「ごめんよ、エレン」と彼は素直に謝った。「捨てるつもりだったんだ。汚い水で顔を洗わせるわけがないじゃないか」
彼女はそれ以上何も言わなかった。しかし服を脱ぎはじめた彼を、ミセス・バンティングは横になったままじっと見つめつづけた。その視線は彼をいっそう落ち着かない気持ちにさせた。
ようやく彼はベッドにもぐりこんだ。重苦しい沈黙を破ろうと、若い貴婦人がくれたソヴリン金貨のことを話そうと思ったが、しかしそのソヴリン金貨も今は道路で拾ったファージング銅貨より価値がないように思われた。
また妻が話しかけてきた。彼はびっくりしすぎて、ベッドが揺れた。
「あなた、玄関の明かりをつけたままにしてきたでしょう。お金の無駄づかいよ」と彼女はきびしい声で言った。
彼はいやいや起き出して廊下に通じるドアを開けた。彼女の言ったとおり、ガスの炎がつけっぱなしになっていて、彼らの金を——というよりミスタ・スルースの金を——無駄づかいしているのだった。彼が下宿人になってから、夫婦は家賃の金に手を付けることはなかった。
バンティングは明かりを消し、手探りで部屋に戻り、ベッドに入った。彼らはもうお互いに口をきかず、夫も妻も夜明けまで眼を開けたまま横になっていた。
次の日の朝、ミスタ・スルースの下宿の主人ははっと目を覚ました。奇妙に手足がだるくて、眼がしょぼしょぼした。
枕の下から時計を引っ張り出すと七時だった。妻を起こさないようにベッドを出るとブラインドを少しだけ寄せて外を見た。大雪が降っている。雪が降るときはいつもそうだが、そのときもすべてが不思議と奇妙に静まりかえっていた。大都会のロンドンでもそうなのだ。服を着て廊下に出る。彼が怖れもし、また同時に期待もしていたように、新聞がもうマットの上に転がっていた。たぶん郵便受けから押し込まれたときの音が彼の不安な眠りを破ったのだろう。
新聞を拾いあげ、居間に入り、そっとドアを閉めた。それからテーブルに新聞を大きく広げて、身を乗り出した。
バンティングがようやく顔を上げて背筋を伸ばしたとき、強い安堵の表情がその鈍感な顔に輝いていた。新聞のど真ん中にでかでかと印刷されているにちがいないと思っていた記事はどこにもなかった。
第二十二章
バンティングは驚くほど気分が楽になった。ほとんど自分が何をしているのか分からないような状態で、彼はコンロに火をつけ、妻のために朝の紅茶を淹れたのだった。
その最中に突然彼女の声が聞えた。
「バンティング!」彼女は弱々しく叫んだ。「バンティング!」呼びかけに応じて彼女のところへ飛んで行き、「なんだい」と言った。「どうしたんだ。お茶はすぐできるよ」彼はやや間の抜けた笑顔を満面に浮かべた。
彼女は起き上がり、ぼうっとしながら彼を見た。
「何をにやにやしているの?」と彼女は疑わしげに訊いた。
「すごくいいことがあったんだ」と彼は説明した。「しかし昨日の晩は機嫌が悪そうだったので言わなかったんだが」
「じゃ、今教えてよ」彼女は低い声で言った。
「お嬢さんからソヴリン金貨をもらったんだ。ほら、彼女の誕生パーティーだったんだよ、エレン、しかも彼女の懐に一財産転がり込んできたんだ。それで給仕一人一人にソヴリン金貨を一枚ずつくれたのさ」
ミセス・バンティングは何も言わなかった。ただ後ろに寄りかかり、眼を閉じた。
「何時にデイジーは帰るの」と彼女は気だるそうに訊いた。「ジョーがいつ彼女を迎えに行くのか、教えてくれなかったわね、昨日話をしたとき」
「そうだったかい?お昼ご飯には間に合うように帰ると思うが」
「いったいあの娘の伯母さんは、いつまで彼女をうちに預けておこうと思っているのかしら」とミセス・バンティングは考え込むように言った。バンティングの丸顔から陽気な表情がすっかり消えてしまった。彼はむすっとして不機嫌になった。自分の娘をしばらく預かってやれない法があるものか。特に今は生活が苦しいわけじゃないのだから!
「デイジーはここに泊まれるだけ泊まっていくんだ」と彼はそっけなく言った。「よくないな、エレン、そんなふうに言うのは!彼女は一生懸命おまえを手伝っているし、彼女がいると、われわれも元気になるじゃないか。それに今、彼女を追い出すなんて、残酷というものだ。あの若者と仲良くなろうとしているときに。おまえだってそのくらいの理屈は分かるだろう!」
しかしミセス・バンティングは答えなかった。
バンティングは居間に戻った。お湯が沸騰していたので、お茶を淹れた。小さなお盆を取り出しながら、彼は怒りをやわらげた。エレンはほんとうに具合が悪そうだ——具合が悪くて、しなびたように見える。何も言わないけれども、痛いところでもあるのだろうか。彼女は調子が悪くても決してそのことを人にこぼしたりしないのだ。
「昨日の晩は下宿人と一緒に帰ってきたんだよ」と彼はほがらかに言った。「ありゃあ、ずいぶん変わった紳士だね。散歩に出かけるような夜じゃなかったものな。でも、あの人が言ったことがほんとうなら、ずいぶん長いこと外にいたことになるなあ」
「ああいう物静かな紳士は混雑した通りを嫌うものなのよ」と彼女はゆっくりと言った。「毎日毎日、ますます混雑するじゃない、実際の話。さあ、むこうに行ってちょうだい。もう起きるから」
彼は居間に戻って煖炉に薪を積み、マッチで火をつけた。それから新聞を手に心地よく椅子におさまった。
心の奥底でバンティングは昨夜の出来事を振り返り、自分に対して恥ずかしさと非難の気持ちを抱いた。突然彼をとらえたあのような恐ろしい考えや疑惑はいったいどこから湧いてきたのだろう。あんな血ぐらい、何だと言うんだ。ミスタ・スルースは鼻血を出したのだろう。きっとそうだ。しかしそう言えば、動物の死骸にさわったんだと言っていたな。
やっぱりエレンの言うことが正しいのかも知れない。殺人などといったおどろおどろしいことばかり考えているのはよくないのだ。頭がおかしくなってしまうよ、まったく。
そんなふうに思いを巡らしているとき、玄関のほうから大きなノックの音が聞こえてきた。トントントンという電報の配達員に特有のたたき方だった。しかし彼が部屋を出るよりも先に、ましてや玄関のドアにたどり着くよりも先に、ペチコートとショールだけのエレンが部屋から飛び出してきた。
「わたしが出る」と彼女は息を切らして言った。「出るから、バンティング。来なくていいわ」
彼はあんぐりと彼女を見つめ、玄関までついて行った。
彼女はドアの陰に身体を隠しながら手を差出し、見えない配達員の少年から電報を受け取った。「待つことはないわよ」と彼女は言った。「返事するときは自分で送るから」そう言って封を切った。「ああ、よかった!」と彼女はほっとしたようにため息をついた。「ジョー・チャンドラーから電報が来ただけ。今日の午前はデイジーを迎えに行けないんですって。じゃ、あなたが行かなければならないわね」
彼女は居間に戻った。「ほら。これを読んでごらんなさいよ、バンティング」
「午前中も勤務のため、約束違反ですが、ミス・デイジーを迎えに行くことができません——チャンドラー」
「なんで勤務があるんだろうな」とバンティングはゆっくりと、腑に落ちない様子で言った。「ジョーの勤務時間は時計みたいにいつも決まっているんだ——何があっても変わることはないんだが。しかし、しょうがないか。十一時くらいに出発すれば充分だよな?そのときにはもう雪も止んでいるかもしれん。今はまだ外に行く気がしないよ。今朝はひどく疲れているんだ」
「十二時に出たらいいわ」と妻がすぐに言った。「それならゆっくりできるでしょう」
その日の朝は静かに、何事もなく過ぎていった。バンティングは伯母さん(オールド・アーント) から手紙を受け取った。デイジーを来週の月曜日に帰して欲しいとのことだった。もう一週間もない。ミスタ・スルースはぐっすりと寝ていた。あるいは、ともかくも、起きたような様子はなかった。ミセス・バンティングは部屋を掃除するあいだ、たびたび立ち止って聞き耳を立てたが上からはどんな物音も聞えてこなかった。
自分たちでも気づかないうちに、バンティングと妻は久方ぶりの明るい気分にひたっていた。台所に行ってミスタ・スルースの朝食を作るまえに、ミセス・バンティングはしばらく椅子に座り、夫婦水入らずの楽しい会話をかわした。
「デイジーはあなたを見たらびっくりするでしょうね——がっかりはしないだろうけど!」と彼女は言い、思わず一人でクスクスと笑ってしまった。十一時になりバンティングが出かけようとして立ちあがると、彼女はもう少しゆっくりするように彼を引き留めた。「そんなに急ぐことはないわ」と彼女は機嫌よく言った。「むこうには十二時半に着けばいいのよ。お昼ご飯はわたしが一人で用意する。デイジーに手伝ってもらうことはないわ。たぶんマーガレットはさんざん彼女をこきつかったんじゃないかしら」
しかしとうとうバンティングが出かけなくてはならない時間が来て、妻は玄関まで見送りに出た。雪はやや小降りになっていたが、まだ降りつづいていた。往来を行き交う人はごくわずかで、タクシーや馬車もほんの数台がぬかるみのなかを用心深くのろのろと運転しているだけだった。
ミセス・バンティングがまだ台所にいるとき、玄関から鈴とノックの音がした。今ではなじみ深いものとなった鈴とノックの音だった。「ジョーはデイジーがもう帰ってきていると思っているんだわ」彼女は一人ほほえんだ。
ドアが充分に開ききらないうちに、チャンドラーの声がこう言った。「今度は怯えたりしないでくださいよ、ミセス・バンティング!」しかし怯えはしなかったものの、彼女は驚いて息を呑んだ。というのは、ジョーが飲み屋をうろつく浮浪者の格好をしてそこに立っていたからである。しかもぼさぼさの髪を額に垂らし、くたびれた、ぶかぶかの、汚れた服に、暗緑色の山高帽をかぶったその姿は、まさに完璧な変装だった。
「時間がないんです」と彼は軽く息を切らして言った。「ただミス・デイジーが無事に帰ってきたか、確かめようと思って。電報を受け取りました?ほかに知らせる手立てがなかったんですよ」
「まだ戻ってないわ。お父さんがついさっき迎えに行ったけど」それから相手のただならない目つきに驚いて慌ててこう尋ねた。「ジョー、何があったの?」
彼女の声に緊張感がこもり、顔が引きつった。かすかにあった赤みも消え、真っ青になった。
「実は」と彼は言った。「実はですね、ミセス・バンティング、ほんとは言っちゃいけないんだけど——でも教えてあげますよ!」
彼は家のなかに入ると、居間のドアをそっと閉めた。「また起きたんですよ!」と彼はささやいた。「でも今回は誰にも何も知らせないことになっているんです——さしあたっては」と彼は急いで訂正した。「警視庁は手がかりを見つけたと考えています——それも、今度は有力な手がかりなんです」
「でも、どこで——それに、どうやって」ミセス・バンティングは口ごもった。
「運がよかったんですよ、当面事件のことを秘密にできるっていうのは」——彼は依然として押し殺した、しわがれ声でささやいた。「犠牲者はプリムローズ・ヒルのベンチで死んでいるところを見つかりました。たまたまわれわれの仲間が死体の第一発見者だったんです。彼は家に帰る途中だったんですよ、ハムステッドのほうへ。彼はどこに行けば救急車をすぐ呼ぶことができるか知っていました。それでうまいこと、人に知られないように処理したってわけです。あいつはきっと昇進するだろうな!」
「手がかりは?」とミセス・バンティングが乾いた唇で尋ねた。「手がかりがあったって言ったわね」
「ぼくも手がかりのことはよく知らないんですよ。分かっているのは現場からほど近い『金槌と火ばさみ亭』っていう酒場と関係があることだけです。閉店間際に復讐者がその酒場に立ち寄ったと、警察は確信しているんですが」
それを聞いてミセス・バンティングは腰をおろした。さっきよりもいくらか気分が楽になった。警察が酒場をうろつく浮浪者に目をつけるのは当然のことだ。「じゃあ、そのせいでデイジーを迎えに行くことができなかったのね」
彼は頷いた。「でも内緒ですからね、ミセス・バンティング!今夜の最終版にはみんな出ているでしょうけど——いつまでも秘密にはできませんから。ずっと隠していたら大騒ぎになってしまうし」
「これからその酒場に行くところなの?」
「そうです。やっかいな仕事を言いつかっちゃって。酒場のウエートレスから情報を聞き出さなきゃならないんです」
「ウエートレスから情報を?」ミセス・バンティングがそわそわしながら繰り返した。「いったい何のために?」
彼はそばに寄ってきて耳打ちした。「警察は犯人が紳士だったとふんでいるんです」
「紳士?」
ミセス・バンティングは怯えたようにチャンドラーを見た。「どうしてそんな馬鹿なことを」
「それがですね、閉店間際にすっごく変な格好の紳士が革鞄を手に酒場に入ってきて、ミルクを一杯頼んだんだそうです。それからその人が何をしたと思います?ソヴリン金貨で支払いをしたんですよ!おつりは受け取ろうとしませんでした——ウエートレスにチップとしてやってしまったんです!だからお給仕をした若い女は彼のことを話そうとしないんです。どんな人相だったかってことも。彼の容疑のことは話していません。まだ知らせたくないので。この話が新聞に出ないのはそのせいもあるんです。ああ、だけど、ほんとにもう行かなくちゃ。僕は三時まで勤務があります。帰るときに、こちらに立ち寄ってお茶でもいただこうかと思っていたんですけど、ミセス・バンティング」
「そうなさいな」と彼女は言った。「お寄りなさいな、ジョー。歓迎するわ」しかし彼女の疲れた声には歓迎の響きは少しもなかった。
見送ることなく一人で彼を出ていかせると、彼女は台所に降り、ミスタ・スルースの朝食を作りはじめた。
下宿人はもうすぐ呼び鈴を鳴らすだろう。バンティングとデイジーももうすぐ戻って来て、何かを食べたがるだろう。マーガレットは「ご一家」が出かけているときも、いつも異様なくらい早い時間に朝ご飯を食べるのだ。
忙しく立ち働きながらミセス・バンティングは何も考えまいとした。しかし疑心暗鬼の状態にあるとき、何も考えずにいるというのは実に難しい。酒場に入った男を、警察はどんな男だったと思っているのか、彼女はチャンドラーに尋ねることができなかった。下宿人とあの詮索好きな若者が顔を突き合わせたことがないのはまったく幸運なことだった。
ようやくミスタ・スルースの呼び鈴が鳴った——静かにチリンと鳴っただけだった。しかし朝食を持って上に行くと下宿人は客間にいなかった。
まだ寝室にいるのだろうと思ったミセス・バンティングはテーブルクロスを敷いた。そのとき階段を降りる足音がして、耳ざとい彼女はガスストーブに火が入っていることを示すボウボウという音を聞きつけた。ミスタ・スルースはもうストーブに火をつけていたのだ。今日の午後、何か手の込んだ実験をする気なのだろう。
「まだ雪が降っているのですか」と彼は疑わしそうに訊いた。「雪に覆われたロンドンは何て静かなんでしょう、ミセス・バンティング。今朝みたいに静かなロンドンは見たことがありません。家の内も外も、物音一つしません。メリルボーン通りはときおり叫び声がこだましてうるさくなりますが、今日は打って変わってたいへん気持ちがいい」
「さようでございますね」と彼女はうつろな返事をした。「今日はたいそう静かでございます——わたしには静かすぎるような気がします。何だか自然ではないような」
外の門が勢いよく開き、しんとした空気に騒々しい音を響かせた。
「誰か来ることになっているんですか」とミスタ・スルースははっと息を呑んだ。「誰が来たのか、窓から見ていただけませんか、ミセス・バンティング」
女主人はその言葉に従った。
「バンティングでございます、旦那様。バンティングと娘でございます」
「ああ!それだけですか?」
ミスタ・スルースは急いで彼女のそばに寄り、彼女は思わず少し後じさった。部屋を案内した最初の日をのぞいて、下宿人とそんなに接近したことはなかったのである。
二人は並んで窓から外を眺めていた。すると誰かがそこに立っていることに気づいたように、デイジーはその明るい顔を窓のほうにむけ、まま母と下宿人にほほえんでみせた。もっとも下宿人の顔はぼんやりとしか見えなかったのだけれども。
「とても愛らしい娘さんですね」とミスタ・スルースは考え込むように言った。それから短い詩を引用したのだが、それがミセス・バンティングをひどく驚かせた。
「ワーズワースですよ」と彼は夢を見るようにつぶやいた。「最近ではもう読まれなくなった詩人です。しかし自然や、青春や、無垢な心に対して美しい情感を示した人です」
「左様でございますか、旦那様」ミセス・バンティングは少し後じさった。「朝食が冷めてしまいますわ。すぐお召し上がりにならないと」
彼はおとなしくテーブルに戻り、叱られた子供のように席に着いた。
女主人は退出した。
「さてと」バンティングは陽気に言った。「万事つつがなく終了だ。デイジーはついているよ——いやはや、強運の持ち主だな!マーガレット叔母さんから五シリングせしめたんだから」
しかしデイジーは父親が思っているほど喜んではいない様子だった。
「ミスタ・チャンドラーに何ごともなければいいんだけど」と彼女はやや浮かぬ顔をした。「昨日の晩、別れ際に、十時に迎えに来るって言ったのよ。時間が来てもあらわれないから、ずいぶん気をもんだわ」
「彼、うちに来たのよ」とミセス・バンティングがゆっくりと言った。
「うちに来た?」と夫が叫んだ。「じゃ、何だってデイジーを迎えに行かなかったんだ?ここに来る暇があるなら」
「仕事に行く途中だったのよ」と妻は答えた。「さ、あなたは下へ行きなさい、デイジー。ここに来たらお手伝いをしてもらわなくっちゃね」
デイジーはしぶしぶ命令に従った。まま母はいったい何を彼女に聞かせたくないのだろうといぶかしく思いながら。
「話があるの、バンティング」
「なんだい」彼はそわそわした視線をむけた。「言ってみろよ、エレン」
「また殺人事件が起きたの。でも警察は誰にもそのことを知られたくないらしいわ——今のところは。だからジョーはデイジーを迎えに行けなかったのよ。全員がまた呼び出されて」
バンティングは手を伸ばしてマントルピースの端をつかんだ。彼は顔が赤くなっていたが、妻は自分の感情や思いに囚われていて、そのことに気がつかなかった。
二人のあいだに長い沈黙が訪れた。それから彼は懸命に平気な振りをしながらこう言った。
「どこで起きたんだい?」と彼は訊いた。「このまえの現場の近くかい?」
彼女はためらってから言った。「知らない。言わなかったから。ほら、静かに」と彼女はすばやく言った。「デイジーが来るわ!あの娘のまえでこんな恐ろしい話をしちゃだめよ。それにチャンドラーには口外しないって約束したんだから」
彼は黙ってそれに従った。
「テーブルクロスを敷いてちょうだい、デイジー。わたしは下宿人の朝食を片づけてくる」返事を待つことなく、彼女は急いで二階へ行った。
ミスタ・スルースはおいしそうなカレイにほとんど手をつけていなかった。「今日は気分がよくありません」彼は気むずかしそうに言った。「それから、ミセス・バンティング。ご亭主がお持ちだった新聞を見せていただけないでしょうか。新聞はあまり好きじゃないのですが、今、ちょっと拝見させていただけるとありがたいのです」
彼女は階段を飛ぶように降りた。「バンティング」彼女は軽く息を切らして言った。「下宿人がサンを借りて読みたいんですって」
バンティングは新聞を差し出した。「おれは読んでしまったよ」と彼は言った。「お返しいただく必要はありませんて言ってくれ」
上に行く途中で、彼女は淡紅色の新聞紙を見た。でこぼこした絵が紙面の三分の一を占めていて、その下に大きめの活字でこう書かれていた。
「十日まえ、復讐者が二重殺人を犯した際に履いていたと思われる、半ばすり切れたゴム底の正確な複製である。これを読者の御覧に入れることができ、われわれは欣快にたえない」
彼女は客間に入っていった。ほっとしたことに、そこに下宿人はいなかった。
「どうか新聞はテーブルの上に置いておいてください」とミスタ・スルースのこもった声が上の階から聞えてきた。
彼女は言われた通りにした。「かしこまりました、旦那様。バンティングは新聞を返していただかなくても結構だそうでございます。読んでしまいましたので」そう言って彼女は急いで部屋を出た。
第二十三章
午後はずっと雪が降りつづいた。三人は座ったまま耳をすまし、待っていた。バンティングと妻は何を待っているのか分からなかった。デイジーはジョー・チャンドラーの来訪を告げるノックの音を待っていた。
聞き慣れた音が聞えてきたのは四時頃だった。
ミセス・バンティングは急いで廊下に出て、玄関のドアを開けるなりこうささやいた。「デイジーにはまだ何もしゃべってないわ。若い娘は秘密を守れないから」
チャンドラーは分かったとばかりに頷いた。今は服装だけでなく顔つきまでが浮浪者そのものだった。寒さに顔から血の気がひいて、意気消沈し、疲れ切っていたのだ。
デイジーは彼の巧みな変装を見たとき、驚愕と笑いと歓迎の小さな叫び声をあげた。
「あきれた!」と彼女は叫んだ。「まるっきり変わっちゃうのね!目も当てられない格好だわ、ミスタ・チャンドラー」
どういうわけか、彼女のその言葉は父親を面白がらせ、彼はすっかり陽気になった。バンティングはその日の午後はずっと元気がなく、ひどくおとなしかったのだ。
「十分もあればまともな格好に戻れますよ」と若者はどことなくうち沈んだ声で言った。
主人夫婦はそっと彼の顔色に注目していたが、どちらも彼が任務に失敗し、価値のある情報を引き出せなかったらしい、と結論した。そのため、ある意味では楽しく一緒にお茶を飲んだのだが、その小さなお茶の会にはどこか気まずい、いや、息苦しい雰囲気さえ漂っていた。
バンティングは唇の上で震えている質問を訊くことができず、もどかしくてしようがなかった。それまでの一カ月間、ジョーが知っている話を残らず聞き出せなかったら、どんなときでも堪らない気持ちになっただろう。しかし、今やこの奇妙な宙づり状態はほとんど彼を悶絶させんばかりだった。彼が知りたくてたまらない重要な事実が一つあったのだが、ようやくそれを知る機会が訪れた。ジョー・チャンドラーが暇を告げて立ちあがったのだ。今度はバンティングが彼を玄関まで送っていった。
「どこで起きたんだね」と彼はささやいた。「それだけ教えてくれんか、ジョー」
「プリムローズ・ヒルです」と相手は短く答えた。「もうすぐ詳細が分かりますよ。夕刊の最終版にみんな出ますから。そういう取り決めなんです」
「犯人は捕まっていないんだろう?」
チャンドラーはしょげたように頭を振った。「ええ」と彼は言った。「今回ばかりは警視庁も見当外れな捜査をしているとしか思えません。しかし、まあ、どんな手がかりもできるだけ調査しなければならないんだけど。ミセス・バンティングから聞きましたか、閉店間際にやってきた客のことで、ぼくがウエートレスに質問をしたことは。彼女は知っていることをみんな話してくれました。彼女の言う変わり者の老紳士は、ただの人畜無害なキ印ですよ。それは火を見るよりも明らかだと思います。彼女が禁酒主義者だと言っただけでソヴリン金貨をあげちゃうんだから!」彼は残念そうに笑った。
バンティングでさえそれを聞いて思わずにやりとした。「ウエートレスにしちゃ珍しいな!」と彼は言った。「彼女は酒場の主人の姪なんです」とチャンドラーは説明した。それから玄関のドアを出て快活に「じゃ、失礼します!」と言った。
バンティングが居間に戻ると、デイジーの姿がなかった。彼女はお盆を持って下に行っていたのだ。「娘はどこだ?」と彼はいらいらと訊いた。
「お盆を持って下にいったわ」
彼は台所に降りる階段のてっぺんから、鋭く呼びかけた。「デイジー!デイジー!そこにいるのか」
「いるわよ、お父さん」と元気のいい、楽しそうな声が返ってきた。
「台所は寒いからあがっておいで」
彼は妻のところへ戻った。「エレン、下宿人はいるのかい?動いている音が聞こえないけど。気を悪くしないでほしいんだが、おれはデイジーをあの方に会わせたくないんだ」
「ミスタ・スルースは今日はおかげんがよくないみたいね」とミセス・バンティングは静かに答えた。「あの方のことでデイジーに何かしてもらおうなんて思ってもいない。会ったこともないのよ。今さらお世話をさせるつもりなんてないから」
彼女はバンティングのしゃべり方に驚き、多少いらいらさせられたが、彼女の心が真実のかすかな光をとらえることはなかった。恐ろしい秘密の重荷を一人で担うことに慣れていた彼女は、不機嫌な言葉を一言二言聞いたり、バンティングの顔色がはかばかしくなく疲れたように見えるくらいのことでは、彼女の秘密が今や他人にも共有されているのではないか、とか、しかもその他人とは夫ではないか、などという疑問は毛筋ほども抱かなかった。
このあわれな魂は、警察に家宅捜査をされることを考え、何度も苦しみ、震えていたのだ。なにしろ彼女は警察には超自然的な探知能力があるといつも信じていた。警察が彼女の胸に隠された恐ろしい事実を暴き出すのはどう見ても当然のことのように思われた。しかしバンティングがぼんやりとすらそのことに勘づこうとはよもや思っていなかった。
だがデイジーでさえ父親の変化に気づいていたのだ。彼は身体を丸めるようにして火にあたっていた——そのまま何も言わず、何もしようとしなかった。
「お父さん、具合が悪いの?」と娘は何度か訊いた。
顔を上げると彼はこう答えた。「おれなら大丈夫さ。ただ寒いんだよ。やけに冷えるんだ。こんなにさむけがするのははじめてだ」
******
八時になると、いつもの叫び声がまたもや外から聞えてきた。
「復讐者がまたやったぞ!」「またもや残忍な殺人!」「夕刊特別版!」——そんな怒鳴り声、高揚した叫び声が、冷たい澄んだ空気のなかに威勢よく飛び交った。それは静かな部屋のなかに、まるで爆弾のように落ちてきた。
バンティングも妻も押し黙ったままだったが、デイジーの頬は興奮してピンク色に染まり、眼は輝いた。
「聞いて、お父さん。エレンも聞いてよ。ほら、あれが聞える?」彼女は子供のように叫び、両手を打ち鳴らしさえした。「ミスタ・チャンドラーがここにいたらよかったのに。びっくりしていたでしょうね!」
「いい加減にしなさい、デイジー」とバンティングは顔をしかめた。
彼は立ちあがって背筋を伸ばした。「だんだん嫌になってきたよ、ああいう物騒な事件は。ロンドンからうんと遠く離れたところへ行きたいな。できるだけ遠いところへ!」
「北の果てのジョン・オ・グローツまで行く?」とデイジーは笑いながら言った。「ねえ、お父さん、新聞を買いに行かないの?」
「そうだな。買わなきゃならんだろうな」
彼はゆっくりと部屋を出て、玄関広間で足を止め厚手の外套と帽子をかぶった。それから玄関のドアを開け、板石敷きの小径を歩いた。鉄の門を開けて舗道に出ると、道路を渡って新聞売りの少年にむかって歩いて行った。
いちばん近くにいた少年はサンしか持っていなかった。彼がとっくに読んでしまった新聞の遅版である。すでに主な内容を知っている無価値な新聞に一ペニーを払うことはためらわれたけれど、しかしほかにどうしようもなかった。
街灯の下に立って彼は新聞を広げた。身を切るような寒さだった。新聞を見ながら手が震えたのは、もしかしたら寒さのせいもあったかもしれない。バンティングはお気に入りの夕刊紙の編集者を不当に評価していたようだ。この特別版は新しい情報を満載していた——復讐者に関する新しい情報を。
まず紙面を横断する大きな活字が、復讐者が九番目の犯罪を犯したと報じていた。しかも今までとはまったくちがう場所、ロンドン子がプリムローズ・ヒルと呼んでいる寂しい丘をその現場に選んだらしい。
バンティングは記事を読んだ。「復讐者の新たな犠牲者がいかに発見されたのか、警察はその間の事情について堅く口を閉ざしている。しかしわれわれが判断するところ、警察が極めて重要な証拠をつかんだことはまずまちがいない。しかもその一つは本紙が本日その輪郭をはじめて読者に複製して御覧に入れた、あのすり切れたゴムの靴底と関係している。(次のページを見られたし)」
バンティングがページをめくると、サンの早版ですでに見たいびつな輪郭が載っていた。復讐者のゴム底の靴跡であると新聞が主張するものだ。
彼は本来活字で埋められるべき大きなスペースを占めている粗雑な輪郭を見つめた。すると恐怖と不安で眼のまえが真っ暗になるようなおかしな気分に陥った。犯行現場やその近くに残された靴跡は、犯人をつきとめる手がかりとして何度も何度も利用されてきた。
バンティングが家でする唯一の雑用は靴磨きだけだといってよい。彼はその日の昼過ぎに、毎朝磨いている小さな靴の列を思い浮かべたのだった。まず妻の丈夫で頑丈な長靴、それから自分の二足の靴。これは散々修理されて、つぎはぎだらけだった。それからミスタ・スルースの丈夫な、ほとんどすり減っていない、高価な、ボタン付きのブーツ。最近、紙みたいに薄い靴底の、小さな、かわいらしいハイヒールがその列の最後に加わった。ロンドンへの旅行用にデイジーが買ったものだ。彼女はエレンの非難と忠告に反抗してこの薄い靴をいつも履いていた。バンティングは娘のもっとまともなカントリー・シューズを一回しか洗ったことがない。二人がチャンドラー青年に連れられて警視庁に行った日に、もう一方の靴が濡れてしまったからだった。
のろのろと彼は道路を渡った。なぜか家のなかに戻り、妻の辛辣な批評を聞いたり、デイジーのしつこい質問をかわすのが耐えがたいことのように思われた。だからわざとゆっくり歩き、新聞に何が書いてあるのか、話をしなければならない不愉快な瞬間を先延ばししようとしたのだった。
彼がその下で新聞を読んだ街灯は家のちょうど前ではなく、やや右のほうに位置していた。道路を渡り、門にむかって舗道を歩いていたとき、舗道と庭を区切る低い壁の向う側から奇妙なごそごそという音が聞えてきた。
普段であればバンティングは飛んで行ってそこにいる人間を追い出しただろう。寒い季節になるまえは浮浪者がそこで雨宿りをしたりして、彼と妻は頭を痛めたものだった。しかし今晩、彼は外でじっと耳をすました。緊張感と恐ろしさに胃の腑がおかしくなりそうだった。
おれたちの家が——もうすでに——監視されているなんて、そんなことがありうるだろうか。彼はそうであっても不思議はないと思った。バンティングはミセス・バンティングと同じように、警察にはほとんど超自然的な力があると考えていた。警視庁を訪ねてからは特にその印象が強かった。
しかしバンティングが驚き、そして、そう、ほっとしたことに、ぼんやりした明かりのなかにぬっと突然姿をあらわしたのは下宿人だった。
ミスタ・スルースは屈んでいたにちがいない。というのは、そのひょろりと背の高い姿は、低い壁の背後から玄関につながる板石敷きの小径に出てくるまで完全に隠れていたからである。
下宿人は茶色い紙包みを持っていた。歩くと履いている新品の長靴がキュッキュッと鳴り、釘を打った固いかかとが小径の板石にあたってカツカツと音をたてた。
ずっと門の外に立っていたバンティングは、下宿人が低い壁のむこうで何をしていたのか、はっと思い当たった。ミスタ・スルースはどうやら外出して新しい長靴を買ってきたらしい。そして門のなかに入ると、その靴を履き、古いほうは新品を包んでいた紙でくるんでしまったのだ。
元執事は待った——長い時間待ちつづけた。ミスタ・スルースが家のなかに入るまで待っただけではない。二階に上がったと思われるころまで、長い時間を待ちつづけたのだ。
それから彼も板石敷きの小径を歩き、ドアの掛けがねをあけた。玄関広間では、帽子やコートを掛けるのにできるだけ時間をかけた。実際、妻に呼びかけられるまでずっとそうしていたのである。彼は部屋に入ると新聞をテーブルの上に放り出してむすっとしながら言った。「ほら、全部自分で読んだらいい——たいした記事はないけどな」そう言って暖炉の火のほうへむかった。
妻はひどく心配そうに彼を見た。「いったいどうしたの?」と彼女は大きな声で言った。「具合が悪いんでしょう——きっとそうだわ、バンティング。昨日の晩、風邪をひいたのよ!」
「風邪をひいたことはもう言っただろう」と彼はぶつぶつと言った。「だが昨日の晩じゃない。今日のことだ。バスで帰ってくるときだよ。マーガレットは自分の家政婦部屋を温室みたいにあったかくしていたんだ。そこから寒風のなかに出たものだから、いっぺんにおかしくなった。こんな天気の日に外に出なきゃならないのはつらいだろうな。ジョー・チャンドラーがあんな生活に我慢しているのが不思議だよ——どんな天気でも外に行かなきゃならないんだから」
バンティングはとりとめもなくしゃべりつづけた。彼は見捨てられたようにテーブルに置いてある新聞からひたすら逃げたかった。
「一日じゅう外にいる人は、かえって病気にならないものよ」と妻は辛辣に言った。「でもそんなに具合がよくないのなら、どうしてこんなに長いあいだ外にいたのよ、バンティング。どこかに行っちゃったのかと思ったわ!新聞を買いに行っただけなの?」
「街灯の下でちょいと読んでいたんだ」と彼は弁解するように言った。
「馬鹿なことをしたものね!」
「そうかもな」と彼はおとなしく言った。
新聞を取りあげていたデイジーは「たいしたことは書いてないわ」とがっかりしたように言った。「目新しいことは何もなし!でも、ミスタ・チャンドラーがまたすぐ来るかもしれないわね。そうしたら、もっといろんなことを教えてくれるわ」
「あなたみたいな若い娘が殺人なんかに興味を持っちゃいけません」とまま母はきびしい声を出した。「そんなことを聞きたがったら、嫌われるわよ。わたしだったら、彼が来てもそんなことは一言も言わないわ——はっきり言って、わたしは彼が来なければいいと思っているの。あの若者を見るのは、今日はもうたくさん」
「彼、もうずいぶんここに来てないわ——少なくとも今日は来てない」デイジーの唇は震えていた。
「あなたがびっくりすることを一つだけ教えてあげる」——ミセス・バンティングは意味ありげにまま娘を見た。彼女もあの恐ろしいニュースから逃げたかったのだ——まだニュースになってはいない、あのことから。
「何よ」とデイジーはやや挑戦するように言った。「何が言いたいの、エレン」
「驚くかもしれないけど、ジョーは今朝うちに来たのよ。事件のことはとっくにみんな知っていた。でも、あなたには話をしないよう、念を押されたわ」
「嘘よ!」と屈辱をおぼえながらデイジーは叫んだ。
「嘘じゃないわ」と情け容赦なくまま母はつづけた。「お父さんに訊いてごらんなさい」
「そんなに騒ぐようなことじゃないさ」とバンティングは重々しく言った。
「わたしがジョーだったら」とミセス・バンティングはさっそく有利な立場を利用して言った。「せっかく友だちと静かなおしゃべりを楽しみに来たのに、そんな恐ろしい話をさせられたらたまったもんじゃないと思うでしょうよ。でも彼はここに来たとたんに事件の話をしてくれとせがまれる——はっきり言えば、たいがいはお父さんのせいなんだけど」彼女は夫をきびしく見つめた。「でも、あなただって、あなたなりに同じことをしているのよ、デイジー!彼を質問攻めにして——ときどき、あの人、どうしていいか分からないみたい。そんなに根掘り葉掘りものを訊くものじゃありません」
******
たぶんミセス・バンティングのこの短いお説教のせいだろう、その晩、ふたたびチャンドラー青年が訪ねてきたとき、復讐者の新しい事件のことはほとんど話題にならなかった。
バンティングはまったくそちらのほうに話をふろうとしなかった。デイジーはそれに関したことを一言言ったが、しかしただそれだけだった。ジョー・チャンドラーは今まで味わったことがないくらい楽しい夕べを過ごした。なぜなら終始おしゃべりをしていたのは彼とデイジーだけで、年上の二人はほとんど黙ったままだったのである。
デイジーはマーガレット叔母さんと何をしたのか、残らず語って聞かせた。長い退屈な時間のこと、叔母さんにやらされた仕事のこと。彼女はフランネルを敷きつめた大きなたらいに客間の豪華な陶器を入れて洗わされたのだった。彼女(デイジー)は、ほんのわずかの欠けもできないようにと、びくびくしながら陶器を扱った。それから彼女は「ご一家」にまつわるマーガレット叔母さんのおもしろおかしい話を聞かせた。
そのなかに一つ、滑稽きわまりない逸話があって、チャンドラーはそれにことのほか興味を持ち、面白がったのだった。それはマーガレット叔母さんの奥様がペテン師にだまされた話だった。彼女が馬車から降りようとしたとき、そのペテン師が近づいてきて、玄関の前で発作を起こしたふりをしたのだ。心優しいマーガレット叔母さんの奥様は、その男を広間に招じ入れ、ありとあらゆる気付け薬を与えた。男が去ったとき、彼が若旦那様のいちばんいいステッキを「ふんだくって」いったことが分かった。握りの部分が見事な鼈甲づくりのステッキだった。マーガレット叔母さんは、男が仮病を使ったのだと説明し、彼女のご主人はかんかんになった。彼女自身が発作を起こしそうなくらいに!
「そういう手合いはたくさんいますよ」とチャンドラーは笑いながら言った。「手に負えない悪党とかルンペンとか、そういう連中はね!」
そして今度は彼が狡猾きわまりない詐欺師のいりくんだ話を披露した。もっともその男は彼自身の手によって取り押さえられたのである。彼はそのことを非常に自慢していた。刑事としてのキャリアのなかで特筆すべき出来事だった。ミセス・バンティングでさえ、この話には興味深そうに聞き入った。
チャンドラーがまだ座って話していたとき、ミスタ・スルースの呼び鈴が鳴った。しばらく誰も動かなかった。それからバンティングがいぶかしげに妻を見た。
「聞えたかい?」と彼は言った。「エレン、あれは下宿人の呼び鈴だよ」
彼女はいやいや立ちあがり二階へ行った。
「呼び鈴を鳴らしたのは」とミスタ・スルースは弱々しく言った。「今晩、夕ご飯はいらないと申しあげたかったからなんです、ミセス・バンティング。ミルクが一杯あれば結構です。砂糖を一つ入れて下さい。それ以外はいりません——何も。とても調子がよくないのです」——彼は追い詰められたような、悲しげな表情を浮かべていた。「それからご主人に新聞をお返しします、ミセス・バンティング」
自分でも気がつかないうちに相手をまじまじと見つめていたミセス・バンティングはこう答えた。「いいえ、よろしいんですよ、旦那様!バンティングはもう必要ないんですから。ぜんぶ読んでしまったんです」どういうわけか彼女は無慈悲にも次のような一言を付け加えてしまった。「夫はとっくに別の新聞を買ってしまいました。売り子たちが外で叫んでいるのをお聞きになったと思います。そちらのほうもお持ちいたしましょうか、旦那様」
ミスタ・スルースは首を横に振った。「おかまいなく」と彼はぐちっぽく言った。「とても後悔しているんですよ、新聞をお借りしたことを。新聞はわたしの心をかき乱したのです、ミセス・バンティング。愚にもつかない記事ばかりです。何年もまえに新聞を読むのは止めてしまいました。今日、その決まりを破ったことを、わたしは強く後悔しています」
会話はこれで終りだということを示すかのように、下宿人は女主人の前で一度もしたことがないことをした。彼は煖炉のほうへ行き、わざと彼女に背中をむけたのだ。
彼女は下に降り、頼まれた砂糖入りのミルクを持ってきた。
そのときの彼はいつも通り、テーブルの前に座り聖書を研究していた。
ミセス・バンティングがみんなのところに戻ると、彼らは陽気におしゃべりをしていた。彼女は陽気なのが若い二人だけであることに気づかなかった。
「どうだったの?」とデイジーが小生意気な調子で言った。「下宿人はどんな様子だった、エレン?元気そうだった?」
「ええ」と彼女は堅苦しく言った。「当たりまえじゃない!」
「ずっとひとりで部屋にこもりきりなんて、きっとすごく退屈しているにちがいないわ——とっても寂しいでしょうね」と娘は言った。
しかしまま母は黙ったままだった。
「いったい一日じゅう何をしているの?」とデイジーはしつこく訊いた。
「今は聖書を読んでいるわ」ミセス・バンティングは短く、そっけなく答えた。
「へえ、信じられない!紳士のくせにおかしなことをするわね!」
三人の聞き手のなかでジョーだけが笑った——心から楽しそうな笑い声が長々とつづいた。
「いい加減になさい」とミセス・バンティングはきびしい声を出した。「聖書のことで大笑いするなんてとんでもないことです」
かわいそうにもジョーはとたんに真剣な顔つきになった。ミセス・バンティングが本気で彼を怒ったのは、これがはじめてだった。彼はしゅんとして答えた。「ごめんなさい。聖書のことで笑ったりしちゃいけないことは分かっていたんです。でもミス・デイジーの言い方があんまりおかしかったから。それに誰に聞いても、下宿人は変人みたいだし」
「変人と言ったって、わたしが知っている大勢の人と変わりはしません」彼女は言下にそう言った。この謎めいた言葉を残し、彼女は立ちあがって部屋を出た。
第二十四章
当然ながらバンティングはそれ以後、絶えずうずくような恐怖と緊張にさらされつづけた。
この不幸な男は悶々と悩んだ。いったいどうしたらいいのだろう。そのときどきの気分と心理状態によって彼は大きく異なる行動方針のあいだを揺れ動いた。
彼は何度もそわそわとこう考えた。いちばん困ることは確信が持てないことだ。確信が持てさえすれば、取るべき道は決まるのに。
しかしそう自分に言い聞かせながら、彼は自分を偽っていたのだし、その事実にぼんやりと気がついてもいた。一家のあるじであれば、たいていの人は警察に行くことを唯一の対応策だと考えるだろう。しかしバンティングはそれ以外のやり方があるなら、ほとんどどんな対応策でもかまわなかったのである。バンティングの階級に属するロンドン子は法律に対して不安と恐れを抱いている。そんな恐ろしいものに巻き込まれたことがみんなに知られたら、彼もエレンも破滅することになるだろう。法律にかかわる人間は誰も彼らのことや、彼らの未来を心配してはくれない。それどころか死ぬ日まで彼らを追い回すだろう。そして何よりも彼らが落ち着いた生活に戻ることを不可能にするだろう。落ち着いた生活こそが、まさに今、バンティングが心ひそかにこいねがうものだったのだけれども。
そう、警察に行くのではなくて、別の手立てを見つけなければならない。彼はそれを考え出すために、さんざん鈍い頭をひねった。
何よりつらいのは、一時間おきに行動の方針がよりいっそう困難なものに、よりいっそうやっかいなものになることだ。それは良心にのしかかる重圧をますます大きくしていった。
真実が分かってさえいたら!絶対まちがいないと思うことができさえしたら!しかし結局のところ、判断の材料はほとんどないのだと彼は自分に言い聞かせた。あるのはただ疑惑だけ——疑惑と、自分の疑惑が正しいというひそかな、恐るべき確信だけだった。
そういうわけで、とうとうバンティングはどう見ても言い訳の立たないある解決法を望むようになった。つまり下宿人がある晩、ふたたび恐るべき用事のために外へ行き、逮捕されることを——現行犯で逮捕されることを心の奥底で期待するようになったのだ。
ところがミスタ・スルースは、恐るべき用事も何も、まったく外に出なくなってしまった。彼は二階にこもり、しかもしばしば一日のほとんどをベッドのなかで静かに過ごした。彼はミセス・バンティングに、いまだに体調が回復しないのだと言った。帰宅の途中で主人と会ったあの寒い晩、彼は風邪をひき、それがずっと治らないのである、と。
ジョー・チャンドラーもデイジーの父親にとってはやっかいな問題になってしまった。刑事は非番のときはバンティング家に入り浸っていた。一時は好意をしめし歓迎していたバンティングも今では彼が死ぬほど恐かった。
この青年が話すのはほとんど復讐者のことばかりで、ある晩などはウエートレスにソヴリン金貨を与えた風変わりな紳士について詳細に語り、それがミスタ・スルースとあまりにも合致するものだからバンティングもミセス・バンティングも聞きながらそれぞれひそかに暗澹たる思いにとらわれていた。しかし若者は下宿人には少しも関心を示さなかった。
ある朝、バンティングとチャンドラーはとうとう復讐者についておかしな会話をかわすことになってしまった。若者はいつもより早く家にやってきた。彼が着いたときミセス・バンティングとデイジーはちょうど買い物に出かけるところだった。娘は家に残りたがったのだが、しかしまま母は勝手な真似は許さないとひどく嫌な顔をし、デイジーは愛らしい顔を真っ赤にしてぷんぷんしながら出かけることになったのだった。
チャンドラー青年が居間に入ってきたとき、バンティングはふとその表情がいつもとちがうことに気がついた。実をいえば、元執事を不安にさせるくらい、チャンドラーの態度には何やら威嚇的なところがあった。
「お話があります、ミスタ・バンティング」と彼は唐突に、ためらうように話しはじめた。「ミセス・バンティングとミス・デイジーがお出かけになっているので、この機会に」
バンティングははげしい非難の言葉を待ち受け、身構えた——殺人者を、世界が追い求めている怪物を、あなたは一つ屋根の下にかくまっていた、という非難だ。そのとき彼は恐るべき法律用語を思い出した。「事後共犯」。そうだ、おれは事後共犯なんだ。まちがいない!
「なんだね」と彼は言った。「どうした、ジョー」この不幸な男は椅子に座った。「なんだね」彼は不安そうにもう一度言った。チャンドラー青年はテーブルに近寄り、バンティングを凝視していたのだ——それを見て相手はおどかされているように感じた。「さあ、言いたまえ、ジョー!気を持たせるんじゃないよ」
するとかすかな微笑が若者の顔に広がった。「ぼくの話は別に驚くようなことじゃありませんよ、ミスタ・バンティング」
バンティングは頭を振ったが、それは肯定とも否定とも、どちらにでも取れるような仕草だった。
二人の男は見つめ合い、年上のほうの男にはそれがいつまでも、いつまでも、つづくように思えた。それからジョー・チャンドラーが思いきってこう言った。「ぼくが話したいことはもうご存じだと思います。ミセス・バンティングもご存じのはずです。最近、二回ほど、ぼくのほうを意味ありげに見ていたから。お嬢さんのことなんですよ——ミス・デイジーのことなんです」
バンティングはむせび泣きとも笑い声ともつかない叫び声をあげた。「娘のことかね」と彼は大声で言った。「なんだい、ジョー!きみが話したいのはそんなことかね。ああ、ギクリとさせやがって——ほんとうに、もう!」
一気に緊張感から解放されて、彼は部屋がぐるぐると回転するような気がした。そのあいだ彼は娘の恋人を見ていた。彼にとっては今や恐怖の対象たる法の体現者でもある娘の恋人を。彼はいささか間の抜けた笑顔を訪問者にむけた。チャンドラーはその穏和な心のなかに激しいいらだちというか、焦燥感が波のように湧き起こるのを感じた。デイジーの父親は、まったく察しの悪いおいぼれなのだ。
バンティングの表情が改まった。部屋は回転するのを止めた。「わたしは」と彼はぐっとおごそかに言った。そこにはかすかな威厳すら感じられた。「きみを祝福するつもりだよ、ジョー。きみは有望な青年だし、きみのお父さんは心から尊敬している」
「ありがとうございます、ミスタ・バンティング。でも、彼女はどうなんでしょう——本人の気持ちは」
バンティングは相手をじっと見つめた。エレンがいつもほのめかしていたことはまちがいで、デイジーがすっかり気を許したわけではないことを知り、彼は機嫌がよかった。
「わたしからデイジーのことはなんとも言えない」と彼は重々しく言った。「それは自分で訊かなければならないね——きみ以外、誰にもできないことだ」
「機会がないんですよ。二人っきりで会うことができないんです」とチャンドラーはいささか興奮したように言った。「お分かりにならないようですね、ミスタ・バンティング、ぼくはミス・デイジーと二人だけで会う機会がないんですよ」と彼は繰り返した。「彼女は月曜日に出て行くそうじゃないですか。でも今までいっしょに出かけたことが一回あっただけです。ミセス・バンティングが口やかましいんですよ、ミスタ・バンティング、頭が固いとまでは言いませんが——」
「それは困ったことだが、正しいことでもあるんだよ——若い女の子に対してはね」とバンティングは考えながら言った。
チャンドラーは頷いた。ほかの若い男に対してはミセス・バンティングはいくら厳しくても厳しすぎることはない、と彼も納得した。
「レディとして育てられてきたからな、うちのデイジーは」とバンティングがいささか得意そうにつづけた。「伯母さん(オールド・アーント) は彼女から目を離さないし」
「今、その伯母さん(オールド・アーント) のことで質問しようと思っていたんです」とチャンドラーは憂鬱そうに言った。「ミセス・バンティングの話だと、デイジーは、あのご婦人が死ぬまでおそばについていなきゃならないみたいなんですが——それってほんとうですか。それが訊きたかったんですよ、ミスタ・バンティング——あれは本気で言っているんですか」
「エレンには一言言っておくよ。心配しなくてもいい」とバンティングはぼんやりとして言った。
彼の心はデイジーや眼のまえの好青年のことを離れて、今や絶えず彼に取り憑いている不安な思いに移ってしまっていた。「明日来たまえ」と彼は言った。「デイジーと外出できるように取りはからってあげよう。年寄り抜きで、二人きりで話したいというのはもっともだ。そうしなけりゃ、娘もきみが好きかどうか告白できないからな!しかしね、きみはまだ娘がどんな人間か分かっちゃいないよ、ジョー——」彼は若者をじっと見つめた。
チャンドラーはいらいらと頭を振った。「知りたいだけのことはちゃんと知ってますよ」と彼は言った。「はじめてあったとき、ぼくは彼女と結婚しようと心に決めたんです、ミスタ・バンティング」
「まさか!ほんとうかね」とバンティングは言った。「そういや、娘の母親と会ったときのおれもそうだった。それから何年もあとだが、エレンのときも。しかしきみは二人目が欲しいなんて思うようなことにならなきゃいいがな、チャンドラー」
「変なことを言わないでください!」若い男は声をひそめて言った。それからややじれったそうにこう尋ねた。「二人はまだ帰らないんでしょうか、ミスタ・バンティング」
バンティングはもてなしの心を忘れていたことに気がついた。「さあ、座りたまえ」彼は急いで言った。「長くはかからないと思うよ。たいしたものを買うわけじゃないから」
それからふと調子を変えて、よく響く、心配そうな声でこう訊いた。「仕事のほうはどうなんだね、ジョー。新しい展開は何もないのかい。また事件が起きるのを待っているんだろう?」
「ええ、そんなところです」チャンドラーの声も陰気な、とげとげしい調子に変わった。「ぼくらはうんざりしています——いったいいつ終るんだろうと思って!」
「犯人がどんなやつか想像したことはあるかい?」とバンティングは訊いた。なぜかそれを訊かずにはいられなかった。
「ええ」ジョーはゆっくりと言った。「ぼくが思い浮かべるのは——残忍で、たけだけしい顔つきの悪魔。犯人はそんなやつにちがいないですよ。人相書きのせいでぼくらはまちがった方向を捜査しているんです。霧のなかで女とすれちがった男は関係ないとぼくは思います。あれは犯人なんかじゃないです。でも、迷いますね。犯人像をはっきりこうだとは言えません。ときには船乗りじゃないかと思うこともあるし——ほら、噂に出てくる外国人ですよ。事件と事件のあいだ、八日か九日くらいはオランダとか、フランスに行っている外国人。別のときはセントラル・マーケットあたりの肉屋じゃないかと思うこともあります。誰であるにしろ、殺しに慣れた男ですね。それは絶対まちがいない」
「それじゃ、きみの意見じゃ、あれは正しくないと言うんだね——」(バンティングは立ちあがって窓のほうに寄った)「つまり、その、新聞が書いているようなことは信じてないんだね、あの男が」——彼は躊躇してから必死になって言葉を吐き出した——「紳士だなんて」
チャンドラーはびっくりしたように彼を見た。「思いませんね」と彼は落ち着いて言った。「それはぜんぜんまちがっているな。もっとも、警察のなかにはお偉いさんも含めて、ウエートレスにソヴリン金貨をやった男が犯人だと確信している人もいます。でも、ミスタ・バンティング、もしもそれが事実だとしたら——そいつは施設を逃げ出した精神異常者と考えるべきでしょう。脱走した精神異常者なら、付添人がいるはずです。そして彼はどこに行ったと、大騒ぎするでしょう。ちがいます?」
「きみは」とバンティングは声を落してつづけた。「やつが、たとえば下宿なんかしているとは考えないんだね」
「復讐者がウエスト・エンドのホテルに泊まっている上流人だってことですか、ミスタ・バンティング?そんなことはないだろうなあ」彼は考えるのもおかしいといったようにほほえんだ。
「うん、まあ、そんなところなんだが」とバンティングはつぶやいた。
「もしもその予想が当っていたら、ミスタ・バンティング——」
「おれがそう思っているってわけじゃないんだ」とバンティングはあわてて言った。
「まあ、それが正しいとすればですね、ぼくらの仕事は今まで以上にむずかしくなります。だって、干し草畑のなかから針を捜し出すようなものですもの!でも、その可能性はまずないと思います——少なくともぼくはないと思うな」彼はためらった。「仲間のなかには」——彼は声をひそめた——「やつが——復讐者が——がどこかへ行ってしまえばいいと思っているのもいます——別の大都市、たとえばマンチェスターとかエジンバラとかにね。そこならやつもたくさんやることがあるだろうから」そう言ってチャンドラーは自分のブラックユーモアにクスクスと笑った。
そのときミセス・バンティングの鍵が鍵穴に差し込まれる音が聞えてきて、どちらの男も内心ほっとしたのだった。バンティングは復讐者とその犯罪に関するこの議論がひどく恐くなってきたところだった。
デイジーはチャンドラー青年がまだそこにいることを知り、うれしさに頬を赤く染めた。とっくに帰ってしまったものと思っていたのだ。エレンがまるでわざとのように何だかんだとつまらぬ買い物をぐずぐずつづけるものだからなおさら不安がつのったのだった。
「ジョーはデイジーと外出したいんだそうだ」とバンティングはだしぬけに口走った。
「母があなたをお茶に招待したがっているんですよ、リッチモンドのほうへ」とチャンドラーはぎこちなく言った。「ご都合はどうかと思って来たんです、ミス・デイジー」デイジーは訴えるようにまま母を見た。
「今日これから?」とミセス・バンティングは辛辣に言った。
「いやいや、もちろんそうじゃない」バンティングが急いで割り込んできた。「なんだってそんなことを言うんだい、エレン!」