「お会いできて嬉しいよ」大使は手を差し伸べながら言った。 「最初の五分間はあなた本人に向かって話をしたい。 そのあとはあなたの新しい人格を尊重しよう、イギリスにいるあいだは」
ドミニーは無言のまま一礼した。 主人はサイドボードを指さした。
「さあ、あなたの横に葉巻と煙草がある。 サイドボードにはウイスキーとソーダが。 そちらの椅子に掛けて楽にしたまえ。 アフリカに行っても、ちっとも変わらないね。 初めて会ったときのことを覚えているかい、ザクセンで?」
「よく覚えております、大使」
「あの頃の皇帝は宮廷でおもてなしするのがお上手だった。 イギリスの田舎のパーティーに出ているような気分になったよ。 しかし昔話はやめておこう。 あなたは、もちろん、知っているだろうね、あなたがいま、こちらでしていることを、わたしは少しもこころよく思っていないことを」
「そのようにうかがっています、大使」
「お互い遠慮なく意見を交換しようじゃないか」王子はそう言って葉巻に火をつけた。 「あなたがこの国に張りめぐらされた諜報網の一部であることはよく知っている。 もっともわたしはそんなものの必要を露ほども認めていない。 これは目的を達成する方法の問題にすぎないがね。 わたしはあなたがわたしと同じ目的でこちらに来たものと確信している。 つまり皇帝がご自身の口から、御本心として話してくださった目的、ドイツとイギリスのあいだに友好の絆を築くという目的だ」
「それが可能だとお考えですか?」
「必ず可能だと信じている」真剣な答えだった。 「こちらでの仕事がどのような性格のものになるのか知らないが、しかしわたしの信念を披露する機会が持てたのはよかった。 思うに、ドイツ政府はこちらの有力政治家の何人かを誤解し、不正確な情報に基づいて判断している。 わたしの周囲にいるのは平和を熱心に、真摯に求める人ばかりだ。 この国にはドイツとの戦争を望むような政治家は一人としていない、わたしはそう確信するようになった」
ドミニーはじっと耳を傾けていた。 思いがけないことを聞かされたような様子だった。
「ですが、大使、わが国の立場から見るとどうでしょう。 あなたもわたしも知っての通り、ドイツでは大勢の人が、イギリスとの戦争は避けられないと考えています。 誰もがドイツこそ世界最大の帝国にならなければならないと信じています。 わたしたちの友人の一人がかつて言ったように、ドイツはイギリスという獅子の首に足をかけて、その地位に昇りつめなければならないのです」
「それは時代遅れの考え方だよ」大使が熱をこめて言った。 「あなたがどうしてこちらに送られてきたのか、その理由がやっと分かった。 そういう時代は過ぎ去ったのだ。 この世界には大英帝国とドイツが共存できるだけの充分な余裕がある。 近い将来、ロシアが瓦解するのは間違いないだろう。 領土拡大を図るなら東に目を向けなければならない」
「それは確定済みの方針ですか?」
「当然だよ!それがここでのわたしの任務の核心なのだ。 わたしが受けた命令は平和の命令だ。 イギリスの政治家を観察し、イギリスの見解を理解すればするほど、自分の努力が成功するという自信があふれてくる。 だからこそシーマンが大きく関与している諜報活動は、わたしにはときどき賢明でもないし不必要だと思われるのだ」
「わたしの任務もですか?」
「それがどういうものなのか、まだ明らかにされていない。 しかし、もしわたしが考えるように、わたしの任務と密接に関連しているなら、きっとその内容は平和をめざすものになるだろう」
ドミニーはいとまごいをしようとして立ちあがった。
「そのうち分かるときが来るでしょう」彼は低く言った。
「もう一つだけ、少々個人的なことで話がある」ターニロフの口調が変わった。 「アイダーシュトロム王女が今、二階にいらっしゃるのだ」
「この官邸にですか?」
「あなたと話をしようと待っている。 わたしたちの友人シーマンが今晩、王女を訪ねていった。 王女は現状を受け入れるつもりらしい。 しかし一つだけ条件をおっしゃたのだ」
「条件とは?」
「わたしにサー・エヴェラード・ドミニーを紹介してほしいというのだよ」
ドミニーは動揺を隠そうともしなかった。
「大使、申しあげるまでもないでしょうが、どのような形であれ、王女とわたしが交渉を持つことは、こちらでのわたしの立場を非常に困難なものにする危険があります」
大使はため息をついた。
「よく分かっている。 シーマンもわたしも説得しようとした。 しかし、あなたもたぶん知っての通り、王女はたいそう意志の強いお方だ。 またこちらで大変な影響力を持っていらっしゃる。 それにベルリンの王宮がうるさく要求してくるのだよ、ハンガリーの貴族である彼女を手を尽くしてなだめろと。 もちろん、わたしが政治的な観点からしかしゃべっていないことことは理解してくれ。 あなたがお亡くなりになった王子と不幸な関係にあったという事実を無視はできないが、しかし現状に鑑みれば、あなたもより大局的な立場に立つことを忘れはしないと思うのだ」
訪問者はしばらく黙っていた。
「王女はこちらで待っているのですね?」
「妻と一緒にいるよ。 あなたに家まで送ってほしいとのことだ。 妻もあなたと旧交を暖めることを望んでいる」
「この件については大使のご判断に従います」ドミニーは決心した。
ターニロフ王女は国際的な教養を持つ芸術家だったが、しかしそれでいて素晴らしく魅力的な女性だった。 彼女は夫が連れてきた訪問者をひどく愛らしい小部屋で迎えた。 ごく簡素なノルマン王朝風の部屋だった。 彼女はどことなく気まずいその場の雰囲気を和らげようと一生懸命だった。
「ロンドンにお迎えすることができて、こんなに嬉しいことはありませんわ、サー・エヴェラード・ドミニー」と彼女は握手しながら言った。 「これからはちょくちょくいらしてくださいね。 わたしの従姉妹を紹介しましょう。 あなたに興味を持っていますのよ。 包み隠さず申しあげますとね、あなたが彼女の親しい友達によく似ていらっしゃるからなの。 ステファニー、こちらはサー・エヴェラード・ドミニー。 こちらはアイダーシュトルム王女」
ステファニーは従姉妹が立ちあがった椅子に座ったままドミニーに手を差し出した。 ドミニーは深く、慇懃な一礼を返した。 彼女が着ていたのはなんの飾りもない黒一色のガウンだった。 見事なダイヤモンドが首の回りに輝き、ハンガリー風のティアラがやや額にかぶさるようにつけられていた。 彼女の態度と声には、まだ幾分、このような状況に対する憤懣がこもっていた。
「今朝、間違ったことをしつこく申しあげたこと、許してくださいね」と彼女は言った。 「人違いとは、とても信じられなかったものですから」
「他の人からも似ていると言われます。 自分がノーフォークの男爵でしかないことが悔やまれますね」
「以前、ヨーロッパの王室に出入りなさったことは?」
「一度もありません」
「旅行なさらないわりにドイツ語が素晴らしくお上手ね」
「外国語だけは、ろくに勉強しなかった学生時代から得意でした」
「ノーフォークに埋もれて人生を送るつもりじゃないでしょうね、サー・エヴェラード?」ターニロフ王女が尋ねた。
「最近はノーフォークとロンドンの距離がとても近くなりました。 それにここ数年、孤独はもう充分すぎるほど味わってきました。 時にはこちらへ来ようと考えております」
「いつかお食事にいらしてください」と王女が言った。 「アフリカの話をしてくださいな。 夫がとても聞きたがっています」
「ご親切にありがとうございます」
ステファニーがゆっくりと立ちあがり、優雅に身をかがめると、女主人の両頬にキスをし、王子に向かって手を差し出した。 王子はそれに唇を当てた。 それから彼女はドミニーのほうを振り向いた。
「家まで送っていただけますか?」と彼女は訊いた。 「そのあとわたしの車でお好きなところへいらっしゃればいいわ」
「喜んで」ドミニーは承諾した。
彼も別れの挨拶をした。 玄関で召使いから帽子とコートを受け取ると、車に乗りこみ、彼女の横に座った。 発車すると彼女は電気のスイッチに触れた。 車は暗闇に包まれた。
「言葉をもて遊ぶのはもうたくさん。 レオポルド、やっと二人きりになれたわね!」
彼女がもたれてきたとき、宝石の燦めきと柔らかな目の輝きが彼をとらえた。 彼の声は、自分の耳にも、とげとげしく不快に響いた。
「違いますよ、王女様。 わたしの名前はレオポルドではありません。 わたしはエヴェラード・ドミニーです」
「まあ、あなたがとても頑固なのは知っているわ」彼女は優しくいった。 「とっても頭が固くて、あなたの麗しいお国のために忠義を捧げている。 でもあなたにも人間の心があるでしょう、レオポルド。 祖国に押しつけられた義務と同じくらい大切な、人間としての義務があることは分かっているでしょう。 わたしがあなたに何を望んでいるか、あなたから何を引き出さなければならないか、お分かりでしょう。 さもなければわたしは屈辱と惨めさにまみれて地獄に堕ちてしまう」
彼は急に喉がひからびたように感じた。
「いいですか、そのときが来るまで、わたしは世間に対してもあなたに対しても、二人きりでいるときも大勢といるときも、エヴェラード・ドミニーでなければならないのです。 わたしに与えられた任務を果たすには、一つの方法しか、ただ一つの方法しかないのです」
彼女は突然声を殺して嗚咽した。
「待ってちょうだい。 すぐ返事をするから。 手を握らせて」
彼は固く握りしめていた指を開いた。 彼女の熱い手が情熱的にそれを掴み、引き寄せ、もう一方の手の指もそれにからみついた。 彼女はしばらくそのまま座っていた。
「レオポルド」やがて彼女は話をつづけた。 「分かるわ。 わたしが二人の愛をうっかり漏らしはしないか、それが心配なのね。 もっともだわ。 あなたも知っているように、わたしはひどく衝動的だし、感情的だから。 でも自分を抑えることもできるのよ。 二人きりになったときのわたしたちがお互いにとってどういう存在であるのか、世間の人に知らせることはないわ。 不注意な真似はしない。 誓って。 他の人がいるときは、あなたの注意を惹くそぶりさえ見せない。 わたしと会うことも好きなだけ避けたらいい。 わたしもあなたがいいと言うときしかお招きしない。 でもこんな扱いは嫌よ。 戻ってきたと言って。 ほんのちょっとだけ、その嫌らしい仮面を脱ぎ捨ててちょうだい」
彼女の両手は彼の手を強く引き寄せ、彼女の唇と目は彼に向かって懇願した。 彼はじっと座ったままだった。
彼は断固として言った。 「何があろうと、そのときが来るまで、わたしはエヴェラード・ドミニーなのです。 あなたがレオポルド・フォン・ラガシュタインに対して抱いているお気持ちにつけこむわけにはいきません。 彼はここにいないのです。 アフリカにいるのです。 たぶん、いつか、あなたのもとに戻ってきて、あなたの思いをかなえてくれると思います」
彼女は彼の手を放り投げた。 彼は相手の目が炎のように自分の目に食い入るのを感じた。 それは強い詮索のまなざしのようだった。
「あなたをじっくり見させてちょうだい」彼女は声を荒げた。 「確かめさせてちょうだい。 ただのひどい心変わりなの?それとも偽者なの?胸のなかが冷たくなっていく。 あなたはわたしが今まで待ち望んでいた人なの?わたしが唇を与え、名誉を犠牲に捧げた人なの?夫を殺し、わたしを捨てた人なの?」
「わたしは追放されたんです」こみあげる感情に彼の声も震えていた。 「それはご存じでしょう。 この計画に関しては別ですが、わたしはまだ追放を解かれていないのです。 わたしは罪の償いをしているのです」
彼女は疲れたように席にもたれ、目を閉じた。 車が鉄の門扉を通り抜け、彼女の家の玄関前に停まると、とたんにドアが開いて、召使いが急ぎ足に出てきた。 彼女はドミニーのほうを振り返った。
「しばらく寄っていかないこと?」
「御訪問の許可をいただければ、喜んでまた参ります」彼は堅苦しく答えた。 「よろしければ、ノーフォークから帰り次第、連絡をさしあげましょう」
彼女は悲しげな微笑みを浮かべて手を差し出した。
「うちの者にあなたをお好きなところへ連れて行かせるわ。 それから覚えておいて」彼女は声をひそめてつけ加えた。 「わたしは負けを認めません。 お話はこれが最後じゃありませんからね」
彼女はお仕着せ姿の人目を惹く家令兼召使いにかしずかれ、豪華な正面扉を堂々と通り、ロンドンでも数少ない大邸宅の一つのなかに消えた。 ドミニーがカールトンに戻ると、ラウンジでは楽団が音楽を奏で、大勢の人がまだ椅子に座っていた。 そのなかでもシーマンはひときわ目立つ恰好をしていた。 こざっぱりしたディナー服に身を包み、新しい友人を作ろうと誘いかけるように丸ぽちゃの顔を輝かせていたのである。 彼はドミニーを熱烈に迎えた。
「いや助かった」と彼は声をあげた。 「独りはもうたくさんだよ!顔見知りが一人もいないんだからな。 わたしの舌は運動不足でひからびてしまった。 話はしたいが、相手がおらん。 山奥の一軒家にでも住んでるような気分だ」
「わたしでよければ話をさせてもらうよ」ドミニーはかすかに顔をしかめてそう言うと、時計を見て急いでウイスキー・ソーダを注文した。 「最初に言っておくべきことがある」彼は声をひそめた。 「この計画を脅かす、いちばん危険なものを見つけた」
「何のことだ?」
「女だ。 アイダーシュトルム王女」
シーマンは肌身離さず持っている葉巻に火をつけ、短い太い足を組んだ。 しゃれたコートシューズを履いていた彼は、自分の小さい足先を満足そうにちらりとながめた。
「驚いたね。 そのことはわたしもよく考えたが、特に問題にはならないと思う」
「じゃあ、君はわざと問題に対して目を閉ざしているに違いない。 さもなければ王女の気性や性格を知らないんだ」
「どっちも分かっているつもりだよ。 それでもたいした問題になるとは思わない。 イギリス貴族として君には文句なくアイダーシュトルム王女と友達づきあいする権利がある」
「君は人情の機微を察する人間だと思っていたがね!」ドミニーは嘲るようにいった。 「少しは人間性というものを理解していると思っていたが。 ステファニー・アイダーシュトルムはハンガリー生まれのハンガリー育ちだ。 あの民族に生まれついても自己抑制とは縁がない。 まさか本気で思ってはいないだろうね、あれだけ長いこと苦しんできて——それも生やさしい苦しみじゃない——今頃ふぬけた友達関係で満足するだろうなんて?率直に言おう、シーマン。 彼女はそんなことでは満足しないと今晩はっきり言ったのだよ」
「君ら二人の個人的な関係は——」とシーマンは言いかけた。
「そんなことじゃない!」相手は話を遮った。 「王女は衝動的で、情熱的で、疑いもなく原始的で、おまけに野性味たっぷりの女だ。 陰謀だの政治的必要だのと彼女に説いても、これっぽっちも意味はない」
「それにしてもだな」とシーマンが言い返した。 「君が国家から重要な任務を与えられているということは、ちゃんと理解できるだろう?」
ドミニーは首を横に振った。
「彼女はドイツ人じゃない。 それどころか他の多くのハンガリー人と同じように、ドイツもドイツ人も嫌っているのだと思う。 彼女が関心を持っているのは、わたしとの個人的な問題だけだ。 わたしは残りの人生をことごとく彼女に捧げるべきだと、そう思っているんだ」
「君が明日ドミニー邸に行くのは正解だったかもしれないな。 わたしが一つ策を練ろう。 何とか彼女をなだめるよ」
消灯の時間だった。 二人の男はややしぶしぶといった感じで立ちあがった。 ドミニーは妙に寝る気がしなかったが、それと同時に友人を追い払いたくて仕方がなかった。 彼らは一緒に暗くなったホテルの広間に入っていった。
「その件に関してはできるだけのことをしよう」とシーマンは約束した。 「わたしの考えでは、君が最大の問題にぶつかるのは明日だよ。 ドミニー邸で何を相手にしなければならないか分かっているだろう」
ドミニーの顔はこわばり、重々しくなった。
「覚悟はできている」
シーマンはそれでもためらっていた。
「覚えているかい、ケープタウンで君の計画を話し合ったとき、君は写真を——ドミニー夫人の写真を見せてくれたね」
「覚えているよ」
「もう一度見てもいいかな?」
ドミニーはかすかに震える手でコートの胸ポケットから革のケースをつまみ出し、なかからすり切れた写真を取り出した。 二人の男はまだ明かりの灯っている電灯の一つの下で、肩を並べて写真を見た。 その顔は少女の顔、ほとんど子どものような顔だった。 大きな目には奇妙な、訴えるような光が満ちている。 同じ表情が唇にも認められた。 どこか頼りなげな感じ、強い存在に対して愛と庇護を求めるような表情だった。
シーマンは小さくうめいて顔を背け、こう言った。
「もしもわたしに普通の人間の、普通の感情がほんのしばらく戻ってくるとしたら、その写真の女性を相手するより、君のお姫様を一ダース相手にした方がましだと思うだろうな」
第八章
「先祖代々のお屋敷が見えてきましたよ」車が草の生えた並木道の最初のカーブを曲がり、ドミニー邸が見えてきたときミスタ・マンガンが言った。 「しかも実に立派なお屋敷だ!」
相手は返事をしなかった。 ほんの少し前から嵐が吹きはじめ、彼はまるで寒気がするかのように、帽子を目深にかぶり、コートの襟を耳まで立てたのだった。 屋敷がはっきりと見えてきた。 正面玄関の両側には大きな主室の窓がある。 エリザベス朝風の古めかしい赤煉瓦造りの壁は南の大庭園に面し、石の土台に支えられ、風雨に傷んださえない裏手は沼地と海に面していた。 ミスタ・マンガンは愛想良く会話をつづけた。
「建物は、どうにかこうにか、雨風が吹き込まないよう管理してきました。 木はそれほど減ったようにはお感じにならないと思います。 できるだけ敷地の外縁から伐採しましたから」
「ブラック・ウッドからも切ったのかい?」ドミニーが振り向きもせず訊いた。
「いいえ、一本も。 そりゃそうですよ。 木こりが誰一人、森に近づこうとしないんですから」
「じゃあ、あの噂はまだ消えてないんだね?」
「村人たちは信じこんでいますよ。 ロジャー・アンサンクの幽霊を見たという人間が少なくとも十人はいます。 神様に誓って夜中に彼の叫び声を聞いた、というのが二十人以上」
「幽霊は今でも真夜中に庭園や外のテラスをうろつくのか?」
弁護士は躊躇した。
「幽霊は森から出てきて、ドミニー夫人の窓の下のテラスにたたずむようです。 もちろん根も葉もない噂ですよ。 でもお屋敷のどの召使いも門番も、雇われて一ヶ月以内に辞めてしまうのです。 そうでなければとっくの昔にミセス・アンサンクを解雇するよう申しあげていたんですが」
「ということは、まだドミニー夫人にお仕えしているんだね?」
「他に誰もお屋敷にいつかないという、ただそれだけの理由なんですが。 奥様はお屋敷を出ることをきっぱりと拒否なさっています。 ここだけの話ですが、今のままではもういけないと思うんです。 差し支えなければ、晩餐の後で話し合いませんか。 ほら、庭園の木はそのまま残してあります」彼は満足そうに話しつづけた。 「ここは春になるときれいですよ。 実は五月にこちらに参りまして、一晩泊まったのですが、あんなキンポウゲは見たことがありませんでした。 牛は牧草地で膝まで草に埋もれていましたし、お屋敷の森のブルーベルが見事に花を咲かせていました。 今年の春、フランクニーの絵の愛好家たちが総出でやって来て、ここに散らばっていたんですよ」
「古い壁が何カ所か崩れ落ちているね」壁に囲われた家庭菜園を見ていたドミニーは顔をしかめた。
ミスタ・マンガンは一瞬驚いた。
「あの壁は確か二十年前から崩れていましたよ」
ドミニーは頷いた。 「忘れていたよ」と彼はつぶやいた。
「実を言いますと、修復費用を捻出するために絵を一枚か二枚売ってはどうだろうと手紙に書いて送ったのですが、うまい具合にあなたからお返事がなかった!どう修理するかお決まりになったら、さっそく職人をここに呼びましょう。 ただ残念ですが」ちょうど鉄の門扉をくぐり、屋敷正面すぐ手前のカーブにさしかかったとき、彼はこうつけ加えた。 「お出迎えする召使いのなかに見知った顔はあまりないでしょうな。 庭師のラヴィボンドがいますが、ほとんど覚えていらっしゃらないでしょう。 それから猟場管理人のミドルトンくらいですかね。 彼は猟に関してはまったくかけがえのない男ですよ。 お屋敷のなかで働いている連中は新顔ばかりです。 ミセス・アンサンクを除いて」
そのとき、車は巨大なポーチの前に停まった。 歓迎する人の姿はどこにもなく、ベルを鳴らして、ようやく数日前に町から派遣された召使いにドアを開けてもらった。 召使いの後ろには茶色い綿ビロードのコートをはおり、コール天のズボンとすね当てを着用した初老の男が立っていた。 白い頬髭を生やし、羊皮紙のように浅黒い肌を見せ、長いトネリコの杖にずしりと体重をかけていた。 六人ほどいる新米女中たちが、さらにその後ろに控えていた。 別の男があらわれ、荷物を手に取った。 ミスタ・マンガンがその場を仕切ることになった。
「ミドルトン」と彼は老人の肩に手を置いて言った。 「こちらがお戻りになったご主人だよ。 サー・エヴェラードは、君がここにいると聞いてとても喜んでいらっしゃる。 それから君もだ、ラヴィボンド」
老人はドミニーが伸ばした手を両手で握り締めた。
「お戻りになって、嬉しゅうございます、旦那様」彼は奇妙なくらいじろじろと相手を見つめた。 「ところが、歓迎の言葉が喉に引っ掛かって、すらすらと出てこんのです」
「そんなふうに思っているとは残念だな、ミドルトン」ドミニーは快活に言った。 「わたしが戻ると何が困るんだね?」
「困るなんてとんでもねえ、旦那様。 お帰りになったのは、嬉しいんです——少なくともわたしらにとっては。 ただ、旦那様にとってはどんなもんなんでしょうか。 そこが引っ掛かるんで」
ドミニーは今まで以上に胸を張り、小集団に向かって威厳をみなぎらせた。
「一日か二日、一緒にキジ狩りにでもいけば考えも変わるだろう、ミドルトン」彼はなだめるように言った。 「君はあまり変わっていないね、ラヴィボンド」彼は後ろに隠れるようにしていた男に向かって言った。 晴れ着を着て、ひどく窮屈そうな、落ちつかなげな様子だった。
「おかげさまで、旦那様」彼は少しもじもじしながらそう言い、手を額に持っていった。 「しかし旦那様には、お変わりないとは申せませんなあ。 外国にいらして、肉がついて、お顔がきびしくおなりだ。 こんなことを言っちゃあなんですが、旦那様とは分かりませんでしたよ」
「こちらはパーキンス」ミスタ・マンガンが再びしゃしゃり出てきて紹介をつづけた。 「ロンドンで雇った執事です。 それから——」
突然、奇妙な沈黙が訪れた。 新しい主人の風貌をひそひそと噂していた女中の一団は急に口がきけなくなった。 すべての目が同じ方向を向いていた。 玄関ホールの片隅からいつの間にか出てきたのであろう、一人の女が不意に彼らの前に立った。 痩せこけた身体、簡素な黒い服、髪をひっつめにし、首のまわりには白いカラーすらつけていない。 面立ちはほっそりと長く、顔の造作は異様に大きい。 目は怒りに満ちていた。 話し方はごくゆっくりだったが、北部独特の抑揚がいくらか混じっていた。
「このお屋敷にあなたの居場所はありませんよ、エヴェラード・ドミニー」彼女は行く手を塞ぐかのように彼の前に立った。 「昨日の晩、思いとどまるよう、手紙を書きましたが、いやに急いでお出でになりましたのね。 ここは人殺しが来るようなところではありません。 お引き取りください、もとの隠れ家に」
「何を言うんだね!」マンガンが喘ぐように言った。 「許し難いことだ!」
「弁護士様と言い争うために来たのではありません」女が言い返した。 「わたしは彼に話をしに来たのです。 わたしの顔を見ることができますか、エヴェラード・ドミニー。 あなたはわたしの息子を殺し、奥様を狂人に変えてしまった」
弁護士がそれに答えようとしたが、ドミニーが手を振って押しとどめた。
「ミセス・アンサンク、ただちに仕事にお戻りなさい。 それからよく覚えておくことだ、ここはわたしの家なのだから、わたしが好きなときに出入りできるということを」
彼女はしばらく口がきけなかった。 相手の断固とした口調にあっけにとられたのだ。
「家はあなたのものかもしれません、サー・エヴェラード・ドミニー」彼女は脅すように言った。 「でも一カ所、あなたも怖くて入れない場所がある」
「何を言っているのか、分かっているのかね」彼は冷たく答えた。 「さあ、すぐ妻のところへ戻って、わたしが到着したことを伝えたまえ。 お部屋に伺う許可をひたすらお待ちしていると」
女は不快な、耳障りな笑い声をあげた。 その目はいぶかしげにドミニーを見据えている。
「お勇ましいこと。 肝が据わってお帰りになったようね。 お顔を見せてくださいな」
彼女は光がよく当たっているほうへ一、二歩移動した。 額にゆっくりと皺が寄っていった。 見れば見るほど自信がなくなった。
「あなたの顔には何かが欠けている」彼女はつぶやいた。
ミスタ・マンガンはここぞとばかりに口を挟んだ。
「そんなことはどうでもよろしい、ミセス・アンサンク」彼は怒気をこめて言った。 「一言忠告させてもらうが、ご主人には敬意をもって応対したまえ」
女はまた激高した。
「敬意!息子を殺した男にどんな敬意を抱けというのです?敬意とはね!わたしの言いつけに逆らってここに留まるつもりなら、きっと奥様から敬意の意味を思い知らされることになるでしょうよ」
彼女は踵を返して姿を消した。 誰もが一斉に荷物のまわりで忙しく立ち回り、しゃべりはじめた。 ミスタ・マンガンは依頼主の腕を取って玄関ホールを抜けた。
「サー・エヴェラード」と彼は心配そうに言った。 「こんなことになって本当に残念です。 あの女の無愛想なことは予想していましたが、これほど不埒な振る舞いに出るとは思いも寄らなかった」
「妻がそばにいることを許しているのは、今でも彼女だけなんだね?」ドミニーはため息をつきながら尋ねた。
「そのようです。 しかし、明日の朝、医者のハリソン先生に相談しましょう。 ここにいたいなら、態度をすっかり改めること、それをきちんと理解させなければなりません。 あんな非常識な言葉は聞いたことがない。 夕食のあと、わたしが直々に彼女に言っておきます——この書斎ならくつろげるでしょう、サー・エヴェラード」ミスタ・マンガンは海側の豪奢な一室のドアを開けた。 「目が覚めるような眺めですよ、窓の外は。 木を何本か切りましたから。 パーキンスがシェリーを用意してくれたようですな。 こちらではまだカクテルを飲む習慣がないので、あなたがつくっていかなければならないでしょう。 一つだけわたしに感謝していただけることがあるんですよ、サー・エヴェラード。 お金に困ったことは一再ならずありましたが、地下のワインは一本も売らなかったのです」
ドミニーは弁護士がついだシェリーのグラスを受け取ったが、飲もうとはしなかった。 しばらくのあいだ、物思いにふけっている様子だった。
「マンガン」と彼はやや唐突に言った。 「このあたりでは、みんな、わたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか」
弁護士はデカンターを置いて咳払いした。
「正直に答えてくれたまえ」ドミニーが強く言った。
ミスタ・マンガンは相手に合わせることにした。 依頼主のことが徐々に分かりはじめていた。
「この近辺でそう信じていない人は一人もいないと思います、サー・エヴェラード。 争いが起きて、あなたが彼を打ちのめしたと」
「くどくどと質問をするようだが許してくれ。 アフリカに逃亡して最初のうちは、それまでの人生のすべてを忘れ去ろうと必死になっていたんだ。 本当にみんなそう信じているんだね?」
「その俗説はほぼ事実と合致してるようです」依頼主が思った以上に理性的に振る舞うのを見て、マンガンは再びデカンターを取りあげた。 「不幸のはじまりとなってしまいましたが、あなたがこのお屋敷にお出でになった頃、ミス・フェルブリッグは牧師館で一人住まい同然の暮らしをしていらっしゃった。 叔父様が急死なさいましたからね。 一緒にいたのは家政婦のミセス・アンサンクだけでした。 ロジャー・アンサンクが結婚前の奥様に夢中だったことは、近所に知れ渡っていて、ミス・フェルブリッグはたいそう迷惑に思っていました。 ドミニー夫人はあの若者に気がある振りなど一度も見せなかったと思いますが」
「違う意見の人はいなかったのかい?」
「一人もいませんでした」彼は断言した。 「でも、あなたがきて、ミス・フェルブリッグと恋をし、彼女をさらっていってしまったとき、誰もがこれはひともめあるぞと感じていたんです」
「ロジャー・アンサンクは頭が変だった」ドミニーは慎重にそう言った。 「最初から狂人みたいに振る舞っていた」
「次第次第に狂気に陥っていく、ユージン・アラム(註 ブルワーリットンの小説の主人公)みたいな田舎教師ですね」マンガンは同意した。 「そこまではみんなの意見は一致しています。 謎めいてくるのは彼が休暇から帰ってきて、結婚の知らせを受け取った、そのあとのことです」
「それから起きたことは実に単純なんだよ。 わたしたちはある晩、ブラック・ウッドの北の端で出くわした。 彼は狂ったように襲いかかってきた。 わたしのほうが少し力が勝っていたのだろうな。 しかし屋敷に戻ってきたとき、腕が折れていて、血まみれで、意識を失いかけていた。 残酷な運命のいたずらで、ほとんど真っ先に出遭った人間が妻だったのだ。 彼女にはショックが強すぎた。 彼女は気を失い——そして——」
「以来、正気を取り戻していらっしゃらない」と弁護士が話を結んだ。 「おかわいそうに!」
ドミニーは窓の前に立ち、両手を後ろで組みながら言った。 「なんとも辛いのは、その瞬間から妻がわたしに対して狂的な殺意を抱くようになったことだ——正当防衛以外の何物でもなかったのに。 だからわたしは国を出たのだ、マンガン——ロジャー・アンサンク殺しで捕まるのが怖かったからじゃない。 裁判があれば、いつでも出廷しただろう。 わたしをズタズタにしたのは別のことなんだ」
「そうでしょうとも」マンガンは同情するようにつぶやいた。 「実を言えば、逮捕など絶対にありえませんでしたがね。 ロジャー・アンサンクの死体は今日に至るも発見されていないんですから」
「もしも発見されていたら——」
「謀殺ないし故殺罪で起訴されたでしょう」
ドミニーは窓のそばを離れ、シェリーのグラスに唇をつけた。 思い出のなかの悲劇はもうどこかへ行ってしまったようだった。
「死体がなくなったから、ブラック・ウッドには今でも幽霊が出るなどという噂が生まれたんだな」
「その通りです。 ご存じのように、もともと変な噂のある場所ですし。 実際、暗くなってから庭園を横切って森の方に歩いていく村人はいないでしょうね」
ドミニーは時計を見て、マンガンを従え部屋を出た。
「晩餐のあとで西アフリカの迷信の話をしてあげよう。 ここの噂が子供だましに思えるよ」
第九章
「お宅のワイン貯蔵庫には心から祝福の言葉を申しあげます、サー・エヴェラード」その晩、客はポートワインを口にしながらそう言った。 「これほどの七十年代ものは実に久しぶりです。 しかも、わたしがロンドンから寄こした新しい雇い人——パーキンスですが——彼によると、これがまだたっぷり残っているそうですよ」
「じっくり寝かしてあったからね」
「夕食の前に貯蔵庫のリストを調べてみました。 すると四十七年ものと四十八年もの、さらにそれより古いビンテージワインも数本お持ちじゃないですか。 放っておく手はありませんよ」
「明日の晩、一本飲んでみよう。 暇があれば、半時間くらい一緒に貯蔵庫を見て回るのもいいかもしれない」
「そしてもう半時間はミセス・アンサンクとの面談に費やしたいですな」ミスタ・マンガンは憂慮するように言った。 「とにかく、ドミニー夫人のお世話係として彼女が適任とは到底思えません。 ここに到着したらすぐ、この件についてお話しようと決めていたんですよ、サー・エヴェラード」
「ミセス・アンサンクはミスタ・フェルブリッグの家政婦で、妻の子どもの頃の乳母だったんだよ。 どのような欠点があるにせよ、ドミニー夫人には献身的につくすと思う」
「奥様には献身的かも知れませんが、あなたにとっては敵だと思います。 このまま何事もなく済むとは思えません。 ミセス・アンサンクは、それがフェアな闘いだったかどうかは別にして、あなたが息子を殺したと思いこんでいる。 ドミニー夫人もそう信じている。 そして争いのあとのあなたを見て、正気を失ってしまった。 ドミニー夫人には、不幸な過去と何のつながりもない人をあてがったほうがずっといい」
「明日、ハリソン先生に相談しよう。 君が一緒に来てくれて本当に助かるよ、マンガン」彼はほんの少しためらってから話をつづけた。 「昔の雰囲気にもう一度馴染むことはなかなか難しい。 それどころか」彼はテーブル越しにちらりと妙な視線を投げかけた。 「わたしがあの頃と同じ人間だということさえ信じられない」
「わたしはあなた以上に信じられない思いを何度も味わいましたよ」
「ずばりどういうところが変わったと思うのか、教えてくれないか」ドミニーは熱心に尋ねた。
「柔軟性とでもいいますか、あるいは性格的なだらしなさとでもいうべきかもしれませんが、それがなくなったようですね。 昔を振り返ると、今のあなたからはほとんど想像もできないことが幾つもあるんです。 些細な例ですが」彼はうっすらと笑みを浮かべて、主人の口をつけていないグラスのほうに頭をかしげた。 「わたしが知っているドミニー家の方と違って、あなたはポートワインをお飲みにならない」
「ポートワインはもとから好みじゃないよ」
弁護士は眉をつりあげて彼を見た。
「ポートワインはもとから好みじゃない」彼は呆然として相手の言葉をくり返した。
「好みじゃなくなったと言うべきだったね」ドミニーは急いで説明した。 「ジャングルではとにかく怖ろしいほどアルコールを飲んだ。 するとワインに対する嗜好が萎えてしまうんだ」
弁護士は主人の見事な褐色の顔色と澄み切った目をうらやましそうに見た。
「お酒なんか一度も飲んだことがないような顔をなさっていますよ、サー・エヴェラード」彼は正直に言った。 「十年か十五年前の噂が信じられません」
「ドミニー一族の体質なんだろう」
新しい執事が音もなく部屋のなかに入ってきて、主人の椅子に近づいた。
「書斎にコーヒーを用意いたしました、旦那様。 猟場管理人のミスタ・ミドルトンがつい先ほどおいでになり、お休み前に旦那様と一言お話したいとのことです。 たいそう落ち着きのない、心配そうな様子でした」
「すぐ書斎に来させたまえ。 君もコーヒーにするかね、マンガン」
「もちろんですとも」弁護士は立ちあがりながら同意した。 「素晴らしいご馳走でしたよ、あのワインは。 ロンドンのレストランには望むべくもない一品ですな。 ポートワインは寝かしてある場所から運び出してはいけないんですよ」
二人は実に豪華だが、暖房不足で壁が少しいたんでいる広間を通って書斎に入り、赤々と燃える薪を前にして安楽椅子に座った。 パーキンスは音をたてずにブランデー入りのコーヒーを差し出した。 彼が部屋を出るや、とたんにためらいがちなノックの音がし、ミドルトンのどことなくおどおどした姿があらわれた。
「なかに入ってドアを閉めたまえ。 どんな用事だい、ミドルトン。 パーキンスから話があると聞いているが」
男は躊躇しながら前に進んだ。 見るからに困ったようなそわそわした様子で、話が切り出せないでいるようだった。 顔には雨粒が光り、綿ビロードのコートにも長く尾を引くような雨の跡がついていた。 白髪は風にあおられて乱れていた。
「今晩は荒れ模様だね」ドミニーが言った。
「ここに来たのは、これ以上荒れた夜にならないようにするためなんで、旦那様」老人はしわがれた声を出した。 「お頼みしたいことがあるんですよ。 旦那様のためにも。 今晩、カシの間でお休みじゃないでしょうね?」
「そうしてはいけないかい?」
「奥様の部屋の隣じゃありませんか」
「だから?」
老人はいかにも動揺していたが、主人はわざとのように、助け船を出さなかった。 彼はマンガンのほうを見て、ぶつぶつと独り言を言った。
「遠慮せずに言いたいことを言いたまえ、ミドルトン」ドミニーが促した。 「ミスタ・マンガンは三代にわたってこの屋敷の事務弁護士を勤めてこられた。 わたしの一族の歴史はすべてご存じだ」
「打ち解けられないのは、旦那様のほうなんですよ、まったくの話」ミドルトンはどうにでもなれといわんばかりに話しつづけた。 「一回り大きくおなりになって、お声も厳しくなったような気がするんです。 思っていることを言いたいんですが、なんだか気後れしちまって」
「辛い経験をしたからね、ミドルトン。 変わっても不思議はないさ!気にしないで男同士で話をしよう」
「旦那様があの晩、ふらふらしながら家に戻ってきたとき、最初に出っくわしたのがわたしでした。 片腕をだらんと垂らし、血がお顔とお召し物を伝い、目に赤い炎がともっていましたよ——人殺しの炎ってやつでさ。 奥様がヒステリーを起こすのが聞こえました。 狂ったように笑ったり泣いたり。 それからは、ああ神様!ずっとそのままでいらっしゃる」
二人の男は黙っていた。 ミドルトンは激しく興奮し、大きな声を出していた。 一呼吸間をおいたのは、明らかにただ息を継ぐためだった。 話はつづいた。
「奥様がナイフをつかんで、あなたに向かってきたとき、わたしはおそばにおりました。 覚えていらっしゃるでしょうが、奥様を背中から取り押さえて、あの晩、二つめの悲劇が起きるのを防いだのはわたしなんで。 それから奥様が夜中に旦那様の部屋に忍びこんで、一センチ差で喉を刺しそこね、次の朝、お医者様を呼びに行ったのもわたしでした。 奥様が旦那様に向かって声を振り絞り、脅かすのが聞こえました。 あれは狂った女の脅しでしたよ、旦那様。 奥様は今も気が触れてます。 奥様がナイフをお持ちになったら、この屋敷のなかにゃ旦那様が安全でいられるところはありません」
「凶器を持たせないように注意しなければならないね」ドミニーは静かに言った。
「無駄なことですよ」ミドルトンはあざ笑うように言った。 「おそばにアンサンクがいるんですから!奥様はあの晩の恐ろしさに頭が変におなりになったが、アンサンクは憎しみのあまり変になっているんです。 それにですよ」老人は声をひそめ、目をぎらぎらさせた。 「ロジャー・アンサンクの幽霊があの二人の窓の下にやってきて、一週間に一度はかならず旦那様の血を求めてうなり声をあげるんです。 今晩ここにお泊まりになるなら、旦那様、屋敷の反対側に小部屋が用意してありますから、そちらでお休みくださいまし」
ミスタ・マンガンは夕食後の落ち着いた表情を失っていた。 顔は歪み、コーヒーは冷たくなりかけていた。 今の話は、ときどき彼のもとに届く曖昧な手紙や噂とはずいぶん異なっていた。 彼は物質主義者として、そうしたものをとことん軽蔑し無視してきたのだが。
「警告してくれてありがとう、ミドルトン。 しかしドアには鍵がかかるだろう?」
「カシの間に鍵をかける?」話にならないといった調子だった。 「そんなことして何の役に立つんです?あの部屋の壁は三方が二重になっていることはよく知っていらっしゃるでしょう。 このわたしですら知らない秘密の入り口があるんですよ。 今晩、カシの間にだけは泊まっちゃいけません、旦那様。 あの二人が静かにしているのは、あの部屋で旦那様をしとめようとしているからです」
「どういうことなんだい、ミドルトン」弁護士が訊いた。 彼は無関心を装うとしたが、失敗していた。 「ロジャー・アンサンクの幽霊の叫び声を聞いたっていうのは」
老人は辛抱強く振り返った。
「そのままの意味ですよ、先生。 ほとんど毎週、家の周りをうろつくんで。 ミセス・アンサンクを除けば、たまにわたしが泊まるくらいで、もう何年も屋敷に寝泊まりする召使いはいません。 女中のなかには村から来ているのもいますが、しかし彼らは夜になる前に帰りますんで。 それから朝まで、生きている人間は一人もここに来やしません——百ポンドやると言っても断られます」
「叫び声と言ったね?」ミスタ・マンガンが訊いた。
「怪我をした犬の鳴き声によく似てます」ミドルトンは平然と説明した。 「犬みたいといっても、わしらが聞いた感じではちょっぴり人間ぽいところがあるんですがね。 先生も、たぶん、今晩か明日の晩あたりお聞きになるでしょう」
「じゃあ、君は聞いたことがあるんだね、ミドルトン」主人が尋ねた。
「そりゃ、もちろんですよ、旦那様」老人は驚いたように答えた。 「この十年間、ほとんど毎週ですよ」
「起き出して正体を確かめたことはないのかい?」
老人は頭を振った。
「あれが何かくらいちゃんと分かってまさあ、旦那様。 わたしは幽霊なんか探しに行きたくはありませんや。 誰でも知ってるように、幽霊のなかにはこの世をうろつくやつらもいますからね。 ロジャー・アンサンクの幽霊は毎週ブラック・ウッドとあの窓のあいだを行き来しているんです。 でも幽霊なんか見たくもありませんや。 縁起でもねえ。 ベッドのなかで寝返り打って、耳を押さえます。 ブラインドだってあげたことはありません」
「ミドルトン、ドミニー夫人は、この——何ていうか——霊の出没を怖がっているんだろうか?」ドミニーが訊いた。
「そいつはわたしには分かりません。 奥様はいつも愛らしくて、お優しいし、誰にも分けへだてなく親切なお言葉をかけてくださります。 しかし奥様の目には今でも浮かんでいるんです、旦那様がよろよろとお屋敷に戻ってきたあの晩にともった恐怖が。 その恐怖はまだすっかり消えてはいないようです。 奥様は恐怖を抱いていらっしゃる。 でもそれがあなたと再会することへの恐怖なのか、ロジャー・アンサンクの幽霊に対する恐怖なのか、そこのところは分かりません」
ドミニーは急にこの話題を切りあげてしまいたいという、おかしな衝動にかられたようだった。 彼は優しい言葉で、しかしやや唐突に、老人を引き取らせることにし、使用人部屋に通じる廊下まで、ずっとキジ狩りの話をしながら老人を送った。 戻ると、客は二杯目のブランデーを飲み干し、こっそり額の汗をぬぐっているところだった。
「あれこそ長生きしすぎた使用人の逸品ですな。 わたしが中世のドミニー家の者なら、やつの首に石を結びつけて、うんと深い井戸に放りこんでやります。 それがいちばんいいあしらい方だろうと思いますよ。 まったくこっちまでぞっとしてしまった」
「気がついていたよ」ドミニーは軽く笑いながらいった。 「わたしにとっても確かに楽しい会話じゃなかったね」
「お化けの話は幾つか聞いたことがありますが、十年間も毎週やってきて叫び声をあげるというのは、そうあるもんじゃない」
ドミニーはしっかりした手つきでブランデーを注いだ。
「怠慢だぞ、マンガン。 この家から悪霊を祓い清めておくべきだったのに。 君とわたしとで、まず悪魔祓いをしなければ、せっかく集めてくれた聡明な女中たちが明日にはいなくなってしまう」
ミスタ・マンガンはしだいに人心地がついてきた。 ブランデーと燃えさかる薪の暖かさが身体のなかに染みこんできた。
「ところでサー・エヴェラード」彼は少ししてから尋ねた。 「今夜はどこで寝るつもりです?」
ドミニーは悠然と手足を伸ばした。
「どう考えても一カ所しかないじゃないか。 誰も失望させるわけにはいかない。 カシの間で寝るよ」
第十章
悪夢がゆっくりと現実の恐怖に変わっていった。 その最初のもつれた瞬間に、ドミニーはアフリカに戻って、敵に喉元を押さえつけられている自分を見ていた。 それから目覚めた記憶がどっとばかりに押し寄せてきた——広大な屋敷の静けさ、自分の身体が横たわる、黒い樫材の四柱式寝台、そのまわりで謎めいた衣擦れの音をたてる重い垂れ布、そして喉を軽く突き刺す命に関わる何か——そうしたものが非現実のカーテンを押しのけてきた。 彼はほとんど呆然とするしかない自らの状況を鋭く、痛いほど理解した。 彼は目を開けた。 物怖じしない、冷ややかな心の男だったが、恐怖に動きを封じられ、麻痺したようにじっと横たわっていた。 火を灯されたばかりの蝋燭の明かりが、喉元に突きつけられた千枚通しのような短剣を照らし出している。 彼はぎらぎらする細い鋼鉄を魅入られたように見つめた。 すでに皮膚は破れ、血が数滴パジャマの襟にしたたっていた。 命を奪う凶器を持つ手——小さくて細い、ひどく女性的な手が、ベッドの垂れ幕の背後から湾曲しながらのびている——姿の見えない何者かの手。 彼は枕の上に身体をずらそうとした。 手は彼のあとを追い、柔らかな白い袖口がかいま見えた。 彼はそのままの体勢で横たわっていた。 右腕の筋肉が、その残忍な手に飛びかかろうと、緊張していた。 すると声がした——ゆっくりした、女らしい、実に不思議な声だった。
「動いたら命はありません。 じっとしていなさい」
ドミニーは完全に意識を取り戻し、脳は活発に動きはじめた。 死を逃れようとする熟練ハンターのように狡智を振り絞って、彼は可能性を探った。 しぶしぶ彼は観念せざるを得なかった。 どれほどすばやく動こうとも、隠れた敵がその言葉通りのことをするなら、細い短剣が首に突き刺さることは避けられない。 彼はおとなしく横になっていた。
「どうしてわたしを殺そうとするのだ?」緊張した声で彼は尋ねた。
返事はなかった。 しかしなぜか相手がじっと見つめていることは分かった。 腕の突き出た垂れ布のあたりが、ほんのわずか開いた。 隙間を通して誰かが彼のほうを見ていた。 助けを呼ぼうと思ったが、またもや見えない敵に心を読まれた。
「静かになさい」と声は言った——子どもが発したとしか思えないような声だった。 「ささやき声より大きな声を出したら、命はないわ。 顔を見せてちょうだい」
裂け目がさらに少しだけ広がった。 彼は希望を感じはじめた。 短剣を持つ手は震えだし、垂れ布の背後から荒い息づかいが聞こえた——驚いたか、あるいは恐怖したときの女の息づかいだった——そして次の瞬間、残酷な凶器を握った手は垂れ布の陰に引っこみ、女は笑い声をあげはじめた。 あまりにも突然のことで、彼は動くことも、その状況を利用することもできなかった。 最初は静かな笑い声だったが、やがて場違いな陽気な調子に、ややヒステリックな嗚咽が混じりだした。
彼は催眠術にでもかけられたようにベッドに寝ていた。 初めのうちは、悪い夢を見て金縛りにあったかのように手足が言うことをきかなかった。 笑い声が絶え、壁をこするような音がし、蝋燭が不意に消された。 それから彼の神経は元に戻りはじめ、手足が動かせるようになった。 彼は垂れ布から離れるようにベッドの反対側へにじり寄り、拳銃と懐中電灯を置いた小テーブルの方へそっと移動した。 それらをひっつかむと、右手に銃を構え、大きな部屋の暗闇に向かって電灯の小さな円い光りを当てた。 再び恐怖のようなものが彼をつかんだ。 ベッドの脇に立っていた人影は消えていた。 見たところどこにも隠れる場所はない。 強力な電灯が部屋の隅々を照らし出したが、彼以外、部屋には誰もいなかった。 そのことに気がつくや、背筋がぞっとし、平静さを失った。 しかし喉の傷のかすかな痛みは、この訪問が少しも超自然的なものではないことを示す、説得力のある証拠だった。 部屋のあちこちに置かれた六つあまりの蝋燭に火をつけ、懐中電灯を置いた。 彼は額から汗がしたたっていることを恥じた。
「秘密の通路だ、言うまでもない」彼はしばらく身をかがめて隣室と彼の部屋を隔てる鍵のかかった折りたたみ戸を調べた。 「考え直してみると、不必要に危険を冒したのかもしれないな」
ドミニーが窓辺に立ち、北海の灰色のうねりを眺めていると、パーキンスが朝のお湯とお茶を持ってきた。 彼はスリッパをつっかけ、部屋着に腕を通した。
「いちばん近いバスルームを探して風呂の用意をしてくれ、パーキンス。 部屋の配置をすっかり忘れてしまったよ」
「かしこまりました、旦那様」
彼は主人のパジャマについた血を見て、一瞬動きを止めた。 ドミニーは目を下に向け、部屋着をかき合わせて首を隠した。
「今朝ちょっとした事件が起きたんだ」彼は何気なく言った。 「夜中に幽霊は出たかい?」
「何も聞いておりません、旦那様。 ロンドンから来た若い女中ですが、わたしがこちらに来て最初の晩に聞いたものを彼らも聞いたなら、引き留めるのは難しいと思います」
「身の毛もよだつってやつかい?」ドミニーは笑いながらいった。
パーキンスは表情を変えなかった。 しかしその口調は主人の不真面目を暗黙のうちに非難していた。
「あの叫び声くらい恐ろしいものは聞いたことがありません。 わたしは神経質ではないのですが、あれにはひどく動揺させられました」
「人間かね、それとも動物?」
「両方が混じり合ったような声でした」
「アフリカの森のはずれで一夜を明かしてごらん。 野生動物の交響楽だよ。 どれも血が凍りそうな声だ」
「わたしはボーア戦争で南アフリカに行きました。 そのあと、主人について猛獣狩りにも行きました。 アフリカにもいないと思いますよ、一昨日の晩、わたしが聞いたような不気味な叫び声を出す動物は」
「調べる必要があるな」
「廊下の突き当たりのバスルームに、もうお風呂の用意ができています。 よろしければご案内します」
一時間後、下に降りると、小さい方の食事室で弁護士が彼を待ち受けていた。 その部屋は東向きで、海に面しており、天井が高く、大きな窓があった。 壁のところどころに手入れの行き届いていないタペストリーが掛けられ、部屋のなかに色あせた栄光の面影を漂わせていた。 ミスタ・マンガンは予想に反してぐっすり眠ったらしく、上機嫌だった。 サイドボードに並ぶ銀皿の列が彼をいっそう朗らかな気持ちにさせた。
「昨晩は幽霊はお出ましにならなかったんですな?」そう言いながら彼はテーブルについた。 「ロンドンに住んでいると、この水を打ったような静けさがすばらしく感じらられますね。 実を言うと、枕に頭を載せてから、ついさっき目が覚めるまで物音一つ聞こえませんでした」
ドミニーは大盛りの皿を持ってサイドボードから戻ってきた。
「わたしもたっぷり休んだよ」
マンガンは片眼鏡をはめて、主人の喉元を見つめた。
「切ったのですか?」
「カミソリを持つ手が滑ったんだ。 アフリカにいるあいだに使い方が下手になった」
「えらい傷になってますよ」ミスタ・マンガンは不思議そうに訊いた。
「パーキンスが新しい安全カミソリを持ってきてくれる。 さて、今日の予定なんだが、君のほうで構わなければ、午後の二時半に出かけようと思って車の用意をしておいた。 朝のうちは静かに屋敷のなかを見て回ろう。 ミスタ・ジョンソンは近くの農家に泊まっている。 途中で彼を拾っていこう。 それから土地管理人のリーズに一緒に来るよう伝えておいた」
マンガンは頷いて賛意を示した。
「いや、まったく、修理やら何やら、彼らの要求をまじめに聞いてやれるのは嬉しいですな。 ジョンソンのところがいちばんひどかったんですよ、可哀想に。 ロンドンのわたしの事務所まで来てうるさく責め立てるのも一人二人いました」
「借地人にはもう不自由な思いはさせないつもりだ」
ミスタ・マンガンはおかわりをしようとサイドボードのほうへ向かった。
「ノーフォークの借地人を満足させることは不可能ですよ。 でも、最近は、文句が出るのも当然というケースがあることは認めなければなりません。 ウェルズの近くに八百エーカー近い土地を耕している男がいるんですが——」
話は中断した。 ノックの音がしたのだ。 普通のノックの音ではなく、規則的な、ゆっくりとしたノックで、それが三回くり返された。
「入りたまえ」ドミニーが大きな声で呼びかけた。
ミセス・アンサンクが入ってきた。 朝の硬い光りのなかで前よりさらに峻厳な、人を寄せつけない姿に見えた。 彼女はテーブルの端に来て、座っているドミニーに向かい合った。
「おはよう、ミセス・アンサンク」
彼女は挨拶を無視した。
「伝言がございます」
「聞かせてくれ」
「奥様が、今すぐお部屋に来ていただけないかとおっしゃっています」
ドミニーは椅子の背に凭れ、あからさまに敵意をむき出す女の顔にじっと視線を注いだ。 彼女は長く伸びた朝の光のなかに立っていた。 顔の皺、引き締められた口、冷たい、鋼鉄のような目が、どれもはっきりと浮かんで見えた。
彼は相手の反応を試すつもりでこう言った。 「どんなものかな。 今妻に会うことが望ましいとはとても思えないのだが」
使いの者を動揺させようとしてそう言ったのなら、結果は期待はずれだった。
彼女は軽蔑をこめた口調でこう言った。 「心配はご無用と、奥様から特に強く申しあげるように言われました」
ドミニーは負けを認め、コーヒーをもう少し注いだ。 他の二人は、どちらも彼の指が震えていることに気がつかなかった。
「それは優しい心遣いをいただいた。 君の後からすぐ行くとお伝えしてくれ」
ドミニーはさっそく呼び出しに応じ、地味ながらも趣味の良い大部屋に招じ入れられた。 色あせた白と山吹色の壁、つやつやと輝くシャンデリア、みすぼらしいが値のつけられないほど貴重なルイーズ・カーンズの家具。 驚いたことに、ミセス・アンサンクはいつの間にか姿を消していた。 彼は会いにきた女性と初めから二人きりにされたのだった。
彼女は長椅子に座って、彼が近づくのを見ていた。 女?どう見てもまだ子どもだった。 青白い頬、大きな不安そうな目、額から後ろに流した髪。 自分は強い人間ではなかったのか、大いなる大義にこの身を捧げたのではなかったか。 喉元におかしな感情がこみあげ、靄がかかったように目の前がぼやけた。 彼女はあまりに脆く、どこまでも愛らしく、痛ましかった。 一度見たら忘れられないその目には常に不思議な光りが宿っていた。 いや、それともそれは光りの欠如だろうか。 彼の口から挨拶の言葉は出てこなかった。
「わたしに会いにいらしたのね、エヴェラード」彼女は途切れ途切れに言った。 「とても勇敢なのね」
彼は彼女の手を取った。 数時間前には短剣を握りしめ、彼の首に突きつけていた手である。 それから蝋のようなその指に口づけをした。 それは命なきもののように彼女の脇にだらりと落ちた。 彼女は手を持ちあげ、彼の唇が触れたあたりを軽くこすりはじめた。
「言いつけに従って来たよ。 心を弾ませてね」
「心を弾ませて!」彼女はぞっとするような薄笑いを浮かべた。 「言葉遣いが上手になったようね、エヴェラード。 この屋敷でお休みになったのに、まだ生きていらっしゃる。 わたしは約束を破りました。 どうしてからしら?」
「あなたに命を狙われるほどの価値はない人間だから」
「おかしなことを言うわね」彼女は記憶を探った。 「聖書のどこかになかったかしら。 『命には命を』とか。 あなたはロジャー・アンサンクを殺したわ」