晝ひるはまだ凌しのげるが、夜よるになると、私わたしも人並ひとなみに夢ゆめの奴やつこになつて了しまふ、——その夢ゆめが又また怖おそろしい狂氣染きちがひぢみた夢ゆめで…
(斷篇第十三)
到いたる處ところ私鬪しとうが行おこなはれて、無意味むいみに夥おびたゞしく血ちを流ながす。 聊いさゝかの衝動しようどうにも直すぐ無法むはふな腕力わんりよく沙汰ざたになつて、ナイフや石塊いしころや棍棒こんぼうが閃ひらめき、相手あひて構かまはず手當てあたり次第しだいに打殺ぶちころす。 鮮血せんけつが兎角とかく迸ほとばしりたがつて、何なんの苦くもなく滾々こん〳〵と流ながれる。
その百姓ひやくしやうは六人にんで、丸込たまごめした銃ぢうを擔かたげた兵へいが三人にんで護送ごさうして行ゆく。 皆みな如何いかにも百姓ひやくしやうじみた、粗末そまつな、野蠻人やばんじんに髣髴はうふつたる、原始的げんしてきの服裝ふくさうで、宛然まるで粘土ねばつちで捏でツちたやうな別種べつしゆの面かほをして、髮かみの毛けも髯ひげもくしや〳〵と塊かたまつて寧むしろ毛物けものの毛けのやうで、それが富とみ榮さかゆる市街しがいを、紀律きりつの正たゞしい兵士へいしに護送ごさうせられて行ゆく所ところは、古むかしの奴隸どれいを面まのあたりに見みるやうだ。 皆みな戰地せんちへ召集せうしふせられて行ゆくので、銃劍ぢうけんには敵てきし得えず、屠所としよへ引ひかれる牛うしのやうに、罪つみの無ない面かほをしてキョトンとして行ゆく。 最先まつさきに行ゆくのは頰髭ほゝひげも生はえぬ、脊せの高たかい若者わかもので、鵞鳥がてうのやうなひよろ長ながい頸くびへ、小ちひさな頭あたまを据すゑてゐる。 枯枝かれえだのやうな身體からだを前屈まへこゞみにして、凝然ぢつと足元あしもとを睇視みつめた目色めつきは地中ちちうへ喰入くひいりさうだ。殿しんがりに行ゆくのは脊せの低ひくい、髯ひげだらけの、年配ねんぱいの男をとこだつたが、もう反抗はんかうする氣力きりよくもないらしく、思慮しりよのない目色めつきをして、地ちが足あしに汲付すひつくのか、喰付くひつくのか、兎角とかく離はなれかねて、烈風れつぷうに向むかつたやうに、身みを反そらして行ゆく。 一步ぽを移うつすにも、兵士へいしに背後うしろから銃ぢうの臺尻だいじりで小突こづかれて、辛やツと片足かたあしを引離ひきはなし、わな〳〵しながら踏出ふみだすけれど、片足かたあしは地ちに附着くツついてゐて中々なか〳〵離はなれない。 兵士へいしも厭いやな面かほをして不機嫌ふきげんさうだ。 もう長ながいこと斯かうして行ゆくらしく、銃ぢうを擔かたげた振ふりにも、田舎漢ゐなかものらしく内輪うちわに思おもひ〳〵に步あるく足取あしどりにも、困憊がツかりして萬事ばんじを抛遣なげやりにしてゐる處ところがある。 意味いみもなく、思切おもきり惡わるく、默だまつて百姓等ひやくしやうらが反抗はんかうするので、紀律きりつで固かたまつた頭あたまも濛ぼツとなり、何處どこへ何なんの爲ために行ゆくのか、もう分わからなくなつたといふ樣子やうすだ。
「何處どこへ連つれて行ゆくのです?」と私わたしが一番ばん端はづれの兵へいに聞きくと、その兵へいは愕然びくツとして私わたしの面かほを見みた。 ギロリとした銳するどい目色めつきで視みられた時ときには、正まさしく銃劍ぢうけんを突付つきつけられて、その切先きツさきが胸むねへグサと刺ささつたやうな氣持きもちがした。
例れいの年配ねんぱいの男をとこが此この瞬間しゆんかんの隙ひまに乗じようじて迯出にげだした。 チョコ〳〵と小走こばしりに走はしつて、路端みちばたの柵さくの根方ねかたへ、隱かくれる積つもりなのか、蹲つぐなんだ。 眞しんの動物どうぶつでも此樣こんな呆とぼけた狂人染きちがひじみた事ことはすまい。 兵へいは大おほいに怒いかつた。 つか〳〵と側そばへ行いつて屈こゞむと、銃ぢうを左手ゆんでに持易もちかへるや、右手めてで何なにか柔やはらかい平ひらたい物ものを打うつ音おとがピシャリとした。 又またピシャリといふ。 人ひとが環集たかつて來くる。 笑わらふ聲こゑや喚わめく聲こゑがする…
(斷篇第十四)
…土間どまの十一に居ゐた。 右左みぎひだりから誰だれの腕うでだかに直ひたと身みを挾はさまれながら、周圍まはりを見廻みまははすと、ズツと向むかふまで一面めんに凝ぢツと据すゑた人ひとの首くびが薄暗うすぐらい中なかに列ならんでゐるのが、舞臺ぶたいの火影ほかげを受うけて微ぼツと赤あかく見みえる。 かうした狹せまい處ところに此樣こんなに人ひとが詰つまつてゐるのを見みてゐると、次第しだいに怖おそろしくなつて來くる。 皆みな默だまつて舞臺ぶたいの臺詞せりふを聽きいてゐる、——或あるひは何なにか餘所事よそごとを考かんがへてゐるのかも知しれぬが、多人數たにんずなので、默だまつてゐても、俳優はいゝうの大おほきな聲こゑよりも能よく聞きこえる。 咳せきをする、涕はなを拭かむ、衣摺きぬずれの音おとに足あしを踏易ふみかへる音おとがする。 深ふかい荒あらい息氣いき遣づかひの音おとさへ判然はツきり聞きこえたが、此この息氣いき遣づかひの爲ために空氣くうきは生溫なまあたゝくなるのだ。 かうしてゐる人ひとが皆みな死人しにんになる時ときにはなる、皆みなの頭あたまも狂くるつてゐる、——と思おもふと、身みの毛けが彌竪よだつ。 丁寧ていねいに梳とかした頭あたまを白しろい堅かたいカラーの上うへに確しかと据すゑて鳴なりを鎭しづめてゐる處ところに、狂氣きやうきの暴風雨あらしが今いまにも吹起ふきおこりさうな氣味きみがある。
隨分ずゐぶんの人數にんずだつたが、これが皆みな怖おそろしい人逹ひとたちで、加之しかも私わたしの居ゐる處ところから出口でぐち迄までは餘程よほどある、——と思おもふと、指ゆびの先さきまで冷つめたくなつた。 皆みな落着おちついてゐるけれど、若もし大聲おほごゑに、「火事くわじだ! …」といつたら…と思おもふと、慄然ぞツとする。 薄氣味うすきびが惡わるいけれど、何なんだか切しきりに然さう言いつて見みたくて耐たまらなくなる。 今いまでも其時そのときの事ことを憶出おもひだすと、指ゆびの先さき迄まで冷つめたくなつて冷汗ひやあせが出でる。 言いはうと思おもへば、言いへん事ことはない。 起上たちあがつて、背後うしろを振向ふりむいて、大聲おほごゑに斯かういふのだ、
「火事くわじだツ! 迯にげろ〳〵、火事くわじだツ!」
さうしたら、今いまは那麽あゝ落着おちついてゐる手足てあしに急きふに狂氣きやうきが取付とりついて慄ふるひ出だす。 皆みな躍をどり上あがり、叫さけび出だし、畜生ちくしやうのやうに、哮たけり立たつて、妻つまや姉妹あねいもうとや母親はゝおやの居ゐるのも忘わすれて、不意ふいに盲目めくらになつたやうに、彼方此方あちこちと彷徨うろ〳〵し、氣きも坐そゞろになり、果はては香水かうすゐの馨かほりの高たかいあの白しろい手てで互たがひの咽喉のどを締出しめだす。 燦ぱツと塲内ぢやうないを明あかるくして、誰だれだか眞蒼まつさをな面かほをした者ものが舞臺ぶたいから何なんでも有ありません、火事くわじでも何なんでも有ありませんと呼よばはると、戰おのゝくやうに斷續だんぞくした樂聲がくせいが思切おもひきつて花はなやかに起おこるけれど、もう其樣そんな物ものに耳みゝを假かす者ものはない。 ドタバタと互たがひの咽喉のどを締しめ合あひ、或あるひは婦人ふじんの頭あたまを打うつ、手數てすうを掛かけて巧たくみに結上ゆひあげた髮かみをポカ〳〵と打うつ。 互たがひに耳みゝを引捥ひンもぎり、鼻はなを喰缺くひかく。 衣服きものも何なにも引裂ひきさかれて赤躶まるはだかになるけれど、氣きが狂くるつてゐるから、恥はぢを恥はぢとも思おもはない。 平生ひごろは吾神わがかみと崇あがめる、淚脆なみだもろい、優やさしい、美うつくしい婦人逹ふじんたちが泣聲なきごゑ立たてて、足元あしもとに便たよりない身みを悶もだえ、かねての男氣をとこぎを賴たのみにして膝ひざに縋付すがりつくのに、その美うつくしい面かほを擧あげた所ところを忌々いま〳〵しさうに撲曲はりまげて、自分じぶんは出口でぐちへ出でやうと焦心あせる。 男をとこはいつでも人殺ひとごろしを行やりかねぬ。 その長閑のどかに上品じやうひんめかしてゐるのは、食しよくに飽あいた動物どうぶつが命いのちに懸かゝる大事だいじもないと安心あんしんして落着おちついてゐるのに過すぎぬ。
で、見物けんぶつの半分はんぶんは死骸しがいになつて、ぼろ〳〵した服裝なりの人逹ひとたちが一塊ひとかたまり、出口でぐちの處ところにわな〳〵と、畜生ちくしやうが恥はぢを搔かいたやうな面かほをして慄ふるへながら、苦笑にがわらひをしてゐる時とき、私わたしが舞臺ぶたいへ出でて、斯かういつて笑わらつてやるのだ。
「みんな私わたしの兄あにを殺ころした報むくひだと思おもひなさい。」
ね、かういつて笑わらつてやるのだ、
「みんな私わたしの兄あにを殺ころした報むくひだと思おもひなさい。」
何なにか大聲おほごゑで私わたしが獨言ひとりごとを言いつたと見みえて、此時このとき右隣みぎどなりの人ひとが忌々いま〳〵しさうに身動みうごきをして、
「シッ! 邪魔じやまになつて聞きこえやしない。」
私わたしは氣きが浮々うき〳〵する。 串戯ふざけて見みたくて堪たまらない。 事有ことありげな、生眞面目きまじめな面かほを作つくつて、其方そのはうへ持もつて行ゆくと、
「何なんです? 何故なぜ其樣そんなに人ひとの面かほを視みるのです?」
「靜しづかに」、と私わたしは唇くちびるばかりを動うごかして咡さゝやく。
「甚ひどくキナ臭くさいでせう? 火事くわじですぜ。」
者奴しやつ中々なか〳〵の氣丈者しつかりもので分別ふんべつの有ある奴やつと見みえて、聲こゑは立たてなかつた。 さツと顏色かほいろを變かへると、牛うしの膀胱程ばうくわうほどな大おほきな眼球めだまが飛出とびだして頰ほゝへ振ぶら垂さがる程ほどになつたけれど、それでも聲こゑは立たてなかつた。 そつと起上たちあがつて、私わたしには禮れいも言いはずに、わく〳〵して蹌踉よろけながら、それでも急せかずに出口でぐちの方はうへ行ゆく。 此中このなかで迯出にげだして命いのちを助たすかる價値ねうちの有あるのは自分じぶんばかりと己惚うぬぼれて、他ほかの者ものが火事くわじに氣きが附ついてその迯路にげみちを塞ふさぐを恐おそれてゐたらしい。
私わたしは氣色きしよくが惡わるくなつて來きたから、矢張やはり芝居しばゐを出でて了しまつた。 此處こゝで正體しやうたいを顯あらはすのはまだ早はやいとも思おもつたので。 で、外そとへ出でて戰地せんちの方角はうがくを眺ながめてみると、空そらは森しんとして、火影ほかげの黃きに映うつる夜よるの雲くもが長閑のどかに徐しづかに漾たゞよつてゐる。 空そらも町まちも餘あまり閑しづかなのに欺だまされて、「皆みんな夢ゆめで、戰爭せんさうも何なにも有あるんぢやないのかも知しれん」、と私わたしは思おもつた。
が、曲角まがりかどから子供こどもが飛出とびだして、何なんだか嬉うれしさうに大聲おほごゑで、
「そーら滅茶苦茶めちやくちやな大戰爭だいせんさう! 大變たいへんな討死うちじにだい!電報でんぱう買かつてお吳くんな。 今夜こんやの電報でんぱうだぜ。」
街燈がいとうの火影ほかげで讀よむで見みると、戰死せんし四千とある。 芝居しばゐの見物けんぶつだつて千以上いじやうは無なかつたらう。 家うちへ歸かへる途々みち〳〵も、四千の死骸しがい〳〵と、始終しじゆう其事そのことばかりを思おもつてゐた。
かうなると、ガランとした家うちへ入はいるのが氣味きみが惡わるい。 鍵かぎを孔あなに押入おしいれて、何なにも言いはぬ平たひらな戶とを眺ながめたばかりで、もう人ひとも住すまぬ眞暗まツくらな部屋へや々々〴〵が殘のこらず心こゝろに浮うかぶ。 今いま其中そのなかをキョロ〳〵しながら帽子ぼうしを冠かぶつた者ものが一人ひとり通とほる所ところだ。 不知ふち案内あんないの通路かよひぢではないけれど、まだ梯子段はしごだんを登のぼる時ときから、マッチを擦すつて、手燭てしよくを見付みつける迄まで、點とぼし續つゞけてゐた。 兄あにの書齋しよさいへはもう行ゆかぬ。 書齋しよさいは在形ありがたの儘まゝ全然そツくり直ひたと締切しめきつて、錠ぢやうが卸おろしてある。 私わたしは食堂しよくだうへ引越ひツこしてゐたが、今夜こんやも其その食堂しよくだうに寢ねるのだ。 食堂しよくだうの方はうが居心ゐごゝろが好いい。 話聲はなしごゑや、笑聲わらひごゑや、食器しよくきの鳴なる賑にぎやかな音おとがまだ太氣中たいきちうに籠こもつて居ゐさうに思おもはれる。 時々とき〴〵乾かわいたペン先さきのさら〳〵と紙上しゞやうを走はしる音おとが判然はつきり聞きこえる事こともある。 寢臺ねだいへ橫よこになると…