敵てきが迂廻うくわいした!
死しにさうな暑あつさも、怖おそろしさも、疲つかれも、さらりと忘わすれる。 氣きが判然はつきりする。 思おもふ所ところが顕けざやかに浮上うきあがる。 息いきせき切きつて、走はしつて立直たちなほつた列れつに就つかうとする時とき、晴はれやかな嬉うれしさうな面かほがちら〳〵見みえ、皺嗄しやがれ聲ごゑで喚わめく聲こゑが聞きこえ、號令がうれいが聞きこえ、無駄口むだぐち叩たゝく聲こゑも聞きこえた。 日ひは邪魔じやまにならぬやうに競上せりあがりでもしたのか、朦朧ぼんやりとなつて押鎭おしゝづまる——と、又また魔法使まはふづかひがキゝと叫さけぶやうな音おとを立たてゝ、空くうを截きつて破裂彈はれつだんが飛とぶ。
私わたしは隊たいに近ちかづいた…
(斷篇第二)
…馬うまも兵へいも皆みな戰死せんしした。 第だい八砲列はうれつも其通そのとほり。 我わが第だい十二砲列はうれつで、三日目みツかめの夕刻ゆふこくまで無事ぶじであつたのは僅わづか砲はう三門もんと、——跡あとは皆壞みなこはされて了しまつたので、——それに砲手はうしゆ六人にんに將校しやうかう一人ひとりといふのが即すなはち私わたしだ。 もう二十時間じかんも一睡すゐもせず、何なにも食くはない。 三晝夜ちうやもサタンの磤はためき哮たける中なかに居ゐたので、狂氣きやうきの黑雲くろくもに引包ひツつゝまれて、地ちを離はなれ、空そらを離はなれ、味方みかたを離はなれて、生いきながら狂人きやうじんの如ごとくに小迷さまよふ。 死人しにんは靜しづかに臥ねても居ゐるが、吾々われ〳〵はくれ〳〵と立働たちはたらいて、勤つとめる所ところは勤つとめ、物ものを言いひ、笑わらひまでして、——それでゐて宛然さながらの狂人きやうじんだ。 危あぶな氣げなく活溌くわつぱつに働はたらいて、命令めいれいも明瞭はツきり下くだせば、又其またそれを間違まちがひなく仕遂しとげても行ゆくが、それでゐて、若もし突然とつぜん誰だれかを捉つかまへて、お前まへは誰だれだと聞きいたなら、うやむやの頭あたまでは、恐おそらく何なんと答こたへたものか、分わからなかつたらう。 夢ゆめを見みてゐるやうなもので、誰だれの顏かほも疾とうからの馴染なじみらしく見みえ、何事なにごとが起おこつても、矢張やツぱり嘗かつて有あつた、覺おぼえのある、知しり拔ぬいてゐる事ことのやうに思おもはれるが、其癖そのくせ誰だれかの顏かほが砲はうを凝じツと視みてゐると、或あるひは砲聲はうせいに耳みゝを傾かたむけてゐると、どれも〴〵皆みんな目めの覺さめる程ほど珍めづらしくて、解といても〳〵解とき盡つくせぬ謎なぞか何なんぞのやうに思おもはれる。 何時いつの間まにか夜よになる。 それと氣きが附ついて、何處どこの隅すみから暗くらくなつて來きたのかと怪あやしむ間まさへなく、又また頭あたまの上うへで赫くわツと日ひが照てり出だす。 偶々たま〳〵餘處よそから來きた者ものに聞きいて、始はじめて戰鬪せんとうも最もう三日目みツかめと分わかるが、それも傍そばから直すぐ忘わすれて了しまふ。 如何どうやら暮くれも明あけもせぬ延のべたらの一日じつのやうで、暗くらい時ときもあれば、明あかるい時ときもあるが、何いづれにしても滅茶苦茶めちやくちやで、薩張さツぱり譯わけが分わからない。 而さうして誰だれも死しを畏おそれない。 死しぬといふのが如何どんな事ことだか、それも分わからない。
三日目みツかめだつたか、四日目よツかめだつたか、覺おぼえがないが、一寸ちよツと胸壁きょうへきの蔭かげで横よこになつて眼めを閉とぢると、忽たちまち例れいの馴染なじみの、しかし不思議ふしぎな物ものが見みえる。 それは靑色あをいろの壁紙かべがみが少すこしばかりと、私わたしのと極きめた小卓こテーブルの上うへの埃塗ほこりまぶれの手着てつかずの壜びんで、隣室りんしつには妻さいも忰せがれも居ゐるやうだが、姿すがたが見みえぬ。 唯たゞ此時このときは卓テーブルの上うへに綠色みどりいろの笠かさを被きたランプが點とぼつてゐたから、宵よひか夜中よなかだつたに違ちがひない。 で、かうした所ところが眼前がんぜんに留とまつて動うごかぬから、私わたしは永ながいこと、心靜こゝろしづかに、ためつすがめつ壜びんのグラスにちらつく火影ほかげを視み、壁紙かべがみを眺ながめて、心こゝろの中うちで、もう夜よるだ、寢ねる時分じぶんだのに、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらうと思おもつてゐた。 で、又また壁紙かべがみを眺ながめて見みると、唐草からくさに、銀色ぎんしよくの花はなに、格子かうしのやうな物ものに、管くだのやうな物ものと——や、我わが居間ゐまながら、かうも能よく見識みしつてゐやうとは思おもひ掛がけなかつた。 時々とき〴〵目めを開あいて、處々ところ〴〵美うつくしい明あかるい縞しまの入はいつた眞黑まつくろな空そらを眺ながめては、又また目めを閉とぢて、更さらに壁紙かべがみを視み、壜びんの光ひかるのを視みて、もう夜よるだ、寢ねる時分じぶんだのに、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらうと思おもふ。 一度ど近ちかくで砲彈はうだんが破裂はれつした。 其時そのとき何なにやら兩足りやうあしにふわりと觸ふれたと思おもふと、誰だれだか大聲おほごゑで、砲彈はうだんの破裂はれつした音おとよりも上手うはての聲こゑで、ワッと叫さけんだ。 誰だれか射やられたなと思おもつたが、起上おきあがりもせんで、私わたしは凝然ぢツとあからめもせず靑色あをいろの壁紙かべがみと壜びんを眺ながめてゐた。
軈やがて起上おきあがつて、歩あるき廻まはり、指揮しきをしたり、人ひとの顏かほを覗のぞき込こむだり、照準せうじゆんを極きめたりしたが、心こゝろでは矢張やツぱり、何故なぜ坊ばうは寢ねないのだらう、と思おもつてゐた。 一度ど傳騎でんきに其その理由わけを聞きいたら、永ながいこと何なんだか事細ことこまかに説明せつめいして呉くれて、二人ふたりで點頭うなづきあつた。 傳騎でんきは笑わらつた。 其面そのかほを見みると、左ひだりの眉まゆを釣上つりあげて、背後うしろの誰だれかに擽くすぐツたい目交めまぜをしてゐたが、背後うしろには誰だれかの足あしの裏うらが見みえたばかりで、外ほかには何なにも見みえなかつた。
此時このとき四邊あたりは最もう明あかるくなつて居ゐたが、不意ふいにポツリと降ふつて來きた。 なに、雨あめと云いつても矢張やツぱり故鄉くにで降ふるやうな雨あめで、ほんの詰つまらん點滴しづくでは有あつたけれど、不意ふいに、降ふらずもの時ときに降ふつて來きたので、皆みな濡ぬれるのを畏おそれて、狼狽らうばいして射擊しやげきを中止ちうしし、砲はうも何なにも放散ほりちらかして置おいて、やたら無性むしやうに其處そこらの物蔭ものかげへ逃にげ込こむだ。 只たツた今いま私わたしと物ものを言いつてゐた傳騎でんきは、砲車ほうしやの下したへ潜もぐり込こむで身みを縮ちゞめてゐたが、——危あぶない、今いまにも壓潰おしつぶされるかも知しれないのに、太ふとつた砲手はうしゆは、何なんと思おもつてか、或ある戰死者せんししやの服ふくを剝はぎに掛かゝつた。 私わたしは陣地ぢんちを走はしり廻まはつて、蝙蝠傘かうもりがさだか、外套ぐわいたうだかを捜さがしてゐた。 蔽かぶさる雲くもの中なかから雨あめの降ふり出だしたのは隨分ずゐぶん廣ひろい塲面ばめんだつたが、其その塲面ばめん全體ぜんたいにふツと妙めうに寂然しんとなる。 榴霰彈りうさんだんが一ひとつ後馳おくればせにブンと飛とんで來きて、パッと破裂はれつして、又また寂然しんとなる。 寂然しんとなつたので、太ふとつた砲手はうしゆの荒あらい鼻息はないきが聞きえる。 石塊いしころや砲身はうしんを打うつ雨あめの音おとも聞きこえる。 かう寂然しんとした中なかで、ぱら〳〵といふ閑しづかな秋あきめかしい雨あめの音おとを聽きき、濡土ぬれつちの香かを嗅かぐと、淺あさましい血羶ちなまぐさい夢ゆめが瞬またゝく間ま覺さめたやうな氣きがして、雨あめにきらつく砲身はうしんを見みれば、幼おさない頃ころの事ことでもない、初戀はつこひでもない、しめやかに懷なつかしい何なにかゞ、不思議ふしぎにもふと想出おもひだされる。 此時このとき遠方ゑんぱうでドンと最初さいしよの一發ぱつが際立きはだつて音高おとたかく鳴なると、一寸ちよツと寂然しんとしたのに魅みせられてゐた氣味きみは去さつて、皆みな隱かくれ塲ばから這出はひだす。 逃込にげこむ時ときのやうに、這出はひだす時ときも唐突たうとつだつた。 太ふとつた砲手はうしゆが誰だれかを叱しかり飛とばす。 砲はうが鳴なる、又また鳴なる——と散々さん〳〵惱なやまされ拔ぬいた腦なうが又また絳あかい霞かすみに直ひたと鎖とざされる。 雨あめは何時いつ止やんだか、誰だれも氣きが附つかなかつたが、砲手はうしゆが戰死せんしして其そのむく〳〵と太ふとつた顏かほの肉にくが落おちて黄きばむでも、尙なほ點滴しづくが垂たれてゐたのを今いまに覺おぼえてゐるから、何なんでも隨分ずいぶん長ながいこと降ふつてゐたに違ちがひない。
…未まだ生若なまわかい志願兵しぐわんへいだつたつが、私わたしの前まへに直立ちよくりつして擧手きよしゆの禮れいをしながら報告ほうこくするのを聞きくと、司令官しれいくわんから、其隊そのたいはもう二時間じかん支さゝふべし、されば援兵ゑんぺいを送おくるといふ命令めいれいださうだ。 私わたしは何故なぜ坊ばうはまだ寢ねないのだらうと心こゝろでは思おもいながら、口くちでは何時間なんじかんでも支さゝへてお目めに掛かけると答こたへた。 さう答こたへた時とき、何故なぜだか其その志願兵しぐわんへいの面かほがふと目めに留とまる。 大方おほかた非常ひじやうに蒼褪あをざめてゐた所爲せゐだつたらう。 之程これほど蒼白あをじろい面かほを見みた事ことがない。 死人しにんの面かほだつて、此髭このひげのない若若わかわかしい面かほから見みれば、まだ紅味あかみがある。 必かならず途中とちうで度膽どぎもを拔ぬかれたのが未まだ直なほらなかつたのに違ちがひない。 目庇まびさしへ手てを擧あげてるのは、この慣なれた無雜作むざうさな手振てぶりで、氣きも漫そゞろになる程ほどの怖おそろしさを紛まぎらさうとしてゐたのだらう。
「怖おそろしいのか?」といひながら其手そのてに觸ふれて見みると、手ては棒ぼうのやうに硬こはばつてゐたが、當人たうにんは幽かすかに莞爾にツことしたばかりで、何なんとも言いはなかつた。 いや、寧むしろ口元くちもとで微笑びせふの眞似まねをしたばかりで、眼めには唯たゞ初々うひ〳〵しさ、怖おそろしさが光ひかるのみ、其外そのほかには何なにも無なかつた。
「怖おそろしいのか?」と私わたしは又また優やさしく言いつて見みた。
志願兵しぐわんへいが何なにか言いはうとして口元くちもとを動うごかした時とき、不思議ふしぎな、奇怪きくわいな、何なんとも合點がてんの行ゆかぬ事ことが起おこつた。 右みぎの頰ほうへふわりと生溫なまぬるい風かぜが吹付ふきつけて、私わたしはガクッとなつた——唯たゞ其丈それだけだつたが、眼前がんぜんには今迄いままで蒼褪あをざめた面かほの在あつた處ところに、何なんだかプツリと丈たけの蹙つまつた、眞紅まつかな物ものが見みえて、其處そこから鮮血せんけつが栓せんを拔ぬいた壜びんの口くちからでも出でるやうに、ドク〳〵と流ながれてゐる所ところは、拙まづい繪看板ゑかんばんに能よく有ある圖づだ。 で、そのプツリと切きれた眞紅まつかな物ものから血ちがドク〳〵と流ながれる處ところに、齒はの無ない顏かほでニタリと笑わらつて赤あかい笑わらひの名殘なごりが見みえる。
これには見覺みおぼえがある。 之これを尋たづねて漸やうやく尋たづね當あてたのだ。 其處そこらの手てが捥もげ、足あしが千切ちぎれ、微塵みぢんになつた、奇怪きくわいな人體じんたいの上うへに浮ういて見みえる物ものを何なにかと思おもつたら、是これだつた、赤あかい笑わらひだつた。 空そらにも其それが見みえる。 太陽たいやうにも見みえる。 今いまに此この赤あかい笑わらひが地球全體ちきうぜんたいに擴ひろがるだらう。
皆みなもう平氣へいきで瞭然はつきりと狂人きちがひのやうに…