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入れかわった男

Chapter 13: 第十一章
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About This Book

The narrative follows Everard Dominy, an Englishman who, after collapsing in the African bush, wakes in a colonial outpost and meets a near-identical officer whose disciplined life and imperial duties sharply contrast with Dominy’s dissipated past. Their conversations and shared meals expose competing philosophies—duty and order versus drift and self-destruction—while hunting, the military training of local recruits, and political maneuvering in the colony provide a tense backdrop. The work examines identity, moral choice, and the consequences of divergent life paths within a remote imperial setting.

 「あれ以来、自分を守るために何人も人を殺したよ。 殺すか殺されるか。 ときどき男はそんな状況に追いこまれる。 あれはロジャー・アンサンクが——」

 「あの人のことはもう話したくありません」彼女はごく静かに断言した。 「一昨日の晩、彼の霊が窓の下からわたしに語りかけたの。 地獄に来い、そして一緒に暮らそうと。 考えただけでもぞっとする」

 「さあさあ、別の話をしよう。 どんな贈り物を買ってあげたらいいのか、教えてほしいな。 お金持ちになってアフリカから帰ってきたんだから」

 「贈り物?」

 彼女の顔はほんの一瞬、おもちゃを与えられた子どものように輝いた。 期待を秘めた笑顔は愛くるしく、あの妙にうつろな表情が目から消えた。 しかし彼が次の言葉を発する間もなく、すべてが元に戻ってしまった。

 「聞いて。 大事なことなの。 あなたを呼んだのは、どうしてか分からないけど、昨日の晩、急にあなたを殺したいと思わなくなったからなの。 あんなにかたく決心していたのに。 今はその気持ちがすっかり消えてしまった。 もう自分が何を考えているのか分からない。 椅子をもっと引き寄せなさいな。 いえ、わたしの隣に来たらいいわ。 ほら、長椅子のこっち側へ」

 彼女はスカートを寄せて、場所を空けた。 座ると彼は手足におかしな震えが走るのを感じた。

 「たぶん誓いを守ることはないわ。 もう破ってしまったんですもの。 あなた、お顔を見せて。 変な気持ちだわ。 あんなに長い月日が経ったのにまだ——夫がいるなんて」

 ドミニーは毒々しいまでに甘く澱んだ空気を吸いこんでいるような気がした。 何もかもが現実離れした感触を持っていた——部屋も、この子どものような女も、彼女の美しさも、ゆっくりとつかえながら話すさまも、彼女が語る異様なことどもも。

 「わたしは変わったかな?」

 「びっくりするくらい変わったわ。 前より力があふれているし、ハンサムになったかもしれない。 でも、お顔から何かがなくなっている。 なくならないと思っていたものが」

 「君はずっときれいになったよ、ロザモンド」彼は用心深く言った。

 彼女は寂しそうに笑った。

 「きれいになっても何の意味もなかったわ、エヴェラード、あなたがわたしの粗末な家に来て、わたしを愛し、わたしにあたなを愛させ、陰気なロジャーからわたしを奪ってからは。 学校の生徒たちがあの人のことを陰気なロジャーって綽名していたことを覚えている?でもそんなことはどうでもいい。 エヴェラード、あなたがわたしを置き去りにしてから、わたし、お庭の外に出たことがないのよ。 知ってる?」

 「これからは違うよ、君が望むなら」ドミニーは急いで言った。 「行きたいところに行けるようになるんだ。 車を買って、町に別邸だって建ててあげる。 うんと有能な医者を連れてきて、君をもう一度丈夫にしてもらう」

 彼女は大きな目をあげて、哀れみを乞うように彼を見つめた。

 「でもどうしてここを離れられるというの?」彼女は悲しそうに尋ねた。 「毎週一回、ときによるとそれ以上、彼がわたしに呼びかけてくるというのに。 わたしが行ってしまったら、彼の霊がここを飛び出して、わたしを追いかけてくる。 わたしはここにいて、手を振ってやらなければならないの。 そうしたら彼は向こうへ行ってしまうから」

 ドミニーはまたもや例の奇妙な、予想もしていなかった感情がこみあげてくるのを意識した。 もう自分の気持ちすら分からなくなっていた。 今まで胸がこんなふうにときめいたことはなかった。 眼までかっと熱くなった。 彼は新奇なものを探して世界中を旅したが、結局この異様な、色あせた部屋のなかで、心を病む女と並んで座っているときにそれを見いだしたに過ぎなかった。 それでも彼は静かにこう言った。

 「もっと親切な人がいる、楽しいところへ君を送らなければならないな。 きっと音楽や美しい絵を見るのは好きだろうね。 君が考えこまないように気をつけないといけないな」

 彼女は途方に暮れたようにため息をついた。

 「あなたを殺したいなんていう気持ちが、血のなかから消えてしまえばいい。 そうしたらすぐにでもあなたに受け入れてもらえるのに。 他の夫婦は憎み合いながらも一緒に暮らしている。 どうしてわたしたちもそうできないの?わたしたち、もしかしたら憎むことすら忘れてしまうかもしれない」

 ドミニーはふらつく足で立ちあがり、窓のほうへ歩み寄って、それを開け放ち、しばらく外に身を乗り出していた。 新たにつけ加わったこの要素は彼にショックを与えた。 そのあいだ、彼女は平然と彼を見ていた。

 「どうなの?」彼女は得体のしれない薄笑いを浮かべた。 「おっしゃって。 昨日の晩、あなたを震えあがらせた手を、妻の手として握ってくださる?」

 彼女は柔らかな温かい手を差し出した。 彼が指に力をこめると、彼女の指も力がこもった。 彼女は楽しそうに彼を見、彼は再び見知らぬ国にさまよいこんで、方角が分からくなった男のように感じた。

 「君にはうんと幸せになってほしい」彼の声はかすれていた。 「でもまだ身体が丈夫になってないね、ロザモンド。 焦って決めることはないさ」

 「わたしがあなたに優しくしようとするから驚いているのね。 でもそうしちゃいけない理由がある?急に心変わりしたわけは分からないでしょうけど——でも変わったのよ。 この短い時間のあいだに、本当のことが見えたの。 あなたを殺しちゃいけない理由があるの、エヴェラード」

 「どんな理由だい?」

 彼女は秘密を隠している子どものように、嬉しそうに頭を振った。

 「あなたは頭がいいから、自分で考えてご覧なさい。 どきどきしてきたわ。 しばらく座をはずしてくれないかしら。 ミセス・アンサンクを呼んでちょうだい」

 解放されることになって、彼は不思議な安堵を感じた。 しかし、さらに不思議なことに、そこには残念に思う気持ちも含まれていた。 彼は彼女の手を放さずにいた。

 「今晩も寝ながら歩き回るつもりなら、短剣は置いてきてほしいな」

 「言ったじゃない」彼女は驚いたように言った。 「わたしは気が変わったの。 あなたは殺さない。 寝ながら歩き回ったとしても——ときどき夜がとても長いことがあるわ——わたしが求めるのはあなたの死ではないのよ」

第十一章

 ドミニーは夢のなかをさまようように部屋を出た。 階段を降りて自室に戻ると、帽子と杖をつかみ、見る間に庭を覆いつくさんとする海霧のなかへ踏み出した。 氷のように冷たい蒸気の雲には、北極の寒気がありったけ詰めこまれている。 しかしそれにもかかわらず彼の額は熱く、脈は燃えるようだった。 壁に囲まれた庭の裏門を抜けると、広々とした沼地があった。 あちらこちらに水路が走り、潮が満ちると海水が舐めるように舌を伸ばしてくる。 彼はおぼつかない足取りで海のほうへ進み、舗装していない石だらけの道に出た。 そこでしばらくためらい、周りを見回していたが、直角の方向に向きを変えた。 やがて小さな村に着いた。 乾燥した赤煉瓦造りの古い家々、こぎれいな狭い庭、背の高い楡の木に囲まれた教会、そして道が交差するところには三角形の芝地があった。 一方の側には、低い、わらぶき屋根の建物が見えた。 ドミニー・アームズという居酒屋である。 反対側には古ぼけた四角い石の家があり、真鍮の表札がかかっていた。 近づいて名前を読み、ベルを鳴らすと、応対に出たやせた女中に医者との面会を求めた。 しばらくすると若々しい見かけの中年男が診療所にあらわれ、一礼した。 ドミニーは一瞬あっけにとられた。

 「ハリソン先生にお目にかかりたいのですが」

 「先生は数年前に引退なさいました」丁寧な答えが返ってきた。 「わたしは先生の甥です。 スティルウェルと申します」

 「先生はまだこの近所にお住まいだろうと思っていたのですが。 わたしはドミニーです。 サー・エヴェラード・ドミニー」

 「そうじゃないかと思っていました。 伯父はわたしとここに住んでいます。 実を言いますと、伯父はあなたを待っていたのですよ。 伯父は一人の患者さんだけを引き続き診ているんです」スティルウェル医師は重々しくつけ加えた。 「誰のことかはお分かりでしょう」

 訪問者は礼をした。 「妻のことですね」

 若い医師はドアを開け、客に先に入るように身振りで勧めた。

 「この家の裏に伯父の小部屋があります。 ご案内しましょう」

 彼らは気持ちのいい、白い石の廊下を通って、小さな部屋のなかに入っていった。 フランス窓からは石畳のテラスとテニス用の芝生コートが望めた。 肩幅が広く、日焼けしていくぶん深刻な表情を浮かべた白髪の老人が窓のほうから後ろを振り返った。 彼はそれまで窓に向って毛鉤の箱を調べていたのだった。

 「叔父さん、古いお友達をお連れしました」

 医師は、待ちわびていたという目でドミニーを見やり、挨拶するように前に進み出たが、ぴたりと立ち止まると、疑わしそうに頭を振った。

 「確かに古い友人とよく似ているが、どうやらあなたは別人のようだ。 お目にかかったことはまだないと思うが」

 束の間、やや緊張した沈黙が流れた。 ドミニーはぎこちなく前へ進み出ると手を差し出した。

 「どうしたんです、先生。 そんなに変わっているはずありませんよ。 確かに試練の月日が続きましたが——」

 「まさか今話している相手がエヴェラード・ドミニーだというんじゃないだろうね」医師が口を挟んだ。

 「まぎれもなくわたしです!」

 医師は冷ややかに握手を交わした。 長年かかりつけの医者を勤めてきたにしては、名門一族のあるじに対して気持ちのこもっていない歓迎の仕方だった。

 「名乗ってくれなければ、君だとは分からなかった」

 「しかし、ここにいるのは間違いなくわたしです。 相変わらず趣味に打ちこんでいるようですね、先生」

 「毛鉤釣りをはじめたのは、狩りを止めてからだよ」

 またもや気まずい沈黙が流れた。 若いほうの男がその隙間を埋めようとした。

 「釣りと猟とゴルフ。 暇つぶしがなかったら、わたしたちみたいな哀れな田舎医者はいったいどうしたらいいのでしょう」

 「それならあとでお誘いをさしあげましょう。 狩りといえばドミニー家の人間が今でも得意とするところですから」

 「楽しみに待っていますよ」即座に返事が返ってきた。

 再び毛鉤の箱の上にかがみこんでいた伯父は不意に振り返った。

 「アーサー、回診に行きなさい。 サー・エヴェラードはわたしと二人きりで話をしたいだろうから」

 「たしかにお話があるのですが、しかし専門家としての意見をお聞きしたいのです。 別に——」

 「とっくに出かける時間なんです。 それじゃわたしは失礼します。 ところでサー・エヴェラード」彼は声をひそめて、相手を軽くドアのほうに引っぱっていった。 「伯父が少々無愛想だとしても大目に見てやってください。 伯父はドミニー夫人に献身的に尽くしています。 ときどき心配しすぎじゃないかと思うのですが」

 ドミニーは頷いて、部屋に戻り、医師を見た。 流行遅れのズボンを穿いた医者はポケットに両手を突っこみ、つくづくと彼のほうを見ていた。

 「とても信じられんな、あんたが本当にエヴェラード・ドミニーだなんて」彼の話し方はいささかぞんざいだった。

 「でも、残念ですが、本物と認めざるを得ないでしょう」

 老人は品定めするように彼を見ていた。 「今の君とわたしが記憶している数年前の君は全然一致しない。 酒に溺れて見る影もないと聞いていたが」

 「世間は嘘つきだらけです。 少なくともそのうちの一人とお会いになったようですね」ドミニーは穏やかに答えた。

 「不摂生の跡さえない」

 「わたしの一族は頑健にできているんです。 ワインを二本、平気で空けるような人間が代々名を連ねていますから」訪問者は無頓着に言った。

 「イギリスを逃げ出してから肝も据わったらしいな。 昨日の晩は屋敷に泊まったのかね?」

 「他にどこで寝たらいいんです?ついでに言うと、自分の寝室で寝たんですが、その報いを受けましたよ」ドミニーは顎をあげて喉元の傷を見せた。 「別にどうということはないんですが」

 「当然だよ。 わたしに相談もせずに屋敷へ行くなんて、そんな権利は君にない。 あんなことが起きたあとだ、奥様に会う権利だってあるものか」

 「わたしの家庭問題に厳しい意見をお持ちのようだ」

 「君の過去を知っているからだよ」彼はそっけなく答えた。

 ドミニーは勧められもしないのに、安楽椅子に腰掛けた。

 「先生はいつもわたしに厳しかった。 ですが、今は純粋に専門家としてお話していただけませんか」

 「わたしが厳しかったのは、君がいつも自分勝手なけだものだったからだ。 この世でいちばん優しい女性と結婚しておきながら、悪い癖を直そうともしなかった。 そして別の男の血に手を染め、ふらふらと家に帰り、彼女を怖がらせ、正気を失わせた。 それから自分の罪を償おうともせず、十年以上も家を離れていた」

 「それはちょっと一方的すぎる見方じゃないでしょうか。 もう一度お願いします。 余計な話はさておいて、専門家としての見解をお聞かせ願えませんか」

 「ここはわたしの家だ。 それに君のほうがわたしに会いに来たんだ。 わたしは好きなことを言うよ。 それが嫌なら出ていくがいい。 ドミニー夫人のためでなければ、ここの敷居をまたぐことだって許さなかっただろう」

 ドミニーは口調を和らげた。 「それでは妻のために、わたしに対するその徹底した非難の気持ちを忘れてもらえませんか。 わたしがここに来た目的はただ一つ。 妻の健康を回復するために、あなたと一緒にできることがないか、教えてもらうためなのです」

 「君とわたしが協力するなんてとんでもない」

 「お手伝いいただけないのですか?」

 「わたしが手伝っても何の役にも立たん。 奥様の身体はあらゆる手段を尽くして治療した。 今はすっかり健康を回復している。 あとは君次第だ。 君一人にかかっている。 あまり期待はしていないがね」

 「わたしにかかっている?」ドミニーは驚いて相手の言葉をくり返した。

 「貞節はあらゆる善良な女の第二の天性だ。 ドミニー夫人も善良な女であり、その例に漏れない。 彼女の頭が枯渇しているのは、心が愛を必死に求めているからだよ。 もしも彼女に君の後悔と改心を信じさせることができたら、もしも過去の償いが可能で、十分にそれがなされたなら、その場合はどうなるか分からない。 君は金持ちになったそうじゃないか。 昔のだらしない、勝手な君から考えると奇跡みたいな話だ。 有名な医者を呼んでくることもできるだろう。 治すことはできないかもしれないが、彼らに数百ギニーを払えば、君の良心は安らぐかも知れん」

 「その人たちに会ってくれますか。 誰を呼んだらいいのか教えてください」ドミニーは嘆願した。

 「馬鹿なことを!わたしは現役を退いたんだ」にべもない返事だった。 「わたしは誰にも会わないよ。 もう医者じゃないんだ。 一村人になったんだ。 ドミニー夫人には古い友人として会いにいくんだ」

 「どうしたらいいのか教えてください。 専門家を呼んでもだめなのですか?」

 「今のところ何の意味もないな」

 「あのいとわしいミセス・アンサンクのことはどうです?」

 「本気でやるつもりなら、あの女の処分は君の仕事の一部だ。 彼女は奥様から太陽を隠すように立ちはだかっている」

 「じゃあ、どうして今まで彼女を放っておいたんです?」

 「一つには、他に代わる人がいなかった。 それにドミニー夫人は、君こそ彼女の息子の殺人犯だと信じこみ、一種の罪の償いとして彼女を保護してやるべきだと、とんでもない考えに取り憑かれたからだよ」

 「二人のあいだに情愛はかよってないとお考えですか?」

 「これっぽっちもありはせん。 ただドミニー夫人が優しくておとなしすぎるものだから——」

 医者はふと言葉を切った。 訪問者の指が首を撫でていたからだ。

 「それは別だ」医師は荒々しく言った。 「まさしくそこに彼女の心の病が残っているんだ。 わたしの見るところ、ミセス・アンサンクはそこにつけこんでいる。 そう言えば、ドミニー家に臆病者はいなかったな。 君が勇敢さを取り戻したのなら、ミセス・アンサンクを追い出し、ドアを開け放って寝たまえ。 一晩でもいい、ドミニー夫人がナイフを持って君の部屋に入ることなく過ごすことができれば、彼女は、いつかは、あの狂気から解放されるだろう。 できるかね?」

 ドミニーが躊躇していることは手に取るように分かった——そして動揺していることも。 医師はあざ笑った。

 「やっぱり怖いか!」

 「先生がご想像なさっているのとは別の意味でね。 妻はもうわたしの命を狙ったりしないと約束してくれたのです」

 「じゃあ、君さえその気になれば、彼女を治してやることができる。 それができれば、君は、人もうらやむ素晴らしい人生の伴侶を得ることになる。 しかし君が楽しみにしていたこと、たとえば、町に別邸を建てたり、競馬やヨットに打ち興じたり、スコットランドでライチョウ狩りをしたり、そういうことは全部、あきらめろ。 少なくともしばらくのあいだは、すべての時間を奥様に捧げなければならない」

 ドミニーは椅子のなかでそわそわした。

 「これから数ヶ月は無理です」

 「無理だと!」

 医師は鸚鵡返しに言った。 まるで感嘆と軽蔑をこめて、その言葉を口のなかで転がしたかのようだった。

 「わたしはもう以前のような怠け者ではないのです」ドミニーは顔をしかめて言い訳した。 「今は、お金儲けには、いろいろな責任が伴ってくるんですよ。 これから数ヶ月のうちに、ドミニー家の地所を担保にして借りていた金をみんな返す予定なのです」

 「君が時間をどう使おうと、わたしの知ったことではない。 わたしが言いたいのは、ただ、奥さんが治るとすれば、それは君のやる気にかかっているということだ。 さあ、こっちへ来てごらん。 窓の明かりの差すところへ。 君の顔を見せてくれ」

 ドミニーは軽く肩をすくめて求めに応じた。 太陽は出ていなかったが、白い北極光が揺れ動いていた。 それは赤茶けた髪にちらほら白髪が混じっていることや、きれいに刈りこまれた口ひげにも同じものがほんのわずか混じっていることを示した。 しかし落ち着き払った目にも、引き締まった男らしい日焼けした顔にも、どことなく傲慢な唇にも、衰えは全く見られなかった。 医師は鉤針の箱を再び取りあげ、ドアのほうを顎でしゃくった。

 「君は奇跡だ。 しかしわたしは奇跡が嫌いだ。 一両日中にドミニー夫人を訪ねるよ」

第十二章

 ドミニーは不思議なほど穏やかな午後を過ごした。 彼と接触した人々にとってもこの上なく満ち足りた午後だった。 愛想よくお世辞を並べるミスタ・マンガン。 地主は満足し、借地人は大喜びというめったに見られぬ光景に、思わず心を弾ませる代理人のミスタ・ジョンソン。 この二人を左右に従え、彼はドミニー家の地所をほぼぐるりと一回りしてきたのだった。 帰宅した時間は遅かった。 しかしドミニーは別世界の住人のように見えて、客に対するもてなしをおろそかにしなかった。 ミスタ・ジョンソンと管理人のリースはワインのマグナム瓶が開けられるのを生まれて初めて見たようだった。 ミスタ・ジョンソンは咳払いをして、グラスを掲げた。

 「サー・エヴェラード、借地人を代表してあなたの健康に乾杯を唱えたいと思います。 借地人のなかには苦労の絶えなかった者もいます。 しかし白人らしく耐えてきました。 彼らとわたしの気持ちをこめて乾杯させてください。 これからもお元気な姿を見せてくださいますように」

 ミスタ・リースもそれに和し、グラスはたちどころに乾され、また満たされた。

 「ご承知でしょうが、サー・エヴェラード、今日お約束なさったことには一万から一万五千ポンドの費用がかかりますよ」と代理人が言った。

 ドミニーは頷いた。

 「今晩寝る前に、ウェルズにある君の銀行の不動産口座に二万ポンドの小切手を送る。 そのための金はもう用意してあるのだ。 そうだ、君に持って行ってもらおうか」

 代理人と管理人は半時間後、大きな葉巻をくわえ、心地よいさざ波のような暖かさが血管を駆けめぐるのを感じながら、車の後部座席に寄りかかっていた。 二人ともおとぎの国へでもさまよいこんだような気分だった。 全く信じられないようなことが起きた、と彼らは思った。

 「奇跡だね」ミスタ・リースは言った。

 「現代の夢物語だよ」小説好きのミスタ・ジョンソンはつぶやいた。 「おや、屋敷に客が来たようだね」一台の車が彼らの横を走り抜けたとき、彼はそうつけ加えた。

 「しかも裕福そうな紳士だ」とミスタ・リースが言った。

 「裕福そうな紳士」とはオットー・シーマンだった。 彼は小さな旅行かばんを手にして大いに恐縮しながら屋敷にあらわれた。

 「ノリッジに行っていたんだよ、サー・エヴェラード。 そこでずっと商売をやっているんだが、お客さんの一人に対応する必要ができてね。 早く片づいたし、ここが三十マイルしか離れていないことが分かると、居ても立ってもいられなくなった。 泊まっちゃ都合が悪いというなら、遠慮無く——」

 「とんでもない。 部屋はいくらでも空いている。 火を起こして、昔ながらのあんかを入れればいいだけさ。 ミスタ・マンガンは覚えているかい?」

 二人は握手し、シーマンは遠出で渇いた喉を潤すために飲み物を受け取った。 晩餐前のベルが鳴っても、彼はしばらくその場に残っていた。

 「彼はいつ帰る予定だ?」

 「明日の朝、九時」

 「じゃあ、それまで黙っていよう。 あまり君につきまとっているように見られてもいけない——本当は来たくなかったのだが——緊急の用件があってね」

 「マンガンには早めに寝てもらうか」

 「わたし自身、早起き鳥なんだよ。 昨日は徹夜したし。 話は明日でいい」彼は疲れたように答えた。

 その日の晩餐は楽しくなごやかなものになった。 ミスタ・マンガンはとりわけ上機嫌だった。 過去十五年間、ドミニー家に関係した話はことごとく貧窮の匂いを放っていた。 実際、帳尻を合わせるために彼は一方ならぬ苦労をしいられたのである。 怒鳴りこんできた借地人との不愉快な話し合い、不満を抱く抵当債権者との公式会見、そんな嫌な仕事をこなしても、歳の終わりに得る利益は目を剥くほど少なかった。 新しい事態は至福境といってもいいくらいだ。 そこに仕上げの一筆を加えたのが、パーキンスだった。 彼はデカンターを二つテーブルに置きながらこんなふうに祝賀の言葉をささやいた。

 「旦那様、五十一年もののコックバーンの大箱がありました」彼は弁護士にも聞こえるようにそっと耳打ちした。 「味見なさりたいのではないかと思い、二本ほどお持ちしました。 ミスタ・マンガンはなかなかの通でいらっしゃるようですし。 コルクは申し分のない状態のようです」

 「これからはペルメル街の堅苦しい高級クラブには行けなくなるな」ミスタ・マンガンはため息をついた。

 シーマンはその晩、まだ宵のうちだというのに、ひどく眠いといって部屋に引き取り、屋敷の主人とマンガンが二人きりでポートワインを飲むことになった。 ドミニーは主人役としてよく気のつくほうだったが、そのときはどことなくぼんやりした様子だった。 観察力の鋭くないミスタ・マンガンでさえ、主人からある種の厳しさ、ほとんど傲慢といってもいい話し方や態度が、一時的に消えてしまったことに気づいた。

 彼は一杯目のワインを飲みながら言った。 「サー・エヴェラード、由緒ある一族が、いわば再興を遂げることになり、わたしがどれだけ嬉しく思っているか、とても言葉にできません。 しかしこう言っては何ですが、最後の締めくくりに一つだけやることが残っていますな」

 「何だい、それは?」ドミニーはぼんやりした声で尋ねた。

 「ドミニー夫人の健康を回復することです。 覚えておいででしょうか。 わたしはあなたが結婚なさったとき、奥様とお近づきになる特権を得た、数少ない人間の一人なんですよ」

 「今朝、結婚以来、ずっと彼女を診ている医者に会ってきたよ。 彼もわたしと同意見で、妻が完全に治る見こみがないわけじゃないと話していた」

 「では、勝手ながら、その希望に乾杯させてください、サー・エヴェラード」

 二つのグラスはきれいに乾されてテーブルに置かれた。 ただドミニーのグラスは脚が二つに折れてしまった。 ミスタ・マンガンは気遣いを示して残念そうに言った。

 「こういう古いグラスは非常にもろくなりますな」彼は感心しながら自分のグラスを見つめていた。

 ドミニーは返事をしなかった。 脳裏に奇妙な幻が浮かんでいたのだ。 彼は部屋の陰からステファニー・アイダーシュトルムが両腕を伸し、昔の誓いを果たすように呼びかけているのが見えたような気がした。 そしてその後ろには——

 「君は人を愛したことがあるかい、マンガン」

 「わたしですか?さあ、どうでしょう」世間を知り尽くした男も突然の質問にいささか驚いた。 「愛なんて今どき流行らないんじゃないでしょうかね」

 ドミニーは思いに沈んだ。

 「そうだろうね」と彼は言った。

 その夜、荒涼とした灰色の海のかなたから嵐が吹き出した。 その到来を告げる風がごうごうと沼地を渡り、ドミニー邸の格子窓を揺るがし、煙突のあいだや、いくつもある屋敷の角で悲鳴をあげ、泣き叫んだ。 黒雲が陸地に垂れこめ、土砂降りの雨ががたつく窓枠と窓ガラスを叩いた。 ドミニーは寝室の大きな蝋燭に火を灯し、部屋着をしっかりまとうと、安楽椅子に腰をおろし、横にある読書灯の向きを調節して、本を読もうとした。 ほどなく本が彼の指から滑り落ちた。 彼は急に緊張し、油断なく注意を払った。 ベッドの左側の羽目板を一つ一つ目で数えた。 聞き覚えのあるカチリという音が二回くり返された。 とたんに暗い空間があらわれた。 それから女が身体を低くかがめながら部屋のなかに入ってきた。 蛾が蝋燭の半円形の光に惹かれるように、彼女はゆっくりと彼のほうに向かってきた。 髪は少女のように後ろに垂らしている。 彼女をふわりと包む白い半透明の部屋着は、ふとボンド・ストリートの一流商店街を思い起こさせた。

 「怖くはないでしょう?」彼女は案じるように尋ねた。 「ほら、手には何も持ってないのよ。 もうあんな気持ちには二度とならないと思うわ。 昨日の晩、わたしが持っていた短剣を覚えている?今日、井戸に捨てちゃったの。 ミセス・アンサンクがとても怒っていたわ」

 「怖くはないさ。 ただ——」

 「まあ、わたしを叱るつもりじゃないでしょうね。 わたし、嵐が怖いの」

 彼は背の低い椅子を一つ、小さな光の輪のなかに持ってきてクッションを置いた。 彼女はそこに沈みこみながら、不意に彼のほうを見上げて微笑んだ。 得も言われぬ愛らしい、こぼれるような笑みだった。 ドミニーは一瞬、心臓をナイフでひと突きされたような気がした。

 「ここで休んだらいい。 何も怖がることはない」

 「わたし、ちゃんとわかっている。 この嵐はわたしたちの生活の一部なのね。 私たちが生まれるとともにやってきて、わたしたちが死につかまるときは世界を揺さぶるんだわ。 怖がってはいけない。 でも、わたしはずっと悪い病気にかかっていたのよ、エヴェラード。 今もエヴェラードって呼んでいいかしら?」

 「もちろんだよ。 どうしてそんなことを聞くんだい?」

 「だってあなたは、ちっともエヴェラードらしくないんですもの。 何かがなくなって、何かがつけ加わったわ。 同じあなたじゃない。 何なのかしら?アフリカで辛い目にあったの?向こうで人生がどういうものか、学んだのかしら?」

 彼は椅子に凭れて、しばらく彼女を見ていた。 椅子はわずかに暗闇のなかへ押しやられていた。 彼女の髪は鮮やかな光沢を放ち、そのせいで彼女の肌は今までになく白く、きめ細かく見えた。 目は輝いていたが、訴えるような、子供が傷つけられることを恐れるような表情があった。 長いあいだ邪な情熱に振り回されていたとはとても思えないほど彼女はひどく幼く、ひどく華奢だった。

 「向こうでいろいろなことを学んだんだ、ロザモンド」彼は静かに言った。 「正しい行いと悪い行いの区別も少しは学んだ。 人生の情熱は、ただ一つをのぞいて、いつかは燃えつきるということも」

 彼女は部屋着の飾り帯をひとしきり指で弄んでいた。 彼が今語ったことは、彼女の理解と興味の外にあるかのようだった。

 「わたしのことはもう恐れることはないのよ、エヴェラード」そういう彼女はどこか哀れだった。

 「ちっとも恐れてなんかいないさ」

 「じゃあ、どうして椅子をもっと引き寄せて、わたしの近くに来ないの?」彼女は目をあげて尋ねた。 「風の音が聞こえる?わたしたちに向かって猛り狂っている。 怖いわ!」

 彼は彼女の横に移動し、その手を優しく取った。 指に力を入れると、彼女の指もすぐに反応した。 彼が語りかけたとき、その声はほとんど自分のものとは思えなかった。 かすれた、押し殺されたような声だった。

 「あんな風に君を傷つけさせたりはしない。 いや、他の何ものにも手を出させはしない。 君を護るためにわたしは帰ってきたのだから」

 彼女はため息をつき、疲れた子供のように微笑んだ。 頭をクッションのなかにさらに沈めると、同時に彼女は目を閉じた。

 「そのままでいてちょうだい。 何かとっても新しいことがわたしに起ころうとしている。 安らかだわ。 今までこんなに甘い、安らかな気持は感じたことがない。 どこにも行かないで、エヴェラード。 手を放さないでね、このまま」

 蝋燭は蝋燭立てのなかで燃えつき、風はいっそう猛々しく唸りをあげた。 嵐の雲を割って朝日が差しはじめる頃、風はようやく収まった。 いつの間にか青白い光りが部屋のなかに入ってきていた。 女はまだ寝入っていたが、その指は相変わらず彼の指をしっかりとつかんでいるようだった。 寝息は変わることなく微かで、規則正しかった。 絹のような黒いまつげは白い頬の上でじっとしている。 唇は——完璧な形の唇は——静かな線を描いて休らっていた。 彼は、なぜか分からないが、この眠りのなかに新しいものが存在していることに気がついた。 目はしょぼつき、手足は痛んだが、彼は座ったまま夜を過ごした。 タペストリーで飾られた壁を小さな背景として、夢が次から次へと立ちあらわれては消えていった。 彼女が目を開けて彼を見たとき、眠りについたときに見せた、あの同じ微笑みが彼女の唇をほころばせた。

 「とってもくつろいだ気分。 気持ちがいいわ。 わたし、夢を見たのよ。 素敵な夢」

 火は消えていて、部屋は寒かった。

 「さあ、部屋に戻らないと」

 彼女はごくゆっくりと指を放し、腕を差しあげた。

 「抱いていって。 まだ半分眠っているの。 もう一回寝たいわ」

 彼は彼女を持ちあげた。 彼女の指が首の回りにまといつき、彼女の頭は満足のため息とともに後ろにのけぞった。 彼は折りたたみ戸を開けることができず、彼女を抱いていったん廊下に出てから、彼女の部屋に入った。 そして乱れていないベッドの上に彼女を横たえた。

 「寝心地はいいかい?」

 「とっても」彼女は眠そうにささやいた。 「キスして、エヴェラード」

 彼女の手は彼の顔を引き寄せた。 彼は唇を額に押しつけた。 それから毛布をかけてやると、逃げるように部屋を出た。

第十三章

 シーマンの愛想のいい顔に陰りがあった。 その日の朝、ミスタ・マンガンが出発したあと、オーバーコートに身をくるみ、主人と二人でテラスを散歩しているときのことだ。 彼はいささか唐突に思っていることを相手にぶつけた。

 「さっそくわたしが訪ねてきた目的について話そう。 君にとっては素晴らしいニュースだ。 しかしその前に……」

 「決行のときが来たのか?」ドミニーは怪訝そうに訊いた。 「しかし、君も知っての通り、わたしはここでまだ足場も固めちゃいないんだよ」

 シーマンは冷淡な口調で説明した。 「その足場固めについて一言言っておく。 ケープタウンで出会ってから、われわれはずいぶんお互いを見てきた。 君はわたしがどんな情熱と目的を持って生きているか知っている。 息抜きいうのは、身体がひからびてぼろぼろにならない限り、人間には必要なものだが、その息抜きにうち興じているわたしの姿も多少は見ている。 だから分っていると思うが、仕事の必要を離れたときのわたしは実は感傷的な男なんだよ」

 「それは認めるよ」ドミニーはぼんやりと言った。

 「君は大事業に乗り出した。 君が本部から指令を受け取ったちょうどそのときに、ドミニーというイギリス人が君のキャンプにやってきた。 これはまさしく天の配剤だった。 君が練りあげた計画はわれわれ全員の賛成を得た。 君は君の最終的な目的を達成するために、実にユニークな立場に置かれることになる。 さて、わたしの言うことをよく聞いて、誤解しないようにしてくれ。 計画を進める上で肝心なのは情け容赦のなさだ。 目的達成に一歩でも近づくことができるなら、ありとあらゆるためらいも慎みも踏みにじる価値がある。 しかし目的にとって役に立たない行為は醜いだけだ。 わたしは幻滅を感じる」

 「いったい何の話だ?」

 「わたしは寝ているあいだも片耳だけはそば立てているんだよ」

 「それで?」

 「今朝早く、君が部屋を出るのを見た。 ドミニー夫人を抱えて」

 ドミニーの日焼けした顔にかすかな青みがさし、目がぎらりと金属のように光った。 一度か二度、急いで呼吸を整えてようやく声を出すことができた。

 「それが君と何の関わりがあるのだろう?」

 シーマンは相手の腕をつかんだ。

 「いいかね、われわれは固く結ばれている。 ブラフは通用しない。 わたしは君が他人になりすますのを手伝うためにここにいる。 財産、地位、人柄といった点に関して。 ちなみに君は今、それらを順調に回復しつつある。 さらに君がありきたりの色恋にふけることに、わたしは少しも干渉しない。 だが、これだけははっきり言っておく。 いくら美しいからといって、心を病んでいる夫人を騙したり、かりそめの夫の地位につけこんだりするのは、国家にとってよほど利益になるという場合を除いて、プロシアの貴族が取るべき行いでは断じてない」

 ドミニーの怒りは表面にあらわれることなく燃えつきてしまったようだった。 彼は相手の言葉にほんのわずかの憤りさえ示さなかった。

 「心配しなくていい、シーマン。 微妙な立場だが、わたしは名誉を重んじる人間としてふるまう」

 「それを聞いてほっとしたよ。 今朝のことは、わたしを不安に陥れようとしてわざとやったのだな」

 「君の率直な忠告は尊重する。 実は昨日の晩、ドミニー夫人が嵐を怖がって、わたしの部屋に入ってきたのだ。 安心してくれ。 わたしは立場をわきまえ、尊敬と同情を持って彼女に接した」

 「ドミニー夫人は奇妙な具合に予定を狂わせるかもしれない」シーマンは考えこむように言った。

 「どんなふうにかね?」

 「近所の人が共通して彼女に持っている印象があるね。 彼女がただ一つのことに取り憑かれているということ、つまり君を憎んでいるということだ。 彼女は君がこの家で再び一晩を過ごすことがあれば、君を殺すと誓いを立てた。 君は大胆な男だから、当然、そんなことは無視した。 しかし次の日の朝、寝間着に血がついていたそうじゃないか」

 ドミニーはゆっくり眉毛をつりあげた。

 「ずいぶん召使いたちに歓迎されているんだな」思わず嫌味を言った。

 「われわれのためにも、君のためにも必要なことだ」そっけない返事が返ってきた。 「話をつづけると、正気を失った人というのは、一度思いこむと、実に執念深いものなのだよ。 昨日の晩の彼女には少しも君を殺そうという様子がなかった。 彼女の愛想のよすぎる態度はわれわれの計画をあやうくしかねない。 分かるかね」

 「どういうふうに?」

 「君の正体が疑われたとする。 いや、その可能性が日ごとなくなってきていることは認めるが、もしも疑われるようなことがあれば、ドミニー夫人があっさり敵意をなくしてしまったことは、君が、君の主張する人物とは違うという強力な推定証拠になるだろう」

 「なるほどね。 その可能性は大いにある。 しかし君のニュースとやらはそんなことじゃないだろう」

 「そうだ。 よろしい、聞きたまえ。 またとないチャンスが君に訪れたのだ」

 「聞かせてくれ」

 「説明しよう。 この二、三日ではっきり悟っただろうが、君の背後には金を湯水のように使う組織がある。 戦争においても外交においても、ドイツは目的を達成するためなら金に糸目をつけない。 昨日は抵当の返済のために、九万ポンドが君の預金口座に振りこまれた。 何ヶ月後か何年後か知らないが、遺産を受け継ぐドミニー家の遠い親戚がその恩恵に浴するわけだ。 金は回収しない。 そんなものは日常的な出費の一項目に過ぎないんだ」

 「わたしの立場を固めるためとはいえ、実に気前のいいやり方だ」とドミニーは認めた。

 「気前がいいのは、長い目で見れば、それがいちばん安全だからだよ。 一文無しで帰国していたら、君に親切な手を差し伸べる人なんか、誰もいなかっただろう。 今でこそ完全に消えてしまったが、へたをすれば君への疑いが生まれていたかもしれないのだ。 さらに、そのどちらよりも深刻なのは、君が社交界に出られなくなることだ。 社交界への進出はわれわれの計画を推し進める上で、絶対必要なことなのだ」

 「そろそろわたしが何をするべきか、もう少しはっきりさせる時じゃないか?」

 「今朝、その話をするつもりだったんだ、このニュースがなければね。 しかし、話のついでに言えば、これだけは約束できる。 君はそんじょそこらのスパイのような、あざとい仕事をさせられることはない。 われわれは別の目的のために君を必要としている」

 「それでニュースというのは?」

 「君の念願が聞き入れられたんだよ。 皇帝が君との会見を望んでおられる。 じきじきに指示を下したいとのことだ」

 ドミニーはテラスの上で急に足を止めた。 彼は相手と組んでいた腕をはずし、呆然と彼を見つめた。

 「皇帝が?わたしはドイツに行くのか?」

 「さっそく出発しよう。 個人的には、こういうやり方は賢明だとも必要だとも思わない。 しかしわたしに相談することなく決められてしまったのだ」

 「わたしに言わせれば、これは自殺行為だよ。 よりによってドイツに行くだなんて、理由をどう説明するんだ?こっちに、まだ、腰も落ち着けちゃいないのに」

 「口実はなんとかなるさ。 君の名義で株を買い取った鉱山は、ドイツの資本で運営されているものが多い。 そのうちの一つが経営難に陥ったと言っても、誰も不思議には思わない。 株主投票が必要な事態をでっちあげるよ。 君は悩むことはない。 それより、素晴らしいことじゃないか!一日とはいえ、追放の命令が解除されるんだ。 もう一度、祖国の空気が吸えるんだぞ」

 「それは素晴らしいな」ドミニーは低く言った。

 「君には未来を予感させる息吹になるだろう。 さあ、行動だ。 わたしは行動するのが大好きなんだ!時刻表と運転手の用意をしたまえ」

 二人は朝のうちに車でノリッジに向かい、そこからハリッジに行くことになった。 ドミニーは旅の服装に着替えてミセス・アンサンクを呼んだ。 間もなく彼女が書斎にあらわれた。 彼は椅子を差し出したが、彼女は座ろうとしなかった。

 「ミセス・アンサンク、どうして十年間も妻の付き添いで満足してきたのか、理由を教えてくれませんか」

 ミセス・アンサンクはこの唐突な質問に驚いた。

 しばらく間をおいて彼女は答えた。 「ドミニー夫人がわたしを必要となさったからです」

 「あなたは自分が妻にとって最上の付き添いであると考えますか?」

 「他の人は誰も受け入れようとなさいませんでした」

 「妻に心をこめて尽くしていますか?」

 ミセス・アンサンクは見るからに頑固な、気性の激しい女だったが、明らかにドミニーの一連の質問に当惑させられているようだった。

 「そうでなければこんなに長くお屋敷にいるでしょうか」

 「わたしには妻があなたを必要とする理由が見いだせない。 さらにあなたは、わたしのことを、息子を殺した犯人だと固く信じている人間の一人だ。 妻に仕えているのは、キリスト教徒としての振る舞いですか。 つまり悪に対して善をもって報いるということですか?」

 「いったい何がおっしゃりたいのです、サー・エヴェラード」彼女は荒々しく訊いた。

 「こういうことです。 わたしは妻に健康を回復させてやるつもりです。 そのために専門家をここに呼びます。 そして何よりしばらく転地療養させようと思う。 あなたがそばにいないほうがはるかに妻の回復に期待が持てる、わたしはそう思うのですよ」

 「まさかわたしを追い出そうというのですか?」

 「そうです。 まだドミニー夫人には話していませんが、いずれ遠からず妻もわたしの意向に同意してくれるでしょう。 あなたの経済的な将来は保証します。 毎年三百ポンドの金を支給しましょう」

 女は初めて気弱な態度を示し、震えはじめた。 その目に奇妙な怯えが浮かんだ。

 「ここを離れるわけにはいかないのです、サー・エヴェラード。 ここにいなければならないのです!」

 「なぜです?」

 「ドミニー夫人はわたしなしではやっていけません」彼女はむっつりといった。

 「それは妻が決めることです。 聞くところによると、あなたは妻に、息子さんの幽霊が出るという、くだらない噂を積極的に吹きこんでいる。 それにわたしに対する理不尽な憎しみをあおり立ててきた」

 「理不尽ですって?」女は叫んだ。 「あなたにそんなことが言えるのですか?両手を血に染めて帰ってきたくせに。 あなたさえ邪魔しなければ奥様が愛していたはずの男の血に。 それをよくも理不尽だなどと」

 「言うべきことは以上です、ミセス・アンサンク。 大事な用があって、二、三日ここを離れなければなりません。 帰り次第、今言った方向で改めていきます」女の顔の奇妙な変化を見つめながら彼は言い添えた。 「そのあいだのことですが、今朝ハリソン先生に手紙を書きました。 午後からこちらに来てもらい、わたしが戻るまでドミニー夫人を直接お世話いただくことになっています」

 彼女は相手を見ながらじっと立ちつくしていた。 それから少しだけ近づくと、彼の顔を覗きこむように身を乗り出した。

 「十一年あれば人は変わるもの。 でも弱虫が治ったというのは聞いたことがない」

 「これ以上話はありません。 これからすぐ妻に会いに行きます」

 車の警笛が鳴りはじめるころ、ようやくドミニーは妻の部屋に入ることを許された。 彼女は暖かい紅色のゆるやかなガウンをまとい、彼が来るのを今か今かと待っていたようだった。 強い憎しみは白い顔からも、異様なほど穏やかな瞳の奥からも消えていた。 彼女は彼に向かって手を差し伸べ、軽く眉をひそめた。 子供のような失望が彼女の態度にうかがわれた。

 「お出かけになるの?」

 「すぐ出かけなければならないんだ。 君に会うため一時間待ったよ」

 彼女は顔をしかめた。

 「ミセス・アンサンクのせいよ。 わざとわたしの持ち物を隠したのだと思うわ。 会いたくてたまらなかったのに」

 「ミセス・アンサンクのことで話がある。 彼女に出ていってもらって、誰かもっと若い、親切な人に付き添ってもらうというのは嫌かい?」

 それは彼女には考えることもできないことのようだった。

 「ミセス・アンサンクは決して出ていかないわ。 彼女はあの声を聞くためにここにいるのよ。 一晩中耳をすませて待っていることもあるわ。 声が聞こえると、ほっとするの」

 「君は?」

 「わたしは怖い。 だってそんなに強くないもの」

 「ミセス・アンサンクは好きじゃないんだね」彼は心配そうに尋ねた。

 「ええ」困惑しながら彼女は答えた。 「彼女は怖くてたまらない。 でも、そんなことしても無駄よ、エヴェラード。 絶対出ていこうとしないわ」

 「わたしが戻ってきたら分かるさ」

 彼女は相手の腕を取って、自分の両手を握り合わせた。

 「あなたが行ってしまうなんて、残念だわ。 早く戻ってきてね。 そうしてくれるでしょう——あなた?」

 ドミニーの爪が、握り締めた手の肉に食いこんだ。

 「三日以内に戻ってくる」彼は約束した。

 「あのね」彼女はこっそり秘密をささやくように言った。 「最近、わたし、気持ちが変わったの。 昨日そのことを話したけど、理由は教えなかったわね。 もうわたしのことを怖がらないで。 わたし、分かったのよ」

 「何が分かったんだい?」彼はかすれた声で尋ねた。

 彼女は声をひそめ、耳打ちするように言った。 「わたし、わかったの。 あなたの首に短剣を突きつけて、急に殺す気がなくなったあの瞬間に。 あなたはときどきあの人そっくりだわ。 でもあなたはエヴェラードじゃない。 わたしの夫じゃないのよ。 別人なのね」

 ドミニーははっと息をのんだ。 二人は連れだってドアの方へ歩いた。 ミセス・アンサンクがやせ細った、酷薄な顔を、勝ち誇ったように輝かせ、目をぎらぎらさせながら立っていた。 彼女の唇はまるでひとりでに動くかのように、女主人の言葉をくり返していた。

 「別人!」

第十四章

 二人のあわただしい旅の最中に、シーマンは連れの様子を見て考え込んでしまうことが幾度かあった。 ドミニーはそれこそ極端に無口になった。 過去という網に絡め取られ、心を奪われ、そのあまり夢のなかにでもさまよいこんだようだった。 必要なときしか喋らず、外界が一切の意味を失ってしまったようだった。 旅も終わりに近づいたとき、暖房の効きすぎた簡素なコンパートメントのなかで、シーマンは席から身を乗り出した。

 「里帰りだというのに憂鬱そうだな、フォン・ラガシュタイン」

 「ドイツには二度と帰らないとずっと思っていたからね」

 「いまも過去が忘れられないか」

 「忘れたことなんかないさ」

 列車はどこまでも続く葡萄の丘を走り抜け、平地に出たかと思うと、今度は松林に入った。 そのなかほどの地点に開けた空間が広がっていて、窓を閉め切っていても、朽ち木が発する樹脂の匂いがコンパートメントに染み込んでくるようだった。 やがて列車の速度が落ちた。 シーマンは時計を見て立ちあがった。

 「支度をしたまえ。 もうすぐ下車する」

 ドミニーは窓外を見た。

 「しかし、ここはどこなんだ?」

 「目的地から五分以内のところだ」

 「でも家一軒見えないじゃないか」ドミニーは意外そうに言った。

 「皇帝の専用列車が君を待っている。 皇帝は今、幕僚たちと軍隊視察に回っていらっしゃる。 われわれは光栄にもベルギー国境まで帰路を同伴することを許されたのだ」

 列車はもう停まっていた。 髭を生やした制服の鉄道職員がコンパートメントのドアを開け、彼らは切り出したばかりの松材で、最近建てたらしい小さな駅の、狭いプラットフォームに降り立った。 列車は彼らが降りるとすぐさま走り去った。 彼らの旅は終わったのだ。

 シーマンと鉄道職員のあいだで短い会話が交わされるあいだ、ドミニーは興味深そうにあたりを見回した。 駅の周りには、木立や灌木の陰に見え隠れしながら、兵士たちが隙なく非常線を張っていた。 彼らは待避線に停まっている列車から、つい先ほど出てきたのだろう。 その真ん中に一両だけ、黒地に金の派手な装飾を施し、中央にドイツ王家の紋章をあしらった特別優等客車があった。 シーマンは会話がすむと、ドミニーの腕を取って、線路を越え、そちらの方へ彼を導いた。 士官がデッキで彼らを迎え、ドミニーに堅苦しい礼をした。 ドミニーはそれを面白そうに眺めた。

 「皇帝は今すぐあなたにお会いになります。 どうぞこちらへ」

 彼らは列車に乗りこみ、贅沢なカーペット敷きの通路を進んだ。 案内役が立ち止まり、小さな休憩室を指さした。 そこには数人の男が椅子に腰掛けていた。

 「ヘア・シーマンのお友達がこちらにいらっしゃいます。 皇帝陛下はしばらくあとであなたにお会いになります。 フォン・ラガシュタイン男爵はこちらへ」

 ドミニーは貴賓車に連れて行かれた。 案内役は入り口のところで待つように手で彼を押し止め、自分は数歩前進して、椅子に座っている人物の前で立ち止まり敬礼した。 彼は地図の上に身をかがめていた。 その地図は将軍の軍服を着た、いかめしい顔の男が広げたものだった。 皇帝は足音を聞いて視線をあげ、将軍の耳に何事かをささやいた。 将軍はカチリと軍靴のかかとを合わせ、引きさがった。 皇帝はドミニーに進み出るよう手招きした。

 「フォン・ラガシュタイン男爵をお連れしました、陛下」若い士官が言った。

 ドミニーはさっと不動の姿勢を取り、ぎこちなく一礼した。 皇帝はにっこりと笑った。

 「ドイツ軍人が軍服を脱いでもじもじしているというのも、面白い見物だな。 伯爵、行ってよろしい。 フォン・ラガシュタイン男爵、座りたまえ」

 「失礼いたします、陛下」ドミニーは威厳に満ちた主人の指さす椅子に腰をおろした。

 「万事遺漏なく進展しているようだな。 楽にしたまえ。 アフリカでは立派な働きをしてくれたと報告を受けている」

 「陛下のご意志を実現するために全力を尽くしました」

 「君の仕事ぶりがあまりに素晴らしかったので、顧問官が異口同音に進言してきたのだ、間もなくわれわれにとって重大な関心事となる計画に引き戻すように、とな。 指令を受けて君はさっそく行動に移ったようだ。 イギリスの男爵になりすますことに成功したと聞いているが?」

 「今までのところ順調に進んでいます」

 「アフリカでの仕事も大切だったが、今の任務はそれよりはるかに重要だ。 これからしばらく腹蔵なく君と話がしたい。 しかしその前にまず乾杯しようじゃないか」

 皇帝は脇にあるマホガニー製の小テーブルから首の長いモーゼルワインの瓶を取り出し、美しいグラスを二つ満たすと、一方を相手に渡し、他方を高く掲げた。

 「祖国のために!」と彼は言った。

 「祖国のために!」ドミニーは唱和した。

 二人は空のグラスを置いた。 皇帝は羽織っていた灰色の軍用マントを後ろに押しやった。 幾つもの勲章と飾りがあらわれた。 皇帝の指はまだワイングラスの脚をもてあそんでいる。 しばらく物思いにふけっているような様子だった。 厳格で、どこか冷酷な口元は、固く引き締められ、額にはかすかにしわが寄っていた。 座っていても背筋は伸び、安楽椅子のクッションに寄りかかることはない。 目はややつりあがり、顔の表情がいっそう重々しさを増した。 たっぷりと五分は完全な沈黙がつづいた。 重大な用件をひとまず横に置いて、全神経をドミニーの計画に集中しているかのようだった。

 「フォン・ラガシュタイン」皇帝はようやく切り出した。 「君を呼んだのは君のイギリス滞留について話があったからだ。 任務の内容を、わたしから直接聞いてもらおうと思ったのだ」

 「光栄に存じます」

 「君はわがスパイ組織の制限、権威、義務から完全に切り離されていると考えてもらいたい。 君に期待しているのは別のことだからだ。 なりすます相手になりきってもらいたい。 典型的なイギリスの地方郷紳として労働問題やアイルランド問題、国民兵役計画の進展、そしてそのうち連絡が行くだろうが、その他の社会運動について研究してもらいたいのだ。 どうやらイギリスはわが国に疑いの目を向けはじめているようだが、論評や小説の形で、そうした疑惑をあおり立てている物書きたちのリストを作ってもらいたい。 これはどれも君の本来の任務からすると周辺的なものに過ぎない。 そのことはわれわれの畏友シーマンからすでに聞いているだろう。 これはターニロフ王子と友情を結ぶためのもの、いや、できれば親交を深めるためのものだ」

 皇帝はいったん言葉を切って、再び窓の外に広がる風景に目を転じた。 彼の目は明らかに夢想家の目ではない。 しかしそのときは思い悩むような色に満ちていた。

 「大使はわたしをあたたかく歓迎してくれました」

 「ターニロフは平和の鳩だ。 オリーブの小枝を口にくわえて運んでいく。 わが政治家と顧問官なら、もっと断固とした資質の大使をロンドンに送っただろう。 しかしわたしは不賛成だった。 ターニロフは愚か者を騙すにはうってつけの男だ。 なぜなら彼自身が愚か者だからだよ。 自国よりも強大で、文化も進み、よりすぐれた指導者をいただく国家が日一日と忍び寄って来るというのに、海の守りも陸の守りも固めようとしない国にはぴったりの大使だ」

 「イギリスは海軍に全幅の信頼を置いているようです、陛下」ドミニーはためらいがちにそう言った。

 相手の目が光った。 唇が嘲るように歪んだ。

 「たわけた連中だ!一旦この剣が鞘を離れ、カレーとブローニュ沿岸の町を押さえ、わが大砲がドーバー海峡を制したら、彼らの海軍など何になろう!島国が威張りくさっていた日々は終わったのだ。 イギリスの傲慢な海上制覇が終わったのと同じくらい確実に」

 皇帝は自分のグラスとドミニーのグラスを再び満たした。

 「フォン・ラガシュタイン、数ヶ月後には、なぜターニロフの仲間になれと命令されたか、その理由が分かるだろう。 今よりももう少しはっきり君は任務を理解する。 その真の狙いは時期を待って明らかにされるだろう。 君はどんな時でもシーマンを信じたまえ」

 ドミニーは一礼し、黙っていた。 皇帝はまたもやひとしきり思い悩んだあと、こうつづけた。

 「フォン・ラガシュタイン、わたしが君に追放を宣告したのは、公正な処置だった。 国民の風紀を正すことは、彼らのためにより強大な帝国を築くという誓いと同じく、わたしの神聖な役目だ。 君は第一に、同盟国のもっとも有力な貴族の妻を誘惑し、第二に、そのあとの決闘で彼を殺してしまった」

 「あれは事故だったのです、陛下。 王子を傷つける気はさらさらなかったのです」

 皇帝は顔をしかめた。 彼は言い訳を一切嫌っていた。

 「逆の形で事故が起きればよかったのだ」と皇帝は鋭く言った。 わたしはかけがえのない部下を失うべきだったのだ。 しかし現実には君が生き延び、罰を受けた。 それでも君のアフリカでの活躍はめざましく、落ち度もなかったという。 わたしはこの一回だけ、君に名誉を回復するチャンスをやろうと思う。 イギリスでの任務を見事にこなせば、今君が服している追放宣告を撤回しよう」

 「ありがたいお言葉です。 報われる希望がなかったとしても、この任務はそれだけで全力を尽くすに値します」

 「よくぞ言った。 わが帝国の息子たちは、すべからくその意気で未来を見つめなければならない。 思うに彼らも、そしてとりわけ側近の者たちも、わたしに伝えられた神の言葉をそれなりに感じ取っているようだ。 長年、わたしは国民のために平和の構築をめざしてきた。 しかし天がわたしに示したもう一つの義務を果す時が近づいたのだ。 忠誠なるドイツ人は必ずや、みな、わが剣を包む雷光にひれ伏し、それを振るう鉄の意志を共有するに違いない。 さがってよいぞ、フォン・ラガシュタイン男爵。 休憩室に供回りの者がいるから、そちらへ行たまえ。 数分後に出発し、君らをベルギー国境に置いていくことになっている」

 ドミニーは立ちあがり、強ばった一礼をしたあと、カーペット敷きの通路を引きさがった。 皇帝はすでに地図の上に身をかがめていた。 休憩室のドアの前に立っていたシーマンは、彼をなかに招き入れ、随行員たちを紹介した。 一人、片眼鏡をはめ、顔に傷痕のある、操り人形のように奇妙な動きをする若者が、不思議そうに彼をみつめた。