手紙てがみの文句もんくは下しもの通とほり。 鉛筆えんぴつで幾片いくひらかの紙かみの切端きれはしに書かいたもので、結末けつまつも附ついてゐない。 何なにか邪魔じやまが入はいつたものと見みえる。
⦅…今いまとなつて始はじめて戰爭せんさうの大おほいに樂たのしむべき所以ゆえんを知しつた。 利口りこうな、狡猾かうくわつな、裏表うらおもてのある、肉食にくしよく動物どうぶつ中ちうの肉食にくしよく動物どうぶつより、遙はるかに味あぢのある人間にんげんといふやつを殺ころす樂たのしみは、古風こふうな原始的げんしてきな樂たのしみで、鎭長とこしなへに人ひとの生命せいめいを奪うばふといふ事ことは、行星かうせいなんぞを抛なげてテニスを行やるよりも、愉快ゆくわいなものだ。 君きみは哀あはれだ。 僕ぼくは君きみが僕等ぼくらと倶ともに在あることを得えずして、無味むみな平凡へいぼんな日ひを送おくつて、無聊むりように苦くるしむ身みの上うへになつたのを悲かなしむ。 君きみが高尙かいしやうな精神せいしんから、安やすきを偸ぬすんで居ゐられずして、永ながく求もとめた所ところのものは、死地しちに入はいつて後のち、始はじめて獲えられる。 血ちに醉ゑふといふこと、比喩ひゆは稍やゝ古ふるめかしいが、眞實しんじつは反かへつて這裏しやりに在ある。 僕等ぼくらは膝ひざまで血ちに蘸ひり、此この赤葡萄酒あかぶだうしゆに醉ゑつてチロ〳〵目めになつてゐる。 赤葡萄酒あかぶだうしゆとは名譽めいよある僕ぼくの部下ぶかの兵へいが戯たはむれに命めいじた名なだ。 人ひとの生血いきちを飮のむといふ風習ふうしふは、人ひとの思おもふ程ほど、馬鹿氣ばかげたものではない。 古人こじんも承知しようちして行やつた事ことだ…⦆
⦅…鵶からすが啼ないてゐる。 君きみに聞きこえるか、鵶からすが啼ないてゐるぞ。 何處どこから此樣こんなに飛とんで來きたのだらう! 空そらも黑くろむ程ほどだ。 天下てんかに可畏物こはいものなしの僕等ぼくらと列ならんで、鵶からすは宿とまつてゐる。 何處どこへ行いつても隨ついて來くる。 いつも僕等ぼくらの頭あたまの上うへに居ゐるから、黑くろレースの傘かさを翳さしてゐるやうで、又また葉はの黑くろい木きの動うごく蔭かげに居ゐるやうだ。 一羽は僕ぼくの面かほの側そばへ來きて突つゝつかうとした。 彼奴きやつ僕ぼくを死人しにんと間違まちがへたのだらう。 鴉からすが啼ないてゐる、少すこし氣きになる。 何處どこから此樣こんなに飛とんで來きたのだらう?⦆
⦅…昨夜ゆうべ僕等ぼくらは睡耋ねぼけた敵てきを鏖殺みなごろしにした。 鴨かもを仕留しとめる時ときのやうに、窃そつと、足音あしおとを偸ぬすんで、巧うまく、用心ようじんして這はつて行いつたから、死骸しがいに一つ躓つまづかず、鳥とり一羽は起たたせなかつた。 幽靈いうれいのやうに、忍しのんで行ゆく、それを又また夜よるが隱かくして吳くれる。 哨兵せうへいは僕ぼくが片付かたづけてやつた、突倒つきたふして置おいて、聲こゑを立たてぬやうに咽喉のどを締しめたのだ。 少すこしでも聲こゑを立たてられたら、百年目ねんめだからなあ、君きみ。 しかし聲こゑを立たてなかつた。 殺ころされると思おもつてゐる暇ひまが無なかつたやうだ。
篝かゞりがぷす〳〵燻いぶつてゐる。 敵てきは其側そのそばに眠ねてゐた。 我家わがやで寢臺ねだいに臥ねたやうに、安心あんしんして眠ねてゐた。 其處そこを僕等ぼくらは一時間餘じかんよも屠ほふつたのだ。 斬きらぬ中うちに眼めを覺さましたのは幾人いくたりもなかつたが其樣そんな奴等やつらは悲鳴ひめいを揚あげて、無論むろん赦ゆるして吳くれといつた。 喰付くひつきもした。 一人ひとりの奴やつなんぞ、僕ぼくが頭あたまを引摑ひツつかむと、摑つかみやうが惡わるかつたので、左ひだりの手ての指ゆびを咬かみ切きりをつた。 指ゆびは咬かみ切られたが、其代そのかはり見事みごとに首くびを引捻ひンねぢつてやつた。 如何どうだ、君きみ、これなら帳消ちやうけしになるまいか?いや、皆みな能よく眠込ねこんで居ゐやがつたよ! 骨ほねを斬きれば、ポキンといふな、肉にくを斬きれば、ザクッといふのだ。 それから丸裸まるはだかにして置おいて、お四季施しきせの分配ぶんぱいをやつたが、君きみ、串戯じやうだんいふと思おもつて怒おこつちや不好いけないぜ。 君きみは小こ六かしいから、それぢや野武士臭のぶしくさいといふかも知しれんが、仕方しかたがないさ。 僕等ぼくらだつて殆ほとんど裸はだかだもの。 全然すツかり着切きゝつて了しまつたのだ。 僕ぼくは疾とうから何なんだか女をんなの上衣うはぎのやうな物ものを着きてゐるのだ。 これぢや常勝軍じやうしようぐんの將校しやうかうぢやなくて、何なにかのやうだ。
それはさうと、君きみは結婚けつこんした樣やうだつたな?それぢや、此樣こんな手紙てがみを見みちや、惡わるかつたらう。 しかし…なあ、君きみ、女をんなに限かぎるぞ。 えい、糞くそ、僕ぼくだつて靑年せいねんだ、戀こひに渇かつしてゐるンだ!おツと——君きみにも約束やくそくした女をんなが有つたつけな?君きみは何處どこかの令孃れいぢやうの寫眞しやしんを僕ぼくに示みせて、これが僕ぼくの婚約こんやくした女をんなだと曰いつた事ことがあるぜ。 寫眞しやしんには何なんだか悲かなしい、非常ひじやうに悲かなしい、哀あはれな事ことが書かいてあつたつけ。 而さうして君きみは泣ないたぜ。 何なにを泣ないたのだつけな? 何なんでも非常ひじやうに悲かなしい、非常ひじやうに哀あはれな、小ちひさな花はなのやうな事ことが書かいてあつたつけが、何なんだつけな? 君きみは泣ないたぜ、——泣ないて〳〵、泣なき立たてたぜ… 見みツともない、將校しやうかうの癖くせに泣なくなんて!⦆
⦅…鴉からすが啼ないてゐる。 君きみ、聞きこえるだらう?鴉からすが啼ないてるぞ。 何なんだつて彼樣あんなに啼なくのだらう?…⦆
此後このあとは鉛筆えんぴつの跡あとが消きえてゐて、署名しよめいも讀よめかねた。
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不思議ふしぎだ。 此人このひとの戰死せんししたのが知しれても、私わたしは些ちつとも哀あはれと思おもはなかつた。 面かほを憶出おもひだすと、判然はツきり浮うかぶ。 優やさしい、しほらしい、女をんなのやうな面相かほだちで、頰ほゝは桃色もゝいろ、眼中がんちうは淸すゞしく、朝あさの如ごとく潔いさぎよくて、髯ひげは柔やはらかなむく毛げで、これなら女をんなの面かほの飾かざりにもなりさうに思おもはれた。 書物しよもつや、花はなや、音樂おんがくを好このみ、總すべて粗暴そぼうな事ことが嫌きらひで、詩しなど作つくつてゐた。 批評家ひゝやうかの兄あにが中々なか〳〵巧たくみだといつてた位くらゐだ。 が、此この人ひとについて私わたしの知しつてゐる所ところを憶おもひ出だしたのでは、どうもこの鴉啼からすなきや、夜襲やしうの血ちの海うみや、死しと調和てうわせぬ。
…鴉からすが啼ないてゐる…
ふツと、瞬またゝく間ま、調子てうし外はづれの何なんとも言いひやうもない嬉うれしい心持こゝろもちになつてみると、今迄いまゝでの事ことは皆みな僞うそで、戰爭せんさうも何ないも有ありはせん。 戰死者せんししやもなければ、死骸しがいもない。 思想しさうの根底こんていが搖ゆるいで便たよりなくなるなぞと、其樣そんな怖おそろしい事ことも有あるのではない。 私わたしは仰向あふむけに臥ねて、子供こどものやうに怖おそろしい夢ゆめを見みてゐるのだ。 死しや恐怖きようふに荒あらされて寂然しんとなつた無氣味ぶきびな部屋々々へや〳〵も、人ひとの書かいた物ものとも思おもへぬ手紙てがみを手てに持もつた私わたしも、皆みな夢ゆめだ。 兄あには生いきてゐて、家内かないの者ものは皆みな茶ちやを飮のむでゐる。 茶器ちやきの物ものに觸ふれて鳴なる音おとも聞きこえる。
…鴉からすが啼ないてゐる…
いや、矢張やはり事實じじつだ。 不幸ふかうな世よの中なか——それが事實じじつでは有あるまいか? 鴉からすが啼ないてゐる。 理性りせいを失うしなつた狂人きやうじんや、無事ぶじに苦くるしむ文士ぶんしなどが、安直あんちよくの奇きを求もとめて思おもひ付ついた空言そらごとではない。 鴉からすが啼ないてゐる。 兄あには何處どこに居ゐるか。 氣品きひんの高たかい、溫順おんじゆんな、誰だれにも迷惑めいわくを掛かけまいと心掛こゝろがけてゐた人ひとだ。 兄あには何處どこに居ゐる? さあ、忌々いま〳〵しい解死人げしにんめら、返事へんじをしろ! 呪のろつても足たらぬ惡黨あくとうめら、牛馬ぎうばの屍肉しにくに集たかつた鴉からすめら、情なさけない愚鈍ぐどんな畜生ちくしやうめら、——さあ、手前逹てまへたちは畜生ちくしやうだ、——世界せかいの人ひとの面前めんぜんで手前逹てまへたちに聞きいてるのだぞ! 何咎なにとがあつて兄あにを殺ころした?手前逹てまへたちに面かほがあるなら、頰打ほゝうち喰くはしてやる所ところだが、手前逹てまへたちには面かほはない。 手前逹てまへたちのそれは肉食動物にくしよくどうぶつの鼻面はなづらといふものだ。 人間にんげんの風ふうをしてゐても、手套てぶくろの下したから爪つめが見みえるでないか? 帽子ばうしの下したから畜生ちくしやうのひしやげた惱天なうてんが見みえるでないか? 幾いくら利口りこうさうな口くちを利きいても、手前逹てまへたちの言いふ事ことには狂氣きちがひじみた所ところがあるわ。 繍錠さびぢやうのぢやら〳〵いふ音おとがするわ。 己おれは己おれの悲かなしみ、憂うれひ、侮辱ぶじよくせられた思想しさうの力ちからの有丈ありたけを盡つくして、手前逹てまへたちを呪のろふぞ、この情なさけない愚鈍ぐどんな畜生ちくしやうめら!
(最後の斷片)
「…生存上せいぞんじやう新生面しんせいめんを開ひらくのは諸君しよくんの任務にんむであります、」と辯士べんしは叫さけむだ。 此人このひとは「戰爭せんさうを戢やめよ」と書かいた文字もじが皺しわでよれ〳〵になつた旗はたを揮ふりながら、手てで釣合つりあひを取とつて、辛からうじて小ちひさな圓柱ゑんちうの上うへに立たつて居ゐるのだ。
「諸君しよくんは靑年せいねんである、諸君しよくんは未來みらいに生活せいくわつすべき人ひとである。 宜よろしく此かくの如ごとき狂暴きやうばう慘酷ざんこくなる事ことと關係くわんけいを絕たつて、以もつて自己じこの生命せいめいを保たもつべきである。 未來みらいの國民こくみんの種たねを保全ほぜんすべきである、我々われ〳〵は今日こんにちの慘狀さんじやうを見みるに忍しのびぬ。 之これを目擊もくげきしては眼中がんちうの血走ちばしるを禁きんぜぬ。 實じつに天てんが頭上づじやうに落懸おちかゝり大地たいちが足下そつかに裂さけるやうな感かんがある。 諸君しよくん…」
此時このとき群衆ぐんじゆが尋常ただならぬ動搖どよみを作つくつたので、辯士べんしの聲こゑは其それに消壓けおされて一ひとしきり聞きこえなくなつたが、實まことに靈たましひでも籠こもつて居ゐさうな、物凄ものすごい動搖どよみであつた。
「假かりに我輩わがはいは氣きが狂くるつてゐるとするも、我輩わがはいの云いふ所ところは眞理しんりである。 我輩わがはいには父ちゝがあり兄弟きやうだいがあるが、皆みな戰塲せんぢやうで牛馬ぎうばの屍しかばねの如ごとく腐敗ふはいしつゝある。 宜よろしく篝かゞりを焚たいて、穴あなを掘ほつて、武器ぶきを鑄潰いつぶして埋うめて了しまふが好よい、軍人ぐんじんを捕とらへてその燦さんたる狂氣服きちがひふくを剝はいで、寸裂すんれつして了しまふが好よい。 我々われ〳〵は最早もはや忍しのぶことが出來できぬ… 同類どうるゐが死しにつゝあるのである…」