(斷篇第三)
…物狂ものくるほしさと怖おそろしさとだ。
風聞ふうぶんに據よると、敵てきにも味方みかたにも精神病せいしんびやうの患者くわんじやは夥おびたゞしいものだと云いふ。 我軍わがぐんでも精神病舎せいしんびやうしやが四棟よむね出來できた。參謀部さんぼうぶへ行いつた時とき、副官ふくゝわんが見みせて呉くれたが…
(斷篇第四)
…蛇へびのやうに絡からみ付つく。 現げんに其その友人いうじんが見みて來きての話はなしに、鐵條網てつでうもうの一端たんがプツリと切きれて、ピンと跳返はねかへつて、クル〳〵と兵へい三人にんに絡からみ付ついた。 齒はが軍服ぐんぷくを突拔つきぬいて肉にくに喰込くひこむから、兵へいは悲鳴ひめいを揚あげて、狂氣きやうきの如ごとく轉ころげ廻まはつてゐる中うちに、一人ひとりは死しんで了しまつたが、其その死骸しがいを跡あとの二人ふたりが引摺ひきずつて轉ころげ廻まはる。 やがて生いきてゐるのは一人ひとりとなる。 生殘いきのこつたのが、二人ふたりの死骸しがいを突離つきはなさうとするけれど、死骸しがいは附纏つきまとつて來きて、一緒しよに轉ころがり、三人にんの體からだが上うへになり下したになりしてゐる中うちに、ふと一度どにパタリと動うごかなくなつて了しまつたさうだ。
友ともの話はなしだと、此この鐵條網てつでうもう一ひとつで二千からの戰死者せんししやを出だしたと云いふ。 皆みな鐵條網てつでうもうを截きらうとして、蛇へびに卷付まきつかれたやうに、進退しんたいの自由じいうを失うしなつてゐる處ところを、大小だいせうの彈丸だんぐわんを雨あめの如ごとく間斷かんだんなく浴あびせ蒐かけられたのだ。 怖おそろしいとも何なんとも云樣いひやうがない。 若もし逃にげる方角はうがくが分わかつてゐたら、臆病風おくびやうかぜに吹卷ふきまくられて此時このときの攻擊こうげきは總崩そうくづれになつたらうが、何なにしろ十重二十重とへはたへ鐵條網てつでうもうを張渡はりわたしてある。 必死ひつしになつて其それを破やぶると、今度こんどは底そこに杭くひを打込うちこんだ狼穽らうせいが幾いくつとなく掘ほつてあつて、是これが又また迷宮同樣めいきうどうやうとあるから、皆みな度どを失うしなつて了しまつて、逃にげる方角はうがくが附つかなかつたのだと云いふ。
或者あるものは全まつたく盲目めくらのやうになつて、漏斗形じやうごがたした深ふかい坑あなに踏ふん込ごみ、尖とがつた杭くひの先さきに芋刺いもざしになつて、虚空こくうを掴むで藻搔もがく。 宛然さながら玩具おもちやの道化人形どうけにんぎやうが踊をどるやうだ。 其上そのうへへ又また來きては突刺つゝさゝるから、まだ溫味ぬくみのある、或あるひは冷ひえ切きつた、血塗ちみどろの體からだがうよ〳〵と盛上もりあがつて、直ぢき坑あな一杯ぱいになつて了しまふ。 其處そこにも此處こゝにも腕うでが如龜々々によき〳〵と突出つきでてゐて、痙攣けいれんを起おこしてヒク〳〵してゐる指先ゆびさきで何なんにでもしがみ付つく。 一度ど陷おちたら、最もう出でられない。 剛こはばつて蟹かにの鋏はさみのやうになつた數百すひやくの指ゆびが、無性むしやうに足あしを引掴ひつゝかみ、服ふくを引掴ひつつかみ、己おのが上うへへと引倒ひきたふして置おいて、眼肉がんにくを抉ゑぐり、首くびを締しめる。 が、大抵たいていは酒さけにでも醉よつてゐるやうに、正面まともに鐵條網てつでうもうを目蒐めがけて駆出かけだし、引掛ひつかゝつて喚わめき叫さけんでゐる中うちに、彈丸たまに中あたつて往生わうじやうして了しまふ。
さうはいふものゝ、醉漢ゑひどれのやうになるのは一般ぱんの事ことで、鐵條網てつでうもうに手てや足あしを絡からめられゝば、誰だれでも大おほいに罵のゝしつたり、或あるひは笑わらつたりする。 而さうして其儘そのまゝ死しんで了しまふ。 この話はなしをした男をとこも、朝あさから飲のまず食くはずでゐたのださうだが、不思議ふしぎな氣持きもちで、怖おそろしい怖おそろしいで目めが眩くらむ最中さなかに、一寸ちよつとの間ま無性むしやうに愉快ゆくわいになる——怖おそろしいのが愉快ゆくわいなのだ。 誰だれだか隣となりで歌うたを唄うたひ出だしたから、一緒しよになつて唄うたつてゐると、頓やがて其處そこらの者ものが皆仲間みなゝかまへ入はいつて立派りつぱな合唱がつしやうになる。 拍子ひやうしが中々なか〳〵好よく揃そろふ。 何なにを唄うたつたか、覺おぼえがないが、何なんでもかう愉快ゆくわいな舞踏歌ぶたううたのやうな物ものだつたと云いふ。 で、唄うたつてゐると、其處そこらが血塗ちみどろに眞紅まつかになる。 空そらまで眞紅まつかに見みえて、天地間てんちかんに何なにか一大變異だいへんい、奇怪きくわいな變化へんくわが起おこつたやうな氣勢けはひで、物ものの綾色あいろも分わからなくなる。 水色靑みづいろあをなどゝいふ穩おだやかな目めに慣なれた色いろは消きえて了しまつて、太陽たいやうが眞紅まつかにベンガラ色いろに炎もえる。
「赤あかい笑わらひだ」
と私わたしは言いつたが、相手あひては其意味そのいみが了解のみこめんで、
「さう、笑わらひもした。 今話いまはなした通とほりだ。 宛然まるで皆酒みンなさけに醉よつてるやうだつた。 いや、舞踏ぶたうも行やつたらう。 何なんでも何なにか行やつた。 少すくなくも其その三人にんの兵へいの藻搔もがく所ところは、宛然まるで舞踏ぶたうのやうだつた。」
今いまでも判然はつきり覺おぼえてゐるさうだが、此男このをとこが胸むねに貫通創くわんつうさうを受うけて倒たふれてからも、失神しつしんする迄までは、舞踏ぶたうで誰だれかと足拍子あしびやうしを揃そろへるやうに、足あしをピク〳〵と行やつてたさうだ。 今いまとなつて此日このひの攻擊こうげきを憶出おもひだすと妙めうな氣持きもちがして、怖おそろしい事ことは怖おそろしいが、最もう一遍ぺん彼樣あんな思おもひをして見みたいやうな氣きもすると云いふ。
「而さうして又また胸むねへ一發ぱつ喰くひたいのか?」
と私わたしがいふと、
「馬鹿ばか言いへ! 出でる度たびに彈丸たまを喰くふとは極きまつとりやせん。 そんな事こといふけど、君きみ、目覺めざましい働はたらきをしてさ、勲章くんしやう貰もらふのも惡わるくないぞ。」
さういふ其身そのみは鼻はなが尖とがつて、顴骨くわんこつが出でて、眼めが凹くぼむで、黄きいろい顏かほをして仰向あふむきに臥ねて、てもなく死人しにんだのに、まだ勲章くんしやうを夢ゆめに見みてゐるのだ。 もう化膿くわのうし出だして、甚ひどい熱ねつで、三日みツか經たてば穴あなの中なかへ轉ころがし込こまれて、死人しにんの仲間なかまへ入はいらなければなるまいに、臥ねながら目めを開あいて夢ゆめを見みて、莞爾々々にこ〳〵して、勲章くんしやうの噂うはさをしてゐるのだ。
「それは然さうと、阿母おツかさんの所とこへ電報でんぽう打うつたか?」
と私わたしは聞きいて見みた。
すると、ハッとした樣子やうすで、險けはしい眼色めつきで忌々いま〳〵しさうに私わたしの面かほを眺ながめたなり、相手あひては默だまつて了しまつたから、私わたしも默だまつてゐた。 負傷者ふしやうしやが呻うめいたり、譫言うはごといつたりするのが耳みゝに附つく。 軈やがて私わたしが起上たちあがつて出でて行ゆかうとすると、友ともは熱ねつは有あつても未まだ力ちからの脫ぬけぬ手てで、緊しツかり私わたしの手てを握にぎつて、肉にくの落おちた炎もえるやうな眼めで、悲かなしさうに凝ぢツと私わたしの面かほを視詰みつめて、如何いかにも途方とはうに暮くれたといふ體ていで、
「君きみ一體たい如何どうしたつて云いふンだらう? え、君きみ?如何どうしたツて云いふンだらう?」と恟々おど〳〵しながら手てを引張ひツぱつて、切しきりに答こたへを逼せまる。
「何なにが?」
「何なにがつて、一體たい…今度こんどの戰爭せんさうさ。 母はゝは僕ぼくの歸かへるのを待まつてるのだ。待まつてたつて、君きみ、如何どうなるもんか…國家こくかの爲ため——其樣そんな事ことは母はゝにや分わかりやせずさ。」
「赤あかい笑わらひだ。」
「また! 君きみは串戯じやうだんばかり言いつてるけれど、僕ぼくは眞面目しんめんもくだよ。 如何どうにかして納得なつとくさせたいけれど、納得なつとくさせやうがない。 まあ、君きみ、如何どんな事ことを言いつて寄越よこすと思おもふ? そりや、實じつに氣きの毒どくだ。 手紙てがみの文句迄もんくまで白髮しらがだ。 しかし、君きみも」、と珍めづしさうに人ひとの頭あたまを眺ながめて、指差ゆびさしをして、急きふに笑わらひ出だした。
「君きみも禿はげ出だしたなあ! 知しつてるか?」
「いや、しかし、白髮しらがになる奴やつや禿はげになる奴やつが大分だいぶ有あるぞ。 おい、鏡かゞみを貸かして呉くれ、鏡かゞみを! あゝ、僕ぼくも何なんだか白髮しらがが生はえて來きさうでならん。 鏡かゞみを貸かして呉くれ。」
譫語うはごとを言出いひだして、泣ないたり笑わらつたりする。私わたしは病舎びやうしやを出でて了しまつた。
其その夕方ゆふがた園遊會ゑんいうくわいが開ひらかれた。 不思議ふしぎな侘わびしい園遊會ゑんいうくわいで、來會者らいくわいしやの中うちには死人しにんの影かげも交まじつてゐた。 國くにでのピクニックの時ときのやうに、夕方ゆふがた集あつまつて茶ちやを喫のむ筈はずだつたので、湯沸ゆわかしの工面くめんをして、レモンやコップまで用意よういして、矢張やツぱりピクニックの時ときのやうに、トある木きの下したを會塲くわいぢやうと極きめた。 で、一人ひとりづゝ、又または二人ふたり三人にん連立つれだつて、常談じやうだんなど言合いひあつて話はなしながら、皆みな樂たのしみにして浮浮うき〳〵と賑にぎやかに寄よつて來きたが、來くると直ぢきに默だまつて了しまつて、成なるべく顏かほを見合みあはせないやうにする。 かうして生殘いきのこつた者ものばかり寄よつて見みると、何なんとなく無氣味ぶきびだ。 皆みな見みるも淺あさましい薄汚うすきたない服装なりをして、惡性あくせいの疥癬かいせんでも病やむでゐるやうに、身體中からだぢうをぼり〳〵搔かく。 髮かみも髯ひげも延次第のびしだいで、窶やつれ切きつて、見慣みなれた昔むかしの姿すがたはないから、湯沸ゆわかしを中なかに、顏かほを合あはせて見みると、初はじめて逢あつたやうな氣持きもちがして、愕然はツとする。 度どを失うしなつてうろ〳〵する此この人々ひと〴〵の中うちに、馴染なじみの面かほはないかと尋たづねて見みたが、一人ひとりも無なかつた。 わく〳〵として落着おちつきがなく、起居たちゐも荒あらく稜かどが有あつて、一寸ちよツとした音おとにも恟びくりとし、絕たえず後うしろを見みては何なにかに氣きを附つけ、何處どこかポカンと、不思議ふしぎな穴あなが明あく、その穴あなを覗のぞいて視みるも無氣味ぶきみなので、烈はげしい手眞似てまねで之これを塞ふさがうとするなど、如何どうしても見みも知しらぬ餘所よその人ひとで、馴染なじみがない。 聲こゑまでが異かはつてゐる。 激はげしく、稜立かどだつて、えいやつと物ものを言いふそれが、動やゝもすれば聲高こはだかになつたり、埒らちもない高笑たかわらひになつて、制とめやうにも制とめられぬ、といつた調子てうし。 異かはつてゐるのは其そればかりでなく、木きにも馴染なじみがなく、入日いりひにも馴染なじみがなく、水みづも異臭異味いしういみを帯おびた變かはつた水みづで、宛然さながら死人しにんと一緒しよに人ひとの世よを去さつて、何處どこか別世界べつせかいへでも來きたやうに、眼めに見みえる物ものが皆みな神秘しんぴで、怖おそろし氣げな影かげのやうな物ものが朦朧もうらうと其處そこらに滿みちてゐる。 入日いりひの影かげは黄きばむで冷つめたく、何處どこに明味あかるみもない眞黑まつくろな雨雲あまぐもが、凝こつたやうに、重おもたさうに、其上そのうへから覆かぶさつて、下したには大地だいちが黑々くろ〴〵と、人ひとの面かほも尋常たゞならぬ光ひかりを受うけて黄きいろく死人色しびといろに見みえる。 皆みな湯沸ゆわかしを見みてゐたが、湯沸ゆわかしの火ひは消きえて、腹はらには黄きいろく凄すごい入日いりひの光ひかりを反射はんしやし、陰々いん〳〵として此世このよの物ものではないらしく、何なんだか本體ほんたいの分わからぬ、奇怪きくわいな湯沸ゆわかしであつた。
「此處こゝは何處どこだ?」と誰だれだか言いつたが、恟々おど〳〵した恐怖きやうふに滿みちた聲こゑだつた。 誰だれだか溜息ためいきをした。 と、わく〳〵して指ゆびの骨ほねを鳴ならす者ものがある、笑わらひ出だす者ものがある、躍をどり上あがつてテーブルの周圍まはりを急遽せか〳〵と廻まはり出だす者ものもあつたが、此頃このごろは能よく斯かうして急遽せか〳〵と殆ほとんど駆かけ出ださぬばかりに歩あるき廻まはる人ひとを見掛みかける。 而さうして皆みな妙めうに默だまつてゐる、物ものを言いつても口くちの中うちで沸々ぶつ〳〵言いうばかりだ。