The Project Gutenberg eBook of 血笑記
Title: 血笑記
Author: Leonid Andreyev
Translator: Shimei Futabatei
Release date: October 1, 2010 [eBook #34013]
Most recently updated: February 24, 2021
Language: Japanese
Credits: Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka. (This file was produced from images generously made available by Kindai Digital Library)
アンドレーエフ作
二葉亭譯
血笑記
血笑記
二葉亭譯
(前編、斷篇第一)
…物狂ものぐるほしさと怕おそろしさとだ。
始はじめて之これを感かんじたのは某街道なにがしかいどうを引上ひきあげる時ときであつた。 もう十時間じかんも歩あるき續つゞけて、休憇きうけいもせず、歩調ほてうも緩ゆるめず、倒たふれる者ものは棄すてゝ行ゆく。 敵てきは密集團みつしふだんとなつて追擊つゐげきして來くるのだ。 今いま附つけた足跡あしあとも三四時間じかんの後のちには敵てきの足跡あしあとに踏消ふみけされて了しまはう。 暑あつかつた。 何度なんどであつたか、四十度ど、五十度ど、或あるひは其以上それいじやうであつたかも知しれんが、唯ただもう不斷のべつに蕩々だら〳〵と底そこも知しれぬ暑あつさで、いつ涼すゞしくなる目的あてもない。 太陽たいやうは大おほきく、火ひの燃もゆるやうに、怕おそろしげで、或あるひは大地だいちに近寄ちかよつて、用捨ようしやのない火氣くわきに引包ひツつゝみ、燒盡やきつくさむとするのかと危あやぶまれた。 眼めを開あいてゐられゝばこそ。 小さく、窄すぼんだ、罌粟けし粒程つぶほどの瞳孔ひとみが閉とぢた眼瞼まぶたの下したに蔭かげを求もとめても、蔭かげはなく、日ひは薄皮うすかはを透とほして、血紅色けつこうしよくの光線くわうせんを疲つかれ切きつた腦中なうちうへ送おくる。 けれども、流石さすがに目めを閉とぢてゐれば樂らくなので、私わたしは長ながい間あひだ、事ことに寄よると何時間なんじかんといふ間あひだ、目めを閉とぢて、前後左右ぜんごさいうを引上ひきあげて行ゆく物音ものおとを聽ききながら行いつた。 人馬じんばの重おもたげな揃そろはぬ足音あしおと、鐵てつの車輪しやりんの小石こいしを引割ひきわる音おと、誰たれやらの苦くるし氣げな精せいの盡つきた溜息ためいき、燥はしやいだ唇くちびるを鳴ならす乾かわいた音おとなどが聞きこえる。 皆みな默だまつてゐる。 啞者おしの軍ぐんの行ゆくやうだ。 皆みな倒たふれゝば默だまつて倒たふれる。 それに躓つまづいて倒たふれる者ものも、默だまつて起上おきあがつて、顧視みむきもせずに行ゆく。 宛まるで啞者おしである上うへに目めも耳みゝも聾しひてるやうだ。 私わたしも幾度いくたびか躓つまづいて倒たふれたが、其時そのときは我われにもなく目めを開あく——と、目めに見みえる物ものは、人間離にんげんばなれした虛うそらしい、此世このよが狂くるつて苦くるし氣げに譫語うはごとをいふやうな光景ありさまだ。 炎もゆるやうな空氣くうきが搖ゆれ、蕩とろけさうな石いしも默だまつて搖ゆるぎ、遙はるか向むかふの曲角まがりかどを曲まがる人ひとの群むれも、大砲たいはうも、馬うまも、大地だいちを離はなれて、音おともなく、ジェリーのやうに震ふるひながら行ゆく所ところは、生いきた物ものとは見みえないで、體からだは烟けむの幽靈いうれいのやうである。 大おほきな怕おそろしげな、ツイ鼻はなの先さきに見みえる太陽たいやうが、銃身じうしんに金具かなぐに光ひかりを宿やどして、小ちひさな、無數むすうの太陽たいやうを映出うつしだし、その眩まばゆい光ひかりが横合よこあひからも、足元あしもとからも、眼めに射込さしこみ、白しろい㷔ほのほを噴はいてピカ〳〵と鋭するどいこと、宛然さながら白熱はくねつした銃劒じうけんの切先きツさきを見みるやうだ。 燒立やきたて〳〵物ものを枯からさむとする暑熱しよねつは、身みに沁しみ、骨ほねに透とほり、髓ずゐに徹てつして、時ときとしては胴どうの上うへにぶらつくものは首くびではなくて、何なんとも得體えたいの知しれぬ、重おもこいやうな、輕かるいやうな、圓まるい不思議ふしぎな物ものであつて、どうやら自分じぶんの物ものではないやうに思おもはれ、薄氣味惡うすきみわるくなることもある。
と、其時そのとき、偶然ひよつと我家わがやが眼めの前まへに浮うかぶ。 部屋へやの隅すみで、水色みづいろの壁紙かべがみの片端かたはしが見みえて、卓テーブルの上うへには、水みづの入はいつた壜フラスクが其儘そのまゝ手付てつかずに埃塗ほこりまぶれになつてゐる。 これは私わたしの卓テーブルで、跛びツこなので、短みじかい方はうの脚あしの下したには紙かみを丸まるめて敷かつてある。 隣室りんしつには、見みえぬけれど妻さいも忰せがれも居ゐるらしい。 若もし聲こゑが出だせたら、大聲おほごゑ出だして喚わめいたかも知しれぬ——水色みづいろの壁紙かべがみの片端かたはしに、埃塗ほこりまぶれの手附てつかずの壜フラスクと、見みる所ところは尋常じんじやうの、際立きはだつた物ものではないけれど、それに其程それほど目めを駭おどろかされたのである。
今いまだに憶おぼえてゐるが、立止たちどまつて兩手りやうてを擧あげると、トンと誰だれかに背後うしろから衝飛つきとばされた。 ツカ〳〵と前まへへ出でる——と、もう其儘そのまゝ暑あついことも草臥くたびれたことも忘わすれて、愴惶あわたゞしく、人ひとを押分おしわけて、何方いづくともなく進すゝんで行いつた。 際限さいげんもない、無言むごんの人ひとの列れつの間あひだを、右左みぎひだりに赤あかい炎もえそうな頸窩ぼんのくぼを視みて、グタリと下さげた熱あつい銃劒じうけんと殆ほとんど擦すれ〳〵に大分だいぶ進すゝんだ時とき、何なにを私わたしは爲してゐるので、何處どこへ此樣こんなに急いそいで行ゆくのだらうと、立止たちどまつた。 で、急いそいで向直むきなほつて、無理無體むりむたいに列外れつぐわいへ出でて、とある窪地くぼちを越こえ、其處そこの石いしの上うへに焦燥せか〳〵と腰こしを卸おろした所ところは、このざらざらの燒石やけいしを目的めあてに、これまで藻搔もがいて來きたやうであつた。
其時そのとき始はじめて氣きが附ついた。 日光につくわうの惶きらつく中なかを、暑あつさに弱よわり、ヘト〳〵に草臥くたびれて、無言むごんでふら〳〵と行いつては倒たふれる者ものは、これは皆みな狂人きちがひだ。 何處どこへ行ゆくのか、何なんで日ひに照付てりつけられるのか、誰だれも知しらない、誰だれも何なにも知しつてゐない。 胴どうの上うへに在あるのは首くびではなくて、變へんな気味きみの惡わるい物ものだ。 と見みると一人ひとり、矢張やつぱり私わたしのやうに、愴惶あわたゞしく列外れつぐわいへ脫出ぬけだしてバタリと倒たふれる、續つゞいて又また一人ひとり、又また一人ひとりヽヽヽと、群むらがる人ひとの頭あたまの上うへに馬うまの首くびが見みえる。 血走ちばしつた物狂ものぐるほしい目色めつきをして、齒齦はぐきまで露出むきだした所ところは、不氣味ぶきみな奇怪きくわいな叫聲さけびごゑを立たてゝゐるやうに見みえたけれど、其聲そのこゑが聞きこえるでもなかつた。 首くびが見みえて、バタリと倒たふれると、其處そこに暫しばし人ひとだかりがする。 皆足みなあしを駐とゞめて、皺嗄しやがれた冴さえぬ聲こゑで何なにやら喚わめくとドンと一發ぱつ銃聲じうせいが聞きこえて、又皆またみな默だまつて動出うごきだして、際限さいげんもなく續つゞいて行ゆく。 私わたしはやがて一時間じかんも石いしの上うへに腰こしを掛かけてゐたが、其間そのあひだ絕たえず人影ひとかげは眼前がんぜんを過すぎ行ゆいて、空そらはゆすれ、地ちは搖ゆるぎ、遠とほく幽靈いうれいの如ごとくに行ゆく隊伍たいごの影かげは戰をのゝくやうに見みえた。 骨ほねを枯からさむとする暑あつさは更さらに肉にくに徹とほつて、瞥ちらりと眼めに映うつつた物ものは、直すぐ忘わすれて了しまふ。 眼前がんぜんを過すぎ行ゆく人影ひとかげは暫しばらくも絕たえぬが、過すぎ行ゆく人ひとの誰だれだかは分わからない。 一時間程前じかんほどまへに此石このいしに腰こしを掛かけてゐたのは私わたし一人ひとりだつたが、今いまは周圍ぐるりに灰色はいゝろの人ひとが一塊ひとかたまりり集あつまつた。 或者あるものは地ちに伏ふして動うごかない。 死しんでゐるのかと思おもはれる。 或者あるものは私わたしのやうに石いしに腰こしを掛かけて、氣脫きぬけしたやうな面かほをして、通とほる人ひとを見みてゐる。 銃じうを持もつてゐる者ものは兵士へいしらしいが、丸裸まるはだかに近ちかい姿すがたで、蘇枋染すほうぞめの、見みるも厭いやらしい色合いろあひの肌はだをした者ものもある。 つい其處そこに誰だれだか素肌すはだの背せを上うへに向むけて寢ねてゐる。 稜立かどだつた熱あつい石いしに面かほを伏ふせて平氣へいきでゐるさへあるに、仰向あふむけにした掌てのひらを見みれば白しろいから、死人しにんのやうであるけれど、背せの色いろは生人せいじんのそれの如ごとく赤あかい。 唯たゞ燻肉くすべにくのやうに聊いさゝか黄味きみを帯おびてゐるので、此世このよの人ひとでない事ことが知しれる。 私わたしは此この死骸しがいの側そばを退どきたかつたが、退どく力ちからが無なかつたのでふら〳〵しながら、矢張やつぱりふら〳〵と幽靈いうれいのやうに行ゆく人ひとの際限さいげんもなく續つゞく列れつを見みてゐた。 今いまにも日射病につしやびやうに罹かゝるのは頭あたまの工合ぐあひでも知しれてゐたが、平氣へいきで其それに罹かゝるのを待まつてゐた。 宛まるで夢心地ゆめごゝちで、死しといふものは、不思議ふしぎな綾あやに絡からむだ夢想むさうの街道かいだうの立塲たてばか何なんぞのやうに思おもはれた。
と見みると、連つれを離はなれて思切おもひきつた體ていに此方こちらを目蒐めがけて來くる一人ひとりの兵へいがある。 其姿そのすがたがしばし窪くぼみに隱かくれて、やがて又また其それを這出はひだして來くるのを見みれば、危あぶない足取あしどりで、手ても足あしも頽然ぐたりとなりさうなのを、然さうはさせまいと力りきむのが、もう精せい一杯ぱいの所ところらしい。 正面まともに私わたしを目蒐めがけて來くるので、苦くるしい夢ゆめにもやもやと腦なうを閉とぢられさうな中なかでも、駭然ぎよツとして、「何なんだ?」
聲こゑを掛かけると、兵へいはピタリと立止たちどまつた。 聲こゑの掛かゝるのを待まつてゐたのかと思おもはれる。 髯ひげむしやの大男おほをとこで、襟えりの裂さけた服ふくを着きて、衝立つツたつてゐる。 銃じうを持もつてゐなかつた。 ズボンは釦一ボタンひとつで支さゝへてゐて、その綻ほころびの切目きれめから白しろい肌はだが透すいて見みえる。 手足てあしが頽然ぐたりとだらけるのを、だらけさすまいと氣きを張はつてゐるけれど、もう其それも叶かなはぬ。 一ひとつに寄よせた手てが直すぐとダラリと左右さいうに垂たれる。
「貴樣きさま如何どうしたのか? まあ、坐すわれ。」
けれども兵へいは衝立つツたつたまゝ、締しめても〳〵だらけながら、默だまつて人ひとの面かほを視みてゐる。 私わたしも我知われしらず起上たちあがつた。 よろ〳〵しながら其眼そのめを覗のぞき込こむと限かぎりなき怖おそれと狂くるつた氣きが浮ういて見みえる。 誰だれの瞳ひとみも皆みな蹙しゞまつてゐるのに、これのばかりは眼め一杯ぱいに擴ひろがつてゐる。 かうした大おほきい窓まどから覗のぞいたら、外そとは嘸さぞ火ひの海うみのやうに見みえやう。 偶然ひよツとしたら、これの眼色めざしに浮うかんでゐるのが死しの影かげではあるまいかと思おもはれた——いや、さう思おもはれたばかりではない、それに相違さうゐなかつたのだ。この眞黑まつくろな、底そこも知しれぬ、烏からすのそれのやうにオレンジ色いろの細ほそい縁ふちを取とつた瞳ひとみには、死し以上いじやう、死しの恐怖きやうふ以上いじやうのものが浮ういてゐたのだ。
「彼方あツちへ行いけ、彼方あツちへ!」と一足ひとあし退さつて、私わたしは喚わめいた。
と、かう言いふのを待まつてゐたやうに、其兵そのへいがバタリと私わたしの上うへへ倒たふれ懸かゝつた。 頽然ぐたりとした、物ものを言いわぬ、大おほきな奴やつに推倒おしたふされて、私わたしも倒たふれた。 わなゝきながら、壓付おしつけられた足あしを引外ひツはづして、跳起はねおきるや——もう方角はうがくも何なにも有あつたものでない、唯たゞ人ひとの居ゐぬ方はうへ、唯たゞ日光ひかげのちらつく遠方ゑんぱうへ逃にげやうとする時とき、右手ゆんでの山やまの嶺いたゞきでドンと一發ぱつ鳴なる。 直すぐ其後そのあとから木魂こだまのやうに續つゞけざまにドン〳〵と二發はつ鳴なる。 と、何處どこか頭上づじやうを破裂彈はれつだんが飛とんで行ゆく。 其音そのおとに大勢おほぜいが喜よろこび勇いさむで、喚わめき、叫さけび、哮たけるやうな聲こゑが籠こもつて聞きこえた。