The Project Gutenberg eBook of 入れかわった男
Title: 入れかわった男
Author: E. Phillips Oppenheim
Translator: Kiyotoshi Hayashi
Release date: October 29, 2010 [eBook #34158]
Most recently updated: February 24, 2021
Language: Japanese
Credits: Produced by Kiyotoshi Hayashi
Title: 入れかわった男(Irekawatta otoko)
Author: E. Phillips Oppenheim
Translator: 林清俊(Kiyotoshi Hayashi)
Character set encoding: UTF-8
入れかわった男
エドワード・フィリップス・オッペンハイム
第一章
大事件の発端となるあの災難は、エヴェラード・ドミニーが小一時間も低木の藪を押しわけ、細く渦巻きながら立ちのぼる煙をめざし、子馬に最後の絶望的な努力をしいて巨大な夾竹桃の茂みを通り抜け、前のめりに頭から小さな空き地へ転落した時点にはじまる。 翌日の朝、気がつくと、彼は数ヶ月ぶりにリンネルのシーツに包まれて、キャスターつきのベッドに横たわっており、過酷な太陽と彼のあいだには、涼しげな竹で編まれた屋根があった。 彼はベッドの上でわずかに身体を起こした。
「いったいどこなんだ、ここは?」
バンダの入り口に胡座をかいていた黒人少年が立ちあがり、何事かをぶつぶつとつぶやいて出ていった。 すぐに上背のある、痩せたヨーロッパ人が、一点の染みもないまっ白な乗馬服に身をつつみ、入り口をくぐってドミニーのそばにやってきた。
「ご気分はよろしいですか?」彼は丁寧に尋ねた。
「ああ、いいよ」と彼はやや無愛想に答えた。 「ここはどこなんだ?それに君は誰だい?」
新たにあらわれた男はむっとした表情を浮かべた。 彼の物腰には威厳があり、口調にはいくぶん非難がこめられていた。
「ここはイリワリ河から半マイルも離れていない、と言えばおわかりになりますかな。 ダラワガ入植地から七十二マイルほど南東です」
「何だと!じゃあ、ここはドイツ領東アフリカなのか?」
「その通りです」
「すると君はドイツ人なんだな?」
「ドイツ人であることはわたしの誇りです」
ドミニーは軽く口笛を鳴らした。
「不法侵入したことは深くお詫びする。 ぼくはマーリンシュタインを二ヶ月半前に出発したんだ、土地の者二十名と、貯えをたっぷり持ってね。 ぼくらはライオンを追いかけて長い狩猟の旅をしていた。 アフリカ人新兵も何名かいたのだが、そいつらが面倒を起こした。 ある晩、やつらは食料の貯えを分捕ろうと騒ぎを起こしたんだよ。 ぼくは二人ほど銃で撃たざるを得なかった。 しかしおかげで他の者がみんな逃げてしまった。 いまいましいことにコンパスを持ち逃げされ、思っていた方向から百マイル近くもそれてしまった。 飲み物をもらえないかな?」
「医師の許可があれば喜んで」慇懃な答えが返ってきた。 「ここに来たまえ、ジャン!」
少年が飛び起き、現地の言葉で発せられた二言三言の短い命令を聞くと、垂れさがった葉のとばりを抜けて、別の小屋へと消えた。 二人の男は並々ならぬ関心をこめて視線を交わした。 ドミニーが笑った。
「君が何を考えているか、ぼくには分かるよ。 君が入ってきたときはぎくっとした。 ぼくらは恐ろしいくらいそっくりだな」
「確かに非常によく似ていますね」と相手は認めた。
ドミニーは片手を頭の下にあてがい、主人の顔をしげしげと眺めた。 容貌の類似は一見して明らかだったが、どこをとっても分があるのは、簡易ベッドの脇で腕組みして立っている男のほうだった。 エヴェラード・ドミニーは生まれてから二十六年間、彼の地位にあるごく普通の英国人青年と同じように生きてきた。 イートン、オックスフォード、数年間の軍隊生活、すでに負債を抱えた地所をますます望みのない泥沼に陥れただけの都会暮らし。 そして数ヶ月のあいだ悲劇に翻弄されたあとは無為徒食の日々。 その後の十年間、最初は都会を巡っていたが、ふとアフリカの奥地にさまよいこみ——それからの歳月のことは誰も知らない。 十年前のエヴェラード・ドミニーは確かに美男子だった。 今や整った顔立ちこそそのままだが、目は輝きを失い、身体から弾力は失せ、口元は締まりがなかった。 熱病と不摂生に蝕まれ、いかにも若くして盛りを過ぎてしまった男の風貌だった。 しかし目の前の相手は違う。 面立ちは彼と同じように整っていて、似てはいるが、いっそう精力的だった。 目は燦めき、情熱に燃えている。 引き締まった口と顎は、彼が行動の人であることを示し、上背のある身体はしなやかで敏捷だった。 体調は万全、精神も肉体も完璧な状態にあり、表情にほんのわずか重苦しさがあったが、威厳を持ち、それなりに満足を感じながら生きている男の風格があった。
「そうだな」英国人はつぶやいた。 「確かに似ている。 健康に注意していたら、もっと似ていただろう。 でもしなかった。 それが問題なのさ。 ぼくは逆の方向につっぱしった。 自分の人生に見切りをつけようとして、もうちょっとでそれに成功するところだった」
枯れ草のとばりが一方に押しのけられ、医師が入ってきた。 小柄なまるまるとした男で、やはり染み一つない白い服を身につけている。 髪は金髪で、厚い眼鏡をかけていた。 同国の男がベッドを指さした。
「病人を診て、必要なことを指示してやってくれないか、先生。 飲み物がほしいそうだ。 ワインでも何でも身体にいいものをさしあげてくれ。 充分回復したら、われわれの晩餐に同席していただこう。 では失礼します。 報告書を書かなければならないので」
ベッドの男は頭を巡らし、目にかすかな羨望の色を浮かべて相手の後ろ姿を見つめた。
「ぼくの命の恩人は何という名前なんだい?」彼は医師に尋ねた。
医師はその質問が無礼であるかのような顔をした。
「陸軍少将レオポルド・フォン・ラガシュタイン男爵様です」
「そんなに長いのか!」とドミニーはつぶやいた。 「総督か何かなのかい?」
「植民地領陸軍司令官です。 特別の任務も受けて、この地におられるのです」
「ドイツ人にしては、やけに男前だな」ドミニーはよく考えもせず横柄な口をたたいた。
医師は平然としていた。 彼は患者の脈を取っていた。 数分後、診察は終わった。
「最近、ウイスキーを飲み過ぎていませんか?」
「それが君と何の関係があるのか分からんが」ぞんざいな返事だった。 「しかし飲めるときはいつも飲んでいる。 この胸くそ悪い気候のなかで誰が飲まずにいられるんだ!」
医師は頭を振った。
「対処法さえ間違えなければ、ここの気候は悪くないです。 閣下はライトワインとセルツァー炭酸水しかお飲みになりません。 ここに来て五年、いや、ここだけではなく、沼沢地にもいらっしゃいましたが、病気一つしたことがありません」
「ぼくは死にそうになったことが十回以上ある」イギリス人はいささか投げやりな調子で言った。 「いつ死んだってかまやしないんだが、そのときが来るまで飲めるウイスキーは飲みつづけるつもりだ」
「料理人が昼食を用意しています。 食事をなさったほうが身体に良いでしょう。 今はウイスキーをさしあげるわけにいきませんが、ローリエ入りのホック・アンド・セルツァーなら召しあがっても大丈夫です」
「持ってきてくれ」彼は勢いよく答えた。 「われながらあきれた体質だよ、先生!外の料理のにおいによだれが垂れそうだ」
「自重さえなされば、あなたの健康状態はまだまだ良好です」医師は元気づけるように断言した。
「連れの者がどうなったか、聞いていないか?」
「現地人兵士の死体が川辺に打ちあげられました。 それからあなたの子馬が二頭、ライオンの餌食に。 では失礼します。 昨日の晩、豹に噛まれた現地人の傷を見てやらなければならないので」
一人残された旅行者はじっと小屋のなかに横たわり、とりとめもなく過去のことを思い出していた。 彼は外に目をやり、この野営地用に切り開かれたみすぼらしい一角の向こう、叢林と花をつけた低木の茂みを見た。 彼が辿った象の道以外は通行不可能な、得体のしれない場所だった。 それから豊満な胸の形に広がる、空のような蒼さの河や、かなたの靄のなかに消えていく山脈に目を転じた。 主人の顔が彼を過去へ連れ戻した。 何かが心に引っ掛かり、彼は記憶の糸をたぐった。 それを思い出したのは、司令官と医師と彼が三人で晩餐の席についたときだった。 すばやい夕闇の訪れを告げるかすかな山風に当たれるよう、小さなテーブルが小屋の外に出された。 現地人の召使いが周りで竹の団扇をあおいで虫を払い、青白い奇怪な灌木の放つ芳香が毒々しいほどあたりに立ち籠めていた。
「なんだ、ドゥヴィンターなのか!」彼はいきなり大声を出した。 「ジギスムント・ドゥヴィンター!イートンで一緒だったじゃないか、ホロック寮で。 ラケッツの準決勝にも出たね」
「それからモードリン・カレッジ。 競漕では五番を勤めていた」
「なんでこちらのお医者さんは君の名前をフォン・ラガシュタインなどと言ったんだ?」
「それが事実だからだよ」彼は控えめな口調で答えた。 「ドゥヴィンターがわたしの苗字で、イギリスにいたときはその名前で通した。 しかし叔父の男爵位と資産を受け継いだとき、新しい肩書きを使わざるを得なくなったのだ」
「それにしても世間は狭い!ここに来た理由は?ライオンかい?それとも象?」
「どちらでもない」
「まさか狩猟のためじゃなくて、純粋に政治的な仕事のためだと言うんじゃないだろうな」
「もっぱら仕事のためさ。 猟銃は必要に迫られたとき以外、ひと月に一回も使わない。 アフリカには別の理由できたのだ」
ドミニーはホック・アンド・セルツァーをごくりと飲んで後ろにもたれた。 背の高い草やずんぐりした灌木の茂みの上に蛍があらわれ、澄んだ青紫色の薄闇の中を小さな星のようにたゆたっているのが見えた。
「なんて世界だろう!」彼は独りごちた。 「シギー・ドゥヴィンター、フォン・ラガシュタイン男爵がこんなところで、何のためやら、あくせく仕事に精を出し、誰が敵なのか知らないが、黒人どもに軍事教練をしている。 政治のために黙々と働き、ゆくゆくはドイツ領アフリカの総督にでもなるのかい?君はいつも国家を誇りにしていたな、ドゥヴィンター」
「わたしの祖国は誇るに足る国家だ」彼はおごそかに答えた。
「ともかく君は真面目にやっているわけだ。 何かに真剣に取り組んでいる。 ぼくのほうはと言えば——まあ、人生終わったようなものさ。 ここの煙が見えなかったら、本当に昨日の晩、終わっていただろうし、それはそれでかまやしない——そこが問題なんだがね。 ぼくはこれからもさまよいつづけるよ。 たぶん、いつか、どういうふうにか分からないけど、最後が訪れる——ラム酒かウイスキーはもらえないか、ドゥヴィンター——いや、フォン・ラガシュタイン——閣下——どう呼んだらいいんだろう?河のそばで靄が渦を巻いているだろう?酒がないと、あれはマラリアみたいにぼくを苦しめるんだ」
「それよりももっといいものがある。 君の感想を聞かせてくれたまえ」
主人が椅子の後ろに控えていた当番兵に命令をささやくと、当番兵は糧秣小屋に消え、一本の瓶を手にしてすぐに戻ってきた。 それを見た英国人は息を呑んだ。
「ナポレオンか!」
「数本送らせたのだ。 味の分かる人にさしあげることができて嬉しいよ」
「うむ、こいつは本物だ!」ドミニーはグラスをゆっくり回しながら言った。 「驚いた!昨日の晩、ここに転がりこんだとき、ぼくは三十時間ものも食わず、何日も水しか飲んでなかった。 ところが今晩は鶏のフリカッセに、白パンに、高級白ワインに、ナポレオンだ。 しかもあしたも同じメニュー——いや、そいつは分からないか。 いつ移動するんだい、フォン・ラガシュタイン?」
「まだしばらくはここにいる」
「司令部からこんなに離れたところで何をしているんだ?ライオン狩りも象狩りもせずに」客は不思議そうに訊いた。
「本当に知りたいのなら教えよう。 わたしは現地人を集めて教練しながら、あちこちを移動し、君の国の駐在官を大いに惑わしているんだよ」
「だが何のための教練だ?」ドミニーはしつこく訊いた。 「少し前に君たちはイギリスより四倍も多い現地人兵士を抱えていると聞いた。 ここに軍隊は必要じゃあるまい。 われわれともポルトガルとも喧嘩は起こりそうにないし」
「わが国のやり方なんだよ」フォン・ラガシュタインはやや教え諭すような調子で言った。 「ドイツでは、そしてわれわれドイツ人が行くところではどこでも、おそらく起こるだろうという事態に対してだけでなく、ひょっとしたら起こるかもしれないというような事態に対しても準備を怠らないのだ」
「軍隊にいた若い頃、戦争に出ていたら、ぼくも一人前の男になっていたかもしれないな」
「もちろんここに来たことはあるんだろう?」
ドミニーは首を振った。
「ぼくが所属していた大隊は本国を離れることはなかった。 いつもアイルランドに閉じこもっていた。 だからまだ本当にガキの時に軍隊を辞めたんだ」
しばらくして彼らは椅子を引きずり、さらに暗闇の中へ移動すると、葉巻をくゆらし、素晴らしい香りのコーヒーを飲んだ。 医師は患者を診に出かけ、フォン・ラガシュタインは物思いに沈んでいた。 その一方で客はあれこれと思い出話にふけりつづけた。
彼はゆっくりとグラスに手を伸ばしながら言った。 「ぼくらの出会いは心理学者の関心をひきつけてやまないだろうね。 奇跡のような幸運がぼくらを結びつけ、アフリカのジャングルで人生の一夜を共に過ごす。 歳は同じだが、育った場所は何千マイルも離れていて、およそ考え得る限りもっとも異質な人生行路を永遠の闇に向かって走っているというのに」
「闇といっても君が見ているのは夜明け前の闇だよ。 太陽がやがて、ちょうどあのあたりの山の背後から、燃えあがる新世界のようにあらわれる」
「寓話なんぞで話の腰を折らないでくれ」相手は苛々と文句を言った。 「ぼくの比喩は適切じゃないかもしれないが、永遠の闇は確かに存在するんだ。 ぼくはいま哲学者のような気分だ。 好きなように話をさせてくれ。 ぼくという人間は、子供の頃は怠け者で、青年の頃は罪のない遊び人だった。 それが悲劇に遭い、それからは放浪者、ゆっくりと堕落していく放浪者になった。 何の目的もなく、何の希望や望みもなく、人生をのらくら過ごしている」彼はやや眠そうに話しつづけた。 「ただ一つぼくが望むのは、河の向こうの、あの山の麓に埋めてもらうことだ。 燃えあがる世界のような太陽が、毎朝その背後から昇ると君が言う場所に」
「くだらない」フォン・ラガシュタインは反論した。 「人生に悲劇があったとしても、君にはそれを克服する時間がある。 まだ四十にもなっていないのだから」
「その一方で君はどうだろう」ドミニーは友人の言葉をすっかり無視して話をつづけた。 「君はぼくと同い年だが、十歳も若く見える。 筋肉は固く、目の輝きは学生の時と同じだ。 君は目的を持って行動している。 医者が教えてくれたが、毎朝五時に起き、夕方疲れ果ててここに戻るそうだね。 君の時間はすべてあの汚らしい黒人を教練することに費やされている。 教練のない時は調査をしたり、本国に送る報告書を指示したり、熱病をばらまく数百万エイカーの沼地でできる限りのことをしている。 医者は君のことを崇拝しているよ。 しかし他に誰がそのことを知っているというのだ?わが親友は何のためにそんなことをするのだ?」
「わたしの義務だからだよ」落ち着いた返事が返ってきた。
「義務か!しかしその義務とやらは祖国でやれないものなのか?人間らしい生活をし、白人の手を握り、白人の女の目を覗きこむことはできないのか?」
「わたしは自分がもっとも必要とされている場所へ行く。 現地人への教練は楽しくはない。 平凡な人生の喜びから見捨てられた者として生きていくことは楽しいことではない。 しかしわたしは生まれついた星の導きに従う」
「そしてぼくは生まれついた狐火の導きに従うわけだ」ドミニーは自嘲するように笑った。 「ぼくらは月とスッポンだね。 君は退屈な奴かもしれない。 いつだって真面目くさっていた。 しかし高潔な人格者だ。 ぼくはごくつぶしさ」
「わたしたちの差はわが国の青年に植えつけられ、君の国の青年に植えつけられていないものの差だよ。 イギリスでは多少金があり、ある程度の名家に生まれた若者は世界を狩猟場か愛の園のように思っている。 ドイツの貴族は、どれほど力のある者も、みな仕事を持っている。 仕事こそ精神を鍛え、人生にバランスを与えるものだ」
ドミニーはため息をついた。 宝物のように思えた葉巻も指のあいだで冷たくなっていた。 芳しい闇のなかで、シェードつきランプによって後ろからかすかに照らし出された彼の顔は、不意に青ざめ老けたように思われた。 主人は彼のほうに身を乗り出し、初めて若い頃のように思いやりのこもった調子で話しかけた。
「悲劇があったとか言っていたね。 君だけじゃないよ。 悲劇はわたしの人生にも踏みこんできた。 たぶん、あんなことがなければ、もっと楽しいところで仕事を見つけていただろう。 でも不幸が起きて、今はここにいるというわけなんだ」
同情の表情が一瞬ドミニーの顔に閃いた。
「それぞれに苦労があったんだな」彼はうめいた。
第二章
翌日の朝、ドミニーは遅くまで眠りをむさぼった。 夢も見ずにぐっすりと眠ってようやく目覚めると、彼は野営地の奇妙な静けさに気がついた。 医師が彼を見にやってきて、朝の挨拶のあと、すぐにその説明をした。
「閣下は本国から重要な知らせを受け取り、ダルエスサラームからの使節を出迎えに行きました。 三日間は戻りません。 戻るまであなたには賓客として留まってほしいとのことです」
「ご親切なことだ」ドミニーはつぶやいた。 「ヨーロッパのニュースは聞いているかい?」
「存じません」返事は素っ気なかった。 「閣下からの言伝ですが、現地人が十人ほどと、子馬も何頭か残っておりますので、河のほとりに沿って南のほうへお出かけになるなら、お供につけさせます。 ライオンが相当おりまして、現地人が知っている一、二の場所にはサイがいるかも知れません」
ドミニーは風呂を浴びて身繕いし、薫り高いコーヒーを飲んでから、ぼんやりとあたりをぶらついていた。 彼は午後遅く、医師と共にお茶を飲みながら、こう胸の内を明かした。
「狩猟には全然興味が持てないんだ。 厄介ばかりかけて気がとがめるが、でもどういうわけかフォン・ラガシュタインにはもう一度会っておきたい。 君の寡黙な上官に惚れたみたいなのさ。 あいつは男らしい男だ。 ぼくがなくした何かを持っている」
「閣下は偉大な方です」医師は熱をこめて言った。 「いったん心に決めたことは、必ずやりとげますから」
ドミニーはため息をついた。 「ぼくもきっかけさえあれば、あんなふうになっていたかもしれないんだがな。 ぼくらが似ていることに気がついていたかい?」
医師は頷いた。
「こちらに到着なさったときから気がついていました。 お二人ともよく似ていらっしゃるが、相違点も大きい。 お若いときはもっとよく似ていらっしゃったでしょう。 時の力がそれぞれの容貌に応分の報いを与えたのですね」
「そう何度も嫌味を言わなくていい」ドミニーは苛々した。
「嫌味など言っていません」医師は動ぜず平然と答えた。 「本当のことを話しているのです。 閣下と同じ精神力をお持ちでしたら、健康やいろいろ大切なものをそのまま維持できたかも知れません。 閣下のように、祖国にとって有用な人物になっていたかも知れません」
「ぼくの健康状態はそんなに悪いのか?」
「身体に無理なことをなさっています。 しかしまだ活力は充分に残っています。 数ヶ月自制なされば、見違えたようになるでしょう。 では、失礼します。 仕事がありますので」
ドミニーは落ち着きのない三日間を過ごした。 河の中の象の群れも、猛獣が野営地にこっそり忍び寄るころ聞こえる異様な猛々しい夜の合唱も、彼の心を動かしはしなかった。 狩猟に対する情熱、現実世界に対する最後の接点がしばし失われたかのように思われた。 動物を殺したところで、それがどうだというのか?彼の心はそわそわと過去のことばかりを考え、見つけることのできない何かをたえず探し求めていた。 夜明けには摩訶不思議な輝かしい変容を遂げて生まれくる薄明を見守り、夜はバンダの外に座って、河向こうの山並みが形を失い、青紫色の暗闇にとけこむのを待った。 フォン・ラガシュタインとの会話が彼を動揺させていた。 はっきりなぜとは分からなかったが、もう一度彼に会いたいと思った。 彼を苦しめることを止めて久しかった記憶が今一度よみがえった。 最初の日はいつものやり方でそれを取り除こうとした。
「先生、ウイスキーを持っているだろう?」
医師は頷いた。
「どこかにケースがあるはずです。 閣下はあなたの言うものなら何でも与えるよう指示していきました。 しかし戻るまでは白ワインだけを飲むようにとのご忠告です」
「本当にそう言ったのか?」
「閣下の言葉をそのまま申しあげました」
ウイスキーに対する渇望は消え、再びあらわれたが押し殺され、夜中にまた舞い戻ってきた。 そのせいで彼は顔から汗を垂らし、舌に乾きを感じながら起きていた。 彼は代わりにリチウム水を飲んだ。 三日目の午後遅くにフォン・ラガシュタインは馬に乗って野営地に帰ってきた。 服は破れて湿地帯の黒い泥にまみれ、埃と汚れが顔を厚く覆っていた。 勢いよく下馬しようとしたとき、子馬はほとんど倒れそうになった。 それにもかかわらず彼は几帳面なくらい礼儀正しく客に挨拶をしようと立ち止まった。 二人の男が握手したとき、彼の目に心から満足そうな輝きが宿った。
「ここにいてくれて嬉しいよ」彼は熱をこめて言った。 「風呂を浴びて着替えるあいだ失礼する。 少し早めに晩餐にしよう。 今日は朝から食べていないのだ」
「長旅だったのかい?」ドミニーは興味を感じて訊いた。
「遠くへ旅してきた」相手は静かに答えた。
晩餐の時のフォン・ラガシュタインはいつもの彼に戻っていた。 清潔なシャツの上に、白いダック地の服を隙なく着こなし、髭を剃り、疲労の跡を少しもとどめていなかった。 しかし彼の態度には何か違うもの、ドミニーを戸惑わすある変化が見られた。 今まで以上に客の話に注意を払うのだが、同時に気持ちは彼からいっそう遠くへ離れ、共感も同情も感じられなくなっていた。 彼は奇妙なくらいしつこくパブリック・スクールと大学時代のこと、ドミニーの友人と親戚関係、その後の人生の出来事を話題にした。 ドミニーはそれまでの人生遍歴を絶え間なく話すよう促されている気がし、なぜか相手が終始自分の片言隻句に細心の注意を払っていることを意識していた。 シャンペンをたっぷりと供応され、ドミニーは秘密の部屋のまさに入り口のところまで饒舌にべらべらと話をした。 食事が終わると、彼らは以前のように椅子を外へ持ち出した。 物言わぬ当番兵が今まで以上に大きい葉巻を差し出し、ドミニーのグラスはまたもや素晴らしいブランデーに満たされた。 医師は四分の一マイルほど離れた現地人野営地に出かけていて、当番兵はなかで忙しくテーブルの後片づけをしている。 団扇を動かす召使いたちの黒い影だけがぼんやりと見え、頭上には燦めく星があった。 彼らは二人きりだった。
「ろくでもないぼくの身の上話ばかりしゃべり立ててしまったな。 君の仕事やここに来る前のドイツでの暮らしぶりなんかを少し教えてくれないか」
フォン・ラガシュタインはすぐには答えなかった。 奇妙な沈黙が二人の男のあいだを波のように満ち引きした。 時折、流れ星が空を横切り、山の端から赤い月がのぞいていた。 灌木の静けさは、あらゆる静けさのなかでもっとも神秘的なものだが、それが次第に声にならない情熱をみなぎらせてきたようだった。 じきに動物たちは鳴き交わしはじめ、空き地の隅に燃えている火に向かい、じわりじわりと近づいてくる。
「君」フォン・ラガシュタインがとうとう口を開いた。 時間を掛けてじっくり考えぬいたような口調だった。 「君はドイツのこと、わたしの祖国のことを聞きたいのだね。 たぶん、義務のためだけにこんな未開の地に来たとは思っていないだろう。 わたしも悲劇をあとにしてきたのだ」
ドミニーが束の間感じた同情は、ほとんど苛烈なまでに己を律する、相手の厳しい態度によって押し殺された。 喉にしがみつく言葉を引きちぎるような言い方だったが、こわばった顔に傷心や後悔の色などかけらもなかった。
「国外に追放されてから今日まで、このことを口にしたことはなかった。 今晩は弱気になったのではなく、偶然の不思議な力に身をまかせたい気分なんだよ。 生まれついた国は違うが、同級生であり大学の親友だったわれわれが、お互い魂に苦悩を抱えてこの野蛮な場所で出会うとは。 わたしに何が起きたか話してあげよう。 君は君自身の呪いのことを話してくれ」
「それはできない!」ドミニーはうめいた。
「いや、話せるさ」仮借のない返答だった。 「聞きたまえ」
一時間が過ぎ、二人の男の声が途絶えた。 獣たちの咆哮は焚き火の火が小さくなるにつれ減っていった。 そよ風が緩慢で憂鬱な小波のように茂みのなかを通りぬけ、川面を撫でていった。 ほとんど夢うつつの状態を最初に破ったのはフォン・ラガシュタインだった。 彼は立ちあがるとバンダのなかに消え、タンブラーを二つ手にして、すぐまた姿をあらわした。 彼はその一つを、タンブラー用にあつらえた客の椅子のひじ掛けに載せた。
「今晩はいつもの規則を破ってウイスキー・ソーダを飲むよ。 われわれの新たな前途に乾杯しよう」
「ここでの仕事は終わりなのか?」ドミニーは好奇心から訊いた。
「わたしは巨大な機械の部品だよ」どことなく曖昧な返事だった。 「従わざるを得ないのだ」
強い感情がわきあがり、ドミニーの顔を歪ませ、一瞬声の調子があがった。
「こんなふうに生き、死んでいくことに満足しているのか?ここの太陽とは別の太陽が心を暖め、胸を満たす場所に帰りたくはないのか?この原始的な世界はそれなりに素晴らしいが、しかし人間的ではない。 人の住むようなところではない。 ぼくらには都会の巷が必要なんだよ、フォン・ラガシュタイン。 人の流れ、車の騒音、人声のざわめきが周りに必要なんだ。 動物なんか糞食らえ!この国に長く住んでいると四つ足で歩くことになりそうだ」
「君は環境に左右されすぎだ。 都会で生活しているとき、君は自然を思う感傷家になるんだろう」
「どこの都会も文明国もぼくなんかに戻ってきてほしくはないさ」ドミニーはため息をついた。 「戻っても何て言われるやら、怖いくらいだ」
フォン・ラガシュタインは立ちあがった。 薄闇のなかで背筋を伸ばしたその姿にはある種の威厳があった。 目の前の椅子にぐったりと座っている男の上に聳え立つかのようだった。
「また会えることを願ってウイスキー・ソーダを飲み干そう、わが学友。 明日は君が目を覚ます前に出発しているだろう」
「ずいぶん早いな」
「明日の夜までにあの山の向こうに行っていなければならないのだ。 これがお別れだ」
ドミニーは愚痴をこぼし、ほとんど見るに忍びない姿をさらけだした。 彼は急に一人になるのが嫌になった。
「ぼくもすぐ西に向かわなければならないんだ。 というか、東でも北でもたいした違いはないんだ。 一緒に旅はできないかい?」
フォン・ラガシュタインは首を横に振った。
「公務で旅行するのだ。 それに一人で行かなければならない。 明日、ここから撤収することになるが、君には付き添いをつけて、行きたい方向に道案内させよう。 残念だがわたしにできるのはそれだけだ。 われわれはここでお別れするしかない」
「そうか、無理じいはできないな」ドミニーはまだ言い足りなそうな様子だった。 「しかし人生の裏街道からも遠く離れた、こんな辺鄙なところで出会い、握手しただけで通り過ぎなきゃならないとは妙な話だ。 黒人と動物には死ぬほど飽きてしまった」
「運命だよ」フォン・ラガシュタインがはっきりと言った。 「わたしは行くべきところに一人で行かなければならない。 さようなら、君。 モードリンの君の宿舎で最後の晩に乾杯したね。 あれと同じ乾杯をしよう。 あのサンスクリットを研究していた男が訳してくれたじゃないか。 『それぞれがその求めるものを手に入れることができますように!』われわれは自分の星を追わなければならないんだ」
ドミニーはどこか苦々しげな笑い声をあげた。 彼は灌木のあいだに点滅している光を指さした。
「ぼくの狐火だよ」彼はやけっぱちな口調でつぶやいた。 「あれについていけば——沼に呑みこまれるってわけさ!」
数分後、ドミニーは自分の小屋の長椅子の上に身を投げた。 不思議なくらい無性に眠くなったのだ。 お休みを言いにきたフォン・ラガシュタインは見おろすようにして、意味ありげな視線をしばらくじっと彼に向けていた。 客が間違いなく眠っていることに満足し、彼は垂れさがった枯れ草のカーテンを通って隣のバンダに入っていった。 そこにはまだ正装したままの医者が待っていた。 彼らは声をひそめドイツ語で話した。 フォン・ラガシュタインはどことなくいつもの落ち着きを失っていた。
「万事、命令通り進んでいるか?」彼は問いただした。
「遺漏はありません、閣下!召使いたちは荷物をまとめていますし、馬の用意をさせるためにワディファンに伝令を出したところです」
「夜明けに出発することは伝えてあるか?」
「ご心配なく、閣下」
フォン・ラガシュタインは医師の肩に手を載せた。
「外に出よう、シュミット。 計画のことで話したいことがある」
二人は籐の長椅子に座り、医師は相手の言葉を一心に待ちかまえた。 フォン・ラガシュタインは頭を巡らして聞き耳を立てた。 ドミニーの小屋からは深く規則正しい寝息が聞こえてきた。
「素晴らしい計画を立てたのだ、シュミット。 ベルリンから来た知らせのことは知っているだろう?」
「閣下から少しだけ聞かせていただきました」医師が彼に思い出させた。
「その日が来たのだ」フォン・ラガシュタインは言った。 声が深い感情に震えていた。 彼は一瞬思いに沈み、話をつづけた。 「何月決行するか、時期も決まった。 ここから召還されるのはわたしに定められた運命を引き受けるためだ。 それがどういう運命か、分かっているな?わたしがイギリスのパブリック・スクールと大学に送られた理由を知っているな?」
「見当はつきます」
「わたしはイギリスに住むことになる。 特殊任務を帯びて。 あの国でイギリス人に化けるのだ。 その手段はわたしの才覚に任されている。 聞いてくれ、シュミット。 名案が浮かんだのだ」
医師は葉巻に火をつけた。
「聞いております、閣下」
フォン・ラガシュタインは立ちあがった。 規則正しい寝息だけでは満足できず、バンダの入り口まで行き、ドミニーの眠りこけた姿をじっと見つめた。 それから戻ってきた。
「あのイギリス人に聞かれてはまずいことですか?」医師が尋ねた。
「そうだ」
「ドイツ語なら大丈夫でしょう」
「外国語は彼の唯一の才能だよ」と彼は用心深く答えた。 「君やわたしと同じくらい流暢にドイツ語ができる。 しかしそんなことはどうでもいい。 彼はずっと眠りつづけるだろう。 ウイスキー・ソーダに眠り薬を混ぜたのだから」
「そうでしたか!」医師はうなった。
「イギリスに行って何より肝心なのは誰になりすますかということだ。 わたしは決めたよ。 あのイギリス人だ。 サー・エヴェラード・ドミニーとしてイギリスに戻るのだ」
「本気ですか!」
「われわれは驚くほど似ているし、ドミニーはこの八年間か十年間、知り合いの同国人に会っていない。 パブリック・スクールや大学の友達なら誰にあっても疑われずにやり過ごす自信がある。 ドミニー邸に泊まったこともある。 ドミニーの親類は知っている。 今晩彼は知っておいて損のないことを何時間もしゃべりまくってくれた」
「近親者はどうです?」
「いちばん近い親戚でも従姉妹だ」
「奥さんはいないんですか?」
フォン・ラガシュタインは話を中断し頭を巡らせた。 バンダのなかの深い寝息が途絶えていた。 彼は立って心配そうにそっと入り口に近づき、大の字に寝ている客の姿を見おろした。 どう見てもドミニーはまだ熟睡している。 ほんのしばらく様子を見たあと、フォン・ラガシュタインは元の場所に戻った。
「そこが彼の悲劇なのだ」彼は声をさらに落とした。 「彼女は気が触れたんだ——どうやら彼が与えたショックのせいで頭がおかしくなったらしい。 彼女が唯一の障害とも思われたが、実はいないも同然なのだ」
「見事な計画ですね」医師は熱をこめてささやいた。
「素晴らしい計画だよ!シュミット、わが国を見守り、わが国を世界の支配者にしようとしている見えざる偉大な神が、あの男をわれわれのもとに遣わしたに違いない。 わたしはイギリスで比類のない地位につく。 サー・エヴェラード・ドミニーとして社交界にもぐりこみ——恐らく政界の中枢にさえ入りこめるだろう。 嵐が吹きはじめても、必要とあらば、わたしはイギリスに居つづけることができる」
「もしもあのドミニーがイギリスに戻ったらどうするのです?」
フォン・ラガシュタインは振り返って質問者のほうを見た。
「そんなことはあってはならない」
「そういうことですか!」医師はつぶやいた。
翌日の午後遅く、ドミニーは付き添いの従者二名とともにライフル銃を肩から斜めにさげ、馬に乗って灌木の中の来路を辿った。 小柄な太った医師は彼の姿が見えなくなるまで立ったまま帽子を振って見送った。 それから伝令を呼んだ。
「ハインリッヒ、イギリスの紳士にちゃんとウイスキーを渡したかね?」
「水筒に他のものは何も入っていません」
「荷物のなかに水とかソーダ水は入れてないね?」
「一滴もありません、軍医殿」
「食料はどのくらい?」
「一日分です」
「牛肉は塩漬け肉だね?」
「塩気がとても強いです、軍医殿」
「コンパスは?」
「十度狂っています」
「従者たちは命令を聞いているね?」
「完全に理解しています、軍医殿。 イギリス人がお酒を飲まなければ真夜中に、ブルー・リバーが折れるあたり、閣下の野営地へ連れて行くことになっています」
医師はため息をついた。 彼は心の底から非情な男ではなかった。
「あのイギリス人、酒を飲んだほうが苦しまないだろうな」と彼はつぶやいた。
第三章
リンカーンズ・インの弁護士ミスタ・ジョン・ランバート・マンガンは助手が差し出した名刺を見てあっけにとられた。 驚きはすぐに狼狽と入り混じった。
「まいったな。 これを見ろよ、ハリソン」そう言って、それまで相談をしていた部長に名刺を渡した。 「ドミニー——サー・エヴェラード・ドミニーがイギリスに戻ってきたよ!」
部長は細長い名刺を一目見てため息をついた。
「これは厄介なお客さんですよ」と彼は言った。
彼の雇い主は顔をしかめた。 「言われるまでもない」彼は怒ったように答えた。 「あの地所からはもう一ペニーも出てきはしない。 それは知っているだろう、ハリソン。 過去半年、アフリカに送った小遣いは木を売って捻出した金だ。 そのままアフリカにいればいいものを!」
「お客様には何と申しあげましょうか?」助手の少年が尋ねた。
「ああ、お通ししろ」ミスタ・マンガンは不機嫌そうに指示を出した。 「いつかは面会しなければならないのだから。 この宣誓供述書は昼飯のあとに片づけよう、ハリソン」
弁護士は依頼人を歓迎するために顔の表情をあらためた。 どんなに面倒な相手とはいえ、数代に渡ってこの事務所をひいきにしてくれた大切な一族の代表なのだ。 彼は年よりも老けて見える、みすぼらしい、落魄した男に向かって挨拶する心構えをした。 ところが腕を伸ばして握手した相手は、りゅうとした身なりといい、整った顔立ちといい、あまり愛想のよくない事務所の敷居をくぐった人間のなかで、もっとも際だった人物の一人だった。 一瞬、彼は言葉を失い、訪問者を凝視した。 見覚えのある顔立ち——形のよい鼻、やや深く窪んだ灰色の目——がそこにあった。 驚きが彼のもてなしに少しだけ誠意を吹きこんだ。
「サー・エヴェラード!お会いできるとは思いがけない喜びですな——本当に思ってもいなかった!しかしもったいないことをしてしまいましたよ、二、三日前に小切手をお送りしたばかりなんですから。 それにしても——失礼な言い方かも知れませんが——お元気そうじゃないですか!」
ドミニーは勧められた安楽椅子に座りながら微笑んだ。
「アフリカは素晴らしいところだよ、マンガン」彼の声にはかすかに横風な調子があり、それを聞くと弁護士は今の依頼人の父親の時代を思い出した。
「こんな言い方を許していただけるなら、アフリカはあなたを見違えるほど変えてしまいましたよ、サー・エヴェラード。 そう言えば、最後にお会いしてから十一年は経っていますね」
サー・エヴェラードは杖の先端で磨き抜かれた茶色い靴のつま先をたたいた。
「わたしがロンドンを発ったのは」と彼は回想するようにつぶやいた。 「一九〇二年の四月だった。 だから、そうだね、十一年だよ、ミスタ・マンガン。 またロンドンに戻ったのかと思うと不思議な気がする。 分かるだろう、こんな気持ち」
「そうでしょうとも。 今思ったのですが——最後の送金は止められるかも知れません。 手元に多少お金のあったほうがよろしいでしょうから」彼は自信に満ちた笑顔とともにそうつけ加えた。
「ありがとう。 しかし今のところ必要はない」仰天するような返事だった。 「金の話はあとでしよう」
ミスタ・マンガンは心のなかで自分の顔をつねった。 今の依頼人のことは彼が学生の頃から知っている。 いろいろなときに訪問を受けたが、金の問題がこんなにあっさり退けられたことはついぞ記憶になかった。
「というと」彼はとにかく何かしゃべらなければと思って言った。 「しばらくこちらにいらっしゃるつもりですか?」
「アフリカとは縁を切ったということだ」どことなく重々しい返事だった。 「こちらに腰を落ち着けるといっても、君の話次第といったところがなきにしもあらずだが」
弁護士は頷いた。
「ロジャー・アンサンクのことは安心なさっていいでしょう。 イギリスをお発ちになってから、消息は一切不明です」
「彼の——死体は見つからなかったのか?」
「痕跡もありません」
短い沈黙があった。 弁護士はドミニーをじっと見つめ、ドミニーは弁護士を探るように見返した。
「ドミニー夫人は?」ドミニーがとうとう尋ねた。
「奥様の容態はお変わりないようです」彼は言葉を選んで答えた。
ドミニーはまたしても短い間をおいて話しつづけた。 「問題がなければドミニー邸に落ち着くことになるだろうと思うのだが」
弁護士はためらっているようだった。
「申しあげにくいのですが、サー・エヴェラード、お屋敷の状態には相当がっかりなさると思います。 手紙に何度も書きましたが、地代の総収入は、ドミニー夫人への分与分を差し引くと抵当利息もまかなえない額なのです。 差額を埋め合わせ、あなたに送金するには、周辺の木を売らなければなりませんでした」
「残念だな」ドミニーは顔をしかめて答えた。 「もっと君を信頼して相談するべきだった。 ところで、いつ——つまり——わたしの最後の手紙を受け取ったのはいつ頃だったかね?」
「最後の手紙ですか?」ミスタ・マンガンは鸚鵡返しに言った。 「サー・エヴェラード、あなたからは四年以上もお手紙をいただいていません。 送ったお金が届いたことは南アフリカ銀行の口座がすぐさま借越になるのでかろうじて分かったのです」
「それはすまなかった」と、この思いもかけぬ訪問者は言った。 「わたしはわたしで一心不乱に仕事をしていたのだ。 最近の南アフリカのゴシップを聞いていないとしたら、びっくりするだろうが、マンガン、わたしは大金を儲けたんだよ」
「お金を儲けたですって?」弁護士は息が止まった。 「あなたがお金儲けをなさったのですか、サー・エヴェラード?」
「驚くだろうと思ったよ」ドミニーは落ち着いて言った。 「しかしそれはどうでもいいんだ。 今朝、君を訪ねてきたのは、ドミニー邸を抵当にして借りている金を全額、大急ぎで返済する手続きをしてほしいからなのだ」
ミスタ・マンガンは新しいタイプの弁護士だった。 パブリックスクールはハロー、大学はケンブリッジ、バス・クラブ(註 スカッシュの選手権で有名なロンドンのクラブ)に所属してゴルフやローンテニスよりもラケットやファイブスを好んだ。 驚いた彼は「ゴッド・ブレス・マイ・ソウル!」と言う代わりに「グレイト・スコット!」と叫び、左目からたいそうモダンな片眼鏡を落として、両手をポケットに突っこんだまま椅子の背にもたれた。
「三、四年ほど運に恵まれてね」と、依頼人はつづけた。 「金鉱、ダイヤモンド鉱、それに土地で儲けたんだ。 もう一年向こうにいたら、俗臭芬々たる億万長者になって戻ってきたかもしれない」
「心からお喜び申しあげますよ」ミスタ・マンガンは何とかそう言うことができた。 「驚いたりして失礼しました。 しかしわたしの知る限り、ドミニー家の方で、方法を問わず、一ペニーでも稼ぎ出した方はあなたが初めてですよ。 それにアフリカに行かれる前のあなたの様子からは——あけすけな言い方をしても許してもらえると思うのですが——そんなことをしようとすることすら予想できませんでした」
ドミニーは上機嫌で微笑んだ。
「アフリカ連合銀行に問い合わせれば、わたしの口座が十万ポンドほど貸方残高になっていることが分かるだろう。 ついで言うと、その、なんだね、わたしは一級鉱山にも投資しているんだ。 ミスタ・マンガン、昼食をつきあってくれないだろうか。 アフリカのことはもう話題にしたくないんだけれど、投機の話を少しばかりしよう」
弁護士は手探りして帽子を探した。
「助手にタクシーを呼ばせましょう」彼は口ごもるように言った。
「外に車を待たせてあるんだ」と、この驚くべき依頼人は言った。 「出る前にドミニー邸の担保物件をリスト化するように事務職員に指示しておいてくれないか。 債務弁済最終期限と償還価値も明記して」
「ちゃんと指示しておきましょう」ミスタ・マンガンは約束した。 「全部合わせても八万ポンドにはならないと思います」
ドミニーが事務所のなかを通るとき、数名の事務職員が好奇の目つきでじろじろと彼を見た。 弁護士は数分後に舗道の上で彼に合流した。
「どこで食事しようか。 わたしが行くクラブはちょっと流行遅れだし。 今、カールトンホテルに泊まっているんだが」
「カールトンホテルのレストランなら申し分なしですよ」ミスタ・マンガンが提案した。
「一時半まではテーブルを取っておいてくれている。 是非あそこで食事しよう」
彼らは一緒に車で出かけた。 帰国した旅行者はずっと窓から混雑する通りを眺め、弁護士は軽い物思いにふけっていた。
「そう言えば、サー・エヴェラード」目的地が近づいたとき弁護士が言った。 「ドミニー邸に行かれる前にちょっとお話しておきたいことがあります」
「特別な話かい?」
「ドミニー夫人のことです」弁護士は若干深刻な調子で答えた。
相手の顔に影がさした。
「妻はだいぶ変わったのかな?」
「お身体のほうは大変調子がよろしいようです。 しかし精神状態は少しも変わっていません。 残念ながら相変わらず激しい思いこみをお持ちです。 あなたがイギリスを離れる原因となった思いこみを」
「分かりやすく言えば」ドミニーは苦々しく言った。 「わたしが同じ屋根の下に泊まったりしたら、殺してやるという宣言を撤回してないんだね」
「奥様の様態はしっかり見守る必要があるでしょう」弁護士は直接質問に答えることを避けた。 「しかし、時間が経っても、奥様の不幸な反感が薄れてないことは、一応お話しておくべきだと思いまして」
「彼女は今でもわたしがロジャー・アンサンクを殺したと思っているのだろうか?」ドミニーは落ち着いて尋ねた。
「思っていると思います」
「他の人もみんな同じように考えているんだろうね」
「あの謎はいまだに解決していません。 あなたが公園で争ったこと、ほとんどふらふらの状態で家に帰ったことはみんな知っています。 ロジャー・アンサンクはその日から姿を消し、今日に至るまで行方不明です」
「わたしが殺したのだとしたら、どうして死体が見つからないんだ?」
弁護士は頭を振った。
「もちろんいろいろな説がありますが、ただ、一つの噂だけは覚悟なさっておいたほうがいいでしょう。 お屋敷の近隣に住む人々は、ブラック・ウッドの争いのあったあたりに、今でもロジャーアンサンクの幽霊が出没すると、みんな信じています」
「率直な意見を聞かせてほしい。 もしも死体が発見されたら、これだけ時間が経過していても、わたしは殺人罪で起訴されることになるのか?」
「ご安心なさい。 第一に、わたしの考えでは起訴されることはありえない」
「第二には?」
「ノーフォークのあの辺りに住んでいる人なら分かりますが、ブラック・ウッドの片隅に放置された死体なんて、人間のだろうが、動物のだろうが、二度と見つかりはしませんよ!」
第四章
ミスタ・マンガンはレストランに入る前に小さな応接間で知り合いとしばらく歩きながらおしゃべりをした。 一方、食事に招待したドミニーは支配人に話しかけ、通りかかったウエイターにカクテルを注文し、両手を背中に回して大広間に入ってくる男女を観察していた。 外国暮らしの長かった人間が同国人を好奇の眼で見ている、そんな様子だった。 彼は混雑する広間を通り抜ける若者の一団をよけて一方の側に身を寄せた。 そのとき、厚いカーペットを敷き、三段に折れた階段のいちばん上に一人の女性が立っていることに気がついた。 二人は目を合わせた。 女の視線は知り合いを捜して部屋中をさまよっていたのだが、とたんに強い熱を帯びて釘づけになった。 広間をぶらついていた数人の人は、しげしげと男を見る女の視線に特別な意味があるとは知らず、この二人を好ましい、ほとんど魅力的な観察対象のように思った。 ドミニーは身長が百九十センチ、生まれながらの階級的特徴を最大限に示していた。 さらに半ば軍人的な、半ば運動選手的な身のこなしを見事なまでに回復したようだった。 顔は適度に日焼けし、薄い口ひげは上唇のところできれいに刈りこまれている。 その色は丁寧に櫛を当てられた頭髪と同じ赤茶色だった。 彼に向かってゆっくりと歩き出した女は、少なくともそのときだけは不自然といっていいくらい頬が青ざめていたが、それを除けば肌の色は彼と同じだった。 赤みを帯びた金髪が黒い帽子の下で光った。 背の高い、ギリシャ風の容姿で、大柄だが粗さはなく、まだ若いのに堂々としていた。 小脇に子犬を抱え、反対の手は無地の絹織りの黒いバックを握っていた。 バッグはプラチナとダイヤモンドの宝冠で飾られている。 広間を取り仕切っていた支配人は彼女が近づいてくるのを見ていつもより丁重に腰をかがめた。 しかし彼女の目は注意を惹きつけて止まない男のほうに向けられたままだった。 彼女は唇を少し開いて彼のほうに寄っていった。
「レオポルド!」彼女はためらいながら言った。 「どういうことなの。 どうして知らせてくれなかったの!」
ドミニーは軽く会釈した。 彼の言葉はあらかじめ用意されていたかのように響いた。
「失礼ながら、人違いではありませんか。 わたしの名前はレオポルドではありません」
彼女はじっと立ちつくし、慇懃な否認の言葉など聞かなかったように彼を見つめた。
「よりによって、ロンドンに来ているなんて。 どういうことなのか、説明してちょうだい」
「残念ながら、奥様、今申しあげた通り、わたしはあなたのお知り合いではないのですよ」
彼女は不思議そうな顔をしたが、まったく納得していなかった。
「レオポルド・フォン・ラガシュタインではないとおっしゃるの?」彼女は信じられないといったように尋ねた。 「わたしを知らないとでも?」
「奥様、遺憾ながらその通りです。 わたしはドミニー、エヴェラード・ドミニーと申します」
彼女は一瞬、動揺の色を顔に出すまいと、必死に自分を抑えているようだった。 彼女は指で相手の袖に触れ、人目を避けて、その小さな部屋の隅に引っぱっていった。
「レオポルド」と彼女はささやいた。 「わたしを訪ねてきても、まずいことはないし、誰からも後ろ指をさされたりしないわ。 住所はベルグレイブ・スクエア十七番地。 今晩七時に待っている」
「ですが、奥様」とドミニーは言いかけた。
彼女の目が急にぎらりと光った。
「ふざけないで。 何を企んでいるのか知らないけど、成功させたければ、わたしを敵に回さないことね。 七時に待っているわ」
彼女は立ち去るとレストランに入っていった。 友人から解放されたマンガンは招待主と共に、恭しく案内されたサイドテーブルに席を占めた。
「さっき話していたのはアイダーシュトルム王女じゃありませんか?」弁護士は興味をそそられて訊いた。
「あの方は人違いなさったんだよ」とドミニーは説明した。 「おかしなことにオクスフォードでわたしの双子の兄弟と呼ばれていた男と勘違いしたんだ。 あの頃はジギスムント・ドゥヴィンターといっていたな。 もっともそのあとで爵位を得ただろうけど」
「王女はちょっとした有名人ですよ。 ヨーロッパでもっとも富裕な未亡人の一人ですな。 ご主人は六、七年前に決闘で殺されたのです」
ドミニーは慎重に昼食の注文を出したが、ウエイターが英語をうまく話せないので、思わず一言二言ドイツ語を使った。 食事相手はにっこりと笑った。
「ジャングルにいても言葉は忘れなかったようですね」
「忘れる暇もなかったよ。 五年間もドイツ領東アフリカの国境にいて、そこの連中と定期的に取引していたからね」
「ところで、向こうではドイツとの関係はどうなんですか?」
「上々だと思うね」彼は何気なく答えた。 「問題は一度もなかった」
「もちろんあなたはまだ聞いてないだろうけど、ここ数年のあいだにイギリス人は二派に分かれてしまいました——ドイツは戦争を仕掛けてきて、わが国をたたきつぶすつもりだと信じている人と、そうでない人と」
「すると、わたしが帰国したことでそうでない人が一人増えたわけだ」
「わたしも懐疑派なんですが、それにしても、何のためにドイツが軍隊をあれほど強化するのか、どうして艦隊を増やしつづけるのか、そこがよく分からないのですよ」
ドミニーはしばらく話を中断してボーイ長とソースについて議論した。 しかし数分後には再びその話題に戻った。
「もちろん、わたしは新聞とアフリカで会ったドイツ人との会話から判断してるにすぎないんだがね。 しかしドイツの軍隊に関してはロシアとフランスに問題がある。 ドイツの軍隊が強ければ強いほどヨーロッパが戦火に見舞われるおそれは少なくなる。 ロシアは革命を避けるには戦争をするしかないと、いつ結論するか分からない。 それにフランスがアルザス・ロレーヌをどう思っているかは君も知っているだろう。 今のロシアはこれまで以上に軍事力の拡張に関心を持ち、力を入れているとドイツ人たちは言っているよ」
「おっしゃることが正しいことは疑いを入れません。 しかし今そのことを巡って激論が交わされているのです。 あなたの今後の計画について話しましょう。 たとえば、これから数週間はどうなさるつもりです?もう親戚の方にはお会いになりましたか?」
「まだ一人も。 ご機嫌伺いはどうも気乗りがしないんだ」
ミスタ・マンガンは空咳をした。 「以前ロンドンにいらした頃は慢性的な金欠状態だったことを覚えていらっしゃるでしょう。 たぶんそのせいで好意的だったかもしれない人も態度を変えてしまったんですよ」
「二度と誰にも会わなくたってわたしは全然平気なんだがね」ドミニーは本音を言った。
「それは無理というものです」弁護士は反論した。 「ともかく公爵夫人には会いに行かなければなりません。 どんな時もあなたの味方でしたから」
「公爵夫人はいつも優しかった」ドミニーはためらいがちに認めた。 「しかしわたしがイギリスを出る頃は、愛想を尽かしていたんじゃないかな」
ミスタ・マンガンは微笑んだ。 彼はアフリカのジャングルから帰ったばかりの男が注文したとはとても思えない、上等の昼食に舌鼓を打ち、公爵夫人のうわさ話を心から楽しんでいた。
「公爵夫人は」と彼は言いかけた。
「なにかね?」
弁護士は言葉を切った。 その目は近くのテーブルの二人組に吸いつけられた。 彼はドミニーのほうに身を乗り出した。
「公爵夫人がいらっしゃいますよ、サー・エヴェラード。 あなたの真後ろに、セント・オマール卿と」
「ここはきっと全世界が集結している場所なんだな」彼らのテーブルに近づいてきた男に握手の手を差し伸べながらドミニーは言った。 「シーマン、よく来たね!わたしの友達で法律顧問のミスタ・マンガンを紹介しよう。 こちらはミスタ・シーマン」
ミスタ・シーマンは小柄な太った男で、ごくオーソドックスなモーニングを隙無く着こなしていた。 頭は両脇のわずかな毛の房を除いて禿げていた。 そのわずかに残された長いブロンドの髪は、光る頭の上を後ろに向かって注意深くなでつけられている。 顔はひどく丸々として、顎のところだけが尖っていた。 目は鋭く輝き、口は本格的なユーモア俳優の口だった。 彼は弁護士と握手をした。 イギリス人とはとても思えない熱意のこもった握手だった。
「ここに来て半時間と経たないうちに、王女様からお近づきを求められるし」彼は声を少しひそめた。 「すぐ向こうのテーブルじゃ従姉妹が食事しているのを見つけるし、おまけに今まで十年間いちばんよしみを通じた男と相まみえるとは。 もっともわたしたちがいたところは、こことはだいぶ様子が違っていたけどね。 そうじゃないか、シーマン?」
シーマンはウエイターが持ってきた椅子に座った。 弁護士はさっそく興味を惹かれた。
「そうしますと」と彼は新来者に向かって話しかけた。 「あなたはアフリカでサー・エヴェラードをご存じだったんですね」
シーマンはにこりとした。 「ご存じだったですって?」彼は鸚鵡返しに言った。 最初の言葉で彼が外国人であることが分かった。 「彼くらい気心の知れた人間はいませんでしたよ。 商売仲間ですな。 一緒にずいぶん取引をしました。 仕事のパートナーでなかった頃は、サー・エヴェラードにいつもしてやられていましたがね」