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血笑記

Chapter 20: (斷篇第十七)
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About This Book

A narrator describes a weary column of soldiers marching under unbearable heat toward an unknown destination, where exhaustion and sunstroke produce delirium, grotesque hallucinations (including visions of horse heads and ghostlike bodies), and a slow unravelling of bodily and mental control; intercut with sudden recollections of a domestic interior and a brother, the account shifts between close, claustrophobic sensory detail and panoramic scenes of a deranged, silent procession, culminating in abrupt sounds of battle that temporarily restore clarity and collective urgency.

此樣こんなに澤山たくさん狂人きちがひつたこといたことがない」といつて、みなあをくなる。 いまむかしかはらぬとおもつてたいのだ。 あまねひと良智りやうち無理むりおさへてちから銘々めい〳〵果敢あへないあたまうへへはおよばぬとおもつてゐたいのだ。

むかしだつて、何時いつだつて、戰爭せんさうはあつた、しかしかつ此樣こんことはない。 戰爭せんさう生存せいそん理法りはふだ」、とういつてみなすまして落着おちついてゐるけれど、其癖そのくせみなあをくなつてゐる、みな醫者いしやさがしてゐる、みな狼狽うろたへたこゑで、みづを、はやみづを、とさけんでゐる。

 ひとみなうちうご良智りやうちこゑくまいとして、無意味むいみことあらそけてその分別ふんべつにぶくのをわすれやうとして、ならば白痴たはけになりたいとおもふ。 戰地せんちでは刻々こく〳〵ひと今日けふ此頃このごろわたし如何どうしても安閑あんかんとしてゐられぬから、其處そこぢう世間せけん駈廻かけまはつて、ひとはなし隨分ずゐぶんいた、なに、戰爭せんさう遠方ゑんぱうだ、我々われ〳〵には關係くわんけいはないといつて、故意わざとらしく微笑びせうするひとかほ隨分ずゐぶんた。 が、それよりもおほ出逢であつたのは、虛飾きよしよくつた眞實しんじつ恐怖きようふである。 心細こゝろぼそにがなみだである、「この狂暴きやうばう殺戮さつりくはいつめるのだ!」といふ、絕望ぜつばう物狂ものぐるほしい叫聲さけびごゑである。 ひとおほいなる良智りやうちちから一杯いつぱいはらわたしぼられて、最後さいご祈禱きたう最後さいご呪咀じゆそとなときこの叫聲さけびごゑはつする。

 ひさしいこと、あるひ數年すうねんになるかもれぬが、足踏あしぶみしなかつた去方さるかたで、狂氣きやうきになつて後送こうさうせられた一將校しやうかう出逢であつた。 同窓どうさうともだのに、わたし見違みちがへたくらゐで、みのはゝさへわからなかつたとふ。 一ねん墳穴つかあなうまつてゐてふたゝ此世このよたとて、かうはあるまいとおもはれるほどかはやうで、あたましろく、まつたしろくなつてしまつてゐた。 面貌かほだちあまかはつてもゐなかつたが、だまつて聽耳きゝみゝてゝゐるそのかほつき世離よばなれして、人間にんげんとは緣遠えんどほおそろしげなので、言葉ことばけるさへ無氣味ぶきびになる。 如何どうしてちがつたのだといふと、親戚しんせき聞込きゝこんだところでは、かれたい豫備隊よびたいとなつて、となりの聯隊れんたい突貫とつくわんしたことがある。 大勢おほぜいけながら、ウラー、ウラーとわめく。 大聲おほごゑわめくので、ほとん銃聲じうせいきこえなくなつたほどだつたが、其中そのうちにふと銃聲じうせいむ、——ウラーがむ。 寂然しんはかごとしづかになつたのは、てき陣地ぢんちはしいて、彌〻いよ〳〵白兵戰はくへいせんはじまつたのだ。 かれ此時このとき寂然しんとなつたのにへなかつたのだとふ。

 いまではそばはなしをしたり、さけんだり、さわいだりしてゐると、落着おちついて聽耳きゝみゝてゝなにかのきこえるのをつてゐるが、一寸ちよツとでもしづかになると、われ我頭わがあたまむしりつくやら、かべ家具かぐ駈上かけあがらうとするやら、癲癇てんかんめいた發作ほつさおこして藻搔もがく。 親戚しんせきおほいので、其等それらかはる〴〵病人びやうにん取卷とりまいてさわいでやつてゐるが、それでもよるがある、ながおとのせぬよるがあるから、父親ちゝおやよる引受ひきうける。 これも矢張やツぱり白髮しらがあたますこへん親仁おやぢだが、チクタクのおとたか時計とけいいくつとなくかべ掛連かけつらねて、たがひちがひに間斷しツきりなくときたせてゐたが、近頃ちかごろではえずパチパチといふやうなおと仕掛しかけてゐるさうな。 まだ二十七だから、全快ぜんくわいするとおもつて、のぞみ將來しやうらいけてゐるから、いまでは家内かないむし陽氣やうきである。 軍服ぐんぷくせないが、瀟洒さつぱりした服裝なりをさせて、ともなくないやうにいてやるから、白髮しらがでこそあれ、面相かほだちはまだ若々わか〳〵しく、擧動きよどうちからけたやうに悠然ゆツたりひんく、物思ものおもがほぢツ注意ちういしてゐるかたちむしうつくしい。

 始終しじうはなしいて、わたしそばつて、そのをとこ蒼白あをじろい、え〳〵とした、もうやいば揮翳ふりかざすこともないはず接吻せつぷんしたが、これにはたれそばだてるものもなかつた。 たゞともわかいもうと微笑びせうふくむでわたしたばかりだつたが、それからはそのむすめが、許嫁いひなづけでもあるやうに、わたしあと追廻おひまはして、此世このよ掛易かけがへのないをとこのやうにわたししたふ。 あましたはれるので、わたし不覺つい眞暗まツくらなガランとしたうちに、獨居ひとりゐよりもいやおもひをしてゐることはなさうとしたほどだつたが、ひとこゝろといふものは愛想あいそきるものだ。 何時いつだつて絕望ぜつばうしてゐることはない。 むすめはからひで差向さしむかひになつたとき其人そのひとやさしく、

「まあ、貴方あなたのお顏色かほいろわるいこと! した出來できてますよ。お加減かげんでもわるいのですか? それともお兄樣あにいさまがお可哀かわいさうでならないの?」

あにばかりぢやない、人間にんげんみな可哀かわいさうです。 もツとすこ加減かげんわるいが…」

あた貴方あなたあに接吻せつぷんなすつたわけつてますよ、——みんなかなかつたやうですけど。 あの、なんでせう、あに狂氣きちがひだから、それでゞせう?」

「さうです。 狂氣きちがひだから、それでゞす。」

 むすめぢツ思案しあんしづむ、——その樣子やうすあに酷肖そツくりであつた、——たゞ逈然ずツわかいばかりで。

あたし」、とむすめ言淀いひよどむでサツと赤面せきめんしたが、伏目ふしめにもならないで、「あた貴方あなたのお接吻せツぷんしたいわ。 ゆるしてくだすつて?」

 わたしむすめまへひざいて、

祝福ブレツスしてください。」

 むすめいさゝ顏色がんしよくへていたが、くちびるばかりでさゝやくのをくと、

あた信者しんじやぢやないわ。」

わたしだつてもそれはうだ。」

 むすめ一寸ちよツとわたしあたまれた。 それがむと、

あた戰地せんちつてよ。」

「それもいでせう。しかし到底とてへられまい。」

「それは如何どうだかれないけど、だつて貴方あなたあにうだけど、戰地せんちひとだつて打遣うツちやつてわけにはきますまい? つみなにもない人逹ひとたちですもの。 貴方あなたわたしわすれちやくださらない?」

けツして。貴孃あなたは?」

あたしもそんなら、御機嫌ごきげんよう!」

「もう二とはおかゝれまい。 御機嫌ごきげんよう!」

 にも狂氣きやうきにももつとおそるべきところがある、——それをわたし經過けいくわしたやうな心持こゝろもちがして、ホッとした。 落着おちついた。 ひさぶり昨日きのふは、おそろしいともなんともおもはず、平氣へいきうちはいつて、あに書齋しよさいけて、そのかたみつくえたいして、しばらく椅子ゐすつてゐた。 夜中よなかにドンとなにかにかれたやうな心持こゝろもちでふとさますと、かわいたペンさき紙上しじやうはしおとがしたが、わたしおどろかなかつた。 ほとん微笑びせうせぬばかりの心持こゝろもちになつて、こゝろうちで、

澤山たんときなさい。 ペンもかわいたのぢやない、——生々なま〳〵しい人間にんげん血潮ちしほふくんでゐる。 原稿げんかう白紙はくしのやうにえやうが、其方そのはうむしい。 なにいてないだけに無氣味ぶきみで、聰明さうめい人逹ひとたち種々いろんこと書立かきたてるよりも、戰爭せんさう理性りせいいておほくをかたる。 おきなさい、〳〵、澤山たんときなさい。」

 今朝けさ新聞しんぶんむでると、まだ戰闘せんとうまぬので、わたしはまた薄氣味惡うすきみわるくなつてて、こゝろ落居おちゐず、宛然さながらなうなかなにかガタリとちたやうな心持こゝろもちがした。 そのなにかゞむかふからる、ちかくなる、——もうガランとあかるいうち敷居しきゐつてゐる。 あゝ、ひとなつかしい、何卒どうぞわたしことわすれてれるな。 わたしちがひさうだ。 戰死せんしまん戰死せんしまん

(斷篇第十七)

 …市内しないなんとなく血羶ちなまぐさい。 判然はつきりしたことわからぬけれど、なんだかおそろしいうはさがある…

(斷篇第十八)

 今朝けさ新聞しんぶんると、澤山たくさん戰死者せんししや姓名せいめいてゐるなかで、一人ひとりつた名前なまへがある。 それはわたしいもうと許嫁いひなづけの一將校しやうかうで、亡兄ばうけいと一しよ召集せうしふされたひとだ。 一時間後じかんご配逹夫はいたつふ投込なげこんでつた手紙てがみると、あにてたもので、表書うはがき書風しよふうわかつたが、その戰死せんししたいもうと許嫁いひなづけからたのだ。 死人しにん死人しにん手紙てがみ寄越よこしたのだ。 けれども死人しにんきてるひと文通ぶんつうしたよりまだましだ。 これはわたしげんつた婦人ふじんうへだが、その息子むすこ砲彈はうだん粉韲ふんさいされ無殘むざん最後さいごげたのを新聞しんぶんつてから、まる一ケげつあひだ每日まいにちその息子むすこから手紙てがみる。 しほらしい息子むすこで、手紙てがみにはいつもやさしいこといてはゝなぐさめて、なに幸福かうふくのぞみありわか愛度氣あどけないことばかりつて寄越よこす。 此世このよひとではないけれど、これが惡魔あくま几帳面きちやうめんといふものか、每日まいにちがさず此世このよこといて寄越よこすから、母親はゝおやつひせがれ戰死せんししたのでないとおもした。 が、ふと音信おとづれえてから、一にち二日ふつか三日みつかぎ、それからも死默しもくつて、何時迄いつまでつても音沙汰おとさたがないので、母親はゝおや兩手りやうて古風こふう大形おほがたのピストルを取上とりあげて、むねたま打込うちこんだとふ。 たすかつたやうにもいふが、わたしくはらぬ。 判然はつきりしたことかずにしまつた。

 わたししばらく封筒ふうとうながめてゐたが、かんがへてると、この封筒ふうとうかつ故人こじんれたことがあるのだ。 何處どこでかこれはうとして、ぜにたせて從卒じゆうそつを、何處どこかのみせつたのだ。 故人こじんこの手紙てがみふうをしてから、あるひ自分じぶんでポストへれたかもれぬ。 で、郵便いうびんといふ複雜ふくざつ機關きくわん運轉うんてんして、手紙てがみもり市街しがい餘所よそて、只管ひたすら目的地もくてきちしてはしる。 最後さいごあさ手紙てがみぬし長靴ながぐつ穿いたとき手紙てがみはしつてゐた。 ぬし戰死せんししたときにも、手紙てがみはしつてゐた。 ぬしあな投込なげこまれて死骸しがいつちしたになつたときにも、消印けしいんびた灰色はいゝろ封筒ふうとうなかしのばせて、れいあるまぼろしごとく、手紙てがみもり市街しがい餘所よそつゝはしつて、かうしていまわたし手中しゆちうるのだ。