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血笑記

Chapter 12: (斷篇第九)
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About This Book

A narrator describes a weary column of soldiers marching under unbearable heat toward an unknown destination, where exhaustion and sunstroke produce delirium, grotesque hallucinations (including visions of horse heads and ghostlike bodies), and a slow unravelling of bodily and mental control; intercut with sudden recollections of a domestic interior and a brother, the account shifts between close, claustrophobic sensory detail and panoramic scenes of a deranged, silent procession, culminating in abrupt sounds of battle that temporarily restore clarity and collective urgency.

(斷篇第九)

 …わたし湯槽ゆぶねつかつてゐた。 おとうとつたり、たり。 タオルや石鹼しやぼん取上とりあげて、近々ちか〴〵近視眼ちかめそばつてつたり、またもともどしたりして、せま部屋へやなかでまご〳〵してゐたが、やがかべむかつて、指先ゆびさき壁土かべつちせゝりながら、

「ま、かんがへて御覽ごらんなさい。 すうねんすうねんあひだ慈悲じひだの、分別ぶんべつだの、論理ろんりだのといふことをしんで、ひと意識いしきあたへた以上いじやうは、——なにはさていて、意識いしきあたへた以上いじやうはですな、其丈それだけ應報おうはうきつとけりやならん。 そりや殘忍ざんにんになれんではない。 無感覺むかんかくになつて、ても、なみだても、ひとくるしむのをても、平氣へいきでゐるやうに、らうとすればなれる。 たとえば、うしぶた屠殺者とさつしや或種あるしゆ醫者いしやあるひ軍人ぐんじんなぞがそれでさ。 が、しかし、一たん眞理しんり認識にんしきしたもの眞理しんりてゝしまこと出來できるでせうか? わたし出來できんとおもふ。 子供こどもときから動物どうぶつくるしめるな、なさけれ、とをしへられてゐるのです。 んだ書物しよもつといふ書物しよもつにはみないてあるのです。 だから今度こんど戰爭せんさうなやまされるひとると、わたしどくで〳〵たまらない。 わたし戰爭せんさう呪咀じゆそする。 が、段々だん〳〵日數ひかずつにれ、ひとぬのや、くるしむだりながしたりするのがめづらしくなくなつてると、不斷ふだん感覺かんかくにぶつたやうな、道義心だうぎしん麻痺まひしたやうな鹽梅あんばいで、餘程よほどなにつよ刺戟しげきでもけなきや、むねこたへない。 が、それでも、戰爭せんさう其物そのものとは如何どうしても折合をりあこと出來できん。 元來ぐわんらい沒常識ぼつじやうしきこと理解りかいする——そんなことわたしあたまでは出來できない。 百まんひと一所ひとところあつまつて、一々はふつて進退しんたいしていのち取合とりあふ、さうしてみなおなじやうにくるしいおもひをして、おなじやうに不幸ふかううへになる、——それになん意味いみります? まる狂人きちがひしよゐぢやりませんか?」

 とおとうと此方こちら振向ふりむいて、近視きんしの、すこ愛度氣あどけないで、返答へんたふでも催促さいそくするやうに、ぢツわたしかほた。

あかわらひさ」、とわたし快活くわいくわつつて、ボシャリ〳〵とやつてゐた。

じつはね」、とおとうとしたしらしくつめたいわたしかたせると、素肌すはだれてゐたので、吃驚びつくりしたやうに、引込ひつこめて、「じつはね、わたしはどうも氣違きちがひになりさうで、心配しんぱいでならんのです。 わたしには一たい如何どうしたことだか、事由わけわからん。 わからんで、おそろしい。 だれ事由わけつてかせてれるといのだが、だれ一人ひとりそれ出來できものがない。 にいさんは戰爭せんさう實地じつち目擊もくげきしてなすつたんだ。 事由わけはなしてください。」

「そんなことおれらん!」

 と戯言じやうだんらしくつてボシャリ〳〵やつてゐると、おとうとかなしさうに、

矢張やツぱりわからん? ぢや、わたしはもうだれちからりられないのだ。 ひどいなア! わたしにやもうことわること見界みさかひかない、——なに分別ふんべつだやら、無分別むふんべつだやら、わたしいまあまへるふうで、そツにいさんの咽喉のどけて、グツと締上しめあげたら、如何どうだらう?」

馬鹿ばかつてる! だれ其樣そん眞似まねをするやつるもんか!」

 おとうとつめたいむで、かすかにわらつて、

にいさんが彼地あツちころわたしよるないことつた、——はないで。 すると、へんになつて、おのでもつて阿母おつかさんも、いもうとも、下女げぢよも、いぬも、みな叩殺たゝきころしてしまはうかとおもふ。 無論むろんおもふばかりで、其樣そんこと氣遣きづかひはないが…」

られちやたまらん」、とわたし莞爾につこりして、ボシャリボシャリとやつてゐると、

「それからまたナイフだ。 すべ銳利えいり晃々ぴか〳〵するものがあると、危險けんのんでならん。 わたしがナイフをつたら、屹度きつとひとりさうながする。 だつて、銳利えいりなナイフだつたら、りたくなるに不思議ふしぎはないでせう?」

もつとも次第しだいだ。 おまへ餘程よほど變物へんぶつだな。もうすこしてれ。」

 おとうと龍頭りうづひねつて、してから、また、

「それからまた群衆ぐんじゆだ。 ひと大勢おほぜいあつまつてると、わたし心配しんぱいでならん。 ばんそとおほきなこゑでもして騷々さう〴〵いと、私は愕然ぎよツとして、はじまつたのぢやないかとおもふ、斬合きりあひが。 ひとが二三にん立話たちばなしをしてゐる。 はなしすぢわからないと、いまにもその人逹ひとたち大聲おほごゑてゝ飛蒐とびかゝつて斬合きりあひはじまりさうにおもはれてならん。 それに貴兄あなた御存ごぞんじだらうが」、と仔細しさいありげにわたしみゝそばかほつてて、「新聞しんぶんると、人殺ひとごろしの記事きじだらけでせう? それがみなへん人殺ひとごろしばかりだ。 十にん十種といろといふけれど、うそです。 ひと良智りやうちといふものはひとつで、その良智りやうち段々だん〴〵くもしたのです。 まあ、わたしあたまさはつて御覽ごらん非常ひじやうあついから。 まるのやうだ。 けれども此奴こいつときとするとつめたくなつて、あたまなかすべこほつたやうな、かじけたやうな、おそろしい、コチ〳〵の、こほりのやうなものになつてしまことるのです。 わたし如何どうしても氣違きちがひになりさうだ。 わらごとぢやない、本當ほんたう氣違きちがひになりさうだ。 もう十五ふんになりますよ。 好加減いゝかげんにおなさらんと…」

「もうすこし。 もう一ぷんばかり。」

 むかしのやうに湯槽ゆぶねつかつて、おとうとことにはこゝろめずに、みゝれた其聲そのこゑきながら、すこ綠靑ろくしやういたどう龍頭りうづだの、見慣みなれたかべ模樣もやうだの、たなじゆんならべた寫眞しやしん機械きかいだのと、ふる馴染なじみのある、有觸ありふれた、平凡へいぼんものばかりだけれど、これてゐると、なんともへず心持こゝろもちい。 また寫眞しやしん硏究けんきうはじめて、平凡へいぼんおだやかなけいうつしたり、ばうあるところわらところや、惡戯いたづらするところつたりする。 足無あしなしでもこれなら出來できる。 文壇ぶんだん名著めいちよや、思想界しさうかいあたらしい功程こうていや、や、平和へいわ題目だいもくにしてぶんつくるのだ。

「ほツ、ほツ、ほ!」といつて、わたしはボシャリボシャリとつた。

如何どうしたんです?」

 とおとうと吃驚びつくりして顏色かほいろへたから、

「なに、たゞ… うちうしてゐるのが愉快ゆくわいだもんだからね。」

 おとうと微笑びせうした。 その樣子やうす如何いかにもわたし赤兒あかご年下としゝたもののやうにおもつてゐるらしかつたが、其癖そのくせわたしよりみツしたなのだ。 さうして自分じぶん大人おとなぶつてぢツ考込かんがへこんだところは、なに年來ねんらい思惱おもひなやむ一大事だいじでもりさうな樣子やうすだつた。

 やがてくびすくめて、

げやうにも、迯路にげみちがない。 每日まいにちほとんおなじ時刻じこく新聞しんぶんひとかよひをめて、人間にんげんみな愕然ぎよツとする。 其時そのときみな種々いろ〳〵氣持きもちになつて、かんがへたり、いたり、くるしむだり、おそれたりするから、わたしすがどころがない。 まるなみまれる木片こツぱか、旋風つむぢかぜかれたごみといふうへになる。 尋常じんじやうやう凡境ぼんけうはなれたくはないが、無理むり引離ひきはなされて、每朝まいあさ屹度きつとちう振下ぶらさがつてあしした眞暗まつくらおそろしい狂氣きやうきふち洞開ほげときがある。 わたし其中そのうち此淵このふちなかおちる、ちなきやならん理由わけがある。 にいさんはまだ事情じゞやうんなさらないのだ。 新聞しんぶんみなさらんし、種々いろ〳〵かくしてこともあるし、——にいさんはまだ事情じゞやうんなさらないのだ。」

 おとうとつたことわたし戯言じやうだんにしてしまつた。 戯言じやうだんしても、可厭いや戯言じやうだんだが、だれでもちがふと、戰爭せんさうのやうな氣違沙汰きちがひざたえんところ出來できて、此樣こん不吉ふきつことひたがるものだから、わたし戯言じやうだんにしてしまつた。 つかつてボシャリ〳〵つてゐる此時このときには、戰塲せんぢやう目擊もくげきしたことすべわすれたやうになつてゐたのだ。

「いや、かくすなら、かくしてくがいが、——しかしもうやう」、と何心なにごゝろなくわたしつたので、おとうと微笑びせうして、下男げなんんで、二人ふたりしてわたしからして着物きものせてれた。 で、香氣かをりたかちやわたしのとめて線入すぢいりのコツプでむで、なんの、あしがなくても、きてゐられる、とおもつた。 ちやむでから、書齋しよさいれてつてもらつて、つくゑむかつて、仕事しごとかゝ用意よういをした。

 戰爭前せんさうまへまである雜誌ざつし外國文學ぐわいこくぶんがく評論ひやうろん受持うけもつてゐたから、いま手近てぢかあを鳶色とびいろ種々いろ〳〵表紙へうしいた、なつかしい、淸潔きれい書物しよもつやまむである。 うれしさもうれしい、なんともへずたのしみで、ぐにになれなかつたから、書物しよもつひろげては、そツでゝゐた。 其時そのときわたしかほには微笑びせうたゞよつた。 屹度きつと馬鹿氣ばかげ微笑びせうだつたらうが、引込ひツこめること出來できないで、活字くわつじや、唐草からくさや、簡素あツさりした、すこしもぞくきのない、見事みごと挿繪さしゑなぞをながめてゐた。 みな非常ひじやう工夫くふうこらしたもので趣味しゆみがある。 たとへば、この文字もじなど、簡單かんたんで、恰好かつかうくて、たくみに出來できてゐる。 せんせんとがからつたところ調和てうわがあつて、ものこゝろかたところおほい。 これあんすには、幾干いくらひと刻苦こくゝして、硏究けんきうして、何程どれほど才能さいのう趣味しゆみめてあるか、わからん。

「さあ、仕事しごとしなきや」、とわたし眞面目まじめになつてつた。 わが仕事しごとながらおろそかにはおもへぬ。

 で、ペンを取上とりあげてだいかうとすると、いとくゝつたかへるのやうに、かみうへまはる。 ペンかみ突掛つツかゝつて、バリ〳〵といつて、跳反はねかへつて、止度とめどなくよこれて、毟散むしりちらしたやうな、まがりくねつた、えたいのわからぬ、まづせん出來できしまふ。 わたしこゑてず、うごきもせず、一大事だいじひたせまるをおぼえて、ひやりとしていきめてゐると、晃々きら〳〵あかるいかみうへをどつて、ゆびが一ぽん々々〳〵わなわなとふるへる。 そのふるへるところに、便たよりない、物狂ものぐるほしい恐怖心きようふしんきてをどつてゐる。 どうやらゆびだけがまだ戰塲せんぢやう居殘ゐのこつて、そらうつ火影ほかげ血糊のりて、言語ごんごえたいたみをうめさけぶそのこゑいてゐるやうだ。 ゆびわたしからだはなれて、たましひこもり、みゝとなり、となつたのだ。 こゑをもず、うごくこともせず、わたしつめたくなつて、晃々きら〳〵きよ白紙はくしうへゆび躍廻をどりまはるのをながめてゐた。