WeRead Powered by ReaderPub
下宿人 cover

下宿人

Chapter 26: 第十八章
Open in WeRead

Explore more books like this:

About This Book

生活が傾いた下宿を営む夫婦が、近隣で続発する残忍な連続殺人の噂に包まれる中、上階にやって来た謎めいた下宿人をめぐって葛藤と不安に巻き込まれる。新聞や町の呼び声は犯人を復讐者と呼び、夫妻と周囲の人々は疑念と好奇心に駆られる。妻は同情と保護欲から下宿人に心を寄せ、夫は誇りと生活の危機の間で揺れる。物語は家庭の体面、恐怖の蔓延、道徳的決断と心理的緊張を静かに描き出す。

 彼は蓋をかぶせたままの皿を見下ろし、頭を振った。「今日は食欲があまりありません」彼はもの悲しそうに言った。それから唐突にチョッキのポケットから十シリング金貨を取り出した。

 ミセス・バンティングはとっくにそれが昨日着ていたチョッキとはちがうことに気づいていた。

 「ミセス・バンティング、こちらにおいでいただけますか」

 つかのま、ためらったあと、女主人はその言葉に従った。

 「どうかこのささやかな贈り物を受け取ってください。ご親切にも昨晩、台所を使わせていただいたお礼です」彼は静かに言った。「できるだけ汚さないようにしたのですよ、ミセス・バンティング、しかし——その、実をいうと、たいへん手の込んだ実験をしていたのです」

 ミセス・バンティングは手を差出したものの、迷ったように躊躇し、それから硬貨を受け取った。彼女の手のひらをさっとかすめた指は氷のように冷たかった——冷たくじっとりしていた。ミスタ・スルースは明らかに具合が悪いのだ。

 階段を降りているとき、くすんだ空にかかる赤い玉のような冬の太陽が、ミスタ・スルースの女主人を照らしだし、彼女が手に持つ金貨を血のような赤色に輝かせた。少なくとも彼女の眼にはそのように見えたのだった。

******

 その日、その静かな家のなかではいつものように時間が経過していった。もちろん小さな家の外では普段よりはるかに大きなざわめきが起きていた。

 久しぶりに太陽が照っていたせいだろう、ロンドンじゅうの人々がそのあたりに遊びに来たようだった。

 ようやくバンティングが戻ってきて、あたりを覆う異常な興奮について話すのを、妻は黙って聞いていた。ひとしきり夫がしゃべったあとで、彼女は急にじろりと奇妙な目つきを彼にむけた。

 「現場を見に行ったのね」

 悪いことでもしたように、彼はそれを認めた。

 「それで?」

 「うむ、見るものなんて何もなかった——今頃行ったってだめさ。しかしね、エレン、犯人の野郎は大胆だよ!だって、エレン、被害者が一声叫んでいたら——その暇はなかったらしいけど——一声叫んでいたら、必ず誰かが聞きとがめただろうからな。こんな調子で、午後なんかに事件を起こされたら、犯人は捕まりっこないって話だ。だってズブリとやって十秒後には雑踏に紛れ込んじまうんだから」

 その日の午後、バンティングは金に糸目をつけず新聞を買いあさった——実をいえば、ほぼ六ペンスを散財したのである。しかし事件の鍵らしきものがいろいろあげられているにもかかわらず、目新しい情報は何もなかった——前よりも少なくなっているくらいだった。

 警察が途方に暮れていることは明らかだった。ミセス・バンティングはそれを知って朝のうちより不思議なくらい気分がよくなりはじめた。疲れが取れ、かげんがよくなり——恐怖感がずっと減ったのである。

 そのとき劇的といってもいいくらい突然、その日の静けさを破るあることが起きた。

 彼らはお茶をすませ、バンティングは走って買ってきた最後の新聞を読んでいた。すると不意に大きなノックの音が雷のように玄関から響いてきたのだ。

 ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。「まあ、いったい誰かしら」と彼女は言った。

 バンティングが立ちあがると彼女はすぐにこう付け加えた。「あなたは座ってらっしゃい。わたしが行く。下宿を探してきたんでしょう。すぐ追っ払うわ!」

 彼女は部屋を出たが、出るまえにまたもや大きなノックが二回響いた。

 ミセス・バンティングは玄関のドアを開けた。眼のまえに見知らぬ人が立っていた。体格のいい、浅黒い顔つきの男で、獰猛な黒髭を生やしている。なぜか——彼女自身にもよく分からなかったけれど——その男はミセス・バンティングに警察官を思い起こさせた。

 彼女の印象は男が最初に発した言葉によって確認された。というのは、彼は芝居じみた、くぐもった声で、こう言ったからである。「令状により捜査する!」

 か細い抗議の叫び声をあげ、ミセス・バンティングはとっさに腕を広げ、男の行く手をさえぎろうとした。彼女は真っ青になった——ところがその瞬間、見知らぬ男と思われた人間が笑い声を放った。腹の底から愉快そうに笑うその声は、聞き慣れた声だった。

 「ひっかかりましたね、ミセス・バンティング!こんなにうまくいくとは思わなかった!」

 それはジョー・チャンドラー——変装したジョー・チャンドラーだった。それほど多くはないにしろ、ときどき彼が仕事の関係で変装することは、彼女も知っていた。

 ミセス・バンティングは笑い出した——止めどなく、ヒステリックに。デイジーが到着した朝と、ちょうどそっくりだった。新聞売り子が怒鳴りながらメリルボーン通りを走ってきたあのときと。

 「どうしたんだね」とバンティングが出てきた。

 チャンドラー青年はうしろめたそうに玄関のドアを閉めた。「こんなふうにおどかすつもりはなかったんです」彼はしまらない顔をして言った。「ただのいたずらのつもりだったんです、ミスタ・バンティング」彼らは二人して彼女を支え、居間に連れて行った。

 しかし居間に入ると、ミセス・バンティングの取り乱し様はさらにひどくなった。黒いエプロンで顔を覆い、ヒステリックにしゃくりあげはじめた。

 「ぼくだと分かるようにしゃべったんですけど」若者は詫びるように言った。「でも、おどかしてしまったんですね。ごめんなさい!」

 「気にしないで!」エプロンを顔からはなしながら彼女は言った。しかし交互に泣いたり笑ったりする彼女の目からはまだ涙がこぼれている。「ちっとも気にすることないのよ、ジョー!わたしが馬鹿だからあんなにびっくりしたのよ。でも、殺人が近くで起きたじゃない。あのせいで——今日はすごく気が高ぶっているのよ」

 「誰だってそうなりますよ」若者は浮かぬ調子で言った。「ちょっと寄ってみただけなんです。仕事の最中にこんなことしてちゃだめなんだけど——」

 ジョー・チャンドラーはまだテーブルに残っていた食事の残りを物欲しげに見つめていた。

 「ちょいと一口食べていけばいい」バンティングはあたたかく言った。「それからニュースがあったら教えてくれないか、ジョー。われわれは事件のまっただなかだな」彼は身の毛もよだつ事実を、いかにも楽しそうに、ほとんど誇らしげに語った。

 ジョーは頷いた。とっくにバター付きのパンを口いっぱいに頬ばっていたのだ。彼はしばらく待ってこう言った。「一つだけニュースがありますよ——あまり面白くはないだろうけど」

 夫婦は二人とも彼を見た——ミセス・バンティングは急に落ち着きを取りもどした。もっともその胸はまだときどき波打っていたけれど。

 「うちの大ボスが辞任したんです!」ジョー・チャンドラーはゆっくりと、重々しく言った。

 「まさか!警視総監がかね?」バンティングが叫んだ。

 「そうなんです。非難に耐えられなかったんですよ——同情しますね!総監は最善を尽しました。ぼくらもみんな。でも一般大衆はただもう怒り狂って——今日のウエスト・エンドでの話ですけどね。それに新聞ときたら残酷ですよ——まったくあの連中は。ろくでもないことを書き立てるし!連中の要求ときたら信じられませんよ——それも真顔で言ってくるんだから」

 「どういうことを?」とミセス・バンティングが訊いた。彼女は本当に知りたがっていた。

 「たとえばクーリエ紙は一軒一軒しらみつぶしに捜査しろと言うんです——ロンドン全域をですよ。考えてもみてください!どの家も警察に入りこまれて、隅から隅まで調べられるんですよ。復讐者が隠れていないかって屋根裏部屋から台所まで。正気の沙汰じゃないです!ロンドンでそんなことしようものなら、それだけで何ケ月もかかってしまう」

 「わたしの家に警察が入ろうとしたら目にもの見せてやるわ!」ミセス・バンティングは怒って言った。

 「復讐者が今度、やり方を変えたのは、あのいまいましい新聞どものせいなんです」とチャンドラーがゆっくりと言った。

 バンティングは客にむかってサーディンの缶詰を押しやり、熱心に聞き入っていた。「どういうことだね」と彼は訊いた。「意味が分からんよ、ジョー」

 「こういうことです。新聞は復讐者が特定の時間を選んで事件を起こすのは実に驚くべきことだ、といつも言っていました——つまり誰も通りにいないような時間帯を選んでるってことです。だから犯人はそれを読んで、当然、『そうだ』って気がついたんですよ。『今度は別のやり方で行くか』って。まあ、これを聞いてください!」彼はポケットから紙切れを取り出した。新聞の切り抜きだった。

 「元ロンドン市長、復讐者について語る。

 『復讐者は捕まるだろうかだって?もちろんだ』とサー・ジョンは答えた。『必ず捕まるに決まっている——たぶん今度事件を起こしたときだ。比喩的な意味でも文字通りの意味でもブラッドハウンドたちが大挙してやつのあとを追いかけることになるだろう。やつがまたもや血を吸い取ったその瞬間からだ。全社会を敵に回して、逃げられるわけがない。特に、一日でいちばん静かな時間帯を選んで犯罪を行うことが分かっているんだから。

 ロンドン子は今、恐慌状態に陥っている——こう言ってよければ、疑心暗鬼のびくびく状態だ——何の罪もないのに、仕事の都合で夜中の一時から三時のあいだに外出しただけで、誰もがとなりの人から疑惑の眼で見られてしまう』」

 「この元市長には猿ぐつわをはめてやりたいな!」とジョー・チャンドラーはかっかしながらしめくくった。

 ちょうどそのとき、下宿人の呼び鈴が鳴った。

 「おれが行ってくるよ」とバンティングが言った。

 妻は先ほどのショックでまだ顔が青ざめ、身体が震えていた。

 「だめ、だめ」彼女はすぐにそう言った。「あなたはここでジョーとお話しなさい。わたしがミスタ・スルースの用事を聞いてくる。今日はいつもより少し早めに夕食を召し上がるのかもしれない」

 彼女はゆっくりと、つらそうに階段をあがった。またもや足が綿でできているような感じがした。二階にたどりつくと、ドアをノックし、なかに入った。

 「お呼びになりましたか、旦那様」彼女は静かな、うやうやしい声で言った。

 ミスタ・スルースが顔を上げた。

 彼女はふと気がついたのだが——しかしあとから考えてみると、それはただの気の迷いだったのかもしれないが——下宿人はそのときはじめて怯えているように——怯えてびくびくしているように見えた。

 「下から声が聞こえてきました」彼はそわそわしながら言った。「何があったのでしょう。最初、この部屋を借りるときに言いましたが、ミセス・バンティング、静かであることがわたしにはいちばん大切なんです」

 「わたくしどもの友人が来ただけでございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。あしたノッカーを取り外しましょうか。ノックの音がお耳に触るようでしたら、バンティングが喜んではずしますが」

 「いいえ、とんでもない。そんなことまでなさることはありません」ミスタ・スルースはほっと安心したようだった。「お友達ですか、ミセス・バンティング。とても声が大きいですね」

 「若いものですから」彼女は謝るように言った。「バンティングの古い友だちの息子でございます。よく遊びにまいりまして。今まであんなに大きなノックの音を二回もたてたことはございませんでしたのに。一言申しつけておきましょう」

 「それには及びません、ミセス・バンティング。どうかそんなことはなさらないで。ちょっと迷惑しただけですから!」

 彼女はしばらく待った。ミスタ・スルースがあの耳障りな叫び声について何も言わないのはいかにも変だった。外の道は、その日、一時間か二時間おきに、ベツレヘム精神病院そっくりの大騒ぎをしていたのだから。しかしミスタ・スルースは、物静かな紳士の読書を妨げるあの騒音については何一つ話さなかった。

 「今晩、夕食はいつもより早めに用意いたしましょうか、旦那様」

 「お任せしますよ、ミセス・バンティング——ご都合のいいときでかまいません。よけいなお手間をおかけしたくないのです」

 彼女はこれが引き時だと感じ、静かに出ていくとドアを閉めた。

 そのとき玄関のドアがバシンと閉まる音が聞こえた。彼女はため息をついた——ジョー・チャンドラーときたら、なんて騒々しい若者なのだろう。

第十七章

 下宿人が彼女の台所で奇怪な実験をしたその次の夜、ミセス・バンティングはぐっすりと眠ることができた。疲れすぎてぐったりしていた彼女は、枕に頭をのせるやいなや眠りに落ちてしまった。

 だからこそ次の日は、朝早く目を覚ましたのだろう。バンティングが持ってきてくれたお茶を飲む暇もなく、彼女は起き上がり身支度を調えた。

 彼女は唐突に、廊下と階段を徹底的に「大掃除」しようと決意した。そして朝食もまだだというのに、仕事に取りかかったのである。バンティングはすっかり落ち着かない気分になってしまった。煖炉のそばで新聞を——しかもふたたび夢中になるほど面白くなった新聞を——読みながら、彼は声をかけた。「そんなに急ぐことはなかろうよ、エレン。デイジーが今日戻ってくるんだ。帰るまで待って手伝ってもらえばいいじゃないか」

 しかし彼女がせっせとはたきをかけ、ほうきを使い、磨きをかけている廊下からは、こんな声が返ってきた。「若い子にこういう仕事は無理。心配しないで。今日はお掃除を少しだけよけいにしたい気分なんだから。お客さんが来て、うちのなかが汚かったらみっともないわ」

 「来るわけないさ!」バンティングがクスクス笑った。が、そのときふと思いついたことがあった。「下宿人を起こしやせんだろうな」

 「ミスタ・スルースは昨日はほぼ一日じゅう寝ていたわ。昨日の晩もずっと寝ていたのよ」彼女は早口に答えた。「あの方の都合に合わせすぎていたみたい。この階段なんか、もう長いこと掃除してないもの」

 廊下を掃除しているあいだ、ミセス・バンティングは居間のドアを大きく開けたままにしていた。

 そんなことをするのは彼女にしては珍しいことだった。しかしバンティングは立ちあがってドアを閉め、いわば、彼女を閉め出すような気にはなれなかった。それでも物音がつづいているあいだはどうしても落ち着いて新聞を読むことができないのだった。エレンがこんなに騒々しい音をたてたことなどかつてなかったことだ。彼は一二度顔を上げて、いささか怒ったように渋面を作った。

 突然、物音が途絶え、それに気がついた彼はぎくっとした。エレンがドア口に立って、何もせず彼を凝視していた。

 「入れよ」と彼は言った。「入ればいいじゃないか。まだ終ってないのかい」

 「ちょっと休んでいるだけ」と彼女は言った。「あなたが何も言わないから。何か——何か新しいニュースはないの——今朝の新聞には」

 自分らしくない好奇心を恥じているような、小さな声だった。その疲れた、青ざめた表情は急にバンティングを不安にした。「入りなさい!」彼は鋭く繰り返した。「もう充分やったじゃないか——朝ご飯もまだだっていうのに。そんなに無理することはないさ。入ってドアを閉めなさい」

 彼は命令するように言い、驚いたことに妻はそれに従った。

 彼女は入ると同時に、それまでしたことのないことをした——ほうきを持ち込み、隅の壁に立てかけたのである。

 彼女は椅子に腰かけた。

 「朝ご飯はここで作るわね」と彼女は言った。「さ、寒いのよ、バンティング」夫は驚いて彼女を見た。彼女の額には汗が光っていたからだ。

 彼は立ちあがった。「よしきた。下に行って卵を取ってくる。心配するな。何なら、おれが下で料理するが」

 「いいえ」と彼女は頑固に言った。「自分の仕事だもの、わたしがする。あなたはただ卵を持ってきてちょうだい。大丈夫よ。明日はデイジーが手伝ってくれるし」

 「こっちに来て、おれの椅子にゆったり座ったらいい」彼は優しく言った。「ちっとも休もうとしないじゃないか、エレン。おまえみたいな女は見たことないぞ!」

 ふたたび彼女は立ちあがり、夫の言うことに従った。力のない足どりだった。

 彼は不安そうに、落ち着かなげに彼女を見ていた。

 彼女は夫が置いたばかりの新聞を取りあげた。バンティングは二歩、彼女のほうに近づいた。

 「いちばん面白いところを教えてやるよ」彼は勢い込んで言った。「『本紙特別捜査官』という見出しの記事なんだ。ほら、この新聞は特別に捜査官を雇って活動させはじめたんだ。この捜査官は警察が見のがした小さな事実をいっぱいつかんだんだよ。本人が、つまり特別捜査官が、そのへんのことを残らず書いている。昔は有名な探偵だったらしい。引退していたんだが、この新聞の仕事のために、また返り咲いたんだ。彼の記事を読んでごらん。この男が賞金を手にしたとしても驚くには当らんね。犯人の居場所を突き止めるのが好きでたまらないようだよ」

 「そんな仕事、ちっとも自慢できるようなものじゃないわ」と妻がいらいらして言った。

 「復讐者を捕まえたら自慢になるさ!」とバンティングは言った。エレンに水を差されても気にならないほど彼は興奮していた。「ゴム底の一件を読んでみろ。こいつは今まで誰も気がつかなかったんだ。チャンドラーに教えてやるよ。あいつはまだ寝ぼけ眼で捜査しているんだから」

 「あなたにそんなことを言われなくたってちゃんとぱっちり眼を開けていますよ。ところで卵はどうなったの、バンティング。あなたは平気かも知れないけど、わたしはお腹がぺこぺこ——」

 ミセス・バンティングは今、「エレンのうなり声」と夫がときどきひそかに呼んでいる声でしゃべっていた。

 彼は奇妙な戸惑いを感じながら、くるりと向き直って部屋を出た。彼女の様子がどうもおかしい。しかもその原因が分からない。辛辣なものの言い方や嫌みなら慣れているから気にしない。しかしこの頃の彼女はお天気屋で気分がしょっちゅう変わるのだ。まえはあんなふうじゃなかったのに!昔はいつも落ち着いていた。でも今はどう接していいのかよく分からない。

 彼は下に降りながら、妻の態度の変化について不安そうに思いを巡らせた。

 たとえば肘掛け椅子のことだ。確かにささいなことだが、しかしエレンがあの椅子に座るとは知らなかった——今まで一回だって、一分だって座ったことはなかったのに。あれはおれへのプレゼントとして買ったものなのだから。

 ミスタ・スルースが来て最初の一週間は、彼らはとても幸せだった。幸せで——平和だった。もしかしたら心配だらけの苦しい生活から、気苦労のない安定した生活に、突然変わったせいかもしれない。エレンはその変化についていけなかったのだ——そうだ。きっとそうだ。それとみんなが興奮している復讐者の殺人。何しろロンドン子は一人残らずあの事件にぴりぴりしている。鈍感なバンティングでさえ、妻が恐るべき事件に病的な関心を抱いていることに気づいていた。はじめのうちは話をするのもいやがり、殺人とか犯罪の話にはまったく興味がないと公言していたのだからなおのこと奇妙に見えるのだ。

 彼、バンティングは、そうしたものにいつも軽い関心を抱いていた。若い頃は探偵小説を大いに読みあさり、今でもそれにまさる面白い読み物はないと思っている。そのせいで彼はジョー・チャンドラーにひきつけられ、はじめてロンドンに来たときも、この若者を暖かく迎え入れたのだ。

 しかしエレンは大目に見ていただけで、二人の男がその手の話をすることを決してこころよく思ってはいなかった。彼女が非難するようにこう叫んだことは一度や二度のことではない。「あなたがた二人の言うことを聞いていたら、この世のなかには善良で、立派で、おとなしい人なんか一人もいないみたいだわ!」

 しかし今やすべてが変わってしまった。彼女はみんなと同じように復讐者の犯罪について最新の情報を熱心に聞きたがる。確かに彼女はどんな説に対しても自分なりの考えを示す。でもいつだってエレンはどんなものにも自分なりの考えを持っているのだ。頭のいい女だ。そんじょそこらの女とはわけがちがう。

 こんな思いが途切れ途切れに頭に浮んできたのだが、そのあいだにバンティングは卵を四つボールに割って入れた。彼はエレンをちょっと驚かしてやろうと思っていた——何年もまえにフランス人のシェフから教わったオムレツを作ってやろうとしていたのだ。さっき彼女はそんなことをするなと言っていたから、どう思われるか分からないが、しかし気にするものか。作ったら彼女もオムレツをおいしく食べてくれるだろう。エレンは最近まともに食事をしていないのだ。

 上に戻ってみると、ほっとしたことに、そしてまた驚いたことに、妻はオムレツを見て何も言わなかった。彼がどれだけ下にいたのかも気づいていないようだった。というのは彼らが取っている新聞を真剣に、念入りに読んでいたからである。大新聞が雇った、かつての名探偵が書いた記事だった。

 この特別捜査官がみずから語るところによると、彼は警察や公認探偵の目を逃れたいくつもの手がかりを発見したらしい。たとえば、これは幸運な巡り合わせであったことは彼自身も認めているが、このまえ二重殺人が行われたとき、事件の発覚直後に——正確には半時間以内に——両方の現場を調べることができたのである。そこで彼はつるつるの濡れた舗道に、犯人のものとおぼしき右の足跡を見つけたのだ。

 新聞はなかばすり切れたゴム底の跡を再現していた。同時に彼は次のことも認めていた——この特別捜査官は非常に真面目で、しかも恐るべき謎の解明を彼に託した進取的な新聞は彼にたっぷりと記事を書くスペースを与えていたのだ——つまり、このようなゴム底の靴はロンドンでは何千という人々が履いている……。

 そのくだりまで読み進んだとき、ミセス・バンティングは顔をあげ、その薄い、固く閉じた唇の上に弱々しい笑みを浮かべた。ゴム底について言われていることはまったくその通りだ。今、ゴム底は何千という人々が履いている。彼女はその点をはっきりと指摘してくれた特別捜査官に感謝したいような気持ちだった。

 記事は次のように終っていた。

 「本日は十日前の二重殺人事件に関して検死審問が行われる予定である。わたしは公開予備審問が即刻行われることが望ましいと思う。たとえば新たな殺人が発覚したら、その日のうちに開くのがいい。そうする以外に一般大衆から寄せられた証拠を検証し、ふるいにかけることはできないだろう。事件から一週間も経過し、これらの人々が警察から極秘に尋問を受けつづけているうちに、彼らの印象はぼやけ、どうしようもなく混乱するからである。前々回の事件においては、数名の人々、少なくとも二人の女性と一人の男性が、凶暴な二重殺人の現場から急ぎ立ち去る犯人の姿を見ていることはまちがいないらしい。そうであるなら、本日行われる取り調べはその重要性において千鈞の重みを持つ。明日はこの審問や審問での証言についてわたしの印象を語りたいと思っている」

 夫がお盆を持って入ってきても、ミセス・バンティングはちらりと目をあげただけで新聞を読みつづけた。とうとう夫はややむっとした声でこう言った。「その新聞を置きなさい、エレン、いますぐ!せっかくオムレツを作ってやったのに、食べなきゃ革みたいに固くなっちまうぞ」

 しかし妻は朝食をすますと——バンティングにとっては屈辱的なことに、彼女は半分以上もおいしそうなオムレツを残した——また新聞を取りあげた。大きなページをめくり、復讐者とその犯行を扱った見開き二ページの特集記事の下のほうに、彼女が求めていた情報を見つけ出したときは、声を殺して叫んだ。

 ミセス・バンティングが探していたもの——彼女がついに見つけたもの——それはその日に行われる検死審問の時間と場所だった。時間は少々異例な午後の二時だった。しかしミセス・バンティングにとってはもっとも都合がいい時間だ。

 二時までに、いや一時半までに、下宿人は昼食を食べるだろう。ちょっと早めに準備すれば、彼女とバンティングもディナーをすますことができる。デイジーはお茶の時間まで帰ってこないはずだ。

 彼女は夫の椅子から立ちあがった。「あなたの言う通りね」と、彼女は早口にしわがれた声で言った。「お医者さんに診てもらえって、言ってたでしょう、バンティング。午後になったらさっそく行ってくるわ」

 「ついていってあげようか」と彼は訊いた。

 「いいえ、いらない。それどころか、あなたがいっしょに行くなら、わたしは行かないわよ」

 「そうかい」彼はかちんときて言った。「好きなようにするさ。おまえのことはおまえがいちばん分かっているんだから」

 「そうよ、わたしの健康のことはわたしがいちばん分かっている」

 バンティングでさえ、せっかく心配してやっているのにと、この態度にはかんかんになった。「ずっとまえに言ったじゃないか、医者に行くべきだって。なのにおまえはいやだって言ったんだ!」彼はむかっ腹を立てて言った。

 「あなたがまちがっているなんて言ったおぼえはないわ。ちがう?とにかく、わたしは出かけるから」

 「どこか痛いのかい?」彼はその丸々とした、鈍感そうな顔に真剣な気遣いの色を浮かべて彼女を見た。

 向かい合って立つエレンの様子がなんとなく変だった。肩が縮こまり、頬さえやや落ちくぼんでしまったようだ。こんなに調子の悪そうな彼女は見たことがない——飢え死にしかけ、それでも馬車馬のように働いていたあの頃だってこんなにひどい様子はしていなかった。

 「そうなの」彼女は短く答えた。「頭が痛いの。首のうしろが。ほとんどずっとつづいているの。どきっとすることがあるともっとひどくなるわ。昨日の晩、ジョー・チャンドラーにおどかされたときみたいに」

 「あんなことするなんて、まったくどうしようもないやつだよ!」バンティングは不機嫌に言った。「今度がつんと言ってやる。だけど、エレン、どうしてあんなものにだまされたんだい。おれはひっかからなかったのに!」

 「そりゃそうよ。あなたは彼の正体をはじめから知っていたじゃない」と彼女はゆっくりと言った。

 バンティングは黙ったままだった。エレンの言うことが正しかったからだ。バンティングが玄関に出ていって、巧みに変装した訪問者を見たとき、ジョー・チャンドラーはもう普通にしゃべっていたのだ。

 「あんなばかでかい黒髭なんかつけおって」彼は愚痴をこぼしつづけた。「おまけに真っ黒なかつらまで。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。おれはそう思うね!」

 「ジョーを知らない人ならそうは思わないわ」と彼女は鋭く言った。

 「さあ、どうかな。あんな格好の人間、おりはせんよ、絶対。あいつに分別があるなら、あんな格好はデイジーにだけは見せないほうがいいな!」バンティングはそう言って愉快そうに笑った。

 この二日間、彼はデイジーとチャンドラーのことをさんざん考え、いろいろなことを考慮したうえで、二人の関係に至極満足していた。娘が伯母さん(オールド・アーント) のところで過ごしている生活はつまらない、不自然な生活である。それにジョーはちゃんと金を稼いでいる。二人は遠からず結婚するかもしれない。恋人というのは、バンティングとデイジーの母親の場合みたいに、延々と待たされることがしばしばあるのだが。そう、すぐくっついたっておかしくはないのだ——彼らがその気になりさえすれば。少なくともジョーのほうはその気になるはずだ、とバンティングはほぼ確信していた。

 しかし時間はたっぷりある。デイジーは再来週が来てようやく十八だ。彼女が二十歳になるまで待ってもいいだろう。そのときまでには伯母さん(オールド・アーント)は死んで、デイジーは多少まとまった金を手にしているかもしれない。

 「何をにやにやしているの?」妻がきびしい声を出した。

 彼は頭を振った。「おれかい?——にやにやしているって?いや、別に」彼は一瞬口ごもった。「知りたいなら教えてやるよ、エレン。おれはデイジーとジョー・チャンドラーのことを考えていたのさ。あいつは娘に気があるんだ。そうだろう?」

 「気がある?」そう言ってミセス・バンティングは変な、いびつな笑い声をあげたが、しかし冷たい笑い方ではなかった。「気があるですって、バンティング?」彼女は繰り返した。「彼はぞっこん惚れ込んでいるのよ——ほかのものが何にも見えなくなるくらい!」

 彼女はためらいつつも夫をじっと見つめながらこうつづけた。その指は黒いエプロンの端をひねりつづけた。「あの人、今日の午後は彼女を迎えに行くんでしょう?それとも——それとも審問に行かなきゃならなのかしら、バンティング」

 「審問?何の審問だね」彼は面食らったように彼女を見た。

 「キングズ・クロスの近くで死体が見つかったでしょう。あの検死審問よ」

 「いいや、行かないよ。あいつは検死審問には何の用もない。デイジーを迎えに行くんだ。昨日の晩そう言っていた——おまえが下宿人のところに行っているあいだだけど」

 「それならよかった」ミセス・バンティングは心からほっとして満足そうに言った。「さもないとあなたが迎えに行かなければならなかったでしょう。わたしは家を空けるのがいやなのよ——二人とも出かけてしまうのが。ドアのベルが鳴ったりしたらミスタ・スルースが迷惑するし」

 「ああ、おれは家をはなれないよ。安心するがいい、エレン。おまえが帰ってくるまで留守番しているさ」

 「帰りが遅くなっても出ちゃだめよ、バンティング」

 「心配するな。遅くなるのは分かってるさ。イーリングの医者のところに行くつもりなんだろう?」

 彼は探るように彼女を見、ミセス・バンティングは頷いた。どういうものか、頷くだけなら嘘を言うより罪深くないような気がした。

第十八章

 どんなに苦しい体験も二回目になると恐怖感は薄れ、勇気を持って対処できるようになる。さほど困難でなくても、まったく新しい経験をするときのほうがはるかに気骨が折れるものだ。

 ミセス・バンティングはすでに一度死因審問に出席したことがあった。しかも証人としてである。それはどことなくぼやけた彼女の記憶のなかでもくっきりと鮮明に思い起こすことのできる数少ない出来事の一つだった。

 当時エレン・グリーンだった彼女は、年老いた雇い主の婦人と、とある田舎の邸宅に泊まっていた。そこで思いも寄らぬ、痛ましい悲劇が起きたのだ。立派な大邸宅の落ち着きや、いかにも上品そうな雰囲気をぶちこわすように、こういう悲劇というものはときどき起きるものなのである。

 下級女中のかわいい、陽気な娘が従僕を愛するあまり入水自殺した。男は恋人に激しい嫉妬をかきたてるような真似をしたのである。少女は悩み事を同僚の召使いにではなく、見知らぬ婦人のお手伝いに打ち明けたのだった。二人の女が話をしているとき、娘は自殺をほのめかした。

 ミセス・バンティングは外出着を着ながら、あの恐ろしい事件の詳細と、不本意ながらも自分が演じた役回りをことこまかに思い出した。

 彼女はあのかわいそうな、不幸な娘の検死審問が行われた田舎の宿屋を思い浮かべた。

 執事も彼女と一緒に屋敷を出た。彼も証言をする予定だったのだ。彼らがやってくると宿屋のまわりに集まった人々は期待に胸をはずませた。村人たちが男も女もうろうろしていた。死んだ娘の運命は彼らの興味を大いにそそった。この惨事は、田舎で退屈な生活を送っている者にとっては、避けて通るよりもむしろ歓迎すべきたぐいの出来事だった。

 誰もが彼女、エレン・グリーンをことのほか丁寧に、優しく扱ってくれた。その古い宿屋の二階が控え室になっていたのだが、証人たちには椅子だけでなくケーキとワインもあてがわれた。

 彼女は証人になることを怖れていた。悲しい事件について自分が知るわずかなことを言わなければならないくらいなら、その居心地のいい、快適な場所から逃げ出したほうがましだと思ったことを思い出した。

 しかし終ってみるとそれほど恐ろしいことではなかった。検死官はおだやかな話し方をする紳士で、彼女が不幸な少女の使った言葉を正確に証言すると、その明快で筋の通った説明を褒めてくれたくらいなのである。

 詮索好きな陪審員が質問をし、それに対するエレンの答えが人でいっぱいの、天井の低い部屋に笑いを引き起こした。「ミス・エレン・グリーンは娘さんが自殺をほのめかしたとき誰かに報告すべきじゃなかったんでしょうか」とその男は言った。「そうしていれば湖に身投げするのを防げたんじゃないでしょうか」証人である彼女は多少とげとげしく——検死官が親切だったので、そのときはもう楽な気分になっていた——次のように返答した。彼女はでまかせを言っているのだと思っていた、若い女が恋のために身投げなどという、馬鹿馬鹿しい真似をするわけがないと思っていた、と。

******

 午後出席する審問はずっと昔、あの田舎で行われた審問と似たようなものになるだろうとミセス・バンティングは漠然と考えた。

 あの審問での取り調べはなまやさしいものではなかった。彼女は丁寧な話し方をする紳士、検死官が、真実を——つまり、彼女、エレン・グリーンが一目見たときからいけ好かないと思った、あの感じの悪い従僕がほかの女と浮気するに至った経緯を——少しずつ、残らず引き出していったことをよくおぼえている。検死官はその間の事情をつまびらかにすることはないだろうと思われていたのだが、しかしそれは静かに、容赦なく明らかにされた。さらに死んだ娘の手紙が読みあげられた。教養のない、おかしな言い回しを使っていたが、哀れをもよおす内容で、溺愛と激しい脅迫的な嫉妬に満ちていた。陪審団は若者を痛烈に非難した。見物人のひしめく部屋からこそこそと出て行く彼の表情を彼女は今でも思い出すことができる。まわりの人々は彼を避けるように後じさりして道をあけていた。

 考えてみると、彼女がその昔話をバンティングに一度もしたことがないというのは奇妙なことである。二人が知り合う何年もまえに起きたことなのだが、どういうものか、話そうという気にならなかったのだ。

 バンティングは検死審問に行ったことがあるのだろうか、と彼女は思った。訊いてみたいのはやまやまだが、今この瞬間訊いたら、彼女がどこに行こうとしているのか勘づかれてしまう。

 寝室のなかを動き回りながら、彼女は首を横に振った——いいえ、そんなことないわ、バンティングが勘づくわけがない。わたしの嘘に気づくなんて、彼にかぎって絶対ありえない。

 ちょっと待って——わたしは嘘を言ったのかしら。彼女は審問が終ったら医者のところに行くつもりだった。時間があればの話だけれど。審問はいったいどのくらい時間がかかるのだろうと彼女は心配になってきた。今度の事件では手がかりがほとんどないから、手続きはきっとごく形式的なものだろう——形式的だから、短いのではないか。

 彼女には一つだけはっきりした目的があった。殺人者を見たと信じている人々の証言を聞くのだ。犠牲者たちがまだ流れ出す自分の血にまみれて身もだえする犯行現場から、殺人者が立ち去るのを見たという人々の証言だ。彼女は自信を持ってそう言う目撃者たちがどんなふうに復讐者の見かけを言いあらわすか、それが知りたいという強い、ひそかな、そう、熱烈な好奇心を燃やしていた。多くの人が復讐者を見ているにちがいないのだ。バンティングがつい昨日、チャンドラー青年に言ったように、復讐者は幽霊ではない。生きた人間で、どこかに身を隠している。そこにいることは人に知られていて、また恐るべき犯罪の合間はそこで生活しているはずなのだ。

 彼女が居間に戻ってきたとき、夫はその真っ青な顔色を見てぎくりとした。

 「おいおい、エレン」と彼は言った。「医者のところに行く時間だが、葬式に行くみたいな顔色じゃないか。駅までいっしょに行こう。汽車で行くんだろう?バスじゃないんだね。イーリングは遠いからな」

 「ほらほら!真面目な顔で約束したのに、さっそく反故にするの!」しかしその言い方に冷たさはなかった。ただ落ち着かなげで、悲しそうだった。

 バンティングはしょんぼりした。「ああ、確かに下宿人のことをすっかり忘れていたよ!でも、おまえ、大丈夫かい、エレン。明日まで待って、デイジーを連れて行けばいいじゃないか」

 「自分のことは自分のやり方でする。人の指図は受けません!」彼女はぶっきらぼうに言った。しかしバンティングが本当に心配そうな表情を見せ、自分の調子もよいとはとても言えた状態ではなかったので、優しい声を出してこう付け加えた。「わたしは大丈夫よ、あなた。心配しないで!」

 ドアのほうにむかいながら、彼女はロングジャケットのうえにまとった黒いショールをぎゅっと強く合わせた。

 彼女はこんなに優しい夫をあざむくことが恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなかった。しかしほかにどうすることができるだろう。自分の恐ろしい重荷をバンティングと分かち合うことなどできるわけがない。そんなことをされたら誰だってびっくりして頭が変になるだろう。彼女でさえもう耐えられないと思うことがよくあった。彼女が疑っていること、心の奥底でそれが真実ではないかと怖れていること——それを誰かに打ち明けられるなら、誰でもいいから打ち明けられるなら、何を差し出しても惜しくはないのだが。

 しかし外の空気は、霧が立ちこめていても、いつのまにか彼女の気持ちを軽くしはじめた。最近は外出することがあまりにも少なかった。無防備な状態にして家を離れることを神経質に怖れ、同時に、バンティングが下宿人と顔をつきあわせることを非常に嫌ったからである。

 地下鉄の駅に着いたとき、彼女は急に立ち止った。セント・パンクラスに行くには二つの方法がある——バスでも行けるし、汽車でも行ける。彼女は汽車で行くことにした。しかし駅に入るまえに彼女の目は舗道に置いてある昼の新聞のちらしのあいだをさまよった。

 「復讐者」

の三文字がいろいろな活字で彼女をじろりと見あげていた。

 黒いショールをさらに少しだけ強く肩に巻き付け、ミセス・バンティングはちらしを見つめた。まわりの大勢の人々が新聞を買っていたけれど、彼女はそうする気になれなかった。今でも目が痛かったのだ。バンティングが持ってきた号外の、細かな活字を追うという、慣れないことをしたせいだった。

 ようやくゆっくりと彼女は地下鉄に入っていった。

 そこで驚くような幸運がミセス・バンティングを待っていた。

 彼女が乗り込んだ三等車はたまたまがら空きで、そこには警部が一人いるだけだった。電車が駅を離れてかなり時間が経ってから、彼女は勇気を奮い起こし、もうすぐ誰かに訊かなければならないことを彼にむかって質問した。

 「教えていただけませんか」と彼女は低い声で言った。「検死審問の場所はどこでしょう」——彼女は唇をしめらせてちょっとだけ言葉を切り、こうつづけた——「キングズ・クロスの近所でしょうか」

 男は振り返り、彼女を注意深く見た。彼女はただ面白がって審問に行くようなロンドン子には見えなかった。そんな連中は大勢いるのだけれど。彼はやもめだったので、彼女の黒いコートとスカートを見て好感を持った。彼女の白い、上品な顔を包む無地のプリンセス・ボンネットも気に入った。

 「わたしも検死法廷に行くんです」彼は愛想よく言った。「いっしょについていらっしゃい。ご存じでしょうが、今日は例の復讐者の検死審問がありましてね。だから、何て言うか、通常の事件に関してはいつもとちがうやり方をすると思います」彼女が黙って見つめているので彼はつづけた。「復讐者の検死審問は人で大混雑するんです。一般人はもちろん、切符を持っている人も大勢入りますから」

 「わたしが参りますのもその審問でございます」とミセス・バンティングはたどたどしく言った。彼女はまともに言葉を発することができなかった。これからしようとしていることが、どれだけけしからぬ、心得違いなことであるかということに気づき、猛烈な不快感と恥ずかしさを感じていたのである。立派な社会的地位のある女性が殺人の検死審問に出たがるなんて、考えただけでもとんでもない話だ!

 この数日間、彼女の感覚は心配と恐怖に鋭くとぎすまされていた。単に病的な好奇心からそうした審問に出たがる女を、彼女自身がどれほど軽蔑していたか、名も知らぬ相手の無感動な顔を覗きこみながら、彼女はそのことにふと思い当たった。しかし——しかし、それこそまさに彼女がしようとしていることにほかならない。

 「少々事情がございまして、出席したいと思っているのですが」と、彼女はつぶやいた。知らない人であってもこんなふうにちょっとだけ胸の内を打ち明けられるのはほっとすることだった。

 「そうでしたか」彼は考え込むように言った。「犠牲者のご亭主のどちらかとご縁があるのですか?」

 ミセス・バンティングは顔をうつむけた。

 「証言をなさるのですか」彼は何気なくそう訊くと、ミセス・バンティングのほうを振り返り、今までよりはるかに注意深く彼女を見た。

 「いいえ、とんでもない!」話し手の声は恐怖と戦慄に充ち満ちていた。

 警部は気の毒なような、いたわってやりたいような気持ちになった。「被害者の女性とは長いことお会いになっていらっしゃらなかったんでしょうね」

 「ぜんぜん、その、会っておりませんでした。わたしは田舎から来ましたので」どういうわけかミセス・バンティングはそう言わずにいられなかった。しかし彼女は急いで次のように訂正した。「ともかく昔は田舎におりましたので」

 「彼も来るんですか」

 彼女は茫然と相手を見た。誰のことを言っているのか、見当もつかなかった。

 「旦那さんのことですよ」と警部は早口につづけた。「いや、まったくお気の毒です——最後の犠牲者の旦那さんですが——たいへん気を落とされていたようでした。奥様はお酒を飲むようになるまでは、良妻賢母であられたそうですから」

 「ええ、そういうものでございますわね」とミセス・バンティングはささやいた。

 「まったくです」彼は言葉を切った。「検死法廷に知り合いはいらっしゃいますか」

 彼女は首を振った。

 「どうぞご心配なく。わたしがお連れいたしますよ。お一人ではなかに入れませんから」

 彼らは下車した。他人が何もかもやってくれるというのは何て気楽なことだろう。しかも警察の制服を着た、毅然とした男性に面倒を見てもらえるのだ!しかしそれでもミセス・バンティングはすべてが実体を伴わない、夢のような気がした。

 「この人がもしも——もしもわたしの知っていることを知ったなら!」彼女は何度も何度もそう思いながら、大きなたくましい警部の横を軽い足どりで歩いたのだった。

 「遠くはないですよ——三分もかかりません」と彼は唐突に言った。「わたしの歩き方は早すぎますか、奥さん?」

 「いいえ、ちっとも。わたしは歩くのが速いですから」

 急に角を曲ると男も女も押し合いへし合いしている大変な人だかりにぶつかった。彼らは高い壁から少し落ちくぼんだ、意地の悪そうな小さなドアを見つめていた。

 「腕につかまって」と警視は言った。「道をあけて!道をあけて!」彼はいかにも権威ありげにどなった。ぎっしり居並ぶ人々は彼の声を聞き、制服を見て道をあけた。彼は彼女を連れてそのあいだをさっさと抜けていった。

 「わたしに会えたのは幸運でしたね」と彼はにこやかに笑いながら言った。「お一人ではこうはいきませんでしたよ。それに連中は決して心優しい群衆ではありませんから」

 小さなドアがほんの少し開いた。なかに入ると、狭い板石敷きの小径があり、四角い中庭に通じている。数名の男がそこでタバコを吸っていた。

 ミセス・バンティングの親切な新しい友人は中庭のうしろの建物へ彼女を案内するまえに時計を取り出した。「はじまるまで二十分ありますね」と彼は言った。「あそこに死体置き場があります」——彼は親指で中庭の右端から突き出した天井の低い一室をさした。「なかをごらんになりますか」と彼は小声で言った。

 「まあ、とんでもない!」彼女は怖気だった声で叫んだ。彼は同情をこめて彼女を見下ろし、ますます尊敬の度合いを強めた。彼女は立派なすばらしい女性だ。不健全な、いとわしい好奇心からではなく、そうするのが彼女の義務と心得てここに来たのだ。おそらく復讐者の犠牲者の義理の姉ではないだろうか、と彼は思った。

 彼らは大きな部屋か広間のようなところを通り抜けた。そこはもう人で埋まっていて、みんなひそひそと、しかし熱心に、興奮したように話をしていた。

 「こちらにお座りなってください」彼は気遣うようにそう言って、水しっくいを塗った壁から突き出したベンチの一つに彼女を導いた。「もちろん証人たちといっしょにいたければ別ですが」

 しかし彼女はまたもや「まあ、とんでもない!」と言った。それからやっとの思いでこう付け加えた。「混雑しそうですので、先に法廷に入ってはいけないでしょうか」

 「ご心配なく」と彼は優しく言った。「ちゃんと座れるように手配します。ちょっとだけ失礼しますよ。すぐ戻ってきてご一緒しますから」

 彼女はあの薄気味悪い、狼のような外の群集を通り抜けるとき、顔の上におろしていた厚いベールを持ちあげ、あたりを見まわした。

 まわりに立っている紳士は、ほとんどがシルクハットに上等な外套といういでたちだったが、彼女はその多くの顔に何となく見おぼえがあった。すぐに一人の男に眼がとまった。彼は有名なジャーナリストで、その鋭い生き生きした顔は洗髪剤の広告で広く宣伝されていたのだ。今よりもっと幸せで裕福だったころ、バンティングがその効能を信じて愛用していた洗髪剤で、彼はすばらしい効き目があるんだといつも言っていた。この紳士が熱のこもった会話の中心で、六人ほどの人が彼に話しかけ、彼が話すときは敬意をこめてその言葉に耳を傾けていた。その誰もがみな有名人であることにミセス・バンティングは気がついた。

 何て不思議な、驚くべきことだろう。眼に見えない、一人の謎の男がこうした人間たちをロンドンじゅうから呼び寄せたのだ。きっと大切な仕事があるだろうに、この底冷えのする陰鬱な日に、こんなむさ苦しい場所に呼び寄せたのだ。ここで彼らは全員がただ一人の、誰も知らない謎めいた男のことを考え、話し、描き出そうとしている。つまりみずからを復讐者と呼ぶ、影のような、それでいて恐ろしく現実的な人間のことを。そして彼らのいるところからさほど遠くない場所にいるはずなのに、復讐者はこの才知に富み、教養ゆたかな精神たちを——そしてもちろんその肉体をも——決してそばには近づけさせないのだ。

 ひっそりとそこに座るミセス・バンティングでさえ、彼らに混じってこんなところに自分がいるとは何と皮肉なことだろうと思った。

第十九章

 警察の友人が戻ってきたとき、ミセス・バンティングはずいぶん長いことそこに座っていたような気がした。実際は十五分程度であったのだけれど。

 「さあ、行きましょう」と彼はささやいた。「もうすぐはじまります」

 彼女は彼について廊下に出、急な石の階段をのぼり、検死法廷に入っていった。

 法廷は大きな明るい部屋で、どことなく礼拝堂に似ていた。ギャラリーのようなものがぐるっと半円を描くようにもうけられていたのでなおさらその印象が強かった。これはどうやら一般大衆用の傍聴席であるらしい。というのは、すでにそこは収容可能な人数ぎりぎりまで人が詰まっていたからである。

 ミセス・バンティングはびっしりとひしめき合う顔、顔、顔のほうにおどおどした視線をむけた。今彼女を案内している男に出会うという幸運がなければ、彼女はあそこに行かなければならなかったのだ。もちろん彼女などはじき出されていただろう。あの人たちはドアが開いたとたんに彼女にはとてもできないような押し合いと突き飛ばし合いを演じながら中に殺到してきたのだ。

 そこには女性の姿もちらほらと見えた。一歩だって引くことを知らない、意志の強そうな女たちだ。その階級もさまざまのようだが、いずれも大事件の興奮に惹かれ、行きたいと思ったところにがむしゃらに突き進むその胆力に物を言わせてその場に割り込んできたのである。しかし何と言っても女性は少数派で、そこに立っている大多数は男性だった。やはりロンドンのいろいろな階級から集まってきているようだった。

 法廷の中心はアリーナのようになっていた。まわりの傍聴席より二段か三段低くなっていたのである。陪審団の男たちがベンチに座っているだけで、今はまだ比較的人がいない状態だった。これらの男たちから少し離れたところに、信者席のようなものがあり、そこに七名の人間が寄り集まっていた。三人は女性で四人は男性だった。

 「証人たちが見えるでしょう?」とそれらの人々を指さしながら警視がささやいた。彼は彼女がそのうちの一人と顔なじみだと思ったのだが、しかしそうだったとしても彼女は何の反応も示さなかった。

 窓と窓のあいだに部屋全体とむかい合う形で小さなひな壇のようなものが設けてあった。その上には机と肘掛け椅子が置いてある。ミセス・バンティングが正しく推測したようにここが検死官の座る場所だった。台の左側には証人席があり、ここも陪審団より一段と高くなっている。

 その様子ははるか昔の明るい四月に村の宿屋で行われた死因審問とは驚くほどちがうし、あれよりもはるかに厳格で畏怖の念を起こさせた。あのときの検死官は陪審団と同じ高さのところに座り、証人たちはただ一人一人進み出て、検死官のまえに立っただけだった。

 恐る恐るまわりを見ながら、ミセス・バンティングはあの箱みたいな変な台に立たされたりしたら、自分はきっと死んでしまうと思い、ベンチに座る七人の証人に心の底から同情する視線を送った。

 しかし彼女でさえ同情などまったくお門違いであることにじきに気がついた。証人のどの女もやる気満々、興奮して生き生きしていた。一般大衆の耳目を集め嬉しくてたまらないのである。彼らはこの胸躍るドラマに出演する女優、地味かもしれないが重要な女優であって、誰もがその役を楽しんでいることは明らかだった。しかもこのドラマは今やロンドンじゅう、いや、世界じゅうの注目を集めているといってもいい。

 彼らを見ながら、ミセス・バンティングは、どの女がどの女なのだろうとぼんやり考えた。少々薄汚い格好をしたあの若い女だろうか、二重殺人の直後、十秒も経たないときに、確かに、いや、ほとんどまちがいなく復讐者の姿を見たと言うのは。犠牲者の一人が恐怖の悲鳴をあげ、それに目を覚まされて、窓辺に駆け寄ったところ、殺人者の影が霧のなかをすばやく歩き去るのを見たと言うのは。

 もう一人いたはずだ、とミセス・バンティングは思い出した。復讐者がどんな外見をしていたか、詳細に語っていた女が。復讐者と彼女がすれちがうとき、実際に袖が触れ合ったらしい。

 今眼のまえにいるこの二人の女は警察だけではなく、ロンドンのあらゆる新聞記者から何度も何度も質問を受けた。そして彼ら二人の証言をもとにして——もっとも不運なことに二人の証言は大きく食い違っているのだが——復讐者の人相書きが作られたのだった。それによると犯人は立派ななりをした二十八歳くらいのハンサムな若者で、新聞の包みを持っていたという。

 三人目の女は、きっと死んだ女の知人か親友なのだろう。

 ミセス・バンティングは証人たちから眼をそらし、別の見慣れない光景に視線を合わせた。とりわけ注意を引いたのがインクの染みたテーブルで、これは仕切りによって囲われた部分の端から端まで、つまり検死官の小高いひな壇から木の仕切りの出入り口までのびていた。彼女が入ってきたときは三人の男が忙しそうにスケッチをして座っていたのだが、今はどの席にも疲れた、頭の良さそうな男たちが腰掛けている。彼らはおのおのノートというか、綴じていない紙を何枚かまえに置いていた。

 「あれは新聞記者ですよ」と彼女の友だちはささやいた。「ぎりぎりまで入ってこようとしないんです。出ていくのはいちばん最後になりますから。普通の検死審問では二人か、せいぜい三人しか来ないんですが、でも今は新聞記者席のパスを申請しない新聞社は王国内に一つもないといっていいでしょう」

 彼は考えるように法廷の奥を見つめた。「さて、いいように取りはからってきます」

 彼は検死官補佐を手招きした。「こちらの女性をあそこの隅にお一人だけで座れるようにしてもらえませんか。お亡くなりになった方のご親戚なんですが、ただ——」彼が一言二言小声で言うと相手は同情したように頷き、ミセス・バンティングを好奇の眼で眺めた。「こちらにおいでいただきましょうか」と彼は言った。「あそこには今日は誰も来ないんです。証人が七名しかいませんしね——もっとたくさんいるときもあるんですけど」

 彼は優しく彼女を誰もいないベンチに座らせてくれた。そのむかい側には七人の証人が立ったり座ったりしていた。やる気満々の気負った表情で、いつでも自分の役を演じる準備があるような——いや準備どころかそれ以上の意気込みに燃えているような様子だった。

 一瞬、法廷じゅうの眼がミセス・バンティングに集中した。しかし彼女をじろじろと熱心に見つめていた人々もすぐに彼女が事件と何の関係もないことに気づいた。どうやらただの観客らしい。ただほとんどの人とちがって幸運にも法廷に知り合いがいたのだ。だから群集のなかに立ち混じることなく椅子に座って楽にすることができたのだ。

 しかし彼女は長いこと一人ぽつねんとそこに座っていたわけではない。下で見かけた偉そうな紳士たちがすぐに法廷に入ってきて、彼女の席のほうへ案内されてきた。そのうち二人か三人は新聞記者席へと招じ入れられた。ミセス・バンティングが親友みたいにその顔をよく知っている、例の有名な新聞記者もそこには含まれていた。

 「検死官の入場です」

 陪審団はどやどやと立ちあがり、また座った。聴衆は急にしんと静まりかえった。

 そのあとつづいて起こったことは、遠い昔、田舎で行われた形式ばらないささやかな検死審問を、はじめてミセス・バンティングに思い出させた。

 まず「オウイェズ!オウイェズ!」という声が聞こえてきた。死の原因——突然の、不可解な、恐るべき死の原因——を厳密に調べることが仕事である人々への、古いノルマン・フレンチの呼びかけである。

 陪審団は全部で十四人だったが、全員がまた立ちあがった。彼らは手を挙げ、奇妙な誓いの文句をおごそかに一斉に繰り返した。

 検死官と補佐のあいだでくだけた会話がすばやくかわされた。

 ええ、準備のほうはとどこおりなく。陪審団は死体を二体とも——と言いかけて彼は急いで訂正した——死体を見ております。この検死審問の対象となるのは厳密に言えば一体の死体のみだったのである。

 かすかな衣擦れの音すら法廷じゅうに聞こえそうな完璧な静寂のなか、検死官は——賢そうな顔付の紳士だったが、このように重要な日に、このように重要な役目を果すにはいささか年若いような気がミセス・バンティングにはした——恐ろしい、謎めいた復讐者のいわば犯罪歴を簡単に振り返った。

 彼は非常に明快な話し方をし、それが次第に熱を帯びていった。

 彼は以前、復讐者の犠牲となった一人の人間の検死審問に出たことがあると言った。「専門家としての興味から行ったにすぎないのですが」と彼は余談としてそんなことを言った。「まさかわたし自身が、不運な人々の一人の審問を担当することになろうとは思ってもいませんでした」

 彼は延々と話しつづけた。もっとも本当のことを言えば、彼に言いたいことなどほとんどなかったのである。しかも彼が言うべき少しのことは、聴衆の誰もが知っていることだった。

 ミセス・バンティングはそばに座る年老いた紳士が別の紳士にこうささやくのを聞いた。「できるだけ引き延ばそうっていうんだな。あいつめ。いかにも楽しんでいるといった感じだな!」すると相手がささやき返した。「そう、そう。しかしあいつはいいやつだよ——父親を知っているんだ。学校でいっしょだった。えらく仕事熱心な男でね。とにかく今日も一生懸命やっているよ」

******

 彼女は一心に耳をすませた。隠された恐怖から彼女を開放してくれる単語や文が発せられるのを、あるいは逆にそれらを裏付ける単語や文が発せられるのを、今か今かと待ちながら。しかしそんな単語や文は一度も飛び出してこなかった。

 それでも検死官はその長い演説のしめくくりに何か意味のありそうなことを——あるいは何の意味もないことを——言ったのだった。

 「本日この場において得られた証言が、この恐るべき犯罪を犯し、今なお犯しつつある無法者の逮捕へと将来つながるのではないか、われわれがそういう希望を持っていることをここに申しあげておきたいと思います」

 ミセス・バンティングは不安そうに検死官の決意を秘めた、毅然たる顔を覗きこんだ。今のはどういう意味だろう。何か新しい証拠があるのだろうか——たとえばジョー・チャンドラーが知らないような証拠が。心のなかでそう問いかけたとたん、彼女の心臓はいきなり飛びはねた。大きなたくましい男が証人席についていた——ほかの証人たちとはいっしょにいなかった警察官だ。