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腕くらべ

Chapter 23: 十九 保名
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About This Book

A man attending the theater unexpectedly meets a woman he had known years earlier as a young performer, and the encounter triggers a flood of memories about earlier amusements and shifting affections. The narrative traces their brief reunion amid a network of patrons, hostesses, and entertainers in urban pleasure quarters. Through episodic scenes in corridors, tea rooms, and small establishments, the story considers nostalgia, social maneuvering, and the transactional mix of fondness and convenience in adult relationships. The prose contrasts youthful innocence with later worldly calculation while quietly observing manners, money, and routine intimacy in city life.

 瀨川は八反の褞袍に平ぐけを〆め、朱塗の鏡臺の前に緋綸子の大きな厚い座蒲團を敷き胡座あぐらをかいて白粉を溶いてゐたが鏡の面に映る一同の姿に、

「昨晩はどうも。 」とまづ山井先生へ挨拶。 それと共に如才なく花助の方へも愛嬌を見せて、

「お敷きなさい。 」

「花ちやん。 お敷きなさいよ。 」と駒代も花助に座蒲團を勸めながら、然しわざと自分は敷かず少し下座へ下つて綱吉が持つて來る茶をばまづ山井の前へすゝめるなぞ、萬事すつかり女房氣取である。

 瀨川は白粉を溶いた指先を手拭でふきながら、「昨夜あれからどうしました。 お泊りでせう。 」

「いや、歸るにや歸りました。 」と山井はにや〳〵笑ひながら、「歸つたら三時です。 」

「どうですか、怪しいもんですね。 」

「あの鹽梅ぢや、先方さきで歸しやしませんわ。 ねえ、あなた。 」

「申譯をしてもいけませんかな。 はゝゝは。 兎に角變つてましたな。 新橋にや時々不思議な藝者が現れますな。 あなたの役者だつて云ふ事はとうとう知れずじまひでした。 」

「あらまア。 」と駒代はしんからあきれたやうに目をみはつた。

「そいつアいゝ。 」と瀨川は啣へてゐた卷煙草を火鉢へさして褞袍の兩肌をぬぎ譯もなく兩手で顏から頸へと白粉を塗りはじめたので、一同は自然と話を途絕して鏡の面を眺める中にも、駒代はもう總身に力瘤を入れぬばかり一心に眼を据ゑるのである。

「山井さん。 是非また出掛けませう。 」と瀨川は云ひながら手早く眉を作り口紅をつけると、先刻から衣裳小道具を揃へてゐた男衆の綱吉は瀨川の立上るのを待つて、すぐと桔梗の紋を金絲で縫つた奇麗な裃を着せかける。 床山は髷の大きい前髮のある鬘を持つてうしろへ廻る。 瀨川は忽ち錦繪にも畫けまいと思ふやうな美しい若衆になつた。 駒代はあたりに人がゐなかつたら、初菊の役を橫取して窃と寄添つて見たいと思ふ心をぢつと我慢してしんからほれ〴〵と涎を垂らさぬばかり、どうしても目を離す事ができないのである。 これまで見馴れた女形とは又ちがつて水の垂れさうな若衆の姿。 惚れ込んだ女の目にはいゝ上にも更に更に、何とも云ひやうのないほど實に好く見えてならないのである。 駒代は自分ながら口惜しいと思ふほど、惚れる上にも又更にれ直してしまつたと、何ともつかずそつと人知れず溜息をついたが、そんな事には一向無頓着な瀨川は、

「綱吉、まだ廻りにやならないか。 」と駄々ツ子のやうに云捨て呑みさしの卷煙草を口へ啣へて立上る。

 其時出入口に草履を揃へてゐた黑衣の弟子が何やら丁寧に挨拶してゐる樣子に、一同は誰かと振返ると、髮を切下にして鐵無地の被布を着た品のいゝ女が、「お目出度う。 」と云ひながら這入つて來たのに、駒代は喫驚びつくりしたやうに突とさがつて、誰よりも先に、

「お目出度う御座います。 其後はつい御無沙汰を致しまして。 」と丁寧にお辭儀をした。

 先代の菊如の後妻、今の一糸が繼母に當るお半である。

 お半は目のぱつちりした鼻の高い瓜實顏。 髮こそ切つてゐるが色の白いつや〳〵と皮膚きめこまかい額にはさして皺も目立たない。 よく上方の美人にある顏立。 人形のやうに唯綺麗なばかりで表情に乏しい。 然し綺麗といへば頸筋から手先まで年寄りとは思へぬ程綺麗で又どことなく品のいゝ處はどうやら公家華族の御後室とも見れば見られる樣子である。

「いつもえらいお骨折で。 」と愛想よく駒代の方に笑顏を見せて、「大層よく出來ましたね。 矢張佐渡屋ですか。 何しろ毛がいゝんだから、何に結つてもよくお似合ひだ。 」

「あら大變。 」と駒代は餘義なさうに笑つて、「かもじでどうやら斯うやら結つてゐるんですよ。 」

 舞臺の方で拍子木が聞える。 瀨川は一同へ「御ゆるり。 」と云ひながら突と座を立つた。 男衆の綱吉は朱塗の蓋のある湯呑を持つて後から廊下へ出る。 山井は駒代と花助の顏を見つて、

「肝腎な瀨川君の初役を見そくなつちや大變だ。 」と獨言のやうに座を立つので、二人は渡りに船とお半へ挨拶もそこ〳〵つゞいて廊下へ出た。 そして一同元來た奈落へ降りかけた時、花助は小聲で、

「駒ちやん、あの方がにいさんの阿母おつかさんかい。 」

「さうだよ。 」

「品のいゝ綺麗な方ねえ。 私お花かお茶の先生かと思つたわ。 」

「何かゞ萬事あの通り綺麗にきちんとしてゐるから私逹のやうながさつな者ぢや、とても駄目なんだよ。 だからさ。 」と駒代は覺えず聲を高めたのに氣がついて後を振返つたが、薄暗い奈落には誰も通らず、舞臺の上の方で大道具の金槌の音が陰に籠つて反響するばかり。 幕はまだ明かぬらしい。

「だからさ。 いくらどうしようたつて駄目なのよ。 第一あの阿母おつかさんが不承知なんだつて云ふんだから……考へると情なくなつちまふ。 」

「まだ表向さうと極りもしない中から姑根性を出すのかね。 」と花助は事の是非に關らず相手の話に調子を合せるのが癖なので、内心では瀨川の兄さんはあれでなか〳〵浮氣者だから阿母さんばかりがさう惡いときまつたものでもなからうと思ひながら、そんな事を云つたつて夢中にのぼせ切つてゐる駒代の耳に這入るわけはない。 なまじつまらない事を云つて人の氣を惡くさせた上恨まれてはつまらないと、唯その場合〳〵いゝやうな事を云つてゐるのである。 駒代は全くその通。 二人の仲は誰も知つての通これほど深くなつて居ながら、今だにどうともきまりが付かないのは内輪にあの阿母おつかさんがあるからだと一圖にさう思込んでしまつてゐるので、表面うはべは蟲も殺さぬやうな優しい事を云はれると此方こつちくちが自由にきけないだけ、唯もう癇癪が起つて口惜しくなるばかりである。

「世の中ツてものはどうしてう思ふやうにならないんだらう。 」と獨りで嘆息したが、やがて奈落を出ると木が這入つて丁度幕のあく處、奈落とは全く世界のちがつた場内じやうないの景氣に、駒代は忽ち其方へ氣を取られて小走りに鶉へいそぐと、其の後について山井はさそはれもしないのにだまつて同じ鶉へはいつた。 芝居でも料理屋でも待合でも何處といはず知つた人の尻についてだまつてぬツと這入はいツてしまふのは蓋し山井先生の得意とする處である。 山井は駒代と花助を兩脇に敷島をぱく〳〵悠然として舞臺と場内を見渡した。

十七 初日 下

 重次郞の花やかな姿はやがて着替へる緋縅の鎧にまた一段見榮して羽子板の押繪を其の儘の美しさ。 贔負の見物一齊に重次郞が勇しく花道へ引込む後姿を見送るなかに、駒代のゐる鶉の丁度眞上になつた東の桟敷に三人連の女客。 一人は三十も超えたと思ふ痩ぎす、根下の銀杏返に小粒な古渡珊瑚の根掛、じみな金紗お召に小紋の下着、半襟は浅葱鼠に一粒鹿子のしぼり。 黑縮緬の羽織、描更紗かきざらさの晝夜帶に帶留の金具は何やらいはれあるらしい素銅すあかの目貫、さして大きからぬダイヤにプラチナの指環只一ツ、萬事目立たずして相應に物のかゝつたつくり、いづれ何家の誰といはれる姐さんであらう。 一人は年の頃二十四五、藤紫の絞の手柄を掛けた佐渡屋が並一、眞珠を入れた蒔繪の櫛笄、思ふさま荒い龜甲つなぎの大島の二枚重に揃ひの羽織。 縫取模樣の鹽瀨の丸帶に寶石入の帶留、びつくりする程大きなダイヤに眞珠の指環これだけでも千圓以上と思はれた。 ぽつちやりした長顏の色飽くまで白く、はでなつくりに釣合つて四邊の人目をひく程のまづは美人。 衣紋のつくり方化粧の仕樣矢張たゞの者ではあるまい。 他の一人は待合のおかみらしい四十前後、もとは何處ぞの女中でゞもあつたらしく品のない田舎の人らしい顏付。 各手にした双眼鏡を離して云合せたやうに顏を見合せて、「いゝわねえ。 」と溜息をついた。

 やがて夕顏棚の彼方より市山重藏の武智光秀が立現れる頃、丸髷の美人は突然年上の銀杏返の手を握り小聲ながら力をこめて、「姐さん、私もう岡惚だけぢや濟まないわ。 」

「それぢや何處でもお前さんのいゝ處へ呼んだらいゝぢや無いか。 」

「呼べる位なら苦勞しやしないわ。 出てゐる時分ならわたしだつてそれア何とかこぎ付けるけれど、素人しろとになると何だか氣まりが惡くなつて何にも云へやしないわ。 それにねえさん、瀨川さんにや何ぢやないの、尾花家の一件が大變なんでせう。 」

「ふツ駒代かい。 」と年上の銀杏返はいかにも卑しむやうな調子で、「腕がいいんだつて云ふからね。 お前さん見たやうな御孃さまぢや到底とても張合へまいねえ。 」

「だからわたし矢張あきらめるわ。 なまじツか云出して愛想盡しなんぞされると猶悲しくなつてしまふから……。 」と舌の廻らないやうな甘たるい口のきゝ方である。

 舞臺は手負の老母が述懷から少しだれ氣味になつて來るのを丁度いゝ事に、二人は舞臺をそつちのけにして何か頻と小聲に話し始めた。 重次郞が手負になつて花道から出て來る時二人は目がさめたやうに再び舞臺の方に向直り双眼鏡を取上げたが重次郞が落入つてしまふと直樣もう舞臺に用はないと云ふ風で又ひそ〳〵話をつゞけるのであつた。

 十段目が幕になると初日の事とて琵琶湖の乗切はあづかりとなり直に中幕の二十四孝。 これは瀨川一糸が奧庭狐火の宙乗まで大喝采の中に幕になると丁度時分時とて食堂は今が一番込み合ふ最中、三人の女客は出入口に近いテーブルに坐を占め、出入ではいりの人の混雜を眺めてゐたが、すると丸髷は突然銀杏返の袖を引いて、

「力次ねえさん、矢張來てゐるわよ。 」

 云はれて其の方を見ると駒代に花助その後に執拗しうねくつきまとつてゐるのは山井先生である。 駒代はいたテーブルをと其の方へのみ氣を取られたせいか、力次の傍を通りながら心付かず、何か三人で笑ひながら向へと行つてしまつた。

 すると銀杏返の力次はさも〳〵憎らしさうに後姿を見送りながら鼻の先で笑つて、「御覽よ。 いゝ女ぶつてさ。 たまらないねえ。 」と聞えはせぬかと思ふほどの聲。

 力次は年も違へば貫目もぐつとちがふ駒代が、土地の姐さんと立てられる自分に對して挨拶一ツせず笑つて行過ぎるとは何といふ生意氣な仕打だらう。 きつと自分が此處にゐるのを見知りながら挨拶するのがいやさに人込を幸ひ氣のつかない振をして行過ぎたに違ひないと力次は無暗に腹を立てたのである。 それもその筈、力次にはいつぞや吉岡さんと云ふ旦那を取られた遺恨がある。 その仕返には何か折があつたら思ふさま泣かしてやらねばと思ひながら、まさか大勢一座の座敷では打付けに自分の恥を云立てゝ食つてかゝるわけにも行かず、演藝會か何かの折をと思つても此れ又折惡く手合せをする機會がなかつたので、つい其の儘になつてゐた。 ところが今日けふと云ふ今日、漸く復讎しかへしの糸口がつきかゝつて來た。 それは以前自分の家の抱であつた君龍といふ藝者がさる實業家のお妾になつてゐた處先頃旦那が死んで濱町の目拔な土地百坪ばかり地面付の立派な妾宅の外に現金で壹萬圓を頂戴してお暇になつた。 そこで今度藝者家を出さうか、旅館を開かうか、待合をしようか、鳥料理屋を始めやうか。 それとも大事な壹萬圓に手をつけず其れを持參金にする代り、男がよくて程がよくて浮氣をせず自分ばつかり可愛がつて我儘の仕放題にさしてくれるやうな家へお嫁に行つて見やうか。 その方がなまなか商賣をして苦勞するよりか行末ともに安樂で心配がなからうと、都合のいゝ事ばかり考へる、其相談にと度々力次姐さんの湊家へやつて來るついで、さそひ合つて今日新富座の見物。 君龍は身受をされてからこの三年といふもの自分ながらよく辛棒したと思ふほど白髮の旦那一人を守り三味線も手にせず芝居へも滅多に行つた事のないだけあつて、旦那の御寵愛は遺言狀にまでちやんと君龍の事が書いてあつた有難さ。 さて君龍の身になつては盡すだけの事は盡くしてしまつて、さて貰ふだけのものは貰つてしまつたとなると小人玉を抱いて罪ある譬、俄に身體も心も自由になつて何かそはそはと落ちついてゐられぬ矢先久振の芝居見物、瀨川一糸が初役の重次郞を見るより忽ち逆上のぼせてしまつて成らう事なら今夜芝居がはねたら直ぐにもと力次姐さんへ我儘な賴み。 力次は何ぼ何でもさう急にはと困つたけれども駒代への意趣返しにはこれに越した事はないと思ふのでいゝよ私にまかしておくれとすつかり受合つてしまつたのである。 で、力次はまづ座付の茶屋桔梗の女將と云へばこの仲間では顏の賣れた婆さんと懇意なのを幸ひ早速打明けた話をして、それからいゝやうに瀨川の方へ通じさせ、今夜一寸でも都合して築地の久津輪くつわといふ待合へ來てくれるやうにと賴込んだ。

 すると斯う云ふ事には馴切つてゐる桔梗の女將の取なし、案ずるより產むが安く、二番目の狂言河庄が切れる頃に嬉しい返事は早くも丸髷の君龍と銀杏返の力次が胸を躍らせたのであつた。 一座した久津輪の女將はこの返事を聞いて一足先へ歸り仕度をして待つてゐるからと炬燵の場が明くか明かない中に君龍の脊中をぽんと一ツ喰はしながら鶉を出て行つた。 君龍はいざ話がきまつたとなると以前の大口には似もつかず俄に心配らしく考へ込んでばかりゐるので、女將にからかはれても唯顏を眞赤に何とも云ひ得ない始末である。 されば幕が明いて瀨川の小春が舞臺へ出ると君龍はおのづと後じさりに力次の身體を楯に手にしたハンケチで半分顏をかくしながらも、人知れず眼を据ゑ息を凝して瀨川の小春ばかりをぢつと見詰めるのである。 する中に突然力次に袖を引かれハツと思はず又顏を赤く息をはづませた——力次はまるでおのれが事のやうに、

「そらまたこつちを見てるよ。 君ちやん、もつと顏を出しといでよ。 」

 君龍も瀨川が藝をしながら折々向を見る振でそつと此方こつちの桟敷へ眼をつけてゐると氣が付いてゐるので力次にさう注意されると猶更氣まりが惡く顏を眞赤に唯俯向うつむくばかりであつた。

十八 きのうけふ

 いつも嬉しい逢瀨の場所と二人の中にきめられてゐる宜春の四疊半。 瀨川一糸は江戸小紋の二枚重、結綿の三紋をかげにして目だゝぬやうに絞出したは、橘町だいひこあたりの好みであらう。 橫座りにくづした膝からちらと見せた長襦袢、鶸茶ひわちやに白く片輪車の絞りはまづゑりゑんの誂と覺しい。 帶はぐつと古風に幅狹く仕立てた獨鈷の唐繻子、かけの端へ如源の二字を赤絲で縫はせたは大方濱町平野屋の品であらう、素人ならば隨分いやみになる處を女形と云ふだけ却てよい思付と見られた。 きゆつと後手に締上げながら坐り直して、泰眞が水に紅葉の長門筒、古渡の緖〆に紅の濃い人形にんぎやうきんかはのかます、銀の蛇籠に金でこまかく砂利の細具を見せた長手の金具は誰の作にや。 無造作に取つて腰にさし、

「お駒、それぢや鳥渡行つて來るぜ。 一時間か二時間たつたらきつと返つて來るから。 いゝかい、だまつてちやこまるなア。 羽織を取つてお吳れ。 」

 駒代は黑縮緬の羽織もまだ拔かず火鉢の灰へぢれつたさうに火箸を突さしながら、俯向いたまゝ、

「えゝ。 待つてます。 」とすげなく云つたが、食卓つくゑの上の銚子を取り溢れるばかり茶碗につぎかける。 一糸は早くも其の手を押へ、

「どうしたんだよ。 今もあれ程云ふのにお前にも似合はないぢやないか。 先から親爺の時分から贔負になる大阪のお客だ。 袖崎さんが今度久振で此方こつちへ來たんでわざ〳〵一しよに出て來た贔負のお客だよ。 」

「そんなら、にいさん、ずつと前から今夜のお座敷は分つてる筈ぢや有りませんか、今夜ハネが早かつたら山井先生もさそはうツて現在山井さんにも樂屋でさう云つてたくせに。 急に外へ御座敷だなんて、わたしア決して疑るんでも何でもありませんよ。 ですけれどもさ、隨分にいさんもあんまりだと思つて…」よく〳〵口惜しいと見えて駒代は云切らぬ中に聲をくもらせた。

「それぢや、どうしても不承知なんだね。 不承知なら不承知でいゝさ。 行かないばかりだ。 」と瀨川はぐつと强面こはもてに出て相手の樣子を窺ふと、此方こなたはさすがにそんならお行でなさるなとも云切れず、僅にハンケチで眼を拭ふばかり。 男はわざと急がぬ風を見せるつもりか腰へ收めた烟草入をまた拔出して一服しながら獨言ひとりごとのやうに、

「お前さんが行くなと云へば行かないまでの事さ。 先樣をしくじれば其れでいゝんだ。 」と烟管をはたいて、「お前さんも大事な吉岡さんをしくじつたんだからね、私の方もしくじりさへすれやアそれでお互に恩も恨もなくなる譯だ。 」

 瀨川はどうでも勝手にしろと云ふ風にごろりと橫になつた。 かうなつては惚れた弱味のある女の方から是非どうか行つて下さいと賴むより外はない。 色の紛擾いきさつには馴れてゐる瀨川一糸、始めからさうなるものとはとうに見越してゐる。 よし又女の方が何でもでも放すまいと執拗しつこく出れば此方こつち我儘わがまゝ一ぱい無理に振切つて出て行くまでの事、其場ではいくら愛想づかしを云ひもし又云はれもした處で、これまでになつた曉には女と云ふものはカラ意氣地のないもの。 半年一年其の儘に放棄うつちやつて置いても折を見て此方こつちからやさしく仕掛ければすぐころりとなるのは梅歷の米八仇吉のくだりを見て知るまでもない事と、瀨川は先の先まで承知してゐる上に、内心實の處は少しもうあきが來てゐる。 何かいゝ代りの出逢次第、駒代とは手を切らう——きつぱり片がつかなくとも唯この上餘り深くならないやうにしたい、今では大分借金もありさうな駒代にこの上半年一年とつながつてゐた日にはいやでも應でも末は女房に脊負込まなければなるまい、それも是非ないハメになれば因緣づくだと締めるまでだとちやんと度胸を据ゑてゐる事とて、これは到底相撲にはならない譯である。

 駒代はどうあつても今夜は放すまいと思ふものゝ若しこの上我儘を云つて無理に瀨川を引留めたなら平素ふだんから藝人には似合はない一本氣な我儘な御世辞のない瀨川のこと——それが又駒代のれる原因でもあるので、後でどんなに腹を立てるか分らないと思ふと何となくこはくもあるし、又あれ程立派な口をきくのだから矢張その云ふ通り眞實大阪の堅いお客かも知れないと始めの權幕には似ず次第〳〵に弱くなつて、

にいさん、だん〴〵おそくなるわよ。 早く行つて早く歸つて來て頂戴。 兄さん、私もう何も云ひませんから……。 」と寄添つて恐る〳〵顏を差覗くのである。

なに、行かなけれア行かないで濟むことさ。 」と瀨川は退儀さうに起直りながら、「後であやまりに行きやアいゝ。 」

「それぢや私がこまつてよ。 もう十一時過よ。 にいさん。 ほんとに早く行つて來て頂戴よ。 私も一人で待つてるのも氣まりが惡いから鳥渡家へ歸つて出直して來ますから。 」

「さうかい。 それぢや濟まないけれどさうしておくれ。 」と瀨川はわざとたすけられるやうに女の手を取つてしぶ〳〵立上り衣紋を直す。

 もううなつてはたとへ身を切られる程辛くても表面うはべは立派に綺麗に御座敷へ出してやるが藝人を情夫いろに持つ女の見得だと妙な處へ意地をつけて駒代は後からぴつたり寄添ふやうに羽織を着せ掛ける。 鳥渡新派の芝居にでもありさうな樣子。 瀨川はその儘後へとりかゝるやうに身を反し羽織の片袖通した手先に駒代の手を握りながら、

「ぢや。 いゝねえ。 きつと待つておゐで。 」

 其のまゝ襖へ手をかける。 駒代は廣ぶたに載せた男の二重廻と帽子襟卷を持つて續いて廊下へ出た。

「それぢや後程。 」とおかみや女中の聲を後に瀨川は抱車の幌深く宜春のかどを出ると我にもあらず手頸へはめた金時計を見た。 いつもよりハネの晩い初日の夜に二場所掛持ちとは始めから無理なのは知れてある。 然し瀨川は桔梗の女將からうまい調子に話込まれ男の持前なる浮氣の蟲を誘ひ出されると、まるで子供がほしいと思つた玩具おもちやを買つて貰はない中は寢ても覺めても氣がすまないと同樣、唯只無暗に氣ばかりあせるのである。 瀨川は駒代に惡いとは知つてゐながら、そう云ふ事には馴れきつた桔梗の女將が猫撫聲で、駒ちやんの方は私が後で何とでも詫を入れるよ。 わたしが惡者にさへなれアいゝんだからと、それまで引受けられては譬へ氣がすゝまずとも押し出さねばならない譯。 ましてや桟敷の遠見には一層美人に見えた圓ぽちやの丸髷、旦那に別れた後も久しく貞女を立てゝゐるのだからまづ素人しろとも同樣と聞いては猶更に我から胸を躍す好奇心。 瀨川は行つた先の首尾次第、もう宜春なんぞへは歸らずとも後は野となれ山となれと、いろ〳〵さま〴〵に新しい突然の戀の面白さを空想する間もなく築地川一筋越した久津輪のかどへ着いた。

 駒代は宜春の帳場でおかみさんに暫く遊んでおゐでよ。 その中に私が電話を掛けるからとまで言はれたが、到底落ちついて坐つてはゐられぬので、ぶら〴〵銀座まで步いて歸つて來ますと、其のまゝ車も呼ばずぶらりと外へ出ると、門並待合のつゞいた狹い橫町、後にも先にも自働車が一二臺に人力車の四五臺道をふさぐばかりに供待してゐる間を、駒代は誰にも姿を見られぬやうにと急いで農商務省の方へ出た。

 蒼然とけぶり渡つた初冬の夜は地震でもゆりはせぬかと思ふほど妙に暖く、照輝く月の光に物の影はつきりと、乾いた道の上に橫るさま何となく夏らしい心地して、鬢の毛撫る微風のさわやかさ。 思ふともなく駒代は、初めて瀨川の兄さんに呼ばれた宜春のお座敷、夢ではないか狐につまゝれたのではないかと、われと我身の嬉しさを疑ひながら別れて歸る夜の道、明い賑な通へ出て車や人の往來ゆきゝにその嬉しい思を亂されるのが惜しさに、兩方の膝節ぐら〳〵する程にくたぶれてゐながら、暗い橫町から橫町へとわざ〳〵廻り道して歸つた時の事を思出した。

 それは晝間の殘暑も夜と共に袂を拂ふ秋風の心地よくけては露もそろそろ身にしむ頃。 時候は全く違ふが、晝間一日芝居の人込ひとごみから軈てこの露深い夜深の空、月の光は澄みながら狹霧につゝまれた人家の屋根、夜深けた街に吹き通ふ夜風の肌ざはり、向うの河岸通りを流して行く新内の撥音、又その邊の待合の植込越しなる二階の燈影——あたり一帶の樣子が氣のせいか、忘れやうとて忘れられぬ初ての夜に似てゐる。 さう思ふと駒代は步いてゐながらも一度にわつとせきる淚。 あわてゝハンケチに顏を蔽ひ、そつとあたりを見廻したが、幸に廣大な農商務省の建物に片側は眞暗な往來。 いつもならば丁度時間も場所も送迎ひの藝者の車。 日吉、大淸、新竹、三原、中美濃なんぞの提灯かんばん星の如くなるを、どうした拍子か後にも先にも見渡す往來はしんとして、唯釆女橋の方から自働車が一臺と、ぶら〳〵步いて來る藝者二三人が大分醉つてゐるらしい高話と笑聲。 駒代は急いで木挽町の四角を左へ折れるが早いか、見當り次第に何處といふ事なく唯あかりのない眞暗な露地へ身をかくし、兩袖を顏に押當てたまゝ其の場に蹲踞しやがんで思ふさま泣きたいだけ泣いてしまはうと試みた。 駒代は誰も人のゐない處で、誰にも慰められず妨げられず、ただ自分の氣のすむかぎり泣いてしまひさへすれば、其の後はどうやら氣が落ちついて人の話も耳に入るやうになることをば、生付寂しい氣質の癖として自分ながらよく承知してゐるので、何か其場の思案に餘るやうな事があると先づ何より先に人のゐない處へ、それも出來ない場合には押入へ首を突込んで無理に一泣ひとなき泣いてしまふのである。 後になつて我から可笑しいとも思ふ此の妙な癖は、秋田の遠い田舎へ片付いた時、右を見ても左を見ても、旦那の外はまるで話の通じない人ばかりの中に月日を送つた折、いつともなく習慣ならはしとなつたのである。 駒代はその事をもよく承知してはゐるが、一度妙な癖がついては直したいにもなか〳〵直されるものではない。 ましてやその後は今日が日まで泣きたいと思ふ事のみ年々に增え行くばかりで直さうにも直す暇がない譯。 駒代は露地の暗闇に一泣き泣いてゐる中何の譯もなく不圖自分は一生涯泣いて暮すやうに生れて來たのかも知れないと思ふと、また更に悲しくなつて此間兄さんとお揃ひに誂へたばかりの長襦袢の袖をも絞る程にしてしまつた。

 自働車が砂をあげて馳過ると耳元近く犬の吠出す聲に、駒代は已むを得ず露地口を立出で足の向く方へと歩きかけたが、するとつい二三間先へお座敷の歸りと覺しい藝者二人、何の話かわからぬが、駒代の耳にはつきり聞えた「濱村屋のにいさん。 」と云ふ一語ひとこと。 駒代は急に足音を忍ばせ人家の軒下をさとられぬやうに一あしでも近く寄つて立聞きしようとする。 それとも知らぬ藝者二人は遠慮なく、

「たしかに濱村屋さんの兄さんよ。 羨しいわね。 何處どこへ行つたんだらう。 」

「それぢやかけしませう。 わたし明日あしただまつて駒代姐さんとこへ電話をかけて見るわ。 さうしてもしか濱村屋さんだつたら私活動をおごるわ。 」

「それぢや私が負けたら私の方がおごるわ。 しか鳥渡ちよいと。 もしか濱村屋の兄さんと外の藝者衆と二人だつた日にや大變よ。 私逹まで駒代姐さんに疑られちまふから、滅多に電話なんぞ掛けない方がよくツてよ。 」

「さうねえ。 一たい瀨川さんには駒代姐さんとそれから誰なの。 」

 問はれて一人は何と答へるかと駒代は覺えず片唾を呑んだかひもなく、又向から驀直まつしぐらに走つて來る自働車に話はそれなり途切れたばかりか、二人の藝者は丁度來掛る待合何家の格子戶、外から女將おかみさん今晩は。 と云ひながら這入はいつてしまつた。 駒代はもう氣が氣でない。 前後あとさきの事情は何の事やら分らぬが、兎に角耳にはいつた一ことこと、これやかうしては居られない。 にいさんが自分に話をして出て行つた久津輪くつわへ電話をかけ、にいさんが居るか居ないか聞正して見なければならない……差支のない唯の御座敷なら自分の声と知れたとて、別に可笑をかしい事はない筈、何故早くさう氣がつかなかつたのだらうと、駒代はもとた道を駈けるがやうに宜春に戾り、矢庭に帳場の電話器を掴んだ。

 然し流石に聲だけは落ちつかせて、「久津輪家さんですか。 鳥渡恐れ入りますが瀨川さんを電話口まで……此方こちらですか、はい、此方は、あの、瀨川の宅ですが。 」

 暫く待つても返事がない。 遂に癇癪を起して無暗に相手を呼出すと折惡く混線と云ふ始末。 側にゐた女中のお牧が見兼ねて代り合つて掛け直すと、「もうお宅へつく時分で御座いませう。 」と云ふ返事。 此方こつちが瀨川の宅と云つた丈けにそんな筈はありませんとも問返されず、駒代はがつかりしながら大方こつちへ來るつもりで其樣そんなことでも云つたのかと、暫く待つてゐたが、いつの間にか時計は十二時を打出したのに、俄にまた急立せきたつて今度は宜春で駒代がお待ち申して居りますからと大びらに名乗つて掛けると又しても好加減待たしぬいた後、矢張築地のお宅へお歸りですからとの事。 いよ〳〵半狂亂。 築地の家へ電話をかけると唯留守で御座います。

 瀨川一糸が行衞はこゝで全く不明になつてしまつた。 兎に角十二時になつては待合の門はめなければならない。 女中のお牧はさすがに氣の毒と思つてか門の扉を片方だけたて「もう入らツしやりさうなもんだ。 」とわざと獨言のやうに云ひながら往來へ立つてゐると、突然何處から出て來たのかの低い洋服の男大分醉つてゐるらしくよろ〳〵とお牧の側へ寄りかゝつて來さうなのに、お牧はびつくり、周章あわてて門を閉めやうとすると、醉漢よつぱらひは猶周章あわてゝ、

「おい〳〵待つてくれ。 僕ぢや駒代さんは來てゐないか。 」

「あら昨夜ゆうべの……どうも失禮、ほゝゝゝほ。 」

「僕だよ。 山井だよ。 」と云ふより早く馴れたもので山井はお座敷が生憎あひにくなぞと斷られない先に早くも靴をぬぎ捨てゝ上つてしまつた。

十九 保名

 二三日たつと都新聞に「狂亂心の駒代」といふ見出しで一段半程の艷種が出た。 去年の秋歌舞伎座の演藝會で保名の狂亂今年の春は隅田川、二度つゞいての狂亂に當りを取りめつきり賣出して今では新橋中この名妓ありと誰知らぬはなき尾花家の駒代が、しかも芝居の初日の夜、大事な〳〵濱村屋の太夫を橫取りせられ寢やうとすれど寢られねば日の出るまでも待ち明かす、あらうつゝなの妹瀨川、土人形にあらざれば悋氣もせずにおとなしう此の儘だまつちや居られぬと、舞のお扇子踏みしだき狂ひ狂ひし一夜の始末、すべて保名の淨瑠璃深山みやまざくら兼及とゞかぬ樹振えだぶりの文句をもじつた記者先生が筆のいたづら。 然しこれだけの事なら元より眞僞は不明な新聞の記事。 浮いた家業の仲間には更に珍しい筈もないので、普通あたりまへならば噂されるそばから直ぐに忘れられてしまふのであるが、不思議にも今度の事のみは湯屋、髮結、茶屋の箱部屋、師匠の稽古場なんぞ、およそ藝者の集る處には日を經るに從つていよ〳〵噂が噂を產んで行くのであつた。 それは新橋から見物に行つた連中が誰も彼も一人として君龍の姿を見ないものはない。 大入つゞきの興行はいつかもう中日近くなつてゐるのに、お前さんもかい、私もよと云ふやうに、君龍の姿は初日以來每日每日桟敷にあらざれば廊下樂屋にあらざれば茶屋か食堂、劇場内の何處かで必ず見掛けられるといふ事と、初日二日目には見られなかつた立派な緞帳幕、濱村屋太夫さん江として湊屋の力次を筆頭に其の家の抱五人の名を縫つたのが何でも四日目か五日目頃から中幕二十四孝の時に引下されるやうになつた其等の爲めであつた。 する中に誰が云出すともなく濱村屋の太夫は來年の春先代菊如の名を襲ぐ折に君龍さんを女房にするとの噂が立始めると、現にもう取かはされた結納の品物まで見て來たやうな事を云出すものも出て來る。 二人の夫婦約束は以前君龍が藝者に出てゐた時分からとうにできてゐたのだと傳へるものもあつた。

 この最後の噂は誰の耳にも至極尤らしく聞えた。 と云ふのは昨日の浮いた噂が今日の結婚談になるのには何ぼ何でも事があんまり早過るやうに思つた連中もこれによつて始めてどうやら合點が行くからである。

 駒代はこの噂を聞くと共にいよ〳〵もう自分は駄目だと覺悟した。 瀨川の方では此上もない便利な口實として此の噂を申譯にした。 されば二人の間にはこの噂が果して事實であつたか否かについては一度も爭論されずにしまつたのである。 一圖にさうと思ひ詰めて逆上のぼせきつた駒代は男の薄情を怨んで泣く。 男の方は逢ふ度每に怨まれ泣かれするのが辛く、言譯してもなか〳〵承知しないまゝについ持て餘して逃足を踏む。 それに引替へ君龍の方は新手の勢何一ツ厭な事云ふ譯もないので、駒代との間がもつれゝばもつれるほど君龍との情交はこまやかになるばかり。 或日二人はかの久津輪と云ふ待合で、

「世間ぢや專ら僕逹は結婚するんだつて言つてるぜ。 何かと云ふとすぐ結婚の評判だ。 」

「ほんとに御氣の毒さまですね。 」

「お前さんこそさぞ御迷惑でせう。 相濟みません。 」

「あら。 どうして私が迷惑なんです。 伺ひたいもんですね。 」

「かう評判になつちまつちや、當分お前さんこそ何處へも行かれやしないぢやないか。 」

「ですからさ。 私はまことに兄さんに御氣の毒だと此方からさう云つてゐるんぢやありませんか。 折角駒代さんと云ふ方がおあんなさるのに私が出た爲めに、その方の事がどうかなるやうだつたら私はほんとに申譯がありませんわ。 」

「駒じるしの話は禁句だよ。 だが不思議な話があるもんだね。 お前さんと私とはずつと以前に、お前さんが力次さんの家にゐた時分夫婦約束をしたんだツて云ふ評判だよ。 お前さんは其中旦那が出來て身受をされたんで一時別れ〳〵になつてゐたんだとさ。 力次さんもなか〳〵人が惡いよ。 現にその事を力次さんに眞實ほんと虛言うそかツてきいた藝者衆があるんだとさ。 すると力次さんはそれア全くだつて云つたさうだ。 僕も人から何の彼のと聞かれると面倒臭いから皆ほんとうだつて、さう云ふのよ。 駒じるしにもさうだと云つてやつたよ。 」

「さうしたら、どうしました。 」

「どうしたか、それきり逢はないから知らない。 」

「全く不思議ねえ。 全く昨日今日のやうな氣がしないわね。 どうしてこんなに成つてしまつたんでせう。 兄さん。 」

「何だい。 」

にいさん。 ほんとうに末始終見捨てないで頂戴よ。 」と君龍は女心の譯もなくほろりと淚を落した。

 瀨川は其夜誘はれるまゝに以前は妾宅であつた濱町なる君龍の家に泊ると、一晩が二晩三晩になり遂に其のまゝ其處から芝居へ出勤するやうになつた。 すると男衆の綱吉に車夫の熊公二人がつゞいて其方そつちへ引取られた。 奧役始め其他芝居の關係者で瀨川に急な用事のあるものは自然濱町の家へ尋ねて行く事になるので、築地の住居は隱居所、濱町は表向門札こそ出さぬがどうやら本宅らしく、いつも丸髷に結つた君龍はもう事實の女房である。

 すると繼母のお半は何がさて置き君龍の財產を賴母しく思つた爲か、わざ〳〵濱町の方へ出向いて來て何分にもどうぞ忰をよろしくとの賴み、やがて返禮に來た君龍をば下へも置かずもてなした處から、君龍の方でも實の母同樣に慕はしく思込むと云ふ風、二人は忽連立つて新富座のみならず帝國劇場や市村座なんぞ他の芝居へも見物に行く間柄になつた。

 此の間に湊屋の力次は新橋の茶屋々々藝妓仲間を始めとして知合の役者藝人逹へも何とつかず遠廻しに君龍の方へ利益のあるやうな、同情のよるやうな噂の種をば絕えず振り蒔いてゐた。

二十 朝風呂

 午前ひるまへの十一時頃、丁度浴客の途絕えた日吉湯の大きな湯舟を唯一人わが物にして、いかにも好心持さうにあつたまつてゐるのは、尾花家の主人吳山老人。 アゝゝゝゝと遠慮なく大きなあくびと諸共痩細つた兩腕拔ける程に伸びをした後、高い天井のあか取窓とりからうらゝかな冬の日の斜に、まだ汚れぬ新湯の中へさし込んで來るのを面白さうに眺めてゐた。 折から、がらりと表の硝子戶を明けて這入はいつて來た四十づら、色黑く頸筋逞しく肩幅も廣いのに、似もつかぬお召の一つ小袖、襟垢少々目に立つをぞろりと着流し、前の方だけ角帶の體裁をなした縮緬の兵兒帶、羽織は着ず鼻下には薄髯大事さうに生やした樣子、新聞記者とも代言人とも見えずさりとて元より堅氣の人とも受取りにくい。 着物をぬぎながら壁にかけた芝居寄席なんぞの番付、眺めると云ふよりは檢閲するとでも云ふやうな癖のある眼付で橫目に睨み、中仕切の硝子戶手荒く明け放つて、大股に浴槽へ步寄り身體からだをしめしかける處へ、中から吳山老人思ふさま暖まつてぬつと立上る。 顏を見て此方こなたは、「や。 」と無造作に書生風の挨拶。 そのまゝ飛込まうとしたが、ちと熱過ぎて這入り兼ねる樣子。 吳山はわざと當付けたやうに、

寶家たからやさん、湯は錢湯にかぎるね、便利なやうだが家の風呂桶ぢや鼻唄も出ねえ。 」と又もや出かゝるあくびを嚙みしめるも道理、吳山は別に怨も何も無いが唯何となしに寶家の亭主の樣子が嫌ひなのである。 もとは壯士役者の下廻とやら、つい四五年前までは寶家と云へばお客も、藝者も、あゝ彼の家かと新橋中知らぬものなき水轉屋、その爲め忽の中に身代をこしらへたとなると、今度こんどは俄に藝のいゝもの二三人を抱えて、目ぼしい茶屋々々へは心付こゝろづけを惜しまず、いつの間にやらすつかり店を出し直し、去年組合にごた〳〵があつて世話人改選の折運動して其の一人となり、そろ〳〵羽振をきかし始めたのである。 當世の新聞言葉を借りて云へば寶家の此の發展振りが、吳山老人には何處となく當世成上り紳士の成上り方と同じやうな氣がして胸が惡い。 初手は見得も糸瓜もかまはず、さもしい事の有りたけ爲盡して少し工面がよくなると、忽ち利目きゝめ々々へ金で手を廻し、以前の身分を忘れて大きな顏をし出す。 それも政治家實業家株屋なんぞならばまだしもの事、全體藝者家の亭主なんぞといふものは粹が身を喰つた果の洒落半分、萬事垢拔のしたものと、吳山は若い時分の考へが今だに拔けぬ處へ、寶家の亭主の風を見れば第一に鼻の下の髯からが氣に入らず、世話人になつてからの働きやう、會計報告だの何だのと組合の相談をば株式會社の總會かなんぞのやうに、何かと云ふとすぐに演舌口調で辯じ立てる、それが唯片腹いたくて成らないのである。

 然し寶家の方ではそれほど嫌はれてゐるとは氣のつかぬか、或は氣がついてゐても押の太いと如才ないとが成功の秘訣と上手うはてに出て行くつもりか、老人があくびかみしめながらの生返事も一向平氣で、

「先生、席亭の方はあれ以來ずつと御休業ですか。 」と湯船の中から話しかける。

「もう此の年になつちや出たくも出られませんや。 」と老人は流しへ坐つてあばら骨の出た橫腹を洗ひながら、「出た日にや席亭は迷惑、御定連は猶御迷惑だ。 」

「近頃はいゝものが掛らないせいか寄席は淋しくなりましたな。 時に先生、實は其中御相談に上らう〳〵と思つてそのまゝ私もいそがしいもんで……。 」と寶屋はそれとなく四邊を見廻したが、元より男湯には二人きり、女湯は寂として物音なく、番臺の上には婆さんが眼鏡をかけて一心にときものをしてゐる。

「實は何ですよ。 是非一つ世話人になつてお貰ひ申さうと云ふんです。 席亭の方をお休みなら自然お暇もありませう、是非一ツ吾々の事業を助けて頂きたいんだが……。 」とそろ〳〵例の演舌口調。 寶家は組合中へ自分の勢力を張るには自分より古顏の世話人を段々によさせて、其代りに毒にも藥にもならない人物を推薦しつまり自分一人いゝやうにしようといふ下心。 吳山は新橋中では一二と數へられる古看板尾花家の名前主、頑固一點張の意地の惡い爺で通つてゐるが、然し其の代に極く淡泊で慾と云ふもの微塵もない善人である事も土地のものはよく知つてゐるので、寶家は自分の舌三寸で云ひまるめこの爺を世話人の數に入れゝば、こまかい事は却て面倒がつて口を出さぬは知れてゐるので結句なまじつかな者に出られて權力爭ひをされるよりは餘程ましだと考へてゐる。 それと知つてか吳山はすげなく、

「いや、そいつア御免を蒙りたいよ。 うちの嚊も近頃はめつきり弱つてゐるしわしだつてもう取る年だ。 とても世話人は勤まりやせん。 」

こまつたな。 兎に角尾花家さんと云へば土地の古顏だ。 何しろ人望家だから……。 」

 其時三助が「大分お寒くなりました。 」と寶家の脊中を流しに出て來たので、寶家はそれなり話を中止する。 折から相前後して這入つて來る浴客の一人は金緣の眼鏡をかけた色の生白い三十年輩、土地で金滿家と云ふ評判の女髮結お幸さんの男妾同樣の亭主。 もとは活動寫眞の辯士とやら。 他の一人はでつぷり肥つて頭の禿げた五十前後、市十といふ鳥料理屋の親方である。 病氣らしい十二三の男の兒の片足俗に云ふ家鴨足になつたのを連れ、いづれも知合つた近所の人とて互に今日は〳〵はと挨拶しながら浴槽へはいる。 自然話は二手に分れた。 市十は吳山を相手に、髮結の亭主は寶家と、これは各地の藝者のはなし。 やがて寶家は何か思出したやうに、

「近頃は新橋にもさう云ふ藝者が現はれたんで、實は内々組合の中でも土地の名譽にかゝはると云つて苦情を云ふものも有る始末さ。 」

「へえ、何て云ふ藝者だね。 」

「まだ御存じがないのかね。 蘭花ツて云ふのさ。 」

「どこのだ。 」

「弘めをしてからまだ物の一月もたちやしないんだが、もう新橋中知らねえ者はねえ位だ。 」

「へえゝ。 話を聞いたゞけでもすごいねえ。 」と髮結の御亭主興に乗って顏に塗つた石鹼の眼にしみ入るのも洗ふひまなく、「どんな女だい。 いゝ女かい。 」

「いけない〳〵うつかり好いなんぞと云はうものなら、後でおかうさんに恨まれる。 」

「さう云はれると猶の事見たくなるねえ。 」

「はゝゝゝは。 吾輩こちとらが見ちやテンデ藝者になつてやしねえ。 まア二度びつくりの方さ。 然し評判といふものはおそろしいもんだ。 彼方あつち此方こつちで寄るとさはると變な藝者だ、變なまねをする藝者だといふのが評判になつて、忽ちの中に賣出したんだからな、隅にや置けねえ悧巧な女さ。 」

「一體どんな事をするんだい、裸體踊か。 」

裸體はだかにや違ひないが、雨しよぼ見たいな下等な踊ぢやない。 實は僕もうちこどもに聞いた話なんだから、しつかりした事ア知らないが、踊るんでも何でもない、一くちに云へば唯お座敷で裸體を見せるんだね。 西洋の寄席にやさう云ふ藝をするものがいくらもあるんだとさ。 西洋のこれは何處どこ其處そこの何と云ふ名高い石像で御座いとか何とか口上を云つて其の通りな形をして見せるんだとさ。 眞白な肉襦袢を着て髮の毛も石像に見える樣に眞白な鬘をかぶるんだとさ。 だからね、此奴こいつアうつかり苦情も持込めないんだ。 兎に角新しい女とか云ふ奴で、理窟を云はせちやきりのねえやつに違ひない。 現にお座敷で大層な事をぬかしてるさうだ。 每年文展で裸體畫問題が起るのは要するに日本人には裸體の美がよく分らないからだ。 實に歎はしい事だから上流の紳士に美術的修養をさせる爲めにかう云ふ事を思ひ立つてやり始めたんだと言つてるさうだ。 」

「へえ、大變なものが現はれたもんだな。 ぢや、兎に角僕も一ツ美術的修養をしに行かうや。 」

りで掛けたつてやアしないとさ。 何でも每日お約束の三ツ四ツもあるんだつて云ふ事だ。 馬鹿々々しいぢやないか。 」此方は鳥屋の市十と吳山。 そんな色つぽい話とはちがつていづれも年寄の愚痴話。 濕つぽい因果話である。

「この兒も今年十二ですがこの始末ぢやア仕樣がありやせん。 此頃ぢや小學校もよさせました。 」と市十は靑ざめた忰の背中を流してやりながら、「やつぱり殺生の報なんでせう馬鹿にや出來ません。 」

 子供は足のわるいばかりでなく全身の發育も甚だ不充分精神の働きも餘程萎微してゐるものと見え、氣のぬけたやうにぼんやりして別に物も言はねば惡戲いたづらもせず、唯うつとりと有らぬ方を見詰めてゐる。 吳山はいかにも氣の毒さうに親子を見くらべながら、

「昔からよくそんなことを云ふが、それがほんとうだつたら魚河岸の若衆はみんな片輪でなくちや成らねえ筈だ。 鰻屋をすると矢張いけないと云ふものがあるが、鰻も肴も生物に變りはねえ。 氣は病ひだよ。 現に私なんぞも矢張忰の事ぢや今だに泣かされてゐるのさ。 」

「瀧次郞さんと云ひなすつたツけね。 どうしましたい。 」

「いやはやお話にやなりません。 三年前にちよつと噂をきいた時にや、何でも公園の銘酒屋にゐると云ふ話だつたから、餘所よそながら樣子をさぐり意見のしやうもあればして見やうと、一時は思ひ切つた忰だが、そこは血を分けた親の情だ。 私やわざ〳〵たよりたよつて近所の銘酒屋へお客のふりをして上り込んだよ。 」

「ふむ。 親の身になりや誰しも同じ事だ。 」

わしア近所の評判をきいてがつかりしたね。 これア天魔が魅入つたにちげねえ。 なまじ顏を見たり意見をしたりすれア思ひがますばかりで、とても望のねえものならこれア矢張後生のさわりの無えやうに此儘逢はずにしまふがいゝと、それなり歸つて來て、私ア十吉にもその事は今だに話をしないのさ。 」

「へえ、どんな事ですえ。 」

「いやはや、話にも何にもなりやしません。 瀧の野郞は一ツ家に寢起してゐれアまア何が何だらうとまアおのが女房も同樣だ。 その女房同樣の女がお客を取るのを見ても平氣の平左衞門どころの事ぢや無え。 自分うぬが先へ立つて知合の友逹へ出すやら、又其の女をば途法もねえ活動寫眞の種に使つてお上の目をぬすみ、取つた金は右から左へとみんな博奕に使つてしまふんだと云ふ話さ。 近所ぢや同じ家業の白首までが、瀧の事は糞味噌にわるく云つて、女が可哀かあいさうだと云つて居る始末さ。 人間さうまで腸が腐つちまつちやもう駄目だ。 乃公アその話を聞いてきつぱり見かぎつてしまつたが、行末はお上へ御厄介をかける不屆者だと思ふとどうも氣がゝりでならない。 これも何十年博奕打の話で飯をくつた報かとそんな氣もするのさ。 」

 その時表の硝子戶をあわたゞしく引明けて、駈け込む女中らしい女、息をせい〳〵切らしながら、

「旦那、旦那、尾花家から參りました。 」

「何だ〳〵。 いけ騷々しいな。 」

「姐さんが大變です。 」

「何だ急病か。 よし〳〵身體からだを拭いてくれ。 」