彼も心のなかでは、まったくだと思っていた。

 同僚の言葉が、あのとき事実を言い当てていたとしたら、今は——九日という長い、むなしい日々が過ぎ去った今は、どれほどもっと事実を言い当てているだろう。

 彼は手早く外套とマフラーとロー・ハットを脱いだ。それから唇に指を当てて、笑みを浮かべながらミセス・バンティングに、ちょっと待って、という仕草をした。玄関広間のその位置から見ると、父と娘の姿は、楽しく満ち足りた家族団欒のささやかな一場面を形作っているのだった。その光景を見て実直なジョー・チャンドラーは胸がいっぱいになってしまった。

 まま母と言い合いになった、青と白のチェック柄のシルクドレスを着たデイジーは、煖炉の左側の低い背なし椅子に座っている。一方、バンティングは自分の快適な肘掛け椅子にもたれて、耳に手を当て聞き入っている。その姿勢は——ミセス・バンティングはそれをはじめて目にし、どきりとしたのだが——聞き手に老いのせまりはじめていることを示していた。

 大叔母の付き添いとしてデイジーがなすべき義務のひとつは新聞を読みあげることだった。彼女は自分には才能があると思って自慢していた。

 ジョーが唇に指を当てたとき、デイジーは「この記事を読みましょうか、お父さん」と言ったところだった。バンティングはすぐに「ああ、頼むよ」と答えた。

 彼は朗読に夢中になって聞き入り、ドアのところにジョーの姿を見いだしても軽く頷いただけだった。青年はしょっちゅう家に来ているから、ほとんどその一員といってもよかった。

 デイジーが読みあげた。

 「復讐者に関する——」

 そこで彼女は詰まってしまった。次の一語の読み方が分からなかったのである。しかし彼女は勇ましく読みつづけた。「し——け——ん」。

 「入りなさいよ、さあ!」ミセス・バンティングは訪問者にささやいた。「こんな寒いところで何をしているの?おかしな人ねえ」

 「ミス・デイジーの朗読をじゃましたくないんです」とチャンドラーはややしわがれた声でささやき返した。

 「部屋に入ったほうがよく聞こえるじゃない。あなたが来たからって止めやしないわ。恥ずかしがるような玉じゃないんだから」

 青年はそのぶっきらぼうで、辛辣な口調に憤りを感じた。「かわいそうになあ、あの娘は!」と彼は優しく心のなかで思った。「本当のおふくろじゃなくて、まま母を持つってのは、こういうことなのか」しかし彼はミセス・バンティングの言葉に従い、次の瞬間には、従ってよかったと思った。デイジーが目をあげ、その愛らしい顔をぱっとバラ色に染めたからである。

 「ジョーは朗読を止めないでほしいんですって。さ、つづけなさい」とミセス・バンティングは早口に命令した。「ジョー、むこうに座りなさいな、デイジーのそばに。一語だって聞き漏らさないようにね」

 彼女の声には皮肉な響きがあって、チャンドラーでさえそれに気がついたが、しかし彼はいそいそと部屋のむこうに行ってデイジーのすぐうしろの椅子に座った。そこからは彼女のほっそりしたうなじが見えた。金色の髪が上にむかって生えているのを見ると、彼は敬虔な喜びを感じた。

 「復讐者に関するし——け——ん」

とデイジーは咳払いしてからふたたび読みはじめた。

 「編集者殿——ここに差し出しますのは、わたしの考えるところ、きわめて重大な提言であります。復讐者は——犯人がそう呼ばれることを望んでいるようなので、この呼称を使いますが——おそらくミスタ・ルイス・スティーブンソンの有名な登場人物、ジキルとハイドのごとき個性を持っている人間ではないかと推察されます。

 思いますに、犯人は落ち着いた、人当たりのよい、ウエスト・エンドのどこかに住む紳士ではないでしょうか。しかしながら彼は過去に悲劇を経験しています。彼にはアルコール中毒の妻があるのです。彼女はもちろん施設で保護されているのですが、家のなかでその名が口にのぼることはありません。おそらく彼は未亡人の母と暮らしているのでしょう。もしかしたら未婚の妹もいるかもしれません。彼らは彼が最近ふさぎこみ、物思いに沈むようになったことに気づいています。しかし彼はいつも通り、あたりさわりのない趣味に興じて毎日を過ごしている。霧の夜、彼はこっそり家を抜け出します。たぶん一時と二時のあいだぐらいでしょう。そして足早に復讐者が殺人を犯すあたりへとまっすぐにむかう。手頃な犠牲者を選び出すと、ユダのようなもの柔らかな態度で彼女に近づき、恐るべき犯行のあとは、こっそりとまた家に帰るのです。ゆっくり風呂につかり、朝食をしたためたあと、彼は幸せそうな顔であらわれる。ふたたび物静かな紳士、孝行息子、親切な兄、大勢の知人や友人に尊敬され、あまつさえ愛されもする人間になるのです。その一方で警察はいつも通り犯罪的異常者をとっつかまえようと悲劇の現場を捜索しつづけている。

 この私見がどれだけ核心を突いているかは分かりません。しかし警察がその調査範囲を、殺人が実際に行われたロンドンの特定地域に限定しているのは、あきれたことと言わざるをえません。たしかにすべての情報が新聞各社に流されているわけではないでしょう。そのことは忘れるべきではありませんが、しかし今まで分かったことから判断するに、復讐者を捕らえるにはイースト・エンドではなくウエスト・エンドをこそ捜索しなければならないと愚考します。

恐々謹言——」

 そこでデイジーはまたつっかえた。そして読みにくそうに「ガブ——リ——ヨウ」と次の語を発音した。

 「おかしな名前だね!」とバンティングはびっくりしたように言った。

 ジョーが口をはさんだ。「それは探偵小説を書いているフランス人の名前です」と彼は言った。「なかにはすごくいい作品もあるんですよ」

 「じゃ、このガブリヨウってのはイギリスまで来て、復讐者の殺人事件を研究しているのかい?」

 「いや、そうじゃないでしょう」ジョーは自信ありげに言った。「そのくだらない手紙を書いた人が冗談にそんな署名をしただけですよ」

 「実際、くだらない手紙だわ」ミセス・バンティングが腹を立てて割り込んできた。「格式のある新聞がそんなでたらめを載せるなんて」

 「でも復讐者が本当に紳士だったとしたらどうかしら!」とデイジーがぞっとしたように叫んだ。「テンシがひっくり返るような大騒ぎになるわね!」

 「その意見はまんざら捨てたもんじゃないかもしれん」と父親が考え込みながら言った。「なにしろ怪物はどこかにいるにちがいないんだから。この瞬間も、やつはどこかに隠れているにちがいないんだ」

 「そりゃどっかにいるでしょうよ」とミセス・バンティングは嘲笑するように言った。

 ちょうどそのとき、彼女はミスタ・スルースが頭の上で動き回る音を聞いたのだった。もうすぐ下宿人の夕食の時間だ。

 彼女は急いで言った。「でも、わたしの言いたいのは、つ、つまり、犯人はウエスト・エンドとは何の関係もないってこと。だって、犯人は波止場の船乗りだって言うじゃない。そのほうが可能性が高いと思うわ。ああ、でも、こんな話、もうたくさん!この家で話すことは、そればっかり。何かにつけ復讐者、復讐者——」

 「ジョーが新しいニュースを持ってきてくれたんじゃないかな」とバンティングが陽気に言った。「どうなんだい、ジョー、新展開はないのかね」

 「お父さん、これを聞いて!」デイジーが興奮したように言葉をはさんだ。彼女は読みあげた。

 「ブラッドハウンドの利用を検討中」

 「ブラッドハウンド?」ミセス・バンティングが鸚鵡返しに言った。声が怯えていた。「どうしてブラッドハウンドなんかを。よくもそんな恐ろしいこと!」

 バンティングは軽く驚いたように彼女を見た。「どうしてだい。すごくいいアイデアじゃないか。町中にブラッドハウンドを放せるならね。しかし無理だろうなあ。ロンドンには肉屋がいっぱいあるもの。屠殺場なんかは言うにおよばず」

 しかしデイジーは読みつづけた。縮みあがるまま母の耳には彼女の溌剌とした若い声が、喜びというか、悪意に満ちた満足に、恐ろしくも打ち震えているように感じられた。

 「これを聞いて」と彼女は言った。

 「ブラックバーン近郊の寂しい森で起きた殺人事件ではブラッドハウンドが犯人の足取りを追跡、その明敏な本能のおかげで悪党はついに有罪・死刑に処せられた」

 「ほほう!誰がそんなことを考えついたのかなあ」とバンティングは感心して大声をあげた。「新聞てのも、ときには役に立つことを書くじゃないか、ジョー」

 しかしチャンドラー青年は頭を横に振った。「ブラッドハウンドなんて何の役にも立ちません」と彼は言った。「ぜんぜんだめですよ。警視庁がこれまで寄せられた提案にいちいち耳を傾けていたら——僕らの仕事は膨大なものになっちまいます——今だって膨大なんですがね!」彼は元気なくため息をついた。やけに疲れたような気分になりはじめていた。楽しくて居心地のいいこの部屋にずっと腰を落ち着け、デイジー・バンティングの朗読をいつまでも聞いていられたなら、どんなにすばらしいだろう!しかしもうすぐ外の寒くて霧深い夜のなかへ出ていかなければならないのだ。

 ジョー・チャンドラーは新しい仕事が急にいやでたまらなくなりはじめていた。不愉快なことがたくさん付随しているのだ。彼が住んでいる家でも、いつも行く食堂でも、まわりの人々は警察の怠慢を彼にむかってなじるのである。それだけではない。弁舌のさわやかさゆえに彼がいつも尊敬していた若い友だちは、なんとヴィクトリア・パークの大抗議集会に参加し、ロンドン警視庁だけでなく、内務大臣をも非難する、過激な演説をぶったのだった。

 しかしデイジーは朗読をやめる気などさらさらなかった。自分には才能があると信じこんでいる人にはよくあることだ。

 「別の意見もあるわ!」と彼女は言った。「別の人の手紙よ、お父さん」

 「共犯者は罪に問うべからず。

 編集者殿——この二日ほどのあいだ、わたしはとりわけ聡明な知人たちから次のようなことを示唆されました。すなわち、復讐者は、それが誰であろうと、一定数の人々にその正体を知られているにちがいない、と。生来、どれほどホーロー癖があろうと、このような所業をしておきながら——」

 「ホーローって何かしら」デイジーは読むのを中断し、わずかばかりの聴衆を見回した。

 「いつも言ってるだろう、やつはいたってまともな人間なんだって」バンティングは自信を持ってそう言った。

 デイジーはその説明に満足して先を読み進んだ。

 「……どれほどホーロー癖があろうと、このような所業をしておきながら住むところがないということはありえず、少なくとも一人の人にはその行動が知られているはずであります。さて恐るべき秘密を知るこの人物は明らかに情報を秘匿しています。賞金が出るのを待っているのか、あるいは、もしかすると、事後従犯であるがために、情報提供の結果を恐れているのかもしれません。わたくしが提案したいのは、内務大臣が無条件で刑罰免除を約束することです。わたしがこのことを強く申しあげたいのは、それが犯人を法に照らして処罰する唯一の方法だからです。犯行の現場を取り押さえる以外、犯人を特定することは極めて困難です。なぜなら英国の法律は状況証拠をまったく軽視しているからであります」

 「この手紙はいいことを言ってますよ」ジョーが身を乗り出して言った。

 今や彼はデイジーに触れんばかりに近づいていた。彼の言うことをよく聞こうと、明るい、可愛らしい、小さな顔が彼のほうを振り向いたときは思わずにっこり笑みを浮かべた。

 「どういうこと、ミスタ・チャンドラー?」

 「列車のなかでお年寄りの紳士を殺した男をおぼえていますか。やつはある人にかくまってもらっていたんです。母親の知り合いの女ですよ。ずいぶん長いこと、潜伏を助けていました。でもとうとう彼を警察に突き出しましてね。彼女もたんまり賞金を手に入れたんです」

 「賞金のために誰かを突き出すなんて、とてもできないな」とバンティングがゆっくり、断固たる口調で言った。

 「そんなことありませんよ、ミスタ・バンティング」とチャンドラーは自信たっぷりに言った。「誰もが果たすべき義務を果たすだけなんですから。つまり、その、善良な市民であれば誰でもが果たすべき義務をね。おまけにそれでご褒美がもらえるんです。普通、義務を果たしたってご褒美なんかもらえませんよ」

 「賞金目当てに誰かを警察に突き出すなんて、けちな密告者以下だよ」とバンティングは片意地になって言った。「誰もそんなふうに呼ばれたくはないだろうよ!しかし、ジョー、君の場合はちがう」と彼は急いで言い足した。「悪いことをしたやつを捕らえるのは君の仕事だからな。君のような人間のところへ、かくまってもらいに行くやつは大馬鹿だろうね。ライオンの口のなかに飛び込むようなものだ——」そう言ってバンティングは笑った。

 デイジーがこびるような口調でこう割り込んできた。「わたしは悪いことしても、平気でミスタ・チャンドラーに助けてもらうと思うわ」

 ジョーは目を輝かせて叫んだ。「あなたが悪いことをするなんて!でも悪いことをしても、ぼくは警察に突き出したりしませんから安心してください、ミス・デイジー!」

 そのとき、驚いたことに、テーブルの上に顔をうつむけて座っていたミセス・バンティングが唐突に叫び声をあげた。焦燥と怒り、そしてそれを聞いた者の耳には、苦痛の響きも込められているように思えた。

 「おい、エレン、具合がわるいのかい」バンティングがすぐさま訊いた。

 「ただの痙攣。脇腹に痛みがさしこんで」と哀れな女は苦しそうに答えた。「もう何ともないわ。心配しないで」

 「でも、信じられないなあ、うん、この世に復讐者の正体を知っている人がいるなんて」チャンドラーが早口につづけた。「まあ、他人のことはともかく、自分のことを考えたら、誰だってやつを警察に突き出すのが当然だと思います。誰があんなやつをかくまおうとするんです?いっしょにいたら危険じゃないですか!」

 「あなたの考えじゃ、犯人はあの非道な振る舞いに責任はないということ?」顔をあげたミセス・バンティングは熱心な、不安そうな目でチャンドラーを見つめた。

 「残念に思うでしょうね、絞首刑にしてやれないとしたら!」チャンドラーが落ち着いて言った。「だって、これだけぼくらに迷惑をかけたんですもの!」

 「あいつには絞首刑だってもったいない」とバンティングが言った。

 「責任がないなら絞首刑にするべきじゃないわ」妻が鋭く言った。「そんな残酷な話、聞いたことがない——ひどすぎるわよ!その人が狂っているなら、施設に入れるべきです——そうよ、入院させるのが当然だわ」

 「今度は彼女の意見を拝聴しようか!」バンティングは愉快そうにエレンを見た。「まったく、天の邪鬼なんてもんじゃないな。しかし、妻は最近あの怪物に肩入れしているみたいなんだ。生まれついての絶対禁酒家だからね」

 ミセス・バンティングは椅子から立ちあがった。「何くだらないこと言っているの!」彼女は怒って言った。「でも、ちょっとのあいだでも酒場から女性がいなくなったというのはいいことだわ。イギリスの飲酒はイギリスの恥——その考えは変わりません!さあ、デイジー、立って、立って!その新聞は片付けなさい。もう朗読は十分。わたしが台所に行っているあいだにテーブルクロスを敷いてちょうだい」

 「そうだ、下宿人の夕ごはんを忘れちゃいけないね」とバンティングが言った。「ミスタ・スルースはいつも呼び鈴を鳴らすわけじゃないからな——」そう言って彼はチャンドラーのほうをむいた。「この時間はよく外出しているのさ」

 「そんなにしょっちゅうじゃないわ。たまによ。何か買うものがあるときだけ」ミセス・バンティングがぴしりと言った。「あの方の夕ごはんを忘れたわけじゃないのよ。ただ八時前に食べたがることはないから」

 「わたしが下宿人の夕ごはんを持っていくわ、エレン」デイジーの張り切った声が言った。彼女はまま母の言いつけに従って立ちあがり、今ちょうどテーブルクロスを広げているところだった。

 「とんでもないわ!言ったでしょう、お給仕役はわたしでないといやがるのよ。あなたはこの部屋の支度をいろいろしてちょうだい。手伝ってほしいのはこっちの仕事」

 チャンドラーも立ちあがった。デイジーが忙しそうに立ち働いているとき、どういうものか、ぼうっとしているのはいやだったのである。「そうそう」とテーブル越しにミセス・バンティングを見ながら彼は言った。「お宅の下宿人のことを忘れていました。トラブルもなく順調にいってますか」

 「こんなに物静かで行儀のいい紳士ははじめてだよ」とバンティングが言った。「いや、まったく、ミスタ・スルースのおかげでわれわれにも運がむいてきた」

 妻が部屋を出て、むこうへ行ったことを確かめると、デイジーが大笑いした。「信じられないでしょうけど、ミスタ・チャンドラー、わたし、そのすばらしい下宿人をまだ見たことがないの。エレンが独り占めしているから。ほんとよ!わたしがお父さんだったら、妬いちゃうわ!」

 二人の男は笑った。エレンが?まさか。そんなことは考えただけでも滑稽だった。

第十二章

 「デイジーが行かなくってどうするの。当たり前じゃない。いつも思う通りになるとは限らないのよ——少なくともこの世の中では」

 夫もまま娘も同じ部屋にいたのだが、ミセス・バンティングは特にどちらかにむかって話しているようには見えなかった。彼女はテーブルのそばに立ってまっすぐ前をむき、しゃべっているときはバンティングからもデイジーからも視線をそらしていた。その声にはとげとげしくきっぱりした、か細いけれども有無を言わせぬ調子があった。二人がよく知っている調子だ。この声に対してはどちらの聞き手も他方の聞き手が無力であることを心得ていた。

 しばらく沈黙が訪れ、それからデイジーがいきり立ったようにしゃべりだした。「わたしはいやなの。どうして行かなきゃならないの!」と彼女は叫んだ。「お手伝いもしてきたじゃない、エレン。あなただって調子が悪そうだし」

 「わたしは何ともありません——大きなお世話です!」ミセス・バンティングはぴしりと言い、青ざめた、やつれた顔を怒ったようにまま娘にむけた。

 「あなたやお父さんといっしょにいられる機会は、めったにないのよ」デイジーは涙まじりに言った。バンティングはとがめるように妻を見た。

 デイジーのもとに一通の招待状が届いたのだった。差出人は彼女の死んだ実の母の妹で、ベルグレイブ・スクエアの大きな屋敷で家政婦をしている。屋敷の一家がクリスマス休暇で旅行に出たので、デイジーの名付け親であるマーガレット叔母さんが二三日お屋敷のほうに来てくれないかと姪に言ってよこしてきたのだ。

 しかし娘はベルグレイブ・スクエア百番地の大きくて憂鬱な地下室の生活をすでに一度ならず味わっていた。マーガレット叔母さんは現代的な雇い主がいつもため息をもらすような古風な召使いだった。家族が出かけているあいだ、彼女は嬉々として客間の二つの飾り棚に収められた六十七の貴重な陶磁器を磨いた。彼女はこれを自分の特権と見なしていた。またすべてのベッドに順番に寝て、空気を通し、布団がしけらないようにした。彼女はこの二つの義務を若い姪に手伝ってもらおうと思っていたのだ。デイジーは考えただけでもうんざりした。

 しかしこの一件はすぐに結論を下さなければならない。手紙は一時間前に届いていた。なかには電信切手を貼った電報用紙が入っており、そのうえマーガレット叔母さんはいい加減に扱うことのできない存在だった。

 朝食のときから三人はその話ばかりをしていた。ミセス・バンティングは最初からデイジーを出ていかせるつもりだった。そうするのが当たり前、議論の余地はない、というのである。しかし議論は全員によって行われ、バンティングは今回にかぎり妻に反対意見を述べた。もっとも、当然のことながら、それはエレンの態度をいっそう硬化させ、いっそう意固地なものにしただけだったけれども。

 「子供の言うことが正しいよ」と彼は言った。「おまえは具合がよくないみたいじゃないか。最近、二回も気分が悪くなったんだ——そうだろう、エレン。おれがちょいとバスに乗ってマーガレットに会ってくる。事情を話せば、分かってくれるさ!」

 「そんなことしないでちょうだい!」ミセス・バンティングは先ほどのまま娘とほとんど同じくらいいきり立って言った。「わたしに病気になる権利はないの?ほかの人みたいに、具合が悪くなって、またよくなる権利がないとでも言うの?」

 デイジーは振り返って両手を握り合わせた。「ねえ、エレン!」と彼女は言った。「わたしがいないと困るって言ってちょうだい。古い地下牢みたいな、あんなひどいところに行きたくないわ」

 「好きになさい」とミセス・バンティングはむっつりとして言った。「あなたがた二人にはうんざりする!いつかわたしみたいに分かる日が来るわ、デイジー、この世でいちばん大切なのはお金だってことが。今年のクリスマスをいっしょに過ごさなかったという、それだけのことでマーガレット叔母さんが遺産をほかの人にやってしまったらどうします。そのときは文無しの身分がどんなものか、あなたにも理解できるでしょう。自分がどんなに馬鹿だったか、身に沁みて分かるでしょうよ。もう取り返しがつかないってことが!」

 それを聞いてデイジーはその手に握った勝利が奪いさられるのを感じた。

 「エレンの言うことは正しいよ」バンティングは重々しく言った。「金は大切だ——すごく大切だよ——もっともエレンが『この世でいちばん大切』とまで言うとは思っていなかったけどな。だけど、娘や、マーガレット叔母さんにさからうのは考えものだよ——かなり考えものだと思うよ。何だかんだ言ったって、たった二日のことだもの——二日なんてどうってことないよ」

 しかしデイジーは父親の言葉を最後まで聞くことはなかった。子供じみた失望の涙を隠すため、もうすでに部屋を飛び出し、台所に下りて行ってしまっていたのだ。子供じみた涙があふれてきたのは、彼女が女になりかけていたからである。自分の巣を作ろうとする、女の自然な本能が芽生えはじめていたのだ。

 マーガレット叔母さんは見知らぬ若い男が来たりしたら黙ってるような人ではない。しかも警察をとりわけ毛嫌いしている。

 「あんなにいやがっていたとはね!」バンティングは咎めるようにエレンを見た。不安でもう胸がいっぱいだった。

 「ここが急に好きになるなんて、理由ははっきりしているじゃない」とミセス・バンティングは辛辣に言った。夫が不審そうに彼女を見つめているので、からかうようにこう言い足した。「あなたの鼻を見るより明らかだわ」

 「どういうことだね」と彼は言った。「そりゃ、おれはちいっと頭が鈍いが、エレン、しかしおまえの言うことはほんとに分からんよ」

 「デイジーがここに来るまえ、あなた、話していたじゃない。ジョー・チャンドラーが今年の夏、彼女に夢中になっていたって。あのときは馬鹿馬鹿しいと思ったけど、今はあなたの意見に賛成よ。それだけ」

 バンティングはゆっくりと頷いた。そうだ。ジョーは足しげくうちにやってくるようになった。警視庁のあの薄気味悪い博物館へも見学に行った。しかし彼、バンティングは、なぜか復讐者の殺人に気を取られて、ジョーのことをほかの関係で考えることができなかった——少なくともこの時期だけは。

 「デイジーはあいつのことを好きだと思うかい」バンティングの声にはいつになくうきうきした、やさしい響きがあった。

 妻はテーブル越しに夫を見た。かすかなほほえみ、決して冷ややかではないほほえみが、彼女の青ざめた顔を明るくした。「わたしは予言者なんて柄じゃないけど」と彼女は落ち着いて言った。「でもこれだけは言えるわ、バンティング——デイジーはジョー・チャンドラーにさんざんうんざりすることになる。二人が死ぬまでにそんな時間がいやというほどあるでしょうね。まちがいないわ!」

 「なあに、それくらいですめば上出来だ」とバンティングは思いに沈むように言った。「あいつは生一本の真面目な男さ。もう一週間に三十二シリングも稼いでいる。しかし叔母さんがどう思うか。そうやすやすとデイジーを手もとからはなしはしないと思うよ」

 「そんなことにまで伯母さんに口を出させてたまるもんですか!」とミセス・バンティングは大声を出した。「百万ポンドと引き換えだって、そんなことはさせない!」バンティングは何も言わずに、驚いたように彼女を見つめた。エレンは数分前とはまったく正反対のことを言っている。さっきは娘をベルグレイブ・スクエアに追っ払いたくてしようがなかったのに。

 「ディナーのときもまだめそめそしているようなら」と妻が唐突に言った。「わたしが外に出るのを待って、こう言いなさい。『遠ざかるほど思いはつのる』って。それだけよ。よけいなことは言わなくていい。あの娘にはそれでわかるから。それで気持ちもうんと落ち着くはず」

 「しかし考えてみりゃ、ジョー・チャンドラーがむこうの家に会いに行ったっていいわけだな」とバンティングがおずおずと言った。

 「だめよ、そんなの」ミセス・バンティングがにやりと笑った。「いいわけなんてありゃしない。デイジーが自分の秘密を一つでも叔母さんにもらしたら馬鹿を見るわ。わたしは一度きりしか会ってないけど、マーガレットがどんな女かはお見通し。彼女は伯母さん(オールド・アーント) がデイジーを手放すのを待っている。デイジーを手に入れて——自分の世話をさせる気なのよ。自分の計画を邪魔するような彼氏がいると知ったら、思い切り意地悪してくるわ」

 彼女は時計をちらりと見た。かわいらしい小さな八日巻の時計で、最後にお仕えしたご婦人の親切な友だちが結婚祝いにくれたものだった。それは生活が苦しかったときに忽然と消え、ミスタ・スルースが来てから三四日後にふたたび忽然と姿をあらわしたのだった。

 「時間があるから、あの電報を出してくる」と彼女はてきぱきと言った。どういうものか、それまでの数日間とは打って変わって、彼女は機嫌がよくなっていた。「けりをつけてくるわ。これ以上、言い争っても意味がない。うちの子が上にあがってくるまで待っても、また長々とやり合うだけでしょうし」

 それはとげとげしい口調ではなかった。バンティングはいささか怪訝な面持ちで彼女を見た。エレンはデイジーのことをめったに「うちの子」とは呼ばない。実のところ、彼の記憶するかぎり、そんな言い方をしたのは一回きりだ。それもずっと昔のことである。二人は自分たちの未来の生活について話をしていた。そのとき彼女はひどくおごそかにこう言ったのだ。「バンティング、約束するわ。わたしはうちの子のために自分の義務を果す。できる範囲で何でもする」

 しかしエレンがデイジーのために義務を果す機会はあまりなかった。われわれが喜んで果そうという義務はよくそうなるものだが、エレンの義務も別の人によって肩代わりされてしまった。しかもその人はいっこうにその義務を手放そうとはしないのだった。

 「ミスタ・スルースが呼び鈴を鳴らしたらどうしよう」バンティングはやや不安そうに訊いた。下宿人が来てからエレンが午前中に外出するのははじめてのことだった。

 彼女は躊躇した。デイジーの一件を片づけようとするあまり、ついミスタ・スルースのことを忘れていた。忘れてしまうとは奇妙なことだ——奇妙だが、おかげで彼女はひどく心が落ち着き、気分が明るくなったのだった。

 「そうね。上に行ってドアをノックし、もうすぐしたらわたしが戻るって言えばいいわ。手紙を出しに外出しているって。あの方は聞き分けのいい紳士だから」彼女は奥の間にいってボンネットと厚手のジャケットを着た。外は恐ろしく寒く、その寒さが刻一刻ときびしくなっていた。

 彼女が手袋のボタンをはめているとき——彼女は決してだらしない格好で外出しようとしなかった——バンティングが唐突に彼女のほうにやってきた。「キスしておくれ、おまえ」と彼は言った。妻は顔を上にむけた。

 「ロマンスがうつったみたいね!」と彼女は言ったが、その声は軽く弾んでいた。

 「ああ、そういうものさ」バンティングは短く答えた。「あの料理人のおばさんが結婚したのは、われわれのすぐあとじゃなかったかい?おまえがいなけりゃ、結婚なんて考えもしなかっただろうに!」

 しかし彼女が外に出て、湿ったでこぼこの舗道を歩きはじめるや、ミスタ・スルースは一時的に彼のことを忘れた女主人に仕返しをしたのだった。

 この二日ほどのあいだ、下宿人の様子がおかしかった。いつもよりもっと態度が不可解で、彼らしくない。いや、むしろ十日ほど前の、二重殺人が起きる直前の頃とそっくりだと言ったほうがいいだろう。

 前の日の晩、デイジーがジョー・チャンドラーと父親に連れられて行った不気味な博物館の話をしているとき、ミセス・バンティングはミスタ・スルースが頭の上でせわしなく客間を歩き回る音を聞いた。そのあと、夕食を持っていったとき、彼女はドアの前でつかのま立ち止り、聞き耳を立てた。彼は魂を歓喜させるあの本を朗読していた——復讐にともなう恐るべき喜びを語った、背筋が寒くなるような一節を。

 ミセス・バンティングは下宿人の変わった性格についてじっと考え込んでいたため、前方に対する注意をおこたり、急に若い女とぶつかってしまった。

 彼女はびくりとしてから、茫然としたようにあたりを見まわした。若者は謝罪の言葉をつぶやいた——そしてまた彼女は深く考え込んだのである。

 デイジーが数日家をはなれるのはいいことだ。ミスタ・スルースと彼の奇妙な行動の問題に心をかき乱されることが少なくなるから。彼女、エレンは、娘につれないしゃべり方をしたことを後悔していた。しかしよく考えてみれば、彼女がいらいらしていたのは不思議なことではない。昨日の晩はほとんど寝ていないのだ。寝るかわりにずっと起きて耳をすませていた——決して聞こえてこない音を聞こうとして、目を開けたままベッドに横になっていることくらい疲れることはない。

 家のなかの静寂はピンが落ちても聞こえるほどだった。すてきに暖かい二階のベッドにぬくぬくと横たわっているミスタ・スルースは動かなかった。動いていたら女主人が必ず聞きつけていたはずである。知っての通り、彼のベッドはちょうど彼女の頭の上にあったのだから。長くて暗い数時間のあいだ、ミセス・バンティングの耳に聞こえてきたのは、デイジーの軽い、規則正しい寝息だけだった。

 彼女はミスタ・スルースのことを忘れて、頭を切り換えようとした。いわば断固として彼を頭のなかから追い出し、放り出そうとしたのである。

 復讐者が動きを止めているのは何とも不可解なことのように思われた。ジョーがつい昨日の晩言ったように、もうそろそろ彼があの恐るべき、謎に満ちたスポットライトのなかに、姿をふたたび浮びあがらせてもいい頃である。ミセス・バンティングがいつも思い浮かべる復讐者の姿、それは目も眩むような光に取り囲まれた黒い影だった。しかし光に包まれているにもかかわらず、その影には形もなければこれといった実体もない。あるときはこう見えるかと思えば、またあるときは別の形に見え……。

 ミセス・バンティングは曲がり角に来ていた。そこを曲れば郵便局まで真っ直ぐだ。しかしすぐに左に曲るかわりに、彼女はしばらく立ち止った。

 自分を非難し、自分をいとわしく思う、ひどく不愉快な気持ちが突然湧き起こった。何と恐ろしいことだろう。昨日の晩、またもや殺人事件が起きたという恐ろしいニュースを、よりによってこの自分が聞きたがっていたとは!

 しかし、恥ずかしながら、それが事実なのである。朝食のあいだじゅう、彼女は外から恐ろしいニュースを知らせる声がしないかと期待して耳をすましていた。そう、マーガレットの手紙が届いてから交わした長い議論のあいだも、ほぼずっと、彼女は期待を——はかない期待を——抱いて待っていたのだ。新聞売り子の恐ろしい、勝ち誇ったあの叫び声が、今からでもメリルボーン通りにこだまして、こちらにむかって来はしないかと。それでいて何という偽善者ぶりを発揮したことだろう。バンティングが昨日の晩、何も起きなかったと知って、失望というわけではないけれど、驚きを表明したときに、彼女は彼をきびしく咎めたのだ。

 彼女の思いはジョー・チャンドラーのことに移っていった。どうしてわたしはあの若者を怖れていたのだろう!今はもう平気、というか、ほとんど平気である。彼は足元がふらついている——それが彼の問題なのだ、バラ色の頬をした、青い眼のデイジーに恋をして、足元がふらついているということが。今は幸いなことに、その鼻先で何が起きようと、ジョー・チャンドラーは気づきもしない!この前の夏、チャンドラー青年とデイジーが乳繰り合いをはじめたとき、彼女はいらいらしてきてたまらなかった。実を言えば、娘がまた来ると聞いてひどく苦々しい気持ちになったのは、あの頃のジョーの態度を思い出し、いつも家に立ち寄る習慣をうっとうしく思ったからなのだ(とは言っても、それがいちばん重要な理由ではなかったけれど)。しかし今は?今、彼女はひどく寛容で、ひどく親切な気分だった——少なくともジョー・チャンドラーに対するかぎりは。

 どうしてだろう、と彼女は思った。

 しかし、ジョーが娘と二日ほど会えないからといって別に悪いことはない。それどころか、そのほうがずっといいのだ。なぜなら彼はデイジーのことしか考えられなくなるだろうから。遠ざかるほど思いはつのる——ともかくも最初のうちは。ミセス・バンティングはそのことをよく知っていた。彼女とバンティングの静かな恋愛の期間中、彼らは三ケ月ほど別れて暮らしていたことがあった。彼女が腹を決めたのはこの三ケ月のあいだのことだった。バンティングといっしょにいることに慣れていた彼女は、彼のいない日々にたえられなかった。しかも——何よりもいちばん奇妙なことだが——彼女はみじめなくらい強い嫉妬にかられたのだ。しかし彼女はそれを悟らせたりはしなかった。そのへんに抜かりはないのだ。

 もちろんジョーは仕事をおろそかにするべきではない——それは絶対にいけない。しかし、とにかく、彼が物語に出てくるような探偵ではなくてよかった。あの手の連中ときたら、何でも知っていて、何でも見ていて、何でも推測できる——見るものも、知るものも、推測するものも、何もない場合でさえ!

 たとえばささやかな事実を一つ挙げるなら——ジョー・チャンドラーは下宿人に少しも興味を示したことがない……。

 ミセス・バンティングははっとして気を取り直し、急いで歩きはじめた。バンティングが彼女の身の上に何かがあったのではないかと心配しているかもしれない。

 彼女は郵便局に入り、一言も言わず若い女に電報用紙を渡した。いつも他人の仕事を切り盛りしている、抜け目のないマーガレットは、電報用紙に返事まで書き込んでいたのだ。「お茶の時間までにはそちらへ行きます——デイジー」

 この一件をきっぱり片づけてしまい彼女は肩の荷を下ろした。これから二三日のあいだに恐ろしいことが起きるとしたら——デイジーは家にいないほうがいいのだ。しかし本当に何か事件が起きる危険があるわけじゃない。ミセス・バンティングはその点に関しては自信があった。

 そのときには彼女はもう通りに出ていた。そして頭のなかで復讐者が犯した殺人の数をかぞえていた。九人、それとも十人かしら。これだけやればきっと復讐者も充分恨みを晴らしたと思っているのではないだろうか。きっとそうだ。新聞の投稿者が示唆していたように、もしも彼がウエスト・エンドに住む、物静かな、立派な紳士であるなら、どういう復讐をせずにはいられないのか知らないが、もう充分満足したのではないだろうか。

 彼女は家路を急ぎはじめた。彼女が帰るまえに下宿人に呼び鈴を鳴らされては困る。バンティングはミスタ・スルースにどう接していいか分からないだろう。特にミスタ・スルースが例のむずかしい機嫌のときは。

******

 ミセス・バンティングは玄関のドアに鍵をさしこみ、家のなかに入った。そのとたん、不安と恐怖で心臓が止まりそうになった。居間から声が——聞いたことのない声が聞こえてきたのだ。

 彼女はドアを開け、深いため息をついた。ジョー・チャンドラーが来ていただけだった。ジョーとデイジーとバンティングがいっしょに話をしていたのだ。彼女が入ってくると、彼らは悪いことでもしていたように押し黙ってしまった。しかし彼女はチャンドラーがこう言うのを聞いたのだった。「そんなの、何でもありゃしません!ぼくが走っていって、行けないって内容のを送ってやりますよ、ミス・デイジー」

 そのとき不思議なほほえみがミセス・バンティングの顔に広がった。まだ遠くのほうからではあるけれど、紛う方なき叫び声が彼女の耳を打ったのだ。昨日の晩、何かが起きたのだ——新聞売り子がメリルボーン通りを大声でやってくるに価する何かが。

 「どうしたの」彼女は軽く息を切らして言った。「どうしたの、ジョー。新しい知らせを持ってきたのかしら。また事件が起きたの?」

 彼は驚いたように彼女を見た。「いいえ。ありませんよ、ミセス・バンティング——ぼくの知るかぎりは。ああ、新聞の売り子ですか?連中は叫ぶのが商売ですから」彼はにやりと笑った。「あの連中だってそう血に飢えているわけじゃないです。犯人が逮捕されたって叫んでるだけですよ。もっともくだらないニュースですがね。昨日の晩、スコットランド人がドーキングで自首したんです。酔っぱらって、自分のことを哀れな男だと言ってました。この事件がはじまってから、二十人くらい逮捕されているんですけど、全員無罪と判明してます」

 「おや、エレン、えらく悲しそうな顔つきだね。残念そうじゃないか」とバンティングが冗談めかして言った。「考えてみりゃ、そろそろまた復讐者が動き出す頃合いだものな」彼はぞっとするような冗談を言いながら笑った。それからチャンドラー青年のほうに向き直り、「殺人がもう起きなくなったら、君も嬉しいだろうね」

 「そりゃそうだけど」とチャンドラーは不本意そうに言った。「でも犯人を捕まえて終りにしたいですね。あんなやつを野放しにしておきたくないですよ。ちがいます?」

 ミセス・バンティングはボンネットとジャケットを脱いだ。「ミスタ・スルースの朝食を作らなくちゃ」彼女は疲れたような、元気のない声でそう言い、その場を離れた。

 彼女はがっかりして、ひどく憂鬱な気分になった。彼女が入ってきたとき彼らが企んでいた陰謀は成功するはずがなかった。バンティングが最初の電報と矛盾するような電報をデイジーに打たせるわけがない。おまけに娘自身がもうとっくにそんなことをする気にならないことをデイジーのまま母は鋭く見抜いていた。デイジーは、あの愛らしい、小さな頭のどこかにたっぷりと良識を備えているのだ。結婚してロンドンに住むことになるなら、マーガレット叔母さんのご機嫌を取っておいたほうが断然いいに決まっている。

 台所に入ったとき、優しい気持ちがまま母の胸にこみ上げてきた。というのはデイジーが朝食の用意を見事に調えていてくれたからである。実際、あとやることといえば、ミスタ・スルースのゆで卵を二つ作るだけだった。近頃一度もなかったような陽気な気分に襲われ、ミセス・バンティングはお盆を二階に持っていった。

 「いつもより遅いようなので、呼び鈴をお鳴らしになるまえに持ってまいりました、旦那様」と彼女は言った。

 下宿人はテーブルから目を上げた。彼はいつものように息苦しいくらいの、ほとんど死に物ぐるいといっていいような熱心さで聖書を研究していた。「かまいませんとも、ミセス・バンティング——ちっともかまいません。わたしは『光あるうちに業《わざ》をなせ』という、神がお命じになった言葉について考えていたのです」

 「さようでございますか、旦那様」奇妙な、冷たい感覚が胸のなかにじわじわと広がった。「で、それで?」

 「『心は熱すれども肉体は——肉体はよわきなり』」ミスタ・スルースは重々しいため息とともにそう言った。

 「ご研究に根を詰めすぎていらっしゃるのですよ——それでおかげんがよろしくないのでしょう、旦那様」ミスタ・スルースの女主人は唐突にそう言った。

******

 ふたたび下に降りたミセス・バンティングは自分がいないあいだにいろいろな手はずが整えられたことを知った。ジョー・チャンドラーはベルグレイブ・スクエアまでミス・デイジーに付き添うことになった。デイジーの大きくもない鞄を運ぼうというのである。歩かないで車でも行けますよ。ベイカー・ストリート駅からバスに乗ってヴィクトリアまで。そこからベルグレイブ・スクエアは眼と鼻の先です。

 しかしデイジーは歩いて行きたがっているようだった。長いこと散歩していないから、と彼女は言った。そして顔をバラ色に染めるのだった。まま母でさえデイジーの愛くるしさを認めずにはいられなかった。こんな娘をひとりでロンドンの町に放り出すわけにはいかない。彼女はそう思った。