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下宿人 cover

下宿人

Chapter 29: ******
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About This Book

生活が傾いた下宿を営む夫婦が、近隣で続発する残忍な連続殺人の噂に包まれる中、上階にやって来た謎めいた下宿人をめぐって葛藤と不安に巻き込まれる。新聞や町の呼び声は犯人を復讐者と呼び、夫妻と周囲の人々は疑念と好奇心に駆られる。妻は同情と保護欲から下宿人に心を寄せ、夫は誇りと生活の危機の間で揺れる。物語は家庭の体面、恐怖の蔓延、道徳的決断と心理的緊張を静かに描き出す。

 しかし彼女の不安と恐怖はすぐに鎮められた。この証人は最初の死体を発見した警官にすぎなかったのだ。早口なてきぱきした話しぶりで、彼は十日まえの寒い、霧の夜の出来事を正確に説明した。地図を見せられ、ゆっくりと考えながらその太い指で印をつけた。ちょうどこの位置であります——いや、まちがえました——ここは別の死体が横たわっていた場所であります。二つの死体が——ジョハンナ・コベットとソフィー・ハートルの死体が——頭のなかでごっちゃになっておりましてと、彼は申し訳なさそうに釈明した。

 そのとき検死官が威厳たっぷりに口をはさんだ。「この検死審問の目的のためには」と彼は言った。「しばらく二つの殺人をまとめて考えなければならないと思います」

 そのあと証人は緊張感が取れたように話しつづけた。早口な一本調子の説明を聞くうちに、復讐者の犯行の圧倒的な恐ろしさがミセス・バンティングをとらえた。血も凍るような怖れと——そう、深い後悔の念が津波のように彼女をとらえたのだ。

 それまで復讐者に殺された酔っぱらいの犠牲者のことなど、考えたこともなかった。考えたとしても脳裏をかすめる程度でしかなかった。彼女の頭は復讐者のことでいっぱいだったのだ——復讐者と彼を追いかけようとしている人々のことで。だけど今はどうだろう。彼女は今日、ここに来たことを激しく後悔していた。警官の言葉がありありと喚起した情景を、はたして心のなかから——記憶のなかから、消すことができるだろうかと、彼女は思った。

 そのとき興奮と興味のどよめきが法廷じゅうから湧き起こった。警官が証人席から降り、かわりに女性の証人の一人がそこへ導かれていったのだ。

 ミセス・バンティングは興味と同情を感じながらその女を見た。そう言えばわたしも恐ろしさにがたがたと震えたものだ、あの哀れな、みすぼらしい、平凡な見かけの女が今そうしているように。女は一分まえまではずいぶん陽気で、ずいぶん嬉しそうにしていたのだが、しかし今や顔色は青ざめ、狩りたてられたけもののようにあたりを見まわしていた。

 しかし検死官はとても優しかった。その物腰は証人を安心させる穏やかなもので、水死した娘の検死審問でエレン・グリーンを優しく扱ってくれたあの検死官とちょうどそっくりだった。

 証人が単調な声で厳かな誓いの言葉を繰り返したあと、彼女は順々に目撃談を語らされていった。ミセス・バンティングはすぐに彼女が寝室の窓から復讐者を見たと言う女であることを知った。話が進むにつれて自信を得たのか、証人は押し殺された悲鳴が長く尾を引くように響き、深い眠りから起こされ、本能的にベッドから飛び起きて、窓に駆け寄ったことを話した。

 検死官は机の上に置いてある何かを見下ろした。「さて、ここに地図があります。あなたの下宿先は二つの犯罪が起きた路地のちょうど真向かいにあるんですね」

 そこで簡単な、意味のないやり取りがかわされた。家じたいは路地のほうをむいていないのだが、証人の寝室の窓は路地を見下ろしていたのである。

 「重要なちがいはありませんね」と検死官はいらだたしそうに言った。「では窓を覗いたとき何が見えたか、簡潔に分かりやすくおっしゃってください」

 人で混み合う法廷に完全な静寂が訪れた。女がそれまでよりももっと冗舌に、確信に満ちた声で話しはじめた。「わたし、あいつを見たんです!」と彼女は叫んだ。「二度と忘れないわ——死ぬまで忘れるもんですか!」そう言って彼女は挑戦するようにまわりを見た。

 ミセス・バンティングはこの女の一階下の住人を取材した新聞記事をふと思い出した。その人は意地悪っぽくこう言ったのだった。リジー・コールはあの晩、ベッドから起き出したりはしなかった、彼女の話はみんなでっち上げだ、と。自分は眠りが浅いのだ、と取材された女は言った。あの晩は病気の子供を看病していた。だからリジー・コールが言うような悲鳴があったり、リジー・コールがベッドから跳ね起きる音がしたら、きっとそれを耳にしていたはずだ。

 「その点はよく分かっているのですよ、あなたが」——検死官は躊躇した——「この恐るべき犯罪を行った人間を見たと考えていることは。しかしあなたからお聞きしたいのは、その人の人相です。誰もが霧が出ていたことを認めていますが、あなたは彼が窓下を歩くのをはっきり見たとおっしゃる。ですので、彼がどんな様子をしていたか、どうかそのことを話してください」

 女は手にした色つきのハンカチの隅をねじったり、元に戻したりしはじめた。

 「はじめからお聞きしましょう」と検死官は忍耐強く言った。「その男は路地から急ぎ足で出てきたとき、どんな帽子をかぶっていましたか」

 「ただの黒い帽子でしたよ」と証人はようやくしゃがれた、やや動揺した声を出した。

 「なるほど——ただの黒い帽子。ではコートはどうです。男が着ているコートはどんなものか分かりましたか」

 「コートは着てなかったんです」と彼女はきっぱりと言った。「コート無しですよ!それははっきりおぼえてる。だってすごく寒かったんですから。あんな天気でコートを着ない人なんていませんよ」

 陪審員の一人は新聞の切り抜きを読んでいて、証人の発言にはいっこう耳を傾けていないようだったが、そのときばかりは飛び上がって手を挙げた。

 「何でしょうか」検死官は彼のほうを振り向いた。

 「ちょっと申しあげたいんですが、こちらの証人——リジー・コールさんとおっしゃるのならですね、彼女は最初、復讐者はコートを着ていたと言っているんですよ。大きな厚手のコートを着ていたって。ここに書いてあります、この新聞に」

 「あたし、そんなこと言わなかった!」と女はかんかんになって言った。「イヴニング・サンの若い記者が来て、そういうことをわたしに言わせたのよ。そいつは自分の好きなことを新聞に載せたんだわ——あたしは一言もそんなこと言っちゃいないのに!」

 これに対して失笑がもれたが、すばやく静められた。

 「これからは」と検死官はもう着席しているさきほどの陪審員にむかってきびしい調子で言った。「お尋ねになりたいことがあるときは、陪審長を通して訊くように。それからわたしの取り調べが終わるまで待ってください」

 しかしこの中断——この非難は、証人をすっかり動転させてしまった。彼女はどうにもならないほど矛盾したことを言いはじめた。窓の下の薄暗がりを急ぎ足で通り過ぎた男は背が高かった——いいえ、低かったわ。やせていて——ちがう、太りぎみの若者だった。彼が何かを手に持っていたかという点になると、実に激しい議論が繰り広げられた。

 証人は断定的に、自信たっぷりに、新聞紙の包みを脇に抱えていたと言った。うしろ姿を見たときも、それは脇からはみ出して見えた——そう彼女は言い切った。しかしロンドン警視庁の捜査官にはじめて目撃証言をしたとき、彼女はそんなことを一言も言っていなかった。そのことはごく穏やかに、しかしきっぱりと証明された。実のところ彼女は、男は手ぶらだった、何も持っていなかった、と断言していたのだ。両腕を前後に振っているのが見えたとも言っていた。

 検死官は一つの事実——それが事実と呼べるならの話だが——を引き出した。リジー・コールは、男が窓の下を通るとき、顔をあげて彼女を見た、とみずからすすんで証言したのである。それはまったく新しい証言だった。

 「あなたを見あげたのですか」と検死官は繰り返した。「取り調べを受けたとき、そんなことは何もおっしゃっていなかったが」

 「こわかったから、何も言えなかったのよ。死にそうなくらいこわかったから!」

 「あの晩は暗くて霧が出ていたことは知っていますが、本当に顔を見たというのなら、どんな人相だったか教えてもらえませんか」

 しかし検死官の声は熱意を失い、手は机の上をさまよっていた。今や法廷にいる人間は誰ひとり女の話を信じていなかった。

 「浅黒かった!」彼女は芝居がかった声で答えた。「浅黒くて、黒人みたいだった!分かるかしら、黒んぼうみたいな感じ」

 クスクスという笑い声が聞こえてきた。陪審団さえにやりと笑った。検死官は鋭くリジー・コールに証人席を降りるよう言った。

 次の証人ははるかに信憑性のある証言をした。

 さきほどの証人よりも年のいった、おとなしそうな女性で、慎み深く黒い服を身につけていた。彼女の夫は犯罪のあった路地、あるいは抜け道から百ヤードほど離れたところにある大きな倉庫の夜警をしていた。そのため夫がいつも午前一時に食べる夜食を届けに彼女は外出したのだった。すると男が荒く息をはずませながら急ぎ足で彼女のそばを通りすぎた。彼に注意をむけたのは、その時間に人に会うことがめったになかったからで、また男の表情と振る舞いが奇妙で異様だったからである。

 じっと聞き入っていたミセス・バンティングは、警察が出した復讐者の人相書き——彼女、エレン・バンティングをほっと安堵させたあの人相書き——は主にこの証人の言ったことをもとに作られたのだと思った。

 証人は静かに、自信を持って話をし、男が持っていた新聞の包みに関しては非の打ち所がないくらい明快で確かな証言をした。

 「ひもで小さくくくられた包みでございました」と彼女は言った。

 立派ななりをした若者がそんな包みをかかえているというのが、彼女にはちぐはぐに感じられた——だからこそ包みに目が行ったのである。しかし重ねて尋ねられると、あの晩はひどく霧が深かったこと——通りなれた道だったが、迷子になりそうなくらい霧が濃かったことを認めた。

 三人目の女が証人席に立ち、ため息をついたり涙を流したりして、亡くなった被害者の一人、ジョハンナ・コベットと交友があったことを語ると、同情のざわめきが起こった。しかし故人となった「アニー」は酒さえ飲まなければ、優しい上品な女になっていただろうとしぶしぶ認めたことをのぞいて、捜査に新たな光を投げかけるようなことは何も言わなかった。

 彼女への尋問はできるかぎり簡略化された。その次の証人、ジョハンナ・コベットの夫に対する尋問もそうだった。彼はきわめて堂々とした恰幅のいい男で、クロイドンにある大きな会社の作業長をしていた。彼は自分の社会的地位に強いこだわりがあるようだった。妻とは二年間会っていません。半年ほど消息を聞いていませんでした。酒を飲むようになるまえは、すばらしい妻で——ええ、すばらしい母でもありました。

 心ある人、想像力のある人は、そのあと、またもや胸の苦しくなるような数分間を過ごさなければならなかった。殺された女の父親が証言台に立ったのである。彼は夫よりも娘の最近の様子を知っていたが、しかしもちろん娘の殺害、あるいは殺害者について新しい情報を与えることはできなかった。

 店じまいの直前に二人の女に酒をついだバーテンはかなり手荒い扱いを受けた。彼はさっそうと証言台に立ったのだが、引きさがるときは下をむいておろおろしていた。

 このあとまさかと思うような実に劇的な出来事が起きた。それは新聞各紙が夕刊に派手に書き立て、ミセス・バンティングを憤慨させた出来事だった。しかし検死官も陪審員もそれにさしたる重要性を認めなかった——結局のところ、彼らがどう考えるかが肝腎なのである。

 審問の進行が一時とどこおっていた。七名の証人全員の聴取が終り、ミセス・バンティングの近くにいた紳士がこうささやいた。「次はドクタ・ゴーントが呼ばれる。この三十年ほど、大きな殺人事件には必ず喚問されているんだ。何か面白いことを話してくれると思うよ。わたしは彼の話を聞きに来たようなものなんだから」

 しかし検死官のそばに腰かけていたドクタ・ゴーントが立ちあがるよりも早く、一般の観衆のあいだから、より正確には、傍聴席と法廷をへだてる低い木の入り口近くに立っていた観衆たちのあいだから、ざわめきが起こった。

 検死官補佐が申し訳なさそうに検死官に近づき、封筒を手渡した。ふたたび法廷に完全な静寂が訪れた。

 ややとまどったような表情で検死官は封筒を開けた。そこに入っていたメモ用紙を見つめ、それから顔をあげた。

 「ミスタ——」彼はもう一度視線を落とした。「ミスタ、ええ、ミスタ、これはキャノットでしょうか」彼は心もとなさそうに言った。「どうかまえのほうへ」

 観衆のあいだから忍び笑いがもれ、検死官は顔をしかめた。

 立派な毛裏の外套を身につけ、生き生きしたピンク色の顔に頬髭を生やし、こざっぱりした、しゃれた恰好の老紳士が、一般の観衆に混じって立っていたその場から証人席へと案内されてきた。

 「これはいささか異例の取り計らいです、ミスタ、ええ、キャノット」と検死官はきびしく言った。「このようなメモは審問がはじまるまえにわたしに送っていただかねばなりません。こちらの紳士は」と彼は陪審団にむかって言った。「われわれの捜査に関連してきわめて重大な情報をお持ちとのことです」

 「わたしが黙っていたのは——知っていることを胸に秘めたままにしていたのは」——ミスタ・キャノットは震える声でそう話しはじめた。「新聞が怖くてたまらなかったからです!わたしが何か言ったら、たとえ警察に対してしゃべったとしても、わたしの家は記者とか新聞社の人間に取り囲まれるでしょう‥‥わたしには病弱な妻がいます、検死官殿。そんなことが起きたら——わたしが怖れているようなことが起きたら——妻は死んでしまうかもしれません。この審問の記事だって読ませたくはないのです。さいわい妻には優秀な看護婦がついていて——」

 「宣誓をしてください」と検死官が鋭く言った。彼はもうこのくだらない人物に発言の機会を与えたことを後悔していた。

 ミスタ・キャノットはそれまでのほとんどの証人たちとちがい、威儀を正して重々しく宣誓した。

 「陪審団に申しあげます」と彼は話しはじめた。

 「おやめください」と検死官がさえぎった。「よろしいですか。わたしの言うことをよく聞いてください。あなたはこの手紙にこう書いている。例の——例の——」

 「復讐者ですね」とミスタ・キャノットはとっさに口をはさんだ。

 「この犯罪を犯した者を知っている、と。さらに今われわれが調べている殺人が行われた晩に、あなたは彼に会ったと言明していらっしゃる」

 「その通りです」とミスタ・キャノットは自信たっぷりに言った。「わたし自身は健康そのものでありますが」——彼は今や面白そうに聞き入る法廷に笑顔をむけた——「わたしのまわりにいるのは病気の人ばかり、友だちも病気に苦しんでいる人ばかりです。それがわたしの運命なのでしょう。ご面倒でもわたしの個人的な事情について説明を聞いていただかなければなりません、検死官殿。夜中の一時などという突拍子もない時間にたまたま外出していた事情をご理解いただくために——」

 またもやクスクスという笑い声が法廷のなかを駆け巡った。陪審団でさえ、満面に笑みを浮かべた。

 「そうなのです」と証人はおごそかにつづけた。「わたしは病気の友だちといっしょでした。実は彼は死を目前にしていて、そのあと亡くなってしまいました。わたしが住んでいるところを申しあげるわけにはいきませんが、検死官殿がお手にしていらっしゃる紙には書いておきました。住所を明らかにする必要はありませんが、しかしわたしが家に帰るとき、リージェント・パークの一角を通らなければならないことはお分かりになるでしょう。そこで——正確に言うとプリンシズ・テラスの真ん中あたりですが——非常に奇妙な風体の人に呼び止められ、話しかけられたのです」

 ミセス・バンティングははっと胸を押さえた。激しい恐怖感が彼女をとらえた。

 「気絶なんかしちゃだめよ」彼女は急いで自分にそう言い聞かせた。「気絶なんかしちゃだめ!いったいどうしたのかしら」彼女はかぎ薬を取り出し、たっぷり長々と息を吸い込んだ。

 「彼は近づきにくい感じの、やせた男でした、検死官殿。そして何とも奇妙な表情を浮かべていました。彼は教育のある男——分かりやすく言えば、紳士であると思います。特に注意をひかれましたのは、彼が独り言を言っていたことであります。それも詩を暗唱しているようでした。わたしは復讐者のことなどまったく頭にありませんでした。これっぽっちも考えていませんでした。正直に言いますが、わたしはこの紳士は施設を抜け出してきた精神病患者じゃなかろうか、と思いました。付き添い人のもとから逃げ出してきたんじゃなかろうか、と。申しあげるまでもありませんが、リージェント・パークはたいへん静かな、心休まる場所ですから——」

 そのとき一般の傍聴人の一人が大声でゲラゲラ笑い出した。

 「お願いします、検死官殿」と年老いた紳士は急に大声を出した。「この見苦しい不真面目な振る舞いからわたしをお守りください!わたしは市民としての義務を果すという、その目的のためにのみ、ここに来たのです」

 「事件に関係のあることだけをお話しください」と検死官は冷淡に言った。「時間が経っていますし、ほかにもう一人重要な証人——お医者さんの証人を呼ばなければなりません。できるだけ手短に理由を説明してください、なぜその男が——」審問がはじまってからはじめて彼は我を折ってこの言葉を使った。「復讐者だと思ったのですか」

 「その話をするところだったんですよ!」とミスタ・キャノットは慌てたように言った。「今その話しをします!もうちょっとだけご辛抱ください、検死官殿。あれは霧の深い夜でしたが、そのときはまだ大したことはなかったのです。わたしたちが——わたしと大きな声で独り言を言っていた男が——すれ違ったとき、彼はむこうに行くかわりに立ち止って、わたしのほうにむかってきたのです。わたしは妙に不安な気持ちになりました。興奮したような、取り乱したような顔をしてましたから。わたしはできるだけ気持ちを落ち着かせるようにしゃべりかけました。『ずいぶんと霧が深い夜ですね』と。すると彼は『そう——そうですね。霧の深い夜です。仄暗く、有益な行いをするにはぴったりの夜です』まったく妙な言い方じゃありませんか、検死官殿——『仄暗く、有益な行い』だなんて」彼は期待に満ちた眼で検死官を見た。

 「それで?それでどうだというのですか、ミスタ・キャノット。それで終りですか。その人物が——たとえばキングズ・クロスにむかったのを見たのですか」

 「いいえ」とミスタ・キャノットはしぶしぶ頭を振った。「いいえ。正直に申しあげますが、見ませんでした。しばらく肩を並べて歩いたのですが、彼は道路を横切り霧のなかに消えてしまいました」

 「それでけっこうです」と検死官は言った。彼の口調はそれまでよりも優しいものになっていた。「お礼を申し上げます、ミスタ・キャノット。あなたが大切だとお考えになった情報のためにわざわざお出でいただきまして」

 ミスタ・キャノットは滑稽な、時代がかったお辞儀をした。またもや観客のなかの数名がへらへらと笑った。

 証人席を降りるとき、彼は振り返って検死官を見、唇を動かした。あたりはひそひそと話し合う声でざわめいていたが、少なくともミセス・バンティングははっきりと彼が言ったことを聞いた。

 「一つ言い忘れました、検死官殿。重要なことかもしれません。その男は鞄を持っていたんです——どちらかというと薄い色の革鞄で、左手に持っていました。柄の長いナイフとかが入りそうな鞄ですよ」

 ミセス・バンティングは記者席を見た。彼女はミスタ・スルースの鞄が消えたとバンティングに話したことを急に思い出した。そのとき強い感謝の気持ちが胸のなかに湧き起こった。インクの染みた長テーブルにむかう記者は誰一人ミスタ・キャノットの最後の言葉を書き留めていなかった。実は誰もその発言を聞いていなかったのだ。

 この最後の証人はまたもや手を挙げ人々の注目を集めた。法廷はふたたび静まりかえった。

 「もう一言」彼は震える声で言った。「審問が終るまで座っていてもいいでしょうか。証人席に余裕があるようですね」彼は許可されるのを待たずにすばやくそちらのほうに行き、ベンチに座った。

 ミセス・バンティングは驚いて顔をあげた。友だちの警視が彼女のほうに身体を屈めていた。

 「よろしかったらいっしょに出ませんか」彼は急いで言った。「医学的な証言なんてお聞きになりたくないでしょう?いつもそうなんですが、女性にとっては聞くに堪えない内容ですからね。それに審問が終ると人々がどっと出口に殺到します。今なら静かに出ていくことができますよ」

 彼女は立ちあがり、青ざめた顔にベールを降ろし、おとなしく彼に従った。

 彼らは石の階段を降り、下の大きな、今は誰もいない部屋を通り抜けた。

 「裏口から出ましょう」と彼は言った。「お疲れでしょうね。家に帰ってお茶を一杯お飲みになりたいんじゃないですか」

 「何てお礼を申しあげたらよろしいのやら!」彼女の眼には涙が浮んでいた。興奮と感激で身体が震えていた。「本当にご親切に」

 「いやいや、とんでもない」彼は少しきまり悪そうに言った。「さぞかしつらかったでしょうなあ」

 「あの老紳士はまた呼ばれるんでしょうか」彼女は小さな声で言った。相手を見あげる眼には訴えるような、苦しんでいるような色が浮んでいた。

 「とんでもありませんよ!あんな変人の爺さんなんか!われわれはあの手の連中に悩まされているんです。しかもあの手合いは得てして妙な名前の持ち主なんですよ。あいつらはシティとかでせっせと仕事をし、六十になって引退すると、あとはもう退屈で首をつりたいくらいなんです。ロンドンにはあんなおかしな連中が何百人といますよ。夜中に外を歩けば必ずあんなやつらに出くわすんですから。それこそうじゃうじゃいます!」

 「では、あの方の証言には何の価値もないとお考えですか」彼女は思いきって訊いてみた。

 「あの老人の証言ですか。ご冗談を!」彼は気さくに笑った。「わたしの考えを教えてさしあげましょう。殺人が起きてから時間が経過しているという点を除けば、わたしは二人目の証人は確かにあの奸智にたけた悪魔を見たと思いますね——」彼は声をひそめた。「しかしドクタ・ゴーントは断言しています——彼のほかにも二人のお医者さんがそう言っているんですが——あの犠牲者たちは発見された時間より何時間もまえに殺されたんだそうです。医者というのはいつでも自分たちの証拠事実は絶対正しいと言いますからね。そう言わなければならないんですよ——さもなきゃ、誰が彼らを信じます?時間があれば、ある事件のお話をするんだがなあ——それはドクタ・ゴーントのせいで殺人者にみすみす逃げられた事件なんですよ。わたしたちはその男がやったと確信していたんです。でも犯人のやつ、ドクタ・ゴーントが鑑定した被害者の死亡時刻には別の場所にいたって、アリバイを証明しやがったんです」

第二十章

 審問は定刻にはじまったから今からでも遅くはないのだが、ミセス・バンティングはどんなに強制されてもイーリングに行く気力はないと思った。すっかりくたびれはて、何も考えることができないくらいだった。

 老いさらばえた老女のようにゆっくりゆっくり歩きながら、彼女は力なく家のほうにむかって歩き出した。どういうわけか、汽車に乗るより外の空気を吸っていたほうが気分がよくなるような気がした。それにそのほうが医者とのやりとりをでっちあげなければならない瞬間を——彼女が怖れ、いとわしく思う瞬間を——先延ばしすることができる。

 バンティングは彼の階級に属するたいていの男や女がそうであるように他人の病状にむやみやたらと興味を持つ。自分が並はずれて健康に恵まれているからなおさら興味があるらしい。エレンが何もかも、つまり医者が何を言ったか、その一言一句にいたるまですべてを教えなかったら気を悪くするにちがいない。

 足早に歩いていると、どの曲がり角でも、どの酒屋のまえでも、熱心な新聞売り子が同じように熱心な買い手たちに午後の最新版の新聞を売りつけているようだった。「復讐者の検死審問」と彼らは大得意の面持ちで叫んだ。「最新の証拠が全部載ってます!」あるところでは内容を書いたちらしが舗道の上に一列に並べられ、重しがわりの石が置かれていた。彼女は立ち止ってそれらを見た。「復讐者の検死審問はじまる。はたしてその正体は。詳細記事」また別のちらしには皮肉な問いかけが読まれた。「復讐者の検死審問。この男をご存じ?」

 そのふざけた質問が大きな活字で彼女を見上げたとき、ミセス・バンティングは気分が悪くなった。あまりにも気分が悪くなってめまいがしたものだから、彼女は生れてから一度もしたことのないことをした。酒場に入って、二ペンスをカウンターに置き、冷たい水を頼んでそれを受け取ったのである。

 ガス灯に照らされた通りを歩いているとき、彼女の頭にひっきりなしに浮んできたのは——見てきたばかりの審問のことではなく、復讐者のことですらなく、その被害者のことばかりだった。

 彼女は死体置き場に横たわる二つの冷たい死体を思い描いてぶるっと身体を震わせた。三つ目の死体も見えるような気がした。それは冷たいけれども、ほかの二体と比べればまだ温かい。昨日の今くらいの時間には、復讐者の最後の犠牲者はまだ生きていたのだ。かわいそうに。生きていて、しかも、とりわけ陽気で明るかったのだそうだ。彼女の友だちがさっそく取材に来た新聞にそう語っていた。

 これまでミセス・バンティングは復讐者に殺された人々の姿をどんな意味でも思い浮かべたことはなかった。しかし今や犠牲者の姿が彼女の脳裏を去らなかった。この新しい戦慄が昼も夜も彼女を包む恐ろしい不安に付け加わるのだろうか。彼女は悄然としてそう考えた。

 家が見えてくると、彼女の気持ちは急に軽くなった。狭くて、くすんだ色の小さな家——両側には同じつくりの家が建っているが、ただしどちらの家の庭もあまり手入れが行き届いていない——この家ならきっとどんな秘密だってもらすことはないだろう。

 復讐者に殺された人々は少なくともしばらくのあいだ彼女の心のなかからしりぞいた。もう彼らのことを考えることはなかった。彼女の意識はバンティング——バンティングとミスタ・スルースのことに集中した。自分が留守のあいだに何が起きたのだろう——下宿人は呼び鈴を鳴らしただろうか、もしもそうだとしたら彼はバンティングにどう接したのだろう。またバンティングは彼にどう接したのだろう。

 板石敷きの小径を歩く足どりは重かったけれど、しかし同時に彼女は帰宅の喜びも感じていた。そのとき彼女は、ぴたりと閉ざされたカーテンの背後からバンティングが彼女を覗き見していたことを知った。ノックもベルも鳴らさないうちに、彼がドアを開けてくれたからである。

 「心配していたんだよ」と彼は言った。「入れよ、エレン、さあ、早く!こんな日に出歩くのは寒くてたいへんだったろう。それに最近は外に出なかったものな。医者はどうだったい?何ともなかったかい?」彼は愛情のこもった心配そうな顔で彼女を見つめた。

 ミセス・バンティングの頭に、突然、名案が浮んだ。「それがね」と彼女はゆっくりと言った。「エヴァンズ先生はいなかったの。だいぶ待ってみたんだけれど、お戻りにならなかったわ。わたしが悪かったのよ」と彼女は急いで付け足した。なるほど自分には夫に嘘をつくなにがしかの権利があるだろうが、しかし数年前とても親切にしてくれた医者の悪口を言う権利は何もないと、こんなときでも彼女は几帳面にそう考えるのだった。「昨日の晩、お知らせしておくべきだったわ。もしかしたらいるかもしれないと思ってわざわざ出かけたわたしが馬鹿だった。一日じゅう往診で忙しくしていらっしゃるのに」

 「お茶くらいはいただけたんだろう?」と彼は言った。

 ふたたび彼女は躊躇した。医者がまともな召使いを雇っているのなら、当然、彼女にお茶を差し出していただろう。とりわけ彼女が医者と長い付き合いのあることを話していたなら、そうしてくれたはずである。

 彼女は妥協した。「差し出されたけど」と彼女は弱々しい、疲れ切った声で言った。「でも、バンティング、飲む気がしなかったの。今はとっても飲みたいんだけど。コンロでお湯を沸かしてくれる?」

 「ああ、まかせとけ」と彼は勢い込んで言った。「居間で座って待っていてくれ。外套なんて来たままでいいさ。まずはお茶を飲ませてあげよう」

 彼女は夫の言う通りにした。「デイジーはどこ?」彼女は唐突に訊いた。「わたしが帰るまでに戻っていると思ったんだけど」

 「今日は帰ってこないよ」——バンティングの顔に奇妙な、ずるそうな笑みが広がった。

 「電報でも寄こしたの?」とミセス・バンティングは尋ねた。

 「いや、チャンドラーがさっき来て教えてくれたんだ。彼はむこうの家に行ったらしい。しかもだね——こんなこと、信じられるかい、エレン?——あいつはマーガレットと友だちになってしまったんだ。愛というのはまったく偉大なものだね。デイジーの鞄を持ってやろうとむこうに行ったんだが、そうしたらマーガレットが、奥様から芝居にでも行きなさいとお金を送ってもらった、よかったら今晩いっしょに——つまり彼女とデイジーといっしょに——パントマイムを見に行かないかと誘われたんだそうだ。こんな話、おまえ、聞いたことがあるかい」

 「とってもいいことじゃない」ミセス・バンティングはぼんやりと言った。しかし彼女は喜んでいた——肩の荷が下りてほっとしていたのだ。「それじゃいつ家に帰ってくるの?」彼女は辛抱強く訊いた。

 「チャンドラーは明日の朝も勤務を抜けるそうだ。今晩と明日の午前だね。夜勤はあるんだけど、昼ご飯までにはデイジーを連れて戻ると言っていた。それでいいかい、エレン?」

 「ええ。それでいいわ」と彼女は言った。「あの娘にもちょっとぐらい遊ばせてあげなくちゃ。青春は一回きりですもの。ところでわたしのいないあいだに下宿人の呼び鈴は鳴った?」

 コンロにかけたやかんが煮立つのを見ていたバンティングは振り返った。「いや。考えて見りゃ変なんだが、しかし、エレン、正直な話、ミスタ・スルースのことはすっかり忘れていたよ。ほら、チャンドラーが来てマーガレットのことを話してくれたんだ。大笑いしながら。でも、おまえが留守のあいだに、ちょっとした事件が起きたんだよ、エレン」

 「ちょっとした事件?」彼女は驚いたように声を出した。椅子から立ちあがり、夫のほうに近づいた。「何があったの?誰が来たの?」

 「おれあてに知らせが届いたんだ。今晩、若いご婦人の誕生パーティーがあって、そこに給仕として出てくれないかって。場所はハノーヴァー・テラスさ。給仕が——例の無能なスイス人給仕の一人だよ——土壇場になってやめてしまったんで、おれにお鉢が回ってきたってわけさ」

 正直な顔が勝利感に輝いていた。ベイカー通りの古い友人の仕事を引き継いだ男はこれまでバンティングを無視しつづけてきた。バンティングの名前はずっと昔からリストに載っていたし、また彼はいつでも満足の行く仕事をしていたにもかかわらず、この新しい経営者はそれまで彼を雇ったことがなかった——たったの一度さえもなかったのである。

 「安い料金で引受けたりしなかったでしょうね」と妻は抜け目なく訊いた。

 「そんなことするもんか!さんざんしぶる振りをしてやったんだ。そしたら、やっこさん、やけにそわそわしだしてね。最後には半クラウン料金を上増してくれたよ。それで、まあ、丁重にお引き受けしたわけだ!」

 夫と妻は久しぶりに陽気な笑い声をあげた。

 「一人で留守番できるだろう?下宿人は勘定に入れてないが——あの人はいないも同然だから——」バンティングは心配そうに彼女を見た。思わずそんな質問をしたのはエレンが最近おかしな振る舞いをし、まったく彼女らしくなかったからである。そうでなければ一人になることを怖がるのではないか、などと心配することはなかっただろう。もっと仕事があった頃は、しょっちゅう一人で留守を守っていたのだから。

 彼女は夫をじろりと見た。どことなく疑うような目つきだった。「怖いですって」と彼女は繰り返した。「そんなはずないじゃない。どうしてわたしが怖がるのよ。怖がったことなんてなかったじゃない。バンティング、どうしてそんなことを言うの?」

 「いや、何でもないさ。ただ、一階に一人っきりでいると変な気分になりはしないかと思ってね。昨日、チャンドラーがいたずらで変装して玄関に来たとき、おまえ、ずいぶん取り乱していたじゃないか」

 「知らない人が来ただけだったら恐くなんかなかったわ」と彼女は無愛想に言った。「あの人がくだらないことを言うから——まったくあの人らしいけど——それで取り乱したのよ。それに今はもう何ともない」

 彼女がありがたくお茶を飲んでいるとき、外から新聞売り子の叫び声が聞えてきた。

 「ちょいとひとっ走り行ってくる」とバンティングは弁解するように言った。「今日の検死審問で何があったか聞いてくるよ。それに昨日の晩の凶行について何か手がかりを知っているかもしれない。チャンドラーは事件のことばかりしゃべっていたんだ——デイジーとマーガレットの話をしてないときは。今晩は夜勤だそうだよ。幸い、十二時までは仕事がないんだ。芝居がはねたあと、二人を送っていく時間はたっぷりある。それにパントマイムが長引いて家に送っていくことができないようなら、あいつが金を払って馬車に乗せるつもりだそうだ」

 「夜勤?」とミセス・バンティングは鸚鵡返しに言った。「いったい何のために?」

 「知っているだろう。復讐者はいつも二日つづけて事件を起こすんだ。警察は今晩もう一度やるだろうと思っているんだよ。しかし、それでもジョーの勤務は真夜中から五時までだからな。それからちょっと休んでデイジーを迎えに行くそうだ。若いっていうのはいいなあ、エレン」

 「こんな夜に外に出るとは思えない!」

 「どういうことだい?」とバンティングは彼女をまじまじと見つめながらいった。エレンは独り言のように妙なことを口走った。しかも荒々しい、気が高ぶったような調子で。

 「どういうこと?」と彼女は繰り返し——喩えようもない恐怖に心臓をつかまれた。わたしは何を言ったのだろう?考えていることを思わず声に出してしまった。

 「外に出るとは思えないって言ったじゃないか。もちろん出かけるに決まっているさ。勤務前だって芝居を見に外出するんだ。警察が寒いからって外に出るのをいやがったら、仕事にならんだろう」

 「わ、わたしは復讐者のことを考えていたのよ」とミセス・バンティングは言った。彼女は夫をじっと見つめた。なぜか本当のことを言わずにいられなかった。

 「やつには暑さも寒さも関係ないんだ」とバンティングは重々しく言った。「人間らしい感情が死んでしまっているんだろう——もちろん復讐欲をのぞいてな」

 「復讐者ってそういう人間だと思う?」と彼女は夫を見た。この危険な、このあやうい会話に彼女はどういうわけか惹きつけられた。まるでそれをつづけなければならないような気がした。「どう思う?犯人はあの女が見たと言っている男かしら。新聞の包みを持って眼のまえを通り過ぎたっていう若い男かしら」

 「ええと、たしか」と彼はゆっくりと言った。「寝室の窓からだったな、女が彼を見たのは」

 「ちがう、ちがう。わたしが言っているのはもう一人のほう。倉庫で働いているご主人に食事を持っていった人。彼女のほうがずっと立派ななりをしていたじゃない」とミセス・バンティングはいらいらして言った。

 そのとき夫の茫然とした、驚きの表情を見て、彼女は言いしれぬ戦慄を感じた。自分は気でも狂ったのだろうか、こんなことを言うなんて!彼女は急いで椅子から立ちあがった。「あら、わたしとしたことが」と彼女は言った。「無駄話なんかしていられない。下宿人の夕食を作らなければならないのに。汽車のなかで知らない人が話してくれたのよ、復讐者を目撃したって人のこと」

 答えを待つことなく彼女は寝室に入り、ガスに火をつけ、ドアを閉めた。すぐにバンティングが新聞を買いに出かける音が聞えた。危険な会話のあいだ二人とも新聞のことは忘れてしまっていた。

 のろのろと疲れたように暖かいコートとショールを脱ぐと、ミセス・バンティングはぶるっと震えた。ひどい寒さだった。例年と比べてさえ不自然に寒かった。

 彼女は煖炉のほうにものほしそうな視線をむけた。今は前に化粧台が置かれているが、台を横にずらして少しだけ火を熾すことができたらどんなに気持ちがいいだろう。特に今晩はバンティングが外出するのだから。夫は制服を着用しなければならないだろう。彼女は夫が居間で服を着ることを嫌った。そんなことをするのは作法にはずれているように思えたのだ。この寝室に火をいれたらどうだろう。彼が出ていったあとも、火があると気持ちが引き立つのではないだろうか。

 今晩は眠れそうもない、ミセス・バンティングはそのことを痛いほど自覚していた。彼女はおぞましい物でも見るように、柔らかい、すてきなベッドを眺めた。安らぎのないあの寝台の上に自分は横たわるのだ、いつまでも、いつまでもじっと耳をすませながら……。

 彼女は台所に降りていった。ミスタ・スルースの夕食は準備ができていた。審問の途中であわてて帰らなくてもいいように、あらかじめ出かけるまえに用意しておいたのだ。

 お盆を手すりのてっぺんにもたせかけ、彼女は聞き耳をたてた。客間は暖かく、心地よい火が燃えている。けれども下宿人はテーブルで本を読みながらどれほど寒々とした思いをしているだろう!しかし聞き慣れない音がドアを通して聞えてきた。ミスタ・スルースはそわそわと部屋のなかを動き回っていたのだ。いつもなら夕方のこの時間は座って本を読んでいるのだが。

 ノックをして、しばらく待った。

 カチリという鋭い音がした。飾り棚の鍵を回した音だ——ミスタ・スルースの女主人はそれにまちがいないと思った。

 しばらく間があった。彼女はもう一度ノックした。

 「お入りください」とミスタ・スルースが大きな声で言い、彼女はドアを開け、お盆を運び入れた。

 「いつもより少し早いんじゃありませんか、ミセス・バンティング」彼の声にはかすかないらだちが感じられた。

 「そんなことはないと思いますが、旦那様。でも出かけておりましたので、もしかしたら時間の感覚が狂っているのかも知れません。お昼を早めにお召し上がりになったので、朝食もいつもより早めにと思いまして」

 「朝食?今、朝食とおっしゃいましたか、ミセス・バンティング」

 「申し訳ございません、旦那様!夕食でございます」彼は相手をじっと見つめた。その黒い、落ちくぼんだ眼には恐ろしい疑惑の色が浮んでいるようにミセス・バンティングには思えた。

 「おかげんが悪いのですか」と彼はゆっくりと言った。「顔色がよくないようですね、ミセス・バンティング」

 「さようでごさいます、旦那様。調子が良くないのでございます。午後はお医者様のところへ行ってまいりました。イーリングのほうまで」

 「お医者さんがちゃんと手当をしてくださったでしょうね、ミセス・バンティング」——下宿人の声は穏やかな、親切な響きに変わった。

 「お医者様に会うと、いつも元気になります」とミセス・バンティングは直接その問いに答えようとはしなかった。

 するとミスタ・スルースの顔に実に奇妙な笑みが浮んだ。「医者は悪しき人々です」と彼は言った。「あなたが彼らのことを褒めるのを聞いてうれしいですよ。彼らは一生懸命努力しています、ミセス・バンティング。人間ですからまちがいもありますが、しかし一生懸命努力しているのですよ」

 「そうでございましょうとも、旦那様」——彼女は心から、真摯にそう言った。医者はどんなときでも彼女にとても優しかった。料金をまけてくれたことだってある。

 テーブルクロスを敷いて、ほかほかの料理をのせた皿を置くと彼女はドアのほうにむかった。「石炭をもう一杯持ってきましょうか、旦那様。たいへん寒うございますから——一分ごとに寒さが厳しくなるようですわ。こんなひどい晩に外出しなければならないなんて——」彼女は遠慮がちに彼を見た。

 するとミスタ・スルースは彼女をどきりとさせるようなことをした。椅子を後ろに突き飛ばし、すっくと仁王立ちになったのである。

 「それは、ど、どういう意味です」彼はどもった。「なぜそんなことを言うのです、ミセス・バンティング」

 彼女はすくみあがり、眼をまるくして相手を見た。ふたたびあの恐ろしい疑惑の色が彼の顔に浮んでいた。

 「わたしはバンティングのことを考えていたのでございます。今晩仕事がございまして。若い女性の誕生パーティーに給仕の役をつとめにまいります。外に出なければならないとは夫ながら気の毒なことだと思っていたのです。制服は生地が薄いものですから」——彼女はたどたどしく話した。

 ミスタ・スルースはやや安心したようだった。彼はふたたび椅子に座った。「そうでしたか!」と彼は言った。「おやおや——それは大変ですね!旦那様が風邪をひかなければいいのですけれど」

 それから彼女はドアを閉め、下に降りた。

******

 バンティングには何も言わず、彼女は重い化粧台を煖炉のまえから移動させ、火をいれた。

 それから彼女はちょっと得意そうにバンティングを呼び入れた。

 「着替えの時間よ」と彼女は陽気に声をかけた。「着替えやすいように火を熾しておいたわ」

 大声で贅沢をとがめられると、「火があったほうが気分がいいのよ。あなたが外出しているあいだ、相手をしてくれるみたいな感じがするし。それに戻ってきたとき部屋が暖かいじゃない。すぐそばだけど、歩いて帰ってきたときには凍え死にそうになっているわよ」と彼女は言った。

 夫が着替えているあいだにミセス・バンティングは上にあがってミスタ・スルースの夕食を片づけた。

 片付けをしているとき、下宿人は一言も話しかけてこなかった。

 彼はテーブルから離れて座っていた。彼にしては珍しいことである。両手を膝の上において煖炉の火にじっと見入っている。

 ミスタ・スルースは孤独そうだった。ひどく孤独そうで、寂しそうだった。どういうものか恐怖だけでなく憐憫の情がどっとばかりにミセス・バンティングの胸のなかにあふれてきた。この方はとっても——何て言うのだろう——彼女は心のなかで言葉を探したが、しかし「優しい《ジェントル》」という言葉しか思いつかなかった——この方はとても上品な、優しい紳士なのだ、このミスタ・スルースは。最近彼は下宿しはじめた頃のように、ふたたびお金を放り出しておくようになった。女主人は蓄えがずいぶん減ってしまったことに気づき心配になったが、ごく簡単な計算をしてみると、なくなったお金のほとんどは彼女のものになっていることが分かった。あるいはともかく彼女の手を通して消えているのだった。

 ミスタ・スルースは食費を切り詰めたりはしなかった。また主人夫婦に対して払うと約束したものは惜しみなく支払った。ミセス・バンティングは少しだけ良心が痛んだ。というのは上の部屋——寛大にも余分な金を払ってくれているあの部屋——はほとんど使われなかったからである。もしもバンティングがベイカー通りのあのいけ好かない男からもう一つか二つ仕事を紹介してもらったら——もう手づるはついたのだからそうなる可能性は大いにある、なにしろ彼は非常に良く訓練された、経験豊富な給仕なのだから——もしもそうなったら、今ほど下宿代を払ってもらう必要はないとミスタ・スルースに言ってやろう。

 彼女は不安そうに、遠慮がちに彼のひょろりとした、丸めた背中を見た。

 「おやすみなさいませ、旦那様」彼女はようやくそう言った。

 ミスタ・スルースは振り返った。その顔は悲しそうで疲れ切っていた。

 「ごゆっくりお休みくださいませ」

 「ええ、ゆっくり眠るつもりです。しかしその前に軽く散歩してこようと思います。わたしの癖なんですよ、ミセス・バンティング。一日じゅう研究していましたから、少し運動しなければなりません」

 「まあ、わたしだったら今晩は外に出かけませんけど」彼女は控えめに言った。「底冷えのする寒さなのにお出かけになるなんてよくありませんわ」

 「しかし——しかしですね」——彼は注意深く彼女を見た——「今晩は大勢の人が街に出ているかも知れません」

 「いつもよりずっと大勢おりますでしょう、旦那様」

 「本当ですか」とミスタ・スルースはすばやく訊いた。「おかしなことですね、ミセス・バンティング、一日じゅう遊んでいる人たちが夜更けになってもまだ浮かれ騒いでいるなんて」

 「わたくし、騒いでいる人のことを考えていたのではありません、旦那様。わたくしが考えていたのは」——彼女はためらい、苦しそうに言葉を吐き出した。「警察のことでございます」

 「警察?」彼は右手をあげ、神経質な仕草で二三回あごをなでた。「しかし人間の——人間の取るに足りない力など、神の力をまえに何の役に立つでしょう。神の門守に足を守られた者にすらかないはしません」

 ミスタ・スルースはある種の勝利感に顔を輝かせて女主人を見、ミセス・バンティングはうち震えるほどの安堵感をおぼえた。それでは下宿人は気を悪くしなかったのだろうか。あんなことを言っても気に障らなかったのだろうか。あんなこと——わたしは忠告のつもりであんなことを言ったのだろうか。

 「その通りでございますわ、旦那様」と彼女はうやうやしく言った。「けれども神様はわたしたちに注意もするようにうながしていらっしゃいますから」そう言って彼女はドアを閉めて下に降りていった。

 しかしミスタ・スルースの女主人はそのまま台所まで降りていったわけではない。彼女は居間に入ると、下宿人の食事の残りをのせたお盆をテーブルの上に置いた。次の日の朝バンティングにどう思われようとかまいはしないと言わんばかりに。それから廊下と居間のガスを消し、寝室に入ってドアを閉ざした。

 火があかあかと燃えていた。着替えるにはその光だけで充分だと思った。

 どうして炎はあんな変な具合に伸び上がったり、縮こまったりするのだろう?しばらく火を見つめていた彼女はとうとうまどろみはじめた。

 そのとき——ミセス・バンティングは急に心臓がどきどきとして目を覚ました。気がつくと火は消えかけていた——十二時十五分前の鐘が聞える——そして眠りに落ちるまえに耳をすませて待ちかまえていた音——ミスタ・スルースがゴム底の靴を履き、こっそり下に降りてきて廊下を通り、静かに、音をたてないようにそっと玄関から出ていくのを聞いた。

 ベッドに入っても、ミセス・バンティングはせわしなく寝返りを打った。あっちをむいたり、こっちをむいたり、気持ちが落ち着かず、いらいらがおさまらなかった。眼がさえて寝ることができないのは、たぶん見慣れない煖炉の光が壁に踊り、彼女のまわりに奇怪な影を作っているせいだろう。

 彼女は横になったまま、考えては聞き耳を立て、聞き耳を立てては考えた。興奮した頭を鎮めるために、となりの部屋からバンティングの探偵小説を一冊取ってきて、明かりを灯し読みふけろうかとも思った。

 いや、やめておこう。ミセス・バンティングはベッドのなかで本を読むのは悪いことだといつも教えられてきたし、今は悪いことだと教えられてきたことに手を出すような気分ではなかったのだ……。

第二十一章

 ひどく寒い夜だった——気温がぐんと下がり、強い風が吹き、雪もよいの、誰もができることなら外には出たくないと思うような夜だった。

 しかしそのときバンティングは満足しきって仕事から家に帰る途中だった。すばらしい幸運が今晩、彼にふりかかったのだ。まったく思いも寄らぬ幸運だっただけになおさらうれしかった!彼は誕生パーティーで給仕の役を務めたのだが、パーティーの主役の若い貴婦人がその日、財産を相続したのである。しかも彼女は慈悲深くも驚くべきことを思いついた。雇われた給仕全員にソヴリン金貨を一枚ずつ与えたのだ。

 優しい言葉とともにおくられたこの贈り物はバンティングの胸をじんと熱くさせ、彼の保守的な考え方を裏付けたのだった。こんなお振る舞いをなさるのは紳士淑女の方々だけだ。つまり物静かな、昔気質の、家柄の良い人々だけなのだ。あのいまいましい急進主義者は彼らのことを知りもしなければ気にかけもしない!

 しかし元執事は彼が感じてしかるべき幸せに浸ることができなかった。歩調をゆるめ、近ごろ妻の様子がおかしいことを思い出し、途方に暮れた。エレンはときどき彼にも理解できないくらい、やけに興奮しやすくなり、やけにびくびくしている。これまでも決して愛想のいいほうではなかったが——有能な、自尊心の強い女はめったに愛想のいいことはない——しかし今みたいになることはなかった。時間が経っても良くなるどころか、かえって悪くなっている。最近は恐ろしくヒステリックだ。しかも何の理由もないのに!たとえばジョー・チャンドラーのあのいたずら。彼がしばしば変装することはエレンもよく知っているはずなのだ。なのにまるで血迷ったみたいに取り乱して。あんなふうになるとは、まったく思ってもいなかった。

 彼女についてはもう一つ、いろいろな意味で彼を困惑させることがある。この三週間ほどのあいだに、エレンは寝言を言うようになった。昨日の晩は「だめ、だめ、だめ!」と叫んでいた。「嘘よ——そんなことない——嘘よ!」普段の声は冷静な、とりすました声なのだが、そこには激しい恐怖と強い抗議の叫びがまじっていた。

******

 ぶるるる!冷えこむなあ。おまけに彼はうっかり手袋を忘れてきていた。

 彼は両手をポケットに突っこみ、足を速めた。

 てくてくと歩いていた元執事は誰もいない通りのむこう側にふと下宿人の姿を認めた。そこはリージェント・パークを取り巻く大きな道路から、ひょいと横にそれた短い脇道の一つだった。

 おやおや!散歩を楽しむにしちゃ、変な時間を選んだものだ!

 通りのむこうを見ながらバンティングはミスタ・スルースの背の高いやせた身体がうつむき加減であることに気がついた。顏が下をむいているのだ。左手は丈の長いインバネスに突っこまれ、完全に隠れている。しかしその反対側は大きくふくらんでいて、まるでまっすぐおろした手に鞄か包みを持っているような具合だった。

 ミスタ・スルースはかなりせかせかと歩き、歩きながら独り言を言っていた。バンティングはよく知っていたが、これは孤独な生活を送っている紳士にはよく見られる癖なのである。彼は下宿の主人が近くにいることにまだ気がついていないらしい。

 バンティングはエレンの言った通りだと思った。下宿人はたしかにひどく風変わりな、妙なところのある人だ。まったくおかしな話だよ、あのいかれ気味の変わった紳士がおれたち夫婦の幸せや暮らし向きを大きく変えてしまったんだから。

 道の反対側を歩くミスタ・スルースにもう一度眼をやりながら、彼は、これが最初というわけではなかったけれども、この完璧な下宿人のたった一つの欠点を思い出した。彼は意外なことに肉がきらいで、バンティングが漠然と「まともな食い物」と呼んでいるものを受けつけないのだ。

 しかし、なくて七癖というから、そのくらいは大目に見なくてはな!なにしろ下宿人は卵やチーズまでも食べない気の狂った菜食主義者じゃないんだから。うん、その点は分別のある人だよ。おれたち夫婦に対しても同じようにまともに振る舞ってくれるし。

 知っての通り、バンティングは妻に比べるとはるかに下宿人と会う機会が少ない。実際、ミスタ・スルースが来てから三度か四度しか二階に行ったことがないのだ。主人が給仕をするときは、下宿人はじっと黙っている。さらにこの紳士は夫であろうが妻であろうが、用事で呼ばれたとき以外は部屋に来てもらいたくないということをはっきり態度にあらわしていた。

 こりゃあ、お話をするいいチャンスかも知れないぞ。バンティングは下宿人と出会えたことが嬉しかった。彼を包む幸福がますます強く感じられてきた。

 そこで歳のわりにまだまだ元気な執事は道路を横切り、きびきびした足どりでミスタ・スルースに追いつこうとした。しかし彼が急げば急ぐほど相手は早足になるのである。しかも今や凍りはじめた舗道にカツカツと靴音を立てているのが誰なのか、うしろを振り返ってたしかめようともしない。

 ミスタ・スルース自身の足音はまったく聞えなかった——考えてみればおかしなことだ——バンティングはあとで妻の横に寝ころび、眼を開けたまま真っ暗闇のなかでそう考えた。もちろん下宿人はゴム底の靴をはいているのだ。しかしバンティングはゴム底の靴を磨いてほしいと頼まれたことは一度もなかった。下宿人はブーツを一足持っているきりだと、それまでずっと思っていた。

 二人の男——追う者と追われる者——はとうとうメリルボーン通りにやってきた。家からはもう数百ヤードしか離れていない。バンティングは勇気をふるって大声を出した。その声が静かな夜気にはつらつと響いた。

 「ミスタ・スルース!ミスタ・スルース!」

 下宿人は立ち止り振り返った。

 彼は速く歩きすぎたのと、身体の具合が悪いせいで、顔から汗がしたたり落ちていた。

 「ああ、あなたでしたか、ミスタ・バンティング。うしろから足音が聞えたので、急いでしまいました。あなただと分からなかったので。夜のロンドンには変な人がうようよしていますから」

 「今夜みたいな夜はべつですよ、旦那様。仕事がある真面目な人しかこんな夜は外を歩きません。冷えますなあ、旦那様」

 そのときバンティングの鈍い、正直な心に、突然疑問が降って湧いた。この耳を切るような寒い夜に、ミスタ・スルースはいったいどんな用事で外に出てきたのだろう。

 「寒い?」と下宿人は繰り返した。彼は少し息切れがし、その言葉は薄い唇から鋭く、ちぎれたように発せられた。「寒くはありませんよ、ミスタ・バンティング。雪が降るときは、いつも暖かい感じになります」

 「そうですが、旦那様、今晩は東風が強いですからね。それこそ骨に沁みるような寒さですよ!でも、旦那様もお気づきでしょうが、身体を温めるには歩くのがいちばんです」

 バンティングはミスタ・スルースが異様に彼から距離を取って歩いていることに気がついた。彼は舗道の縁を歩き、建物の壁側をすっかり下宿の主人に明け渡しているのだ。

 「道に迷ったのです」と彼は唐突に言った。「若いとき一緒に勉強した、プリムローズ・ヒルの友だちに会いに行ったのですが、その帰りに道が分からなくなったのです」

 彼らは小さな門のところまでやって来た。そこを開ければ家のまえの、みすぼらしい板石敷きの庭に入る。この門は今はもう決して鍵をかけられることはなかった。

 ミスタ・スルースは急にまえに出ると板石敷きの小径を歩きはじめた。元執事は「旦那様、失礼します」と言って、脇から下宿人を追い越し玄関のドアを開けてあげようとした。

 脇を通り抜けるとき、手袋をはめていないバンティングの手が、丈の長い下宿人のインバネスに軽く触れた。驚いたことに一瞬手が触れたその部分は、附着した雪のせいで湿っているだけでなく、べっとりと粘ついていた。

 バンティングは左手をポケットに突っこみ、反対の手で鍵を鍵穴に入れた。

 二人の男はいっしょに玄関に入った。

 家のなかは街灯のともる道路に比べて真っ暗なように思われた。手探りしながらまえに進んでいると、下宿人がすぐうしろからついてくるのが分かった。そのとき、バンティングは急にめまいのするような死の恐怖に襲われた。間近にせまる恐ろしい危険を直感的に感じとったのである。

 声なき声——最近はもう思い出すことも滅多にない、ずっと以前に死んだ最初の妻の声——が、彼の耳に「気をつけて!」とささやいた。

 そのとき下宿人が話しかけてきた。その声は大きくなかったものの、耳障りで聞き苦しかった。

 「ミスタ・バンティング、わたしのコートが汚れてべとついていることに気づいたんじゃないですか。説明すると長くなるのですが、動物の死骸にコートがこすれたんですよ。情け深い誰かがその動物の苦痛に終止符を打ってやったのでしょう。プリムローズ・ヒルのベンチに横たわっていたのです」

 「いや、わたしは何も気づきませんでしたよ、旦那様。コートにも触っておりません」

 何か外部の力が無理やりバンティングにそんな嘘をつかせたようだった。「それでは旦那様、ごゆっくりお休み下さいませ」と彼は言った。

 うしろに下がり、彼はありったけの力をこめて背中を壁に押しつけ、相手に道を譲った。一瞬の沈黙のあと、ミスタ・スルースは「お休みなさい」と虚ろな声で返事をした。バンティングは下宿人が二階に行くまで待った。それから玄関広間のガスに火をつけ、その場に座りこんだ。ミスタ・スルースの下宿の主人はひどく気分が悪くなり——しかも吐き気がした。

 彼がようやく左手をポケットから出したのは、ミスタ・スルースが二階の寝室のドアを閉める音が聞えてきたときだった。彼は左手を持ちあげ不思議そうに見つめた。薄く赤い血が点々と、あるいは筋をなしてこびりついていた。

 ブーツを脱いで、妻が寝ている部屋にこっそりと入った。忍び足で洗面台のところへ行き、水差しに手を浸した。

 「何をしているのよ、いったい」とベッドから声がした。バンティングはぎくりとして気まずそうな顔をした。

 「手を洗っているだけさ」

 「あら、そんなことしないでちょうだいよ!ひどいじゃない——明日の朝、わたしが顔を洗う水に手を突っこむなんて!」