馬具ばぐに入はいつた狼おほかみ
馬うまは拙生せつせいを乗のせて能よく走はしる。 ロシヤ内地ないちに入はいつてから拙生せつせいは騎馬きば旅行りよかうは何どうやら冬季とうきの流行りうかうでないと合點がてんした。 そこで常例じやうれいに從したがつて其その國くにの習慣しふくわんを採用さいようし、單たん馬橇ばそりを求もとめ、ペテスブルヒを目めがけて韋駄天ゐだてん驅がりに進すゝむだ。 イーストランドであつたか、ヂャゲマンランドであつたか、精くはしくは思出おもひだせないが、兎とに角かく寂さびしい森もりの唯たゞ中なかだつたと記憶きおくする。 拙生せつせいは恐おそろしい狼おほかみの嚴冬げんとうの餓うゑに驅かられて、全速力ぜんそくりよくで追おつて來くるのに氣きがついた。 と思おもふ間まに狼おほかみは追着おひついたから、到底たうてい遁のがれる術すべはない。 拙生せつせいは唯たゞ機械的きかいてきに橇そりの中なかに平伏へいふくして、無上むしやうに馬うまを走はしらせた。 ところが間まもなく拙生せつせいの願ねがつた事ことで、而しかも此際このさい到底とても出來できない相談さうだんだと諦あきらめてゐた一事じが起おこつた。 と申まをすは、狼おほかみは拙生せつせいには毫すこしも目めを吳くれず、頭あたまの上うへを跳越はねこして、狂亂きやうらんのやうに馬うまの尻しりに獅嚙付しがみつき、直たゞちに憐あはれむ可べき動物どうぶつの臀部でんぶを搔毟かきむしつて肉にくを貪むさぼり始はじめた。 拙生せつせいは自分じぶん丈だけは安全あんぜん、最早もはや見みつかる氣遣きづかひなしと、窃ひそかに頭あたまを擡もたげて樣子やうすを覗うかがつたが、既すでに狼おほかみが馬うまの腹部ふくぶまで喰込くひこむでゐるのには何なんとも名狀めいじやうし難がたい恐おそろしい心持こゝろもちがした。 頭あたまの方はうまで喰貫くひつらぬいたのは其それから良やゝ少時しばらくの事ことで、時分じぶんは好よしと拙生せつせいは鞭むちの柄えで懸命けんめいに狼おほかみを突ついた。 此この思おもひがけない背面はいめん攻擊こうげきに狼おほかみは膽きもを潰つぶして馬うまの死骸しがいを筒拔つゝぬけ、到頭たうとう馬具ばぐの中なかに四合しつくり篏はまつて了しまつた。 同時どうじに馬うまは摚乎ばたりと倒たふれる。 さあ拙生せつせいは必死ひつしになつて鞭むちを揮ふるひ、打うつわ〳〵。 竟つひに拙生せつせいと狼おほかみは期きせずして恙つゝがなくベテスブルヒに乗込のりこむだ。 や、都人士とじんしの驚おどろいたの驚おどろかないのつて!
野豚のぶたと猪ゐのしゝの話はなし
僥倖げうかうは屢しばしば人間にんげんの錯誤まちがひを正たゞす。 之これに就ついては拙生せつせいに特別とくべつな實例じつれいがある。 拙生せつせいは森もりの奧おくで野豚のぶたの牝牡めすをすを見みつけた。 牝めすは牡をすの直すぐ後あとに跟ついて走はしつて行ゆく。 拙生せつせいの彈丸たまは外それたけれど、唯たゞ前方まへの奴やつが逃去にげさつたばかりで、牝めすは地ちから生はえたやうに、凝ぢつとして立たつてゐる。 事ことの次第しだいを調しらべて見みると、後あとの奴やつは年寄としよりで盲目めくらで、引ひいて步あるいて貰もらふ爲ために息子むすこの尻尾しつぽに促つかまつてゐたのである。 拙生せつせいの丸たまは二疋ひきの間あひだを通貫とほりぬけ、盲豚めくらぶたが啣くはへてゐた其その導みちびきの綱つなを絕たち切きつて了しまつた。 そして案内者あんないしやが一向かう引ひいてくれぬものだから、彼女かのぢよは當然たうぜん默だまつて立止たちとまつてゐた。 そこで拙生せつせいは千切ちぎれた豚ぶたの尻尾しつぽを把とり、年寄としよりの豚ぶたを家うちまで引ひいて歸かへつた。 拙生せつせいに於おいても何なんの面倒めんだうなく、豚ぶたの方はうでも素もとより盲目めくらの事ことであるから拒こばみもせず恐おそれもせず。
野豚のぶたも恐おそろしいが、尙なほ猛惡まうあくで危險きけんなのは猪ゐのしゝである。 其その猪ゐのしゝの一疋ぴきに或日あるひ拙生せつせいは運惡うんわるく森もりの中なかで行當ゆきあたつた。 攻守こうしゆ共ともに武具えものとしては寸鐵すんてつをも帶おびてゐない。 狂くるへる動物どうぶつが拙生せつせいに橫打擊よこなぐりを喫くらはせようと狙ねらつた刹那せつな、拙生せつせいは樫かしの木きの後うしろに姿すがたを匿かくした。 すると先生せんせい外はづしを喫くつて、餘勢よせい直たゞちに止とゞまり難がたく、樫かしの幹みきに牙きばを突通つきとほし、打擊だげきを繰返くりかへす事ことも叶かなはず退しりぞく事こともならず、唯たゞ地團太ぢだんだを踏ふむでゐた。 『占しめた〳〵、拙生せつせいにも量見りやうけんがあるぞ!』と拙生せつせいは矢庭やにはに石いしを拾ひろつて、何どんな事ことがあつても逃にげられぬやう、拙生せつせいが近ちかくの村むらから戾もどる迄まで待まつてゐるやうに、敵てきの牙きばを折釘をりくぎのやうに打曲うちまげた。 それから拙生せつせいは悠然いうぜんと村むらに歸かへり、繩なはと車くるまを借かりて引返ひつかへし、美事みごと先生せんせいを生捕いけどりにして家うちに戾もどつた。
雄鹿をじかと櫻さくらの木きの話はなし
諸君しよくんは獵師れふしの守まもり本尊ほんぞんセント・ハバートと森もりの中なかで彼かれに現あらはれたる角つのと角つのの間あひだに十字架じふじかを立たてた雄鹿をじかの物語ものがたりを定さだめて御承知ごしようちであらう。 それは兎とに角かく拙生せつせいは自みづから目擊もくげきした珍話ちんわを紹介せうかい致いたさう。 或日あるひ悉ことごとく彈丸たまを使盡つかひつくした揚句あげくに、はからずも拙生せつせいの面前めんぜんに立派りつぱな雄鹿をじかが現あらはれた。 恰あたかも拙生せつせいの彈丸たま袋ぶくろを取調とりしらべて其その無一物むいつぶつを承知しようちしてゐるやうに、安心あんしんして拙生せつせいを打目戍うちまもつてゐる。 拙生せつせいは直たゞちに火藥くわやくを込こめ、泥棒どろぼうを捕つかまへて繩なはを綯なふやうに、急いそいで櫻坊さくらんばうを捥もぎ取とり、一掴つかみを丸たまに代かへた。 さて狙ねらひ定さだめて打放うちはなすと、其それが鹿しかの額ひたひ、角つのと角つのとの間あひだに命中めいちうし、彼かれは度膽どぎもを拔ぬかれて蹣跚よろめいたが、其儘そのまゝ疾風しつぷうのやうに走去はしりさつた。 一二年ねんの後のち拙生せつせいは其その森もりで狩かりをしてゐると、角つのと角つのの間あひだに十尺しやく以上いじやうの櫻さくらの木きの生はえた立派りつぱな雄鹿をじかに出會であつた。 拙生せつせいは忽たちまち先年せんねんの冒險ばうけんを想起おもひおこし、これなん先さきに取逃とりにがしたる我わが獲物えものなれ、此處こゝで會あつたが百年目ひやくねんめ、と唯たゞ一發ぱつで打倒うちたふし、一擧きよして腰肉にくと櫻漿チエリーソースに有付ありついた。 木きは能よく繁茂はんもして、櫻坊さくらんばうが鈴實すゞなりになつてゐた。 そして世よの常つねの木この實みよりも遙はるかに味あぢが佳よかつた。
熊くまと狼おほかみの話はなし
日ひの光ひかりと拙生せつせいの火藥くわやくが、ポーランドの森もりの中なかで盡つきて了しまつた。 拙生せつせいは家路いへぢに急いそぐ途みちすがら、恐おそろしい熊くまに跟つけられた。 彼かれは疾走ひたはしつて、大口おほぐちを開あいて、今いまにも拙生せつせいに躍をどり蒐かゝらうとする。 ポッケットの中なかを隈くまなく探さがして見みたが、素もとより火藥くわやくも彈丸たまもない。 唯たゞ大切たいせつの火打石ひうちいしが二個ふたつあるばかり。 進退しんたい谷きはまつて拙生せつせいは其その一個ひとつを力委ちからまかせに怪物くわいぶつの口くちに投込なげこむと、其それが喉のどに下おりた。 苦くるしかつたと見みえて彼かれは一寸ちよいと橫よこを向むいたから、此この機きを利用りようして拙生せつせいは第だい二の火打石ひうちいしを再ふたゝび猛獸まうじうの口くちに投とうじたが、實じつに驚おどろく可べき大成功だいせいこうであつた。 第だい二の火打石ひうちいしは飛込とびこみさま、第だい一の奴やつに胃袋ゐぶくろの中なかで命中めいちうし、直たゞちに火ひを發はつして、熊くまは即座そくざに破裂はれつして了しまつた。 斯かくて事こともなく難なんを免まぬかれたが、いや、思出おもひだしても慄然ぞつととする。 拙生せつせいは再ふたゝび無手むてで熊くまと戰たゝかふ勇氣ゆうきはない。
何どうも何なにかの因緣いんねんと見みえる猛惡まうあく凶暴きようぼうの動物けだものは恰あたかも本能ほんのうによつて其それを承知しようちしてゐるやうに、拙生せつせいが武器えものを持もたぬ時ときに限かぎつて襲おそつて來くる。 此この傳でんで或日あるひ拙生せつせいは見みるから獰惡どうあくな相さうをした狼おほかみに襲おそはれた。 餘あまり急きふで既すでに餘あまり近ちかく來きてゐるから拙生せつせいは唯たゞ機械的きかいてき本能ほんのうに從したがひ、拙生せつせいの拳こぶしを相手あいての裂さけた口くちに突込つきこむ外ほか道みちがなかつた。 安全あんぜんの爲ため拙生せつせいは無暗むやみと突込つきこむで、竟つひに拙生せつせいの腕うでが狼おほかみの肩かたの邊あたりまで入はいつた。 しかし如何いかにして狼おほかみから離はなれようか?斯かう間まの拔ぬけた姿勢しせいをして、何時いつまでも狼おほかみと顏かほを見交みかはしてゐるのは甚はなはだ不愉快ふゆくわいでならなかつた。 さりとて若もし腕うでを引拔ひつこぬけば彼かれは憤怒ふんぬ舊きうに倍ばいして飛蒐とびかゝつて來くるだらう。 是これは其その凄すごい眼まなこに明白あきらかに讀よまれる。 短言たんげんすれば拙生せつせいは狼おほかみの尻尾しつぽを捉とらへ、靴下くつしたを脫ぬぐやうに、力委ちからまかせに裏返うらがへしにして、漸やうやく猛獸まうじうと緣えんを切きり、地面ぢめんに叩たゝき付つけて、其儘そのまゝ歸かへつて來きた。
男爵だんしやくの駿馬しゆんめの話はなし
所ところはリスアニヤに於おける伯爵はくしやくブルゾボスキイの別莊べつさう。 拙生せつせいは應接間おうせつまで貴婦人きふじん連れんと茶ちやを飮のむでゐた。 紳士しんし連れんは養馬所やうばじよから來きたばかりの良種りやうしゆの若馬わかうまを見みに下おりて行いつた。 すると突然とつぜんあれよ〳〵と喧けたゝましい聲こゑが聞きこえた。 拙生せつせいは階段かいだんを驅下かけおりて出でて見みると、馬うまは荒狂あれくるつて、人ひとを乗のせる所どころか、寄よせつけさうにもない。 勇膽ゆうたんの騎手きしゆまで血ちの氣けを失うしなつて、手てを出だせずにゐる。 失望しつばうは總すべての人ひとの顏色がんしよくに讀よまれた。 其時そのとき拙生せつせい少すこしも騷さわがず、飜然ひらりと駻馬かんばに跨またがつて、先まづ其その荒膽あらぎもを挫ひしぎ、拙生せつせい練逹れんたつの曲乗きょくのりを試こゝろみながら、さしもの氣性者きしやうものを溫和をんわ從順じうじゆんに慣ならし込こむだ。 尙なほ貴婦人きふじん連れんに合點がてん行ゆかせ、無益むえきの恐怖おそれを一掃さうするやうに、拙生せつせいは開放あけはなつた食堂しよくだうの窓まどから、一鞭むち加くはへて室内しつないに乗込のりこみ、其中そのなかを何遍なんべんとなく或あるひは並足なみあし或あるひは駈足かけあし或あるひは高足たかあしで乗廻のりまはし、最後さいごに食卓しよくたくの上うへに乗上のりあがり、一間けんと二間けんの長方形ちやうはうけいの上うへで、今迄いままでの曲藝きよくげいを更さらに小規模せうきぼに繰返くりかへさせた。 さあ、貴婦人きふじん連れんがやんやと喝采かつさいするのしないのつて!馬うまは眞まことに巧者こうしやなもので、コップ一つ覆くつがへさなかつた。 是これが爲ために拙生せつせいの聲價せいか頓とみに上騰じやうたうし、殊ことに伯爵はくしやくは驚嘆きやうたんして、常例いつもの鄭重ていちような態度たいどで、此この若わかい馬うまを貴下きかに贈呈ぞうていする、何卒なにとぞ御笑納ごせうなふあつて、近々きん〳〵發足はつそくす可きミウニッヒ伯はくの率ひきゐるトルコ遠征軍ゑんせいぐんに投とうじ、願ねがはくは撼天かんてん動地どうちの功名こうみやう手柄てがらを立たて給たまへ、と强たつての懇情こんじやう。 そこで拙生せつせいは一隊たいの騎兵きへいを從したがへ、幾度いくたびか遠征ゑんせいに上のぼり、兵へいを操あやつる事こと縦橫じうわう無礙むげ、人ひとを殺ころす事こと草くさの如ごとく、遂とげたる勲功くんこうは當然たうぜん拙生せつせいの計算けいさんに入いる可べきものであるが、勇敢ゆうかんなる部下ぶかの努力どりよくも亦また决けつして閑却かんきやくすべからざるものと信しんずる。 殊ことに拙生せつせいが先頭せんとうに立たつて、土耳古とるこ軍ぐんをオクザコーに追込おひこむだ時ときの如ごときは、いやはや顏かほの溫ほてるやうな激戰げきせんであつた。