或者あるものは自分じぶんも這はひ寄より、或者あるものはふら〳〵として倒こけては起上おきあがり〳〵來くる。 中なかにも一人ひとり殆ほとんど走はしつて來きたのがあつた。 と、見みると、面かほはひしやげて、一ひとつ殘のこつた眼めばかりが物凄ものすごいすさまじい光ひかりを湛たゞへ湯上ゆあがりの人ひとのやうに、殆ほとんど一糸しをも着つけてゐない。 私わたしを衝退つきのけて、一ひとつ眼めでドクトルを探さがし出だし、呀あツといふ間まに無手むずと左手ゆんでに胸倉むなぐらを取とつて、
「うぬ…者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」
と、かう一ひとつ喚わめいて置おいて、それから小突こづきながら、悠々ゆツたりと、其その癖くせ口汚くちぎたなく毒どくづく。
「貴樣きさまの面つらをグワンとやるのだ。 このド畜生ちくしやうめ!」
ドクトルは振放ふりはなして、ヤツと立向たちむかひ、息いきを塞つまらせ〳〵罵のゝしつた。
「野郞やらう、軍法ぐんぱふ會議くわいぎに掛かけるぞ! 監倉かんさうだぞ! 人ひとの職務しよくむの邪魔じやましやがつて… この野郞やらう! この畜生ちくしやう!」
中なかへ入はいつて引分ひきわけたが、引分ひきわけられても兵へいは尙なほ罵のゝしり止やまず、久しばらくは唯たゞ、
「こン畜生ちくしやう! 者面しやツつら打曲はりまげるぞ!」
私わたしはもう耐たへられなくなつたから、一服ぷくして休やすまうと、片脇かたわきへ退のいた。 手首てくびの血のりはパサ〳〵に乾かはいて、黑くろ手袋てぶくろを穿はめたやうに、指ゆびもぎこちなく、マッチやシガレットをつい取落とりおとす。 斯やうやく喫のみ出だすと、烟草たばこの烟けむりも平常いつものやうにもなく變へんに見みえて、其その味あぢも全まつたく異かはつてゐる。 こんな烟草たばこは後あとにも前さきにも喫のんだ事ことがない。 其その時とき學生がくせいの看護手かんごしゆが側そばへ來きた。 一緒しよに汽車きしやに乗のつて來きた彼あの男をとこだのに、何なんだか數年すねん前ぜんに逢あつた人ひとのやうに思おもはれて、さて何處どこで逢あつたかゞ憶おもひ出だせない。 學生がくせいは直ひたと踵かゞとを地ちに着つけて行進マーチの步調ほてうで步あるいて來きたが、私わたしの身體からだ越ごしに何處どこともなく遠とほくの空そらを眺ながめて、
「これだのに皆みんな寢ねてゐるのだ。」
と何なんだか落着おちつき拂はらつてゐる。 私わたしは自分じぶんの事ことのやうに憤然やつきとなつて、
「だつて、君きみ、十日とをかも獅子しゝのやうに奮鬪ふんとうしたのだもの、其その筈はずぢやないか?」
「これだのに皆みんな寢ねてゐるのだ。」
と學生がくせいは私わたしの身體からだ越ごしに空そらを眺ながめながら、反覆くりかへしていつて、さて私わたしの面かほを覗のぞき込こむやうにして、人差指ひとさしゆびを鼻はなの先さきで揮ふり〳〵、矢張やツぱり膠にべもなく落着おちつき拂はらつた調子てうしで、
「能よく聽きいて置おきなさい、能よく。」
「何なにを?」
學生がくせいは愈々いよ〳〵面かほを覗のぞき込こむで、理由わけありさうに人差指ひとさしゆびを揮ふり〳〵、辻褄つじつまの合あつた話はなしの積つもりらしく、矢張やツぱり一ひとつ事ことをいふ。
「能よく聽きいて置おきなさい、能よく。 皆みんなにも然さう言いつて貰もらひたいのだ。」
佶きツと私わたしを見据みすゑたまゝ、も一度ど人差指ひとさしゆびを揮ふつて見みせて、ピストルを取出とりだすや、ドンと一發ぱつ我われと我わが顳顬こめかみへ擊込うちこんだ。 けれども私わたしは少すこしも驚おどろかず、平氣へいきでシガレットを左ひだりの手てに持易もちかへて、指ゆびで其その創口きずぐちを觸さはつて見みて、汽車きしやの在ある方はうへ行つた。
「あの學生がくせいはピストルで自殺やりましたぞ。尤もつともまだ息いきはあるやうだが…」
と私わたしがドクトルにいふと、ドクトルは私われと我わが頭あたまに武者振むしやぶり附ついて、唸うなるやうに、
「馬鹿ばかめ!… もう汽車きしやは一杯ぱいだ。 彼處あすこにも今いまに自殺やりさうなのが一人ひとり居ゐるのだ。 私わたしだつて然さうだ」、と忌々いま〳〵しさうに叱しかるやうに言いつて、「自殺やりかねない。 全まつたく! だから、貴方あなたは——步あるいて行いつて貰もらひませう。 もう載のせる餘裕せきがない。其それが不服ふゝくなら、吿發こくはつなさい。」
と喚わめき〳〵餘所よそを向むいて了しまつた。 今いまに自殺やりさうだといふ男をとこの側そばへ行いつて見みたら、それは看護手かんごしゆで矢張やツぱり學生がくせい出でらしかつた。 立たちながら車輛しやりやうの羽目はめへ額ひたへを押當おしあてゝ、肩かたで浪なみを打うたせて泣ないてゐる。
「泣なくな〳〵」、と私わたしは其その浪なみを打うつ肩かたへ手てを遣やつた。
が、振向ふりむきもせず、返答へんたふもせず、泣ないてゐる。 看みると、頸窩ぼんのくぼが自殺じさつした學生がくせいのそれのやうに若々わか〳〵しく、矢張やツぱり無氣味ぶきびだ。 酔漢よひどれが汚むさい物ものでも吐はいてるやうに、意久地いくぢなく兩足りやうあしを踏擴ふみはだけてゐたが、首筋くびすぢの血ちに塗まみれてゐたのは大方おほかた手てで抑おさへたからだらう。
「泣なくなと言いへば!」と私わたしは癇癪聲かんしやくごゑを振立ふりたてた。
と、其その看護手かんごしゆは蹌踉よろ〳〵と車輛しやりやうを離はなれて、投首なげくびして、老人らうじんのやうに背せを圓まるくし、私逹わたしたちを棄すてゝ置おいて、何處どこともなく闇黑くらやみの中うちへ行ゆく。 何故なぜだか、私わたしも其その跟あとに隨ついて、汽車きしやを後あとにして、何處どこを目的めあてともなく、久しばらく二人ふたりで步あるいて行いつた。看護手かんごしゆは泣ないてゐるらしかつたが、私わたしも何なんだか佗わびしくなつて、泣出なきだし度たいやうな氣持きもちがする。
「一寸ちよツと待まて!」と大聲おほごゑに言いつて私わたしは立止たちどまつた。
が、看護手かんごしゆは背せを圓まるくして、重おもたさうな足取あしどりで行ゆく。 肩かたを窄すぼめて足あしを引摺ひきずり〳〵行ゆく姿すがたは、宛然さながらの老人らうじんだ。 軈やがて明あかるく見みえても照てりもせぬ薄紅うすあかい靄もやの中うちに其その姿すがたは消きえて、私わたし一人ひとりになつて了しまつた。
左手ゆんでに遠とほく朦朧もうろうとして一連れんの火影ほかげが流ながれるやうに過すぎて行ゆく。 汽車きしやが戾もどつて行ゆくのだ。 私わたしは死しんだ者もの死しにかゝつた者ものの中なかに一人ひとり取殘とりのこされたのだが、死しんだ者もの死しにかゝつた者もので收容しうよう漏もれになつた者ものはまだ何位どのくらゐあつたか知しれぬ。 近ちかくは寂然しんとしてゴソリともいはぬけれど、離はなれては野のに魂たましひの有あるやうにザワ〳〵と蠢うごめく——と、さ、一人ひとりだから思おもはれたのかも知しれぬ。 兎とも角かくも呻吟しんぎんの聲こゑは絕たえぬ。 子供こどもの泣なくやうな、夥多あまたの子犬こいぬが棄すてられて凍こゞえ死しなむとして啼なくやうな、繊細かぼそい、便たよりない聲こゑで地上ちじやう一面めんに擴ひろがつて、之これを聽きいて居ゐると、銳するどい〳〵際限はてしもない氷こほりの針はりを惱なうに突徹つきとほされて、そろり〳〵と拔差ぬきさしされるやうな氣持きもちがして…。
(斷篇第六)
…それは味方みかたであつた。 最後さいごの一ケ月げつは命令めいれいも計畫けいくわくも齟齬くひちがひ、敵てきも味方みかたも行動かうどうが紛もつれ〳〵て妙めうな工合ぐあひであつたが、然さういふ中なかでも敵襲てきしふのある事ことは豫期よきしてゐた。 敵てきといふのは即すなはち第だい四軍團ぐんだんである。 で、味方みかたは既すでに攻擊こうげき準備じゆんびを終をはつた時とき、誰たれだか雙眼鏡さうがんきやうで見みると、味方みかたの制服せいふくを着つけてゐるのが判然はつきり見みえると云いひ出だして、十分後ぷんごには其その疑うたがひが霽はれ、愈愈いよ〳〵味方みかたに違ちがひないとなると、皆みなホツとして嬉うれしく思おもつた。 先方さきもそれと心附こゝろづいた體ていで、悠々いう〳〵と近ちかづいて來くる。 その落着おちついた處ところに、相手あひても矢張やツぱり思掛おもひがけぬ邂逅であひを喜よろこんで微笑びせうしてゐる俤おもかげが浮ういて見みえる。
で、敵てきが發砲はつぱうした時ときには、何なんの事ことだか暫しばらくは合點がてんが行ゆかずに、榴霰彈りうさんだんや銃丸じうぐわんが霰あられの如ごとく降ふり注そゝぎ瞬またゝく間まに死傷者ししやうしやの山やまを築きづく中なかで、私逹わたしたちは矢張やツぱり莞爾莞爾にこ〳〵してゐた。 誰だれだか敵てきだと叫さけぶ。 敵てきと聞きくと、——私わたしは能よく覺おぼえてゐるが、——成程なるほど相手あひては敵てきで制服せいふくも敵てきの制服せいふく、味方みかたのとは違ちがふと、皆みな氣きが附ついた。 で、直すぐさま應戰おうせんする。 この變へんな戰鬪せんとうが始はじまつてから、十分ぷんも經たつた頃ころであらう、私わたしは兩足りやうあしを捥もがれて、氣きが附ついた時ときには、もう病舎びやうしやに居ゐて、手術しゆじゆつも濟すむだ後のちであつた。
戰鬪せんとうの結果けつくわを人ひとに聽きいて見みると、皆みな取留とりとめぬ氣休きやすめばかり言いつてゐるが、察さつする所ところ敗北はいぼくしたに違ちがひない。 それにしても、斯かうなれば私わたしはもう後送こうそうされる、兎とも角かくも命いのちを繫つなぎ留とめた、壽命じゆみやうの有あらむ限かぎり長生ながいきが出來できる、と思おもふと、足あし無なしの身みにも嬉うれしかつた。 が、一週後しうごに漸やうやく詳くはしい事ことが分わかると、又また胡亂うろんになつて、曾かつて覺おぼえぬ奇異きいな恐怖きようふを更さらに心こゝろに懷いだくやうになつた。
矢張やツぱり味方みかたであつたらしい。 味方みかたが味方みかたの砲はうで擊出うちだした味方みかたの破裂彈はれつだんで私わたしは足あしを捥もがれたのだ。 如何どうして此樣こんな間違まちがひをしたのか、誰だれにも分わからぬ。 何なんだか妙めうな事ことになつて如何どうしてか目めが眩くらむで、同おなじ軍ぐんに屬ぞくする二個この聯隊れんたいが一ウエルストを隔へだてゝ相對あひたいして、相手あひては敵てきと十分ぶんに思込おもひこみながら、丸まる一時間じかんも同志打どしうちしてゐたのだ。 皆みな成なるたけ其その噂うはさをするのを避さけて、すれば曖昧あいまいの事ことばかり言いふ。 何なによりも不思議ふしぎなのは、その噂うはさをしても、大抵たいていは今いまだに同志打どしうちとは思おもつてゐない。 いや、寧むしろ同志打どしうちは認みとめる、唯たゞ最初さいしよから同志打どしうちしたのでない、最初さいしよは實際じつさい敵てきを相手あひてにしてゐたのだが、全戰線ぜんせん〳〵の紛糾こぐらかつた紛まぎれに、其その敵てきは何處どこへか消きえて、我々われ〳〵は遂つひに味方みかたの彈丸たまを被かぶつたのだ、と思おもつてゐる。 中なかには隱かくさず然さうと明言めいげんして、事實じゞつだと思おもひ、事實じゞつらしいと思おもふ程ほどの事ことを列ならべて、具つぶさに其その次第しだいを語かたる者ものもある。 私わたしも如何どうして此樣こんな間違まちがひが起おこつたのか、今いまになつてもまだ確乎しかとした事ことが言いへぬ。 最初さいしよ見みた時ときには我軍わがぐんの赤線あかすぢ入いりの軍服ぐんぷくに紛まぎれなかつたのが、其後そのゝち見みたら確たしかに黃筋きすぢの敵てきの軍服ぐんぷくになつてゐたのだ。 唯たゞ如何どうしてか間まもなく皆みな此この間違まちがひを忘わすれて、眞しんに敵てきと鬪たゝかつたやうに思込おもひこんで了しまつたから、僞いつはる氣きもなく其その通とほりを通信つうしんに書かいて送おくった者ものが多おほい。 それは歸國後きこくごに私わたしも讀よんで知しつてゐる。 で、最初さいしよは此この時とき負傷ふしやうした我々われ〳〵に向むかふと、世間せけんの人ひとの樣子やうすが少すこし妙めうで、何なんとなく他たの負傷者ふしやうしや程ほどに同情どうじやうを寄よせて吳くれぬらしかつたが、其その區別わけへだても直ぢき消きえて了しまつた。 唯たゞ之これに類るゐした事ことが其後そのごも有あつたし、又また實際じつさい敵方てきがたにも某隊ぼうたいと某隊ぼうたいとが夜中やちう同志打どしうちをして殆ほとんど全滅ぜんめつしたといふ事實じゞつも有あつて見みれば、我々われ〳〵も矢張やツぱり間違まちがつて同志打どしうちしたといふに不思議ふしぎはないと思おもふ。