「チヨッ、書齋しよさいへ行いかう。 何なんと云いつても他人たにんよりか好いい。」
兄あには果はたして肱掛椅子ひぢかけいすに倚よつて、書物しよもつに埋うまつたテーブルに對むかつて居ゐたが、今いまは彼時あのときのやうに消きえもせぬ。 帷カーテンを卸おろした隙すきから外そとの明あかりが薄赤うすあかく射さしてゐるけれど、物ものを照てらす程ほどでもないから、兄あにの姿すがたはぼんやり見みえる。 私わたくしは兄あにとは懸かけ離はなれて、ソフアに腰こしを卸おろして成行なりゆきを見みて居ゐた。 書齋しよさいは靜しづかで、のべつに轟ぐわうといふ音おと、何なにかのグッラ〳〵と崩落くづれおちる音おと、其處此處そここゝの叫聲さけびごゑが幽かすかに聞きこえてゐたのが、次第しだいに近ちかく押寄おしよせて來くる。 赤黑あかぐろい光ひかりは益々ます〳〵強つよくなり、肱掛椅子ひぢかけいすに凭よつた兄あにの、眞黑まツくろな、鑄鐵いてつで作つくつたやうな半面よこがほが、その細ほそい赤あかい線せんの中うちに見みえるやうになつた時とき、
「兄にいさん!」
と呼よんでみた。
が、默だまつて居ゐる。 石碑せきひのやうに凝然ぢツと眞黑まつくろに居竦ゐすくまつてゐる。 隣室りんしつの床板ゆかいたがピシリと爆はぜて、急きふに妙めうに寂しんとなる。 澤山たくさんな死骸しがいの中なかにでもゐるやうだ。 音おとと云いふ音おとは皆みな消きえて、赤黑あかぐろい光ひかりまでしんめりとした死しの影かげを宿やどして、凝こツたやうに動うごかなくなり、其色そのいろも稍やゝ薄うすれる。 この寂さびしさは兄あにからと思おもつて、其通そのとほりを云いふと、
「いや、己おれの所爲せゐぢやない。窓まどを覗のぞいて御覽ごらん。」
帷カーテンを引除ひきのけて——私わたしはたぢ〳〵となつた。
「おゝ、この故爲せゐか!」
「家内かないを呼よんで來きて呉くれ。 彼あれはまだ見みたことがないから」、と兄あにがいふ。
嫂あによめは食堂しよくだうで何なにか裁縫さいほうをしてゐたが、私わたしが行ゆくと、針はりを縫物ぬひものに差さして、言いはれる儘まゝに起上たちあがり、私わたしの跡あとに隨ついて來くる。 窓々まど〳〵の帷カーテンを皆みんな引除ひきのけたら、薄赤うすあかい光ひかりが、廣ひろい入口いりぐちを射いて、思おもひの儘まゝに室内しつないへ流ながれ込こむだが、何故なぜだか内うちは明あかるくはならないで、矢張やはり暗くらかつた、唯たゞ窓まどだけ四角しかくに赤あかく大おほきく燦然ぼツと明あかるく見みえた。
皆みなで窓際まどぎはへ行いつて仰あふいで見みると、家いへの壁かべや軒蛇腹のきじやばらから、直すぐ火ひのやうに眞紅まツかな、平坦たひらな空そらになつて、雲くもも日ひも星ほしも麗つけずに、其儘そのまゝ地平線ちへいせんの彼方かなたに没ぼつしたやうに見みえる。 俯ふして見みれば、矢張やはり平坦たひらな赤黑あかぐろい野のが死骸しがいで埋うづまつて居ゐる。 死骸しがいは皆みな裸體はだかで、足あしを此方こちらへ向むけて居をるから、此方こちらからは唯たゞ蹠あしのうらと三角かくの顎あごの下したが見みえるばかりだ。 寂然しんとしてゐる——皆みな死骸しがいと見みえて、際限はてしもない野のに置去おきざりにされた負傷者ふしやうしやらしい者ものは一人ひとりも見みえなかつた。
兄あにも窓際まどぎはに立たつて居ゐたが、母はゝも妹いもうとも家内中かないぢう殘のこらず此處こゝに居ゐる。 誰だれも面かほは能よく見みえなかつたが、唯たゞ聲こゑでそれと知しれた。
「そんな氣きがするンだわ」、と妹いもうとが云いふ。
「いや、殖ふえて來くるのだ。 まあ、見みて居ゐて御覧ごらん。」
成程なるほど、死骸しがいは殖ふえたやうだ。 如何どうして殖ふえるのかと、凝然ぢツと注目ちうもくして居ゐると、とある死骸しがいの隣となりの、今迄いままで何なにも無なかつた處ところに、フト死骸しがいが現あらはれた。 どうやら、皆みな地ちから湧わくらしい。 空あいた處ところがズン〳〵塞ふさがつて行いつて、大地だいちが忽たちまち微白ほのじろくなる。 微白ほのじろくなるのは、蹠あしのうらを此方こちらへ向むけて、列ならんで臥ねてゐる死骸しがいが皆みな薄紅うすあかいからで、それにつれて室内しつないもその死骸しがいの色いろに薄紅うすあかく明あかるくなる。
「さあ、もう塲所ばしよがない」、と兄あにが云いふ。
「もう此處こゝにも一人ひとり居ゐるよ」、と母はゝがいふ。
皆みな振向ふりむいて見みると、成程なるほど背後うしろにも一人ひとり仰反のけぞつて倒たふれてゐる。 と、忽たちまちその側そばへ一人ひとり現あらはれ、二人ふたり現あらはれる。 跡あとから〳〵湧わいて出でて、薄紅うすあかい死骸しがいが行儀ぎやうぎよく並ならび、忽たちまち部屋へや々々〳〵に一杯いつぱいになる。
保母ほぼが、
「坊ぼツちやん逹たちのお部屋へやにも出でて來きましたよ。 私わたくし見みて參まゐりました。」
妹いもうとが、
「逃にげて行ゆきませう。」
兄あにが、
「出道でみちがない。 御覽ごらん、もう此通このとほりだ。」
成程なるほど、死骸しがいは其處そこら中ぢうに素足すあしを投出なげだし、腕うでを聯つらねて、ギッシリ詰つままつてゐる。 それが見みる〳〵蠢うごめき出だして、恟ぎよツとする間まに、皆みな行儀ぎようぎよく列ならむだまゝ、むく〳〵と起上おきあがる。 新あたらしい死骸しがいが地ちから湧わいて出でて、舊もとから在あるのを推上おしあげたのだ。
「かうして居ゐると、首くびを締しめられる。 窓まどから逃にげませう。」
と私わたしが云いふと、兄あにが、
「いや、窓まどからはもう逃にげられん! 駄目だめだ! それ、あれを御覽ごらん!」
…窓外さうぐわいには、赤黑あかぐろい光ひかりの凝こつた中なかに赤あかい笑わらひが見みえる。
血笑記 終
明治四十一年八月五日印刷 血笑記奥付
明治四十一年八月八日發行 正價金八拾五銭
著者 長谷川二葉亭
東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地
不 許 發行者 西本波太
東京市小石川區久堅町百八番地
複 製 印刷人 山田英二
東京市小石川區久堅町百八番地
印刷所 博文館印刷所
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發行所 東京市麹町區飯田町 易風社
六丁目二十四番地 振替口座 一二〇三四番
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
誤植と思われる箇所は岩波書店発行二葉亭四迷全集第四巻(昭和三十九年 第一刷)を参照し以下のように訂正した。
原文 生若まなわかい (p.25)
訂正 生若なまわかい
原文 見みたばかりて (p.59)
訂正 見みたばかりで
原文 狂人きちちがひ (p.64)
訂正 狂人きちがひ
原文 血潮ししほ (p.71)
訂正 血潮ちしほ
原文 見みれぼ (p.72)
訂正 見みれば
原文 便たよりない聲こゑて (p.85)
訂正 便たよりない聲こゑで
原文 二本指ほんゆびて (p.96)
訂正 二本指ほんゆびで
原文 聞きこる! (p.108)
訂正 聞きこえる!
原文 貴方あなたを此樣こんにすれば (p.121)
訂正 貴方あなたを此樣こんなにすれば
原文 折合をりあふ事ことが出來きん (p.125)
訂正 折合をりあふ事ことが出來できん
原文 一所ひところ (p.125)
訂正 一所ひとところ
原文 線せんか (p.138)
訂正 線せんが
原文 紙かみに歿のこつた (p.148)
訂正 紙かみに殘のこつた
原文 遂おうて (p.149)
訂正 逐おうて
原文 薄無味惡うすきみわるかつたが (p.162)
訂正 薄氣味惡うすきみわるかつたが
原文 ちらりとしたばかりて有あつたのだ (p.163)
訂正 ちらりとしたばかりで有あつたのだ
原文 銳するどい目色めつきて (p.171)
訂正 銳するどい目色めつきで
原文 ピシャり (p.172)
訂正 ピシャリ
原文 迯にげけろ (p.175)
訂正 迯にげろ
原文 慓ふるひ出だす (p.175)
訂正 慄ふるひ出だす
原文 冷つたたい (p.187)
訂正 冷つめたい
原文 向むかふから來きる (p.208)
訂正 向むかふから來くる
原文 失うしつたやうにも (p.230)
訂正 失うしなつたやうにも
原文 唯たゞ蹶あしのうらと (p.243)
訂正 唯たゞ蹠あしのうらと
原文 蹶あしのうら (p.245)
訂正 蹠あしのうら
原文 切きれれ (p.237)
訂正 切きれ
●文字・フォーマットに関する補足
113頁「弟は高笑をして、」「妹も合槌を打つて、」、118頁「弟おとうとはふと立止たちどまつて、」の行は一字字下げした。
233頁の草書体の「志」は「し」に置換えた。「熱」の字は原文では「灬」の上が「執」の字。