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血笑記 cover

血笑記

Chapter 5: (斷篇第二)
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About This Book

A narrator describes a weary column of soldiers marching under unbearable heat toward an unknown destination, where exhaustion and sunstroke produce delirium, grotesque hallucinations (including visions of horse heads and ghostlike bodies), and a slow unravelling of bodily and mental control; intercut with sudden recollections of a domestic interior and a brother, the account shifts between close, claustrophobic sensory detail and panoramic scenes of a deranged, silent procession, culminating in abrupt sounds of battle that temporarily restore clarity and collective urgency.

 てき迂廻うくわいした!

 にさうなあつさも、おそろしさも、つかれも、さらりとわすれる。 判然はつきりする。 おもところけざやかに浮上うきあがる。 いきせきつて、はしつて立直たちなほつたれつかうとするときはれやかなうれしさうなかほがちら〳〵え、皺嗄しやがごゑわめこゑきこえ、號令がうれいきこえ、無駄口むだぐちたゝこゑきこえた。 邪魔じやまにならぬやうに競上せりあがりでもしたのか、朦朧ぼんやりとなつて押鎭おしゝづまる——と、また魔法使まはふづかひがキゝとさけぶやうなおとてゝ、くうつて破裂彈はれつだんぶ。

 わたしたいちかづいた…

(斷篇第二)

 …うまへいみな戰死せんしした。 だい砲列はうれつ其通そのとほり。 わがだい十二砲列はうれつで、三日目みツかめ夕刻ゆふこくまで無事ぶじであつたのはわづはうもんと、——あと皆壞みなこはされてしまつたので、——それに砲手はうしゆにん將校しやうかう一人ひとりといふのがすなはわたしだ。 もう二十時間じかんも一すゐもせず、なにはない。 三晝夜ちうやもサタンのはためきたけなかたので、狂氣きやうき黑雲くろくも引包ひツつゝまれて、はなれ、そらはなれ、味方みかたはなれて、きながら狂人きやうじんごとくに小迷さまよふ。 死人しにんしづかにてもるが、吾々われ〳〵はくれ〳〵と立働たちはたらいて、つとめるところつとめ、ものひ、わらひまでして、——それでゐて宛然さながら狂人きやうじんだ。 あぶなく活溌くわつぱつはたらいて、命令めいれい明瞭はツきりくだせば、又其またそれ間違まちがひなく仕遂しとげてもくが、それでゐて、突然とつぜんだれかをつかまへて、おまへだれだといたなら、うやむやのあたまでは、おそらくなんこたへたものか、わからなかつたらう。 ゆめてゐるやうなもので、だれかほうからの馴染なじみらしくえ、何事なにごとおこつても、矢張やツぱかつつた、おぼえのある、いてゐることのやうにおもはれるが、其癖そのくせだれかのかほはうじツてゐると、あるひ砲聲はうせいみゝかたむけてゐると、どれも〴〵みんめるほどめづらしくて、いても〳〵つくせぬなぞなんぞのやうにおもはれる。 何時いつにかになる。 それといて、何處どこすみからくらくなつてたのかとあやしむさへなく、またあたまうへくわツす。 偶々たま〳〵餘處よそからものいて、はじめ戰鬪せんとう三日目みツかめわかるが、それもそばからわすれてしまふ。 如何どうやられもけもせぬのべたらの一じつのやうで、くらときもあれば、あかるいときもあるが、いづれにしても滅茶苦茶めちやくちやで、薩張さツぱりわけわからない。 さうしてだれおそれない。 ぬといふのが如何どんことだか、それもわからない。

 三日目みツかめだつたか、四日目よツかめだつたか、おぼえがないが、一寸ちよツと胸壁きょうへきかげよこになつてぢると、たちまれい馴染なじみの、しかし不思議ふしぎものえる。 それは靑色あをいろ壁紙かべがみすこしばかりと、わたしのとめた小卓こテーブルうへ埃塗ほこりまぶれの手着てつかずのびんで、隣室りんしつにはさいせがれるやうだが、姿すがたえぬ。 たゞ此時このときテーブルうへ綠色みどりいろかさたランプがとぼつてゐたから、よひ夜中よなかだつたにちがひない。 で、かうしたところ眼前がんぜんとまつてうごかぬから、わたしながいこと、心靜こゝろしづかに、ためつすがめつびんのグラスにちらつく火影ほかげ壁紙かべがみながめて、こゝろうちで、もうよるだ、時分じぶんだのに、何故なぜばうないのだらうとおもつてゐた。 で、また壁紙かべがみながめてると、唐草からくさに、銀色ぎんしよくはなに、格子かうしのやうなものに、くだのやうなものと——や、わが居間ゐまながら、かうも見識みしつてゐやうとはおもけなかつた。 時々とき〴〵いて、處々ところ〴〵うつくしいあかるいしまはいつた眞黑まつくろそらながめては、またぢて、さら壁紙かべがみびんひかるのをて、もうよるだ、時分じぶんだのに、何故なぜばうないのだらうとおもふ。 一ちかくで砲彈はうだん破裂はれつした。 其時そのときなにやら兩足りやうあしにふわりとれたとおもふと、だれだか大聲おほごゑで、砲彈はうだん破裂はれつしたおとよりも上手うはてこゑで、ワッとさけんだ。 だれられたなとおもつたが、起上おきあがりもせんで、わたし凝然ぢツとあからめもせず靑色あをいろ壁紙かべがみびんながめてゐた。

 やが起上おきあがつて、あるまはり、指揮しきをしたり、ひとかほのぞむだり、照準せうじゆんめたりしたが、こゝろでは矢張やツぱり、何故なぜばうないのだらう、とおもつてゐた。 一傳騎でんきその理由わけいたら、ながいことなんだか事細ことこまかに説明せつめいしてれて、二人ふたり點頭うなづきあつた。 傳騎でんきわらつた。 其面そのかほると、ひだりまゆ釣上つりあげて、背後うしろだれかにくすぐツたい目交めまぜをしてゐたが、背後うしろにはだれかのあしうらえたばかりで、ほかにはなにえなかつた。

 此時このとき四邊あたりあかるくなつてたが、不意ふいにポツリとつてた。 なに、あめつても矢張やツぱり故鄉くにるやうなあめで、ほんのつまらん點滴しづくではつたけれど、不意ふいに、らずものときつてたので、みなれるのをおそれて、狼狽らうばいして射擊しやげき中止ちうしし、はうなに放散ほりちらかしていて、やたら無性むしやう其處そこらの物蔭ものかげむだ。 たツいまわたしものつてゐた傳騎でんきは、砲車ほうしやしたもぐむでちゞめてゐたが、——あぶない、いまにも壓潰おしつぶされるかもれないのに、ふとつた砲手はうしゆは、なんおもつてか、戰死者せんししやふくぎにかゝつた。 わたし陣地ぢんちはしまはつて、蝙蝠傘かうもりがさだか、外套ぐわいたうだかをさがしてゐた。 かぶさるくもなかからあめしたのは隨分ずゐぶんひろ塲面ばめんだつたが、その塲面ばめん全體ぜんたいにふツとめう寂然しんとなる。 榴霰彈りうさんだんひと後馳おくればせにブンとんでて、パッと破裂はれつして、また寂然しんとなる。 寂然しんとなつたので、ふとつた砲手はうしゆあら鼻息はないきえる。 石塊いしころ砲身はうしんあめおときこえる。 かう寂然しんとしたなかで、ぱら〳〵といふしづかなあきめかしいあめおとき、濡土ぬれつちぐと、あさましい血羶ちなまぐさゆめまたゝめたやうながして、あめにきらつく砲身はうしんれば、おさなころことでもない、初戀はつこひでもない、しめやかになつかしいなにかゞ、不思議ふしぎにもふと想出おもひだされる。 此時このとき遠方ゑんぱうでドンと最初さいしよの一ぱつ際立きはだつて音高おとたかると、一寸ちよツと寂然しんとしたのにせられてゐた氣味きみつて、みなかくから這出はひだす。 逃込にげこときのやうに、這出はひだとき唐突たうとつだつた。 ふとつた砲手はうしゆだれかをしかばす。 はうる、またる——と散々さん〳〵なやまされいたなうまたあかかすみひたとざされる。 あめ何時いつんだか、だれかなかつたが、砲手はうしゆ戰死せんししてそのむく〳〵とふとつたかほにくちてばむでも、點滴しづくれてゐたのをいまおぼえてゐるから、なんでも隨分ずいぶんながいことつてゐたにちがひない。

 …生若なまわか志願兵しぐわんへいだつたつが、わたしまへ直立ちよくりつして擧手きよしゆれいをしながら報告ほうこくするのをくと、司令官しれいくわんから、其隊そのたいはもう二時間じかんさゝふべし、されば援兵ゑんぺいおくるといふ命令めいれいださうだ。 わたし何故なぜばうはまだないのだらうとこゝろではおもいながら、くちでは何時間なんじかんでもさゝへておけるとこたへた。 さうこたへたとき何故なぜだかその志願兵しぐわんへいかほがふとまる。 大方おほかた非常ひじやう蒼褪あをざめてゐた所爲せゐだつたらう。 之程これほど蒼白あをじろかほことがない。 死人しにんかほだつて、此髭このひげのないわかわかしいかほかられば、まだ紅味あかみがある。 かなら途中とちう度膽どぎもかれたのがなほらなかつたのにちがひない。 目庇まびさしげてるのは、このれた無雜作むざうさ手振てぶりで、そゞろになるほどおそろしさをまぎらさうとしてゐたのだらう。

おそろしいのか?」といひながら其手そのてれてると、ぼうのやうにこはばつてゐたが、當人たうにんかすかに莞爾にツことしたばかりで、なんともはなかつた。 いや、むし口元くちもと微笑びせふ眞似まねをしたばかりで、にはたゞ初々うひ〳〵しさ、おそろしさがひかるのみ、其外そのほかにはなにかつた。

おそろしいのか?」とわたしまたやさしくつてた。

 志願兵しぐわんへいなにはうとして口元くちもとうごかしたとき不思議ふしぎな、奇怪きくわいな、なんとも合點がてんかぬことおこつた。 みぎほうへふわりと生溫なまぬるかぜ吹付ふきつけて、わたしはガクッとなつた——たゞ其丈それだけだつたが、眼前がんぜんには今迄いままで蒼褪あをざめたかほつたところに、なんだかプツリとたけつまつた、眞紅まつかものえて、其處そこから鮮血せんけつせんいたびんくちからでもるやうに、ドク〳〵とながれてゐるところは、まづ繪看板ゑかんばんだ。 で、そのプツリとれた眞紅まつかものからがドク〳〵とながれるところに、かほでニタリとわらつてあかわらひ名殘なごりえる。

 これには見覺みおぼえがある。 これたづねてやうやたづてたのだ。 其處そこらのげ、あし千切ちぎれ、微塵みぢんになつた、奇怪きくわい人體じんたいうへいてえるものなにかとおもつたら、これだつた、あかわらひだつた。 そらにもそれえる。 太陽たいやうにもえる。 いまこのあかわらひ地球全體ちきうぜんたいひろがるだらう。

 みなもう平氣へいき瞭然はつきり狂人きちがひのやうに…