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血笑記

Chapter 13: (後篇、斷篇第十)
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About This Book

A narrator describes a weary column of soldiers marching under unbearable heat toward an unknown destination, where exhaustion and sunstroke produce delirium, grotesque hallucinations (including visions of horse heads and ghostlike bodies), and a slow unravelling of bodily and mental control; intercut with sudden recollections of a domestic interior and a brother, the account shifts between close, claustrophobic sensory detail and panoramic scenes of a deranged, silent procession, culminating in abrupt sounds of battle that temporarily restore clarity and collective urgency.

 寂然しんとしてゐる。 家内かないものわたし仕事しごとをしてゐるとおもふから、物音ものをとさせては邪魔じやまにならうと、みな閉切しめきつてある。 うごくこともかなはぬわたしひと室内しつないて、大人おとなしくふるへるのをながめてゐた。

「なに、なんでもない」、わたし大聲おほごゑつた。 書齋しよさい掛離かけはなれて寂然しんとしたなかで、こゑ皺嗄しやがれていや響渡ひゞきわたる。 狂人きちがひこゑのやうだ。 「なに、なんでもない。 文句もんく口授くじゆすりやい。 ミルトンも復樂園パラダイス、リゲーンドときにや、盲人めくらだつたとふ。 おれはまだものかんがへること出來できる。 これがなによりだ。 これさへかなへば、文句もんくはない。」

 で、盲目まうもくのミルトンのこと意味いみふかなが文句もんく仕立したてゝやうとしたが、言葉ことば紛糾こぐらかつて、めのかぬ活字くわつじのやうに、ほろ〳〵とこぼちて、やうや文句もんくすゑになつたとおもころには、もうはじめはうわすれてゐる。 其時そのとき如何どうして此樣こんことになつたのか、何故なぜミルトンとかいふひとことへん無意味むいみ文句もんく仕立したてやうとしてゐるのか、懷出おもひださうとしてたが、憶出おもひだせなかつた。

復樂園々々々パラダイス、リゲーンド〳〵」、と反覆くりかへしてたが、なんことだか、わからない。

 そこでかんがへてると、わたしは一たい物忘ものわすれをするやうになつた。 めう放心はうしんしてゐて、見識みしつたひとかほをも見違みちがへる。 尋常じんじやうはなしをしてゐてさへ言葉ことば見付みつからんで、ときとすると言葉ことばおぼえてゐても、どうしても意味いみわからんこともある。 やが今日けふにちこと瞭然はつきりむねうかんでたが、なんだかめうな、みじかい、ぶつりとれた、わたしあしのやうな一にちで、加之しか處々ところ〴〵ポカンとあないたへんところがある。 これはながいこと意識いしきえてゐた、あるひ無感覺むかんかくであつあひだだから、其時そのときこと憶出おもひださうとしても、何一なにひと憶出おもひだせない。

 さいばうとおもへば、わすれてゐる。 それをまた不思議ふしぎともなんともおもはない。 そつ小聲こごゑつてた、

細君さいくん!」

 落着おちつきわるい、此樣こん塲合ばあひもちひたことのないこの言葉ことばひくひゞいて、返答へんたふをもたんで、えてしまふ。 寂然しんとしてゐる。 家内かないものこゝろなく物音ものおとをさせてわたし仕事しごと邪魔じやまをすまいとしてゐるのだ。 寂然しんとしてゐる。 如何いかにも學者がくしや書齋しよさいらしい。 しづかで、居心ゐごゝろくて、觀念くわんねんをもいざなへば、作意さくいもよほ便たよりともなる。 あゝ、みなおれことおもつてゝれると、わたし染々しみ〴〵うれしくおもつた。

 …で、感興かんきよう神來しんらい感興かんきよういてた。 あたまなかぱツ照出てりだして、創造さうざうちからせたあつひかり世界せかいうへおとときはなり、うたる。 はなうただ。 わたし徹夜よツぴてペンをかなかつたが、つかれをおぼえなかつた。 雄大ゆうだい神來しんらい感興かんきようつばさして、縱橫じゆうわう無碍むげ翔廻かけめぐつて、ぶんつくつた。 天地間てんちかんの一だい文章ぶんしやうだ、千ざい不磨ふま文章ぶんしやうだ。 はなり、うたる。 はなうただ…。

(後篇、斷篇第十)

 …あにさいは前週ぜんしう金曜日きんえうびつた。 反覆くりかへしていふが、これはあにためにはおほいなる幸福かうふくである。 總身そうみのわな〳〵とふるへる、亂心らんしんした、足無あしなしの不具者かたはもの製作せいさくなつうかされてゐるところ無氣味ぶきみ無氣味ぶきみだつたが、慘澹みじめでもあつた。 其夜そのよからまるつき絕食ぜつしよく椅子ゐすけたまゝ書通かきとほしてゐた。 すこしでもつくゑから引離ひきはなせば、いてのゝしる。 かはいたペンでかみうへ搔廻かきまはしては、一まい々々〳〵撥退はねのけるそのはやさはおどろかすばかりで、いて〳〵くる。 一すゐもしない。 催眠劑さいみんざい多量たりやうませて、やつと二幾時間いくじかんとこかせたことがあるばかりで、それからはもうくすりもその製作せいさく狂熱きやうねつおさへるちからうしなつた。 當人たうにんのぞみまかせて、終日しうじつまどカーテンいたまゝ、ランプはとぼしばなしで、らしくせかけたなかで、あにはシガレットをくゆらしくゆらし、いてゐた。 はたからては、すこぶ自得じとくていであつた。 健康けんかうひとにも此程これほどきようつたかほわたしはまだことがない。 豫言者よげんしや大詩人だいしじんといふ面相かほつきであつた。 ひどやつれて、死人しにん行者ぎようじやのやうに、蠟色らふいろ透徹すきとほつたはだになり、かみまつたしろくなつて、この物狂ものぐるほしい仕事しごとはじときは、まだ〳〵わかかつたが、これをはころには、すで老翁らうをうになつてゐた。 ときとしてはいつになくいそいでときがある。 すると、ペンがかみ突掛つツかゝつてれるけれど、かない。 かういふときには、けられんので、あやまつて一寸ちよつとでもさはれば、發作ほつさおこつて、くやら、わらふやらする。 滅多めつたにはないが、ときにはしばらくこゝろかゝくももないやうに、こゝろよげに打寛うつくつろろいで、機嫌きげんよくわたしはなしをすることもある。 いつも其時そのとき屹度きつと、おまへだれだ、なんといふ、文學ぶんがくはじめてからもう餘程よほどになるか、とく。

 それがむと、今度こんどは、自分じぶん記憶力きおくりよくうしなつて、もう仕事しごと出來できぬかとおもつて、滑稽こつけいにも吃驚びツくりしたが、さうおもしたからぐにはなうただいに、千古せんこ大作たいさくかゝつて、この馬鹿ばからしい取越苦勞とりこしくらう立派りツぱ根底こんていからくつがへしたといふはなしになつて、いつもきまつた文句もんくで、たいくだして其事そのことはなしてかせる。

無論むろんわたしいまひとみとめられやうとはおもはん」、となにいてない白紙はくしやまふるへるせて昂然かうぜんとはするが、さりとてあへげきした樣子やうすはなく、「が、未來みらいだ、——未來みらいではわたし理想りさうみとめられるときもあらう。」

 戰爭せんさうことは一言出いひだしたことがない。 つま子供こどもこと其通そのとほり。 はてしのない、まぼろしのやうな仕事しごとまつたたましひ打込うちこんでしまつて、これよりほかには眼中がんちうなにもないやうにおもはれた。 そばあるいても、はなしをしても、一かうかぬらしく、いつも感興かんきようつて一しん不亂ふらんになつたかほをして、ちつとのその面相かほつきあらためない。 みな眠入ねいつてゐるよる寂然しんとしたなかで、あに一人ひとりはてしのない狂亂きやうらんいとつてむことをらぬその樣子やうす慄然ぞつとするほどで、わたしはゝとのほかには、そばものもなかつた。 或時あるときわたし偶然ひよツと本當ほんたうなにくかとおもつて、かはいたペンのぺんりに鉛筆えんぴつあてがつてことがあつたが、かみのこつたふであと見れば、矢張やはりたゞのむしつたやうな、まがりくねつた、えたいのわからぬ、みにくせんであつた。

 いきえたのはよるで、矢張やはり執筆中しつぴつちうであつた。 わたしあに心持こゝろもちつてゐたから、れたのに格別かくべつおどろきもしなかつた。 ひど文筆ぶんぴつこひしがつてゐたのは、まだ戰地せんちからの手紙てがみにも微見ほのみえてゐたことで、かへつてからもそれすなはいのちであつたが、このねがひと、くるしいた、つかてた、甲斐かひないなう撞着どうちやくしては、破滅はめつきたすべき運命うんめいであつた。 わたしあに此晚このばん運盡うんつきてぬまでの心持こゝろもち次第しだいうてなり精確せいかくしるたとおもふ。 かくこゝわたし戰爭せんさうについてしるしたところは、んだあにはなしざいつたので、はなし大抵たいてい辻褄つぢつまはないでまぎらはしかつたけれど、たゞ或時あるとき或折あるをり光景くわうけいふかなうみてえなかつたとえて、ほとんはなしまゝ書取かきとれば、それで事足ことたつた。

 わたしあにあいしてゐた。 あにいしごとわたし心頭しんたうよこたはつて、その無意味むいみことなうあつしてくるしい。 かねて蜘蛛くものやうにあたまつゝ不思議ふしぎもののあるうへに、さらけて締付しめつけられるやうだ。 家族かぞくみな田舎ゐなか親戚しんせきところつてしまつてわたし一人ひとりいへのこつてゐたが、此家このいへちひさな一軒建けんだてで、大層たいそうあにつてゐた。 召使共めしつかひどもにはみなひまつてしまつたから、每朝まいあさ隣家となり門番もんばん煖爐だんろ焚付たきつけにるばかりで、あとわたし一人ひとりきりだ。 宛然まるで重窓ぢうまど隙間すきま締込しめこめられたはひのやうに、狂廻くるひまはつてはへだてのへんものはなく。 透徹すきとほつてえるけれど、これが中々なか〳〵やぶれない。如何どうしても此家このいへ迯出にげだされぬやうながする、おもはれる。 かう一人ひとりになつてみると、戰爭せんさうことになつて、片時へんじわすれられん。 けぬなぞか、にくつゝめぬれいというやうに、それが目前もくぜんひかへてゐる。 これに種々しゆ〴〵かたちけてる。 あるひうままたがつた骸骨がいこつあるひ雨雲あまぐもなかからいてて、そつ大地だいぢつゝむおぼろげなかげるが、どうてもわたしけたとひこたへにはならないで、えずむねとざつめたいのろ恐怖きようふねんむでも〳〵つくされぬ。

 わたし戰爭せんさうといふものゝ意味いみがわからぬ。 これでは矢張やはりあにのやうに、乃至ないし戰地せんちから後送こうさうせられておほくのひとのやうに、氣違きちがひにならねばなるまいが、それはさうおそろしいともおもはぬ。 わたし本心ほんしんうしなふのは、番兵ばんぺい勤務きんむたふれるやうなもので、名譽めいよことだとおもふ。 たゞ、しかし、じり〳〵とたるみなく狂氣きやうきになつてくのがつらい。 なにおほきなものふかふちおちいるやうな刹那せつな氣持きもちつらい、はらはたむし想念おもひへぬいたみをいだくのがらい…わたしこゝろもくしてしまつた、絕入たえいつて、もうあたらしい生命いのちこと出來できぬ。 しかし想念おもひはまだきてゐる、まだ※[#立+宛]《もが》いてゐる、かつてはサムソンのごとつよかつたのが、いま小兒せうにのやうに繊弱かよわくて便たよりない。 わたしわたしあはれな想念おもひいたましい。 時々とき〴〵鐵輪てつわなう締付しめつける苦痛くつうえぬときには、まちの、廣小路ひろこうぢの、人通ひとどほりのおほところ驀然まつしぐら駈出かけだしてつて、大聲おほごゑよばはつてみたくなる、