「此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひの有あつた事ことを聞きいた事ことがない」といつて、皆みな蒼あをくなる。 今いまも昔むかしも變かはらぬと思おもつて居ゐたいのだ。 遍あまねく人ひとの良智りやうちを無理むりに抑おさへて居ゐる力ちからは銘々めい〳〵の果敢あへない頭あたまの上うへへは及およばぬと思おもつてゐたいのだ。
「昔むかしだつて、何時いつだつて、戰爭せんさうはあつた、しかし曾かつて此樣こんな事ことはない。 戰爭せんさうは生存せいそんの理法りはふだ」、と斯かういつて皆みな澄すまして落着おちついてゐるけれど、其癖そのくせ皆みな蒼あをくなつてゐる、皆みな眼めで醫者いしやを捜さがしてゐる、皆みな狼狽うろたへた聲こゑで、水みづを、早はやく水みづを、と叫さけんでゐる。
人ひとは皆みな内うちに動うごく良智りやうちの聲こゑを聞きくまいとして、無意味むいみな事ことに爭あらそひ負まけて其その分別ふんべつの鈍にぶり行ゆくのを忘わすれやうとして、ならば白痴たはけになりたいと思おもふ。 戰地せんちでは刻々こく〳〵に人ひとの死しに行ゆく今日けふ此頃このごろ、私わたしは如何どうしても安閑あんかんとしてゐられぬから、其處そこら中ぢう世間せけんを駈廻かけまはつて、人ひとの話はなしも隨分ずゐぶん聞きいた、なに、戰爭せんさうは遠方ゑんぱうだ、我々われ〳〵には關係くわんけいはないといつて、故意わざとらしく微笑びせうする人ひとの面かほも隨分ずゐぶん見みた。 が、それよりも多おほく出逢であつたのは、虛飾きよしよくを去さつた眞實しんじつの恐怖きようふである。 心細こゝろぼそい苦にがい淚なみだである、「この狂暴きやうばうの殺戮さつりくはいつ止やめるのだ!」といふ、絕望ぜつばうの物狂ものぐるほしい叫聲さけびごゑである。 人ひとが大おほいなる良智りやうちに力ちから一杯いつぱい膓はらわたを絞しぼられて、最後さいごの祈禱きたう、最後さいごの呪咀じゆそを唱となへ出だす時とき、能よく此この叫聲さけびごゑを發はつする。
久ひさしいこと、或あるひは數年すうねんになるかも知しれぬが、足踏あしぶみしなかつた去方さるかたで、狂氣きやうきになつて後送こうさうせられた一將校しやうかうに出逢であつた。 同窓どうさうの友ともだのに、私わたしは見違みちがへた位くらゐで、產うみの母はゝさへ分わからなかつたと云いふ。 一年ねんも墳穴つかあなに埋うまつてゐて再ふたゝび此世このよに出でて來きたとて、かうはあるまいと思おもはれる程ほどの變かはり樣やうで、頭あたまも白しろく、全まつたく白しろくなつて了しまつてゐた。 面貌かほだちは餘あまり變かはつてもゐなかつたが、默だまつて聽耳きゝみゝを立たてゝゐる其その面色かほつきは世離よばなれして、人間にんげんとは緣遠えんどほく怖おそろしげなので、言葉ことばを掛かけるさへ無氣味ぶきびになる。 如何どうして氣きが違ちがつたのだといふと、親戚しんせきの聞込きゝこんだ所ところでは、彼かれの隊たいが豫備隊よびたいとなつて、隣となりの聯隊れんたいが突貫とつくわんした事ことがある。 大勢おほぜいが駈かけながら、ウラー、ウラーと喚わめく。 大聲おほごゑに喚わめくので、殆ほとんど銃聲じうせいも聞きこえなくなつた程ほどだつたが、其中そのうちにふと銃聲じうせいが止やむ、——ウラーが止やむ。 寂然しんと墓はかの如ごとく靜しづかになつたのは、敵てきの陣地ぢんちに走はしり着ついて、彌〻いよ〳〵白兵戰はくへいせんが始はじまつたのだ。 彼かれは此時このとき寂然しんとなつたのに堪たへなかつたのだと云いふ。
今いまでは側そばで話はなしをしたり、叫さけんだり、騷さわいだりしてゐると、落着おちついて聽耳きゝみゝを立たてゝ何なにかの聞きこえるのを待まつてゐるが、一寸ちよツとでも閑しづかになると、我われと我頭わがあたまに挘むしりつくやら、壁かべや家具かぐへ駈上かけあがらうとするやら、癲癇てんかんめいた發作ほつさを起おこして藻搔もがく。 親戚しんせきが多おほいので、其等それらが交かはる〴〵病人びやうにんを取卷とりまいて騷さわいでやつてゐるが、それでも夜よるがある、長ながい音おとのせぬ夜よるがあるから、父親ちゝおやが夜よるを引受ひきうける。 これも矢張やツぱり白髮しらが頭あたまの少すこし氣きの變へんな親仁おやぢだが、チクタクの音おとの高たかい時計とけいを幾いくつとなく壁かべに掛連かけつらねて、たがひ違ちがひに間斷しツきりなく時ときを打うたせてゐたが、近頃ちかごろでは絕たえずパチパチといふやうな音おとを出だす輪わを仕掛しかけてゐるさうな。 まだ二十七だから、全快ぜんくわいすると思おもつて、望のぞみを將來しやうらいに繫かけてゐるから、今いまでは家内かないが寧むしろ陽氣やうきである。 軍服ぐんぷくは着きせないが、瀟洒さつぱりした服裝なりをさせて、見みともなくないやうに仕して置おいてやるから、白髮しらがでこそあれ、面相かほだちはまだ若々わか〳〵しく、擧動きよどうも力ちからの脫ぬけたやうに悠然ゆツたりと品ひんが好よく、物思ものおもひ貌がほに凝ぢツと注意ちういしてゐる形かたちは寧むしろ美うつくしい。
始終しじうの話はなしを聽きいて、私わたしは側そばへ行いつて、その男をとこの蒼白あをじろい、萎なえ〳〵とした、もう刃やいばを揮翳ふりかざすこともない筈はずの手てに接吻せつぷんしたが、之これには誰たれも目めを側そばだてる者ものもなかつた。 唯たゞ友ともの若わかい妹いもうとが目めに微笑びせうを含ふくむで私わたしを見みたばかりだつたが、それからは其その娘むすめが、許嫁いひなづけでもあるやうに、私わたしの跡あとを追廻おひまはして、此世このよに掛易かけがへのない男をとこのやうに私わたしを慕したふ。 餘あまり慕したはれるので、私わたしも不覺つい眞暗まツくらなガランとした家うちに、獨居ひとりゐよりも厭いやな思おもひをしてゐる事ことを話はなさうとした程ほどだつたが、人ひとの心こゝろといふものは愛想あいその盡つきる物ものだ。 何時いつだつて絕望ぜつばうしてゐる事ことはない。 娘むすめの計はからひで差向さしむかひになつた時とき、其人そのひとが優やさしく、
「まあ、貴方あなたのお顏色かほいろの惡わるいこと! 眼めの下したに環わが出來できてますよ。お加減かげんでも惡わるいのですか? それともお兄樣あにいさまがお可哀かわいさうでならないの?」
「兄あにばかりぢやない、人間にんげんが皆みな可哀かわいさうです。 尤もツとも少すこし加減かげんも惡わるいが…」
「私あたし貴方あなたが兄あにの手てに接吻せつぷんなすつた譯わけを知しつてますよ、——皆みんなは氣きが附つかなかつたやうですけど。 あの、何なんでせう、兄あにが狂氣きちがひだから、それでゞせう?」
「さうです。 狂氣きちがひだから、それでゞす。」
娘むすめは凝ぢツと思案しあんに沈しづむ、——その樣子やうすが兄あにに酷肖そツくりであつた、——只たゞ逈然ずツと若わかいばかりで。
「私あたし」、と娘むすめは言淀いひよどむでサツと赤面せきめんしたが、伏目ふしめにもならないで、「私あたし貴方あなたのお手てに接吻せツぷんしたいわ。 許ゆるして下くだすつて?」
私わたしは娘むすめの前まへに膝ひざを突ついて、
「祝福ブレツスして下ください。」
娘むすめは聊いさゝか顏色がんしよくを變かへて身みを引ひいたが、唇くちびるばかりで囁さゝやくのを聞きくと、
「私あたし信者しんじやぢやないわ。」
「私わたしだつてもそれは然さうだ。」
娘むすめの手てが一寸ちよツと私わたしの頭あたまに觸ふれた。 それが濟すむと、
「私あたし戰地せんちへ行いつてよ。」
「それも好いいでせう。しかし到底とても耐たへられまい。」
「それは如何どうだか知しれないけど、だつて貴方あなたも兄あにも然さうだけど、戰地せんちの人ひとだつて打遣うツちやつて置おく譯わけには行いきますまい? 罪つみも何なにもない人逹ひとたちですもの。 貴方あなた、私わたしを忘わすれちや下くださらない?」
「决けツして。貴孃あなたは?」
「私あたしもそんなら、御機嫌ごきげんよう!」
「もう二度どとはお目めに掛かゝれまい。 御機嫌ごきげんよう!」
死しにも狂氣きやうきにも尤もつとも畏おそるべき處ところがある、——それを私わたしは經過けいくわしたやうな心持こゝろもちがして、ホッとした。 氣きも落着おちついた。 久ひさし振ぶりで昨日きのふは、怖おそろしいとも何なんとも思おもはず、平氣へいきで家うちへ入はいつて、兄あにの書齋しよさいの戶とを開あけて、其その筐かたみの机つくえに對たいして、久しばらく椅子ゐすに倚よつてゐた。 夜中よなかにドンと何なにかに衝つかれたやうな心持こゝろもちでふと目めを覺さますと、乾かわいたペン先さきが紙上しじやうを走はしる音おとがしたが、私わたしは驚おどろかなかつた。 殆ほとんど微笑びせうせぬばかりの心持こゝろもちになつて、心こゝろの中うちで、
「澤山たんとお書かきなさい。 ペンも乾かわいたのぢやない、——生々なま〳〵しい人間にんげんの血潮ちしほを含ふくんでゐる。 原稿げんかうも白紙はくしのやうに見みえやうが、其方そのはうが寧むしろ好いい。 何なにも書かいてないだけに無氣味ぶきみで、聰明さうめいな人逹ひとたちが種々いろんな事ことを書立かきたてるよりも、戰爭せんさうや理性りせいに付ついて多おほくを語かたる。 お書かきなさい、〳〵、澤山たんとお書かきなさい。」
…今朝けさ新聞しんぶんを讀よむで見みると、まだ戰闘せんとうが止やまぬので、私わたしはまた薄氣味惡うすきみわるくなつて來きて、心こゝろが落居おちゐず、宛然さながら腦なうの中なかで何なにかガタリと落おちたやうな心持こゝろもちがした。 その何なにかゞ向むかふから來くる、近ちかくなる、——もうガランと明あかるい家うちの敷居しきゐに立たつてゐる。 あゝ、彼かの人ひとが懷なつかしい、何卒どうぞ私わたしの事ことを忘わすれて吳くれるな。 私わたしは氣きが違ちがひさうだ。 戰死せんし三萬まん、戰死せんし三萬まん…
(斷篇第十七)
…市内しないも何なんとなく血羶ちなまぐさい。 判然はつきりした事ことは分わからぬけれど、何なんだか怖おそろしい噂うはさがある…
(斷篇第十八)
今朝けさ新聞しんぶんを見みると、澤山たくさんの戰死者せんししやの姓名せいめいが出でてゐる中なかで、一人ひとり知しつた名前なまへがある。 それは私わたしの妹いもうとの許嫁いひなづけの一將校しやうかうで、亡兄ばうけいと一緒しよに召集せうしふされた人ひとだ。 一時間後じかんごに配逹夫はいたつふが投込なげこんで行いつた手紙てがみを見みると、兄あにへ宛あてたもので、表書うはがきの書風しよふうで分わかつたが、その戰死せんしした妹いもうとの許嫁いひなづけから來きたのだ。 死人しにんが死人しにんへ手紙てがみを寄越よこしたのだ。 けれども死人しにんが生いきてる人ひとに文通ぶんつうしたよりまだ勝ましだ。 これは私わたしが現げんに逢あつた去さる婦人ふじんの身みの上うへだが、その息子むすこが砲彈はうだんに粉韲ふんさいされて無殘むざんな最後さいごを遂とげたのを新聞しんぶんで知しつてから、全まる一ケ月げつの間あひだ每日まいにち其その息子むすこから手紙てがみが來くる。 優しほらしい息子むすこで、手紙てがみにはいつも優やさしい事ことを書かいて母はゝを慰なぐさめて、何なにか幸福かうふくを得うる望のぞみあり氣げな若わかい愛度氣あどけない事ことばかり言いつて寄越よこす。 此世このよの人ひとではないけれど、これが惡魔あくまの几帳面きちやうめんといふものか、每日まいにち缺かがさず此世このよの事ことを書かいて寄越よこすから、母親はゝおやは遂つひに伜せがれは戰死せんししたのでないと思おもひ出だした。 が、ふと音信おとづれが絕たえてから、一日にち二日ふつか三日みつかと過すぎ、それからも死默しもくに入いつて、何時迄いつまで待まつても音沙汰おとさたがないので、母親はゝおやは兩手りやうてで古風こふうな大形おほがたのピストルを取上とりあげて、胸むねへ丸たまを打込うちこんだと云いふ。 助たすかつたやうにもいふが、私わたしは能よくは知しらぬ。 判然はつきりした事ことを聞きかずに了しまつた。
私わたしは久しばらく封筒ふうとうを眺ながめてゐたが、考かんがへて見みると、此この封筒ふうとうも曾かつて故人こじんの手てに觸ふれた事ことがあるのだ。 何處どこでか之これを買かはうとして、錢ぜにを持もたせて從卒じゆうそつを、何處どこかの店みせへ遣やつたのだ。 故人こじんは此この手紙てがみの封ふうをしてから、或あるひは自分じぶんでポストへ入いれたかも知しれぬ。 で、郵便いうびんといふ複雜ふくざつな機關きくわんが運轉うんてんし出だして、手紙てがみは森もりや野のや市街しがいを餘所よそに見みて、只管ひたすら目的地もくてきちを指さして走はしる。 最後さいごの日ひの朝あさ、手紙てがみの主ぬしが長靴ながぐつを穿はいた時とき、手紙てがみは走はしつてゐた。 主ぬしが戰死せんしした時ときにも、手紙てがみは走はしつてゐた。 主ぬしが穴あなへ投込なげこまれて死骸しがいが土つちの下したになつた時ときにも、消印けしいんを帶おびた灰色はいゝろの封筒ふうとうの中なかに身みを忍しのばせて、靈れいある幻まぼろしの如ごとく、手紙てがみは森もりや野のや市街しがいを餘所よそに見みつゝ走はしつて、かうして今いま私わたしの手中しゆちうに在あるのだ。