寂然しんとしてゐる。 家内かないの者ものは私わたしが仕事しごとをしてゐると思おもふから、物音ものをとさせては邪魔じやまにならうと、戶とは皆みな閉切しめきつてある。 動うごくことも叶かなはぬ私わたしは獨ひとり室内しつないに居ゐて、大人おとなしく手ての顫ふるへるのを眺ながめてゐた。
「なに、何なんでもない」、私わたしは大聲おほごゑに言いつた。 書齋しよさいの掛離かけはなれて寂然しんとした中なかで、聲こゑは皺嗄しやがれて厭いやに響渡ひゞきわたる。 狂人きちがひの聲こゑのやうだ。 「なに、何なんでもない。 文句もんくを口授くじゆすりや好いい。 ミルトンも復樂園パラダイス、リゲーンドを書かいた時ときにや、盲人めくらだつたと云いふ。 己おれはまだ物ものを考かんがへる事ことは出來できる。 これが何なによりだ。 これさへ叶かなへば、文句もんくはない。」
で、盲目まうもくのミルトンの事ことを意味いみの深ふかい長ながい文句もんくに仕立したてゝ見みやうとしたが、言葉ことばが紛糾こぐらかつて、締しめの利きかぬ活字くわつじのやうに、ほろ〳〵と零こぼれ落おちて、漸やうやく文句もんくの末すゑになつたと思おもふ頃ころには、もう始はじめの方はうを忘わすれてゐる。 其時そのとき如何どうして此樣こんな事ことになつたのか、何故なぜミルトンとかいふ人ひとの事ことを變へんな無意味むいみな文句もんくに仕立したてやうとしてゐるのか、懷出おもひださうとして見みたが、憶出おもひだせなかつた。
「復樂園々々々パラダイス、リゲーンド〳〵」、と反覆くりかへして見みたが、何なんの事ことだか、分わからない。
そこで考かんがへて見みると、私わたしは一體たい能よく物忘ものわすれをするやうになつた。 妙めうに放心はうしんしてゐて、見識みしつた人ひとの面かほをも見違みちがへる。 尋常じんじやうの話はなしをしてゐてさへ言葉ことばが見付みつからんで、時ときとすると言葉ことばは覺おぼえてゐても、どうしても意味いみの分わからん事こともある。 頓やがて今日けふ一日にちの事ことが瞭然はつきり胸むねに浮うかんで來きたが、何なんだか妙めうな、短みじかい、ぶつりと切きれた、私わたしの足あしのやうな一日にちで、加之しかも處々ところ〴〵ポカンと穴あなの開あいた變へんな處ところがある。 これは長ながいこと意識いしきの消きえてゐた、或あるひは無感覺むかんかくであつた間あひだだから、其時そのときの事ことを憶出おもひださうとしても、何一なにひとつ憶出おもひだせない。
妻さいを呼よばうと思おもへば、名なを忘わすれてゐる。 それを又また不思議ふしぎとも何なんとも思おもはない。 窃そつと小聲こごゑで言いつて見みた、
「細君さいくん!」
落着おちつきの惡わるい、此樣こんな塲合ばあひに用もちひた事ことのない此この言葉ことばが低ひくく響ひゞいて、返答へんたふをも待またんで、消きえて了しまふ。 寂然しんとしてゐる。 家内かないの者ものは心こゝろなく物音ものおとをさせて私わたしの仕事しごとの邪魔じやまをすまいとしてゐるのだ。 寂然しんとしてゐる。 如何いかにも學者がくしやの書齋しよさいらしい。 靜しづかで、居心ゐごゝろが好よくて、觀念くわんねんをも誘いざなへば、作意さくいを催もよほす便たよりともなる。 あゝ、皆みな己おれの事ことを思おもつてゝ吳くれると、私わたしは染々しみ〴〵嬉うれしく思おもつた。
…で、感興かんきよう、神來しんらいの感興かんきようが湧わいて來きた。 頭あたまの中なかで燦ぱツと日ひが照出てりだして、創造さうざうの力ちからを載のせた熱あつい光ひかりを世界せかいの上うへに落おとす時とき、花はなが散ちり、歌うたが散ちる。 花はなに歌うただ。 私わたしは徹夜よツぴてペンを措おかなかつたが、疲つかれを覺おぼえなかつた。 雄大ゆうだいな神來しんらいの感興かんきようの翮つばさを皷こして、縱橫じゆうわう無碍むげに翔廻かけめぐつて、文ぶんを作つくつた。 天地間てんちかんの一大だい文章ぶんしやうだ、千歲ざい不磨ふまの文章ぶんしやうだ。 花はなが散ちり、歌うたが散ちる。 花はなに歌うただ…。
(後篇、斷篇第十)
…兄あには幸さいはひ前週ぜんしう金曜日きんえうびに世よを去さつた。 反覆くりかへしていふが、これは兄あにの爲ためには大おほいなる幸福かうふくである。 總身そうみのわな〳〵と震ふるへる、亂心らんしんした、足無あしなしの不具者かたはものが製作せいさくの熱なつに浮うかされてゐる處ところは無氣味ぶきみも無氣味ぶきみだつたが、慘澹みじめでもあつた。 其夜そのよから丸まる二ふタ月つき、絕食ぜつしよくで椅子ゐすに掛かけたまゝ書通かきとほしてゐた。 少すこしでも机つくゑから引離ひきはなせば、泣ないて罵のゝしる。 乾かはいたペンで紙かみの上うへを搔廻かきまはしては、一枚まい々々〳〵撥退はねのけるその迅はやさは眼めを驚おどろかすばかりで、書かいて〳〵書かき捲まくる。 一睡すゐもしない。 催眠劑さいみんざいを多量たりやうに服のませて、やつと二度ど幾時間いくじかんか床とこに就つかせた事ことがあるばかりで、それからはもう藥くすりもその製作せいさくの狂熱きやうねつを抑おさへる力ちからを失うしなつた。 當人たうにんの望のぞみに任まかせて、終日しうじつ窓まどの帷カーテンを引ひいたまゝ、ランプは點とぼしばなしで、夜よらしく見みせかけた中なかで、兄あにはシガレットを燻くゆらしくゆらし、書かいてゐた。 傍はたから見みては、頗すこぶる自得じとくの體ていであつた。 健康けんかうの人ひとにも此程これほどの興きようの乗のつた面かほを私わたしはまだ見みた事ことがない。 豫言者よげんしやか大詩人だいしじんといふ面相かほつきであつた。 甚ひどく窶やつれて、死人しにんか行者ぎようじやのやうに、蠟色らふいろの透徹すきとほつた肌はだになり、頭かみも全まつたく白しろくなつて、この物狂ものぐるほしい仕事しごとを始はじめた時ときは、まだ〳〵若わかかつたが、之これを終をはる頃ころには、既すでに老翁らうをうになつてゐた。 時ときとしては例いつになく急いそいで書かく時ときがある。 すると、ペンが紙かみに突掛つツかゝつて折をれるけれど、氣きが附つかない。 かういふ時ときには、手ても着つけられんので、若もし誤あやまつて一寸ちよつとでも觸さはれば、發作ほつさが起おこつて、泣なくやら、笑わらふやらする。 滅多めつたにはないが、時ときには暫しばらく心こゝろに掛かゝる雲くももないやうに、快こゝろよげに打寛うつくつろろいで、機嫌きげんよく私わたしと話はなしをする事こともある。 いつも其時そのときは屹度きつと、お前まへは誰だれだ、名なを何なんといふ、文學ぶんがくを始はじめてからもう餘程よほどになるか、と聞きく。
それが濟すむと、今度こんどは、自分じぶんは記憶力きおくりよくを失うしなつて、もう仕事しごとが出來できぬかと思おもつて、滑稽こつけいにも吃驚びツくりしたが、さう思おもふ下したから直すぐに花はなや歌うたを題だいに、千古せんこの大作たいさくに掛かゝつて、この馬鹿ばからしい取越苦勞とりこしくらうを立派りツぱに根底こんていから覆くつがへしたといふ話はなしになつて、いつも極きまり切きつた文句もんくで、體たいを下くだして其事そのことを話はなして聞きかせる。
「無論むろん私わたしは今いまの人ひとに認みとめられやうとは思おもはん」、と何なにも書かいてない白紙はくしの山やまに震ふるへる手てを載のせて昂然かうぜんとはするが、さりとて敢あへて激げきした樣子やうすはなく、「が、未來みらいだ、——未來みらいでは私わたしの理想りさうが認みとめられる時ときもあらう。」
戰爭せんさうの事ことは一度ども言出いひだした事ことがない。 妻つまや子供こどもの事ことも其通そのとほり。 果はてしのない、幻まぼろしのやうな仕事しごとに全まつたく魂たましひを打込うちこんで了しまつて、此これより外ほかには眼中がんちうに何なにもないやうに思おもはれた。 側そばで步あるいても、話はなしをしても、一向かう氣きが附つかぬらしく、いつも感興かんきように乗のつて一心しん不亂ふらんになつた面かほをして、些ちつとの間まも其その面相かほつきを改あらためない。 皆みな眠入ねいつてゐる夜よるの寂然しんとした中なかで、兄あに一人ひとり果はてしのない狂亂きやうらんの糸いとを撚よつて倦うむことを知しらぬその樣子やうすは慄然ぞつとする程ほどで、私わたしと母はゝとの外ほかには、側そばへ行ゆき得える者ものもなかつた。 或時あるとき私わたしは偶然ひよツと本當ほんたうに何なにか書かくかと思おもつて、乾かはいたペンの代ぺんりに鉛筆えんぴつを宛あてがつて見みた事ことがあつたが、紙かみに殘のこつた筆ふでの跡あとを見れば、矢張やはり只たゞのむしつたやうな、曲まがりくねつた、えたいの分わからぬ、醜みにくい線せんであつた。
息いきの絕たえたのは夜よるで、矢張やはり執筆中しつぴつちうであつた。 私わたしは兄あにの心持こゝろもちを能よく知しつてゐたから、氣きが狂ふれたのに格別かくべつ驚おどろきもしなかつた。 甚ひどく文筆ぶんぴつを戀こひしがつてゐたのは、まだ戰地せんちからの手紙てがみにも微見ほのみえてゐた事ことで、歸かへつてからも其それが即すなはち命いのちであつたが、この願ねがひと、苦くるしみ拔ぬいた、疲つかれ果はてた、甲斐かひない腦なうと撞着どうちやくしては、破滅はめつを來きたすべき運命うんめいであつた。 私わたしは兄あにが此晚このばんに運盡うんつきて死しぬまでの心持こゝろもちを次第しだいを逐おうて可かなり精確せいかくに記しるし得えたと思おもふ。 兎とも角かくも爰こゝに私わたしが戰爭せんさうについて記しるした所ところは、死しんだ兄あにの話はなしに材ざいを取とつたので、話はなしは大抵たいてい辻褄つぢつまが合あはないで紛まぎらはしかつたけれど、唯たゞ或時あるとき或折あるをりの光景くわうけいは深ふかく腦なうに染しみて消きえなかつたと見みえて、殆ほとんど話はなしの儘まゝを書取かきとれば、それで事足ことたつた。
私わたしは兄あにを愛あいしてゐた。 兄あにの死しは石いしの如ごとく私わたしの心頭しんたうに橫よこたはつて、その死しの無意味むいみな事ことが腦なうを壓あつして苦くるしい。 かねて蜘蛛くもの巢すのやうに頭あたまを包つゝむ不思議ふしぎな物もののある上うへに、更さらに輪わを掛かけて締付しめつけられるやうだ。 家族かぞくは皆みな田舎ゐなかの親戚しんせきの處ところへ行いつて了しまつて私わたし一人ひとり家いへに殘のこつてゐたが、此家このいへは小ちひさな一軒建けんだてで、大層たいそう兄あにの氣きに入いつてゐた。 召使共めしつかひどもには皆みな暇ひまを遣やつて了しまつたから、每朝まいあさ隣家となりの門番もんばんが煖爐だんろを焚付たきつけに來くるばかりで、跡あとは私わたし一人ひとりきりだ。 宛然まるで二重窓ぢうまどの隙間すきまへ締込しめこめられた蠅はひのやうに、狂廻くるひまはつては隔へだての變へんな物もので鼻はなを衝つく。 透徹すきとほつて見みえるけれど、これが中々なか〳〵破やぶれない。如何どうしても此家このいへを迯出にげだされぬやうな氣きがする、然さう思おもはれる。 かう一人ひとりになつてみると、戰爭せんさうの事ことが氣きになつて、片時へんじも忘わすれられん。 解とけぬ謎なぞか、肉にくで包つゝめぬ靈れいというやうに、それが目前もくぜんに控ひかへてゐる。 これに種々しゆ〴〵の形かたちを賦つけて見みる。 或あるひは馬うまに跨またがつた目めの無ない骸骨がいこつと見み、或あるひは雨雲あまぐもの中なかから湧わいて出でて、窃そつと大地だいぢを包つゝむおぼろげな影かげと見みるが、どう見みても私わたしの掛かけた問とひの答こたへにはならないで、絕たえず胸むねを鎖とざす冷つめたい鈍のろい恐怖きようふの念ねんは汲くむでも〳〵汲くみ盡つくされぬ。
私わたしは戰爭せんさうといふものゝ意味いみがわからぬ。 これでは矢張やはり兄あにのやうに、乃至ないし戰地せんちから後送こうさうせられて來くる多おほくの人ひとのやうに、氣違きちがひにならねばなるまいが、それはさう怖おそろしいとも思おもはぬ。 私わたしが本心ほんしんを失うしなふのは、番兵ばんぺいが勤務きんむに殪たふれるやうなもので、名譽めいよの事ことだと思おもふ。 たゞ、しかし、じり〳〵と弛たるみなく狂氣きやうきになつて行ゆくのが辛つらい。 何なにか大おほきな物ものが深ふかい淵ふちに陷おちいるやうな刹那せつなの氣持きもちが辛つらい、膓はらはたを毟むしる想念おもひの耐たへぬ痛いたみを抱いだくのが辛つらい…私わたしの心こゝろは默もくして了しまつた、絕入たえいつて、もう新あたらしい生命いのちを得える事ことも出來できぬ。 しかし想念おもひはまだ生いきてゐる、まだ※[#立+宛]《もが》いてゐる、曾かつてはサムソンの如ごとく强つよかつたのが、今いまは小兒せうにのやうに繊弱かよわくて便たよりない。 私わたしは私わたしの哀あはれな想念おもひが傷いたましい。 時々とき〴〵鐵輪てつわの腦なうを締付しめつける苦痛くつうに堪たえぬ時ときには、町まちの、廣小路ひろこうぢの、人通ひとどほりの多おほい處ところへ驀然まつしぐらに駈出かけだして行いつて、大聲おほごゑに呼よばはつてみたくなる、