王女は最前座りこんだ椅子から立ちあがった。 ドミニーが彼女のほうを見た。
「王女、お話することは何もありません。 しかし、これだけは覚えておいてください。 フォン・ラガシュタインは冷酷にもわたしを殺そうとしました。 わたしは、やろうと思えば、少しも危険を冒すことなく、彼を殺すことができました。 しかし、わたしは正々堂々と渡り合いたかった。 命を取るか、取られるか。 わたしは祖国のために闘いました。 彼が彼の祖国のために闘ったように」
「わたしはあなたを死ぬまで憎みつづけるわ。 あなたはわたしの愛する人を殺したのだから。 でも、女とはいえ、わたしは公平に振る舞うことを知っています。 あなたはわたしに優しく、礼儀正しく接してくれた。 レオポルドに対しても、たぶん、彼があなたに接する仕方以上に、気を配っていたかもしれない。 あなたには二度とお目にかかりません。 見送りはいりませんから、いますぐこの屋敷を出て行かせてください」
ドミニーはテラスに出るガラス戸を開け、脇に退いた。 彼女は彼に一瞥もくれず姿を消した。 エディがそのあと、テラスをゆっくり歩いてきた。
「いい玉だよ、あの二人は。 シーマンは、ついさっき、フォーサイスという青いサージのスーツを着ていた巨漢に百ポンドを渡して、撃ち殺してくれと頼んだんだ。 逃げようとしたという口実で」
「シュミットは?」
「士官の権利を主張して前部席に座らせろと言うんだ。 出発前には葉巻を要求したよ!うまくやったね、ドミニー。 きれいに片づいた」
ドミニーは二台の車が埃を蹴立てて走り去るのを見ていた。
「エディ、教えてくれないか。 一つだけ、ずっと不思議に思っていたことがある。 あのヴォルフという男、戦争もはじまっていないし、法も犯していないのに、どうして監禁できたんだ?」
若者はにやりと笑った。
「あのときは無理をして容疑をでっちあげなければならなかった。 要塞の見取り図、さ」
「彼は要塞の見取り図を持っていたのか?」
「ノリッジ城の絵はがきをね」と若者は打ち明けた。 「誰にも言っちゃ駄目だぜ。 車で帰る前に一杯もらえるかい」
一日の騒動が終わった。 異常な緊張をしいる生活がついに終わり、ドミニーは静かな、しかし湧きあがるような感謝の念を覚えた。 しかし彼の心は、二階の寝室で繰り広げられている戦いに、すぐさま占領されてしまった。
晩餐のとき、老医師が上から降りてきた。 彼はドミニーの食い入るような眼差しを受けて、こくりと頷いた。
「容態はいい」
「熱も異常もありませんか」
「幸いにね。 肉体的にはほとんど申し分のない健康状態だ。 去年の今頃と比べたら、見違えるようだ。 目が覚めたら、彼女は自分を取り戻し、妄想からすっかり解放されているか、さもなければ——」
医師は一呼吸置いてワインに口をつけ、それを飲み干すと、いかにも良い酒だというように、グラスを置いた。
「さもなければ?」ドミニーは先を促した。
「さもなければ頭の一部に何らかの障害が残る。 良い結果が出ることを祈っているよ。 君がこの場にいてくれて本当に助かった!」
二人はろくに口もきかず、食事を終えた。 そのあとは、しばらく、テラスで煙草を吸ってから、足音を忍ばせて二階にあがっていった。 医師はドミニーの部屋の前で別れた。
「一時間ほど奥さんのそばについているが、そのあとは奥さん一人にするよ。 何かあったときに備えて君もここにいるね?」
「います」ドミニーは約束した。
一分一分がいつの間にか一時間に変わった。 ドミニーは大波のような激しい感情に揺すぶられながら、安楽椅子に座っていた。 帰国した当初の記憶が痛いほどの切なさとともによみがえってきた。 あの頃と同じ、心のなかをかきむしられるような、奇妙な、落ち着きのない、優しい気持ちを再び感じた。 この世界という大舞台で役を演じつづけなければならないことは分かっていたが、それが遙か遠いところで起きているような、まるで人間とは違う種族の問題事であるかのような気がした。 彼の全存在が狂おしいほど一つのことを期待し、その魔法のような音楽をとらえようとしている、そんな感じだった。 しかし長いこと耳を澄まし、じっと待っていた音がとうとう聞こえたとき、期待は凍りついて恐怖に変わったように思えた。 彼は少しだけ安楽椅子から身を乗り出した。 両手は手もたれをつかみ、目はゆっくりと広がる羽目板の割れ目を見ていた。 以前と同じことがくり返された。 彼女は屈めた身体を伸ばして、彼のほうに近づいてきた。 そのうしろで見えない手が羽目板を閉じた。 彼女は腕を突き出し、輝く目にこの世の良きものすべてと愛をあふれさせ、彼のそばにやってきた。 あのかすかに夢遊病者めいた様子は消えていた。 こんなふうに近づく彼女は見たことがなかった。 彼女はまさに本物の、生き生きとした女性だった。
「エヴェラード!」
彼は彼女をかき抱いた。 最初のキスをしたとき、彼女は頭のてっぺんから足の先まで戦慄が駆け抜けるのを感じた。 しばらく彼女は相手の肩に頭をもたせかけていた。
「まあ、わたし、何て馬鹿だったんでしょう!ときどき、あなたがエヴェラードでないような、夫でないような気がしていたの。 でも、今、分かったわ」
彼女の唇はもう一度、彼の唇を求めた。 それは何年も満たされなかった欲求に乾ききっていた。 廊下では老医師がほほえみを浮かべ、こっそりと自分の部屋に戻っていった。
後記
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