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血笑記

Chapter 8: (斷篇第五)
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About This Book

A narrator describes a weary column of soldiers marching under unbearable heat toward an unknown destination, where exhaustion and sunstroke produce delirium, grotesque hallucinations (including visions of horse heads and ghostlike bodies), and a slow unravelling of bodily and mental control; intercut with sudden recollections of a domestic interior and a brother, the account shifts between close, claustrophobic sensory detail and panoramic scenes of a deranged, silent procession, culminating in abrupt sounds of battle that temporarily restore clarity and collective urgency.

戰地せんちさ」、と高笑たかわらひしてゐたのがこたへて、さらまたわらしたが、えぬこえで、うふ〳〵と秩序だらしなくわらところは、なにかゞ咽喉のどつまつたやうだ。

なに可笑をかしいンだ?」と、だれだつたか、向腹むかはらてゝ、「こら、さんか!」

 すると、わらつてゐたのがまたさら咽喉のどものつまつたやうに、フゝとわらつて、さうして大人おとなしくだまつてしまつた。 段々だん〴〵薄暗うすぐらくなつてて、雨雲あまぐもあつし、きいろく透徹すきとほるやうなたがひかほやツ見分みわけられるほどになつた。 だれだつたか、

「トキニ「大長靴おほながぐつ」は何處どこつたらう?」

大長靴おほながぐつ」と渾名あだなばれたのは、小造こづくりのくせに、おほきな水浸みづしまずの長靴ながぐつ穿いてゐる士官しくわんだつた。

たツいま此處こゝたツけが…大長靴おほながぐつ何處どこる?」

 みなわらした。 その笑聲わらひごゑがまだまぬうちに、暗黑くらやみからおこつたやうなとがごゑで、

せ! 馬鹿ばかな! 大長靴おほながぐつ今朝けさ偵察ていさつられたのをらんか?」

「そんなはずはない。 たツいま此處こゝたンだもの。」

「そんながしたンだ。 おい、湯沸ゆわかしそば先生せんせい、レモンをひとつてれんか。」

ぼくにも! ぼくにも!」

「レモンはみなになつた。」

「そりや不都合ふつがふだ」、と忌々いま〳〵しさうに、なさけなさゝうに、ほとんかぬばかりに、小聲こごゑつて、「レモンをたのしみにしてたンだのに。」

 れいのがまたえぬこゑしまりなくわらしたが、もうだれめるものもなかつた。 が、きにわらんで、さらまたフゝとわらつて——と、だまると、だれだつたか、

明日あす攻擊こうげきか。」

 すると、幾人いくたりかのこゑで、忌々いま〳〵しさうにしかた、

せ、そんなはなしは! 攻擊こうげきくそるもんか!」

「だつて君逹きみたちだつてらんことはあるまい…」

せツてツたら、せ! ほかはなしいぢやるまいし。 なんだ、そんなこと!」

 入日いりひかげえた。 雨雲あまぐもあがつて、何處どことなくあかるくなり、ひとかほみな見覺みおぼえのあるかほになつた。 今迄いまゝで周圍まはりをグル〳〵まはつてをとこ落着おちついて、其處そこ椅子いすこしおろして、

いまごろくにぢや如何どんなだらう?」

 だれふともなくつたのだが、其聲そのこゑなにめんぼくなさゝうに微笑につこりしたひゞきがあつた。

 と、また薄氣味惡うすきみわる合點がてんかぬ光景くわうけいになつて、其處そこらのものこと〴〵へんえるから、みなたまらなく夢中むちうになつて、一にコツプを推除おしのけ、たがひかたうでひざさはつて、饒舌しやべし、わめはじめ、しばら紛紛ごたごたしてゐたが、ふとまたくちつぐむでしまつた。 へん光景やうす矢張やツぱりへんでならぬ。

くにぢやア?」とだれだか暗黑くらやみからわめいた。 くにうはさはじまると、ハツトして、忌々いま〳〵しくもなるし、むねもわく〳〵するので、こゑまでが皺嗄しやがれたふるごゑになる。 で、饒舌しやべしたが、時々とき〴〵言葉ことば差支さしつかへる。 もう國言葉くにことばわすれてゐるやうで。 「くにぢやア?くにとはなんだ? くに何處どこかにるのか? ひとものつてるうちくちすな。 すと、打發ぶツぱなすぞ。 ぼくだつて、くに時分じぶんにや、毎日まいにちつかつたもんだ——よろしいか、湯槽ゆぶねれて——を一ぱいれてつかつたもんだ。 ところがいまぢや毎日まいにち身體からだかんから、あたま雲脂ふけたまる。 雲脂ふけたまつて、結痂かさぶたのやうなもの出來できて、身體中からだぢうなんだかふやうで、むづがゆくツて〳〵…ぼかあか氣狂きちがひになりさうだ。 それだのにきみくにうはさはじめたな? ぼくはもう畜生ちくしやうだ、自分じぶんながら愛想あいそきる、自分じぶんとはおもへんくらゐだ。 人間にんげんうなると、もうぬのも其樣そんなにおそろしくなくなる。 それに君逹きみたち擊出うちだ榴霰弾りうさんだんあたまれさうになるンだ、——あたまが。 何處どこけてつたつて、みんなぼくあたまあたるンだから。 それだのにきみくにうはさはじめたな? くにとはなんだ? 矢張やツぱりまちつたり、うちつたり、ひとたりするンだらう? ぼくはもう戸外おもてるのも御免ごめんだ。 つともない! 此處ここ湯沸ゆわかしるけど、湯沸ゆわかしるのもきまりがわるい、——湯沸ゆわかしるのも。」

 れいのがまたわらした。 だれだか大聲おほごゑに、

くそツ! ぼかくにかへる。」

くにかへる?」

きみ軍人ぐんじん本分ほんぶんわすれたな? …」

くにかへる? おい〳〵、此處こゝくにかへりたいもの一人ひとり出來できたぞ。」

 みなドットわらつた。 不氣味ぶきび叫聲さけびごゑきこえたが——またみなくちつぐむでしまつた。 矢張やツぱりへんでならない。 わたしばかりぢやない、幾人いくたりたからないが、其塲そのば居合ゐあはしたものみなさうかんじた。 そのへん氣勢けはひが、薄暗うすぐら奇怪きくわいからせまつてる、いは挟間はざま置忘おきわすられて、ひんしたものるかもれぬ、陰々いん〳〵眞黑まつくろ谷間たにまからも立騰たちのぼる、およばぬあやしのそらからもりる。 みなおそろしさにきたそらはなく、だまつてえた湯沸ゆわかしかこむでつてゐたが、あたまうへには漫々まん〳〵邊際へんさいもないくろかげ此世このよあツして、さんとしておともせぬ。 と、たちまち、ツイ間近まぢかの、多分たぶん聯隊長れんたいちやう宿舎しゆくしやあたりとおもはれるところで、軍樂ぐんがく彈奏だんそうはじまつて、無性むしやういた高調子たかてうしもの音色ねいろよる寂寞せきばくやぶつて、火花ひばなのやうにパツとおこる。 あま高過たかすぎ、あま愉快過ゆくわいすぎるほどきふ亂調子らんてうしで、無性むしやうきそつてかれてゐる。 大方おほかた彈奏者だんそうしやにも聽手きゝてにも、矢張やツぱり吾々われ〳〵同樣どうやうに、漫々まん〳〵邊際へんさいもないくろかげ此世このよあつするのがえるのだらう。

 そのオーケストラのなか喇叭らツぱいてゐるものだけは、まさしく自分じぶんに、自分じぶんなうに、みゝに、もうこの邊際へんさいもない無言むごんかげ宿やどしてゐるやうにおもはれる。 けはしいやぶれたやうな喇叭らツぱおとが、駆巡かけめぐり、躍上をどりあがり、おとはなれて何處いづくともなく、おそろしさにおのゝき〳〵、ともなものもなくひとくるつてく。 ほか樂器がくき音色ねいろこの喇叭らツぱおとかへりみておどろいたやうに、つまづきつ、たふれつ、きつ、しどろもどろにともなくつてく。 それがあま高過たかすぎ、あま愉快過ゆくわいすぎるほど調子てうしで、これではあま眞闇黑まつくらがり谷間たにまにも接近せつきんぎる、——いは狭間はざま置忘おきわすられてひんものるかもれぬのに。

 私逹わたしたちしばらくえた湯沸ゆわかし周圍まはりつて、だまつてゐた。

(斷篇第五)

 …もうねむつてゐたら、ドクトルがそツつゝいておこすから、わたしさますがいなあツといつて跳起はねおきた。 だれでもおこされると、こゑてたものだつた。 で、天幕テントそと駈出かけださうとするわたしを、ドクトルはしかつて、して謝罪わびをいふ。

唐突だしぬけおこしてすみませんでした。 おねむからうとはおもつたが…」

なにしても五晝夜ちうやになるンですもの…」と、わたしつたが、半分はんぶんゆめで、其儘そのまゝまた昏々うと〳〵となつた。 しばらくてゐたやうだつたが、ドクトルがわたし橫腹よこはらあしそつつゝき〳〵またはなこゑみゝはいる。

「しかしむをんので。 貴方あなたもおつらからうが、實際じつさいむをんので。 どうもわたしにや……安閑あんかんとしてれん。 どうもわたしにやまだ負傷者ふしやうしや取殘とりのこしてあるやうにおもはれて…」

負傷者ふしやうしやとは? 今日けふンち收容しうようしてゐたぢやないですか? わたしおこさんだツてさゝうなものだ。 あんまひどい! わたしは五晝夜ちうやなかつたのだ。」

「まあ、おこつたものでない」、とドクトルはくちうちつて、無器用ぶきよう手附てつきわたしあたまばうかぶせてから、「みんなんでしまつてゝ、いくおこしても、きんのですもの。 機關車きくわんしや車輛しやりやうが七だい用意よういしてあるのだが、つて行手ゆきてがない。 そりやわたしさつしる…が、何卒どうぞ、まあ、つてください。 みんなんでしまつてゝ、如何どうしてもかうとはん。 わたしだってコクリとなりさうで仕方しかたがないのだ。 何日いつたつけか、もうおぼえがないくらゐのもので、そろ〳〵幻覺げんかくはじまりさうながする。 まあ、寢臺ねだいをおりなさい、かたぱうあしから。 そう〳〵…」

 ドクトルは蒼褪あをざめたかほをしてふら〳〵してゐる。 一寸ちよツとでもしたたら、其儘そのまゝなん晝夜ちうや打通ぶツとほしにかねない樣子やうすだ。 わたしあし他愛たあいがない。 と、はなさき眞黑まつくろものが一れつえる。 それがあま突然とつぜんで、意外いぐわいで、からいたやうだつたから、なんでもあるきながら昏々うと〳〵してゐたにちがひないが、その眞黑まつくろもの汽車きしやだつた。 くらくてくはえなかつたが、そのそばをノソリ〳〵とだまつて彷徨うろついてゐるものがある。 機關車きくわんしやにも車輛しやりやうにも燈火あかりいてゐなかつた。 たゞふたをした火口ほぐちから朦朧ぼんやりした火影ほかげ薄赤うすあか線路せんろちてゐたのみで。

なんですか、これは?」とわたし逡巡しりごみをした。

汽車きしやくのです、汽車きしやで。 いまはなしをもうわすれましたか?」とドクトルがいふ。

 さむばんでドクトルはふるへてゐる。 わたしもそれをると、身體中からだぢうくすぐられるやうな氣持きもちで、矢張やツぱりガタガタふるへる。

ひどいなあ!わたし見立みたつてれてくのはひどい」、とわたし大聲おほごゑにいふと、

しづかに、しづかに」、とドクトルはわたしうでおさへた。

 だれだか暗黑くらやみから、

この鹽梅あんばいぢやありたけはうで一せい射擊しやげきをやつたつて、みんなビクともしないな。 てき矢張やツぱり寢込ねこんでゐるだらうて。 いまならそばつて片端かたツぱしから引括ひツくゝれる。 おれいま哨兵せうへいそばとほつてたのだが、先生せんせい一寸ちよツとひとかほたばかりで、なんともはん。 凝然ぢツとしてゐた。 屹度きツと矢張やツぱりてゐたんだらう。 くつんのめらないでたものさ。」