「戰地せんちさ」、と高笑たかわらひしてゐたのが答こたへて、更さらに又また笑わらひ出だしたが、冴さえぬ聲こえで、うふ〳〵と秩序だらしなく笑わらふ所ところは、何なにかゞ咽喉のどに塞つまつたやうだ。
「何なにが可笑をかしいンだ?」と、誰だれだつたか、向腹むかはらを立たてゝ、「こら、止よさんか!」
すると、笑わらつてゐたのが又また更さらに咽喉のどに物ものが塞つまつたやうに、フゝと笑わらつて、而さうして大人おとなしく默だまつて了しまつた。 段々だん〴〵に薄暗うすぐらくなつて來きて、雨雲あまぐもは地ちを壓あつし、黄きいろく透徹すきとほるやうな互たがひの面かほも辛やツと見分みわけられる程ほどになつた。 誰だれだつたか、
「トキニ「大長靴おほながぐつ」は何處どこへ行いつたらう?」
「大長靴おほながぐつ」と渾名あだなを呼よばれたのは、小造こづくりの癖くせに、大おほきな水浸みづしまずの長靴ながぐつを穿はいてゐる士官しくわんだつた。
「只たツた今いま此處こゝに居ゐたツけが…大長靴おほながぐつ、何處どこに居ゐる?」
皆みな笑わらひ出だした。 その笑聲わらひごゑがまだ止やまぬ中うちに、暗黑くらやみから憤おこつたやうな尖とがり聲ごゑで、
「止よせ! 馬鹿ばかな! 大長靴おほながぐつは今朝けさ偵察ていさつに出でて討やられたのを知しらんか?」
「そんな筈はずはない。 只たツた今いま此處こゝに居ゐたンだもの。」
「そんな氣きがしたンだ。 おい、湯沸ゆわかしの側そばの先生せんせい、レモンを一ひとつ切きつて呉くれんか。」
「レモンは悉みなになつた。」
「そりや不都合ふつがふだ」、と忌々いま〳〵しさうに、情なさけなさゝうに、殆ほとんど泣なかぬばかりに、小聲こごゑに言いつて、「レモンを樂たのしみにして來きたンだのに。」
例れいのが又また冴さえぬ聲こゑで締しまりなく笑わらひ出だしたが、もう誰だれも止とめる者ものもなかつた。 が、直ぢきに笑わらひ止やんで、更さらに又またフゝと笑わらつて——と、默だまると、誰だれだつたか、
「明日あすは攻擊こうげきか。」
すると、幾人いくたりかの聲こゑで、忌々いま〳〵しさうに叱しかり付つけた、
「止よせ、そんな話はなしは! 攻擊こうげきも糞くそも有あるもんか!」
「だつて君逹きみたちだつて知しらん事ことはあるまい…」
「止よせツてツたら、止よせ! 他ほかに話はなしが無ないぢや有あるまいし。 何なんだ、そんな事こと!」
入日いりひの影かげは消きえた。 雨雲あまぐもも浮うき上あがつて、何處どことなく明あかるくなり、人ひとの面かほも皆みな見覺みおぼえのある面かほになつた。 今迄いまゝで周圍まはりをグル〳〵廻まはつて居ゐた男をとこも落着おちついて、其處そこの椅子いすへ腰こしを卸おろして、
「今いまごろ國くにぢや如何どんなだらう?」
誰だれに言いふともなく言いつたのだが、其聲そのこゑに何なにか面目めんぼくなさゝうに微笑につこりした響ひゞきがあつた。
と、又また薄氣味惡うすきみわるく合點がてんの行ゆかぬ光景くわうけいになつて、其處そこらの物ものが悉こと〴〵く變へんに見みえるから、皆みな堪たまらなく夢中むちうになつて、一度どにコツプを推除おしのけ、互たがひの肩かた、腕うで、膝ひざに觸さはり合あつて、饒舌しやべり出だし、喚わめき初はじめ、暫しばらく紛紛ごたごたしてゐたが、ふと又また口くちを噤つぐむで了しまつた。 變へんな光景やうすは矢張やツぱり變へんでならぬ。
「國くにぢやア?」と誰だれだか暗黑くらやみから喚わめいた。 國くにの噂うはさが始はじまると、ハツトして、忌々いま〳〵しくもなるし、胸むねもわく〳〵するので、聲こゑまでが皺嗄しやがれた顫ふるへ聲ごゑになる。 で、饒舌しやべり出だしたが、時々とき〴〵言葉ことばに差支さしつかへる。 もう國言葉くにことばも忘わすれてゐるやうで。 「國くにぢやア?國くにとは何なんだ? 國くにが何處どこかに有あるのか? 人ひとの物ものを言いつてる中うちに口くちを出だすな。 出だすと、打發ぶツぱなすぞ。 僕ぼくだつて、國くにに居ゐる時分じぶんにや、毎日まいにち湯ゆを沐つかつたもんだ——宜よろしいか、湯槽ゆぶねに湯ゆを入いれて——湯ゆを一杯ぱい入いれて沐つかつたもんだ。 ところが今いまぢや毎日まいにちは身體からだも拭ふかんから、頭あたまに雲脂ふけが溜たまる。 雲脂ふけが溜たまつて、結痂かさぶたのやうな物ものが出來できて、身體中からだぢう何なんだか這はふやうで、むづ痒がゆくツて〳〵…僕ぼかあ垢あかで氣狂きちがひになりさうだ。 それだのに君きみは國くにの噂うはさを始はじめたな? 僕ぼくはもう畜生ちくしやうだ、自分じぶんながら愛想あいそが盡つきる、自分じぶんとは思おもへん位くらゐだ。 人間にんげんも斯かうなると、もう死しぬのも其樣そんなに惧おそろしくなくなる。 それに君逹きみたちが擊出うちだす榴霰弾りうさんだんで頭あたまが割われさうになるンだ、——頭あたまが。 何處どこへ向むけて擊うつたつて、皆みんな僕ぼくの頭あたまに當あたるンだから。 それだのに君きみは國くにの噂うはさを始はじめたな? 國くにとは何なんだ? 矢張やツぱり町まちが有あつたり、家うちが有あつたり、人ひとが居ゐたりするンだらう? 僕ぼくはもう戸外おもてへ出でるのも御免ごめんだ。 見みつともない! 此處ここに湯沸ゆわかしが有あるけど、湯沸ゆわかしを見みるのも極きまりが惡わるい、——湯沸ゆわかしを見みるのも。」
例れいのが又また笑わらひ出だした。 誰だれだか大聲おほごゑに、
「糞くそツ! 僕ぼかあ國くにへ歸かへる。」
「君きみは軍人ぐんじんの本分ほんぶんを忘わすれたな? …」
「國くにへ歸かへる? おい〳〵、此處こゝに國くにへ歸かへりたい者ものが一人ひとり出來できたぞ。」
皆みなドット笑わらつた。 不氣味ぶきびな叫聲さけびごゑも聞きこえたが——又また皆みな口くちを噤つぐむで了しまつた。 矢張やツぱり變へんでならない。 私わたしばかりぢやない、幾人いくたり居ゐたか知しらないが、其塲そのばに居合ゐあはした者ものが皆みなさう感かんじた。 その變へんな氣勢けはひが、薄暗うすぐらい奇怪きくわいな野のから逼せまつて來くる、岩いはの挟間はざまに置忘おきわすられて、死しに瀕ひんした者ものが有あるかも知しれぬ、陰々いん〳〵と眞黑まつくろな谷間たにまからも立騰たちのぼる、見みも及およばぬ怪あやしの空そらからも降おりる。 皆みな惧おそろしさに生いきた空そらはなく、默だまつて火ひの消きえた湯沸ゆわかしを圍かこむで立たつてゐたが、頭あたまの上うへには漫々まん〳〵と邊際へんさいもない黑くろい影かげが此世このよを壓あツして、慘さんとして音おともせぬ。 と、忽たちまち、ツイ間近まぢかの、多分たぶんは聯隊長れんたいちやうの宿舎しゆくしやあたりと思おもはれる處ところで、軍樂ぐんがくの彈奏だんそうが始はじまつて、無性むしやうに浮ういた高調子たかてうしの物ものの音色ねいろが夜よるの寂寞せきばくを破やぶつて、火花ひばなのやうにパツと起おこる。 餘あまり高過たかすぎ、餘あまり愉快過ゆくわいすぎる程ほどの急きふな亂調子らんてうしで、無性むしやうに競きそひ立たつて浮うかれてゐる。 大方おほかた彈奏者だんそうしやにも聽手きゝてにも、矢張やツぱり吾々われ〳〵同樣どうやうに、漫々まん〳〵と邊際へんさいもない黑くろい影かげの此世このよを壓あつするのが見みえるのだらう。
そのオーケストラの中なかで喇叭らツぱを吹ふいてゐる者ものだけは、正まさしく自分じぶんに、自分じぶんの腦なうに、耳みゝに、もうこの邊際へんさいもない無言むごんの影かげを宿やどしてゐるやうに思おもはれる。 險けはしい破やぶれたやうな喇叭らツぱの音おとが、駆巡かけめぐり、躍上をどりあがり、餘よの音おとを離はなれて何處いづくともなく、惧おそろしさに戰おのゝき〳〵、伴ともなふ物ものもなく獨ひとり狂くるつて行ゆく。 他ほかの樂器がくきの音色ねいろは此この喇叭らツぱの音おとを顧かへりみて驚おどろいたやうに、蹶つまづきつ、倒たふれつ、起おきつ、しどろもどろに見みともなく散ちつて行ゆく。 それが餘あまり高過たかすぎ、餘あまり愉快過ゆくわいすぎる程ほどの調子てうしで、これでは餘あまり眞闇黑まつくらがりの谷間たにまにも接近せつきんし過すぎる、——岩いはの狭間はざまに置忘おきわすられて死しに瀕ひんした者ものが有あるかも知しれぬのに。
私逹わたしたちは久しばらく火ひの消きえた湯沸ゆわかしの周圍まはりに立たつて、默だまつてゐた。
(斷篇第五)
…もう眠ねむつてゐたら、ドクトルが窃そツと突つゝいて覺おこすから、私わたしは目めを覺さますが否いな、呀あツといつて跳起はねおきた。 誰だれでも覺おこされると、斯かう聲こゑを立たてたものだつた。 で、天幕テントの外そとへ駈出かけださうとする私わたしの手てを、ドクトルは確しかと執とつて、而そして謝罪わびをいふ。
「唐突だしぬけに覺おこして濟すみませんでした。 お睡ねむからうとは思おもつたが…」
「何なにしても五晝夜ちうやになるンですもの…」と、私わたしは言いつたが、半分はんぶんは夢ゆめで、其儘そのまゝ又また昏々うと〳〵となつた。 久しばらく眠ねてゐたやうだつたが、ドクトルが私わたしの橫腹よこはらや足あしを窃そつと突つゝき〳〵又また話はなし出だす聲こゑが耳みゝに入はいる。
「しかし止やむを得えんので。 貴方あなたもお辛つらからうが、實際じつさい止やむを得えんので。 どうも私わたしにや……安閑あんかんとして居をれん。 どうも私わたしにやまだ負傷者ふしやうしやが取殘とりのこしてあるやうに思おもはれて…」
「負傷者ふしやうしやとは? 今日けふ一日ンち收容しうようしてゐたぢやないですか? 私わたしを覺おこさんだツて好よさゝうなものだ。 餘あんまり酷ひどい! 私わたしは五晝夜ちうやも眠ねなかつたのだ。」
「まあ、然さう憤おこつたものでない」、とドクトルは口くちの中うちで言いつて、無器用ぶきような手附てつきで私わたしの頭あたまへ帽ばうを冠かぶせてから、「皆みんな寐ね込こんで了しまつてゝ、幾いくら覺おこしても、起おきんのですもの。 機關車きくわんしやの車輛しやりやうが七臺だい用意よういしてあるのだが、乗のつて行手ゆきてがない。 そりや私わたしも察さつしる…が、何卒どうぞ、まあ、行いつて下ください。 皆みんな寐ね込こんで了しまつてゝ、如何どうしても行いかうと言いはん。 私わたしだってコクリとなりさうで仕方しかたがないのだ。 何日いつ寢ねたつけか、もう覺おぼえがない位くらゐのもので、そろ〳〵幻覺げんかくが始はじまりさうな氣きがする。 まあ、寢臺ねだいをお降おりなさい、片かた一方ぱうの足あしから。 そう〳〵…」
ドクトルは蒼褪あをざめた顏かほをしてふら〳〵してゐる。 一寸ちよツとでも下したに居ゐたら、其儘そのまゝ何なん晝夜ちうやも打通ぶツとほしに寢ねかねない樣子やうすだ。 私わたしも足あしに他愛たあいがない。 と、鼻はなの先さきに眞黑まつくろな物ものが一列れつ見みえる。 それが餘あまり突然とつぜんで、意外いぐわいで、地ちから湧わいたやうだつたから、何なんでも歩あるきながら昏々うと〳〵してゐたに違ちがひないが、その眞黑まつくろな物ものは汽車きしやだつた。 暗くらくて能よくは見みえなかつたが、其その側そばをノソリ〳〵と默だまつて彷徨うろついてゐる者ものがある。 機關車きくわんしやにも車輛しやりやうにも燈火あかりが點ついてゐなかつた。 唯たゞ蓋ふたをした火口ほぐちから朦朧ぼんやりした火影ほかげが薄赤うすあかく線路せんろへ落おちてゐたのみで。
「何なんですか、これは?」と私わたしは逡巡しりごみをした。
「汽車きしやで行ゆくのです、汽車きしやで。 今いまの話はなしをもう忘わすれましたか?」とドクトルがいふ。
寒さむい晚ばんでドクトルは震ふるへてゐる。 私わたしもそれを見みると、身體中からだぢうを擽くすぐられるやうな氣持きもちで、矢張やツぱりガタガタ震ふるへる。
「酷ひどいなあ!私わたしを見立みたつて連つれて行ゆくのは酷ひどい」、と私わたしは大聲おほごゑにいふと、
「靜しづかに、靜しづかに」、とドクトルは私わたしの腕うでを抑おさへた。
誰だれだか暗黑くらやみから、
「此この鹽梅あんばいぢや有ありツ丈たけの砲はうで一齋せい射擊しやげきをやつたつて、皆みんなビクともしないな。 敵てきも矢張やツぱり寢込ねこんでゐるだらうて。 今いまなら側そばへ行いつて片端かたツぱしから引括ひツくゝれる。 己おれは今いま哨兵せうへいの側そばを通とほつて來きたのだが、先生せんせい一寸ちよツと人ひとの面かほを見みたばかりで、何なんとも言いはん。 凝然ぢツとしてゐた。 屹度きツと矢張やツぱり眠ねてゐたんだらう。 能よくつんのめらないで居ゐたものさ。」