「誰だれが其樣そんな事ことを言いふ? 何なんの、我々われ〳〵は敢あへて殺ころす、敢あへて焚やく、掠奪りやくだつする。 我々われ〳〵は屈托くつたくの無ない愉快ゆくわいな勇士ゆうしの群むれだ。 敵てきの建物たてものでも、大學だいがくでも、博物館はくつぶくわんでも、手當てあたり次第しだいに破壞はくわいする。而さうして其その破壞はくわいの跡あとで、火ひの笑わらひに充みちた浮うかれ軍士ぐんしの我々われ〳〵が踊をどりををどるのだ。 瘋癲ふうてん病院びやうゐんを我々われ〳〵の本國ほんごくと稱しようしてからに、まだ氣きの狂くるはぬ奴等やつらを我敵わがてきと認みとめ、あべこべに之これを狂人きやうじんと呼よぶのだ。 而さうして百戰せん百勝しようの、いつも悅喜滿面えつきまんめんの英雄えいゆうの此方このはうが一天てん萬乗ばんじようの君きみとして此この世界せかいに臨のぞむ時とき、如何いかにも心こゝろゆくばかりの笑聲わらひごゑが天地てんちの間あひだに轟とゞろき渡わたるのだ!」
「それが赤あかい笑わらひだ!」と私わたしは大聲おほごゑ出だしてドクトルの話はなしを奪とつて、「助たすけて吳くれェ! また赤あかい笑聲わらひごゑが聞きこえる!」
「諸君しよくん!」とドクトルは不具かたはの幽靈いうれいが呻聲うなりごゑを揚あげてゐるやうな人逹ひとたちに向むかつて、「諸君しよくん! 頓やがて我々われ〳〵の世よとなれば、月つきも赤あかくなる、日ひも赤あかくなる、毛物けものの毛けも赤あかい愉快ゆくわいな毛けとなる。 餘あまり白しろいと、餘あまり白しろいとな、それ、その皮かはを引剝ひンむいでやらうといふものだ… 諸君しよくんは血ちを飮のむだことが有あるか? 血ちは少すこし黏々ねば〳〵する物ものだ、少すこし生溫なまあたゝかな物ものだ、其代そのかはり眞紅まつかな物ものだ。 而さうして血ちが笑わらふと、眞紅まつかな愉快ゆくわいな笑聲わらひごゑが聞きこえる!…
(斷篇第七)
ひどい! 亂暴らんばうな事ことをする。 赤十字せきじふじは神聖しんせいで、世界せかい何いづれの國民こくみんも之これに對むかつて敬意けいいを拂はらはん者ものはない。 何なにも兵へいを載のせては居ゐまいし、何なんの手出てだしも出來できぬ負傷者ふしやうしやの乗のつた列車れつしやという事ことは敵てきも承知しようちなら、地雷ぢらいを伏ふせてある事ことは警告けいこくすべき筈はずでないか? 可哀かわいさうに旣もう皆みな故鄉こきやうの夢ゆめを見みてゐたらうに…
(斷篇第八)
…中央ちうあうに湯沸ゆわかし、正銘しやうめい紛まぎれのない湯沸ゆわかし、それが湯氣ゆげを噴ふく所ところは機關車きくわんしやのやうだ。 ひどい湯氣ゆげでランプのホヤまで少すこし曇くもつた位くらゐで、茶碗ちやわんも矢張やはり昔むかしながらの、外そとは藍色あゐいろの、中なかは白しろい、中々なか〳〵見事みごとな茶碗ちやわんで、結婚けつこんの時ときの貰もらひ物ものだ。 贈おくり主ぬしは妻さいの姉妹きやうだいだが、氣立きだての好いい立派りつぱな婦人ふじんだ。
「皆みなまだ滿足まんぞくでゐるかい?」と奇麗きれいな銀製ぎんせいの匙さぢで茶碗ちやわんの砂糖さとうを搔廻かきまはしながら、私わたしが心元こゝろもとなさゝうに聞きくと、
「あの、一ひとつ壞こはれましたの」、と妻さいは何氣なにげなく答こたへた。 妻さいは此時このとき湯沸ゆわかしの龍頭りうづを捻ねぢつてゐたが、湯ゆが見事みごとにスウと迸ほとばしる。
私わたしは高笑たかわらひをした。
弟をとうとが、
「なに、何なんでもない。 それよりか、最もう一度ど書齋しよさいへ連つれてツて吳くれ。 何なにも勇士ゆうしの爲ためだ、面倒めんだう見みて吳くれ! 留守中るすちう樂らくをしてゐたらうが、もう駄目だめだぞ。 これからは己おれがウンと使つかつてやる。 」で、無論むろん常談じやうだんに、友ともよ、急いそがむ、戰たゝかひに、勇いさみて敵てきに急いそがむ…と歌うたひ出だした。
皆みな私わたしの意こゝろを悟さとつて微笑びせうしたが、妻さいだけは俯向うつむいて繍ぬひとりの有ある奇麗きれいな布巾ふきんで茶碗ちやわんを拭ふいてゐた。 書齋しよさいへ行ゆくと、水色みづいろの壁紙かべがみや、靑あをい笠かさを被かぶつたランプや、水差みづさしの乗のつた小ちひさなテーブルが又また目めに付つく。 水差みづさしは少すこし塵ちりに汚よごれてゐた。
私わたしは浮立うきたつて、
「あの水差みづさしの水みづを少すこし…」
「今いま飮のむだばかりぢや有ありませんか。」
「まあ、好いい、注ついで吳くれ。 それから、お前まへな」、と妻さいに向むかつて、「坊ばうを連つれて少すこし次つぎの間まへ行いつてゝ吳くれんか。 賴たのむ。」
で、私わたしはグビリ〳〵と、樂たのしみながら、水みづを飮のむだ。 次つぎの間まには妻さいと坊ばうが居ゐるのだが、姿すがたは見みえない。
「もう宜よろしい。 さあ、此方こツちへお出いで。 だが、もう晚おそいのに何故なぜ坊ばうは寢ねないのだ?」
「お歸かへンなすつたのが嬉うれしいのですよ。 坊ばうや、お父とうさんの側そばへお出いで。」
しかし坊ばうは泣出なきだして母はゝの裾すそに隱かくれた。
「何故なぜ坊ばうは泣なくのだらう?」と私わたしはうろ〳〵と視廻みまはして、「一體いつたいお前逹まへたちは何故なぜ其樣そんな蒼あをい面かほをして默だまつてるのだ? 影法師かげぼふしのやうに、始終しゞう人ひとの跟あとにばかり隨ついて來くる…」
弟おとうとは高笑たかわらひをして、
「默だまつてやしません。」
妹いもうとも合槌あひづちを打うつて、
「どれ、私わたしはお夜食やしよくの仕度したくに掛かゝらう」、と母はゝは倉皇そゝくさと出でて行いつた。
「いや、默だまつてゐる」、と私わたしはふツと其それに相違さうゐないと思込おもひこむで、「朝あさから一言ひとことだつてお前逹まへたちの物ものを言いふのを聞きいた事ことがない。 己おればかり饒舌しやべつたり、笑わらつたりして喜よろこんでるのだ。 己おれが歸かへつて來きても喜よろこんで吳くれんのか? 何故なぜ皆みな成なる丈たけ己おれの顏かほを見みぬやうにするのだ? 己おれは其樣そんなに變かはつたか? そりや變かはりもしたらうが…鏡かゞみが一ひとつも見みえんぢやないか? 皆みな片付かたづけて了しまつたのか? 鏡かゞみを持もつて來きて吳くれ。」
「は、今いま直すぐ持もつて參まゐりますよ」、と妻さいはいつて、出でて行いつたぎり中々なか〳〵戾もどらんで、鏡かゞみは小間使こまづかひが持もつて來きた。 面かほを映うつして見みると、汽車きしやに乗のつてゐた時とき停車塲ていしやぢやうに居ゐた時ときの矢張やはりあの面かほで、少すこし老ふけたやうだが、格別かくべつ變かはつた事こともない。
「些ちつとも變かはつてやせんぢやないか?」
と澄すましていふと、傍そばの者ものは大層たいそう喜よろこんだ。 何故なぜだか皆みな私わたしが大聲おほごゑを立たてゝ氣絕きぜつでもしさうに思おもつてゐたらしい。
妹いもうとの笑聲わらひごゑは段々だん〳〵高たかくなつて、狼狽あわてゝ出でて行いつて了しまつたが、弟おとうとは狼狽らうばいした樣子やうすもなく、落着拂おちつきはらつて、
「さう、そんなに變かはつちやゐません。 たゞ少すこし禿はげたばかりで。」
「首くびが滿足まんぞくに附ついてるのが見付みつけ物ものだと思おもはなきやならん」、と私わたしは平氣へいきで答こたへて、「それはさうと、皆みな何處どこへ行いつたのだらう——一人ひとり起たち二人ふたり起たちして。 お前まへもう少すこし家うちの中うちを引張ひツぱり廻まはして吳くれんか。 實じつに此この椅子ゐすは便利べんりだ。 全まるで音おとがせん。 幾いくら出だした?己おれも旣もう斯かうなりや仕方しかたがない、金かねに糸目いとめを附つけんで此樣こんな義足ぎそくを買かはう、もツと好いいのを…や、自轉車じてんしやが!…」
壁かべに掛かゝつてゐる。 空氣くうきが拔ぬいてあるから、護謨輪ごむわは萎しなびてゐたが、まだ眞新まツたらしだ。 後輪あとわの護謨ごむに少すこし泥どろが干乾ひからびて附ついてるのは一番いちばん最後しまひに乗のつた時ときの泥どろだ。 弟おとうとは默だまつて椅子ゐすを推おすのを止やめてゐた。 私わたしには其その默だまつてゐる意こゝろも立止たちどまつてゐる意こゝろも讀よめたから、不機嫌ふきげんな面かほをして、
「己おれの方はうの聯隊れんたいで生殘いきのこつた將校しやうかうは四人よにん外ほかない。 己おれは非常ひじやうに幸運かううんだ…自轉車じてんしやはお前まへに與やらう。 明日あすになつたら、お前まへの部屋へやへ持もつてつとくが好いい。」
「さうですか。 ぢや、貰もらつときませう」、と弟おとうとは素直すなほに言いふ事ことを聽きいて、「さうですとも、兄にいさんは幸運かううんだ。 市内しないでも人口じんこうの半分はんぶんは忌中きちうの人ひとだそうですからな。 そりや足あしは何なんだけれど…」
「さうとも。 己おれは郵便配逹いうびんはいたつぢやなしな。」
弟おとうとはふと立止たちどまつて、
「如何どうしたんです? 首くびが大層たいそう震ふるへるぢや有ありませんか?」
「なに、何なんでもない。 直ぢき癒なほつ了ちまふ、醫者いしやも然さう言いつてゐた。」
「手ても震ふるへますな?」
「う、手ても震ふるへる。 なに、直ぢき癒なほつ了ちまふ。 まあ、推おして吳くれ。 一ひとツ處ところに居をると饜あきて不好いかん。」
家内かないの者ものが皆みな佛頂面ぶつちやうづらをしてゐるので、私わたしも不愉快ふゆくわいでならなかつたが、でも床とこを敷とる段だんになると、又また嬉うれしくなつて來きた。 結構けつこうな寢臺ねだいだ。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはに買かつた寢臺ねだいの上うへに本式ほんしきの床とこを敷とつて吳くれる。 淸きよいシーツを敷しいて、それから枕まくらを据すゑて、夜着よぎを被かける——その事々こと〴〵しい爲體ていたらくを見みてゐると、可笑をかしくて泪なみだが零こぼれる。
妻さいに對むかつて、
「さ、着物きものを脫ぬがせて吳くれ。 それから臥ねかすのだ。 あゝ、好いい心持こゝろもちだ!」
「は、只今たゞいま。」
「早はやく!」
「は、只今たゞいま。」
「は、只今たゞいま。」
妻さいは私わたしの背後うしろの化粧臺けしやうだいの側そばに立たつてゐた。 其方そのはうを振向ふりむいて見みやうとしたけれど、叶かなはない。 と、不意ふいに妻さいが大おほきな聲こゑで叫さけんだ。 此樣こんなな聲こゑは戰塲せんぢやうでなければ出でないといふ程ほどの大おほきな聲こゑで叫さけんだ、
「情なさけないぢや有ありませんか!」
而さうして私わたしに飛付とびついたまゝ、其處そこへ倒たふれて、有ありもせぬ私わたしの膝ひざへ面かほを埋うづめやうとして、慄然ぞツとしたやうに身みを引ひいて、又また縋すがり付ついて、少すこしばかり殘のこつた腿もゝに接吻せつぷんしながら、泣なきながら、
「あんな滿足まんぞくな身體からだだつたのに!…まだ三十ぢや有ありませんか。 若わかい立派りツぱな方かただつたのに、此樣こんなになつて了しまつて、情なさけないぢや有ありませんか! 本當ほんたうに殘酷ざんこくな人逹ひとたちだ。 貴方あなたを此樣こんなにすれば、何處どこが好いいのでせう? 何なんの必要ひつえうが有あつたのでせう? 優やさしい貴郞あなたを此樣こんな姿すがたにして了しまつて…私わたしももうもう情なさけなくツて…」
此この泣聲なきごゑを聞付きゝつけて皆みな駈かけて來きた。 母はゝも、妹いもうとも、乳母うばも皆みな駈付かけつけて來きて、皆みな泣ないた、何なんだか言いつて、私わたしの足あしの處ところに轉ころがつて、皆みな大泣おほなきに泣ないた。 弟おとうとは部屋へやの入口いりぐちに蒼白あをじろい面かほをして立たつてゐたが、是これも頤あごをわな〳〵顫ふるはせて、金切かなきり聲ごゑを振絞ふりしぼつて、
「其樣そんなに泣なかれると、私わたしも氣違きちがひになりさうだ——氣違きちがひに!」
母はゝは母はゝで私わたしの椅子ゐすの側そばにひれ伏ふしてゐたが、もう大おほきな聲こゑも出でないと見みえて、纔わづかに皺嗄しやがれ聲ごゑを立たてゝ、頭あたまを車輪しやりんに打當うちあて〳〵泣ないてゐた。 で、其處そこに枕まくらを据すゑて夜着よぎを掛かけた淸潔きれいな寢臺ねだいが見みえる。 四年前よねんぜん結婚けつこん間際まぎはに買かつた寢臺ねだいだ…