「只たツた今いま戰爭せんさうを止やめろ! 止やめんと…」
止やめんと、如何どうする? 世よに人間にんげんの惑まどひを解とくべき言葉ことばが有あるか? かういへば、あゝと、同おなじ樣やうに壯語さうごして、癖言くせごとも言いへば言いへる。 或あるひは人間にんげんの前まへに跪ひざまついて泣ないたら? 數すう十萬まんの人ひとの泣聲なきごゑが世よを撼ゆすつても、何なんの効かひもないでないか? 或あるひは人間にんげんの前まへで自殺じさつして見みせたら? 自殺じさつ。 每日まいにち數すう千といふ人ひとが命いのちを殞おとしても、何なんの効かひもないでないか?
かうして自分じぶんの力ちからでは奈何いかんともすることが出來できぬと思おもふと、私わたしは氣きが坐そゞろになる、——呪のろふ所ところの戰爭せんさうに感かぶれて、其その狂味きやうみを帶おびて來くる。 兄あにの話はなしのドクトルのやうに、妻子さいし珍寶ちんぱう諸共もろともに人間にんげんの栖家すみかを焚やきたくなる、その飮のむ所ところの水みづに毒どくを投とうじたくなる、所有あらゆる死人しにんを棺くわんから引出ひきだして亡骸なきがらを汚けがれた人ひとの寢臺ねだいの上うへに抛付なげつけたくなる。 汝等なんぢら人間にんげん、妻つまを抱いだき情婦じやうふを抱いだいて眠ねむる如ごとくに、死骸しがいを抱いだいて睡ねむり去され!
あゝ惡魔あくまになりたい! 地獄ぢごくの慘さんたる有樣ありさまを此世このよに寫うつして、人間にんげんに見みせ付つけて遣やりたい。 人間にんげんの夢ゆめを司つかさどつて、人ひとの親おやが笑顏ゑがほをして眠ねむらむとしては、其子そのこに十字じを切掛きりかける時とき、眞黑まつくろな姿すがたをして其その面前めんぜんにヌツクと立たつてやりたい…
私わたしはどうしても氣きが狂くるふ。 たゞ、狂くるふなら、早はやく狂くるへ、——一刻こくも早はやく狂くるへ…
(斷篇第十一)
…俘虜ふりよで、恟々おど〳〵した、震ふるへてゐる一團だんの人ひとだ。 之これを車室しやしつから引出ひきだした時とき、見物けんぶつは唸うなつた、——短みじかい脆弱やにこい鎖くさりで繫つないだ、大おほきな、意地いぢの惡わるい犬いぬの如ごとく唸うなつた。 唸うなつてから、默だまつて肩かたで息いきをしてゐると、俘虜逹ふりよたちは手てを衣囊かくしへ入いれ、白しろい齒はを見みせて媚こびるやうに微笑びせうしながら、犇ひしと目白押めじろおしに押塊おしかたまつて行ゆく。 それを見みると、今いまにも背後うしろから長ながい棒ぼうで臑すねの處ところをビシヤリと打やられるといふ人ひとの足取あしどりだ。 が、中なかで一人ひとり落着おちついて、微笑にツこりともせず、險相けんさうな面かほをして行ゆく者ものがある。 私わたしと目めを視合みあはせた時とき、其その黑くろい目めの中うちに公然あからさまの衣着きぬきせぬ媢嫉にくしみが讀よめた。 此男このをとこは私わたしを卑いやしんでゐて、此奴こいつ何なにを爲するか知しれたものでない、と思おもつてゐたに違ちがひない。 若もし私わたしが獲物えものも持もたぬ此この男をとこを斬きらうとしたら、必かならず聲こゑをも立たてず、手向てむかひも辯解いひわけもしなかつたらう。 私わたしは何なにをするか知しれた物ものでない、と思おもつてゐたに違ちがひない。
も一度ど此男このをとこと眼めを視合みあはせたくなつて、見物けんぶつと共ともに駈出かけだして行いつた。 俘虜逹ふりよたちが收容所しうようじよへ入はいる時とき、願ねがひが叶かなつて、其男そのをとこが先まあ身みを開ひらいて戰友せんいうを皆みな通とほしてから、自分じぶんも内うちへ入はいらうとして、と又また私わたしの面かほを視みた。 黑くろい、大おほきな、瞳ひとみの散ちつた眼めに、無限むげんの恐怖きようふと狂氣きやうきとを浮うかべて、如何いかにも苦くるしさうで、之これを見みては世よに是程これほどの不幸あじきない心持こゝろもちになつてゐる人ひとは有あるまいと思おもはれた。
「あれは何者なにものです、あの變へんな眼付めつきをしてゐる男をとこは?」
と護送ごさうの兵士へいしに尋たづねて見みると、
「士官しくわんです。 狂人きちがひなんで。 あゝいふのは澤山たくさん有あります。」
「名前なまへは?」
「默だまつてゝ名前なまへを言いはんのです。 外ほかの俘虜ふりよも知しらんといふから、大方おほかた餘所よそのが紛まぎれ込こんで來きたんでせう。 もう一度ど首くびを縊くゝらうとしたのを助たすけた事ことがあるんで、や、どうも手てが附つけられない!…」
と兵士へいしはその手ての附つけられないといふ事ことを手眞似てまねでして見みせて、戶との内うちへ隱かくれて了しまつた。
で、かう晚ばんになつてから、此この俘虜ふりよの事ことを考かんがへてみると、あゝして獨ひとり敵中てきちうに居ゐる。 如何どんな目めに遭あははされるかも知しれない、と思おもつてゐる。 味方みかたは居ゐても、知しつた面かほは一人ひとりもない。 默だまつて、浮世うきよの隙ひまの明あくのを辛抱强しんばうづよく待まつてゐるのだが、それにしても如何どうも狂人きちがひとは思おもへぬ。 臆病おくびやうでもなさゝうだ。 皆みな魂たましひが身みに添そはずぶる〳〵物ものでゐる中なかで、獨ひとり昂然かうぜんとしてゐる。 恐おそらく其その仲間なかまをも仲間なかまと思おもつてゐまい。 如何どんな心持こゝろもちでゐるだらう? 死しに臨のぞむで名なを言ふまいといふ、その絕望ぜつばうの深ふかさは測はかり知しられぬ。 名なを言いつたとて何なんの益えきがある? 今いまは是迄これまでの命いのちと覺悟かくごして、人間にんげんの眞價しんかを覺さとつた身みには、周圍まはりで如何どんなに騷さわいだとて、喚わめいたとて、又また威嚇ゐかくしたとて、眼中がんちうにもう人間にんげんはない、敵てきもなければ、味方みかたもない、——といつた氣きになつてゐるのだらう。 此男このをとこの身みの上うへを聞糺きゝたゞしてみたら、一度どに數萬すまんの戰死者せんししやを出だした此頃このごろの怖おそろしい戰鬪せんとうの時とき、捕虜ほりよになつたので、捕虜ほりよになる時とき、抵抗ていかうしなかつたと云いふ。 何故なぜか武器ぶきを持もつてゐなかつたのを、それとは氣きが附つかずに一兵卒ぺいそつが劍けんを揮ふるつて斬付きりつけると、起上おきあがりもせず、手てを戟ほこにして攔さへぎりもしなかつたが、創きずは淺あさかつた。 創きずの淺あさかつたのは、此男このをとこの身みにしたら生憎あいにくな事ことだつた。
しかし全まつたく狂人きちがひでないとも云いへぬ。 護送ごさうの兵士へいしもさういつたが、かういふのは澤山たくさん有あるさうな…
(斷篇第十二)
…そろ〳〵始はじまつた。 昨夜さくや兄あにの書齋しよさいへ入はいると、兄あにが安樂椅子あんらくゐすに恁もたれて、書物しよもつに埋うづまつた机つくゑに對むかつてゐる。 手燭てしよくに火ひを點つけると、幻まぼろしは直すぐ消きえて了しまつたが、久しばらくは其その安樂椅子あんらくゐすには凭かゝる氣きになれなかつた。 初はじめの中うちは恐おそろしかつた、——ガランとした室内しつないに、何なにか絕たえずさら〳〵といふ音おとや、ぱち〳〵と物ものの爆はねる音おとがして薄氣味うすきみ惡わるかつたが、而しかし兄あになら他人たにんには勝ましだと思おもふと、寧むしろ居心ゐごゝろが好よくなつた。 が、それでも此晚このばんは徹宵よツぴて椅子ゐすを離はなれなかつた。 離はなれたら、直すぐ兄あにが掛かけさうに思おもはれて。 室へやを出でる時ときは、背後うしろを向むかずに、急いそいで出でた。 家中うちゞうに燈火あかりを點つけたものか——いや、それにも及およぶまいか? 燈火あかりで何なにかゞ見みえたら、尙なほ無氣味ぶきみだらう。 此儘このまゝだと、まだ多少たせうの疑うたがひを存そんして置おく事ことも出來できる。
今日けふ手燭てしよくを持もつて部屋へやへ入はいつたら、椅子ゐすには誰だれも掛かけて居ゐなかつた。 してみると、昨夜ゆうべは唯たゞ影かげがちらりとしたばかりで有あつたのだ。 又また停車塲ていしやばへ行いつてみると、——もう此頃このごろでは每朝まいあさ行ゆく事ことにしてゐるのだが、行いつてみると、味方みかたの瘋癲ふうてん患者くわんじやばかりを載のせた車輛しやりやうがある。 戶とも開あけずに別べつの線路せんろへ移うつして了しまつたが、それでも窓まどから幾人いくにんかの面かほが見みえた。 皆みな怖おそろしい面かほであつた。 殊ことに一人ひとりの患者くわんじやの面かほは法外はふぐわいに間まが延のびて、レモンのやうに黃きいろく、明放あけツぱなしの眞黑まつくろな口くちに据すわつた眼めと、どう見みても「無殘むざん」を面おもてに刻きざむだやうな面かほで、私わたしは之これに眼めを奪うばはれて了しまつた程ほどだつたが、直ひたと私わたしと眞向まむかひに向むき合あつて、凝ぢつと首くびを据すゑて、其儘そのまゝ眉まゆ一ひとつ動うごかさず、目まじろぎもせずに、動うごき出だす汽車きしやと共ともに行過ゆきすぎて了しまつた。 これが停車塲ていしやばで仕合しあはせ、若もし家うちのあの暗くらい戶口とぐちで此面このかほが見みえたら、私わたしは到底とても堪たへ切きれなかつたらうと思おもふ。 聞きいて見みたら、後送こうさうされた瘋癲ふうてん患者くわんじやは廿二名めいだつたと云いふ。 愈々いよ〳〵流行りうかうするものと見みえる。 新聞しんぶんでは一向噂かうゝはさもせぬが、市内しないでも徐々そろ〳〵其萠そのきざしが見みえるやうだ。 礑はたと戶とを締切しめきつた眞黑まツくろな馬車ばしやを折々をり〳〵見みかける。 今日けふ一日にちに彼方此方あちこちで六臺だいも見掛みかけたが、大方おほかた私わたしも今いまに彼あれに乗のる事ことであらう。
新聞紙しんぶんしは每日まいにち軍隊ぐんたい輸送ゆさうの必要ひつえうを說とく。 更さらに血ちを流ながす必要ひつえうがあると云いふ。 如何どういふ譯わけだか、私わたしは愈愈いよいよ分わからない。 昨日きのふ奇怪きくわい千萬ばんな論文ろんぶんを讀よむだ。 その說せつに、國民中こくみんちうにも軍事探偵ぐんじたんてい、賣國奴ばいこくど、謀叛人むほんにんが澤山たくさん有あるから、銘々めい〳〵戒心かいしんして十分ぶんに注意ちういしなければならんが、國民こくみんの公憤こうふんに照てらされては、此この極惡人等ごくあくにんらも遂つひに其跡そのあとを晦くらますことは出來できまいとあつた。 此この極惡人等ごくあくにんらとは如何どんな人逹ひとたちの事ことで、如何どんな惡事あくじを働はたらいたのだらう? 停車塲ていしやばを出でて電車でんしやに乗のつたら、車中しやちうで變へんな話はなしを聞きいた。 大方おほかた其その極惡人逹ごくあくにんたちの噂うはさをしてゐたのだらう。
「さういふ奴等やつらは裁判さいばんも何なにも有あつたものぢやない、卒然いきなり絞罪かうざいに處しよしツ了ちまふが好いいのです、」と一人ひとりが言いつて、胡亂うろんさうに皆みなを視廻みまはした序つひでに、私わたしの面かほをも瞥ちらりと視みて、「謀叛人むほんにんは絞殺やツつけるに限かぎる。」
「用捨ようしやなくな」、と今いま一人ひとりが合槌あひづちを打うつて、「もう散散さんざん用捨ようしやして遣やつてますからな。」
私わたしは電車でんしやを飛降とびおりて了しまつた。 皆みな戰爭せんさうには泣なかされてゐる、彼あの人逹ひとたちも矢張やはり然さうだらうに、——これは又また如何どうした事ことだ? 如何どうやら絳あかい霧きりが大地だいぢを包つゝむで人ひとの目めを遮さへぎり、實まことに世界せかいの破滅はめつが近ちかづいたやうに段々だん〴〵思おもはれて來くる。 兄あにが見みたといふ赤あかい笑わらひが是これだ。 かなたの血ちみどろの赤黑あかぐろくなつた野のから、狂亂きやうらんの風かぜが吹ふいて來きて、大氣たいきの中なかにその冷つめたい氣息いぶきの傳つたはるを覺おぼえる。 私わたしは屈强くつきやうな男をとこだ、病やまひで身體からだを壞こはした爲ために腦髓なうずゐが溶とろけて來きたのではないが、病毒びやうどくが傳染でんせんして私わたしの心こゝろの半なかばはもう私わたしの自由じいうにならぬ。 これはペストより惡わるい、ペストより怖おそろしい。 ペストなら、まだ何處どこへか躱かくれる法はふもある、何なにかしら豫防法よばうはふを施ほどこす事ことも出來できるが、遠近えんきんもなく、障隔へだてもなく、何處どこへでも徹とほる思想しさうには躱かくれる道みちがないではないか?