(斷篇第十五)
…愚ぐにも附つかぬ夢ゆめだけれど、怖おそろしい夢ゆめだ。 宛然さながら葢ふたの骨ほねを剝はがれて、腦なうが覆おほふ物ものもなく露出むきだしになつたやうに、物狂ものぐるほしい血羶ちなまぐさい今日けふ此頃このごろの慘むごたらしさを、吸すはせられる儘まゝに吸すひ込こんで飽あくことを知しらぬ。 縮ちゞんで寢ねれば、身みは二アルシンを塞ふさぐに過すぎぬけれど、心こゝろは世界せかいをも包つゝむ。 所有あらゆる人ひとの目めで觀み、所有あらゆる人ひとの耳みゝで聽きき、戰死者せんししやと共ともに死しに、負傷ふしやうして置去おきざりにされた者ものと共ともに泣なき悲かなしみ、人ひとの流ながす血ちに私わたしも痛いたみを感かんじて惱なやむ。 無ない物ものまでも有あるやうに、遠とほい物ものさへ近ちかく顯然まざ〳〵と見みえて、曝さらした腦なうの苦痛くつうに際限さいげんがない。
子供こども々々〳〵、小ちいさな子供こども、まだ罪つみを知しらぬ子供こども。
その子供等こどもらが町中まちなかで戰爭さんさうごツこをして、逐おひつ逐おはれつしてゐる中うちに、誰だれだか細ほそい稚をさない聲こゑでもう泣なく者ものがある。 私わたしは怖おそろしさも怖おそろしく、厭いやな厭いやな氣持きもちになつて、何なにか胸むねが躍をどるやうに覺おぼえた。 家うちへ歸かへれば、夜よるになつて、夜火事よくわじのやうに炎もえる夢ゆめに、このいたいげな罪つみの無ない子供等こどもらが、小ちひさな人殺ひとごろろしの惡黨あくたうの群むれになつたと見みた。
何なんだか眞赤まツかな太ふとい火焰くわえんを擧あげて物凄ものすごく燃もえる烟けむりの中うちに、首くびは大人おとなの、加之しかも惡黨あくたうらしく、胴どうは不具かたはの子供こどもの變化へんぐゑらしい物ものが蠢うごめく。 山羊やぎの子こが戯たはむれるやうに、身輕みがろくピョン〳〵跳廻はねまはつてゐる癖くせに、病人びやうにんのやうな苦くるしさうな息氣いき遣づかひをする。 蟇ひきか蛙かへるのそれに似にた口くちを、パクリと開あいては顫わなゝかせ、躶身はだかみの透徹すきとほるやうな皮越かはごしに赤あかい血ちの流ながれるのが見みえて、その子供等こどもらは遊あそび戯たはむれながら、討うちつ討うたれつする。 小ちひさくて何處どこへでも潜もぐり込こむから、此程これほど無氣味ぶきみな物ものを私わたしは曾かつて見みた事ことがない。
私わたしが窓まどから覗のぞいてゐるのを、小ちひさい一人ひとりが認みとめるや、莞爾にツこりして、内うちへ入はいりたさうな目色めつきをしながら、
「其處そこへ行いくよ。」
「來きたら取殺とりころすだらう?」
忽たちまち諷さツと顏色かほいろを變かへて、白壁しらかべを攀登よぢのぼる所ところは宛然まるで鼠ねずみだ、饑うえた鼠ねずみだ。 落おちてチゝと鳴なく、又またちよこちよこと壁かべを走はしる。 その變化へんくわの烈はげしいこと、遽あはただしいこと、見みる眼めも迷まよふばかりだ。
戶との下したからなら、潜もぐり込こめる、——と思おもつて私わたしが慄然ぞツとすると、さう思おもふ人ひとの心こゝろを讀よむだやうに、鼠ねずみは身みを細長ほそながくして、尻尾しツぽの先さきをひらめかしながら、表口おもてぐちの戶との下したの暗くらい隙間すきまへ潜もぐり込こむ。 私わたしが夜着よぎを被かぶつて隱かくれてゐると、小ちひさな奴やつが小ちひさな素足すあしの音おとを偸ぬすみ〳〵、暗くらい部屋へや々々〴〵を尋たづね廻まはる音おとがする。 そろり〳〵と、躇躊ためらひがちに、私わたしの部屋へやへ忍しのび寄よつて、遂つひに中なかへ這入はいつて來きたが、それぎり久しばらくはガサともゴソとも言いはないから、寢臺ねだいの側そばに何なにが居ゐやうとも思おもへぬ。 忽たちまち誰だれだか小ちひさな手てで夜着よぎの端はしを捲まくる者ものがある。 室内しつないの冷つめたい氣きがヒヤリと面かほに觸ふれ、胸むねに觸ふれる。 私わたしはしかと夜着よぎを抑おさへてゐたが、夜着よぎは止度とめどなく其處そこら中ぢうから剝めくれて、足あしが水みづへでも涵つかつたやうに、急きふに冷つめたくなる。 頓やがて兩足りやうあしとも冷つめたい暗くらい部屋へやの中なかに便たよりなく橫よこたはれば、鼠ねずみはそれを眺ながめてゐる。
壁かべ一重ひとゑ隔へだてゝ庭にはで犬いぬの啼聲なきごゑがして、ト罷やむと、鎖くさりのぢやら〳〵といふ音おとがして、犬いぬは小舎こやへ潜もぐり込こむだやうだ。 鼠ねずみは默だまつて私わたしの素足すあしを眺ながめてゐる。 それが側そばに居ゐるのは自おのづから知しれる。 堪たまらなく怖おそろしくて、死神しにがみに抱窘だきすくめられたやうに、身體からだが竦すくみ、石いしの墓はかか何なんぞのやうに、寂ぢツと動うごかなくなるにつけても、それは知しれるが、若もし大聲おほごゑを立たてる事ことが出來できたら、私わたしは此市このまちどころか、世界中せかいぢうを呼覺よびさましたかも知しれん。 只たゞ聲こゑが中途ちうとで立消たちぎえをして出でて來こぬので、大人おとなしく凝然ぢツとしてゐたが、小ちひさい冷つめたい手先てさきがむづ〳〵と身體中からだぢうを這廻はひまはつて、咽喉元のどもとへ逼せまる。
「堪たまらん!」と片息かたいきになつて、喚わめいて瞬またゝく間まに目めを覺さます。 夜よは深々しん〳〵として靈れいあるが如ごとく、暗くらくても能よく見みえたが、私わたしは又また眠入ねいつたらしかつた…
「何なにも心配しんぱいする事ことはないよ」、と兄あにが寢臺ねだいの端はしに腰こしを卸おろした。 亡者もうじやでも重おもたくて、寢臺ねだいがギシ〳〵といふ。 「何なにも心配しんぱいする事ことはない。 皆みな夢ゆめだ。 咽喉のどを締しめられるやうな氣きがするので、お前まへは實じつは誰だれも居ゐない眞暗まつくらな部屋へやでグッスリ寢込ねこんでるのだ。 ね、私わたしは書齋しよさいで書かいてるのだ。 何なにを書かいてるのか一向こう知しらんもんだから、お前方まへがたは私わたしを狂人きちがひ扱あつかひにして失禮しつれいな眞似まねをしてゐるけれど、もう斯かうなりや打明うちあけやう。 私わたしは實じつは赤あかい笑わらひの事ことを書かいてるのだ。 お前まへに見みえるか?」
何なにやら大おほきな眞紅まツかな血ちだらけの物ものが私わたしの上うへに覆かぶさつて、齒はのない口元くちもとでゲタリと笑わらつてゐる。
「これが赤あかい笑わらひだ。 地球ちきうが狂氣きちがひになると、かういふ笑方わらひかたをするものだ。 お前まへ知しつてるだらう、地球ちきうの氣きの違ちがつた事ことは? もう花はなも歌うたもなくなつて、地球ちきうは圓まるい、滑すべツこい、眞紅まツかな、皮かはを剝むいた頭あたまのやうな物ものになつて了しまつた。 見みえるか?」
「見みえます。 今いま笑わらつてます。」
「地球ちきうの腦髓なうずゐがえらい事ことになつて了しまつたから、御覽ごらん。 眞紅まツかなところは血ちの粥かゆとでも謂いひさうだ。 滅茶々々めつちや〳〵になつて了しまつた。」
「何なにか喚わめいてる。」
「痛いたいのだ。 もう花はなも歌うたもないからな。 さあ、己おれがお前まへの上うへへ乗のつかるぞ!」
「乗のつかつちや、重おもたい、氣味きみも惡わるい。」
「死しんだ者ものなら、生いきてる者ものの上うへに乗のツかるべき筈はずだ。溫あツたかいだらう?」
「溫あツたかです。」
「好いい心持こゝろもちか?」
「死しにさうだ。」
「目めを覺さましてワッといへ。目めを覺さましてワッと。 己おれはもう行ゆく…」
(斷篇第十六)
戰鬪せんとうが始はじまつてから、もう八日目かめになる。 過すぐる週しうの金曜きんえうに始はじまつて、土曜どえう、日曜にちえう、月曜げつえう、火曜くわえう、水曜すゐえう、木曜もくえうと過すぎて、又また金曜きんえうが來きて其それも過すぎたが、まだ戰鬪せんとうは止やまぬ。 兩軍りやうぐんの兵數へいすう十萬まん、それが相對あひたいして一步ぽも退ひかずに、凄すさまじい音おとを立たてゝ、息氣いきをも續つがず破裂彈はれつだんを打うち合あふので、刻々こく〳〵に生人せいにんが死人しにんになつて行ゆく。 段々だん〳〵轟々ごう〳〵と絕たえず空氣くうきを撼ゆする其その砲聲はうせいに、空そらも動搖どよんで眞黑まツくろな夕立雲ゆうだちぐもを呼よび、雷霆らいていは頭あたまの上うへで磤はためくけれど、敵てきも味方みかたも此處こゝを先途せんどと討うちつ討うたれつしてゐる。 人ひとは三晝夜ちうや眠ねむらんと、病やまひを得えて物ものも覺おぼえぬやうになるといふのに、况まして是これはもう一週間しうかんも眠ねむらずに居ゐるのだから、皆みな狂氣きちがひになつてゐる。 であるから、苦くるしいとも思おもはない、退ひかうともしない、一人ひとり殘のこらず討死うちじにして了しまふ迄までは、奮鬪ふんとうせんとするのだ。 風聞ふうぶんに據よると、某隊ぼうたいでは彈藥だんやくが盡つきて、石いしを投なげ合あひ、拳こぶしで毆うち合あひ、犬いぬのやうに咬かみ合あつたと云いふ。 若もし此この戰鬪せんとうの參加者さんかしやで生還せいくわんする者ものがあつたら、狼おほかみのやうに牙きばが生はえてゐやうも知れぬが、恐おそらく生還者せいくわんしやは有あるまい、皆みな狂くるつてゐるから、一人ひとり殘のこらず討死うちじにして了しまはう。 皆みな狂くるつてゐる。 頭あたまの中なかが顚倒てんたふして何なにも分わからなくなつて居ゐるから、若もし急きふにグルッと方向むきを變かへさせられたら、敵てきと思おもつて味方みかたに發砲はつぱうしかねまいと思おもはれる。
奇怪きくわいな噂うはさがある…奇怪きくわいな噂うはさで、怖おそろしくもあるし、只ただ事ことでないと虫むしが知しらせたから、皆みな蒼あをくなつて、ひそ〳〵と咡さゝやく。 あゝ、兄あにに聞きかせたい、皆みな赤あかい笑わらひの噂うはさだ。 聞きけば、幻まぼろしの部隊ぶたいが現あらはれたと云いふ。 いづれも何なにから何迄なにまで生人せいじんと些ちつとも違ちがはぬ亡者もうじやの集團しふだんだ。 夜よは狂くるつた人逹ひとたちが霎時しばしの夢ゆめを結むすぶ時とき、晝ひるは晴はれた日ひも黃泉よみと曇くもる戰たゝかひの眞最中まツさいちうに、忽然こつぜんと現あらはれて、幻まぼろしの砲はうで發砲はつぱうして、怪あやしの砲聲はうせいに空そらを撼ゆすると、生いきてはゐるが、氣きの狂くるつた人逹ひとたちが、事ことの不意ふいなのに度どを失うしなつて、死物狂しにものぐるひに其その幻まぼろしの敵てきと戰たゝかひ、怖おそれて取逆上とりのぼせて、一瞬しゆんの間まに白髮しらがになり、紛々ふんぷんと死しんで行ゆく。 幻まぼろしの敵てきは忽然こつぜんとして現あらはれて、又また忽然こつぜんとして消きえ失うせる。 と、寂然しんとなつた跡あとを見みれば、散々さん〴〵に形かたちの害そこなはれたまだ生々なま〳〵しい死骸しがいが、狼藉らうぜきと地上ちじやうに橫よこたはつてゐる。 敵てきは果はたして何者なにものだつたらう? 敵てきの果はたして何者なにものだつたかを、私わたしの兄あには知しつてゐる筈はずだ。
二度目どめの戰鬪せんとうも終をはつて、四下あたりは寂然ひツそりとなる。 敵てきは遠方ゑんぱうだ。 それだのに、闇夜やみよに突然とつぜんドンと一發ぱつ怯おびえたやうな筒音つゝおとがする。 それツと跳起はねおきて、皆みな暗黑くらやみの中なかへ發砲はつぱうする、——久しばらく、何時間なんじかんといふ間あひだ、寂しんとして音沙汰おとさたのない暗黑くらやみの中なかへ發砲はつぱうする。 暗中あんちうに何なにを認みとめたのか? 怖おそろしくも物狂ものぐるほしい無言むごんの姿すがたを現げんした無氣味ぶきびな者ものは抑そもそも何者なにものだ? 之これを知しつてる者ものは兄あにと私わたしとだけで、まだ他ほかの人ひとは知しらない、只たゞ感かんずるだけは感かんじて居ゐると見みえて、蒼あをくなつて此樣こんな事ことをいふ、「如何どうして斯かう狂人きちがひが多おほいのでせう? 此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひの有あつた事ことはまだ聞きいた事ことがない。」