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腕くらべ

Chapter 10: 六 ゆひわた
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About This Book

A man attending the theater unexpectedly meets a woman he had known years earlier as a young performer, and the encounter triggers a flood of memories about earlier amusements and shifting affections. The narrative traces their brief reunion amid a network of patrons, hostesses, and entertainers in urban pleasure quarters. Through episodic scenes in corridors, tea rooms, and small establishments, the story considers nostalgia, social maneuvering, and the transactional mix of fondness and convenience in adult relationships. The prose contrasts youthful innocence with later worldly calculation while quietly observing manners, money, and routine intimacy in city life.

 十吉は靜に佛壇の前に坐つて念佛を稱へた後御燈明を消して扉をめ、表口の六疊へ戾つて絞の浴衣に着換へ何やら箱屋の婆さんと話をしてゐる中、來客の南巢先生は吳山老人に送られて歸りかける。

「アラお歸りですか、先生、まア御ゆつくりなさいましな。 」

「ありがたう、その中また御邪魔に出ます。 」

「久振で編笠でもさらつて戴かうと思ひましたのに。 」

「はゝゝゝは。 さういふ事ならいよ〳〵以つて長居は出來ませんな。 この頃はもうとんと怠つて居ます。 師匠にお會ひでしたらよろしく仰有おつしやつて下さい。 」

「それではまたお近い中に……。 」

 十吉は老人と一しよに奧の間に這入つて煙草を一服したが、仔細あり氣に「お前さん。 」と呼掛けて、「駒代は二階にゐますか。 」

「今方出たよ。 」

わたしやちつとも知らなかつたけれど、あの、何だつてね、この間から濱崎さんへ行くのは力次さんの旦那に呼ばれてゐるんだつてね。 」

「ふう、さうかい。 」と老人は夏蜜柑の皮を干した煙草入を光澤つやぶきんできはじめた。

「實は二三日前力次さんと一所になつたんだよ。 すると何だか妙な事を云つてるから變だとは思つたけれど、さうとは氣がつかなかつたのさ。 處が今夜すつかりお客樣から其の事を聞いてはゝアと思つたのさ。 」

「ぢやアあれも見掛によらずなか〳〵腕があると見えるね。 」

「何だか私が知らない顏をして取持でもしたやうに思はれるといやぢやないか。 」

「何さ、なまじ口を出さねえがいゝ。 打捨うつちやつて置きなよ。 出來る前に相談でもされたんなら知らねえ事出來てしまつた後ぢや仕樣がないやな。 だが此の頃の子供は皆いゝ腕だな。 あのばかりに限つた話ぢやねえ、此の頃のは義理といふ事を構はねえのだから何處どこへ出しても强いもんさ。 」

「ほんとうだよ。 今夜いろ〳〵話を聞いたんだがね、旦那の方から身受の話まで持出してあるんだとさ。 引かして世話をしてやらうと仰有つてるんださうだけれど駒代の方ではつきりした返事をしないんだとさ。 」

彼奴あいつもこの頃は大分出るやうになつたんで、何か途方もねえ夢でも見出したんだらう。 」

「まアあゝして稼いでゐてくれゝばうちぢやそれに越した結構な事はないんだけれど、誰にしろいつまでも若くつてゐるんぢや無いからね、世話をしてやらうといふ方があるなら、そのかたの云ふなりになる方が當人の爲めだらうがね……。 」

「一體その旦那といふのは何處のお方だ。 華族さまか。 」

「力次さんの旦那なんだよ。 」

「だからその旦那といふのはどう云ふ方だ。 」

「お前さん、知らないのかい。 そら、あの何とかいふ保險會社の方だよ。 三十七八かね、まだ四十にやお成りなさるまいよ。 お髯のある立派な好い男さ。 」

「大したものを見付けたな。 それぢや商賣が面白くつて止められねえのも無理はない。 旦那がいゝ男で道樂に六代目か吉右衞門でも色にすりやそれこそ兩手に花だ。 はゝゝゝは。 」

「お前さん見たやうな呑氣な人アありやしない……。 」と十吉は呆れて腹も立てぬといふやうな顏付をして灰吹をぽんと叩いた。 折から表の方で電話がしきりに鳴出す。 「誰もゐないのかね。 」と云ひながら十吉は退儀さうに立上つた。

五 晝の夢

 一時は水道の水が切れると騷いだひでりの八月末、暮方近くなつて突然篠つく如き夕立から一夜半日降りつゞいた大雨。 がらりと晴れると時候はすつかり變つて、秋は忽ち空の色柳の葉の目にもさやけく、夜ふけた町の下駄の響車の鈴の音にも明に思知られ、路次の芥箱に鳴く蛼の聲が耳立つてせはしくなり出した。

 駒代は吉岡さんにつれられ箱根か修善寺へ行く處であつたが、かの大雨で鐵道は東海道線のみならず東北線にも故障が出來たとかいふので、吉岡さんにすゝめて森ケ崎の三春園へ泊る事にした。 三春園といふのは新橋中で幅をきかしてゐる木挽町の對月と云ふ待合の別莊で、公然お客をめる旅館ではない。 始めは對月の女將が榮華のあまり氣保養にと建てたのであるが、地體慾には目のないてあひのこと、これだけ立派な廣い別莊を普段明けて置くのは惜しいものだと、木挽町の待合は養女と物馴れた女中にまかせ、女將はこゝを出店のやうにして、御贔負のたしかなお客筋または出入の藝者衆に賴んで連れ込みのお客を呼んで貰つてゐるのである。 お客は宿屋とちがひ相客がないので貸別莊にゐるのも同樣な處から自然と心持よくお茶代も過分にはづむわけ。 藝者は又新橋中で幅のきく待合對月に對して一人でも餘計にお客を連込んでやれば何んとなく自分の顏がよくなるやうな氣がするので時には自腹でお土產を買ひ東京へ歸つてからわざ〳〵木挽町の帳場へ「昨晩は大崎でいろ〳〵お世話になりましたわ。 」と鼻高々と報吿に行くものさへある。 駒代が三春園を吉岡さんに勸めたのも矢張この邊の魂膽こんたんからであらう。

 女中が朝飯の膳を下げて行つた時はもう十時過であつた。 初秋の空は薄く曇つて徐ろに吹き通ふ風時折さつと緣先の萩の葉の露をこぼしながら、蟲の音はそれにも驚かず夜と同じやうに靜に鳴きしきつてゐる。

 駒代は敷島を啣へ腹這ひに寢そべつて女中の置いて行つた都新聞を見てゐたが、生叭なまあくび一ツ、やがて顏をあげると急に取つて付けたやうに「いゝわねえ、閑靜だわねえ。 」

 葉卷を啣へて吉岡は最前から女の姿に餘念もなく見惚れた樣子であつたが、靜に肱枕の身を起し、「だからさ、惡い事は云はん。 好加減に藝者はよしたらどうだ。 」

 駒代はだまつて唯だはなやかな笑顏を見せたばかりである。

「駒代、一體お前はどうしてす氣になれないんだ。 乃公おれを信用せんのだな。 」

「信用しなかないわ。 ですけれどさ……。 」

「そら見ろ。 矢張信用しないんぢやないか。 」

「だつて無理だわ。 あなたには力次姐さんがついて居るんだし、それから濱町の村咲の内儀おかみさんもあるんでせう。 ですから私なんぞそれア一時はいゝかも知れないけれど、きつと直にいけなくなつてよ。 」

「力次の方はもう切れたも同樣ぢやないか。 昨夜もあれほど話したのにまだそんな事を云つてゐるのか。 濱町はもと〳〵きまつて世話をしてゐるんぢやなしさ。 そんなに不安心ならまアそれでいゝさ。 」

「あなたすぐおこるんだもの。 ちよいと——。 」と女はきつぱり云切つた男の調子に忽ち鼻聲になり、男の胸の上に顏を押付けた。

 吉岡は全く我ながら不思議でならない。 以前洋行する時分には平氣で捨てゝ行つて此の女が今更となつてこれ程氣に入つてやうとは全く意外である。 つい此の夏のはじめ偶然帝國劇場で出會つた晩、築地の濱崎へ呼んだ折には、唯學生時代の昔を思返して見る面白さ、云はゞ其夜かぎりの物好であつたが、一度二度と度重る中にどういふ譯ともわからず唯何んとなしに徹頭徹尾駒代を我がものになしふせてしまひたくなつた。

 全く不思議だ。 さういふつもりでは決してなかつたのだが……と吉岡は駒代の顏を見る度自分の心がその思ふやうに自由にならないのを不思議がる。 これまで隨分遊散してゐるが、實際吉岡はかういふ妙な心持になつた事は唯の一度もなかつた。 書生の時分から吉岡は非常に規則正しい代り潤ひのない薄情な、折々木で鼻をくゝつたやうな事を言ふ男だとよく人からいはれてゐた。 蕎麥屋や牛肉屋へ上つても友逹からおごられるのが嫌ひ、又友逹をおごるのも嫌ひ、勘定は厘毛まできちんと割前にするといふやり方、其時分始て藝者買をし出したのも、云はゞ確固たる分別あつての事であつた。 それはなまじ性慾を抑壓して却て下宿屋の下女のやうな素人しらうとの女に引掛り飛んだ耻をかくよりも、金で立派に買ふ女に間違はない。 間違のない女を安心して買つて、それで性慾の壓迫を排除し精神爽快となつて學期試驗每に上席を占めればこれ則ち實益と快樂を一擧に兩得する譯であると思つてゐた。 所謂現代の靑年たる彼には前時代の人々の心を支配した儒敎の感化は今や全く消失せてゐたので、最終の勝利たる其の目的の貫徹に對しては手段の如何を問ふべき必要も餘裕もないのであつた。 其の人の罪ではない。 これ則時勢の然らしむる處であらう。 吉岡は每月何囘遊べば其勘定は大略どの位といつもきちんと豫算を立ててゐるので、もし豫算を超過しない場合には、その剰餘は惜しまず女にやつてしまふ代り、また豫算の額より以外にはいかほど買馴染の女から呼出しの手紙を貰つても嚴として應じなかつた。

 社會に出てからも矢張その通りである。 これまで湊家の力次の旦那になつてゐた譯は性慾からでも戀愛からでもなく、所謂當世紳士の巧妙心とも云ふべきものからであつた。 力次は先年井藤春步公が手をつけた女だとかいふ事で今だに何かあると藝者仲間の評判、當人は其當時から一足飛びに貴婦人になりすました樣な氣位。 俄に茶の湯に琴書畫までを習ふといふ有樣。 吉岡は近頃賣出した若手の實業家として、いづれどの道藝者の旦那になるなら、よかれ惡しかれ取られる金は同じこと。 さすれば都新聞の艷種に出されても人を驚すやうなのがよいと無鐵砲に力次を口說いた。 ところが男振のよいのと切放れのいゝのとで力次はお高くとまつてゐるといふ評判にも似ず案外譯なく落ちたのである。 然し力次は吉岡より年も既に三ツうへ、白襟に紋付でも着て出る時には流石に押しも押されもせぬ本場所の藝者と見えるが、普段つくらずに居る時は小皺の寄つた目の緣の黑ずみ、額の廣い、口の大きい、どことなく底意地の惡るさうな中年の婆さんである。 吉岡は力次に對して最初からどういふ譯か一もくいてゐたので、いくら旦那になつたからとてさう何も彼も自分の自由にする譯には行かない。 殊にどうかするとこの若僧わかぞうがと人を馬鹿にしてゐるやうな氣がしてならない事がある。 又時にはもう少し年が若くて、根こそぎ男の自由になるやうな色ツぽい女がと思ふ事もある。 元はお茶屋の女中で萬事安手やすでに出來てゐる濱町の待合村咲のおかみと兎角手が切れないのもつまりは其れや此れやの原因からであつた。 ところが茲に偶然、書生時代に買馴んだ駒代に再會して見ると、何となく其の情交がしつくりと合つて誠に自然であるやうな氣がした。 以前から知つてゐるので何をやうが云はうが氣の置けるといふ處はない。 それに年增盛りの容貌もよく人に見られてもさして自分の顏のよごれる虞もない。 吉岡はそこで駒代を引かして妾にし、日頃望んでゐた別莊を鎌倉邊に新築してそこへ駒代を置き、自分は土曜から日曜日へかけて氣保養がてらに遊びに行かうと思立つたのである。

 お前の爲に別莊を建て、立派に引祝までして身受をしてやると云つたら駒代は二返事で承知するだらうと思ひの外、これは兎角はつきりした返答をしないので吉岡は侮辱されたやうに腹も立つ、又早くも掌中の玉を失つたやうに落膽もする。 一體どういふ譯で自分のいふ事をきかないのか、女の心中を見定め、とても駄目なものなら此方こつちも男の意地、これなりきつぱり關係を絕たうと決心しながら、さて今日けふのあたり、いかにも素人しらうとらしい丸髷の艷かしくも崩れ亂れて、細帶しどけない姿を見ては、これが思ひ通り自分のものになつて新築の別莊に居たならと兎角未練な氣が出る……。

 吉岡は眞實駒代の丸髷がよくて〳〵ならないのだ。 何でも四五度目に呼んだ時、駒代はさる病院へ朋輩の病氣見舞に行つたとかいふので、其の爲に結つた丸髷のまゝ着物も端折はしをつてお座敷へ來た事がある。 其の姿がいつも潰島田つぶしか銀杏返に裾を引いた藝者の姿とはちがつて、如何にも目新しく、どこやら新派の河合にも似た處があるやうに思はれ、今まであまり藝者になりきつてゐる力次と、又一方には、いかにも重苦しくそして又時にはいやにぢゞむさい村咲のおかみと、此のいづれにも見られなかつた新しい特別の心持を覺えた。 其の時から不圖ふとこの女を此れなりこの姿のまゝにして置きたいと思出したのが、やがて呼ぶ度每にいよ〳〵押え難くなつてしまつたのである。

 吉岡はこの夏中なつぢうとほして出勤してゐた代り秋口になつてこの一週間ほどゆつくり休暇を取つた處から、にもこの間に駒代を說伏せてしまはうとあせつてゐる。 それには二人ぎり鼻をつき合せて外に氣のまぎれやうがない、外に邪魔のはいりやうがないこの三春園は箱根や修善寺の溫泉なぞにも增して猶好都合だと見て取つたので、三日目の朝ふと東京の江田から株の賣買か何かの事で電話がかゝり、據處なく一寸市中まで歸らなければならない用事が出來たが吉岡はおそくも夕方までには戾つて來る。 其の間誰か友逹でも呼んで待つてゐるやうにと、十吉の家の花助と別の家の千代松といふ二人へ遠出の口をかけて出て行つた。

 駒代は獨り座敷へ立戾ると、ばつたり倒れるやうに坐ると共に疊へ突伏して泣出した。 自分ながら何が何やら分らないまでに氣がうはづツてしまつたのである。 この二日二夜といふもの、逃げたいにも逃場がなく立通たてとほしにしつツこく問ひ詰められ、うるさくきまとはれて、機嫌も氣褄ももう取りやうがない。 身體からだはつかれきつて頭はぴん〳〵痛む。 まだこの上二日も三日もこゝに留められてゐたらどうなる事だらうと思ふと、最初は自分から勸めて泊りに來たこの三春園が牢屋としか思はれなくなつた。

 どこかで鷄の鳴く聲が聞えた。 駒代の耳にはそれが際立つて田舎らしく聞えると、忽ち遠い〳〵秋田にゐた時のつらい事悲しい事心細い事のさまざまが胸に浮んでる。 鷄につゞいてからすの鳴く聲。 緣先には絕えずかすかに蟲が鳴いてゐる。 駒代はもうたまらなくなつた。 もうこゝに愚圖ぐづ々々してゐたら一生新橋へは歸られなくなつてしまふかも知れない。 何故新橋がそんなに懷しく心丈夫に思はれるのか。 唯譯もなく駒代は夢中でこの家を逃げ出さうと、厠の外はよくも案内知らぬ廊下へと細帶のまゝ飛び出した。

 すると出合であひがしらに、駒代よりも猶更びつくりしたのは、團扇片手の浴衣がけ、誰もゐないと思つて間每まごと々々〳〵の普請でも見步いてゐたらしい綺麗な男である。 年は二十七八、剃つた眉の痕へ墨を引き、髮を五分刈にした中肉中ぜい、すぐに役者と知れる樣子、藝名瀨川一糸といふ女形である。

「あらにいさん。 」

「駒代さんか。 冗談じようだんぢやない。 びつくりさせるぢやないか。 」と一糸は片手を胸に殊更動悸を押へるふうをしてほつと大きな息をついた。

 駒代はこの前新橋から出てゐた時分一糸とは踊の師匠花柳の稽古場で知合つてゐた。 其の時分一糸はまだ修行最中の少年であつたが、二度目に駒代が藝者になつてつい此の春歌舞伎座の新橋演藝會の折樂屋で逢つた時には既に立派な名題役者になつて大勢の藝者から兄さん〳〵と云はれてゐた。 駒代は無暗とわが身が心細く夢中で寢衣のまゝ此家を逃出さうと思詰めた矢先、思ひもかけず一糸の姿を見ると、忽然どういふ譯ともわからず、宛ら他國で圖らず同鄉のものに出遇つたやうな懷しさを覺え、あたりの物淋しさが俄にそれほどでもないやうに、自然と心丈夫な氣がして、あまりの嬉しさに思はず寄添はぬばかり進みて、

「兄さん、びつくりして。 御免なさいよ。 」

「まだ胸がどき〳〵してゐるぢやないか。 譃ぢやない。 そらさはつて御覽。 」と一糸は無造作に駒代の手を取つて其胸を押へさせた。

 駒代は俄に顏を赤くしながら、「ほんとに堪忍して頂戴よ。 」

「いゝよ。 今に仕返しかへしするよ。 」

「あら兄さん、あやまつてるぢや無いの。 兄さんが惡いのよ。 だまつてそんなとこに立つてるんですもの。 」

 にいさんは駒代の髮も亂れ裾も亂れた姿をぢろ〳〵見ながら、猶もその手を握つたまゝで、昨日明治座が千秋樂らくになつたから二三人で約束してこゝへ花を引きに來たのであるが、まだどうしたのか誰も來ないと云ふのである。

「お樂しみねえ。 兄さん。 」

「何がさ。 」

「何がつて。 おつれはだれなの。 東京へ行つたら奢つて頂戴よ。 」

「お前さんこそ。 人知れずしけ込﹅﹅﹅んでゐる處を、お邪魔樣でしたね。 」

 駒代は急に情けなくなつて、其の儘行かうとする一糸の袖を捉へ、「お苦しみなのよ。 兄さん。 察して頂戴よ。 」

「どうせとまつて行くんだらう。 後で又逢はうよ。 」

「誰もゐやしないわよ。 あたい一人置いてき﹅﹅﹅﹅堀なのよ。 」

「さうかい。 それぢやお前さんと私と二人ぎりだね。 内儀おかみさんは用たしにはまへ行つたんだとさ。 」

「さう、女將おかみさんもお留守なの。 」

 誰もゐないと思ふと廣い家の中は一際しんとしたやうに思はれ、廊下の窓から見える裏庭一面、激しく照りつける殘暑の日の光に、構内かまへうちは勿論垣根の外の往來まで何の物音もなく、只耳に入るのは蟬の聲と蟲の音ばかりである。

 二人は佇んだまゝ暫くは默つて顏を見合はしてゐた。

六 ゆひわた

 吉岡はまだ日の高い中に酒好きのふとつた江田さんをつれて三春園へ歸つて來た。 その晩最終の電車で江田は東京へ歸る筈なのを駒代は一同みんな一緖いつしよ雜魚寢ざこねをしようと云つて無理に引留め、そして夜半よなかぎまで流石さすがの江田さんをも辟易させる程ウイスキイのコツプをさしつ押へつして遂に其の場に打倒ぶつたふれ、やがて小間物店を出して一同みんなに厄介をかけた揚句、翌日あくるひは一日氷で頭をひやす始末。 旦那の吉岡もこれには閉口して、一先づ三春園を引揚げる事にした。 元より狂言半分の大病なので、駒代は藝者家へ歸ると其足ですぐにも日頃信仰してゐる新宿のお稻荷さまへ行つてお伺を立て、吉岡さんの世話で今が今急に商賣をよしてしまつても大事はないか。 一時はよくても以前のやうに不運なめぐあはせになるやうな事はあるまいか、能く占つて貰つた上、家の十吉姐さんや待合濱崎のおかみさんとも相談して、それから旦那の方へ返事をしようと思案をきめたのである。

 髮を結び直し錢湯から歸つて來て、鏡臺の前に坐つたが、すると慌忙あはたゞしく梯子を駈上つて來たお酌の花子が、「駒代ねえさん、お座敷よ。 」

こまつたねえ。 また濱崎屋さんぢやないかい。 」

 駒代は今方自働車で三春園を引上げた吉岡さんがお屋敷へは歸らずすぐと築地へ廻つて其處から又呼びによこしたものと思つたのである。 ところが

「いゝえ宜春ぎしゆんさんですよ。 」

「宜春さん——珍しいうちから掛つて來たんだね。 間違ひぢやなくて。 」と駒代は首をかしげながらも稍安堵の吐息といきを漏した。 然し今まで一度も行つた事のない待合なので、駒代は髮も出來ませんし、それに少し加減がわるくてやすんで居ますからとことわつて貰つたが、すると、普段のまゝ一寸でいゝから是非といふ再度の電話。 お客樣はどなたかときくとお馴染の方だといふ返事に、誰とも思當りはないが、さうすげなくもことわりかね、しぶ〳〵ながら、又何となく半信半疑こは〴〵ながら農商務省の裏通り、大小の待合軒をつらねた其の中の一軒、宜春と嵯峨さがやうで書いた柴折門の家へ車を走らせた。 すぐお二階へと云はれて、おそる〳〵梯子を上つて行くと、まだひる事ではあり、葭戶を開放した表二階、廊下からも見通される一間の床柱に背を倚せかけて、たつ一人ひとり三味線を爪びきしてゐるお客——誰あらう其れは圖らず三春園で忍び逢つた瀨川のにいさんである。

 「あら。 」と云つたまゝ駒代は嬉しいやら、耻しいやら、餘りの意外に少時しばし座敷へは這入はいりも得なかった。

 一昨日をととひ眞晝中まひるなか、人氣のない三春園の廊下で、何方どつちから、どうしたともどうされたともわからず、駒代は唯只たゞ〳〵嬉しい夢を見た。 然し相手は何を云ふにも引手あまたの藝人衆の事、大方その場かぎりの冗談であらう。 よしたゞの一度その場かぎりの冗談じようだんにしても藝者してゐる此方こつちの身に取つては此れにました冥利はないと思つてゐる矢先、まだ三日とたゝぬ中、突然むかうからちやんとお座敷にして人知れず呼んでくれるとは、全く思ひもよらない、何といふ親切な實情じつのある仕打しうちであらう。 さう思ふともう嬉淚が眼の中一ぱいになつて駒代はどうする事も、なんふ事も出來できなくなつた。

 わざとらしく「待ちわびて」といふ小唄をいてゐたにいさんは三味線を膝の上にかゝえたまゝ、「此方こつちが凉しいよ。 こゝへおすわり。 」

「えゝ、りがたう。 」といふのも殆ど口の中、駒代はまるで見合みあひにつれられて行つた生娘きむすめのやうに顏を上げる事が出來ないのである。

 この樣子に、瀨川はすつかり嬉しくなつてしまつた。 同時に又意外な好奇心にも驅られ始めた。 瀨川は駒代をばこれほど初生うぶな氣まじめな藝者とは思つてゐなかつたのである。 二十四五の年合から見ても一人や二人藝人の肌を知らない筈はない。 一昨日の晝日中三春園で其の場の冗談じようだんから思はずあゝ云ふ譯になつて見れば、何ぼ何でも其儘打捨うつちやつて知らぬ顏も出來まいと、云はゞ藝人の義理半分またお詫半分にお座敷へ呼んでやつた。 お座敷へ來て自分の顏を見れば何のおくする氣色けしきもなく、

「あらにいさん隨分ねえ。 」ぐらゐの事は云ふに違ひないと思つてゐた。 ところが全く豫想外な駒代の樣子、もうぞつこん自分に迷込んでしまつたらしい樣子に此方こつちは男の自惚うぬぼれが手つだつて無上むしやうに嬉しくなり、唯一遍の冗談じようだんでこの位の結果を現はすなら、此の上斯うもしてやつたらさきはどんな逆上のぼせるだらうと思ふと、もう面白半分瀨川は調子にのつて、此迄これまでの經驗で覺えのある秘術のありたけを爲盡さずにはゐられなかつた。

 駒代はもう夢に夢見る心地といふもおろかはては狐にでもばかされてゐるのではないかと云ふやうな氣もしてくちもきけず手も出せず、只々うれしい有難いの一念が身にしみるばかりである。 瀨川は何から何までかゆい處へ手が屆くやうに、さて自分も姿をとゝのへて風通のいゝ次の間の窓の側へ坐つた。 遠くから夜廻の拍子木が聞え出したので夜は十時を過ぎたと覺しい。

「駒ちやん、お茶一杯ついでおくれ。 」

めてるわ、もう。 入替へて來ませう。 」とまめ〳〵しく立掛ける其の手を取つて、

「いゝよ〳〵。 女中が來るとうるさいぢや無いか。 」

「さうねえ。 」と駒代は手を引かれるまゝべつたり膝を崩して寄掛り、「私も咽喉のどが渇いてしやうが無いのよ。 それほどいたゞきもしなかつたのに。 」

「それぢや駒ちやん、いゝかい。 きつと都合して逢つておくれ。 」

にいさん、きつとよ。 きつと逢つて頂戴よ。 にいさんが其の氣ならわたしどんな苦勞でもして見せるわ。 」

義母おふくろがやかましくなければとまつて行くんだけれど、まゝにならないねえ。 」

「ほんとねえ。 にいさん、今度こんどいつ逢つて下さるの。 私は十一時過ぎならいつでも身體からだがあいてますから。 」

「うつかりとまつて旦那だんなにでも目付めつかるといけないよ。 用心に用心が肝腎だよ。 」

「旦那は滅多にお泊りになる事はないから大丈夫よ。 それよりかにいさんのほうとまれないんだから。 」

なにとまらうと思へばとまれない事はないけれど、うち義母おふくろくらゐ野暮な女はありやしない。 自分だつて舊々もと〳〵素人しらうとぢやあるまいしさ。 ぢやア駒ちやん、明日あしたの晩逢はうよ。 明日の稽古は大槪八時か九時頃にはすむだらう。 僕は芝居からすぐ此家こゝへ來るよ。 此家こゝでいゝだらう。 それとももつと人目につかないお茶屋を知つてゐるかい。 」

此家こちらでいゝわ。 ぢやアわたしそのつもりで待つてますよ。 若しか據所ないお座敷だつたら貰つて來るまで屹度きつと待てゝ下さいよ。 」

「ぢや約束したよ。 」と瀨川は初めて遊びをする若旦那のやうに改めて女の手を握り、「それぢや車を呼んで貰はう。 」

 車の仕度の出來るまで瀨川は猶も盛にあまい事を云ひならべた。 駒代は瀨川を送出して帳場へ挨拶をすまし、不圖車を呼ぶのも忘れたまゝ、其れなり外へ出ると初秋の夜は星影凉しく鬢の毛を弄ぶ夜風何とも云へぬい晩である。 駒代は農商務省の前からやがて出雲橋の方へと一人ぶらぶら駒下駄を引曳りながら、たつた今過ぎてしまつた今夜の事をば、幾度となく繰返し繰返し思返しながら步いて來たが、橋の向うに遠く銀座ぎんざを見ると、もう一度、何を思ふともなく思ひに沈んで見たい氣がして、行先さだめず唯人通のないさびしい方へと辿たどつて行つた。

 通りすがる待合の二階の火影、流して來る新内は云ふまでもなく、見るもの聞くもの、世の中はまるで今までとはちがつてしまつたやうな心持がする。 駒代は瀨川のにいさんには自分の外に深いいろがあるか否かを疑つて見る餘裕はなかつた。 唯々たゞ〳〵うれしくてならないのである。 秋田の田舎へ片付いて其處そこ落付おちついて年を取つてしまつたら、世の中にこんな嬉しい事のあるのをも知らずにしまつたのだと思ふと、今までの不仕合が何とも云へない程有難くなつて、人の身の上ほどわからないものはない。 辛いも面白いも藝者してゐればこそだと、駒代は始めて藝者の身の上の深い味がわかつたやうに思つた。 それと共に同じ藝者はしてゐても昨日までの藝者とは譯がちがふ。 今は引手あまたの人氣役者を色にしてゐる押しも押されもせぬ藝者だと、駒代は俄に藝者の位も上り貫目もついたやうな云ふに云はれぬ得意な心持になつて、折から行きちがふ藝者の車を見てもおのづからあれはどこのだらうと云はぬばかり。 むかふが薄暗いまちの火影に振返れば此方こつちも惡びれず振返つてやるやうな勇氣が出て來た。

七 ゆふやけ

 金春通の尾花家の二階、表通の出窓にさげた簾にはそろ〳〵殘暑の西日が、向側の屋根を越してさしそめる頃、「皆さんお風呂が湧きましたよ。 」と梯子の下から御飯焚の聲。 二階にはいづれもごろ〳〵亂次だらしもなくそべつてゐる藝者たち、手拭浴衣に伊達卷をしめてゐるのは駒代。 白かなきんの西洋寢衣をはをつてゐるのは菊千代。 晒木綿の肌着に腰卷一ツなのは花助。 それにお酌の花子にお鶴といふまだ仕込の子供總勢五人である。

 菊千代は二十二三の身丈せいの低いまるぽちやで、みんなから金魚と綽名をつけられてゐる通り、顏も圓く眼も圓く鼻も高からず、猪首の坊主襟、姿はよくないが、拔ける樣に色の白いくゝりあご咽喉のどのあたり、猫のやうに撫でゝ見たいやうな氣がする程である。 いつも極つて潰島田に結ひ油をこつてりつけて鬢と前髮へアンコを入れて思ふさま張出させ、いかな暑中でも剝げるやうな厚化粧に無暗とはでな物を着たがる處から、お座敷へ出る時の姿どことなく華魁らしい心持がするとやら、その爲めに年も若く見られ却つていゝお客がつくのだと影口を云はれてゐるのである。

 肌襦袢一枚の花助といふのは髮のちゞれた色の淺黑い眼のどんよりした平顏、身體付からだつきのがつしりした女で年は駒代とたいした違ひはないと云ふのであるが、誰が見てももう三十前後の年增としか思はれない。 當人もそれはとうから承知。 容貌きりやうがらでは千人近い新橋の藝者に立交つて到底とても賣れるものではないと悟り、自分のがら相應にお茶屋へ行けば女中よりも能く働いて見せ、若くて奇麗な流行はやる妓と一座すればすぐに腰を低くして如才なくそのお取卷にと、また呼んで貰ふ樣に立廻つてゐるので、結句一同みんなから調法がられ、お座敷も割合にいそがしく、それに又、容貌がよくないから安心だと妙な處を買つてこの二三年引きつゞき世話してくれる金貸の旦那さへ付いてゐるので、ふところはなか〳〵有福、郵便貯金の通帳をば肌身放さずお守のやうにしてゐる。

 二人してお染をさらつてゐた花子とお鶴は三味線を片付ける。 菊千代潰島田つぶしの一を氣にしながら色氣のない大叭おゝあくび、花助は起ち上りながらに欠伸のびをした後、いづれも鏡臺の抽斗ひきだしから毛筋棒けすぢを取出し鬢を上げ風呂へ行く仕度も、駒代ばかりはまだ起きやうともせず、壁の方を向いて寢そべつたまゝ、

「何時だらう、もうお湯の沸く時分なのかねえ。 」

「さアお起きよ。 くすぐるよ。 」

「はゞかり樣ですがことわつてお出でだ。 」

「あら、おのろけかい。 驚いたよ。 此の人は。 」

「お前さん昨日きのふから餘ツ程どうかしてゐるよ。 昨夜なんぞ大きな聲でお前さん寢言をお云ひだらう。 わたしア誰かと思つてびつくりしたぢやないか。 」

「あらさう。 」と駒代は流石にそれ程の事もあつたかと我ながら意外な面持。 始めて退儀さうに起直つて、「いゝわ。 おごるわよ。 」

「お前さん、いよ〳〵何か出來たんだね。 」

「氣が早いよ、この人は。 一昨日おとゝい三春園でお前さんに大變世話をやかしたからさ。 」

「馬鹿にしないねえ。 」

「ウイスキイをあらかた一本呑んぢまつたんだもの。 今だに頭がふらふらしてゐるわ。 」

「駒ちやん、一體お前さんどうする氣なんだえ。 何だかねえさんも内々心配しておゐでのやうだよ。 」

わたし、ほんとにこまつちまうわ。 彼方あちらも今のところしくじり度くないし、さうかと云つて引くやうな噂を立てられるのも困るんだしねえ。 ほんとにもう、くさ〳〵しちまうわ。 」

「今夜、お前さんお約束なのかい。 」

「いゝえ。 あれツきりよ、だけれどきつと今に見えるだらうと思ふのよ。 全く何て御返事していゝか困つちまうわ。 」

 梯子段に足音がした。 上つて來たのは内箱のお定である。 年は四十五、六身丈せいはすらりとして、眼の大きい鼻筋の通つた面長の顏立、若い時にはまんざら見られなくも無かつたらしい。 今こそ髮は薄く前髮のあたりに早くも白髮が見えるが、白粉燒した顏の色から着物の着こなし一體の樣子。 元は洲崎の華魁であつたとやら。 一時亭主を持つたが死別れ、七年程前に始めて桂庵からこの尾花家へ下女奉公に住込み、見やう見まねで自づと箱屋の遣口を覺えた時分、丁度以前の内箱が勘定を胡魔化して首になつた處からその後を引受けてもう三年程になる。

 駒代はお定の顏を見ると、噂をすれば影のたとへ。 もう吉岡さんが來た知らせかと思はず、「お定さん。 わたし………。 」

「いゝえ、菊千代さん。 眞福しんぷくさんから掛りました。 綠屋さんの御約束は六時ですから廻れませう。 」とお定は命令するやうな相談するやうな一種の調子で、相手の返事を待たず、「おめしは昨日の着換きかへう御座んすか。 」

 菊千代は何にも云はず急いで風呂場へ下りて行つた。

 菊千代と駒代とは別に仲のわるいと云ふ譯ではないが、一人は丸抱まるがゝえ年季をすまして去年からわけになつた家中での古顏ふるがほ、某省の課長さんと地方の資產家なる議員さんとを目ぼしい旦那にして一人で羽振をきかしてゐた處、後から來た駒代の評判が稍ともすれば自分を凌ぎさうにするので、心甚たひらかならぬ處がある。 それが自然と樣子に現はれることがあるので、駒代の方でもあんな御多福のくせに生意氣なと腹の中で冷嘲すると云ふ具合。 この間にはさまつて容色美ならざる悧巧な花助はつかず離れず兩方へ愛想よくして取卷のお座敷を一ツづゝでも餘計にかせがして貰ふ算段。 然し何方どつちかといふと其年齡からも、又いろ〳〵苦勞した其の境遇からしても、駒代とはお互にしんみりした話が能く合ふのである。 花助は以前葭町に出てゐたが引かされて圍者になり、やがて其の旦那に捨てられて三年ほど前新橋へ出たのである。

 吉岡さんが身受の話を持出した時駒代が第一に相談したのは花助である。 花助は私も實は覺えがあるんだけれどと、其の身の上を繰返し〳〵述べ立てゝ男といふものはいゝ時はいゝけれど一つ氣が變ると實に薄情なものだからと、日頃駒代が考へてゐた男子輕薄說に有力な根據を與へた。 二人はそれから別けて話が合ふやうになり、お互に稼げる中稼げるだけ稼いで男なんか當にせず行末は小商賣こあきなひでもして氣樂に一人でくらして行けるやうな算段をするが一番だと云ふやうな事を語り合つた。

 駒代は秋田の家を出てから身の振方に窮して舊の藝者にはなつたものの、何にしても六七年も素人しろうとになりしかも遠い田舎へ行つてゐたので、妙に氣が陰氣いんきかたくなつてゐて、自分では隨分陽氣に馬鹿な事をいつてお座敷も賑につとめ、又お金になるお客の事なら隨分我慢して見るつもりではあるが、其の場に臨むとどうしても以前十代の時分に東西分らず何も彼もはい〳〵と云つて勤めてゐたやうな譯には行かない。 いやに權柄づくなお茶屋の女中又は否應なしにお客を取れと云はぬばかりな待合の内儀の素振そぶりがぐつと胸にこたえて、駒代は今日まで全く吉岡さんの外枕席に侍するお客は一人も出來なかつた。 花助はそれをば我が事のやうに、今の中うんと稼いで置かないと末へ行つて損だよ。 私がお前さんだけのきれうさへあればと頻に惜しがつて意見をする。 然し駒代にはそれほどにして稼ぐ必要もなく從つて勇氣もなかつたのが、こゝに一夜にして其の必要と勇氣とは共に湧く如く差起つて來たのである。

 菊千代が大急ぎで眞福のお座敷へ行つた後、二人はおくれて風呂から上り西日のさし込む表の窓際から鏡臺を裏屋根の物干へ通ふ小窓のほとりへ移し仲よく並んで化粧をしはじめた時、駒代は突然、

「花ちやん、お前さん此頃あの方にお目にかゝらなくつて。 」

だれさ。 」と花助は今縮毛の鬢を直す大苦心の最中である。

「そら、あたいが出た時分によく御前さんと一座した………あの千代本のお客樣さ。 」

「杉島さんの御連中…………?」

「あゝ、さう〳〵杉島さんさ。 あの御連中は何なの。 議員さんなのかい。 」

 駒代は一心に鏡の面を見詰めて髮をかいてゐる最中、突然何の聯絡もなく、杉島さんと云ふ赧顏あからがほの紳士からおひろめの當時幾度となく呼ばれて口說かれた事を思出したのである。 旦那の吉岡さんとは萬が一身受のはなしを承知せぬ事から機嫌を損じるやうな事があつたら、もう否應いふべき時ではない。 誰か一人其の代りを目つけて瀨川のにいさんと逢引の仕度をしなければと、今まで何か云はれたお客の名を改めて一人一人思返しはじめたのである。

「あの御連中はたしか大連だつたか知ら。 何でも支那の方にお店のある方なんだよ。 」

「そう、それぢや此方こつちにやお居でぢやないんだわね。 」

每年まいとしお正月と夏中は此方こつちに居らつしやるんだよ。 そう云へばこの夏は一度もお目にかゝらないわねえ。 わたし南京繻子と紋縮緬をお賴みしたんだよ。 いつでも彼方あちらへお立ちの時お賴みするのさ。 それア品がよくつて安いんだよ。 」

「さう、それぢや私も何か賴みやアよかつた。 だけれど何だかネチ〳〵した、助平衞ツたらしいやうないやな方ねえ。 」

「お前さんにや隨分惚れてたんだよ。 何でもいゝから取持てツて仰有おつしやるんで、私アあの晩位困つた事はなかつたもの。 」

「あの時分は、私も久しくひいてた後だつたからね、何だか氣まりが惡くつて、それにさつぱり樣子が分らなかつたからさ。 」

「見たとこは武骨なやうだけれど、あれで中々女の兒には親切なんだとさ。 ずつと先に君川家の蝶七さんがあの方に出てゐた時分なんざ、三年も病氣でひいてゐたのをずつと別莊に置いて世話をしておやんなすつたのだと云ふ話だよ。 」

「さうかい。 さういふ方なら、何だらうねえ。 大抵な我儘をしても大目に見て下さるだらうね。 私ア顏なんざどんなに惡くつてもいゝわ。 唯長く變らずにチツトは我儘をしてもさう怒らずに世話してくれる人がほしいのさ。 」

「お前さん口でこそそんな事を云ふけれど吉岡ヨウさん見たやうな奇麗な人を旦那にしてゐちやア、とても外の人はつとまりやしないよ。 」

吉岡ヨウさんはそんなに奇麗か知ら。 私ア何んだか仁丹の廣吿見たやうな氣がして、ちつともいゝ男だとは思つてゐないわ。 唯以前に出てゐた人だからね。 然し花ちやん、私は吉岡ヨウさんもう長つゞきはしまいと思ふんだよ。 」

「どうしてさ。 外に誰か出來たらしいのかい。 」

「いゝえ、さうぢや無いけれど…………。 身受の一件もあるしさ、それに………。 」と駒代はさすがに云淀んで俯向うつむいた。 實の處は昨夜宜春で瀨川一糸に再會していよ〳〵深く云ひかはしたからには、此の先長い間にはどうしたつて吉岡さんに知れずにはゐまい。 並大抵なお客なら自分の腕一ツでどうにでも隱しおほせて見せるけれど、あの吉岡さんと來てはどうして〳〵一筋繩で行くお客ぢやないと、流石その人の持物になつてゐるだけ能く男の銳い事がわかつてゐるので、駒代は先づ花助を身方に引入れて、外はお客、内は朋輩から姐さん初め萬事この戀の邪魔になるやうなものを、知れぬ先からうまくして置きたいものだと心を定めたのである。

「いろ〳〵話したい事があるんだよ。 花ちやん、お前さん、どこもお約束がないんなら、今の中因業家か何處どこかへ御飯たべに行かないかい。 私アほんとうにどうしやうかと、思案にあまる事があるんだよ。 」

「さうかい、今夜はどこも受けちやゐないから…………。 」

「さう、それぢや急いで行かうよ。 」と駒代は飛上るやうに立上つて、「お定さアん。 」と箱屋のお定を呼び、「鳥渡因業家まで行つて來るわ。 七時か八時頃に昨日の宜春さんから掛つて來るかも知れないわ。 それまでにや歸つて來るけれども、電話が掛つたら知らして。 いゝ事。 」

 ばた〴〵と二階を下りる。

 入れちがひに上つて來たのは吳山老人物干の朝顏に水をやらうと如露片手にすぐさま屋根の上に出た。 今まで彼方此方の二階でさらふ三味線もぱつたり音をとゞめ、何處の家でも内風呂のわく刻限と見えて物干の浴衣を飜す夕風につれてコークスの臭氣盛に漲り電話の鈴次第にいそがしく鳴出す色町の夕まぐれ。 吳山は物干の上から空一面棚曳渡る鱗雲のうつくしさ。 朝顏の蕾數へる事も打忘れしばしはお濱御殿の森さして歸り行く鴉を眺めてゐた。