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入れかわった男

Chapter 8: 第六章
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About This Book

The narrative follows Everard Dominy, an Englishman who, after collapsing in the African bush, wakes in a colonial outpost and meets a near-identical officer whose disciplined life and imperial duties sharply contrast with Dominy’s dissipated past. Their conversations and shared meals expose competing philosophies—duty and order versus drift and self-destruction—while hunting, the military training of local recruits, and political maneuvering in the colony provide a tense backdrop. The work examines identity, moral choice, and the consequences of divergent life paths within a remote imperial setting.

 ドミニーは笑った。 「幸運というのはたいてい人生の初めか終わりにやってくるものだ。 わたしの幸運は遅く来たのさ。 シーマン、君はわたしにとって幸運を呼ぶ縁起のいい友達だよ。 一緒に商売をしていたときは何もかもうまくいった」

 シーマンは興奮気味だった。 彼は側頭部に残されたわずかな髪を掌でなであげ、ぽちゃりとした指を弁護士の肩に置いた。

 「ミスタ・マンガン、聞いてくださいよ。 わたしはこの男にある鉱山の支配的利権を売ったんです。 四年半所有していたんですが、一ペニーの配当金も生まなかった株です。 わたしは額面で売りました。 というのも、お金が入り用でしたし、これ以上持ちつづけてもしょうがないと思ったからです。 そうしたら五週間のうちに——いいですか、五週間ですよ」彼はくり返した。 上品な周囲に合わせて声が上ずらないよう必死に努力しながら。 「その株価が額面から十四・五倍もはねあがったんです。 今では二十倍ですよ。 彼はその株を五千ポンドで買ったのですが、今の株式市場なら十万ポンドで売れます。 これがアフリカでの金儲けのやり方ですよ、ミスタ・マンガン。 あそこじゃわたしみたいなお人好しが毎日見つかる」

 ドミニーはグラスにワインをついで来客に渡した。

 「さあさあ、良いことがあれば悪いこともあるさ。 アフリカで損はしなかったじゃないか、シーマン」

 「ささやかながら儲かったね」シーマンはワイングラスの脚をもてあそびながら認めた。 「しかしわたしがこつこつ働くところをこちらのサー・エヴェラードは一歩も動かず、運命に命令して膝の上に宝物をぶちまけさせたんですからね」

 弁護士は熱心に、かつ嬉しそうにこの冗談半分のやり取りに聴き入っていた。 彼は口をさしはさむ機会を得た。

 「するとお二人はアフリカで本当に親しい間柄だったのですね?」彼の言葉には奇妙な、ほとんど説明がつかないような安堵の響きがあった。

 「サー・エヴェラードがそう呼ぶことを許してくれるならね。 わたしたちは大都市で共に商売をしました。 ヨハネスブルグ、プレトリア、キンバリー、ケープタウン。 それから一緒に荒野をさまよって金鉱調査をしました。 草原地帯を歩き回り、方向を失って何ヶ月もさまよったこともあります。 アフリカの低俗な文明だけじゃなく、その紛う方なき驚異も見てきました」

 「で、あなたも引退なさったのですか?」

 シーマンの笑顔は輝かんばかりだった。

 「サー・エヴェラードに素晴らしい富をもたらした取引で、わたしも多少のお金を手にし、イギリスに戻る前に稼ぎ出そうと心に誓っていた額に到達したのです。 おっしゃる通りですよ。 金儲けからは引退しました。 今はわたしの本当のライフワークに再び取りかかろうとしているところです」

 「趣味の話をするつもりなら、昼飯を注文したほうがいいぞ」とドミニーが言った。

 「お二人が入ってくる前にお昼は済ませてしまいました。 おつき合いにワインをもう一杯いただこうかな。 そのあとでリキュール——なんかどうです?ここでは何でも飲めますな。 ミスタ・マンガン、サー・エヴェラードとわたしは渇きと格闘しなければならない場所にいたんです。 何ヶ月も薄い水割りのブランデーを何よりの気晴らしとしなければならないところに」

 「先ほどおっしゃった趣味のことをお話しください」弁護士が頼んだ。

 ドミニーがすぐに割りこんできた。 「わたしは反対だよ。 その話をはじめると今日の午後が潰れてしまう」

 シーマンは両手を突き出し、頭を左右に振った。

 「わたしはそんな無分別なおしゃべりじゃないよ。 簡単に一言だけ——どうだい?うむ、それでは」彼は中断を恐れるかのように早口に話しはじめた。 「お分かりでしょうが、ミスタ・マンガン、わたしはドイツで生まれ、商売の関係でイギリスに帰化しました。 ドイツを愛し、イギリスに感謝しています。 人生の三分の一はベルリンで過ごし、別の三分の一はここロンドンやフォレスト・ヒルや都会で過ごし、残りの三分の一はアフリカにいました。 わたしは両国間に商業上の敵意や嫉妬が拡がるのを見てきました。 そんなものは無用だというのに。 しかもそれらはさらに悪い事態を引き起こすかも知れません。 わたしはそれを一掃してしまいたいんです。 わたしの目的は協会を設立し、大ブリテン島とドイツ帝国のあいだに、もっと友愛のこもった親睦関係とビジネス関係を築くことなんです。 ほら、わたしの説明はあなたの時間を無駄にしましたか?わたしだってくだくだしくならずに趣味の話ができるでしょう?」

 「簡潔そのものですよ」とマンガンは認めた。 「それにあなたの計画には心から敬意を表します。 しかるべき人々を集めることができれば、とても貴重な団体になるでしょうね」

 「ドイツでは有力な人々を見つけました。 国家のために生き、国家を愛しているドイツ人はみんな戦争なんて考えるのも嫌です。 わたしたちは平和と友情を求め、人間同士の話し合いを求めます」彼は弁護士のコートの袖を軽く叩きながら話を結んだ。 「イギリスはわたしたちにとって最高のお得意さんなんですから」

 「あなたの意見がドイツ国民の大多数の意見であればいいのですが」

 シーマンはしぶしぶと立ちあがった。

 「二時半にブラッドフォードの羊毛製造業者と約束があるんです」彼は時計を見ながら言った。 「顧問団に加わってくれないかと期待しているんですよ」

 彼は弁護士に向かって仰々しくお辞儀をし、ドミニーには古い友人らしく親しげに頷き、忙しそうに、上機嫌でレストランを出た。

 「しっかりした考え方のビジネスマンですな。 彼の協会が成功することを祈りますよ。 サー・エヴェラード、あなたも新しいことに関心を持つ必要がありますよ。 政治はどうです?」

 「最初のうちは生活に適応するだけで大変じゃないかと思う」ドミニーは肩をすくめて言った。 「若い頃の趣味にはもう興味がないし、こっちの友達には植民地帰りと呼ばれそうだな。 しかし今後はノーフォークにいて、何もしないわけにもいかないね。 もしかしたら議会に行くかもしれないよ」

 「失礼な言い方ですが怒らないでください」相手は思わずそう言った。 「十年間で一人の人間がこんなに変わったのは今まで見たことがありません」

 「植民地に行くのは一か八かの賭けだよ。 勝ち残って強い男になるか、さもなければ負け犬になるか。 わたしはもう少しで負け犬になるところだった。 しかし危ういところで態勢を立て直したのだ。 あの試練がなければ、今頃は何の役にも立たない男になっていたろうね」

 「こう言ってよければ」とミスタ・マンガンは父親譲りの大げさな調子で言った。 「生まれ変わったあなたと初めてお会いしたわけですが、あなたがお金を儲けたことに対してだけでなく、あなたがお変わりになったことに対しても心からお喜び申しあげたい」

 「そして、これから成し遂げようとしていることに対してもね」ドミニーは目に不思議な光を湛えながら、やや硬い面持ちで笑った。

 公爵夫人とそのお相手が立ちあがった。 前者は出て行こうとするとき弁護士の姿を認めて、優雅に足を止めた。

 「ご機嫌いかがです、ミスタ・マンガン。 レスタシャーのあの厄介な借地人のことは、うまく取り計らっていただいているでしょうね」

 「もうすぐご報告をいたしますよ」とマンガンは彼女に請け合った。 「失礼ですが、こちらのご親戚を覚えていらっしゃいますか。 外国からお戻りになったばかりのサー・エヴェラード・ドミニーです」

 直前に立ちあがっていたドミニーは手を差し出した。 公爵夫人は背の高い、上品な女性だった。 ほんのわずか白いものが混じった豊かなブロンド、非常に美しい茶色い目、少女のような顔色の持ち主で、さらに彼女自身が告白した言葉でいうと、おさんどんのような立ち居振舞をするのだが、一瞬、返事もせずに彼をまじまじと見つめた。

 「サー・エヴェラード・ドミニーですって?」彼女はそうくり返した。 「エヴェラード?まさか!」

 差し出された手は即座に引っこめられ、ためらいがちな微笑みが唇から消えた。 弁護士は二人の断絶のなかに飛びこんだ。

 「わたしが請け合いますよ、公爵夫人」と彼は熱心に言った。 「こちらは間違いなくサー・エヴェラードです。 数日前にアフリカからお戻りになったばかりです」

 公爵夫人はそれでも信じられなかった。 どこまでも気のよい人なのだが、生まれつき頑固なのだ。

 「とても信じられないわ。 じゃあ、テストするわよ。 わたしたちが最後に会ったのはいつ?」

 「ウースター・ハウスでした」すばやい返事が返ってきた。 「お別れを言うためにお訪ねしました」

 公爵夫人は少しひるんだ。 目は和やかになり、かすかな微笑が唇の端に浮かんだ。 彼女は突然ひどく魅力的な女性になった。

 「お別れを言いに来て、それから?」

 「わたしを試していらっしゃると考えてよろしいですか?」ドミニーは直立の姿勢を取り、彼女の目を見据えた。

 「お好きなように」

 「あのときは今日よりももう少し親切でいらしゃったのに。 あなたはこれをくださいましたよ」彼は手帳から小さな写真を引っ張り出した。 「そして許可を与えてくれましたね——」

 「なんてことでしょう、そんなもの、おしまいなさい」彼女は大声を出した。 「もう一言もおっしゃらないで!大きくなった甥のセント・オマールが勘定を払っているわ。 彼に聞かれちゃう。 今日の午後の三時半に会いにいらっしゃい。 一分だって遅れてはだめよ。 ほら、セント・オマール」彼女はそばに立った若い男のほうを振り向きながら言った。 「こちらはあなたの親類のサー・エヴェラード・ドミニー。 とんでもない人だけど、握手してからついていらっしゃい。 仕立屋をもう三十分も待たせてしまったわ」

 セント・オマール卿はかすかに笑って新しく見つかった親戚と握手を交わし、弁護士に向かって気さくに頷くと叔母の後を追ってレストランを出た。 マンガンの表情は晴れ晴れとしていた。

 「サー・エヴェラード!」彼は感嘆の声をあげた。 「あなたに神様の祝福がありますように!あんなふうに自分のしたことが自分にはね返ってきた女性がいたでしょうか!公爵夫人の赤面なんて——初めて見ましたよ!」

第五章

 ウースター・ハウスは一見したところなんの理由もなくリージェンツ・パークのど真ん中に建てられた、半ば宮殿のような邸宅の一つである。 以前、とある公爵が親しい友人の摂政王太子にそそのかされて入手し、その後代々引き継がれ、百万長者街道パークレーンに軒をつらねる無様な邸宅に対して、無言の非難を浴びせつづけた。 ドミニーはまず門衛詰め所で革のチョッキとシルクハットの人物にじろじろ見られたあと、立派な石作りの広間で執事に用向きを尋ねられ、革のチョッキを着た別の召使いに案内されて、おそろしくヴィクトリア朝風の居間を通り抜けた。 大部屋を出てから、ようやくこぢんまりした婦人の私室に導かれたのだが、その先は温室になっていて、甘い香りを放つ異国の花に埋め尽くされていた。 安楽椅子に寄りかかっていた公爵夫人は手を差し伸べ、訪問者はそれを取って唇にあてがった。 彼女は横の椅子に座るよう手で示し、もう一度臆面もなく探るように彼を見つめた。

 「あなた、何か変だわ」

 「それは実に不幸なことだと思いますね。 帰ってきたらあなたはまったくお変わりないというのに」

 「お上手ね」彼女はうさんくさそうに言った。 「でもわたしは変わったわ。 もうちっともあなたを愛していないのですから」

 「その心変わりが怖くて、世界の果てからあんなに長いこと帰れなかったんですよ」彼はため息をついた。

 彼女は厳しい目で彼を見たが、いかにもわざとらしい表情だった。

 「いいこと、一つだけお互いはっきり理解しておいたほうがいいと思うの。 あなたのことは何でも知っている。 弁護士が送っていた毎年二百ポンドのお金が古木を売ったり、彼のポケットから払われていたことも。 こちらでどうやって生計を立てるのか、想像もできないけど、ヘンリーが助けてくれるなんて思わないほうがいいわよ。 可哀想にあの人ったら講演旅行の旅費すらろくにまかなえないんだから」

 「講演?ヘンリーに何があったんです?」

 「夫はとっても良心的な人なのよ」彼女はもったいぶって答えた。 「ロバーツ卿と秘書を従えて町から町へと、国防問題の講演をしているのよ」

 「ヘンリーは変人だったからなあ。 でも、さっきのお話ですが、ご心配には及びませんよ、キャロライン。 イギリスに戻ってきたのはお金を借りるためではなくて、お金を使うためなんです」

 従姉妹は悲しげに頭を振った。 「さっき言おうと思ったんだけど、あなた、ユーモアのセンスもなくしてしまったのね」

 「これは本当ですよ。 アフリカはわたしの黄金郷だったんです。 向こうでの滞在が終わる頃、思いもよらず大金を手に入れましてね。 ドミニー邸を抵当に入れて借りていた金は全額すぐに返済します。 ヘンリーから、以前、いくばくかのお金を貸して頂きましたが、その額をさっそく請求書に書きつけてほしいんですよ」

 ウースター公爵夫人キャロラインはしばらく口を開けたまま身動きもせず椅子に座っていた。 当然の反応とはいえ、彼女のような女性にはふさわしくない姿だった。

 「あなた、ほんとうにエヴェラード・ドミニーなの?」

 「証拠を見るとどうやらそのようですよ」

 彼はわざと椅子を近くに引き寄せ、彼女の手を取り唇に持って行った。 相手の顔が危険なほど近くにあった。 彼女は少し身体を引いた——それも突然に。

 彼女は声をひそめた。 「エヴェラード、ヘンリーが家にいるのよ。 それに——そうね、あなたはエヴェラードに違いないと思うわ。 いま、あの人そっくりの目をしたもの。 でもずいぶん堅苦しいのね。 向こうで軍事教練でもしていたの?」

 彼は頭を横に振った。

 「一日の半分は馬の上で生活してましたから」

 「お金持ちになったというのは本当?」彼女はもう一度不思議そうに訊いた。

 「もう一年向こうにいて、オランダのユダヤ娘と結婚していたら、パークレインに住む資格だってあったでしょう」

 彼女はため息をついた。

 「信じられないくらい素晴らしいわ。 ヘンリーはお金が戻ってきて喜ぶでしょう」

 「で、あなたは?」

 彼女は見るからに戸惑っていた。

 「あなた、作法を忘れてしまったのね。 それじゃあ熊手で愛情をかき集めるみたいじゃない。 いまの台詞は、わたしの方に寄りかかって震えるような声で言わなきゃならないのよ。 それなのに、あなたときたら目を鋼みたいにぎらっとさせて、まるで気をつけしているみたいにまっすぐ座っているんですもの」

 「向こうでは滅多に女性にお目にかかれなかったんです」彼は言い訳をした。

 彼女は頭を振った。 「あなたは変わったわ。 女をくどくときは、第六感がはたらいて、その場にふさわしい調子を使うことができたのに。 その場にふさわしい態度とふさわしい言葉をね」

 「少し手を貸していただければ、勘を取り戻しますよ」彼は明るく言った。

 彼女は軽く顔をしかめた。

 「わたしみたいなおばあさんに助けてもらいたくはないでしょうに、エヴェラード。 あなたは街で好きなことができるでしょうから。 ミュージカルの踊り子といちゃつくこともできるし、美しい人妻と浮気をしたり——ごめんなさい、エヴェラード、忘れていたわ」

 「何を忘れていたんです?」彼は落ち着き払って訊いた。

 「あなたをとうとう外国に追いやったあの事件のこと。 あなたの結婚のこと。 奥さんはよくなられたの?」

 「あまり変わりはないと思いますね、残念ながら」

 「ミスタ・マンガンは——こっちにいても安全だと思っているのかしら?」

 「なんの問題もないと」

 彼女は真剣な面持ちで彼を見つめた。 恐らく彼女は自分がこの厄介者の従兄弟をどれほど好いていたか、今ほど自覚したことはなかっただろう。

 「誰もあなたに文句を言う人なんていないわ。 富を手にして生まれ変わったんだもの。 あなたの望み通り何でも水に流してくれるでしょう。 いつうちの晩餐に来て、親戚一同に挨拶するつもり?」

 「お招きいただければいつでも構いません。 あしたはドミニー邸に行こうと思っていましたが」

 彼女は目に新しい表情を浮かべて彼を見た——恐れと同時に賛嘆の念をあらわす表情だった。

 「でも——奥さんは?」

 「向こうにいるでしょうね。 仕方がありません。 もう逃亡生活から家に戻らなければ」

 「行かないで」彼女は突然、懇願した。 「どうして思い切って彼女をよそにやってしまわないの。 心の優しいことは知っているけど、自分の未来や仕事のことも考えないと。 彼女のためにも、妙なまねをさせないほうが——」

 ちょうどそのとき、会話が遮られたことは歓迎すべきことだったのか、そうでなかったのか、ドミニーには判断がつかなかった。 キャロラインは急に口を閉ざし、警戒するように大部屋のほうを振り向いた。 長身、白髪の男が、流行遅れの服に鼻眼鏡をかけて、カーテンを持ちあげた。 彼は公爵夫人に細い、甲高い声で話しかけた。

 「やあ、キャロライン、邪魔してごめんよ。 話し中とは知らなかったんだ。 長居はしない。 ただ今晩の会合で手助けをしてくれるわたしの若い友人を紹介しておきたくてね」

 「連れていらっしゃいな」と妻は答えた。 その声はいつものゆっくりした話し方に戻っていた。 「わたしもびっくりさせることがあるのよ、ヘンリー。 腰を抜かすと思うわ!」

 ドミニーは立ちあがって、背の高い威厳のある姿を見せ、男が近づくのを待った。 公爵はいぶかるように彼を見ながら進み出た。 私服を着ているが、いかにも軍人といった若い男が後ろからついてきた。

 「ご期待通り驚くことができなくて申し訳ないが」と公爵は丁重な言葉遣いで白状した。 「お顔にはひどく見覚えがあるものの、お会いした時のことを思い出せないのですよ」

 「ほらね、一目で分からなかったのはわたしだけじゃないでしょう、エヴェラード。 こちらはエヴェラード・ドミニーよ、ヘンリー。 外国で逃亡生活していたのを止めて戻ってきたの。 あらゆる意味で生まれ変わってね」

 「いかがお過ごしです?」ドミニーは手を差し伸べながら言った。 「誰に会ってもびっくりされるようですね。 あなたにまで忘れられていなければいいのですが」

 「なんと!まさか本当にエヴェラード・ドミニーなのかね?」

 「間違いなく本人です」彼は静かにきっぱりと言った。

 「こいつはたまげた!」公爵は握手しながら言った。 「わが目を疑うよ!これほど人が変わった例は見たことがない。 しかし確かに——なるほど顔の色つやも——鼻も目も——こりゃ間違いない!しかし背が高くなったようだね。 それに振る舞いが軍人みたいだ。 なんとまあ!アフリカが君を驚くほど変えてしまったんだね。 嬉しいよ、エヴェラード!感激だ!」

 「他のニュースを聞いたらもっと喜ぶわよ」妻がにこりともしないで言った。 「ところでお友達を紹介してちょうだい」

 「そうだった」公爵は促されて、後ろの若者のほうを振り向いた。 「失礼しました、バートラム大尉。 妻の親類が思いもかけず戻ってきたもので、つい不作法をはたらいてしまいました。 公爵夫人にご紹介いたしましょう。 バートラム大尉はドイツから帰国したばかりなんだよ、おまえ。 わたしの主張を熱心に支持してくださっている。 こちらはエヴェラード・ドミニー」

 キャロラインは夫の弟子と快く握手し、ドミニーは重々しく握手を交わした。

 「バートラム大尉、あなたもドイツがわが国によからぬことを企んでいると、確信している人々の一人なのですか?」夫人は笑みを浮かべながら言った。

 「わたしは一年の滞在を終えてドイツから戻ったばかりです」と若い軍人は答えた。 「偏見を持たずあちらに渡ったのですが、帰ってきた今はわれわれが二年以内にドイツと戦争になることを固く信じています」

 公爵は力強く頷いた。

 「その通りだ。 わたしは何ヶ月にもわたって毎週三回、集会に来てくれた一握りの頭の鈍いイギリス人にその事実をたたきこんでいるのだよ。 上院と報道機関からは敬遠されているがね。 全くあきれたことに、イギリス人は金を儲けて、楽しく過ごすことさえできれば、どんなに口を酸っぱくしていさめても、反省ということをしない。 ところであなたはアフリカから戻ってきたばかりなんだろう、エヴェラード?」

 「戻って一週間も経っていません」

 「向こうでドイツ人を見たかね?ドイツ領の近くに行ったことは?」

 「数年間、彼らと接触がありました」

 「それは興味深い!もしかしたらあなたの話がわたしたちの役に立つかもしれないよ、エヴェラード。 いや、きっと役に立つだろう!教えてくれないか。 向こうにはドイツのスパイがいてボーア人を動揺させ不穏の種をまき散らそうとしているんじゃないかね?近い将来、わが国と戦争になることを予想し、植民地で反英運動を煽っているのじゃないかね?」

 「はなはだ残念ですが、わたしはおよそ政治にうとい人間でして。 向こうで出会ったドイツ人は誰も彼もとても平和的な印象でした。 それにボーア人にしろ他の連中にしろ不平なんか少しも抱いていないようです」

 公爵の顔が落胆を示した。 「それは実に驚いた話だな」

 「不満を抱いていそうなのはイギリス人入植者くらいです。 わたしがまともに働きはじめたのは数年前からなんですが、戦争後のイギリス人の待遇について妙な噂を聞いたことがあります」

 「サー・エヴェラード、あなたの南アフリカのお話が興味深いのはもちろんなんですが」と若い軍人が言った。 「しかしわたしが聞いた話とはおよそ矛盾していると言わざるを得ません」

 「わたしも同意見だ」公爵が勢い込んで賛成した。

 「向こうには今まで十一年間住んでいました。 最初は猛獣狩りをして過ごしましたが、最近は蓄財に全精力を傾けていたのです。 たぶん、そのせいで、充分に観察眼を働かしていなかったのかも知れません。 さっそくあなたがたの会合に参加させていただき、この問題に関する理解を深めたいと思っているんです、公爵」

 堂々たる風采の血縁者はしばらく眼鏡の奥から不思議そうに彼を見ていた。

 「エヴェラード、こんなことを言うのを許してくれよ。 しかしこれほど君が変わるとはおよそ信じがたい」

 「エヴェラードの変貌はそれだけじゃないのよ」彼の妻がかすかな皮肉をこめていった。

 退出しようと立ちあがっていたドミニーは、彼女の手の上に身をかがめた。

 「わたしの晩餐会はどうするの?」と彼女は言った。

 「ノーフォークから帰ったらすぐに」

 「本当にドミニー邸に行くのね」彼女はいぶかるように尋ねた。

 「もちろんですとも!」

 彼女の目は再び恐れにおののき、そのあと束の間、感嘆の光を宿した。 ドミニーは主人と重々しく握手をし、バートラムに頷いてみせた。 公爵夫人が呼んだ召使いがカーテンを一方に寄せて押さえながら立っていた。

 「またすぐお会いしたいと思います、公爵」いとまごいの最後にドミニーが言った。 「あなたとちょっとした取引をしたいのですよ。 一両日中にミスタ・マンガンから連絡があるでしょう」

 公爵はこの驚嘆すべき訪問者の後ろ姿を見つめた。 カーテンがさがると彼は妻のほうを向いた。

 「ちょっとした取引だと?エヴェラードに説明したんだろうね。 戻ってきたのはもちろん嬉しいが、今、わたしに経済的援助を求めても全く無駄だということを」

 キャロラインは笑った。

 「エヴェラードは今まで借りていたお金のことを言っていたの。 すぐ返済するつもりらしいわ。 ドミニー邸を担保に借りていたお金も返す予定よ。 どうやらアフリカで一財産こしらえたみたい」

 公爵は安楽椅子のなかに倒れこんだ。

 「エヴェラードが借金を返済する?」彼は肝を潰して言った。 「エヴェラード・ドミニーが抵当で借りた金を返すだと?」

 「そういうことらしいわ」

 公爵は気の弱い、しかし片意地な男の最後の避難所にしがみついた。 彼の口はねずみ取りのようにがっちりと閉じた。

 「どうも腑に落ちないな」と彼は言った。

第六章

 ドミニーはその晩、カールトンホテルの自室でシーマンを待ちながらひどく落ち着かない一時間を過ごした。 ようやくシーマンがあらわれたのは七時になろうとする頃だった。

 「分かっているのかね?七時にアイダーシュトルム王女のお宅に伺う予定だってことは」

 「そうだってね」とシーマンは答えた。 「しかし心配することはないさ。 王女は分別もあるし、政治に対して見識のある女性だ。 すっかり気を許すことはお勧めできないが、つかず離れず慎重に立ち回ることはできるだろう」

 「何を言っているんだ!王女はレオポルド・フォン・ラガシュタインとしてのわたしとわたしの自由を断固要求しているんだぞ。 下手をすればエヴェラード・ドミニーの将来をめちゃくちゃにするかもしれないんだ」

 シーマンは帽子と手袋と杖をサイドボードの上に整然と並べた。 隣の寝室を覗いてからしっかりと扉を閉ざし、安楽椅子に座って手足を伸ばした。

 「わたしの向かいに座りたまえ。 話をしよう」

 ドミニーはやや不機嫌そうに従ったが、相手は彼の顔色を無視した。

 「さて、君」彼は一方の掌を他方の人差し指で叩きながら言った。 「わたしは商売人だから割り切った話し方をするよ。 われわれの立場を確認しようじゃないか。 今からちょうど三ヶ月前に、われわれはケープタウンのあるホテルで約束の面会を果たした」

 「まだ三ヶ月か」ドミニーはつぶやいた。

 「お互い相手のことは何も知らなかった。 わたしが聞いていたのはフォン・ラガシュタイン男爵が献身的なドイツ市民で愛国者だということ、そしてハンガリーで不幸な事件を起こしたが、皇帝の特別な計らいにより、東アフリカで重要な任務に就いているということだけだった」

 「決闘で人を殺したんだよ」ドミニーは相手から視線をそらさずゆっくりと言った。 「しかし一方的にわたしが悪いわけではない」

 「決闘はいくらでもある。 二人の若者が同じ身分の若い女性の名誉のため、あるいはその人を伴侶にするため闘うことは、決してわが宮廷のしきたりに反することではない。 しかしハンガリーきっての名門貴族の令室を愛人にし、さらに彼女をわがものにせんと夫を殺す。 夫が自分の名誉を守るためには避けられなかった決闘で。 こうなると話は全然違ってくる」

 「王子を殺すつもりはなかった。 だいたい顔をつきあわすことだって望んでいなかった。 王子は狂ったように向かってきた。 猛然と襲いかかろうとして足を滑らせ、わたしが動かさずに構えていた剣の切っ先に突っこんだ」

 「そのことは問題にしないことにしよう。 わたしは君のような身分の人間じゃないから、そうした作法を十分理解していない。 わたしはただ皇帝陛下の目に映ったとおり、君を犯罪人として見ている。 皇帝が君に個人的な犠牲をしいるのは当然だと思う」

 「よかったら教えてくれないか。 皇帝はこのうえ何を望んでいるんだ?わたしは神もいない、熱病に取り憑かれた国でうんざりするような歳月を過ごし、わが国の兵力になるよう、現地人の大部隊を育てた。 他にも植民地で政治的任務をこなし、それもいつかは実を結ぶ日が来るだろう。 わたしはわたしのためにもともと計画されていた仕事をするはずだった。 その仕事のためにわたしはイギリスで教育を受けたのだ。 ケープタウンで君と協議したあと、なりすますことになった人物になってイギリスに来る。 そしてこの国の人にできるだけ好ましい印象を与えるようにする、という段取りだった。 しかしわたしは君と会うまで待たなかった。 絶好の機会が訪れたから、利用することにしたのだ。 イギリスの郷士に変身し、今までのところはけちのつけようがないくらい順調に進展している。 それは君も認めるだろう」

 「まったく君のいう通りだよ。 君は別人になりすましてわたしとケープタウンで会った。 確かに見事な変身だと思ったよ。 君のおかげで怖ろしく出費が重なったが、われわれはお金のことで不平は言わない」

 「帰国しても貧乏じゃどうしようもないじゃないか。 イギリスの社交界に出て行きようがない。 君がわたしの味方になることを望んでいる人々だって、喜んで迎えてくれなかっただろう」

 「その点も不満はない。 金はうなるほどある。 糸目はつけんよ。 同時に忠誠心も出し惜しみしてはならない」彼は厳粛な口調で言った。

 「この場合は忠誠心が問題なのじゃない。 エヴェラード・ドミニーはヨーロッパでもっとも情熱的な女性の一人、アイダーシュトロム王女の足下に身を投げ出すわけにはいかないのだ。 彼女とレオポルド・フォン・ラガシュタインの情事はまだ人々の記憶に残っている。 忘れないでくれ、われわれがそっくりだということがいつ問題になるか分からないんだよ。 われわれはここイギリスで、パブリック・スクールと大学を通じて、ずっと友人だった。 われわれがよく似ていたことを覚えている人はまだたくさんいる。 どんなに完璧な演技をしても、ときには疑惑を抱かれるかもしれない。 王女の馬車の車輪にくくりつけられ引っ張り回されたら疑惑どころではなくなる」

 シーマンはしばらく黙っていた。

 「君のいうことにも一理ある」ほどなくして彼は認めた。 「たった数ヶ月のことなんだが。 君はどうすればいいと思う?」

 「すぐにわたしの代わりに王女に会ってくれないか」ドミニーは強く言った。 「わたしはしばらく政治的な理由で世間に対しても彼女に対してもエヴェラード・ドミニーでなければならないのだと教えてやるんだよ。 わたしはサー・エヴェラード・ドミニーとして、今日はじめて出会った佳人に、良識の範囲内で友情と賛嘆の念を捧げよう。 それで満足するように説得するのだ。 わたしは全身全霊で彼女に尽くすよ。 しかしたとえ彼女の部屋で二人きりになろうが、客間で会ったときと同じように、わたしは任務が終わるまでエヴェラード・ドミニーなんだということを、忘れてもらっては困るのだ。 たぶん君は余計な心配をしているように思うかもしれないが、わたしはそうは思わない。 わたしは王女を知っているし、自分を知っている」

 シーマンは時計を見た。 「約束は何時だい?」

 「約束じゃないよ。 あれは命令だった。 七時にベルグレイブ・スクエアに来るように言われたんだ」

 「王女の理解を取りつけてこよう」シーマンは帽子を取りあげながら約束した。 「八時に戻ってきたら下で食事をつきあってくれ」

 ドミニーが一時間後、下に降りていくと、友人のシーマンはとっくにレストランの片隅にある小さな離れたテーブルに着いていた。 ドミニーは軽い手振りで迎えられ、すぐにカクテルが注文された。

 「君の使い走りをしてきたよ。 行ってみて、なるほど、君の不安が少しだけ分かった」

 「王女に会ったことはなかったんだろう?」

 「なかったよ。 恐ろしく気性の激しい女性だな」シーマンは唇の端をにやりと歪めてつづけた。 「来年の八月頃は、君、王女のお相手で目が回るほど忙しくなるぞ」

 「そのときになれば、何とかなるさ」彼は落ち着き払って言った。

 「さしあたり王女は状況を理解してくれたし、感銘も受けていたようだ。 とにかく無分別な真似はしないだろう。 今から数時間後に君と彼女は会うことになっている。 しかし、道理をわきまえてのつき合いだ。 さてさて!王女との会見を終えてここに戻るとき、そろそろ君がここに来たいちばんの理由である人物に会うときが来たと思ったのだが」

 「ターニロフか?」

 「その通り!君は……」ウエイターがカクテルを運んできて、もう一人のウエイターが晩餐の注文を聞いた。 その短いあいだ、シーマンは話を中断した。 「ロンドン到着後直ちに伝えられることになっていた次の指示のことを、君は今まで慎重に、しかも賢明にも一言も尋ねたことがなかったね。 指示は文書で渡されることはない。 今、口頭で伝える」

 シーマンは額に手を当て、残りの酒を飲み干した。

 「わたしが受けた命令は、君を絶対的に信頼すべし、大事変が起きるまで、なりかわった男として自然な生活をするよう大いに努めるべし、というものだ」

 「そうだ」シーマンは同意した。

 彼はまるで客筋でも確かめるように、しばらくレストランのなかを見回し、ようやく盗み聞きされる恐れはないと確信して話をつづけた。

 「もし君が自分はスパイだと考えているなら、まずその考え方を捨てなければならない。 君はスパイなんかじゃない。 わが国の見事なまでに完璧な諜報活動とは少しも関係がない。 何を言おうが、何をしようが、完全に自由な個人だ。 ドイツを信じてもいいし、恐れてもいい。 お好きにどうぞというわけだ。 君の伯父の国民兵役推進運動に加わるのもいいし、両国市民の友情と親愛を深めるわたしの努力に協力してくれてもいい。 われわれはまったく気にかけないよ。 自分で役柄を選びたまえ。 サー・エヴェラード・ドミニー、ノーフォク州ドミニー邸の男爵になりきって生活しろ。 サー・エヴェラードが進みそうな道を進むのだ」

 「ずいぶん寛大だね」

 「常識で考えてみたまえ」すぐに相手は答えた。 「君がどんなに力を尽くしたところで、半年ではどちらの方向にも目につくほどの進展はあり得ないだろう。 だから君には一つの任務、それだけに全精力を傾けてもらうことにした。 ここでの君の任務にスパイ行為が含まれているとしても、君が注意を向けるべきはイギリスでもイギリス人でもない。 全神経をターニロフに向けるのだ」

 ドミニーはぎくりとした。

 「ターニロフ?わたしは彼と組んで仕事をするものだと思っていたのだが——」

 「先入観を捨て去るのだ。 ターニロフに対する君の任務は状況が進展するにつれ次第に分かってくるだろう」

 「しかしまだ顔見知りにもなっていない」

 「さっき話そうとしていたのだが、今晩十一時に大使館で会う約束を取りつけておいた。 君はその時間に彼に会いに行くんだ。 いいかい、忘れるなよ、君は何も知らず、指示を待っているのだからな。 もっぱら彼に話をさせろ。 特に気をつけなければならないのは、これから何が起きるのか、知っているようなそぶりを一つも見せないこと。 彼は現状に満足しきっている。 何ら不満を抱いていない。 彼を動揺させないよう注意しろ。 彼は平和の使節なんだ。 君と同じようにね」

 「分かりかけてきたよ」ドミニーは考え込むように言った。

 「君の出番が来たとき全てが分かるだろう。 熱心さのあまり忘れないでくれ、われわれの大いなる目的にとって君が有用なのは、イギリス人紳士として君が立場を確立し維持できるかどうかにかかっているということを。 ここまではいいか?」

 「わたしのほうは完全に理解した。 しかしそちらもしっかりやってくれなければ困る。 ベルリンはわたしの失踪のことで東アフリカから半狂乱の連絡を受け取るだろう。 腹心の部下にもこの秘密は知らせていなかったから」

 「了解している。 シュミットとかいう健気な医者が狂ったように電報を打って政府の金をやたらと浪費している。 ずいぶん慕われていたんだな」

 「彼は忠実きわまりない部下だった」

 「それが厄介きわまりない友人になったよ。 どうやら現地人が、藪の中で死んだ同名の男を君と勘違いしたらしい。 そしてシュミットは君がケープタウンから連絡するはずだったとさかんに強調している。 しかしこれはうまく処理した。 唯一、本当の危険はこちらイギリスのほうにある。 君はその最大の危険との出会いをもうすませてしまったようだね」

 「とにかくわたしはいちばん近い親戚に受け入れられたよ。 しかも偶然だが、われわれの未来を見通しているイギリス人を一人見つけた」

 シーマンは一瞬、不安そうな様子をした。

 「誰のことかね?」

 「ウースター公爵、わたしの従姉妹の旦那だよ。 今君が話していた男だ」

 小男の顔から緊張が消えた。

 「彼はカピトリウムの神殿を救ったガチョウたちを思い起こさせるよ。 頭の悪い、一つの考えに取り憑かれた男だ。 こういう狂信者がしばしば真実を発見するのだから妙なものだ。 そういえば」彼はチョッキのポケットからメモ帳を取りだしページをめくりながら言った。 「公爵様は今晩ホルボーン市庁舎で会合を開くことになっている。 いつものように邪魔をしに行ってやるつもりだ」

 「たいした支持者もいないのに、どうして放っておかないんだ?」ドミニーは訊いた。

 「彼とつながりを持っている連中のなかには侮れない人物もいる。 それに邪魔しに行けば、わたしのささやかな趣味の宣伝にもなる」落ち着き払った答えが返ってきた。

 「彼ら——われわれイギリス人は変わり者なんだ」ドミニーは考えるように一呼吸を置いたあと、部屋を見回しながら言った。 「われわれは桁外れの富を持っていると吹聴し自慢するが、それを守るために自己犠牲を払うことが全くできない。 哲学者、歴史家たちが、争う余地のない厳密な演繹法を用い、有無を言わさぬ言葉遣いで、未来に警告を発していてもよさそうなものなのだが」

 「代名詞の使い方が見事だ」シーマンは軽くお辞儀をしながら言った。 「今の発言についていうと、イギリス人は——失礼、君の同国人だが——決して不愉快なことには気づこうとしない連中だよ。 嫌なことが起きても駝鳥みたいに砂のなかに頭を隠してぬくぬくしているほうが好きなのだ。 しかし一般論はさておき、ノーフォークにはいつ行くつもりだ?」

 「二、三日中に」

 「あそこに君が無事収まることができたら、わたしももっと自由に息ができるだろう。 街だけでなく田舎でも、君がサー・エヴェラード・ドミニーとして完全に受け入れられて初めて大計画が可能になるのだ。 君の、何と言えばいいのかな、家庭における立場はあらゆる点に渡って把握しているんだろうね?」

 「必要なことは全部把握している」彼の答えはどこかぎこちなかった。

 「必要なことだけじゃ充分じゃないんだ」シーマンは苛々と言った。 「あの酔っぱらいのイギリス人から話という話をみんな引き出したと思っていたのだが」

 「たいがいのことは話したよ。 ただ一つか二つ、どう質問しても答えてくれない点が残った」

 シーマンは怒ったように顔をしかめた。

 「要するに、君は紳士であろうとしたということだな、ドイツ人ではなく」

 「ある階級のイギリス人は、仮に堕落していても、一種の頑固さを失わないんだ。 そしてある特定の事柄に関しては決して口を割らない。 われわれはあの最後の晩に夜通し語り合った。 ワインとブランデーを飲みながら。 わたしは辛い思いをしながら自分の追放の話をし、彼の目の前にさらけ出した。 しかし聞きながら彼は何かを隠しているとずっと思っていたし、今もそう思う」

 しばらく沈黙があった。 わずか数分の間に、二人のあいだにある種の緊張感が漂いだしていた。 それとともに二人の個性も際だってくるようだった。 ドミニーは今まで以上に貴族の風格をあらわし、シーマンはふてぶてしく貪欲に目的を実現しようとするさもしい陰謀家に見えてきた。 やがて彼はテーブル越しに軽く身を乗り出した。 細められた目は鋼鉄のように光り、いつもより歯をむき出している。

 「君はあいつの喉元から情報を引っ張り出すべきだった。 君の義務は女々し感傷に浸ることではない。 君は偉大な大義に身も心も捧げたのだ。 君がこの国においてドミニー邸のエヴェラード・ドミニーでありつづけることが、来るべき一大事変のあと、どれほど重要な意味を持つか、とても言葉では表現できない。 プロシア貴族が世界で誰よりも個人の名誉を大切にすることはよく知っている。 しかし君の階級に属する人間で国家のために嘘をついたり騙したりする覚悟のない者は一人もいない。 君もそれに従わなければならないよ。 もう一度言おう。 君がエヴェラード・ドミニーと認められることがわれわれにとって重要なのはターニロフの一件だけではないのだ。 そのあとの計画にも関係しているのだ——いや、この話はもうやめよう。 君には分かっていると思うんだ。 むきになりすぎたね。 十一時までどう過ごすつもりだい?君は世捨て人になってイギリスを離れたわけじゃないからね、サー・エヴェラード。 気晴らしの趣味を持たなければならないよ。 ミュージック・ホールなんてどうだい?」

 「考えることが一杯でそれどころじゃない」ドミニーは言い返した。

 「それならわたしと一緒にホルボーンに来たらいい。 憂さ晴らしになるだろう。 入り口で別れて、君は見られないようにホールの後ろに座るんだ。 義理の従兄弟の感銘深い熱弁が聞けるよ。 偉大にして強欲なドイツが将来脅威となって待ちかまえているだろうと、イギリスの一般人に説いているところをね。 どうだい?」

 「行こう」ドミニーは気のない返事をした。 「とにかくミュージック・ホールよりはましだ。 シーマン、ここでの任務でいちばん難しいのは、やりたくもないのに楽しみごとにふけらなければならないってことじゃないかな」

 相手は握り締めた拳で軽く、しかし苛立たしげにテーブルを叩いた。

 「おい、君は若いんだぞ!まるでわたしら年寄りみたいな言いぐさだな。 君の人生は君の手のなかにある。 過去の悲しみをぐずぐず引きずってはだめだ。 そんな記憶は水に流し去れ。 陰気な心持ちくらい人間を狭くするものはない。 過去の幽霊がときどきやってきてとりつくのだろうが、しかし忘れるな。 その罪の責任を全面的に君が引き受ける必要はないんだ。 それに君が望むならいつだって度を過ぎない程度に償いをはじめることができる。 そのことは充分話したじゃないか。 偉業と快楽は共存する。 そうら!わたしはプロパガンダの教授になる前は哲学者だったのさ。 よしよし!笑顔になったね。 少しはしゃべった甲斐があった。 それじゃあタクシーでホルボーンに行こう。 とびきり面白いものを見せてあげる」

 市庁舎の玄関に着くと、シーマンの指示で二人は二手に分かれ、別々のドアからなかへ入った。 ドミニーは張り出し席の下の奥まったところに座った。 そこなら演壇から見られることはなさそうだった。 一方シーマンは人目につきやすい前列の長椅子の端に座った。 集会は少しも混み過ぎてはおらず、熱狂的過ぎることもなく、極端にどうということは何もなかった。 誰も座っていない幾列もの長椅子、荒れ模様の夜空から雨宿りに入ってきたらしい多くの若い男女、集会に参加することは社会的地位のある人間にはふさわしい振る舞いだと考えているらしい、逞しく立派な身なりの商人たち。 真剣な関心を持つ者も何人かいたし、そこここには、明らかに少数派ではあったが、熱烈な支持者がいた。 演壇には公爵がいて、両側には町のお偉方が並んでいる。 著名な軍人、下院議員、誰とも知れぬ近所の住人、そしてバートラム大尉である。 ドミニーが隅に席を占めたとき会合はちょうどはじまるところだった。

 まず公爵が立ちあがり、陳腐ながらも熱のこもった言葉で若い友人バートラム大尉を紹介した。 話の途中でさっそく立ちあがった大尉は落ちつかない様子で、少なからず厳しい表情を浮かべていた。 彼は将校を辞職したので思っていることを自由に話せると説明した。 そしてドイツにおける大規模な軍備と国中に拡がる緊張感について話をした。 この準備は誰に対するものなのか。 疑問の余地はない、ドイツ最大の敵対国に対してだ。 しかるにそこにいる何百万もの若者は、この危機に際してさえ土曜日の午後にサッカーやらクリケットにうち興じ、あるいは観戦し、自らの義務を自覚しようとしない。 まとまりは悪いがひたむきな演説だった。 しかしその結論は夕刊売りの少年の闖入によって中断され、年若い聴衆はほんのいっとき会合を忘れて満足そうにサッカー優勝戦の結果を確かめた。 それから下院議員の雄弁が議会演説の名調子でつむじ風のように彼らを襲った。 彼は嵐の前の黒雲と冷たい風について語った。 歴史をひもとき、偉大な国家も自己防衛を怠たれば崩壊することを指摘した。 彼は全国の若者に向かって、女と家庭と神聖な祖国の土を守るために立ちあがれと檄を飛ばしたのだが、ちょうどそのとき眠そうにしていた聴衆の一人がふと目を覚ましたらしく、朗々たる声を張りあげて話に割りこんできた。

 「海軍は何やってんです、先生?」

 演説者は彼一流の壇上での身のこなしを見せ、さっと妨害者のほうを振り向いた。 海軍はいかなる時でも期待に違わずその義務を果たすだろう、と彼は断言した。 しかし海軍は陸地では戦えない。 今、話を遮った若者は自分の義務を果たすために今晩、軍事教練と国民兵役に志願するつもりはないだろうか、云々。 有名な軍人は風邪をひいていたため、拍手に合わせてがらがら声を何度か張りあげただけだった。 集会の掉尾を飾ったのは公爵だった。 彼は有名な軍人を除いた誰よりも真摯で、聴衆のみんなから尊敬のこもった注目を浴びた。 二、三の歴史的事例を引用し、男たちには真剣な気構えと市民としての義務感をいっそう育むことを求め、女たちにすらより強い責任感を持つことの重要性を説き、ちょっとした熱狂的喝采がわき起こるなか、彼は座席に着いた。 議長に対する感謝決議が提案されようとしたとき、ミスタ・シーマンがその場に立ちあがり、議長に向かって短い発言の許可を訴えた。 ミスタ・シーマンとは何度か顔をつきあわせたことのある公爵は厳しい目で彼を見たが、ミスタ・シーマンが聴衆を見回すその笑顔は気さくで愛嬌があったので、彼は許可を与えるほかなかった。 シーマンは階段をあがって壇上に立つと、申し訳なさそうに咳払いをしてから公爵にお辞儀をし、満座の視線を一身に浴びた。 一言、二言、議長に対するお世辞を述べてから、彼は本題に入った。 わたしはドイツ市民です——つまり血に飢えた民族の一人です。 (笑い)わたしがここに立っているのは、皆さんよくご存じでしょうが、わたしが英独実業家友好促進同盟の設立者であり幹事でもあるからです。 今晩聞かせていただいた発言のなかにはわたしを深く傷つけるものがありました。 仕事の関係でわたしはよくドイツに行きます。 わたしはドイツ人としての義務を果たすべく、次のことを言いたい。 平均的なドイツ人はイギリス人を兄弟のように愛しています。 わたしの人生の目的はイギリス人と親交を深めることであり、ドイツはまさにこの瞬間も、北海の向こうから血縁者たちに手を差し伸べ、いっそうの同情と理解を求めているのです。 (聴衆から拍手、壇上からは不同意のつぶやき)またこちらの方々がさんざん耳になさったという軍備のことですが(と、バートラム大佐に厳しい視線を向ける)、しばしドイツの国境に目を転じてください。 東からは強大な力を持つ宿敵が絶えず圧力をかけてくる。 過去三十年間ドイツがどのような政治的困難に直面してきたか、いちいちお話して時間を無駄にする必要はないでしょう。 ただ揺るがしがたい事実のみを申しあげます——ドイツが軍備を増強せざるを得ないのは、ロシアという敵があるからなのです。 軍事力を行使するとすれば、それはロシアに対してであり、ロシアの挑発に対してです。 わたしは微力ながらもわたしを生んだ愛する祖国と、わたしを養子に取ってくれた同じように愛する国の関係改善のために努力しているのです。 このような集会は不当で許し難い疑惑を広めるだけであり、わたしの活動を阻害する最大の問題の一つです。 壇上に居並ぶ方々が愛国の士であることは疑いをいれません。 しかしこの偏見と悪意に満ちた宣伝活動をやめ、わたしの主催する会の後援者になっていただければ、ご自分に対しても国家に対してももっと有益な形で愛国の心を示すことができるでしょう。

 シーマンが議長に向かってした会釈は気さくで、おおらかで、どことなく憂いを帯びていた。 公爵はドイツの宣伝活動家がイギリスの愛国集会に侵入するとは憤慨を禁じ得ないと前置きして短く一席ぶったのだが、この望ましからざる外国人が与えた一撃はもう取り返しがつかなかった。 集会が解散したとき、国民兵役に賛同した人が一人でもいたかどうか、疑わしかった。 公爵はかんかんになって家路につき、シーマンは心から楽しそうに笑いながら、街角でドミニーがつかまえたタクシーに乗りこんだ。

 「約束通り、面白いものを見せてあげただろう?」

 ドミニーは謎めいた微笑を浮かべた。 「確かに善意のお偉方を見事にからかってみせてくれたね」

 「奇跡はそれだけに留まらないよ。 今晩は、ささやかながら、民主主義の途方もない馬鹿さ加減を示す格好の夜となったのだ。 イギリスは有り余る自由によってじわじわと首を絞められ窒息させられつつある。 ジャムをたっぷり与えられた子供みたいなものだ。 想像できるかね、われわれの愛する祖国でイギリス人が演壇にあがり、ドイツの利益に反するイギリス寄りの宣伝を邪魔されずにとうとうとまくしたてることが許されるなんて。 いわゆるイギリス人の自由というのは、よその国の政治的信条を育てるカッコウみたいなものだな。 国家は統治されなければならない。 連中には自らを統治することはできん。 戦争が来たらそういうことがみんな証明されるだろう」

 「しかし国家の歴史において一大危機が訪れたときは、どんな場合であれ、いろいろな意見のあったほうがいいのじゃないかね?」

 「いろいろな意見を言う奴はいつでもいるだろう。 イギリスでもドイツでも。 この国の問題はそれがことごとくおおっぴらに新聞雑誌を通して表現されることだよ。 それぞれの見解に信奉者がいて、政府は分裂している。 ドイツでは国家の運命の根幹は秘密裏に決められる。 意見を言う連中もいるよ、真面目な頭のいい連中がね。 でも彼らのさまざまな意見など誰も知らない。 知らされるのは皇帝の口を通してきっぱり語られる結果だけだ」

 ドミニーは珍しく相手の話に興味を示していた。 目は輝き、普段は感情をあらさない顔が表情豊かになり、緊張しているようだった。 彼はシーマンの腕に手を置いた。

 「聞いてくれ。 ここはロンドン、タクシーのなかで二人きりだから、盗み聞きされる恐れはない。 君は皇帝に率いられた国家の強みを説くが、皇帝にこの先の仕事をやりこなすだけの力があると本当に思っているのかね?」

 シーマンの細い目が光った。 彼は満足そうに相手を見た。 額にしわが寄り、絶えず浮かんでいた笑顔が消えた。 彼は狡猾な男になった。

 「アフリカの倦怠から回復しつつあるようだな!君は頭を使いはじめた。 君が訊くからわたしも答えよう。 皇帝はうぬぼれた、口先だけの夢想家だ。 性格の破綻した、いつでも目立ちたがろうとする史上最大のエゴイストだ。 しかし国民を支配する天才でもある。 つまりこういうことだ。 皇帝は助言者たちの知力を表現する素晴らしい媒体なのだ。 助言者の言葉が皇帝の個性を通じて発せられ、皇帝はそれを自分の言葉と勘違いする。 それだけじゃない。 それは自分自身の言葉のような響きすらある。 彼は自分が輝く鎧に身を包む騎士だと錯覚するだろう。 自分をシーザーだと思いこんでいる男の前に全ヨーロッパが腰をかがめる。 それがロバの頭なんだと気がついているのは、皇帝の後ろにいるわれわれだけさ。 偉大な祖国をそれにふさわしい運命に導くにあたり、彼ほど都合のいい人間はこの世で見たことがないな。 都合がつくなら、明日、このことをもう一度話し合おう。 今晩、君は他に考えることがある。 君はわたしなどにはとうてい入ることを許されない、高貴なお方のお宅に行くことになっているんだ。 まだ一時間、着替えと準備の時間がある。 十一時にはフォン・ターニロフ王子が君をお待ちかねになっているからね」

第七章

 カールトン・ハウス・テラスの大使官邸では晩餐会に引き続き小さな歓迎会が催された。 大使のターニロフ王子は最後の客である妻の従姉妹アイダーシュトルム王女に別れを告げていた。 彼女は王子を脇に引き寄せた。

 「大使、今晩ずっとお話したいと思っていたのです」

 「わたしもです、ステファニー。 まだ時間は早い。 ちょっと座りましょうか」

 彼は長椅子に彼女を導こうとしたが、彼女は頭を振った。

 「十一時半に約束がおありですわね。 邪魔をしたくありませんわ」

 「じゃあ、ご存じなんですね」

 「今日、カールトンのレストランでお昼をいただいたとき、応接間でレオポルド・フォン・ラガシュタインと鉢合わせしました」

 大使は何も言わなかった。 まず相手の言いたいことをみんな聞いてやろうとしているようだった。 しばらく間をおいて彼女はつづけた。

 「話しかけたら、人違いだと言ったのですよ。 よりによってわたしに向かって!わたしの人生で最悪の瞬間でした。 あんなに苦しい思いをしたことはない。 あんな苦しみはもう二度といや」

 「さぞつらかったでしょうね」王子は同情をこめてつぶやいた。

 「今晩、ある男がわたしを訪ねてきました。 最初はドイツの卑しい中産階級の一人だと思ったのですが、あとで正体が分かりました。 その男の説明によると、レオポルドはこの国で諜報活動に携わっているのだそうです。 今の名前は彼が教えてくれた通りサー・エヴェラード・ドミニー、アフリカで長いこと行方不明になっていたイギリス人男爵になりすましているのだと言うのです。 あなたはこのことをご存じ?」

 「今晩サー・エヴェラード・ドミニーが訪ねてくることは知っています」

 「彼はあなたのもとで働くことになっているのね?」

 「とんでもない」と王子は憤慨して言った。 「わたしはこのスパイ組織を好ましく思ってはいないのです。 わたしを育てた外交術の流派は、そんな浅ましい手段を用いたりしません」

 「とにかくレオポルドは今晩ここに表敬訪問にくるのね」

 「今、書斎でわたしを待っていますよ」

 「彼に一言伝えてほしいの。 先ほどのシーマンという男は、今わたしとレオポルドが親交を結ぶことは、それがどういう形であろうと賢明ではないと言いました。 わたしは彼の言い分を全部聞きました。 そのときは、わたしは態度を明らかにしませんでしたが、今は考え直しました。 必要に対しては妥協しましょう。 サー・エヴェラード・ドミニーとのおつき合い、それで満足しましょう。 でも必ずおつき合いはさせていただくわ」

 「わたしはフォン・ラガシュタインがどんな任務をおびてこちらに来ているのかさえ知りません。 しかし、彼の正体を完全に隠すために、あなたとのおつき合いは望ましくないと政府が考えているなら——」

 彼女は彼の腕に指をのせた。

 「お黙りなさい」命令だった。 「わたしは政府の人間ではありません。 ドイツ人でもない。 オーストリア人ですらないのです。 わたしはハンガリア人、あなたたちの利益を図るのにやぶさかではないけれど、それをわたしの人生に優先させるつもりはありません。 協定は結びますが、屈服はしません。 協定の内容はレオポルドと話し合います。 ああ、後生だから、わたしの願いを聞いて!」声の調子が急に変わった。 「お昼のあの短いひとときからわたしはずっと夢のなかだった。 わたしの心を鎮めることができるのはたった一つ。 彼と話をしなければならない。 これからどうするか彼と決めなければならない。 助けてくれるわね?」

 「あなたとサー・エヴェラード・ドミニーがおつき合いなさるのは、もちろん、少しもおかしなことではありません」

 「わたしを見て」彼女は懇願した。

 彼は振り返って彼女の顔を覗きこんだ。 美しい瞳の下には黒い隈があり、弧を描く口はどこか痛々しかった。 彼女は一晩中、その第二の天性ともいうべき威厳を崩さずにいたが、にもかかわらず彼は彼女の容貌に対して一度ならず同情的な声を聞いたことを思い出した。

 「苦しんでいらっしゃるのですね」彼は優しく言った。

 「わたしの眼は焼けるように熱い。 身体の中では火が燃えさかっています。 なにがあろうとレオポルドと話をしなければなりません。 フレーダがわたしに、まだ帰らないで一時間ほどおしゃべりをしようと誘ってくれました。 車は待たせてあります。 彼にわたしを家まで送るようおっしゃって。 ああ、わたしだってごく普通の女なのよ。 それにわたしを木や石みたいに扱っても何の得にもならないわ。 今晩なら人に見られず彼に会える。 お断りになるなら、別の手段に訴えます。 わたしは何一つ約束はしません。 通りで遇ったら、面と向かって嘘つき呼ばわりしたり、偽者呼ばわりしないとも限らない。 レオポルド・フォン・ラガシュタインと呼びかけて——」

 「どうかお静かに!」彼は懇願した。 「ステファニー、あなたは興奮していらっしゃる。 わたしはまだあなたのお願いに対して返事をしていませんよ」

 「聞き入れてくれる?」

 「いいでしょう。 この話が終わったら、若者をフレーダの部屋に連れて行って紹介します。 あなたはそこにいてください。 彼もあなたを家まで送り届けると申し出ることができるでしょう」

 彼女は不意に身をかがめると彼の手にキスをした。 計りしれない安堵が彼女の顔にあらわれた。

 「これ以上は引き留めません。 フレーダが待っている」

 大使は物思いにふけりながら官邸の裏手にある書斎に入っていった。 ドミニーが彼を待っていた。